研究ノート:ジャン・ジャック・ルソー『エミール』を読む
「捨てる」と「拾う」との共時的社会の中のルソーの「子捨て」と『エミール』
はじめに
J.J.ルソー『エミール』は教育界で必読書とされている。同書によって拓かれた教育事実がおびただしいものであることからも、そして教育を考えるものならばその開拓事実をさらに継承発展させていく義務を負うことからも、必読書である地位は揺るぎないものである。ただ、そうした開拓・継承・発展過程を持ちつつ、その一方で『エミール』にルソー自身がかなりの「制約」(舞台設定)を与えていることも事実であり、その事実を看過することができない立場からすると批判的にならざるを得ないわけである。私は『エミール』をあげつらって批判する立場ではないことを前置きしておき、とりあえず「制約」の問題について箇条書き的に整理してみたい。
制約の中の『エミール』
(1)男子教育と女子教育とを歴然と区分しており、女子は男子に従順で奉仕するように育てられなければならない。標語的に言えば「女子差別の書がなぜ人間解放の書なのだ」と言うことになるだろう。
この問題についてはもっともよく知られていることである。男性に従順な女子の教育を説く書という読み方もできるし、そこで描かれる男性とは女子を従順なものとしてみなし、実践できる主体という意味において、この従属関係の中で生きる男性もまた人間としては十分な存在としてあるはずはないという、ともに不完全で差別的な人間の形成の書である、という批判にも行きつく。
(2)「私は、病弱な子どもなら、・・・引き受けはしないだろう。いつになっても彼自身にも他の人間にとっても無用の長物であり、・・」とあるように、病弱者や障害者は教育の対象から除外している。標語的には同じく「障害者差別の書がなぜ人間解放の書なのだ」ということになる。
この問題も性差に続く重要な「制約」である。今日で言うところの健常者のみを教育対象としているという点で、『エミール』は発達を論じている書だというにもかかわらず、教育の対象たる「発達」主体から障害者が除かれているという点で、障害者差別教育の書である、という批判にも行きつく。
(3)「エミール」というのは貴族もしくは台頭しつつあったブルジョアジーの子どもであり[1]、ルソー自身がその子どもの家庭教師を引き受ける、というストーリーで描かれる。家庭教師は、できるなら、子どもが生まれる前から雇った方がいいという。このことから『エミール』が教育一般書ではないことが指摘される。
つまり、彼は、当時なされていた組織的教育(学校)に対する創造的提言をしているわけではなく、あくまでも家庭教育論なのである。彼は寄宿学校(コレージュ)、修道院、学院といった当時の、貴族やブルジョアジー子弟の組織的教育に対してきわめて批判的であった。貴族やブルジョアジーの家庭教育のあり方に問題を感じたからこそ「貧乏人には教育は不必要である」と言い家庭教育改革のための提言を書くとしたなら、その一方で貴族やブルジョアジーの子弟が通っていた寄宿学校など組織的な教育に対する改革提言を書いても良さそうなものだと思ってしまう。とにかく彼には組織的教育は罵倒するものでしかなかった。標語的には「社会的営みとしての組織的教育を否定する教育論がなぜ近代教育の開拓の書なのか」となる。
(4)「子どもが生まれたその時から教育が始まる」とルソーは言う。もちろんここには父親が子どもを「養育」する義務も含まれるのだが[2]、具体的直接的には「新生児には乳母が必要である」ことからルソーは教育を論じている。彼の言う「乳母」とは二通り考えられ、一つは「もし母親がその義務を果たすことに同意するならば、結構なことだ」、二つは「もし母親とは別の乳母が私たちに必要なのであれば、まず第一に善い乳母を選ぶことにしよう」ということである。「乳母」に関することは後に触れるので、ここでは「母親」がその母乳をその乳児に与える、ということに限って、問題とされたことを挙げておこう。「まさに、女性を家庭に閉じこめることこそ近代ブルジョア社会への道を開くものであり、全人類の解放から遠のくことになった」のだ。
『エミール』が、焚書事件などがあったにもかかわらず、貴族やブルジョア達の間で読まれ、それまで「乳母」に預けていたそれらの階級の間で、直接我が母乳を与えること、すなわち母親による育児が大流行したという。この「家庭教育」説[3]はフランス社会に大きな影響を与える。というのも、ようやく女性の社会進出が芽生え始めていた時期であったことに対して「歯止め」をかけるような政治が誕生するようになる。フランス大革命期の恐怖政治下で多くの人がギロチンにかけられたり投獄されたりしているが、その中に女性の社会進出を自らが勧めたり、暗躍したり、論説を張ったりしたことを理由とされているものがある。「女性と女性市民のための権利宣言」を執筆したオランプ・ドゥ・グージュはギロチン台に消えたし、女性の政治参加を認めたコンドルセは投獄され獄中で自死した。つまり、女性による家庭での子育ての主張は女性の人間としての自立とは真っ向から矛盾するものとして捉えられたわけである。近代国家システムを強固にしたナポレオンI世もまた『エミール』をこよなく愛読し、女性の社会参加の道を究めて細くした。つまり、近代化の始まりと同時に女性は家庭の中に閉じこめられたわけである。ルソーは近代化の思想的理論的な端緒を拓いたと評価されるが、その一方で、女性を社会から遠ざける論として『エミール』が読まれたわけである。
(5)ルソーが自らの子どもを捨てたことが『エミール』を執筆させた動機だと言われている。この説に従えば、同書は、自らの「子捨て」行為に対する懺悔の書としての性格も有している。確かにルソーは『エミール』の中で「長いあいだ自分の過失の上に苦い涙を注ぎ、だからと言ってけっして慰められることはないだろう」と、「父親の義務」を果たせない者に「予言」しているが、明らかにこれは自責の言葉である。
ルソーの論敵ヴォルテールはルソーと同じようにフランス近代の魁であるが、彼は『エミール』を「子捨てをした者が子育ての書を書いた!」とスキャンダラスに揶揄している。ヴォルテールに限らず、そして今度はスキャンダラスにではなく、私の目の前の物知り顔の女子学生達がヴォルテールと同じことを言う。200年変わることのない「子捨て」攻撃である。
『エミール』を共時的社会の中で読む、ということ
J.J.ルソーは偉大な思想家であり文筆家である。また音楽家(作曲家)でもある。だが、それ以外に彼には何があったろうか?
たとえば、「エミール」の家庭教師は作者であるルソーである。彼は家庭教師をして日銭を稼いだこともある。だが、その家庭教師であった実在のルソーは自らの家庭教師ぶりをうまくいったと捉えていたのだろうか?これはむしろ否定的であった。つまり、実在の家庭教師・ルソーは描かれず、仮想現実の家庭教師・ルソーが描かれたのである。この比喩的表現の中に私のすべてのルソー像があるのだが、これでは不十分きわまりない。そこで、「共時的社会」という概念を登場させて考えてみたい。つまり、生活者ルソー像である。
私たちは、いや私は、いつしか『エミール』を「すばらしい教育の書、原典である」という形容の中にルソーの人間像をステレオ・タイプ視してしまっている。すなわち、フランス革命を起爆させた(この時のフランス革命というのも絶対視してしまっているのだが)、かのパンテオンに合祀されている偉大な人物(この時のパンテオンというのも絶対視してしまっているのだが)などなど、確かにそれは事実であろうが、ルソーが生きていた時代のことではない。ルソーが生きている時代の中でルソーを見ず、「後の時代」から、その「後の時代」を説明するためにルソーの言説を借用しているのである。今やこの説明の仕方は、ルソーの全的批判(むしろ否定)をも呼んでいる。
ルソーは大変上昇志向の強い貧乏インテリゲンチャであった。近代入り口前後のフランス社会の青年で、上昇志向が強い者の「生き方」とはどのようなものであったのか、少なくとも、その「平均像」だけでも知った上でないと、ルソーを理解することはできないだろう。ルソーが恋愛をした、あるいは好意を寄せた、あるいは「世話を受けた」対象は、「○○夫人」とついているのが多い。そしてその「夫人」は貴族ないしは貴族的生活をしている人たちだ。そして、その一方で、ルソーはどちらかというと下層階級に属するテレーズと同衾生活をする。結婚する意思は毛頭ない。・・・何ともはや、今日の我々からすると、その女性関係において、<とんでもないくわせ者>・ルソーである。しかし、これが、上昇志向を満たそうとした若者達の、平均像だったとしたら、ルソーも「時代の人」であることが証明されるわけである。つまり、社会総体がそうした「意志」を持ち「実践」をしていた、それに支えられてルソーはいのちと思想とを紡いでいた。その時代をくぐり抜けて一気に今日的な意味での倫理観と道徳とを身につけている人がいたならば、お目にかかりたい。いや、ご教示願いたい。ルソーも、彼のすべてが後の時代を「予言」したのではなく、彼のごく一部が「予言」したにしか過ぎない。そのような構え(「制限」)で『エミール』を読むと、前述の「制約」はルソーに固有のものではなく、フランス社会の「制約」であることが分かるのである。つまり、ルソーは共時的社会の中の一人として、いのちを育み思想を錬磨していた、ということである。そのことがルソーの歴史的存在意義を少しも低めることにはならないのだ。いや、低めることがあってはならないと、私は思う。
一時的に「遺産」を手にすることがあったにせよ、ルソーは、概して貧困者であった。借金をこしらえ、「夫人」達に援助を得ることによって、いのちを保ち、思想を膨らませていた。それ以外に彼は何の能力もなかったといえば、言い過ぎだろうか。そのようなルソーの同衾相手テレーズが懐妊した。結婚する気はないが子どもを作った。このことを責めるのか?今の私たちの感覚で。もちろん結婚制度があるわけだし、ルソーもテレーズも未婚者であるわけだから、結婚することが望ましいという声もあるだろう。ただ、それがその時代の絶対的倫理観であったのかどうなのかという検証も必要だろう。厳格なカトリック社会であるにもかかわらず(あるいはそのせいかもしれないが)、婚姻外で生まれる子どもの数はかなり多い。避妊・中絶が許されない教義の中で、「性に激しい」(ルソー『エミール』の青年期論による)若者たちの間で、あるいは貧困故に文化・文明に接することが十分でなかった男女の間で、婚姻外妊娠・出産があること自体、何ら不思議なことではない。さらには、上昇志向の青年と、「愛人」を持つことを一種のステータスと考えていた上流社会の女性-そのこと自体は「姦通罪」という名で制度的には厳しく罰せられたのであるが-との間でもそうだろう。そうした、まだまだ近代的に整備されていない社会の中の一人の青年・ルソー、生活者ルソーを捉えることは、けっしてルソーの思想の偉大さをゆがめるものでもない。ルソーに同化するのではなく、いかにルソーを批判的に継承・発展していくか、それが先哲に対する敬愛の証しである。
ルソーの「子捨て」について
ルソーの「子捨て」は次のようである。(白水社『ルソー全集別巻』「ジャン・ジャック・ルソー伝」より)
1746年 第1子誕生 産婆が直ちに孤児院に預ける。ルソー不在中
1748年 第2子誕生。孤児院に預ける。
1751年 第3子誕生。孤児院に預ける。
1752年 この年から55年にかけて第4子、第5子誕生。孤児院に預けられたという。
ルソーの「子捨て」はルソー自身が『告白』で述べているのであり、その時々に彼が記録に残しているのでもなければ、公式な記録簿に掲載されているわけではない。従って、『告白』に述べられていることを「事実」とする、という仮説のもとに論理が出発する。
この「孤児院」とはどこのことだろう。「孤児院」とは、「保護」と「養護」との機能を備えているところ、という意味だろう。「保護」に関して言えば、18世紀中葉のパリに限定すると、ノートルダム広場の棄児院とトルソー広場の棄児院とが存在していた。当時「捨て子」は「棄児院」に直接「持ち込まれる」ばかりではなく、教会の階段であったり(かの「百科全書」のタランベールは教会の階段に「捨て」られた子どもであった)、街中であった。「捨て子」は習俗化されていたとはいえ、やはり、「棄児院」に直接持ち込むことははばかられたとみえる。19世紀に入って棄児院(「施療院」という総合救済施設の一部門)の入り口に子どもを「捨てる」ための回転戸棚式窓口が取り付けられる。これは、教会の階段や路上の「捨て子」は新生児にとってはあまりにも危険すぎることからの配慮でもあろうし、「棄児院」の役人との直接の接触を避けることの配慮でもあろう。パリのような大都市ではこうした施設が整っていたが、そうではない田舎ではどうだったのだろうか。今の私にそれを解読する能力は整っていないが、それでも一枚のリトグラフがヒントを与えてくれる。町はずれ(宗教的共同体=パロワスの入り口)にはたいてい十字架が立てられていた。その十字架のふもとは芝生の小山になっている。私が所持するリトグラフは、その芝生の小山に、一人の女が幼児を捨てているところを描いている。頭からすっぽり黒服を被っている様は宗教者を装っているものと思われる。目は人目を怖れているように描かれている。それは「罪の意識」からかどうかは分からない。地方都市の教会には「施療院」施設のようなものが具備されていたと思われる。病人が出ない地域はないし、棄民をしない地域もないからである。十字架の下に「捨て」ること=教会の階段に捨てること、に、通じはしないだろうか?
ルソーが我が子を「捨て」た当時、どれほどの「捨て子」があったのだろうか。18世紀という時代、フランスは近代を準備する時代でもあり、道徳や倫理の移行期の雰囲気を醸し出していたと言われる。「捨て子」が前世紀に比べて飛躍的に多くなるが、それは、先に述べたような非婚出産が急増したことと無関係ではない。あとで述べるが、乳母制度との絡みで「捨て」られた子どもに加えて、望まれずして生まれた子どもが登場し始めるのである。ルソー研究者ジャン・ゲーノは、1745年から1766年まで捨て子は3,233人から5,604人、という数字を紹介している。パリでは、全出生児中捨て子の割合が三分の一を超えていた、という驚くべき事実を示している。これを見ても分かるように、ルソーの「捨て子」は彼に固有の問題ではなかったのだ。フランス社会の「習俗」と言ってもいいほどであり、今日の目から見れば、まさに「恥部」である。
「捨て」られた子どもはどうなるのだろう?サルペトリエール施療院は捨て子を4歳まで預かっている(育てている)。それから先は具体性に乏しい「調査」段階なので充分に確信を持って言えないが、保護施設(棄児院)から出た(出された)子どもは養護施設に預けられた。養護施設は数多かったようである。ただ、養護施設は5、6歳の子どもを預かったと言われる。7歳になったら子どもたちは手仕事の見習に出されたのである。なお、この児童労働に対する保護政策がとられはじめるのは、じつに19世紀中葉、1841年のことである。「子どもの労働に関する法律」によって、7歳以下の子どもの労働が禁止され、8歳から12歳までが8時間、12歳から16歳までが12時間の労働時間の制限が設けられた。13歳以下の夜間労働(夜9時から朝5時まで)が禁止された。これでさえ過酷な状況下に置かれているわけだから、制限が設けられる以前の子どもの労働実態がどれほどに過酷であったかは、推測にかたくない。
このように見ると、一口にルソーが「捨て子をした」と言い、その先が「孤児院」(あくまでも訳語だが)と言われているが、フランス社会の当時の「決まり」では「棄児院」であったことが分かる。そして、第1子の場合について見れば、産婆が直接そこの役人に預けたというから、異例な「捨て子」であったということも付言しておかなければならない。もっともこのことはルソーがあずかり知らぬことであり、彼はただ、見ざる・聞かざる・言わざるを決め込んでいた。つまり「子捨て」の意志決定には直接関わらずにいた、ということである。おそらく、これもまた、当時の「夫」「父親」の常態であったのだろう。つまり、「子捨て」は「女の仕事」のうちであったし、ルソーはそれを受け入れていた、ということである。
「乳母制度」について
先に触れたように、ルソーは『エミール』の中で、自身が「父親の義務」を果たさなかったことを悔いている。このことを念頭に置くと、「子ども」にとって最低必要な保育・養育者は、父そして母あるいは乳母、そして家庭教師だと、ルソーは考えていたということになる。母親による授乳にウェイトが置かれていることによって、当時、夫の社会活動の舞台裏を支えていた妻たちがそうした社交界から姿を消すようにしむけるというベクトルが働くこととなる。革命期の恐怖政治でギロチン台に上らされた幾人かの女性が、社交界で活躍していたことに対し、良序・秩序に反する、という理由がつけられたことに繋がる問題である。すなわち、「女よ、家庭に帰れ」ということである。
さて、子どもに「母乳」を授けるのは必ずしも母親に限らない。「善い母乳」を出す「乳母」も、ルソーは勧めている。これこそ、フランス社会の伝統的、習慣的な子育てのシステムである。ルソーがそこに矛盾を感じていたとは思われない。だから、「乳母」システムについて考えてみる必要があるだろう。
「乳母」には二種類ある。「乳母を雇う」のと「乳母に預ける」のとだ。「エミール」の場合には「雇われ乳母」が考えられている。この場合だと、「エミール」の両親は、誕生からのプロセスに寄り添うことになる。それに対して「乳母に預ける」場合には、両親の手許から一定期間(授乳期間)子どもを手放すことになる。ルソーはこのことは認めていないと見るべきだろう。習慣・風俗のうちその一端を、彼は採り入れなかったということである。結局、子どもは両親のもとで養育されるべきである、というルソーの子育て観を見ることができる。文学『ヴォバリー夫人』には夫人が「乳母に預けた我が子」に会いに行く場面が描かれているが、ルソーに言わせれば、このような子育ては認められないというわけである。「母親よ、我が家で、子どもを育てなさい。」と。
「乳母」がフランス社会の習慣・風俗であった、と述べた。一体どれぐらいの子どもが「乳母」によって育てられていたのだろうか。どのような階層が「乳母」制度を利用していたのだろうか。18世紀の資料を所有していないので、後の時代のことから推測するしかない。『エミール』が教養階層の間で大流行し、なおかつ政策的に「母親よ、家庭に帰れ」とされた時代を経た19世紀中葉での統計で、パリの場合、出生した子ども53,000人のうち20,000人から25,000人が乳母によって「母乳」を与えられていた、とある(ファニー・ファイ=サロアの研究による)。驚くべき数字ではないか。この子どもの数を見ても、その親の階級が元貴族やブルジョアジーといった上流階級に限られていたのではないことは容易に推察される。端的に言って、「乳母を雇う、乳母に預けるのは当たり前」なのである。授乳を「放棄する」母親たちは、多くの場合、それぞれ労働に与していた(社会参加していた)のであって、けっして、階級的見栄や欲望から来る「子育て放棄」ではなかったということを、押さえておかなければならない。母親が授乳をするということは、その期間は、社会参加の機会が奪われる、もしくはきわめて減少することに繋がる。『エミール』は女性の社会参加の機会を奪った、ということも、あながち虚言ではないのである。同書には、母親の労働の間に、子どもが紐で結わえられ、動きを不自由にさせられていることを、責めている場面がある。しかし、現実は、女性の労働力をあてにする(たとえそれが搾取対象であり、あるいは夫を「支える」脇役的なものであるにせよ)社会の中にあっては、「女性よ、家庭に帰れ」とはいかなかったのが実態であった。
「乳母」そのものに目線を当ててみることにしよう。
私など凡俗は、左の乳房に我が子を、右の乳房にはご主人様のお子様を、などとイメージしてしまう。果たしてそうなのだろうか。
乳母はれっきとした職業である。乳母斡旋所という仲介機関も存在する。中世に遡って確認することができる機関である。もちろん、仲介機関を通さないプライベートな乳母もいたが、それはもっぱら「雇われ乳母」(住み込み乳母)であった。いずれにしても左右両方の乳房を違った子どもにあてがうということは忌避されていた。つまり、乳母はその両の乳房をただ一人の乳児のためにしか、捧げることができなかったのだ。この事実はしっかりと確認しておかなければならない。というのは、それでは、その乳母の子どもは一体誰が授乳したのか?という問いを引き出すことに繋がるからである。そして、乳母はわが子と頻繁に会うことができたのだろうか、という問いにも繋がっていく。つまり、『エミール』に即して、「善い母乳」を出す「乳母」を選択したとしたら、その乳母は当然住み込みである。「エミール」家には「乳母」の子どもも同居することになるのだろうか?同居しないとしたら「乳母」はわが子に会うためにしばしば「エミール」のもとから離れたのだろうか?それはいずれもノーという回答を用意しなければならない。ルソーがそれを描いていないから、という理由ではない。それでは「乳母」の意味がないからである。
「乳母」は、自分の子どもを自らの母乳で育てることができなかった。乳母がわが子に会いたくなってしばしば雇い主の下から姿を消す、という事態も想定されるから、それを避けるために、乳母の子どもは、はるか遠くの地方に「預け」られた。その預け先は、やはり「乳母」であることが多かったようだが・・・・・。「子捨て」はこうして存在し続けるわけである。
残念ながら、ルソーは自らの父親の義務を果たすことができなかったことを悔いてはいるが、乳母システムの持つ「子捨て」の必然性についてまでは言及することができなかった。ルソーの意識内にある共時性がそうさせたのだろう。
「捨てる」と「拾う」の共時的社会
いとも簡単に子捨てをする社会。フランスは文明社会として私たちには強く印象づけられているが、なかなかどうして、少なくとも「子捨て」という行動の側面からだけ見ると、失礼ながら、じつに野蛮な社会だと言っても過言ではない実態である。もちろん、人類社会ある限り、その社会構造から「棄児」は生み出されてきたし、生み出されている。冷めたいい方であるが、人間社会である限り、「個人」を社会の基礎単位をしないところでは、「棄児」は社会的必然である。我が国では「間引き」という言葉でそれが語られてきた。ルソーに倣って「告白」をするならば、私は、幼児期には、つねに「間引き」の「候補」として縁者から見られていたそうだ。「おしでつんぼでいざり」という「差別用語」のオンパレードで語られる育ちであった私は、棄児ならぬ「間引き」という生命抹消による不在証明の危機に晒されていた。「間引き」は生命再生の可能性をほとんど感じることができない棄児行為である。果たして、フランス社会の伝統的な「子捨て」は「間引き」のような棄児行為であったのだろうか?「乳母」は、自身の子どもを「間引き」することによって、母乳をお金に換えた、それしか「家族」が生きる道はなかったのだろうか?
すでにお分かりのように、「教会」や「施療院」などの施設が「捨て子」を「拾う」そして「養う」ことをするのが、フランス社会の伝統である。「捨て子」行為に伴う事故(たとえば、野犬に襲われるなど)はあっただろうけれど、原則は、社会の意志で「拾い」「育てる」ところにあった。ルソーの時代も、もちろん、そうである。我が手から子どもを離すけれども、社会の手からは子どもは離さない、そういう社会システムが存在していたことを、私たちは何よりも理解しなければならないだろう。「日本社会は共同体で子育てをした」という。それと同時に語られなければならないのは「日本社会は共同体で間引きをした」ということも語られなければならない。フランス社会に置き換えてみると、「フランス社会は親が子捨てをした」、そして「フランス社会は共同体が子どもを拾い、育てた」のである。それぞれの社会の「習俗」は、事実として、受け止めなければならない。
ルソーはその習俗の人でもあった、ということも語られなければならないだろう。時代を超越した生き方はしていなかったのがルソーの実像である。『エミール』にはそういった「制限」が色濃く反映されている。
ただ、補足的に、述べておかなければならないことがある。それは6歳までは「共同体が子どもを拾い、育てた」としても、先に児童労働のことで示したように、6歳を超えると、子どもは自力で日常生活を生きていかなければならなかった。キリスト教世界に共通であったであろう「共同体による子育て」は、7歳以上の子どもには適用されていない。このことは、ペスタロッチのシュタンツの孤児院の実践で、私たち教育界の者は、常識的につかみ得ている。7歳以上の子どもの「子捨て」の方が、本当は、問題が多いのかもしれない。あらゆる庇護から見放された「孤児」の問題は、キリスト教世界の長い間の桎梏となっていたはずである。先に「子捨て」されたダランベールの例を挙げたが、そのことによって私は、「子捨て」を擁護したつもりはない。むしろ、ルソーの5人の棄てられた子どもの行方が遙として知れないことの方が、大きな歴史的課題を投げかけている。私の近年の研究課題パリ・コミューンからこの問題事例を紹介してこの項を結びたい。パリ・コミューンによって政府に逮捕され裁判にかけられた子どもが651人いる。年齢は7歳から16歳までである。当時の「常識的な」子どもの年齢は14歳までであるので、その数を数えたら、全体の三分の一に及ぶ。また、全体のうち128人が孤児または浮浪児であったこと、全体のうち教育をまったく受けていない子どもが224名に及んでいたことが政府に報告されている(『1871年3月18日の反乱に関する調査報告書』1872年、より)。普仏戦争下にあったことも数字を大きくしているけれども、共同体の子育て機能が充分ではないことの証しでもあろう。
つまり、乳幼児に対する共同体の「子育て」機能は不十分であったにせよ整えられていたけれども、少年期の「子育て」機能は、不十分であったし、そのことが少年期の大きな不幸を招いていたという事実があることを、看過できないのである。
『エミール』が共時的社会から突き抜けたもの
この項のテーマに関して、前述したことで言えば、母親による授乳を基軸とすることによって生まれる「近代家族形態」を生み出したことが挙げられるだろう。我が日本では福沢諭吉もそうである。ルソーに即して言えば、父親も子どもの養育に参加する義務があるが、それは「人類に対しては人間を、社会に対しては社会的人間を、国家に対しては市民を育てる義務」であり、母親はその義務を持たない。父親が義務を果たすことを容易にする「援助者」である。封建的な性差別から近代的な性差別が生まれるゆえんである。
ところで、ルソーは、『エミール』の序の冒頭で、「この本は、さまざまの省察や観察を、秩序もまたほとんど脈略もなしに集めたもの」と書いている。私が注目したいのは「観察」という言葉なのである。教育に関する架空小説、と学生時代に教わったことが心の奥深くに住みついていたためだろうか、私はこの言葉の存在を重要視することはなかった。しかし、ルソーを共時的社会でとらえ直すようになってから、この言葉の重みを強く感じている。「教育に関する架空小説」という言葉からは「この本に書かれていることがらは事実ではない、もしくは実在しない」という印象を強くさせられ、「観察」という言葉からは「事実もしくは実在を対象化している」という印象を強くさせられる。二つの印象の間には深い溝がある。この溝を埋めることが、私の、近年の『エミール』理解の課題となっていた。共時性についての記述は、この溝を埋める作業の一つの未熟な到達である。
ルソーが「観察」した共時性で、それこそ薄皮を剥ぐように知ることになる事実に、たじろぐ私がいる。それは、たとえば、ルソーが障害者は教育の対象でないとしていることに関わることである。フランス社会は、ほぼ近代の入り口まで、教育の対象をきわめて限定していた、という事実がある。つまり、障害者の多くはフランス社会が教育のらち外に置いていたのである。「施療」はするけれども「教育」はしない。そのことは、教育が社会化・文化化の営みであると規定する私からすれば、障害者の多くは社会化・文化化の対象とされていなかったというフランス社会の習俗下に置かれていた、ということである。だから、習俗的共時性に生きる側面のルソーが障害者を教育の対象から外すとしたことは、前述の論理からすれば、何ら不思議ではない。
それでは、彼は、彼が描いた教育は、どのような「観察」の結果生まれたのであろうか。全くの絵空事であったのだろうか。
ルソーの時代、障害者のうちでも、聾唖者に対する教育可能性が追究され、成果をあげ、そして「施療院」ではなく「学校」が設立されていた、という事実がある。偶然か必然かまでは私は理解していないけれども、ルソーは聾唖教育の開拓者ヤコブ・ロドリゲス・ペレールと親しく交流をしている。ペレールの伝記を書いたエドアール・セガンが次のように書いている。
「ペレールはこれらの問題を聾唖者に対して、すべてのわれわれの感覚がどこかで一致していることを実証することによって余すところなく解決しようとしていた頃、彼はJ.J.ルソーと交際していたのである。二人はルウ・ドゥ・ラ・ブラティエール[4]で互いに近くに住んでいたのであり、・・・。ペレールはその通りに10人ないし15人の聾唖者を収容する学校を開設していた。そしてルソーはいつも親しく、隣人らしい態度で入ってきたものである。」(『障害児の教育と治療』より)
また、“MAGASIN PITTORESQUE”誌の1876年版ではヤコブ・ロドリゲス・ペレールの聾唖教育に関する百科全書派の強い関心ぶりが示された記述が次のようになされている(p.280)。
「聾唖者をしゃべらせるこの(ペレールの)技術は非常に新しいものであった。・・・(中略)・・・J.-J.ルソー、ラ・コンダマン、ダランベール、ディドロは強い関心を持ってペレールの授業を参観した。」(下線は引用者)
間違いなくルソーは、聾唖者という障害者に対する「教育」の様子を見、教育の可能性を、すなわち社会化・文化化の可能性を観察していた。ちなみにディドロは『百科全書』に「ペレール、スペイン生まれ。彼の方法はまさに天分によるものだ。彼の成功は科学アカデミーの歴史の中に位置づけられなければならない」と書き記している。このことに関しては、すでに障害児教育史関係者によって、詳細な検討がなされているはずであるので、私のような門外漢はこのあたりで留め置くのが礼儀であろうと思う。
今私が言えることは、ルソーに見る「感覚教育」の重視は、間違いなく、ペレールの教育の「観察」の結果を「省察」したところから生まれたものである、ということである。一人の男の子に詳細な感覚形成の過程を描き出したことは、たとえそれが、「男性」像形成のためだというストーリーであったにせよ、後の教育者達が、自らの目の前の子どもたちに対象化させて、すなわち「一人の子ども」に対象化させて、教育の営みの重要な武器としたことによって、次第に「差別」化された部分をそぎ落としていった。その最初の人が、ヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチであろう。ペスタロッチはシュタンツの孤児院の孤児達(男女ともである!)の一人ひとりの記録を残している(モルフ『ペスタロッチー傳』第1巻より)。それは後世の教育者の、その「今」から見れば、未成熟なものであるけれども、ペスタロッチの記録から学び、さらに不必要なものをそぎ落とし、そして必要なものを付記していく。・・・・
おわりに
私たちが「古典から学ぶ」という時に忘れてはならないことは、共時性への着目であろう。多くの共時性の中から突き出ているものを探り出すことが、その次の課題となる。そうして探り出されたものは、今という共時性の中で共鳴するもの、あるいはさらに突き出るものという事実と「架空」とを生み出す。もちろん、ここで言う「架空」とは、実現可能性に繋がるものであり、絵空事ではない。
私は『エミール』をこういう読み方をする。共時性を無視して、対象を「ヒーロー」や「逆ヒーロー」扱いすることは、歴史を冒涜することだろう。
[1] ルソーはエミールを「孤児」としているが、誕生前から家庭教師を雇うことを勧める記述や母親による授乳を勧める記述、父親による養育に関する記述があり、エミールは「孤児」であるとしても、『エミール』が読者の手に渡った時には「孤児」としては読まれないだろうとの私の理解から、敢えてこのように記述した。「エミール」と括弧書きしたゆえんでもある。
[2] 「父親は、生ませた子どもを養ったとしても、それだけでは任務の三分の一しか果たしたことにならない。彼は、人類に対しては人間を、社会に対しては社会的人間を、国家に対しては市民を与える義務がある。」と、父親の三大義務を述べている。
[3] 敢えて「家庭教育」説としたのは、ルソーは「母親の母乳による育児」を絶対視していたのではない、と私は『エミール』を読んでいるからである。このことは、先に挙げた二つの条件をよく読めば自明のことである。
[4] 現ジャン・ジャック・ルソー通り