私は裁判に不服ではありませんが、裁判というものが、
私とは無関係のものに思われるんです。

新潮文庫 武田泰淳『ひかりごけ』218ページ

人喰事件を題材にした武田泰淳の代表作である。この作品
はないようも題材もヘビーであるが、終章の法廷の場面は
ある種の滑稽ものになっている。もちろんこれは著者の意
図である。

武田泰淳は1912年東京都生まれ。僧侶の三男に生まれ、左
翼活動を経て中国文学に傾倒する。1976年没。大岡昇平な
どとともに戦後文学の代表的存在である。

太平洋戦争中に厳冬期の知床岬沖で実際に起こった難破事
件と死体損壊事件(人肉食事件)を題材にした小説である。
実際の裁判では、刑法に喰人に対する規定がないために、
死体損壊事件として扱われた。この実際の事件は、その後
に発表されたこの作品により「ひかりごけ事件」と呼ばれ
るようになった。

永い年月、生きのびてきた植物の古強者らしい根強さは全
くなく、どんな生物も棄て去った場所に、誰の邪魔にもな
らず、薄い層として置かれたままになっている。生きんが
ための策略をめぐらす、蘚苔類の奇怪な生き方を、不気味
に押しつけてくる気配もありません。
(172~173ページ)


これがこの作品の冒頭に登場する「ひかりごけ」の描写で
ある。この「押しつけてくる気配もない」不気味さがこの
小説全体のトーンとなっている。ヒカリゴケは現在絶滅危
惧種に指定されている貴重な植物で、僅かな気候や環境の
変化に対応できない。この弱さが武田泰淳の人間像と一致
したのだろう。

殺人は「文明人」も行い得るが、人肉喰いは「文明人」の
体面にかかわる。わが民族、わが人種は殺人こそすれ、人
肉喰いはやらないと主張するだけで、神の恵みを享(う)
けるに足る優秀民族、先進人種と錯覚してはばかりません。
(187ページ)


この作品は罪と罰の壮絶な物語だ。武田泰淳の問題意識と
して多くの作品に共通してみられる「誰が裁けるのか」
「罪に対してただ苦しみに耐えるしかない」「生きるとい
うことは我慢することである」という思想を見ることが出
来る。

同じ罪を犯していながら、罪の意識を背負うものと、他者
の罪をなじるもの。武田は戦後の混乱期に見られたこのよ
うな状況に嫌悪感を持ったに違いない。しかし、自らに裁
きを課した人間は、その罪に意識故に嫌悪の対象に対して
拳を振りかざすことはできず、ただ我慢し沈黙を守るしか
なかった。多くの戦争体験者が自らの戦争体験を黙して語
ろうとしなかったことは、この武田の描いた罪の精神が代
弁しているのである。

船長 不服ではありませんが、我慢しています。

船長 私は裁判に不服ではありませんが、裁判というもの
が、私とは無関係のものに思われるんです。

船長 ・・・・・・ですが、、いや、ですから私には、我慢して
いるというより、申し上げることはないんですが。
(以上218ページ)


この船長の態度にこそ、この裁判そのものの矛盾、すなわ
ち裁く側に裁く資格が備わっているのかという、戦後日本
人に突きつけられた過酷な意識が凝縮されている。

船長 ・・・・・・質問を許していただけますか。
検事 どんな質問だ。言ってみなさい。
船長 検事殿は、昨年十二月から今年の一月まで、どのよ
うな食物を食べていられましたか。
(219~220ページ)


このあとの検事の回答が実にとんちんかんであるのは、武
田泰淳が戦後の転向派インテリに対する厳しい批判のよう
にも見える。この裁判劇の部分のエンディングは、船長の
勝利に終わったことは明白である。それは、罪が許された
のではない。罪を共有化することに成功したことに対する
勝利である。

これは不幸な時代の不幸な小説として読むべきではないだ
ろう。現代に生きる私たちは様々な組織を通じて、罪をば
らまいている存在であると言えないだろうか。そう思うと
き、この作品は今なおヒカリゴケのように、人知れぬ洞窟
の奥でひっそりと光っているのである。そしてその光は絶
滅することはない。

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