覚悟の自決飛行
神雷部隊の隊員たちは、戦争が終わり、部隊が解散したとき、
「3年後の3月21日(桜花初出撃の日)、靖国神社で会おう」
と約束していて、昭和23(1948)年3月21日、まだ空襲の爪痕も生々しい東京・九段に全国から約40名が参集、その後、熱海の温泉宿に場所を移して夜を徹して語り合った。1951年からは毎年、3月21日または春分の日に慰霊昇殿参拝を行うこととし、2020年、新型コロナウィルスの感染拡大によって中止された以外は出撃後80年にわたり、元隊員やその遺志を引き継いだ遺族・有志によって欠かさず開催されている。2012年の新年会で元分隊長の湯野川守正が解散を宣言したのだが、にもかかわらず元隊員や遺族たちは参拝をやめなかった。
「桜花の発案者」とされる大田正一は、最後まで桜花で出撃することなく、茨城県の神之池基地で終戦を迎えた。天皇の玉音放送から3日後の8月18日午後零時半、基地にあった零式練習戦闘機(訓練用の複座型零戦)で離陸し、そのまま行方不明になった。
桜花隊分隊長だった平野晃(大尉、戦後航空幕僚長)は、2002年、私のインタビューに、
「私は基地の近くの高松小学校に起居していたので、そこに整備員から報告がありました。大田中尉は自室の机に遺書を残し、自分で零式練習戦闘機を操縦して海のほうへ飛んでいったと。覚悟の自決飛行であることは明らかだと思いました」
と語っている。平野によれば、大田の私室はきれいに整頓され、遺書には〈東方洋上に去る〉と墨書されていた。