『呪術廻戦』批評
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最終30巻に付された作者芥見下々の「あとがき」は、『呪術廻戦』という作品の苦闘をよく示しているように思える。芥見はまず書いている。「6年半、増刊での連載を含めると約7年、「呪術廻戦」という作品を世に垂れ流してみて分かったことは「私ってホントばか……。」でした」。ここで言われる「ばか」とは、「あとがき」全体を通読すると、知性的な頭の良し悪しという意味と、人間としての倫理的な善悪を含むような意味との、両方の意味を併せ持っていると感じられる。
芥見は自らの自家中毒をうねるような言葉で書き止める。「連載当所はメジャー誌での連載ということも考慮して「呪術廻戦」を読んで傷ついてしまう人、「呪術廻戦」を読んだ人に傷つけられてしまう人を極力なくそうという気持ちがあったんですが、その結果「うるせーな!オマエ(芥見)がいい奴に思われてぇのは分かったよ‼」と自分で自分を傷つけたのでやめました。/そもそもの考え方が傲慢で、創作物を世に出す覚悟が足りてなかったのだなと今なら分かります」。
たんに自分に厳しい、というのとも少し違う。「あとがき」には一部の読者に対する「ネットで調べりゃ分かることを指摘されてチョーウンザリ‼」という「愚痴」も同時に記されている。引用中の「うるせーな!オマエがいい奴に思われてぇのは分かったよ‼」というのも、自己規律的な戒めの言葉であると同時に、自らの創作物を取り巻く読者たち、他者たちに(無意識であれそうでなかれ)半ばは差し向けられた言葉である、と言えるだろう。そこにうねりがある。
先の言葉はさらに次のように続く。「お恥ずかしい話、未だにその覚悟が完了することはなく、特に、ない悪意を汲まれた時などは大きな声を出したくはなりますが、根本が自分の漫画家としての未熟さが原因であったりするので、こらえる……というより飲み込む他ないといった状態が続いています」。
この「覚悟」は、道徳や倫理の問題に限らない。おそらく、道徳や倫理の問題と知性や教養の問題が不可分に絡み合っているところ――それらの欠如が芥見に固有の意味で「ばか」と呼ばれる――に、芥見の創作者としての「覚悟」があるのだろう。
さらに引用する。「(略)読者の方が安心して私の漫画を読めるように、ここ7年で痛感した教養のなさは、今後、克服していきたいと思います。連載中、勉強のために買った、読まなくても置いてあるだけで頭が良くなりそうな本が積んであります。現状、読まなくても置いてあるだけで頭が良くなった気がしています。怖いです」。ここでもやはり、自己卑下や韜晦も含め、「教養」や「頭の良さ」に対するどこか強迫的な余裕の無さが感じられる。
芥見のこうしたいわば<倫理的知性>あるいは<道徳的教養>をめぐる「覚悟」は、ネット世代に固有の感覚、SNS的なマウント合戦の荒野から生まれてきたソーシャルネイチャー的な感覚から生まれ育ってきたものなのかもしれない。
たとえば芥見が、コミックスのおまけページで、作中に登場する難解な概念(五条悟の「無下限」について、あるいは「負の自然数」についてのやり取りなど)を可能なかぎり論理的に解説しようとしたり、専門家を呼んで自分の理解の正しさを追求しようとしたりするのも、読者に対するマウントというのではなく(そうした傾向は正直に言えば部分的に感じられるが)、「ばか」であってはいけない、倫理的かつ知性的な意味で他者を上回らねばならない、という芥見的な「戦」(戦い、戦争)の本質を象徴的に示しているように思える(対比的にみれば、『チェンソーマン』の世界では「頭のネジがぶっ飛んでるヤツ」(第16話、第19話)が悪魔に対して「強い」のであり、いわば<ばか>であることの能動的なポテンシャルが積極的かつ肯定的に捉えられる)。
それで言えば、芥(ちり、あくた)を見る、下々(しもじも)、という言葉から構成されるペンネーム自体が、作者の屈折した欲望のあり方を暗に示しているのだろう。
実際に『呪術廻戦』のバトルシーンの特徴は、戦闘能力の高さと知的マウントの両面が不可分なものになっている。しばしば長いナレーションで解説される『呪術廻戦』の戦闘シーンは、読者による能動的な「解読」を必要とする。読者は物語の流れにそって感情的に没入するだけでは、そこで何が起こっているのか、正確には読み解けない。呪術師と呪いの対決というのみならず、それはほとんど、作者と読者の間の知恵比べのような印象すらある。
こうした『呪術廻戦』的なバトルは、たとえば、『鬼滅の刃』のような、人間が鬼たちとの圧倒的な戦闘条件の非対称性を努力と工夫と協力によって補うバトルとも、『チェンソーマン』のような理性を超えた馬鹿げた発想で敵を超越するバトルとも異なるだろう。その点では、その難解さにおいて似ているのはやはり(特に近年の)『HUNTER×HUNTER』である。
キャラクターに感情的に共感するだけでは足りない。物語の構造についてのいわゆる「考察」とも少し違う。その戦闘の場でそもそも何が起こっているのかについて、読者である私たちは、いわば暗号的な「解読」の努力をつねに強いられるのだ(たとえば第225話では、五条悟と両面宿儺【りょうめんすくな】の戦闘の意味を、登場人物たちが延々と解釈する、という破格なコマ割りが用いられている)。
もちろんこれらのことは、『呪術廻戦』の世界観それ自体に深く根差したものだろう。レスバ的なもの、マウント合戦、知恵比べなどは、戦闘の場に限らず、芥見的なコミュニケーションそのものの本質であるかのようだ(それでいえば「領域展開」などは、まさしく、自らの固有の価値観の他者への押し付け合いの象徴と言えるだろう)。それゆえに、人間の必死の努力や切実な感情、なけなしのヒューマニズムなどを高みから嘲弄するような、それらを莫迦にして打ち砕くような、ある種の殺伐としたニヒリズムこそがこの世の「呪い」たちの本質とされるのである。
呪霊がゲラゲラゲラと主人公たちを嘲弄するその顔――そうした眼差しが、特定のシーンに限らず、物語全体をつねにどこかから見つめているかのようだ。私たちはいつでも、何かに嘲笑され、下に見られ、マウントを取られてしまっている。「下々」に立たされてしまっている。そうした事態こそが、呪いが廻り廻っていくこの世界のシステムである。
しかしたとえそうだとしても、この世界の呪い(悪意)の悪循環というシステムを、私たちは、何らかの教養や知性の力によって――正確に言えば、それらが不可分なものとして螺旋状に高まっていく<倫理的知性>の力によって――どうにか食い止められるはずではないのか。だから、「ばか」のままでいてはならない。正確に言えば、自分がどこまでも「ばか」であることを自覚しつつ、「ばか」であることを克服し続けていかねばならない。芥見に固有の、そうした信念のようなものが、『呪術廻戦』という創作物の全体を通して感じられる。少なくとも私はそう感じる。それが「覚悟」と言われた。
連載終了後の「あとがき」を読んで、自らの「ばか」へのうねるような屈折した態度を示す芥見下々の言葉に、率直にいえば、私はある種の陰惨さを感じると同時に、不思議な感銘をも受けた。それは「あとがき」だけの話ではない。作中でキャラクターたちが選び取る言葉の、ほんの少しの違いによって、倫理や知性の意味が危うく揺らいでしまうような緊張感。この人は、こんな残酷で過酷な場所で、ずっと戦い続けてきたのか、と。
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購入者のコメント
1>『呪術廻戦』でのバトルはしばしば、単純な強さを基準にした闘争ではなく、また道徳的な動機の強さや勧善懲悪的なものを込めた正戦でもなく、他者に対するある種の知性的優位を取るためのマウントの取り合いである(ように見える)
だから切実感があってリアルなんだ、と目鱗でした。
ちなみに、「夏油傑はダークサイドに堕ちたのではない」(闇堕ちではない)、生き方を選んだだけだ。芥見先生もファンブックと漫道コバヤシでそのようなことを言っていた」「いやどう見ても闇堕ちだろう」「闇堕ちではないから五条は夏油に置いていかれたと感じ、夏油に追いつかなきゃと言って行動したのだ」とSNSではいまもバトルが続いています。