最期まで口を割ることはなかった
「国の上のほう」が政治家を指すなら、保科善四郎中将(衆議院議員)、中曽根康弘主計少佐(総理大臣)、鳩山威一郎主計少佐(外務大臣)など、海軍出身の政治家は戦後何人もいたが、大戦中、作戦の中枢にあって特攻作戦や桜花の開発に深い関わりがあり、大田に「ほんとうのこと」をさらけ出されると困る人物……という条件で絞り込めば、やはり源田実以外に該当者は見あたらない。
だが、源田實は平成元(1989)年に亡くなっているし、司令長官、司令官クラスの海軍の元将官も1993年までに全員が鬼籍に入っていて、1994年、大田が病床に伏した時点で遠慮すべき相手はひとりも残っていなかったようにも思える。
大田は、姿なき国家の意思、帝国海軍のまぼろしに最後まで怯え、あるいは義理立てして、息をひそめるように生きてきたのだろうか。
桜花隊員に直接出撃命令をくだした七二一空司令・岡村基春大佐は戦後、郷里の高知県で復員業務に従事しながら折々に鹿児島県を訪れ、特攻隊ゆかりの地へ慰霊の旅をしたのち、昭和23(1948)年7月13日、千葉県茂原で、各所が停電するほどの激しい雷雨のなか鉄道自殺を遂げた。実妹に宛てた遺書があったが、その動機は判然としない。かつて東南アジアで二〇二空司令をつとめていた時期の、部下による捕虜虐待事件についての証言を拒んだためだとも、神雷部隊出撃のさい、部下たちに訓示した「私もいずれあとからゆくが、この世の縁をいつまでも忘れないでくれ」との約束を果たしたのだともいわれる。おそらくその両方だったのだろう。
神雷部隊の初出撃のさい、岡村大佐の出撃延期の進言を退けた第五航空艦隊司令長官・宇垣纒中将は、玉音放送後の昭和20年8月15日夕刻、艦上爆撃機彗星11機を率い、最後の特攻隊として大分基地を飛び立った。宇垣の出撃は、天皇が国民に戦争終結を告げた玉音放送のあと、独断で命じた「私兵特攻」として、いまなお強い批判を浴びている。