死ぬまで偽名を名乗り続けた
鳴子陸軍病院を退院した大田は、ほどなく旧神之池基地のある茨城県高松村に舞いもどった。そして、約1年にわたって高松村で暮らしたのち東京に転居し、さらに北海道などを転々とし、昭和25(1950)年頃、大阪に流れついた。「横山道雄」と名乗った大田は大阪で出会った大屋義子と所帯を持ち、3人の男児をもうけたが、戸籍が抹消されたままなのでいわゆる「事実婚」、子供たちも戸籍上は義子の私生児となっている。大田は年齢を偽り、家族にも長いあいだ正体を明かすことなく、平成6(1994)年12月に癌で亡くなるまで偽名のまま生きた。
そんな大田の生涯について、詳しくは拙著 『カミカゼの幽霊』 (小学館)を参照いただきたい。
それにしても、大田は死ぬまで、いったいなにから逃げていたのだろうか。本人亡きいま、そのことを問いただすすべはないが、じつは大田のほかにも、終戦直後に「自決」したとされ、地下に潜った桜花の搭乗員がいた。
神雷部隊の元分隊長・湯野川守正(大尉・戦後空将補)である。音楽評論家・湯川れい子氏の実兄である湯野川もまた、終戦直後、零戦で基地を飛び立ったまま「行方不明」となり、一時は殉職が認定され、名を変えて山陰に潜伏していたのだ。しかも湯野川は昭和26(1951)年に横浜で大田と会い、言葉を交わしたという。これが桜花関係者による大田の最後の目撃情報である。
本土決戦にそなえて桜花隊が配備されていた石川県の小松基地で終戦を迎えた湯野川は、停戦命令が発効し、部隊が解散した昭和20年8月22日、第二徳島基地に呼び出された。