先の大戦の緒戦から中盤にかけて驚異的な高性能で太平洋の空に覇を唱えた日本海軍の「零式艦上戦闘機二一型」。ミリタリー誌『丸』(潮書房光人新社)10月号の「零戦二一型」特集から、この零戦開発に参画した海軍航空参謀、源田実氏が昭和35年にまとめた手記『零戦と私とロッキード』の抜粋を紹介する。零戦開発の原点がどこにあったかや、戦後の航空自衛隊の航空機選定の秘話がつづられている。
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対中戦の犠牲が構想原点
ロケットが月に到達するというほど、科学が驚異的に進歩した今日、いまさら零戦の思い出どころではないかも知れない。
けれども、あの当時、航空技術者の叡智と、各搭乗員たちの血のにじむような訓練を経て、ついに出現したあの零戦はまさに世界に誇っていい最優秀の戦闘機だったのである。話はとぶが、戦後、実際に零戦を駆って飛んだ某米国将校が感想を洩らしたところによると、「座席がゆったりして操縦具合が、大変いい」と激賞し、あの体格の大きな米人でさえ、窮屈な思いをせずに十分な操縦が行なえるこの機に絶大な安心感を抱けることを、身をもって痛感したらしい。
事実、多くの搭乗員たちは、心の底から零戦に信頼感をおいていた。唯一つの欠点である防御力の足りない点を除いては、零戦とともに戦えることを、この上ない誇りに思っていたのである。
しかし、そういう優秀機も、決して一朝一夕にして創意され、誕生したのでないことは勿論だった。かけがえのない命と、身をすりへらすような辛苦の積み重ねの上に、尊くもまた誇らかに築きあげられた結晶だったのだ。
話はさかのぼる。昭和12年の支那事変開始劈頭。その頃、陸海軍ともに、戦闘機に対する考え方は、単なる防禦力としか見ておらず、すすんで攻撃兵力たり得るものではない、という過小評価のまま、いわば冷や飯を喰わされていた存在だった。
ところが、その年の8月の渡洋爆撃の戦訓は、そういう考え方を根底からひっくり返してしまうほど、恐るべき戦闘機の魔力を見せつけた。
もしも、あのとき、中国の戦闘機にあれほどこっぴどい眼にあわされていなかったら、零戦の構想も、あるいは生まれていなかったかも知れないのである。
8月に開始されたその陸攻隊の渡洋爆撃(※台湾・九州・済州島の各基地から海を越えて上海などに行われた攻撃)は、史上空前の壮挙として全世界の耳目をそばだたせたことは事実だったが、そのかげに、あまりにも多大な犠牲をはらわなければならなかった。
陸攻隊の飛行隊長クラスはほとんど壮烈な戦死をとげたし、なかでも杭州爆撃のときの損害は、眼を掩うほど悲惨な犠牲を生んだ。
その日、空母「加賀」の八九艦攻隊は岩井(少佐)飛行隊長指揮のもとに、悪天候を衝いて12機出撃を決行した。だが、致命的だったことは、天候不良のため味方戦闘機の掩護が不完全な点であった。翼をつらねて杭州上空にさしかかったとき、岩井隊は雲霞のように襲ってきた中国戦闘機の集中攻撃を受けて、わずか1機を残したほかは、ことごとく撃墜されてしまったのだ。
かろうじて、満身創痍のまま「加賀」にたどりつくことの出来た田中中尉機の報告を聞いたとき、われわれはどんなに驚愕したことだったろう。
その日からだった。いかに爆撃機が集団の威力を発揮しつつ優速を誇ろうと、所詮、優秀な戦闘機の敵ではない、ということを悟ったのは。
一蹴された〝航空主兵〟思想
当時、私は第二連合航空隊に所属していたが、この戦訓によって上海基地に進出し、九六艦戦を駆って進攻作戦を反覆することになった。
この壮挙は大成功だった。数において圧倒的な敵戦闘機群を、片端から叩き落して九六戦の優秀性を遺憾なく発揮したのである。2ヵ月の後には、敵機群は南京方面から全く姿を消してしまった。
これを急追するために、私は各中継基地を使用して九六戦の航続距離をさらに伸ばすことを進言した。とにかく敵は、南京から中支の南昌まで、つまり上海からは550余キロのところに基地を移してしまっているのである。これを捕捉するには飛石伝いにいくほかはない、と考えた。
いわば窮余の一策ともいうべきこの着想は、幸いにして上司の採用するところとなり、急遽、上海から180キロの地点にある広徳飛行場に整備員と燃料がおくりこまれることになった。
出撃するわが戦闘機隊は、一旦この広徳に着陸して燃料を満載し、南昌に機首を向けるのである。攻撃を終わったのちは、燃料のつづく機はそのまま基地上海に帰投、燃料が乏しくなった機は広徳で補給ののち、直ちに上海へ帰ってくるという寸法である。
この段取りで攻撃したところ、予想以上の大戦果をあげたのだった。
日本海軍戦闘機の真価は、こうやってこのときからはっきりと打ち出されたはずだった。従来の陸戦、海戦の思想のほかに「航空戦」という名の新戦力が、はなばなしく登場するべきはずだった。
日本海軍の戦闘機が、身をもって体得したこの戦力が、将来の戦略にかけがえのない役割を果し得るという実験を、こうやってつぶさに行なったはずだった。
にもかかわらず、一般にはいぜんとして航空兵力は陸海兵力の〝脇役〟としてしか認められず、航空主兵力をとなえる私の主張は、容易なことでは聞き入れられなかった。そればかりか、海軍々人にあるまじき発言とばかり、ひんしゅくを買うようなことさえあったのである。
のちに、海軍兵学校で航空兵力の重要性をとなえ、航空決戦のあり得ることを主張した講演を行なったところが、演壇をはなれた私のあとに、かけ登ってきた某大佐は、「ただ今の話は諸君の血となり肉となるものである。しかしわれわれは航空兵力なしでも戦闘する覚悟を要する」という意味のことを述べたほどであった。
中国戦闘機との戦闘において、わが航空隊は、あらゆる作戦を順調ならしめる基礎は制空権の確保にある、ということをまざまざとつかんだ。そして、海軍機の示した優秀な性能、とくにその長大な航続力は、必要とあれば、遠く陸海の第一線の後方深く侵入して、必殺の攻撃を加え得るという可能性を示した。
そういう事実の前に、それでも尚且つ頭迷に、旧兵事思想にこだわる一部の人々の封建性が全くやり切れなかつた。しかし、憤怒をぶちまけているだけでは向上はない。われわれは、もっともっと努力を重ね、あらゆる点で非の打ちどころのない海軍航空兵力を築きあげねばならなかった。
こういう努力のなかで、発案され、試作されることに決まったのが、零戦なのである。九六艦戦よりはるかに勝る速度、上昇力、航続力など幾多の改良点に着目して、関係者の間で審議が重ねられていった。
零戦はこうして生れた
そういう段階の途中にあった昭和13年初頭、横須賀の海軍航空廠でひらかれた研究会に出席した私は、中支戦線の体験を報告させられたことがあった。
その日は、戦線から帰ってわずか2、3日目のことである。生々しい九五、九六艦戦の空戦経験にもとづいて、出てきた新試作機への要求性能は、あまりにも盛り沢山なものだった。いかに優秀な技術者であろうと、こんな我儘にも近い要求では、さぞかし苦しんだことだろうと思う。なにしろ速度・航続力・運動性・兵装などの、いわば相反する要求を同時に満足させよ、というのだから大変である。
白熱の討議が連日のように繰り返されたのはいうまでもない。
ある日、研究会の席上で堀越技師は、「航続力・速力および格闘力の3性能を重要と考える順序で申し述べて欲しい」と要求したことがあった。
私は、それにこたえて、「艦上戦闘機は、対戦闘機格闘戦性能を第一義とし、これを確保するためには、速力・航続力を若干犠牲とするのもやむを得ないと思う」と発言した。勿論、速力・航続力も充分欲しい。しかし、いずれを多少でもとるか、ということになれば、戦闘機に欲しいのは絶大な格闘戦力である。中支戦線の体験は、それをいやというほど教えているのだ。
だが、攻撃機を掩護する戦闘機たり得るには、高い速力と航続力が必要だし、逃げる敵機をつかまえるには少しでもスピードがはやくなくてはならぬ、こういう要求も出てきて、結論は容易にひき出せなかった。いかにして敵に先んずるか、いかにすれば俊速な敵戦闘機に痛打を浴びせることが出来るか、われわれの頭のなかで、まだ見ぬ試作機の幻影がとびかい、あの場合この場合と、つきることのない想定が次々とよぎり、論議のつきるところを知らなかったのである。
いうまでもなく、戦術的に制空権をにぎることの出来るもっとも確実な方法は敵機を搭乗員もろとも撃墜することにある。爆撃機では、これが不可能なのだ。戦闘機こそは、制空権獲得の主役なのである。そういう戦闘機であればこそ、要求は数限りなくあったし、最高のものを期待したいのが当然だ。
こういう最高の願望と、われわれ搭乗員の切なる期待のなかで、ついに零戦は生れた。そうして、期待通り、零戦は、世界に類例を見ない驚異的実力を遺憾なく発揮したのだった。
それにしても、この零戦が生まれるまでの紆余曲折は全く感慨深いものがある。新しい考え方というものは、いつの時代でもあついカベにぶち当らなければならないのが古今のならわしらしいが、われわれの主張がある期間一笑に付されてきたのも、当然といえば当然だったかもしれない。
なにしろ、日露の海戦にさかのぼるまでもなく、日本の海戦思想はあまりにも頑なな大艦巨砲の精神に貫かれてきていた。それは決して無理ではないのだ。あれだけの大戦果をあげた日本の海軍なのである。誇るべき伝統としたいのは、航空主力を叫ぶ私とても同じだった。
けれども、世界の戦略は日進月歩、大きな転換を見せてきたし、将来の戦争が大艦と大艦が舷々相摩して行なう砲撃戦にとどまるはずはないことを、あの頃、少しでも冷静な判断を持てるものなら、当然気づいて然るべきはずだった。(全文は「丸」10月号に掲載)
源田 実
げんだ・みのる (1904~1989)海兵52期卒業、最終階級大佐。真珠湾攻撃の立案や「零戦」「紫電改」の開発に関与。開戦時は第一航空艦隊の甲航空参謀、大戦末期は第三四三海軍航空隊司令。戦後は航空自衛隊に入隊、航空戦隊司令、航空幕僚長をつとめた。ブルーインパルス創設者。その後、参議院議員(自民)を4期。