「源田実」という人物
湯野川は頭脳明晰、いかにも切れ者といったタイプで、普段からつい口が滑ったり、不用意なことを言うような人ではない。インタビューにも誠実に、かつ歯切れよく答えるのがつねである。その湯野川がこんなふうに言葉を濁したのは、あとにも先にもこのときだけだった。
湯野川とはその後も10年にわたって何度も会い、その都度長い話をしたが、こと大田正一についてはひと言も語ることがなかった。
湯野川がふと漏らした「源田さん」とは、言うまでもなく源田実大佐のことであろう。
源田は軍令部参謀として航空特攻を推し進め、桜花の開発決定にも深く関与した。そのことに疑問の余地はない。そもそも、先に述べたように大田正一は兵隊上がりのノンキャリアにすぎず、大田のアイディアがそのまま海軍の方針になることはあり得ない。その開発を軍令部で推進したのが源田中佐、航空本部で担当したのが伊藤佑満中佐だった。そして源田は、航空特攻が軌道に乗り、いよいよフィリピン戦線も危うくなった昭和20年1月、自らが提唱した戦闘機部隊・第三四三海軍航空隊の司令となった。三四三空は、新鋭戦闘機・紫電改で編成された精鋭部隊である。
じつのところ、参謀としての源田は、昭和17(1942)年6月のミッドウェー海戦で自らの判断ミスで主力空母4隻を一挙に失ったのをはじめ、昭和19(1944)年10月の台湾沖航空戦では「敵空母の発着艦ができない台風の荒天を利用して攻撃をかける」という実現不能なアイディアをもとに敵機動部隊攻撃を強行、ほとんど戦果を挙げられないまま味方の航空兵力を壊滅状態にしたことなど、致命的な失点続きであった。三四三空は、源田自身が著書『海軍航空隊始末記 戦闘篇』(文藝春秋新社)のなかで、
〈精強な部隊を率いて、思う存分に暴れ廻り、冥途の土産としたい。〉
と書いている通り、これまでの失敗を帳消しにし、最後のひと花を咲かせる格好の舞台でもあった。