中華大陸西部、とある山の中腹。
巨大な龍脈でもある黄河の源として天然の凡界と化している"そこ"の一角には、まるで空間を切り取ったように不釣り合いな現代風の住空間が存在する。
以前からこのようなものがあったのではない。この空間の住人がこの地の力の流れに手を加え、凡界の在り方を変えたのだ。
例えるなら、コップに入れた水をある一部分だけ熱湯にするような神業。そのような芸当を、そこにいるモノはやってのけた。
その空間は、引っ越し直前のような、空っぽのワンルームに見える。そこには机とテレビ、2つの椅子だけがぽつんと置かれ、一人の女の姿があった。
30代くらいに見える女は、短めの黒髪に黒い服装、これと言って大きな特徴はなく、駅前を歩いていたら何人か見かけそうな外見をしている。
――額を横一線に分断する、縫い目のある傷跡を除けば。
「思ったよりやるようだね、空閑の麒麟児」
見合わない口調でつぶやく彼女は、テレビが映し出す映像の成り行きを興味深げに眺めている。
旧型のブラウン管テレビには、巨大な化物と、それと戦う4人の人物が映し出されていた。
それだけ見ればホラー要素のあるアクション映画か何かだが――この前年には地上デジタル放送への移行が完了しているため、チューナーもビデオデッキもないこのテレビで映像が流れている時点でかなりおかしいのだが――、少なくともこの場にいる
「ふん、まがい物にしてはやるようだな」
「漏瑚。同胞の死にその反応はらしくないね?」
「よく言う。あのような悍ましいモノを作り出しおって」
女の台詞に答えているのは、老人のようなシルエットの、頭が火山の形状になっている単眼の呪霊。そう、部屋にいたのは女だけではなかった。
ここに高専関係者がいたなら、平然と会話をするほどの知性を得るに至った呪霊の存在に恐れ慄くことだろう。往々にして、等級――つまり格の高い呪霊ほど、明確な自我や知能を持つ傾向にある。
「はは。呪霊に倫理を説かれるとは、私もやきが回ったかな。……さて。雨宮・守矢・空閑の当代は(五条を除けば)真っ当な強者、計画の障害になる可能性が捨てきれない。この段階で消しておきたかったが……まさか今の呪術界に、五条と守矢以外でアレと戦える人間がいるとは」
参ったねと言いながら、軽薄な笑みを浮かべて頭を掻いて見せる女。一方横で冷ややかな視線を向けていた漏瑚と呼ばれた呪霊は、追い討ちとばかりに女に声をかける。
「羂索貴様、アレを使って邪魔な地方術師を一網打尽にする等と息巻いておったな? 随分な体たらくに見えるが」
「結論を急ぐなよ。アレの機能については前に説明しただろう」
羂索、と呼ばれた女の台詞に呼応して、漏瑚の脳裏にはここに来る以前の……「作戦」について説明された時の記憶がよみがえった。
◆◆◆
――テロのために作られた呪術兵器というのは、ある一面からの見方でしかない。「コトリバコ」の本懐は、間接的に非術師に呪力を扱わせることにある。
"箱"自体は大した呪力を発しないが、"ハッカイ"クラスともなればその呪力に引き寄せられた呪霊の動きに指向性を与えるという形で瞬間的に1級術師クラスの呪力出力を実現できる。つまり、通常呪力を知覚・運用できない非術師に、箱を介して呪力の運用をさせるんだ。
その行為を何度も繰り返させてじっくりと脳をならしていけば、或いは複数世代をまたぐ必要があるかも知れないが、人為的に非術師を呪力に適応させられる可能性がある。
そこに、呪胎九相図……人間と呪霊のハーフという存在だ。まず九相図をモデルケースとして、巷に溢れる非術師たちを少しずつ進化……否、呪力に最適化させていくというのが、明治の頃に考案した私の計画だ。
まあ、この方法での進化にはあまりにも時間がかかりすぎると分かって破棄したんだが、その時作った残骸がいくらか残っていたからね。折角だから新しい計画に流用することにしたんだ。
"ハッカイ"の場合に限られるが、受肉させてからも呪霊を引き寄せる性質は変わらない。指向性を持たせて制御する機能も備え付け。
必然的に、生まれる受肉体が保有する術式もおおよそ予想可能なものになる。
――自身と同系統の呪力の吸収・放出。早い話、共食いしてどんどん強くなるってことだね。受肉元になる人間は、12年前に「宿儺の器」を作った時の要領で少々手を加えておいたよ。
これを「享楽」の連中が使ってる廃病院に放つ。あそこは水子霊のメッカ……なんだか面白い字面だが、そういう場所だからね。獏良会経由で裏帳簿を覗き見させてもらったが、ロクに供養もしないで延べ6000人近く殺したと来てる。
いやはや無知とは恐ろしいものだね。何かに使えるんじゃないかと思って色々手を回しておいたけど、まさかあそこまで派手にやってくれるとは思わなかったよ。お陰でいい霊地が手に入った。
1体1体は大したことのない水子霊でも、6000体を食らい尽くして呪力に変えた受肉体は呪術界にとって明確な脅威だ。蟲毒の儀式をなぞっているから、霊的な格も相当高まっていると思うよ。
とは言えこのままだと即死効果持ちの術式に対処できないから、様々な信仰に見られる「形代」を作る技術と水子霊そのものの性質を応用して、呪詛師に攫ってきてもらった出産適齢期……ああ、生物学的な話だから18歳前後がベストになるね……の若い娘3人を「母親」と見立てて契約を結ばせる。
単純に「残機」を増やせることによるダメコンの役割もあるが、集合霊という不確かな存在に核という杭を打つことで、不意の分散や体の制御が効かなくなるような事態を防ぐこともできる。元々8人分の水子で作った集合霊なんだ。母親が3人いる程度にバグらせるのは難しくないよ。
3という数字は何かと神聖視されがちなのはご存知の通りだが、これの場合はコンピュータのセキュリティが近いかな。核を3つ用意して互いに互いを監視させることで存在の補完を行わせるんだ。理論上は、1つやられた時素早く反転術式を回すことで復活、なんて芸当も可能だよ。
そしてダメ押しに、私が確保している特級呪物「両面宿儺の指」これを1本投入して全体的な呪力のバランスを整える。数を増やしすぎると宿儺の意識に乗っ取られるだろうが、1本だけならむしろ3つある核の「共通の敵」として機能し、団結を促す結果になるはずさ。
まとめるとこうだ。1級クラスの呪物に、強化改造した器、餌となる6000からの水子霊、ダメコンと形態安定を兼ねた3つの核、おまけに宿儺の指1本。あり合わせにしてはかなりのクオリティに仕上がったと思っているよ。
戦力評価で言えば……まあ、術式がシンプルすぎるのと知性がないのを考慮するに宿儺の指換算で5本分程度って所かな。
ここまで長々と説明したが……この作戦の肝は、この呪霊を「削り」に使うという点だよ。
現代最強と名高い五条悟だが、彼の唯一最大の欠点は1人しかいないということだ。
雇った呪詛師には、証拠が残るの承知で派手に暴れるようオーダーを付けた。だが私が事前に北海道のさるカムイの封印を解いておいたので、五条悟はそちらにかからねばならない。流石に1戦分くらいの時間は稼げるはずさ。
呪術界にもそれとわからぬように話を通してある。件の廃病院を向こうが見つけ出した時、送られるのは高専ではなく地方の高等術師たちだ。
廃病院には呪詛師お手製の帳が掛かっているが、そっちは見せ札、ブラフに使わせてもらった。本命の結界は病院の敷地内全域に薄く広げて、「"アレ"の気配を病院全体に薄く同化させる」ようにした。気配を消すだけでは痕跡が残る。気配を薄め、偽り、最初からそういう土地、空気だったと錯覚させるのが隠密のコツだ。
そして、術師たちが奥深くまで誘い込まれ、帳を割った時が戦闘開始のサインだよ。私の張った結界も同時に解けるようにしてあるから、ブラフの帳に邪魔されて後から調べるのも無理だろう。これでも結界術には自信があってね。
うん、受肉体に名前を付けないのか? 名づけには存在を定義し、強める効果があるから普通の呪霊ならするが、アレは群体だ。1つの名で存在を定義してしまっては強みを消してしまいかねないから、下手なことはしない方がいい。
ぶっちゃけ、呪術界という一つの組織に纏まってくれた方が内側から乗っ取るのは楽なんだよね。それぞれに指揮系統が独立してて1つ1つ潰さなきゃならない地方の術師の方が不確定要素たり得る。
中でも面倒なのが守矢家だ。御影ひとりどうにかすればいい雨宮やアウトレンジからの大出力攻撃という明確な弱点がある空閑と違って、制御を放棄されたら五条悟を呼び出すか両面宿儺を復活させるかしないと倒せない切り札を抱えている。
私は完璧主義でね、「ワンチャンス」を握ったままにされるのは非常に気掛かりなんだ。だから切り札を切らざるを得ない状況に誘う。ついでに他の厄介な術師も呼べるだけ呼べたらなおいいね。
……もし負けたら?
その時は、私がまだ把握していなかった要注意戦力を事前に知れるということさ。
◆◆◆
「……お、動いた」
地方術師殺害の目論見が崩れた今も、羂索の余裕は崩れない。
忌々し気な漏瑚をよそに、テレビの映す戦いの動向を暢気に観戦している。
画面の向こうでは、爆裂したはずの呪霊の欠片が集まり、新たな形を取ろうとしていた。
「流石と言うべきか、6000体も食ってるとタフだね」
「随分と余裕だな。ジリ貧なのは変わっておらんぞ」
組み上がろうと蠢く肉塊を見て、しかし漏瑚の見立ては変わらず「形勢不利」。そんな漏瑚をなだめるように羂索は言う。
「言ったろ? 元より失敗した計画の"残りもの"なんだ。ノーマークだった空閑の麒麟児にここで気づけただけでも十分な戦果だよ。何より――」
台詞の途中。ぎしり、ぴしりという歪な音とともに、異常なリビングルームと龍脈が作り出す凡界との境目にヒビが入る。
「やれやれ、やっとか」
椅子から立ち上がり、出来た空間の割れ目に躊躇なく片手を突っ込む羂索。
引き抜いた右手には、大きな賽子のような呪具が握られている。
「おお、それが!」
「お察しの通り、獄門疆だよ。まさかこんな所に封じられているとはね」
これまでで初めて喜色をあらわにした漏瑚。
そう、1人と1体はなにも好き好んでこんな結界の中に詰め込まれていた訳ではない。
自然に作られた結界の中に封じられていたこの呪具――あらゆる存在1人を確実に、そして(封が破られない限り)永遠に封印する――を確保するため、結界の一部を異常な空間に塗り替えることで歪を発生させ、自然にほころびができるのを待っていたのである。
「もともと、カムイの封印を解いたのもコトリバコを再利用したのも、コレを回収していることを呪術界の連中に悟らせないための陽動に過ぎない。こんな崑崙の山奥まで物見遊山に来た訳でもないんだ、もう用はない。撤収しよう」
持って来ていたカバンに呪具をしまうと、羂索達はそそくさとその場を後にする。
彼女は体を乗り換え生きながらえる術式を有しているが、ここ数年間は獄門疆捜索と結界破りにかかり切りであったため、本来なら母胎としての機能重視で戦闘向きでない女――虎杖香織の身体のまま過ごす羽目になっている。
(一刻も早く獄門疆を確保するため体の乗り換えは保留、予定を繰り上げて漏瑚と組んで護衛に付けて戦力をカバーした……「嫌な予感」としか言えないもののために行ったアドリブだが、ひとまず成功、と言ったところかな)
羂索は用心深く結界から出るための道を歩みながらも、脳裏で先ほどテレビに投射していたリアルタイム映像の続きを再生させながら思考を進める。
(空閑の次代……少し、面白いな)
彼女等が結界を出た瞬間、リビングルームの見かけは崩壊し、そこはまた「何もない」空間へと急速に立ち返っていった。
「多めの調味料で味のバランスを整える」みたいなノリで使われる宿儺の指。
24/9/23 時系列の矛盾を修正しました。