神雷部隊戦友会が靖国神社に奉納した「神雷桜」。東京都の標準木のそばにある

源田が特攻隊員を出さなかった理由

源田は、直接の部下である三四三空の搭乗員からは誰ひとりとして特攻隊員を出さなかった。このことについて、源田を補佐する三四三空飛行長だった志賀淑雄(元少佐)が平成8(1996)年、私に語ったこんなエピソードがある。

「沖縄戦がはじまり、三四三空の主力が大村基地(長崎県)に進出していた昭和二十年四月下旬のことです。源田司令が考えごとをしている様子なので、さてはうちにも特攻の要請がきたかと思い、『司令、なにかあったんじゃないですか? 特攻出せって言ってきたんでしょう』と訊ねました。司令は『うん』と答えたきり、私が『どうするんですか』と重ねて訊いても返事がない。 

私は、特攻にははじめから反対でした。指揮官として絶対にやっちゃいけない。上に立つ者が行かずに、部下にお前ら死んでこい、というのは命令の域じゃないですよ。行くのなら長官や司令みずから行け、と。だから私は司令に、 

『わかりました。もしそれしか戦う方法がないのなら、まず私が、隊長、分隊長、兵学校出の士官をつれて行って必ず敵空母にぶち当たってみせます。最後には司令も行ってくださいますね? 予備士官や予科練出身の若いのは絶対に出しちゃいけませんよ』 

と申し上げたんです。ほんとうは私も行きたくないけど、どうしてもというなら仕方がない。司令は『よし、わかった』――その後、この話は立ち消えになったようで、それきりなにも言ってきませんでした」 

2012年1月、元桜花隊分隊長・湯野川守正氏は神雷部隊戦友会の解散を宣言したが、戦友や遺族、有志による慰霊祭はいまも続けられている
-AD-

源田にとって、軍令部で航空特攻を推進し、桜花の開発実現に尽力したという事実は、できれば消してしまいたい「汚点」だったにちがいない。戦後、航空自衛隊の制服組トップである航空幕僚長となった源田は、在職中、『海軍航空隊始末記 発進篇』(1961年・文藝春秋新社)、先に引用した『海軍航空隊始末記 戦闘篇』(1962年・同)と、自らの体験をもとにした海軍航空隊の通史ともよべる2冊の本を続けて出版した。だが源田は、これらの本のなかで、特攻や桜花についてはひと言も触れておらず、力を入れているのは真珠湾攻撃の成功とミッドウェーの失敗、そして三四三空に関する記述である。

関連タグ

関連記事

(cache)別人として生きていることを余儀なくされた「人間爆弾・桜花の発案者」の生涯とは対照的な「官僚軍人たちの戦後の生き方」(神立 尚紀) - 7ページ目 | 現代ビジネス | 講談社