国宝「七支刀」 “空白の4世紀”の謎に迫る最新の調査とは

国宝「七支刀」 “空白の4世紀”の謎に迫る最新の調査とは
国宝「七支刀」

左右に3本ずつの「枝刃」が突き出した特異な形状。

“刀身”に刻まれたおよそ60の文字。

古墳時代以来、1600年以上の時を超えて現代に伝えられたとされ、「漢委奴国王」の金印と並び、その存在を「古代史上の奇跡」と呼ぶ人もいる。

宝物庫の中で大切に保管され、ふだんは人の目に触れることさえない国宝「七支刀」に、このほど最新の科学調査が実施された。

密着取材を通して浮かび上がってきたのは、古代人がこの“刀”に込めたメッセージ、そして、後世へと引き継ぐことの重要性だ。

(奈良放送局 ディレクター 高橋樹生 / 記者 寺井康矩)

「七支刀」の科学的な調査へ

うっそうとした森林に抱かれるように建つ奈良県天理市の石上神宮。
宮司の道上昌幸さんは悩んでいた。

「神宮の宝物庫に保管された七支刀を今後、どのように扱っていくべきか…」

七支刀は、神宮に伝えられた大切な信仰の対象だ。

しかし、長さ約75センチ、厚みは僅か3ミリほどの鉄製品の“刀”は腐食が進めば、やがては朽ちるおそれさえある。

40年ほど前にレントゲン撮影が行われただけで、その内部の状態がどうなっているのかを示す手がかりはほとんどなかった。

そこに舞い込んできたのが、奈良国立博物館の開館130年を記念して開かれる展覧会の話だった。

この機会に合わせて「七支刀の健康診断」を行ってはどうかという提案があった。

ここで、ふと道上さんは思い当たる。

「七支刀に銘文が確認されてちょうど150年の節目に当たる」ことに。

この機会を逃してはならないと感じた道上さんは、氏子と慎重な話し合いを重ね、七支刀の科学的な調査の実施を決断した。
石上神宮 道上昌幸 宮司
「七支刀は“神聖なもの”というだけではありません。これまでずっと守り伝えてきた方々の思いが込められているものだと思うんです。それは私たちが生きている時間よりも、もっともっと長い時間です。そうしたなかでタイミングが合って、節目に巡り合わせてもらった。七支刀を守ってくれた奈良の地で、現状を確認するための調査を行えるのであれば、お受けしたいと考えました」

国宝「七支刀」とは何か

そもそも七支刀とは何か。

七支刀に銘文があることを確認したのは、明治の初めに石上神宮に赴任してきた菅政友という人物だ。

当時は、「六叉鉾(ろくさのほこ)」という名前で伝わっていたこの“刀”。

金色に見える部分があることに気づいた菅は、表面についたサビを落としてみたという。

非破壊の調査が行われるようになった今の常識では歓迎すべきことではないが、その過程で、溝を彫って金を埋め込む「金象眼」と呼ばれる技法で銘文が刻まれていることが判明した。
さらに、「七支刀は日本書紀に登場する『七枝刀(ななつさやのたち)』に当たる」と指摘する研究者が現れたことで、多くの注目が集まることになる。

「日本書紀」の記述によれば、“刀”は朝鮮半島の百済から当時「倭(わ)」と呼ばれていた日本に贈られたものだというのだ。

銘文に刻まれていることとは?

それ以来、100年以上にわたって多くの研究者が銘文についてのさまざまな解釈を示してきた。

その1例を示してみたい。
(七支刀・表の銘文)
「泰□四年十□月十六日丙午正陽造百練□七支刀□辟百兵※宜供供侯王□□□□□」(※「宜」の上は「ワかんむり」)

(解釈の1例)
「泰□四年の十□月十六日、刀剣を造るのによい日と時刻を選んでよく鍛えた鉄で七支刀を造った。この刀はあらゆる兵器による災害を避けることができ、礼儀正しい侯王が所持するのにふさわしいものである。□□□□□」
(七支刀・裏の銘文)
「先世以来未有此刀百済王世□奇生聖音故為倭王旨造伝示後世」

(解釈の1例)
「先世以来、このような刀はなかった。百済王の世子である私は、神明の加護を受けて現在に至っている。そこで倭王のために(この刀を)精巧に造らせた。末永く後世に伝えられることを期待する」
注目すべきは、銘文と日本書紀の記述の内容に一致する点が多いことだという。

ただ、銘文に埋め込まれた金が剥がれ落ちたり、サビで読み取りにくかったりする部分も多くあり、いまだに七支刀の全容解明には至っていないのが現状だ。

X線CTで調査

石上神宮の了承を得た奈良国立博物館は、4月3日、X線CTによる調査を行うことにした。

病院での診断などの際に用いられるX線CTは、非破壊で物体の内部の様子を調べられるため、文化財の分析にも応用されてきた。
さまざまな角度から何回も撮影を行い、そのデータをコンピューターで処理することで、物体の中の空洞や、材質の違いなどを明らかにすることができる。

撮影の結果を3次元の画像として映し出すことも可能だ。

七支刀の保存状態はどうなのか。

そして、銘文に新たな発見はあるのか。

奇跡的な保存状態

画像を確認した博物館の担当者を驚かせたのは、七支刀の内部が極めて良好な状態に保たれていることだった。

通常、古墳などに埋蔵された鉄製品は、腐食が進んで密度が低くなり、画像としては黒く映し出される。

しかし、七支刀の場合は、白く健全な部分が多く残されていた。

博物館によれば、1600年以上前に朝鮮半島から日本にもたらされて以来、多くの戦乱や盗難の危機をくぐりぬけ、人の手で大切に受け継がれてきたことを示すものだという。
奈良国立博物館 井上洋一 館長
「これほどの長い間にわたって、人から人へと大切に伝えられてきた例は、世界的に見ても珍しく、本当に奇跡的なことではないかと思います。文化財を扱う人間としてはホッとしている、というのが正直な気持ちです」

銘文から製作年代に迫る

私たちは博物館の了承を得て、長く銘文の解読を試みてきた研究者にX線CTの画像分析を依頼した。

NPO法人「工芸文化研究所」の所長で、奈良県立橿原考古学研究所の共同研究員を務める鈴木勉さんだ。

金属などに刻まれた文字から、古代人の技術を明らかにしようと研究を続けてきた鈴木さん。

七支刀の謎の解明は最大の研究課題で、肉眼での観察などを基にその復元に取り組んだ経験もある。

鈴木さんたちが製作した「復元七支刀」は今、石上神宮に保管されている。

まず明らかにしたかったのは、七支刀の製作年代だ。

冒頭に刻まれた「泰□四年」はいつなのかを、はっきりさせたいと考えた。

泰「和」四年説が強まる

X線は「金」を透過しないため、その部分は白く映し出される。

このため金象眼の残る最初の文字は「泰」であることは改めて確認できた。

問題は次の文字だ。

金は、ほとんど剥がれ落ち、肉眼では縦の1本の線が残っているにすぎない。

しかし、今回のX線CT調査では、金が剥がれ落ちたあとの「彫り跡」が、黒く浮かび上がってきた。
これにより2文字目の左側の「偏」は「禾(のぎへん)」だった可能性が高まった。

当時の中国(東晋)の年号と照らし合わせると、2文字目に「禾」を持つのは「和」しかない。

「泰和」は中国の年号の1つ、「太和」を意味しているとみられ、七支刀の冒頭に刻まれた製作年代は、『泰和四年=西暦369年』であることが強まったという。

「百済」の文字も明瞭に

もう1つ、より鮮明になったのが、「百済」の「済」に当たる文字。

肉眼で見ると、文字の下の部分がサビで隠れていたが、今回の調査によって2本の縦線がはっきりと浮かび上がってきた。

鈴木さんによると、これまで2本の縦線が読み取れなかったことを根拠に、「済」ではなく「滋」などと解釈する研究者もいたが、そうではない可能性が高まったという。

「百滋」であれば、百済が自国を美化する意味となり、上の立場から七支刀を日本に下賜したものだという考え方もあった。

しかし、そのまま「百済」の文字が刻まれていたとすれば、その説は成り立たないことになる。

百済が日本と対等の関係を結ぼうとしていた可能性が高いことになるという。
工芸文化研究所 鈴木勉 所長
「今回の調査によってすばらしい史料が得られたと捉えています。さらに精細な画像のデータが明らかにされれば、1つ1つの文字について、『この部分は百済の工人(職人)によって刻まれた彫り跡で、この部分は単なる傷にすぎない』といったことが判明し、飛躍的に解読が進む可能性があります。七支刀に文字を刻んだ際の工人の息遣いのようなものまで伝えてくれるような結果が得られるのではないでしょうか」

“空白の4世紀”とは

では、七支刀が製作されたという西暦369年(4世紀)とは、いったいどんな時代だったのか。

私たちは、さらに取材を重ねることにした。

この時期、日本に残された文字資料はなく、中国の歴史書からも日本に関する記述が姿を消してしまう。

日本にとって、「空白の4世紀」とも呼ばれる謎の多い時代なのだ。

関東学院大学の河内春人教授に話を聞くと、当時の東アジアの状況について次のように解説してくれた。
関東学院大学 河内春人 教授
「当時の朝鮮半島では、北に位置する高句麗が南へと勢力を伸ばし、百済はそれに対抗しようとしていました。中国の歴史書には、西暦372年、百済が中国の東晋との外交関係を結んだことが記録されています。ほぼ同じような時期の西暦369年に百済が七支刀を製作し、当時の日本=倭に贈ったとすれば、倭と軍事同盟を結び、高句麗と対抗しようとしていたと考えてよいと思います」
つまり、河内教授は、七支刀には百済と日本の軍事同盟の締結を記念するメッセージが込められていたのではないかというのだ。
実は「空白の4世紀」の間、日本には次々と巨大な古墳が築かれていた。

そうしたなか、倭=大和政権が必要としていたのが、当時、国内では生産できなかった「鉄」だったという。

鉄製の武器を使えば戦闘力は大きく向上し、さらに国力を高めることにつながる。

だから、当時の日本の側にも、鉄を生産できる百済との関係を深めることにはメリットがあったと、河内教授は話す。

実際、そうしたメッセージを受け取ったかのように、5世紀から7世紀にかけて日本は百済と友好関係を維持していく。

その始まりを示すものが七支刀だという見方が、強まっているという。
関東学院大学 河内春人 教授
「豪族が持っている個人的なものは、副葬品として古墳の中に埋められるわけです。私は、七支刀は国家どうしの軍事同盟の証であって、大和政権のオフィシャルな宝物になったと考えています。だからこそ古墳に埋められることなく、人から人へと大切に伝えられたのではないでしょうか。空白の4世紀にも、倭国は朝鮮半島と活発に交流していました。当時のダイナミックな東アジアの国際関係の歴史を象徴するものとして、七支刀を位置づけられるのではないかと、私は考えています」

これからの調査は

今回の調査を受けて、奈良国立博物館は七支刀の研究をさらに進めていく必要性を強調し、専門家に協力を呼びかけたいとしている。

まだ明らかになっていない銘文の文字1つ1つを解読し、七支刀の全容を明らかにすることが、日本を含む東アジアの歴史研究には欠かせないと考えているからだ。

考えてみれば、仏教なども百済から日本に伝えられたとされ、いずれも今の日本の文化に根づいたものとなっている。

日本がどのような国際関係の中で独自の文化を形成してきたのか。

「七支刀」の研究が進むことで、日本の成り立ちがさらに明らかになっていくことを期待したい。
(5月28日「ならナビ」6月5日「列島ニュース」などで放送)
奈良放送局 ディレクター
高橋樹生
2021年入局
奈良県内の神社仏閣や古墳、遺跡などをに日常的に取材し、歴史をテーマにした番組を制作
奈良放送局 記者
寺井康矩
徳島局を経て2022年から奈良局で文化財や県政を担当
奈良県出身で幼い頃から神社仏閣や遺跡に親しむ
大学では日本古代史を専攻
国宝「七支刀」 “空白の4世紀”の謎に迫る最新の調査とは

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国宝「七支刀」 “空白の4世紀”の謎に迫る最新の調査とは

国宝「七支刀」

左右に3本ずつの「枝刃」が突き出した特異な形状。

“刀身”に刻まれたおよそ60の文字。

古墳時代以来、1600年以上の時を超えて現代に伝えられたとされ、「漢委奴国王」の金印と並び、その存在を「古代史上の奇跡」と呼ぶ人もいる。

宝物庫の中で大切に保管され、ふだんは人の目に触れることさえない国宝「七支刀」に、このほど最新の科学調査が実施された。

密着取材を通して浮かび上がってきたのは、古代人がこの“刀”に込めたメッセージ、そして、後世へと引き継ぐことの重要性だ。

(奈良放送局 ディレクター 高橋樹生 / 記者 寺井康矩)

「七支刀」の科学的な調査へ

「七支刀」の科学的な調査へ
うっそうとした森林に抱かれるように建つ奈良県天理市の石上神宮。
宮司の道上昌幸さんは悩んでいた。

「神宮の宝物庫に保管された七支刀を今後、どのように扱っていくべきか…」

七支刀は、神宮に伝えられた大切な信仰の対象だ。

しかし、長さ約75センチ、厚みは僅か3ミリほどの鉄製品の“刀”は腐食が進めば、やがては朽ちるおそれさえある。

40年ほど前にレントゲン撮影が行われただけで、その内部の状態がどうなっているのかを示す手がかりはほとんどなかった。

そこに舞い込んできたのが、奈良国立博物館の開館130年を記念して開かれる展覧会の話だった。

この機会に合わせて「七支刀の健康診断」を行ってはどうかという提案があった。

ここで、ふと道上さんは思い当たる。

「七支刀に銘文が確認されてちょうど150年の節目に当たる」ことに。

この機会を逃してはならないと感じた道上さんは、氏子と慎重な話し合いを重ね、七支刀の科学的な調査の実施を決断した。
石上神宮 道上昌幸 宮司
「七支刀は“神聖なもの”というだけではありません。これまでずっと守り伝えてきた方々の思いが込められているものだと思うんです。それは私たちが生きている時間よりも、もっともっと長い時間です。そうしたなかでタイミングが合って、節目に巡り合わせてもらった。七支刀を守ってくれた奈良の地で、現状を確認するための調査を行えるのであれば、お受けしたいと考えました」

国宝「七支刀」とは何か

国宝「七支刀」とは何か
そもそも七支刀とは何か。

七支刀に銘文があることを確認したのは、明治の初めに石上神宮に赴任してきた菅政友という人物だ。

当時は、「六叉鉾(ろくさのほこ)」という名前で伝わっていたこの“刀”。

金色に見える部分があることに気づいた菅は、表面についたサビを落としてみたという。

非破壊の調査が行われるようになった今の常識では歓迎すべきことではないが、その過程で、溝を彫って金を埋め込む「金象眼」と呼ばれる技法で銘文が刻まれていることが判明した。
さらに、「七支刀は日本書紀に登場する『七枝刀(ななつさやのたち)』に当たる」と指摘する研究者が現れたことで、多くの注目が集まることになる。

「日本書紀」の記述によれば、“刀”は朝鮮半島の百済から当時「倭(わ)」と呼ばれていた日本に贈られたものだというのだ。

銘文に刻まれていることとは?

それ以来、100年以上にわたって多くの研究者が銘文についてのさまざまな解釈を示してきた。

その1例を示してみたい。
(七支刀・表の銘文)
「泰□四年十□月十六日丙午正陽造百練□七支刀□辟百兵※宜供供侯王□□□□□」(※「宜」の上は「ワかんむり」)

(解釈の1例)
「泰□四年の十□月十六日、刀剣を造るのによい日と時刻を選んでよく鍛えた鉄で七支刀を造った。この刀はあらゆる兵器による災害を避けることができ、礼儀正しい侯王が所持するのにふさわしいものである。□□□□□」
(七支刀・裏の銘文)
「先世以来未有此刀百済王世□奇生聖音故為倭王旨造伝示後世」

(解釈の1例)
「先世以来、このような刀はなかった。百済王の世子である私は、神明の加護を受けて現在に至っている。そこで倭王のために(この刀を)精巧に造らせた。末永く後世に伝えられることを期待する」
注目すべきは、銘文と日本書紀の記述の内容に一致する点が多いことだという。

ただ、銘文に埋め込まれた金が剥がれ落ちたり、サビで読み取りにくかったりする部分も多くあり、いまだに七支刀の全容解明には至っていないのが現状だ。

X線CTで調査

X線CTで調査
石上神宮の了承を得た奈良国立博物館は、4月3日、X線CTによる調査を行うことにした。

病院での診断などの際に用いられるX線CTは、非破壊で物体の内部の様子を調べられるため、文化財の分析にも応用されてきた。
さまざまな角度から何回も撮影を行い、そのデータをコンピューターで処理することで、物体の中の空洞や、材質の違いなどを明らかにすることができる。

撮影の結果を3次元の画像として映し出すことも可能だ。

七支刀の保存状態はどうなのか。

そして、銘文に新たな発見はあるのか。

奇跡的な保存状態

奇跡的な保存状態
画像を確認した博物館の担当者を驚かせたのは、七支刀の内部が極めて良好な状態に保たれていることだった。

通常、古墳などに埋蔵された鉄製品は、腐食が進んで密度が低くなり、画像としては黒く映し出される。

しかし、七支刀の場合は、白く健全な部分が多く残されていた。

博物館によれば、1600年以上前に朝鮮半島から日本にもたらされて以来、多くの戦乱や盗難の危機をくぐりぬけ、人の手で大切に受け継がれてきたことを示すものだという。
奈良国立博物館 井上洋一 館長
「これほどの長い間にわたって、人から人へと大切に伝えられてきた例は、世界的に見ても珍しく、本当に奇跡的なことではないかと思います。文化財を扱う人間としてはホッとしている、というのが正直な気持ちです」

銘文から製作年代に迫る

銘文から製作年代に迫る
私たちは博物館の了承を得て、長く銘文の解読を試みてきた研究者にX線CTの画像分析を依頼した。

NPO法人「工芸文化研究所」の所長で、奈良県立橿原考古学研究所の共同研究員を務める鈴木勉さんだ。

金属などに刻まれた文字から、古代人の技術を明らかにしようと研究を続けてきた鈴木さん。

七支刀の謎の解明は最大の研究課題で、肉眼での観察などを基にその復元に取り組んだ経験もある。

鈴木さんたちが製作した「復元七支刀」は今、石上神宮に保管されている。

まず明らかにしたかったのは、七支刀の製作年代だ。

冒頭に刻まれた「泰□四年」はいつなのかを、はっきりさせたいと考えた。

泰「和」四年説が強まる

泰「和」四年説が強まる
X線は「金」を透過しないため、その部分は白く映し出される。

このため金象眼の残る最初の文字は「泰」であることは改めて確認できた。

問題は次の文字だ。

金は、ほとんど剥がれ落ち、肉眼では縦の1本の線が残っているにすぎない。

しかし、今回のX線CT調査では、金が剥がれ落ちたあとの「彫り跡」が、黒く浮かび上がってきた。
これにより2文字目の左側の「偏」は「禾(のぎへん)」だった可能性が高まった。

当時の中国(東晋)の年号と照らし合わせると、2文字目に「禾」を持つのは「和」しかない。

「泰和」は中国の年号の1つ、「太和」を意味しているとみられ、七支刀の冒頭に刻まれた製作年代は、『泰和四年=西暦369年』であることが強まったという。

「百済」の文字も明瞭に

「百済」の文字も明瞭に
もう1つ、より鮮明になったのが、「百済」の「済」に当たる文字。

肉眼で見ると、文字の下の部分がサビで隠れていたが、今回の調査によって2本の縦線がはっきりと浮かび上がってきた。

鈴木さんによると、これまで2本の縦線が読み取れなかったことを根拠に、「済」ではなく「滋」などと解釈する研究者もいたが、そうではない可能性が高まったという。

「百滋」であれば、百済が自国を美化する意味となり、上の立場から七支刀を日本に下賜したものだという考え方もあった。

しかし、そのまま「百済」の文字が刻まれていたとすれば、その説は成り立たないことになる。

百済が日本と対等の関係を結ぼうとしていた可能性が高いことになるという。
工芸文化研究所 鈴木勉 所長
「今回の調査によってすばらしい史料が得られたと捉えています。さらに精細な画像のデータが明らかにされれば、1つ1つの文字について、『この部分は百済の工人(職人)によって刻まれた彫り跡で、この部分は単なる傷にすぎない』といったことが判明し、飛躍的に解読が進む可能性があります。七支刀に文字を刻んだ際の工人の息遣いのようなものまで伝えてくれるような結果が得られるのではないでしょうか」

“空白の4世紀”とは

では、七支刀が製作されたという西暦369年(4世紀)とは、いったいどんな時代だったのか。

私たちは、さらに取材を重ねることにした。

この時期、日本に残された文字資料はなく、中国の歴史書からも日本に関する記述が姿を消してしまう。

日本にとって、「空白の4世紀」とも呼ばれる謎の多い時代なのだ。

関東学院大学の河内春人教授に話を聞くと、当時の東アジアの状況について次のように解説してくれた。
関東学院大学 河内春人 教授
「当時の朝鮮半島では、北に位置する高句麗が南へと勢力を伸ばし、百済はそれに対抗しようとしていました。中国の歴史書には、西暦372年、百済が中国の東晋との外交関係を結んだことが記録されています。ほぼ同じような時期の西暦369年に百済が七支刀を製作し、当時の日本=倭に贈ったとすれば、倭と軍事同盟を結び、高句麗と対抗しようとしていたと考えてよいと思います」
つまり、河内教授は、七支刀には百済と日本の軍事同盟の締結を記念するメッセージが込められていたのではないかというのだ。
佐紀古墳群(奈良市)
実は「空白の4世紀」の間、日本には次々と巨大な古墳が築かれていた。

そうしたなか、倭=大和政権が必要としていたのが、当時、国内では生産できなかった「鉄」だったという。

鉄製の武器を使えば戦闘力は大きく向上し、さらに国力を高めることにつながる。

だから、当時の日本の側にも、鉄を生産できる百済との関係を深めることにはメリットがあったと、河内教授は話す。

実際、そうしたメッセージを受け取ったかのように、5世紀から7世紀にかけて日本は百済と友好関係を維持していく。

その始まりを示すものが七支刀だという見方が、強まっているという。
関東学院大学 河内春人 教授
「豪族が持っている個人的なものは、副葬品として古墳の中に埋められるわけです。私は、七支刀は国家どうしの軍事同盟の証であって、大和政権のオフィシャルな宝物になったと考えています。だからこそ古墳に埋められることなく、人から人へと大切に伝えられたのではないでしょうか。空白の4世紀にも、倭国は朝鮮半島と活発に交流していました。当時のダイナミックな東アジアの国際関係の歴史を象徴するものとして、七支刀を位置づけられるのではないかと、私は考えています」

これからの調査は

これからの調査は
今回の調査を受けて、奈良国立博物館は七支刀の研究をさらに進めていく必要性を強調し、専門家に協力を呼びかけたいとしている。

まだ明らかになっていない銘文の文字1つ1つを解読し、七支刀の全容を明らかにすることが、日本を含む東アジアの歴史研究には欠かせないと考えているからだ。

考えてみれば、仏教なども百済から日本に伝えられたとされ、いずれも今の日本の文化に根づいたものとなっている。

日本がどのような国際関係の中で独自の文化を形成してきたのか。

「七支刀」の研究が進むことで、日本の成り立ちがさらに明らかになっていくことを期待したい。
(5月28日「ならナビ」6月5日「列島ニュース」などで放送)
奈良放送局 ディレクター
高橋樹生
2021年入局
奈良県内の神社仏閣や古墳、遺跡などをに日常的に取材し、歴史をテーマにした番組を制作
奈良放送局 記者
寺井康矩
徳島局を経て2022年から奈良局で文化財や県政を担当
奈良県出身で幼い頃から神社仏閣や遺跡に親しむ
大学では日本古代史を専攻

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