「俺は死ぬ係じゃないから」
すでに「特攻」が海軍の既定路線となっていた昭和19年10月、米軍のフィリピン侵攻のさい、初めて特攻隊の出撃を命じた大西瀧治郎中将は、玉音放送の翌8月16日未明、渋谷南平台の次長官舎で割腹して果てた。特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。
――だが、特攻を推進し、命じたほかの将官や参謀たちはみな、戦後自決することも身を隠すこともなく、それぞれが平穏に生き、あるいは栄達を遂げ、天寿をまっとうした。
昭和19年、海軍が特攻という戦法を採用した直接の責任者である軍令部第一部長・中澤佑少将(終戦後中将)と、第二部長・黒島亀人少将も例外ではない。黒島は、戦後、宇垣纒中将の日記「戦藻録」の一部を勝手に処分したり、海軍の機密文書を無断で焼却したり、なんらかの証拠隠滅ともみられる行動をとった。
中澤佑は、終戦直後に大西中将の自決が報じられたさい、中澤も責任を感じて自決するのではと、それとなく様子をうかがう幕僚たちを前に、
「俺は死ぬ係じゃないから」
と言い放ったのを、特攻作戦の渦中に大西中将の副官をつとめた門司親徳主計少佐がじかに聞いている。