エモ=冷笑=恋愛ポエム=ネタツイ Twitterのエコーチェンバー的既視感といいね
Twitter上のエモと冷笑、ネタツイ、恋愛ポエム、全ては同じことだ。
では、そもそもエモとは何か。その類義語としてノスタルジーが挙げられる。郷愁を感じさせるもの、過去への憧憬。
似た言葉として海外には“Aesthetic”がある。この言葉は直訳すると“美学”だが、実際には“雰囲気”や“趣”に近い意味で用いられる。例えばPinterestで“Iwai Shunji Aesthetic”と検索すれば、いかにも岩井俊二らしいフィルムや画像が数多くヒットする。Twitterでエモと形容されるもの—ミニシアター、Y2K的なデザイン、オールドコンデジ—は、海外ではAestheticとして受容されている。
エモとAesthetic
Aestheticとは何か。それは“何かについての美学”であり、特定のコンテンツやスタイルの模倣を基本とする。Y2K文化もその象徴的な例である。かつての時代の再解釈や模倣、これがAestheticの根幹であり、日本ではそれが“エモ”として受容されている。
エモやAestheticは、その基盤に再生産の構造を持つ。Y2K文化は、単なる当時の復元ではなく、その時代の要素を抽出し、それを現代の技術や感性で再提示する行為である。再生産は既視感と結びつき、それが感情を呼び起こし、エモとなる。
エモとはなにか
では、エモの本質とは何だろうか。それは“いつかどこかで見たものの再生産”であり、その再生産を通じて感情や記憶を呼び起こすものだ。この“再生産”の構造は、SNS上のあらゆるコンテンツにも共通している。
例えば、ネタツイートにはフォーマットがあり、利用される画像やフレーズがある。それが流行としてミーム化し、多くの人が模倣して消費する。恋愛ポエムも同様で、一つの表現が多くの“いいね”を獲得すると、似たような言説が大量に出現し、伸びていく。このような模倣と拡散の連鎖は、既視感が人々に安心感を与えるからこそ成り立つ。
この既視感とは、単に見覚えがあるという感覚を超えて、社会的な承認と結びついている。人は既視感を通じて、自らの感覚や判断が他者と共有可能であることを確信し、それが安心感につながる。この安心感こそが、エモやネタツイート、恋愛ポエムといったコンテンツが多くの人々に受容される理由である。
(!)いいね=既視感=安心感
心理学の“単純接触効果”は、この既視感と安心感の関係を説明する一助となる。同じものに何度も触れることで、それを心地よく感じるようになる現象だ。例えば、同じ音楽アルバムを繰り返し聴いているうちに好きになる経験をしたことはないだろうか。これは、既視感が親しみを生み、それが好意へと変換されるためである。誤解を恐れずに言えば、いいね自体が既視感なのである。人は既視感を感じるものに愛着を覚え、好感を持つのだ。
人間は既視感の奴隷なのだ。
さらに、既視感は“既に承認されているもの”への信頼感とも結びついている。SNSで“いいね”を多く獲得した投稿は、他者からの評価を既に受けているため、私たちはそれを安心して肯定できる。これは、映画を見る前にネタバレを確認したり、自分の感想が本当に“正しい”のかを他人の考察で照らし合わせたりする行動にも表れている。これらは、私たちが自分の判断を他者に依存し、既視感を追体験することで安心を得ようとしていることの証左である。
エモは再生産である
再生産とは模倣であると同時に、創造を排除する行為でもある。この点において、エモやAestheticは単なる過去の焼き直しとして機能する。過去の美学や感情を再提示することで、人々はかつての記憶や安心感を消費する。たとえば、Y2K文化が現代の技術や価値観と融合しているように見えるが、そこには独自の創造性ではなく、既存の価値観の再確認が見られる。
こうした再生産の構造は、SNS時代の文化において特に顕著である。SNSでは情報が高速で拡散し、多くの人々がそれを手軽に模倣できる。この模倣と拡散の連鎖が、エモやAesthetic、Twitterのあらゆるバズの根本的な性質を形作っている。
他者に依存された自我
最後に、エモやネタツイートが示唆するものは、我々が自我を他者に依存しているという事実だ。SNSは他者の承認を求める場であり、“いいね”を通じて自己の存在を確認しようとする。これは自己肯定を他者の評価に依存することにほかならない。
このような構造は、エモやネタツイートが単なる流行以上のものとして機能する理由を説明している。それらは、既視感とそこから得られる安心感を通じて、私たちの内面に直接働きかける力を持つ。人々は既視感の中に自分を見出し、安心と共感を得る。この現象を理解することで、SNS時代における文化や人間心理をより深く洞察できるのではないだろうか。
まとめ
エモやAesthetic、ネタツイート、恋愛ポエム—これらは単なる個別の現象ではなく、根底で共通する心理的・文化的な基盤を持っている。それは、既視感とそこから得られる安心感、そして再生産の構造である。我々は再生産を通じて過去を再構築し、そこに新しい価値を見出そうと試みるが、その行為が創造性を伴うことは稀である。むしろ、再生産の連鎖は、既存の枠組みを強化し続ける結果となりかねない。
エモとは何か。その問いに答えるためには、単なる感覚的な表現を超えて、その背後にある心理や文化の構造を捉える必要がある。それは、再生産としての美学、他者依存を通じた自我の構築、そして模倣を基盤とする消費行動、これらの要素が複雑に絡み合う現象なのである。このように捉えることで、エモという概念が、単なる一時的な流行ではなく、我々の生きる時代を象徴する重要なキーワードなのだ。
エモ、冷笑、ネタツイ、Twitterの全ては根底に流れた共通事項を共有しており、それぞれの争いは結局の所、自己言及的にならざるをえない。私がSNSの論争をくだらないと思うのはその為だ。
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