――廃病院には、曰くがあった。
遡ること六十余年、終戦直後の時代。
まだ日本全域にアメリカの占領軍が駐屯していた頃、新聞に載せてこんな触書が出された。
「兄弟や夫にも明かされず、暗澹たる日々を送っている不幸な御婦人方の相談にのります。経費など心配は無用」
遠回しな表現であったが、少なくとも当事者にはきちんと意図が伝わったそうだ。
大陸から帰還した女性たちの中には、現地の敵軍に辱められているケースが散見されており。超法規的措置として、当時は違法だった中絶手術を行うための臨時の病院が開設された場所が福岡県にかつて実在した。
ここまでは「表の歴史」に記されている事実だ。現在もその地には水子供養のための地蔵堂が建てられ、京都高専と歴代の当該病院長、そして空閑家が共同で供養に当たっている。ここまでは"表の歴史"の話だ。
翻って、ここ島根県。
戦中戦後に望まぬ妊娠をした女性は、なにも大陸から引き上げてきた者達だけではなかった。
例えば痴情のもつれであるとか、やむを得ず身体を売っただとか、戦後の混乱に乗じて乱暴されただとか、そういう人はどこにでもいて、当時の世情的にとても人前では言い出せないそれらを「解決」するための設備を、当時はまだ小さな産婦人科だったこの病院は「隠し部門」として有していたそうだ。
前述の通り、この当時母体保護法はまだ制定されておらず、本来であれば中絶手術は違法行為である。つまりここにいたのは、闇医者だった。
院長の名誉のために言っておかねばならないのは、当時この病院を中絶目的で訪れた"客"に対して彼は一切の詮索をせず、またほとんどの場合で金もとらなかったこと。
地元でどうしようもなくなった人の最後の砦、いわゆる一つの駆け込み寺として機能し、実際に助けてもらった客たちは全員、そのことを心から感謝し、そして自分の「秘密」を墓まで持って行ったという。
今より公的機関や民間の監視が緩い時代であったからか、見て見ぬふりをする情けを地元住民が有していたからか、その事実が公的に明らかになることはなく。このことは歴史の闇のひとつとして葬られる……はずであった。
仁義のわかる人間だった院長が唯一抱えていた問題は、跡継ぎが悪人だったこと。
無能ではなかった。むしろ経営者としてはかなり優秀な部類だったと言っていい。彼の代で病院は急速に拡大し、県下有数の大病院として巨大な施設を保有するに至る。
彼は、裏部門を存続させた。
既に日本は高度経済成長を終え、第二次オイルショックが世間を賑わせていた時代。中絶手術は1948年には事実上合法化していたが、当時はまだ配偶者や保護者の同意が必須とされていたため、"秘密を守る闇医者"には一定の需要が存在していたのである。
先代の死とともにそれは決定的となり、当初の理念は忘れ去られ「金さえ積めば何も聞かずに施術をしてくれる」裏の中絶病院として機能するようになる。
行為は、院長が反社会的勢力との繋がりを暴かれ逮捕されるまで続いた。
ここで県警捜査本部は致命的なミスを犯す。
院長の罪状は脱税や県議との癒着だったため、会計が厳密に切り分けられ反社会的勢力、指定暴力団獏羅会側の組織扱いになっていた中絶部門の存在を把握できなかった――あるいは、県警側が当時全盛期の
件の病院は廃業後に民間の土地整理会社の所有となるが、これは俗にいう"企業舎弟"であり、獏羅会のいわゆる"地上げ屋"部門と強い繋がりがあった。
そして、土地の特性がこの時復活直後であった「享楽倶楽部」の目に留まり、以来呪詛師の隠れ家として使われ続けていた。
廃業まで40年あまりの間で、違法に"処理"された胎児の数およそ6000。
つまるところ、この土地は。
約半世紀にわたって人工的に整備された、「水子」にとっての聖地である――!!
「――おぎゃあああああああああああ!!!!」
廃病院を震わす「それ」は、雄叫びというより、産声に似ていた。
ただ突っ込んだだけでコンクリートの地面に大穴を開き、あたりを舞う煙が晴れると、徐々にその存在が露わになり始める。
体高およそ2メートル半。立ち上がれば4~5メートルほど。総じて黒色。肩から伸びるのは獣……というより、土木作業用の機械じみた角ばった腕が四本。
腰から下、膝まではヤギのように毛深い。ひざ下は細いため、遠目にはニッカポッカを履いたようなシルエットだが、よく見ればそれは自前の筋肉と、膝下全体が硬質化しヒヅメのようになっていることで成り立っているとわかる。
化物じみた手足と違い、胴は比較的人間の形状を残している。衣服の類は身に着けておらず、皮膚の色が薄いのか、内の血管や臓器がうっすら透けて見える。
顔は引き裂かれたようにつり上がった四ツ目と、広い口。吼えるように開けた口の中には、歯列も何もない尖った乱杭歯。
額には小さな角が4本生え、四ツ目からは絶えず血涙が流れている。
極めつけは――その圧倒的な呪力量。
呪力の感知と操作に天賦の才を持つ徹は、その事実にすぐ気づいた。
以前、特別一級昇格任務のため、それと知らず東京高専に出向いた時。
高専で遭遇し、今まで見て来た誰より呪力量が多く、現代最強の名に恥じないだけの力を見せつけられたはずの――
「
徹の声を受けて、立ちすくんでいた拓斗が前に出る。
「30秒、稼げるか」
「何をする気ですか」
拓斗の問いかけに、徹は半ば意図を察しながらも問いかけた。
刹那。
四つん這いから立ち上がった「それ」の太ももが倍ほどにまで膨らむと、その巨体が消え――
"ミシャグジさま"の両腕と徹の抜いた日本刀により、弾丸の如く突っ込んできた身体が押しとどめられ……極ノ番によって「置かれた」斬撃ごと弾かれた。
轟音と共に吹き飛ばされた二人は、呪力を放出してそれぞれ別方向に空中で軌道を変更。追撃とばかりに突っ込んできた"それ"の攻撃を辛うじてかわす。
"それ"は勢いそのまま壁を貫通し、かなり遠くまで跳んだように思われた。
「今の"明神立有"は、本来の形から大幅に離れている……」
かなりの速度で床にたたきつけられた拓斗は、ヨロヨロと立ち上がりながら台詞を続ける。
「本当の"明神立有"はな、依り代たる守矢の当代を生贄に捧げることで、ミシャグジさまを
術式の開示。それを理解した徹は、後ろで楓をかばっている御影共々耳を澄ます。
「今の"これ"は、あくまでヒトが制御できる限界ギリギリまで出力を絞ったものだ……口伝を総合するに、今の俺で、本来の3%程度でしかない」
特級呪霊どころの騒ぎではない。
つまり、制御を放棄して当主クラスの生贄を捧げるという条件付きではあるものの、特別一級たる今の拓斗の30倍以上の呪力出力を持つ怪物をいつでも出現させられるということ。
徹は瞬時にそれを概算し、「原作」の描写と当てはめていく。
恐らく完全顕現した"ミシャグジさま"は――渋谷で暴れた「魔虚羅」と同格以上たり得る。
御三家きっての武闘派「禪院」の相伝、十種影法術をも超える暴虐。呪術界が長野に勢力を広げられない理由。
元より守矢は、有史以前から諏訪の地に存在していたかの神を奉り、その力が人を傷つけないようにするために血を繋いできた一族。故に彼らは、自らの相伝さえも封印の対象と考えている。
だから拓斗の代までは、術者が県境をまたぐことも殆どなかったのだ。
まさしく、このような事態を防ぐために。
「……今は、五条悟がいる」
ことここに至って初めて、徹が頭の中で描いていた「絵」が繋がった。
「原作」ではここに、夭逝した徹はいない。
恐らく御影と拓斗はここで「あれ」に襲われ、初撃で御影が死亡または致命傷を負う。今と違い即断した拓斗はその場で真の術式を発動させ、受肉を果たしたミシャグジさまの力でこの場を皆殺しにし――そして、現着した五条悟に祓われた。
「……ダメです」
だからこそ。そうさせる訳にはいかない。
脳裏に真依のことがよぎり、そして心を決める。
既に取り返しがつかないほどに、「原作」に介入してしまっている。
――ならば、最早縛られる道理はない!
「勝算はあります」
手早くプレートキャリアとヘルメットを脱ぎ捨て、そのポケットから小さな注射器を取り出し、躊躇なく自分の手首に突き刺した。
空閑一族秘伝の霊薬……とされてはいるが、実のところ呪術的な要素はあまりない。
主成分は複数種類のコリン作動薬と覚醒作用のある違法薬物、一般にスマートドラッグ等と呼ばれるものと似た成分を術師用に強化・調整したもの。
効果はすぐに現れ、限界を超えて脳機能が拡張され、感覚が鋭敏になる。
血流が良くなりすぎ、副作用で出る鼻血を乱暴に拭い、血走った目を拓斗の方に向ける。同時に、プレートキャリアとズボンのポケット、背中、ベルトの腰側、胸ポケットから十数本の刃物が浮き上がった。
大小様々なサバイバルナイフ、鉈2本、紐のようなもので繋がった2本セットのナイフが2揃え。計
「8本が限界だとは一言も言ってませんからね……!!」
重りとなっていた全ての刃物を浮遊させ、装備も捨てた今、徹は最大限の機動力を発揮するに至っている。
莫大とは言えぬまでも膨大と形容できる呪力量と、五条を除けば当代一と称される呪力操作により、彼の身に纏う呪力は極めて静かで、それでいて恐ろしく濃いもの。
「
故に徹の言葉には、十分な説得力があった。
「…………わかった、こっちで動きを合わせる。装甲の隙間を狙ってくれ」
「わ、わたし、は」
後方、御影に庇われていた楓がおずおずと声を上げる。
「気にしなくって、構いませんから」
彼女は呪具使いとは言え、本体の実力は3級止まり。このレベルの戦いには付いてこられないと、彼女はよく理解している。
足手まといになるくらいなら、ハナから見捨てて動いてくれて構わない。そういう宣言であった。
「悲鳴とかで、気が散るんだったら、いっそこの場で」
「いいえ」
震えながら絞り出すように言う彼女の言を遮って、徹は宣言する。
「楓さんは、俺が合図したら動きを阻害するタイプの呪具をめいっぱいばら撒いてください」
向こうが弱者狙いで来るなら、それはそれでカウンターをかませる。
仮に問いただせば、そういう意図での発言であると徹は答えただろうが……脳裏には、あの日の情景が思い出されている。
眼前で死んだ増崎宏美。それを受けての、父の言葉。
『無茶のしわ寄せは、いつだってその場で一番弱い者に降りかかる』
「あんな程度の良く分からない呪霊に、殺させやしませんよ」
「……!!」
繰り返す訳にはいかない。それでは何も変えられていない。
死者にしてやれることはなく。ただ出来るのは、そこから何を学び取ったか、ほかの生者に示すことのみ。
「最悪でも、御影さんがもう一度領域を張れるまで時間を稼ぎます――来る!!」
遠方で呪力が爆ぜるのを、徹の鋭敏な感覚がいち早く認識。その場で散会した4人の間を縫うように、呪力の砲撃が轟音を響かせながら通り抜けて行った。
間を置かず、獣のごとき巨体が徹へ飛来する。
――あくまでも、強者狙い。
「
徹の眼前で、8本の刃が円を描くように高速回転。
"大刀"の神髄は、斬撃という概念を掌握・操作し、それを飛ばすことにある。
極ノ番使用中に残る斬撃も例外ではない。
同じ場所を高速回転させて何重にも重ねた斬撃を、大刀の要領で敵に向かって射出する。
「"
作り出された巨大な刃を、怪物は身体をひねって器用に回避――
――した先には、残る16本の刃が待ち構えている。
「小刀から大刀は撃てないとでも!?」
放たれるのは、衝撃を1点に集め貫通力が高い「大刀・穿」の16連撃。
「おぎゃああああ!!!」
もろに食らった怪物の表皮がひび割れ、紫色の血らしきものが噴き出す。
ついた傷は即座に広がり、煙を吐きながらボロボロと表皮が崩れ落ちて行く。
(効きが悪い……!)
並の術師であれば1秒かけずに腐ったサイコロステーキに仕上げられる徹の"蝕"だが、相手の呪力量・出力があまりに多い場合は抵抗される。
呪霊特有の呪力を使った回復スピードと、徹の術式による傷の悪化スピードが拮抗しているのである。
「隙、ありィ!!」
怪物がのけぞった隙を見計らい、拓斗が組んだ両手を思い切りぶつける。
人外の膂力は特級の装甲を容易く貫くが……どうやらガードが間に合ったらしい。右上腕の表面が多少歪んだだけ。
「アアアアアアアア!!!」
怪物はそれを意にも介さず、獣のようなステップで位置取りを直すと、徹に向かって4つの拳を振りかぶる。
徹は刀を振り抜き、大上段に構えて迎え撃つ。
――徹の知覚力は、微弱な呪力の流れも見逃さない。
身体そのものが呪力で出来ている呪霊であれば、その読みは最早未来予知と言っても過言でない程の精度となる。
(……受肉体! それにこれは……呪力の根源が3つ!?)
その目で見た怪物は、まさしく異形であった。
刹那、振り下ろされる腕は徹を頭上から叩き潰す軌道で――
――
「楓さん!!」
「っ!! 特級呪具! "触腕不動"!!」
後ろに隠れていた楓の宣言に呼応するように、楓の掲げた札から数十本の腕のようななにかが飛び出し"それ"に絡みつく。
「"兜割り"!!!」
徹の振りかぶった刀が、無防備になったそれの脳天に振り下ろされる。
剣術の世界における"兜割り"は、インパクトの瞬間にピンポイントで力を込めることで成立すると言われる。
原理としては黒閃に近く、ゆえに人間業からは逸脱した行いで狙って出来ることではないというのが通説だ。
卓越した呪力操作技術を持つ徹はそれに目を付けて、独自の改良を施した。
刀が振り下ろされる瞬間。刃が敵の体内に入ったと同時に、刀を介して
「ギャアアアアアアア!!!」
呪力操作の技術は、そのまま出力の向上にもつながる。
一瞬にして大量の正の呪力を流し込まれた怪物は、それまでと異なる断末魔を上げながら、内部から爆裂した。
徹の感知に引っかからないレベルの隠密にはからくりがあります。
待て次回。