「ミスター」の愛称で国民的人気を誇った元巨人監督の長嶋茂雄さんが3日に89歳で死去した。サンケイスポーツで1978~86年に巨人担当を務めた産経新聞の清水満客員特別記者(72)が、40年以上取材してきた長嶋さんの人間味のある素顔を5回連載でつづる。(第1回)
篠塚、江川、西本も参加
1979年10月29日、静岡・伊東市にある伊東スタジアムでの早朝、長嶋茂雄監督は、球場右中間芝生席にある地蔵に手を合わせ、日本酒を添えた。
「このままではジャイアンツはダメになる。ここから新しいジャイアンツが生まれる。絶対に歴史を作るからなっ」
地獄の伊東キャンプ、初日の決意。参加メンバーは中畑清、篠塚利夫(和典)、松本匡史、江川卓、西本聖、角三男(盈男)ら若手ばかりの18選手をそろえた。
その年、チームは5位に沈んだ。V9戦士の柴田勲、高田繁、吉田孝司らレギュラー陣の衰えがあった。かつて巨人は36年、群馬・館林の茂林寺にある分福球場で血ヘドを吐くほど猛練習し、初期隆盛の礎を作った。次代に向け、選手育成の再現である。
涙を流しながら
地獄の日々。野手は午前中、バットを振り続ける。左肩に脱臼癖があった松本はスイッチ打者に転向し、初めての左打ちに最初は小学生並みのスイング。「人間、死ぬ気になれば何でもできる」というミスターの檄に涙を流しながら1日1000球も打った。中畑、篠塚らもユニホームを泥だらけにして守備特訓。マメで血まみれになった手でバットを振った。
投手の角は上手投げから横手投げにし、制球力を付けようと必死になれば、江川、西本はライバル心むき出し。どちらかがやめるまで投げ込む。球数は300を超えた。午後は全員で走り込み。休み前は球場近くにあるアップダウンの激しい丘陵・馬場の平でクロスカントリー…。誰もが悲鳴を上げていた。
長嶋流アプローチ
唯一の楽しみが風呂。汚れた体、湯舟の底には泥と砂がたまっているが、癒される。そこに長嶋流のアプローチがあった。ある日、選手がつかっていると突然、素っ裸で現れたというのだ。
「どうも~、いやぁ、みんな頑張ってるねぇ」
中畑が述懐する。「俺らにとっては子供の頃からの憧れのスター、神様よ。巨人に入っても近寄りがたかったのに、いきなりスッポンポンだからね」。驚いたが、裸の付き合いで一気に距離が縮まったのである。
食事の席も一緒、会話が弾んだ。グラウンドでは鬼のミスターも「俺たちのためにやってくれている」と真の師と仰ぐ。約3週間のキャンプが終わった。選手は真っ黒に日焼けし、たくましくなった。「こいつら来年は化けるぞ」とミスター。2年後の81年、中畑、篠塚、江川、西本らは日本一の主役になった。
伊東スタジアムは長嶋にとっても思い出深い。千葉・佐倉一(現佐倉)高3年のとき、立大の野球部セレクションのため、鈍行列車で伊東に着いた。「当時は3等でね、床に新聞紙を敷いて。長嶋? 誰も知りませんよ」。
甲子園出場組には後に南海のエースとなる杉浦忠、阪急の名二塁手となる本屋敷錦吾らエリートがいた。無名の長嶋は「その他大勢でした」が、その杉浦から右中間席、地蔵近くに本塁打を放ち、当時の立大・砂押邦信の目に留まった。その瞬間、長嶋のヒーロー伝説が始まったのであった。
「伊東はね、僕にとって原点…」。裸で降臨した長嶋にとって自身2度目の伊東組はその後、仲間同士で〝戦友〟と呼び合った。(敬称略)
涙の監督解任「わかるだろ。やられたんだ、組織にな…」(第2回)