高度経済成長と重なった長嶋選手の活躍
プロ野球・読売ジャイアンツ(巨人軍)の選手や監督として活躍し、「ミスタープロ野球」と呼ばれた長嶋茂雄・巨人軍終身名誉監督が6月3日、89歳で死去しました。
長嶋さんは巨人軍の中心選手として9年連続日本一に貢献しました。思いっきりバットを振る打撃や躍動感あふれる華麗な守備でファンを魅了しました。ホームラン数や安打数などの記録がとびぬけているわけではありませんが、かっこいいプレーと明るい人柄によって、その人気は突出していました。
活躍したのは、日本が高度経済成長を遂げる時代と重なります。人びとは「今日より明日はよくなる」という明るい未来を信じながら、明るさを感じる長嶋さんに感情移入していったのだと思います。高度経済成長時代の日本を象徴する大スターだったと言えます。
今回は長嶋さんが活躍した時代に沿って、戦後の日本の歩みを紹介しようと思います。
「もはや戦後ではない」は1956年の経済白書にある言葉です。45年に日本は太平洋戦争に敗れ、終戦となりましたが、その後朝鮮戦争(50~53年)の特需もあって経済が急速に回復し、神武景気(54~57年)と呼ばれる空前の好景気がやってきます。「もはや戦後ではない」という言葉は神武景気のさなかに書かれたもので、焼け跡の貧しさから抜け出したことを政府が宣言したものとして歴史に残っています。
この56年、長嶋さんは立教大学の3年生で、東京六大学リーグで首位打者になったり、三塁手でベストナインに選ばれたりしています。このころの東京六大学野球の人気は高く、長嶋さんはすでに有名なプレーヤーでした。そして翌57年には六大学リーグの当時の通算本塁打記録となる8本塁打を打ち、プロ野球で争奪戦が起こる選手になりました。58年に巨人に入団し、新人で本塁打王と打点王の2冠を獲得しました。59年には昭和天皇が観戦する天覧試合でサヨナラ本塁打を放ちました。こうしてあっという間にプロ野球の大スターになったのです。
60年の日本は日米安全保障条約の改定問題で賛成と反対に分かれて大きく揺れていました。岸信介首相は条約改定にこぎつけて退陣し、あとを受けた池田勇人首相は、国民所得倍増計画を掲げました。政治闘争に疲れた国民を経済政策でいやそうとしたのです。
計画は10年以内に国民所得を倍にして、西ヨーロッパの国と同じような生活水準にするというものでした。ちょうど戦後のベビーブームによって誕生した若者がまもなく労働力として社会に出ようとしていた時期でした。また、安保条約や日本国憲法などにより軍備に大きなお金をかける必要はなく、経済政策にほぼ専念できる状況でした。所得倍増計画は、最初は夢のような計画と受け止められましたが、実際には約7年で達成されました。経済成長の勢いが強いため、高度経済成長と呼ばれるようになりました。
所得倍増計画が達成された後も、高度経済成長は続き、終止符が打たれたのは、73年秋の第1次石油危機(オイルショック)によってでした。日本経済は74年に戦後初めてのマイナス成長になり、これを契機に低成長時代に入ります。