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■馬加城
1455年、千葉氏の家老原氏とむすんで、千葉氏の嫡流家を滅ぼし東国を「動乱の時代」へ大きく転回させた馬加康胤の居館。武石台地西側、幕張町3丁目字道城台・椎崎・天王免付近。伝承・地名からヤカタ付近(現幕張ハウス付近)がその中心部とされている。幕張の子守神社の社伝では同一台地上の外郭部(三代王神社の北西の範囲)には、同社の前身である素加天王社、海隣寺のほか、家臣の屋敷もあったとされる。康胤が武石城を拡張したものともいわれるが、不詳。1980年、馬加城跡とされる範囲の一部(幕張ハウス建設地)で発掘調査が行われたが、中世の城館跡と確定できる遺構がみつからず、馬加城は所在もふくめ謎の城館とされている。
■三代王神社
武石台地の南縁に位置。1202年、武石胤盛が郷内安全の守護神として創建した明神神社に始まる。伝説によれば、1445年、馬加康胤の奥方がお産をする際、この神社の神様が康胤の夢枕に立ち、「我は安産の神なり。我を守護すべし等々」と告げた。そのとおり幕張海岸で祈念すると、たちまち奥方は安産した。この答礼としておこなわれた祭りが七年祭の起源である。三代王神社は、七年祭において産婆役を果たす。康胤は翌1446年、社殿を造営し、家臣の小川釆女を社人として祭司にあてた。1456年、小川釆女は康胤とともに戦死した。社号は1501年、「三代王神社」と改められ、1732年拝殿の再建を機に、それまで素加天王社(子守神社)の神主が兼務していた社務を村内の小川釆女の子孫にあたらせることとして現代にいたっている。(和田茂右衛門)。塚のほか、はっきりと城郭遺構とみられるようなものは地表面には見えないが、立地から見て何らかの城郭施設があったのではないかと、三代王神社付近に注目する者はすくなくない。真偽は不明だが、三代王神社はもとは別の場所にあったという伝承があり、何らかの城郭施設の跡地である現在地に三代王神社が移されたのでは、と想像する者もいる。 ■武石貝塚群
園生貝塚研究会1999(園生貝塚研究会
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)に依拠して記述する。武石台地および台地直下には65箇所の貝層・貝殻散布地を有する14遺跡が存在する。このなかには三代王貝塚のような斜面貝塚も存在するが、多くは台地上に存在し、しかもそれらは線状に分布する傾向があり、溝もしくは堀、道路などの遺構の存在が推測される。これらの貝層の多くは、地表面から深いところにある埋没貝層であり、規模は小さいが、貝層は厚く、貝の密度は緻密であるという特徴をもつ。武石遺跡で検出された貝層をもつ土坑はこれらの貝層と類似の遺構であると推測される。形成時期については、シオフキを主体とした貝種組成からみて中世の貝塚(居住区域内で出した残飯を埋めた跡)である可能性があり、馬加城と武石城の存在が注目される。なお台地中央で線状をなす貝塚については、江戸ゴミの存在、破砕された貝殻が多いなどの諸点から、近世の貝塚の可能性が大きい。(以上、園生貝塚研究会1999。正確には同書を参照されたい。) 今回発見の(1)V字の落ち込み・貝塚は、上記の台地上の貝塚と同類の貝塚である可能性がある。もちろん近現代のゴミ穴などの可能性も否定できないが。机上での推論を重ねると、三代王神社社殿付近でも線状に分布する貝層・貝殻散布が認められており(→園生貝塚研究会
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「貝塚を訪ねて」の「三代王貝塚」)、今回の落ち込み・貝塚もまたその直線の延長上に位置する可能性がある。土坑でなく、城館の堀などのかなりの長い溝状の遺構の存在を示唆するものかもしれない。調査が期待される。
■三代王貝塚
三代王神社付近の貝塚。社殿付近に小規模な貝層があるが、南の急斜面に大規模な貝層が存在する。武石貝塚群のなかでも、規模・形態において特異な存在であり、園生貝塚研究会は、この斜面貝塚を主要部とする三代王神社付近の貝塚を「三代王貝塚」と呼称している。同会によれば、斜面貝塚を構成する貝はシオフキが主体だが、貝種をとわずすべての貝殻が焼けてもろくなっている特徴があるという。この点に関して、同会は馬加康胤が東常縁に攻撃されたとき、武石氏の氏社が焼き討ちにあったという伝承に注目している。しかし近世以降の貝塚ではないか、と見る見方もある。貝塚の形成時期を裏付ける遺物がみつかっておらず、正体不明の貝塚である。→園生貝塚研究会
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「貝塚を訪ねて」の「三代王貝塚」
今回の工事現場では、(2)三代王貝塚の斜面貝塚断面が見事に露出している。調査が行われれば、三代王貝塚形成の謎を解く糸口を得られるものと期待される。 |