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第233話「ポチる」

 花園中学は、頭がお花畑の人間が通う中学ではない。花園という地域に存在している、まともな中学校だ。その花園中の文芸部には、衝動的な者たちが集まっている。そして日々、欲望のおもむくままに活動し続けている。

 かくいう僕も、そういった強欲の運命を持つ系の人間だ。名前は榊祐介。学年は二年生で、厨二病まっさかりのお年頃。そんな僕が、部室でいそしんでいるのは、備品のパソコンでネットを巡回して、何の役にも立たないネットスラングを調べて喜ぶことだ。


 そんな、自由電子のように振る舞う面々の文芸部にも、一ヶ所に留まり、読書にいそしんでいる人が一人だけいます。本を衝動買いする人の家に来て、残念そうな顔をする、積ん読しない派の少女。それが、僕が愛してやまない、三年生の雪村楓先輩です。楓先輩は、三つ編み姿で眼鏡をかけている文学少女。家にはテレビもなく、活字だけを食べて育ったという、純粋培養の美少女さんです。


「サカキく~ん。ネット詳しいわよね。教えて欲しいことがあるの~」


 間延びしたような声が聞こえて、僕は顔を向ける。楓先輩は、ととととと、と駆けてきて、僕の横にちょこんと座る。僕はちらりと先輩の机を見る。きれいに片づいており、本がサイズや出版社ごとに並んでいる。ああ、先輩はとても几帳面だ。それに比べて、僕の机の上はどうだろう。雑然としている。カオスを体現している。ああ、僕には楓先輩が必要だ。僕は、そんなことを考えながら、声を返す。


「どうしたのですか、先輩。初見の言葉が、ネットにあったのですか?」

「そうなの。サカキくんは、ネットの達人よね?」

「ええ。維新の三傑、西郷隆盛が、僧の月照と衝動的に自殺を図ったのち、歴史で大活躍したように、僕はネットで急にサイトを閉鎖したのち、新しいハンドルネームで大躍進するというサイクルを繰り返しています。」

「そのサカキくんに、聞きたいことがあるの」

「何でしょうか?」


 先輩は、最近ノートパソコンをお父さんに買ってもらった。文芸部の原稿を、いつでも思い付いた時に、ぱっと書くためだ。先輩は、そのパソコンをネットに繋いだ。そこで、脊髄反射系の人たちの言説に触れた。そのせいで、ネット初心者の楓先輩は、ずぶずぶとネットの罠にはまりつつあるのだ。


「ポチるって何?」


 質問したあと先輩は、僕の言葉を遮り、語り始めた。


「ポチるって、ポチの動詞化よね。ポチと言うと、ポチ袋。ポチは関西発祥の言葉で、芸妓や茶屋女などに与える祝儀のことを指すのよね。意味は『少ない』で、少額の祝儀をポチと呼び、それを入れる袋をポチ袋と言った。

 だから、ポチるって、小さくするとか、少なくするとか、そういった意味じゃないかしら?」


「えー、全然違います」


 僕が答えると、楓先輩はしゅんとした顔をして、子犬のように僕を見上げた。

 ポチるは、ボタンをポチッと押すことだ。主に、インターネットの通販サイトで、購入ボタンをクリックすることを指す。ネット通販を利用しない楓先輩には、にわかには思い付かない意味だろう。


 さて、僕は考える。ポチるの説明に、危険はないだろうか? 僕は、戦略を立案する戦国武将のように、ありとあらゆる可能性を検討する。そして、一つの危険を発見する。

 ポチるが、ネット通販で品物を買うことだと説明すれば、楓先輩は僕に、過去の購入履歴を尋ねるだろう。それは茨の道だ。僕はエロゲを大量に買っている。僕のネット購買行動が、楓先輩に知られるのはまずい。何とかして、その危険を回避しながら、ポチるの説明をしなければならない。


 僕は必死に考え、一つの策を思い付く。ふっ。僕の知力が、秘策を導き出したようだ。僕は自分の才能が怖い。様々なボタンについて語ることで、先輩を幻惑する。僕は、その作戦を実行に移すことにした。


「先輩! ポチるとは、ボタンを押す時の擬音『ポチッ』に由来する動詞です。ポチるで、ボタンを押すということを意味します。ネットスラングとしては、インターネット通信販売サイトで、商品を購入するボタンを押すことを、主に指します。


 さて、このポチるという言葉は、ボタンを押す音が語源という以外にも、あるアニメの有名な台詞が、広がったものとして知られています。

 一九七七年から一九七九年にかけて放送された、タツノコプロ制作のテレビアニメ『ヤッターマン』。タイムボカンシリーズ第二作に当たるこの作品には、ドロンジョ、ボヤッキー、トンズラーという三人の悪人が出てきます。


 この三人の一人であるボヤッキーは、『ポチッとな』と言って、ボタンを押します。このシーンは非常に有名で、当時の子供たちの記憶に残っただけでなく、他のアニメやゲームなどにも登場する言葉になりました。

 ネットには、アニメやゲームをよく見るオタク層が多いです。そういった背景もあり、ボタンを押す時に『ポチッとな』と言う人が多く、購入ボタンを押す行為を、ポチるというようになったとも言われています。


 さて、このボタンという装置は、広義のスイッチに含まれます。このスイッチには、実は様々な種類があります。その話を、少ししたいと思います」


 僕は、楓先輩の興味を、ネット通販の購買ではなく、押しボタン、そしてスイッチに移そうとする。そのために、言葉の弾幕を展開する。


「まずは、プッシュスイッチ。これは、押しボタンスイッチとも呼ばれます。このスイッチには、モーメンタリ型と、オルタネイト型の二種類が存在します。モーメンタリ型は、押した時だけオンになる、あるいはオフになるものです。オルタネイト型は、押すたびにオンとオフが切り替わるものです。


 次はトグルスイッチやレバースイッチです。つまみやレバーの向きを変えることで、状態を切り替えるタイプのものです。同じように切り替えるものでは、ロッカースイッチ、別名シーソースイッチも存在します。これは照明のスイッチとして、家庭でよく見られます。

 また、つまみを右や左にスライドさせるスライドスイッチ、複数のオンオフのスイッチが集まった、DIPスイッチもあります。また、つまみを回転することで、いくつかの状態を表せるロータリースイッチも存在します。


 少し形が変わったものとしては、蛍光灯に利用されているプルチェーンスイッチや、鍵を刺してから押して回すキースイッチ、別名キーロックスイッチもあります。

 ちなみにスイッチという言葉は、小枝が原義です。そこから派生して、乗馬用の鞭を指す言葉として使われました。それが産業革命以降、鉄道の進行方向を変える転轍機や、機械の状態を変えるデバイスなどの意味で、利用されるようになりました。


 さて、状態を変化させる制御機構であるスイッチですが、そのメタファーは、コンピューターのユーザーインターフェースにも取り入れられています。ただし、スイッチ全般ではなく、押しボタンを中心としての採用です。

 これは、コンピューターの操作が、マウスによるクリックであるためです。つまんで動かす操作は難しいため、押す操作が中心になっています。


 そういった背景から、コンピューターには様々な種類のボタンが存在しています。通常のプッシュボタン、複数の選択肢から一つを選ぶラジオボタン、押すたびに状態が遷移するトグルボタン。また、アップダウンの小さなボタンを備えたスピンボタンもあります。

 ボタンと一口に言っても、様々な仲間や種類があることが、お分かりいただけたでしょうか?」


 僕は、楓先輩を幻惑する台詞を告げた。これで先輩は惑わされて、僕の購買行動に注意を向けたりはしないだろう。僕は、にこにこしながら、楓先輩の反応を待った。


「なるほどね。ボタンと言っても、様々なボタンや、ボタンに似た仕組みが存在するのね」

「そうです」


「それで、ネットスラングのポチるは、主に買い物に使うのよね。サカキくんは、ネットに慣れ親しんでいるから、当然ネットで買い物をしているよね?」

「え、ええ……」


「そんな、サカキくんは、ネットでどんなものをポチっているの?」


 ぐわ~~~~! 楓先輩は、僕の展開したイリュージョンを突破して、ナイフを持って僕の懐まで潜り込んできた。ど、どうすればいいんだ? 僕は、しどろもどろになりながら言葉を返す。


「ちょ、ちょっと大人な、恋愛シミュレーターです」

「それは、どういったものなの?」


 つ、詰んだ! 僕は、敗北を自覚しながら答える。


「……エロゲです……」


「エロゲ?」

「エッチなゲームです」


 僕の答えを聞いたあと、隣にいる楓先輩の顔が、徐々に赤く染まった。楓先輩は、僕の前で、ぱたぱたと手を動かしたあと、恥ずかしそうに目をつむって、声を出した。


「サカキくんは、ポチるの禁止~~~!」

「ええっ!!!」


 それから三日ほど、僕は楓先輩に、画面上のボタンをクリックすることを禁じられた。うおおおお~~~、パソコンが使いづらい!

 僕は、何とかショートカットで、その三日間を乗り切った。そして謹慎期間が明けたあと、さっそくエロゲをポチる活動を再開した。


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