加藤清正 Ⅱ その888
『俗説 その2』
もうひとつ俗説があります。
二条城の会見が行われた後、清正は自邸に帰り、懐中からひとふりの短刀を取り出し、鞘をはら
ってしばらく切っ先を凝視し、はらはらと涙をこぼして
加藤清正(1562-1611年)

「幸いにも、本日は故太閤殿下のご厚恩に対して万分の一の報恩をすることができた。二条城で
万一のことがあったら、ご前では無腰の見なれば、この短刀で働こうと覚悟していたが、ことな
くすんでご帰還になることができ、我々も存命することを得た。祝着この上もない」
と、従臣らに言ったということが、加藤家の重臣・庄林隼人の子で清正の近臣であった隼之助と
いう者が、後年、北条流軍学の開祖で幕府の大目付を務めたこともある北条氏長に語ったと「慶
元記」という書物にある。
これがもとで、「二条城の清正」という芝居が書かれ、先代・吉右衛門のあたり芸となったが、実
際にはなかったことです。
清正の覚悟はずっと書いてきた通りですから、懐中に短刀を秘めて秀頼に付き添っていたことは
事実かも知れませんが、帰邸して述懐したというのはウソです。
彼はずっと秀頼につききっりで、帰邸はしていないのです。
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<参考文献:海音寺潮五郎「加藤清正」>
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二条城の会見が行われた後、清正は自邸に帰り、懐中からひとふりの短刀を取り出し、鞘をはら
ってしばらく切っ先を凝視し、はらはらと涙をこぼして
加藤清正(1562-1611年)
「幸いにも、本日は故太閤殿下のご厚恩に対して万分の一の報恩をすることができた。二条城で
万一のことがあったら、ご前では無腰の見なれば、この短刀で働こうと覚悟していたが、ことな
くすんでご帰還になることができ、我々も存命することを得た。祝着この上もない」
と、従臣らに言ったということが、加藤家の重臣・庄林隼人の子で清正の近臣であった隼之助と
いう者が、後年、北条流軍学の開祖で幕府の大目付を務めたこともある北条氏長に語ったと「慶
元記」という書物にある。
これがもとで、「二条城の清正」という芝居が書かれ、先代・吉右衛門のあたり芸となったが、実
際にはなかったことです。
清正の覚悟はずっと書いてきた通りですから、懐中に短刀を秘めて秀頼に付き添っていたことは
事実かも知れませんが、帰邸して述懐したというのはウソです。
彼はずっと秀頼につききっりで、帰邸はしていないのです。
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加藤清正 Ⅱ その887
『俗説 その1』
俗説では、この饗応の際、徳川方が清正と幸長に毒饅頭を食わせたという。
それによると、徳川方からは義直の付家老である平岩親吉が両人の接待役をかって出て、自ら先
ず饅頭を食って見せて両人に勧めたので、両人ともに食べた。
平岩親吉(1542-1612年)

ほどなく、清正は発病して死ぬが、それはこれが原因となっている。
平岩自身も年末になって死に、幸長は翌々年8月に死んだということになっている。
しかし、これは信じられません。
一度服したただで、こんな風に微妙な効験を見せる毒薬は現代だってないのでしょう。
何よりも、この際の二条城では、清正は秀頼につきっきりで、秀頼から寸時も離れていないので、
毒飼いする時間もなかったでしょう。
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俗説では、この饗応の際、徳川方が清正と幸長に毒饅頭を食わせたという。
それによると、徳川方からは義直の付家老である平岩親吉が両人の接待役をかって出て、自ら先
ず饅頭を食って見せて両人に勧めたので、両人ともに食べた。
平岩親吉(1542-1612年)
ほどなく、清正は発病して死ぬが、それはこれが原因となっている。
平岩自身も年末になって死に、幸長は翌々年8月に死んだということになっている。
しかし、これは信じられません。
一度服したただで、こんな風に微妙な効験を見せる毒薬は現代だってないのでしょう。
何よりも、この際の二条城では、清正は秀頼につきっきりで、秀頼から寸時も離れていないので、
毒飼いする時間もなかったでしょう。
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加藤清正 Ⅱ その886
『会食は吸い物だけ』
秀頼はこの時やっと19歳であった。
母方の浅井家に似たのでしょう。身長は6尺に近く、色白な美男子であった。
高台院(ねね)(1549-1624年)

清正は始終、秀頼の側からはなれず守護していたが、その清正に劣っていない体格であった。
しかも、こうした挨拶のしぶりは、いかにもかしこそうに見えた。
家康の心中はどうであったでしょう。
やがて、高台院が出て来て、席につらなった。
これから始まる饗応に陪席するためである。
秀頼にとっては母同様の人である。礼儀正しくあいさつした。
饗応には、さまざまな料理が美しく出来ていたが、徳川方では秀頼方の気をかねて、それは配膳
して見せただけで、実際の食事は吸い物だけにした。
食間、いりいろ歓談がかわされたが、吸い物だけの食事がそう長く続くはじがない。
すぐ終わって、辞去することになった。
義信と頼宣とが城を出たところまで見送った。
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秀頼はこの時やっと19歳であった。
母方の浅井家に似たのでしょう。身長は6尺に近く、色白な美男子であった。
高台院(ねね)(1549-1624年)
清正は始終、秀頼の側からはなれず守護していたが、その清正に劣っていない体格であった。
しかも、こうした挨拶のしぶりは、いかにもかしこそうに見えた。
家康の心中はどうであったでしょう。
やがて、高台院が出て来て、席につらなった。
これから始まる饗応に陪席するためである。
秀頼にとっては母同様の人である。礼儀正しくあいさつした。
饗応には、さまざまな料理が美しく出来ていたが、徳川方では秀頼方の気をかねて、それは配膳
して見せただけで、実際の食事は吸い物だけにした。
食間、いりいろ歓談がかわされたが、吸い物だけの食事がそう長く続くはじがない。
すぐ終わって、辞去することになった。
義信と頼宣とが城を出たところまで見送った。
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加藤清正 Ⅱ その885
『家康と対面』
秀頼は京都に来、今や家康がいる二条城に入るところにまでになったわけだが、世間では、途方
もない騒ぎになるかも知れないとの取沙汰も行われたようである。
二条城

例えば、志摩の鳥羽の城主である九鬼守隆は、もし変事が起きたら家中全部馳せつけるようにと
布告して、家来14、5人を連れて上京したので、在京の家来で具足のない者は、夜通し人を志
摩に帰して具足をとりよせたという事実を、やはりこの頃の記録に記載している。
戦争が起こるかも知れないと世間が心配していたことがよくわかります。
「卒爾なことは決してないはず、またあらせてはならない」
と、堅く決意している清正にしても、一通りならない心労であったに相違ありません。
秀頼は二条城に入ると、家康は庭まで降りて来て迎えた。
かつては「江戸の爺」と呼んでいたのだが、、今はその地位が転倒していることを、秀頼は心得て
いる。
礼儀正しく、また丁重にあいさつした。
それから、先ず家康が座敷に上がり、秀頼がつづいた。
互いに拝礼することになっていたが、秀頼は
「今日ではそれは逆でござる。先ず大御所ご着席下さりますよう」
といって、家康を着席させた後、入って行って拝礼した。
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秀頼は京都に来、今や家康がいる二条城に入るところにまでになったわけだが、世間では、途方
もない騒ぎになるかも知れないとの取沙汰も行われたようである。
二条城
例えば、志摩の鳥羽の城主である九鬼守隆は、もし変事が起きたら家中全部馳せつけるようにと
布告して、家来14、5人を連れて上京したので、在京の家来で具足のない者は、夜通し人を志
摩に帰して具足をとりよせたという事実を、やはりこの頃の記録に記載している。
戦争が起こるかも知れないと世間が心配していたことがよくわかります。
「卒爾なことは決してないはず、またあらせてはならない」
と、堅く決意している清正にしても、一通りならない心労であったに相違ありません。
秀頼は二条城に入ると、家康は庭まで降りて来て迎えた。
かつては「江戸の爺」と呼んでいたのだが、、今はその地位が転倒していることを、秀頼は心得て
いる。
礼儀正しく、また丁重にあいさつした。
それから、先ず家康が座敷に上がり、秀頼がつづいた。
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「今日ではそれは逆でござる。先ず大御所ご着席下さりますよう」
といって、家康を着席させた後、入って行って拝礼した。
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加藤清正 Ⅱ その884
『秀頼京の地に』
秀頼は7歳の時、京都から大坂に移り、今19歳。
12年ぶりで京都の地を踏むのであった。
豊臣秀頼(1593-1615年)

京までの道筋である竹田街道はいうまでもなく、市中に入ると二条城までの堀川通りは、貴賤、老
若男女が群集して迎えた。
秀吉はその賑やかなできさくで明るい性質によって、京都の庶民らに大へん好かれた人である。
朝鮮役によって大いに人気が衰え、衰えたところで死んだが、それからもう10年以上たっている。
秀吉を慕う心はまた京都市民の胸によみがえって来ている。
「京中の男女、貴賤群衆、秀頼公を拝し奉り、涙を流し、声をあげて、諸人泣き候て云々」
と、当時の記録にあります。
19歳の青年に成長した秀頼を見て、秀頼のさかりの頃を懐かしむとともに、徳川家に天下を奪わ
れてしまったことをあわれみ悲しんだのです。
こういう群集の心理はまことに自然であり、まだ無邪気であるが、これを聞く家康の心はどうでし
ょう。
また、その家康の心理を思いやって、清正や幸長はひやりとしたものに襲われたに違いありません。
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12年ぶりで京都の地を踏むのであった。
豊臣秀頼(1593-1615年)
京までの道筋である竹田街道はいうまでもなく、市中に入ると二条城までの堀川通りは、貴賤、老
若男女が群集して迎えた。
秀吉はその賑やかなできさくで明るい性質によって、京都の庶民らに大へん好かれた人である。
朝鮮役によって大いに人気が衰え、衰えたところで死んだが、それからもう10年以上たっている。
秀吉を慕う心はまた京都市民の胸によみがえって来ている。
「京中の男女、貴賤群衆、秀頼公を拝し奉り、涙を流し、声をあげて、諸人泣き候て云々」
と、当時の記録にあります。
19歳の青年に成長した秀頼を見て、秀頼のさかりの頃を懐かしむとともに、徳川家に天下を奪わ
れてしまったことをあわれみ悲しんだのです。
こういう群集の心理はまことに自然であり、まだ無邪気であるが、これを聞く家康の心はどうでし
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また、その家康の心理を思いやって、清正や幸長はひやりとしたものに襲われたに違いありません。
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加藤清正 Ⅱ その883
『秀頼、船を降り陸路で京へ』
池田輝政と藤堂高虎も、手勢を率いて迎えに出た。
池田輝政(1565-1613年)

2人とも秀吉の世話で大大名になった人であるが、輝政は家康の娘婿になっており、高虎は大ゴマ
をすって家康に取り入り、外様大名ながら譜代同様の扱いを受けるようになっている身だから、ど
んな心で、迎えに出たかわかりません。
案外、清正や幸長が義直・頼宜を人質にとって秀頼のために不穏なことを企てることがないとも限
らないという用心であったのかも知れません。
もちろん、家康の内命を受けてのことです。
義直と頼宜が、秀頼に対面して挨拶をのべると、ここからは陸路をとることになる。
秀頼は前後左右があいた輿に乗り、その左右にほとんど輿とすれすれに清正と幸長とが徒歩で従っ
た。
2人は菖蒲革と裁着袴をはき、太い青竹の杖をついていた。
行列の先陣は両人が召し連れた家来あわせて6百人が整然たる隊列をつくり、後陣には秀頼が大坂
から召し連れた来た武士らが騎馬で続いた。
道具としては、輿の右方に薙刀ひとふりを立て、輿の後ろに素槍二筋を交差させて持たせただけで
あった。
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池田輝政(1565-1613年)
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をすって家康に取り入り、外様大名ながら譜代同様の扱いを受けるようになっている身だから、ど
んな心で、迎えに出たかわかりません。
案外、清正や幸長が義直・頼宜を人質にとって秀頼のために不穏なことを企てることがないとも限
らないという用心であったのかも知れません。
もちろん、家康の内命を受けてのことです。
義直と頼宜が、秀頼に対面して挨拶をのべると、ここからは陸路をとることになる。
秀頼は前後左右があいた輿に乗り、その左右にほとんど輿とすれすれに清正と幸長とが徒歩で従っ
た。
2人は菖蒲革と裁着袴をはき、太い青竹の杖をついていた。
行列の先陣は両人が召し連れた家来あわせて6百人が整然たる隊列をつくり、後陣には秀頼が大坂
から召し連れた来た武士らが騎馬で続いた。
道具としては、輿の右方に薙刀ひとふりを立て、輿の後ろに素槍二筋を交差させて持たせただけで
あった。
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加藤清正 Ⅱ その882
『家康のゼスチャー』
秀頼は3月27日、川船で大坂を出発、淀川をさかのぼった。
警護の人数100人は川の両岸の道を徒歩でさかのぼった。
すべて2千石、3千石どりの高級武士であるが、いずれも供侍らは召連れなかった。
あまり大人数では、家康から疑いの目をもって見られてはならないと用心したのです。
徳川義直(1601-1650年)

夜に入ってから淀に到着、その夜は船中で明かした。
夜が明けると、京都から迎えの使者として徳川義直・頼宜の兄弟が来た。
義直は12歳、頼宜は10歳であった。
義直には浅野幸長が、頼宜には清正が、それぞれ3百人の人数を率いて随従した。
義直は浅野にとっては娘婿、頼宜は清正の娘婿となるべき人だ。舅らをつきそわせた訳だが、家康
としてはここにも大いに気を使ったところであった。
豊臣家にとって最も忠誠の念の厚い2人に愛子2人を人質に渡したというゼスチャーになるのです。
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<参考文献:海音寺潮五郎「加藤清正」>
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警護の人数100人は川の両岸の道を徒歩でさかのぼった。
すべて2千石、3千石どりの高級武士であるが、いずれも供侍らは召連れなかった。
あまり大人数では、家康から疑いの目をもって見られてはならないと用心したのです。
徳川義直(1601-1650年)
夜に入ってから淀に到着、その夜は船中で明かした。
夜が明けると、京都から迎えの使者として徳川義直・頼宜の兄弟が来た。
義直は12歳、頼宜は10歳であった。
義直には浅野幸長が、頼宜には清正が、それぞれ3百人の人数を率いて随従した。
義直は浅野にとっては娘婿、頼宜は清正の娘婿となるべき人だ。舅らをつきそわせた訳だが、家康
としてはここにも大いに気を使ったところであった。
豊臣家にとって最も忠誠の念の厚い2人に愛子2人を人質に渡したというゼスチャーになるのです。
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