神雷部隊戦友会が靖国神社に奉納した「神雷桜」。東京都の標準木のそばにある

死んだはずの大田が…

七二二空飛行長として神之池基地に着任したばかりの岡本晴年少佐は、騒ぎを聞きつけて急いで見張台に上がり、双眼鏡で機影を追った。大田が操縦する零式練習戦闘機は、ふらつきながら水平線上に小さくなってゆき、やがて見えなくなった。

――桜花の発案者として歴史にその名を刻んだ大田正一は、こうして空のかなたへ姿を消した。

大田は試飛行(テスト飛行)中の事故で殉職したこととされ、9月5日付で海軍大尉に進級した。家族から死亡届が提出され、戸籍が抹消されたのは昭和23(1948)年8月19日のことである。

桜花の発案者・大田正一
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だが、大田は生きていた。神之池基地を離陸後、鹿島灘の沖に出た大田機は、海上に着水したところを操業中の漁船に救助されたのだ。大田はのちに息子の大屋隆司に、

「鹿島灘の海に墜ちてしばらく海面に浮かんでいたら、漁船が来て助けられた」 

と語っている。着水時の衝撃で計器板に額をぶつけ、裂傷を負っていたため、宮城県の鳴子陸軍病院(現・大崎市民病院鳴子温泉分院)に運ばれ治療を受けた。

飛行機の操縦は、離陸より着陸のほうがはるかにむずかしい。ましてや、波やうねりのある海面に着水するのは、ベテラン操縦員でも命を落とすことが多いほど至難のわざである。大田が、はじめから助かるつもりで飛び立ったとは考えにくいが、ほんとうに自決するつもりだったかどうかは本人にしかわからない。

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