この呪術界において、空閑家に産まれた神童の名を知らない者はいない。いたとしても東北あたりでチマチマやっている呪詛師か、よほど歴が浅い新人だけだろう。
11歳にして特級呪霊を討伐。史上最年少で特別一級術師に認定。特級術師・九十九由基に(模擬戦とは言え)勝利。その後も破竹の勢いで功績を積み上げ、今や「対人戦では五条悟に次ぐ」との評判を欲しいがままにしている。
それに伴い、武闘派の地方術師として知る人ぞ知る存在だった空閑家の勢力は日増しに伸長。今や呪術界御三家を相手に一定の影響力を持つまでに至っている。
同格クラスの強者である九十九由基と夏油傑がどちらも日本呪術界の支配の及ぶところにいないため、「東の五条悟」「西の空閑徹」という東西横綱状態と見る向きすらあるほどにその名声は高い。
というのも、徹は基本的に上層部の指示に従順で家同士の政治的やりとりも文句一つ言わずにこなすため、我儘放題の誰かさんと比べて圧倒的に周辺からの評価が高いのだ。
五条悟は名実共に現代最強の術師であり呪術界最高戦力ではあるが、単純に強すぎて上が持て余しがちなのはもちろん、人格的な部分で敵を作りがちなところがある。
比べて空閑徹は「特級に勝利し得るが国家転覆までは出来ない理想的な強さ」「従順かつ業務に積極的な精神性」何より「方法次第では女で懐柔できる」という弱点の存在により、上層部から見てこれ以上なく使いやすい条件が揃っている。
政治家などがよく用いるテクニックの一つに、敢えて好物や趣味趣向をあからさまにして付け届けをスムーズにするというものがあるが、徹はこれに近いことを素でやってしまった格好になる。結果としてそれはいい方向に作用し、上層部に「御し切れる」と思わせることで排除に論が傾くことがなくなった。
今は年齢や適性などを理由に汚れ仕事は任されていないものの、異邦の呪詛師やそれに協力する者達を闇に葬ることは空閑家の役目のひとつだ。遠からず……大方の予想では高専入学ごろを機に、彼は本格的に上層部の懐刀への道を歩むだろう。
それほどまでに都合のいい駒に徹している徹に対し、上層部はあくまで優遇の姿勢を徹底している。信賞必罰と言うは易しだが、これほど分かりやすい「優等生」もそうはいない。
徹を厚遇することは、そのまま上層部に取り入ることのメリットとして機能する。分かりやすい勲功最上位が生まれたことで、フリーの呪術師たちの動向も多少ではあるが上層部側へ動いているという。
御三家を含む上層部としては、むざむざ排除にかかって貴重な特級クラス戦力を敵に回すより、めいっぱい厚遇して取り込んでしまった方がいいと考えるのは自然であった。禪院家にハニートラップを利用した首輪付けに成功した前例がある以上、それに倣うのは当然であった。
公的には散々に持ち上げられ、空閑家の家中でも親戚から有名な野球選手が出たような人気の出方をしている徹だが、それらと関係のない一般の呪術師たちからすると、尊敬より畏れの対象であることの方が多かった。
徹を知らない術師にとって、彼は「天賦の才を持って生まれ、今なお驚異的なスピードで成長を続ける現代呪術界が生んだ怪物」である。
私生活の情報が(文字通りの鍛錬漬けであるため)ほとんど流れて来ず、また所在が九州なのもあって京都~関東の術師たちの中では顔も知らないものが殆どであり、「五条悟のクローン説」「上層部の作った人造人間説」「感情を持たない殺戮マシーン説」「プロパガンダのために作られた虚像で、本当は存在しない説」などの憶測が飛び交っているのが現状だ。
それは禪院からのまた聞きしか情報のない加茂家でも同様であり、空閑家側から縁談の申し出があってなお、彼らは空閑徹という人物について掴みかねていた。
「…………」
積もるほどではないが、雪の降り続く1月のある日。
加茂家の邸宅の一室で、明かりもつけず畳張りの中央に正座している者がいる。
加茂本家の長女である、加茂日和だ。
和装を完璧に着こなし、見事な姿勢で座る彼女は、それだけで一枚の絵として成立しそうな気品を放っている。
やや垂れ目で14歳とは思えない色気のある瞳は閉じられ、その表情は真剣そのもの。物憂げでも、悲痛でも、歪んでもいない顔は、祈る時のそれに似ていた。
遡ること数日前、彼女と空閑徹との婚約が成立した。明日には双方の保護者立ち合いのもと初めての顔合わせが行われる段取りとなっている。
彼女は空閑徹のことを知らない。評判くらいは小耳に挟んでいるが、それは功績や強さの話だ。顔も性格も背格好も、彼女は何も知らされていなかった。
既に婚約成立の事実は両家の合同声明という形で公示されており、なんなら日和はその事実を公示で知った。既に外堀は埋まっており、彼女自身に連絡が行くのは最後の最後。それだけ、加茂家がこの縁談を重視していることの証左でもある。
日和は、加茂家の現当主とその正妻との間に相伝の術式を持って産まれた。それは加茂家のみならず呪術界全体にとっての慶事であり、彼女は生まれながらに高い価値を持っていた。
彼女は、滅多に家から出ることがない。勝手にどこかの男と知り合われたら困るからだ。
彼女は、術師として鍛錬をしたことが殆どない。箔付けと、相伝術式が十全に遺伝していることを証明するために取った準2級で十分とされた。持って生まれた赤血操術と父親譲りの呪術的センスにより、本格的に体を動かすことなく、ものの数週間でそこまで到達した。
代わりに彼女は、礼法や家事、化粧に着付け、男の立て方から夜伽の作法に至るまで、いわゆる花嫁修業を徹底的に仕込まれてきた。
嫉妬を教育的指導に包んだ女衆による理不尽に厳しい躾は、彼女に多くの技能を与えた。
例えば、極限まで磨き上げられ、男を虜にすることに特化した容姿。彼女のそれは女性ウケやカメラ写りや本人の好みを度外視し、男から見た時の魅力が最大化するように設計されている。一点特化である分、男性の最も根源的な部分を直に刺激するという意味では表の世界に存在するアイドルや女優を明確に圧倒している。他所ではまずお目にかかれないであろう、まさに魔性の美貌であった。
他にも、あらゆる物や作法の良し悪し、周囲の力関係などを即座に理解する眼。徹底して相手を立て、最大限心地よい会話を提供できる口。そして相手がどんな化物だろうと笑みを浮かべてしなだれかかれる心。そのどれも、彼女に課せられた役目を果たすために重要なものだ。
そう、彼女は、呪術界にとって非常に価値が高かった。ここでいう価値とは、日和の息子に受け継がれる可能性のある遺伝子情報のことだ。その価値はペットの血統書のように産まれた時点で決まっていて、後付けされる「努力」は全て、交配相手をその気にさせて、1回でも多く"価値"を生み出すチャンスを確保するためであり、相手の加茂家への印象を良くするためのもの。
故に、彼女の扱いはあまり良い物とは言えなかった。何しろ遠からずどこかへ嫁に行くことが決まっている身。両親からも大した愛情は与えられず、今こうして日和の存在を認められているのは、彼女が期待通り、道具として優秀であり続けたからに他ならない。
最初から進むべき道は決まっていた。呪術界上層部が想定する「理想の女性像」、その具現だ。
そうあるためだけに生涯を捧げてきた。それ以外の選択肢は初めから与えられていなかった。彼女は最初から、呪術界に多大な貢献をし、御三家クラスの発言力を持つ何者か――順当に行けば五条悟か禪院直哉――に妻として与え、加茂家の発言力を盤石にするためだけに作り上げられた最高のトロフィーであった。
そして今、ついにその授与先が決まったのだ。それは大方の予想を覆す「空閑徹」というワイルドカードであったが、日和がすべきことは変わらない。
日和は静かに考えていた。空閑徹の人となり。性格。暴力的かどうか。対面後のやりとりのシミュレーション等々。
およそ自分の意見というものを持つことが許されなかった日和が自由にできるのは、自分の頭の中だけだ。それでも彼女には立派に自我が芽生えていたし、自分では経験できない「外食」や「娯楽」に時間を費やす他人を羨ましく思ってもいるし、日和にも"夢"があった。
誰か、そう白馬の王子様のような「誰か」が自分を攫って、束縛の象徴でしかないこの家から連れ出してくれるのだ。
学歴も鍛錬も与えられてこなかった日和は、たとえ1人で加茂家を逃げ出してもまともに生きて行くことができない。現実性も何もない、ただの夢。けれど彼女には、必要不可欠なものだった。
伴侶となる人間の許しを得ればちょっとした娯楽くらいは享受可能かもしれない、という家人の生返事を心の支えにして生きる程度にまともな感性が身についてしまったのは奇跡的であったが、それが良いことだったのかは誰にも分からない。
日和自身は不本意ながら、文字通り半生を費やして身に付けた手練手管には相応の自信を持っている。噂に聞く禪院直哉を相手にしても、それくらいの譲歩を勝ち取る勝算はあった。本領だ。
五条悟相手でもそうだ。呪術界のトップ層になると、普通の女性はその人外の戦闘力を本能的に嗅ぎとって委縮してしまう。怖がったり引いたりした所を死んでも表に出さないように調整されている日和なら、特別扱いを受けるのは難しくないだろう。
では、空閑徹はどうか。
分からなかった。何しろ、「女で懐柔が可能な圧倒的強者」という事前情報から導き出される外見は呂布である。呪術界御三家より家格が低く、本家の者達が「田舎侍め」と愚痴を叩いているから、話の通じない野蛮人が登場したりしないだろうか。
自分は「何」の前に差し出されたのか。相手はどのような存在なのか。その一切は伏せられている。半端な情報を教えて、怖気づいて破談になることを防ぐためだろう。
日和に許されていることは2つ。
考えることと、祈ることだ。
――面会の場に現れたあまりにも普通の人間が嬉々としてうどんウエストの話をし出すまで、あと一日。
こういうことばっかりするから人権って概念が産まれたんですよね。
呪術界には未実装ですけど。