「ミスター」の愛称で国民的人気を誇った元巨人監督の長嶋茂雄さんが3日に89歳で死去した。サンケイスポーツで1978~86年に巨人担当を務めた産経新聞の清水満客員特別記者(72)が、40年以上取材してきた長嶋さんの人間味のある素顔を5回連載でつづる。(第2回)
「男として潔く責任を…」
〝あの日〟のことは鮮明に覚えている。輝く太陽だった長嶋茂雄がどん底に落とされた。1980年10月21日、日本列島を震撼させた〝長嶋解任〟劇である。
「成績が不本意に終わり、ファンに対して申し訳ない気持ちです。男として潔く責任を取り、ケジメをつけたい」
巨人史上初の3年連続優勝から遠ざかった責任を取り、監督の座を辞したが、目には涙があふれていた。どこか無念さが見えた。その裏側とは?
「野沢にやられたなぁ」
翌22日、長嶋は講演で青森・三沢にいた。当時サンケイスポーツ巨人担当、東京から同行した長嶋番記者は拙稿だけ。講演翌日の23日朝、宿泊ホテルの喫茶室で単独インタビューした。無念の思いを吐露してくれた。
「う~ん、まだ気が鎮まらないよ。わかるだろっ。〝やられたんだ〟、組織にな。オレは何も知らない、ただの野球人だった。恨み言は言いたくないけど、世の中はね、いろいろあるからねぇ」
驚いた。日頃、人の悪口は決して言わない。愚痴など聞いたことはなかった。後にも先にも初めてだった。時折、深く息をしながら言葉は続いた。
「(ある一派が監督の座を奪おうという)気配は感じていたよ。成績だって5割(61勝60敗9分け)を超えた。オーナー(当時、正力亨)だって5割以上なら続投と言っていたし…」。サンケイスポーツは長嶋辞任騒動を、「読売トップと財界重鎮、ドン的存在の巨人OBたちが、正力オーナーを棚上げしての『長嶋解任』」と報道。ミスターが続けた。
「清水さんとこ、それ正解ですよ。最後はオーナーも(自分か、長嶋かの)選択を迫られたらしい。私のために気の毒をされた」。間を置き、小さな声でポツリと。
「う~ん、野沢にやられたなぁ…」
折れない心
野沢とは東京都世田谷区にある地名。当時、そこにはV9監督でOB界の〝ドン〟川上哲治が住んでいた。その年の夏頃から巨人OBを含めた球団関係者の間で長嶋采配への批判が高まっていた。ある週刊誌のOB対談では〝ドン〟が「長嶋の次は藤田(元司、その通り81年から監督に就任)、お前がやれよ」という話も載っていた。最後は球団オーナーが決断したが…。
いま思えば、シーズン直後の長嶋解任という流れは決まっていたのだろう。その時、ふと口にした「オレが甘かったのかなぁ」は、まさに長嶋の不覚だった。とはいえ、それで心が折れない。
「でも、もうしかたがない。オレを見てくれる人、信じてくれる人はいっぱいいる。長い人生、こういうこともある。これからどう生きるかの方が大事なんだ。そうだろっ?」。本来のポジティブさ、ちょっと笑顔も浮かべて締めた。
それから12年間の充電期間を経て93年、13年ぶりに巨人監督に返り咲いた。拙稿が残した〝三沢メモ〟通りに復活したのだった。=敬称略