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第236話「例のプール」

 花園中学は、頭がお花畑の人間が通う中学ではない。花園という地域に存在している、まともな中学校だ。その花園中の文芸部には、水難の相が出ている者たちが集まっている。そして日々、水たまりに足を突っ込んだり、車に水をかけられたりして過ごしている。

 かくいう僕も、そういった水にまつわる不幸が多い系の人間だ。名前は榊祐介。学年は二年生で、厨二病まっさかりのお年頃。そんな僕が、部室でいそしんでいるのは、備品のパソコンでネットを巡回して、何の役にも立たないネットスラングを調べて喜ぶことだ。


 そんな、水による災難の多い面々の文芸部にも、その手の不幸には無縁な人が一人だけいます。水に濡れた野良犬の群れに紛れ込んだ、水も滴るいい女。それが、僕が愛してやまない、三年生の雪村楓先輩です。楓先輩は、三つ編み姿で眼鏡をかけている文学少女。家にはテレビもなく、活字だけを食べて育ったという、純粋培養の美少女さんです。


「サカキく~ん。ネット詳しいわよね。教えて欲しいことがあるの~」


 間延びしたような声が聞こえて、僕は顔を向ける。楓先輩は、ととととと、と歩いてきて、僕の右横にちょこんと座る。僕は、先輩の大きな瞳を見る。黒目が大きく、いつも濡れているように輝いている。楓先輩の目は、ただ大きいだけでなく美しい。その瞳の麗しさにうっとりとしながら、僕は声を返す。


「どうしたのですか、先輩。ネットで、意味の分からない単語がありましたか?」

「そうなの。サカキくんは、ネットの達人よね?」

「ええ。北島康介が、力強い泳ぎで金メダルを取ったように、僕は力強いブラインドタッチで、ネットに様々な書き込みをしています」

「そのサカキくんに、聞きたいことがあるの」

「何でしょうか?」


 先輩は、最近ノートパソコンをお父さんに買ってもらった。文芸部の原稿を、汗をかきながらも書き続けるためだ。先輩は、そのパソコンをネットに繋いだ。そこで、様々な汁が溢れ出す人たちの文章を目撃した。そのせいで、ネット初心者の楓先輩は、ずぶずぶとネットの罠にはまりつつあるのだ。


「例のプールって何?」


 ぶっ! 僕は、思わず噴き出しそうになった。こ、これは説明が難しい言葉が来た。例のプールが何なのか、話すこと自体は簡単だ。僕は、その場所の住所まで知っている。しかし、そのプールの存在が、ネットでなぜ共有されているかという背景まで語るとなると、途端に困難が生じる。


 そう、例のプールとは、アダルトな分野の映像作品でよく使われる、高級マンション風貸しスタジオ内の温水プールだ。非常に多くの大人向けビデオで利用されているために、男性ならば、その光景を見て、様々な記憶を蘇らせること必死の場所なのだ。


 しかし、そんなことを赤裸々に楓先輩に伝えるわけにはいかない。なぜ僕が知っているのかということになり、楓先輩は僕のことを、十八禁作品に精通している、歩く猥褻物だと見なすだろう。それは困る。大いに困る。どうするべきか?

 僕がそういったことで頭を悩ませていると、楓先輩は、ひょいと顔を上げて、部室の入り口の方を見た。


「ねえ、睦月ちゃん。睦月ちゃんは水泳部だから、例のプールのことを、もしかして知っている?」


 ぶほっ! 僕は吐血しそうな勢いで息を吐き出す。

 ちょ、ちょ、ちょっと待った~~~! なぜ、卑猥な言葉の解説に、無関係な人を巻き込もうとするのですか? これは、淫語テロですよ! 僕をこれ以上、加害者にしないでください!!


 僕が朦朧としていると、入り口近くに座っていた同学年で幼馴染みの、保科睦月が立ち上がった。睦月は、いつも通りの水着姿だ。


 睦月は、子供の頃から、野山で一緒に遊んだ友人だ。しかし、中学生になった頃を境に、僕との会話がほとんどなくなってしまった。その代わりに、部室で競泳水着やスクール水着姿で過ごし始めたのだ。睦月は、僕の真正面の席に座って、じっと僕を見ている。僕は、どうすればよいのか分からず、途方にくれている。まあ、水着姿の美少女を毎日拝めるのは、素直に嬉しいんだけどね。


 その睦月は、とことことやって来て、僕の左隣にちょこんと座った。僕は、制服姿の楓先輩と、水着姿の睦月に挟まれる。僕は二人の美少女に、サンドイッチされる形になる。楓先輩と睦月のよい香りが、僕の頭をぼんやりとさせる。

 そんな僕を挟んだ状態で、先輩と睦月は、会話を始めた。


「ねえ、睦月ちゃん。例のプールって、どんなプールなのかな?」

「寡聞にして私は知らないのですが、例の、というぐらいですから、かなり有名なプールなのだと思います」


「そうよね。有名なのよね、きっと。でも、水泳をしている睦月ちゃんが知らないということは、水泳競技者にとって重要なプールではないんでしょうね」

「そうだと思います。競技者にとっては関心がなくても、観客には意味があるのかもしれません」


「ということは、水泳を見る専門の人に、知られた場所というわけよね?」

「おそらく、そうだと思います」


「ねえ、サカキくん。サカキくんは、例のプールを見たことがあるの?」

「え? ええ、まあ。映像作品で……」


「やはりそうなのね! サカキくんは、自分では泳がないから、見る専門だろうし。それでサカキくんは、例のプールについて詳しいの?」

「ま、まあ、それなりに」


「じゃあ、教えてちょうだい。知りたいわ」


 楓先輩は、わくわくした顔で僕を見上げてきた。睦月も、気になるといった様子で、僕に身を寄せてくる。

 ああ。逃げられない。どうすればいいんだ? 僕は、必死に考える。そして、映像作品ということに焦点を絞り、アダルトな方面の情報を消し去って説明しようと決意する。


「例のプールというのは、株式会社ピースタジオが運営する、『Hanazono Room』というマンションスタジオ内にある、温水プールです。

 高級そうな雰囲気の室内プールで、壁の一面と天井が、丸ごとガラス張りになっている特徴的な姿をしています。


 例のプールの所在地は、東京都新宿区新宿一丁目です。都心でプールの映像が撮影可能な場所ということで、様々な撮影現場で重宝されています。また、そういった場所は他にほとんどないために、多くの映像作品で目撃されることになります。そのため必然的に、『あ、またあのプールだ』と、多くの人に認識されています。

 そういった背景から、ネットで例のプールと言うと、このプールを指すことが暗黙的に決まっています。世の男性たちの多くは、この場所をよく知っているのです」


 僕は説明を終えた。右隣の楓先輩は、僕の言葉を反芻するようにして、斜め上を見ている。その様子を眺めていると、左隣の睦月が、つんつんと僕を突いてきた。


「そんな有名な場所なら、私も泳いでみたいかも」


 水着姿の睦月は、僕をじっと見ながら言う。

 僕は、睦月が例のプールで泳いでいる姿を想像する。水着姿の睦月が、あの聖地で水に濡れて体を動かしている。その姿をとらえるビデオカメラ。そして、きわどいアングル。

 時間が経つと、なぜか半裸の男性が現れる。いや、なぜかではない。プールだから半裸なのだ。そして、その男性が、睦月に手を伸ばして……。


 駄目だ、駄目だ! 僕は、そこから続く映像を思い浮かべて、必死に妄想を消そうとする。睦月を、そんな卑猥な目に遭わせてはならない。僕は、幼馴染みの貞操を、夢の中でも犯してはならないと考える。


 そんな僕の努力をよそに、睦月は僕に質問をしてくる。


「ねえ、ユウスケ。その例のプールは、レンタル可能なのよね?」

「う、うん。撮影用のレンタル施設だからね」

「どれぐらいの料金なの?」

「前振り込み、優待払い三時間コースで、九万六千二百円。プールエリア使用料が別途二万一千六百円かかるから、合計すると十一万七千八百円だね」

「そうなの! じゃあ、私たち中学生では難しそうね……」


 睦月はしゅんとした顔をする。これで、この話題は終わりなのか? 僕は助かったのか?

 しかし、水泳部員でもある睦月は、例のプールのことが気になるらしい。睦月は「例のプールの写真はないの?」と、尋ねてくる。


「ねえ、サカキくん」


 僕と睦月が、写真を見せる見せないで押し問答をしていると、楓先輩が声をかけてきた。


「何でしょうか、楓先輩?」

「さっき、サカキくんは、世の男性たちの多くは、この場所をよく知っていると言ったよね?」


「えっ? 言いましたか」


 僕は、記憶をたどりながら話す。朦朧としたまま説明したせいで、そんなことを口にしたのかもしれない。


「うん。言ったよ。女性はあまり知らず、男性限定で知っているプールって、どんなプールなの?」


 楓先輩は、好奇心の塊のような目をして、聞いてくる。

 うわ~~~~~~、詰んだ! 僕は、自分の失言を後悔する。男性だけがよく知っている理由を、本当の理由とは別に、合理的に説明することは難しい。左隣では睦月も、「私も気になる」と言って、水着の肉体を押し付けてきている。


 仕方がない。僕は渋々、楓先輩の問いに答える。


「人類の約半数である男性は、異性からの性的なシグナルを、視覚情報として受容します。そのため男性の多くは、視覚的評価で異性を選別します。

 そういった行動様式を持つ人類の男性にとって、映像作品というものは、生殖行動への興奮を喚起し、疑似的な子孫獲得活動へと走らせる、本能的な力を持っているのです。


 そうした背景があるために、男性はアダルトな分野の映像作品や、アイドルのイメージビデオなどを、収集して鑑賞するという習慣を持っています。これは、女性とは違う、生物学的な特徴から来る、動物の雄としての行動なわけです。


 こうした男性の欲求を満たすために作られる映像作品の中には、水着姿を売りにしたものがあります。

 古い時代の水着と違い、近現代の水着は、体のラインに沿った、露出の多いものになっています。それは化学繊維の発達や、映画やテレビといった視覚情報メディアの発達と無縁ではありません。

 通常の着衣の状態よりも、裸体に近い水着姿は、化学や通信といった技術によりもたらされた、人類史における新しい服飾スタイルなのです。


 この水着姿を映像に収めるに当たり、それに最も相応しいシチュエーションは何でしょうか? それはやはり、プールに他ならないと僕は思います。特に、温水プールが望ましいでしょう。室内のプールであれば、天候や季節に左右されずに撮影できるという利点があります。


 しかし、そういった男性向けの目的で、映像作品を作ろうとした場合、その制作が可能な場所は限定されます。

 邪魔になる他人がおらず、撮影が許可されている場所でなければならないからです。また、映像制作会社の多くが都心にあることを考えれば、都心あるいはその近郊にあることが望ましいです。

 そうした諸々の条件に適う場所が、例のプールなのです。


 なぜ例のプールが、男性限定でよく知られているかというと、そういった男性の欲望を満たす水着姿の映像の多くが、都心の映像制作会社によって、この場所で撮影されているからです」


 ああ、終わった。僕は、楓先輩との関係が破綻することを予想して、どんよりとした気持ちになる。


「ねえ、サカキくん」

「何でしょうか、楓先輩?」


「それって、つまり、どういうこと?」

「へっ?」


 どうやら、純朴な楓先輩は、僕の説明から、十八禁ビデオを想像できなかったらしい。こ、これはセーフなのか? そう思った瞬間、僕の左隣にいる睦月が口を開いた。


「楓先輩。それはおそらく、エッチなビデオです」


 ぶほっ!!! 僕は思わずむせる。


「ユウスケは、思春期の男の子だし、そういったものが、好きみたいですから」


 睦月は、淡々と言う。ちょ、ちょ、睦月さん! 僕は、幼馴染みの無慈悲な一言に、あえなく粉砕される。


「さ、さ、サカキくんのエッチ!」


 楓先輩は、眼鏡の下の顔を真っ赤に染めて、爆発しそうな様子で声を出した。


 それから三日ほど、僕は現実逃避した。楓先輩が、僕を相手にしてくれなかったからである。

 仕方がないから僕は、例のプールのアスキーアートを作ったり、マインクラフトで再現したりして過ごした。


 三日経ち、楓先輩は僕に、例のプールを見ては駄目よと、諭すようにして言った。えー、最近は、テレビのドラマや特撮番組でも、登場したりしているのですが。


「いーい、駄目よ」

「はい……」


 僕は仕方なく返事をした。僕は、自分の見られる作品が減るなあと、涙目になった。


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