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渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

国内初のキャブオーバー

2025年06月06日 | open



戦後、日本初のキャブオー
バートラック・バスは私の
父が開発、作った。
設計担当はチームリーダー
だった日本の自動車史の中
で初めて純国産車を作った
人だった。大正時代に官費
留学でフランスに渡航し、
その足でアメリカにも渡り、
「本邦自動車工業界の雄」
と呼ばれた人だった。
私が以前、法曹界にいた頃、
最高裁図書館で調べものの
仕事をしていた時、書棚に
あった昭和8年出版の「紳
士録」にはその人物につい
てその旨の記載があった。
豊臣秀吉の旗本堀久太郎秀
政の直系子孫。代々「久」
「政」「直」というのが家系
の諱の通字だ。生前、私の
事も格別に可愛がってくれ
た。
日本初のキャブオーバーは
革命的な発明で、プロトタ
イプ発表後に一気に200台
の発注が来たが、東京本社
工場ではさばき切れないの
で、某社に技術とノウハウ
と図面を売却した。「技術
の~」を売りにして戦後飛
躍的に伸びた会社だ。GTR
を作った自動車メーカー。
都バス、はとバス、東京都
の塵芥車を一手に引き受け
て設計、製造、販売したの
も父のいた会社で、開発は
私の父が担当した。日本初
の純国産自動車を作った人
が戦後に興したメーカー。
父自身も現在でも日本の物
流に無くてはならない現用
でも多く使われている車体
部品を発明した。他にも発
明多数。NHK大河ドラマの
スタジオクレーンも長年父
が開発製造した製品を使用
していた。

キャブオーバーは現在でこ
そトラックやバスの常識だ
が、登場するまでは上掲画
像のようなボンネットバス、
トラックが一般的だった。
今やバスの常識である国産
初の低床バスやトラック・
バスのスタンダードな構造
であるエンジンが運転席の
後ろにあるキャブオーバー
機構は、日本で初めて私の
父が作ったのだった。
父は名は残さずとも国の自
動車産業の歴史に実を残し
た。
名も無き父だったが、葬儀
には自動車工業会関係者の
方々が400名も参列した。
私のかつての職場関係(特
許等での依頼多)から弁護
士たちの花輪も並び、また
警視
総監からの弔電と献花
もあ
る予定だったが、献花
弔電
の弁護士の手掛ける国
際司
法弁護の仕事の関係上、
察庁からの弔辞は見送ら
た。(との旨、親戚の警察
庁キャリアの言)

喪主の子としての私の御挨
拶御礼の最後のスピ
ーチは
原稿無しのアドリブ
で行っ
たが、多少長かった
ようだ。
だが、それまでに葬儀では
聴いた事が無い挨拶として、
参列者の方々からは「とて
も良かった」との言葉を多
く頂いた。学生の時に1万
数千人の前で演壇でマイク
を前に
する時にも事前下書
き原稿
などは無かったが、
その場
の発想とパッション
のみで
人々に思いを伝える。
それ
をした。

なお、私が法曹界からの転
職でかつて父がいた自動車
工業界の業界企業に西日本
統括責任者として赴任して
活動
してきた中で、私自身
が発
案・開発した製品もい
くつ
かある。
それらは、特装車両に新機
構として標準採用されて、
現在も全国の道路を走って
いる。

企業間で仕事上も個人的に
も懇意だった同業他社では
サスペンションの昭和やラ
イバル会社であった新
明和
や東急車輛の統括責任
者の
方々もユニークな人材
で、
仕事としてもプライベート
でつきあうのもとても面

かった。私個人としてはサ
スペンションを作る仕事を
したかったが。世界グラン
プリのチャンピオンマシン
にも使用されていた日本製
のサスを作る仕事。
それでも自動車工業界の業
界の人々との付き合いは、
公私ともに得るものが多か
った。
皆さん、モノヅクリに情熱
を持つ人たちで、全員がド
キュメンタリードラマ「プ
ロジェクトX」に出て来ても
よさそうな人たちばかりだ
った。

ただ、私はゴルフが苦手で
ね。ビリヤードなら多少腕
に覚えがあっても(笑

特装業界に入って、生まれ
て初めてクラブを握
っての
ラウンドでは120だっ
たが、
何度やってもいいとこ100
前後
だ。
尤も練習をしないのでそ

位の程度なのだろうが。

特装業界人、ゴルフプロ並
みの人が多すぎる。特に役
職で幹
部以上の人はほぼ全
員シン
グルなのでは、とい
う世界。

普段、車作りの仕事、真面
目にやってる
のかなぁ(笑

 
 

 
 
 
 



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