神雷部隊戦友会が靖国神社に奉納した「神雷桜」。東京都の標準木のそばにある

「特攻反対論者」のイメージを創造

源田の著書がきっかけとなって、零戦の陰にかくれて無名だった紫電改という戦闘機と三四三空の活躍――のちに日米の記録を照合すると、それはほとんど幻影に近いものだったが――が一躍脚光を浴びるようになり、昭和38(1963)年1月には、三四三空の戦いを描いた東宝映画「太平洋の翼」が公開される。源田司令が劇中では「千田司令」(三船敏郎)になっているなど、登場人物は仮名で物語も大半はフィクションだが、この映画は娯楽大作として大成功をおさめた。劇中「千田司令」は、「特攻以外に戦うすべはない」とする大本営のなかでひとり反対意見を貫き、制空権を獲得して戦勢を挽回するため、歴戦の優秀な搭乗員を集めて精強な紫電改部隊を編成する。

――こうして源田は、自らが「特攻反対論者だった」というイメージを創り、一般にまで根づかせることに成功した。華麗で巧妙、かつしたたかな経歴洗浄(ロンダリング)といっていい。

1994年、最晩年の大田正一。高野山にて。大田は「横山道雄」を名乗っていた。大田はこの年12月に死去
-AD-

源田は『海軍航空隊始末記 戦闘篇』を刊行した1962年、航空自衛隊を退官し、同年7月1日の第6回参議院議員選挙通常選挙に自民党公認で全国区から出馬、得票数第5位(定員50)で当選。以後4期24年にわたって参議院議員をつとめ、自民党政調会国防部会長などを歴任した。旧統一教会とも関係が深く、昭和57(1982)年には統一教会と世界勝共連合により設立された「世界日報社」が刊行する日刊紙「世界日報」に、「風鳴り止まず」と題する回想記を329回にわたり連載。しかしここでも源田は、桜花のことにも、自身が特攻に深く関与したことにもひと言も触れていない(産経新聞社から刊行された単行本には特攻のくだりは入っていない)。

1994年、大田が亡くなる3ヵ月前、息子の大屋隆司に、

「いまさらほんとうのことは言えんのや。国の上のほうで困るやつがおるからな」 

と言っている。この言葉が指す人物は誰か。

関連タグ

関連記事