「鉄道オタク = 残念な人」の烙印はなぜ?──鉄道会社も「採用したくない」現実、純粋さが招く「閉鎖性」という社会断絶【連載】純粋鉄オタ性批判(3)
知識の私有化が招く機会損失
鉄道模型店に行くと、共通の興味を持つ2~3人のオタクが連れ立って店内を巡っている姿を見ることがある。彼らは模型の細かい部分を見比べながら意見を交わし、棚の前で知識を交換する。技術書や過去の資料にも一定の敬意を払って接している。
店頭での会話に加えて、インターネット上にもさまざまな掲示板やSNSグループが存在する。ジャンルごとに分かれたそれらの場では、情報の細かさもやり取りの速さも際立っている。こうしたコミュニティーでは、高度な知識が前提となり、同じ資料を何度も参照しながら議論が行われる傾向がある。
このように知識が集まり深まっていく過程は、前述のとおり、同時に外部の人を排除しやすい構造を生み出す。つまり、最初から高い理解力を求める空気が無言のうちにできあがる。情報の階層がそのまま趣味内の序列となり、理解の浅い発言はすぐに場違いと見なされ、発言の機会を失いやすくなる。
これは、鉄道趣味における共感の基準点が極端に専門化した結果である。社会とのつながりよりも、知識の正確さが優先されているのである。
知識の純度を重視する姿勢は、鉄道文化への深い敬意の表れともいえる。しかし同時に、その知識を社会に生かす回路が断たれる危うさをはらんでいる。つまり、語ることが内輪の納得で終わり、伝えることや開くことへとつながらない構造が生まれてしまう。
例えば、技術用語を多く含む模型の評価は、本来なら鉄道文化の魅力を広める力を持っている。だが、それが限られたなかでのみ蓄積されているかぎり、その力は外に届かないままである。この閉じた循環を開くには、
「知識をやり取りする場のあり方」
を変えなければならない。模型店や趣味サークルの会話も、地域の交通の歴史やインフラ保存の話題に結びつけることは可能である。しかし現実には、趣味の空間と社会的課題とのあいだには高い壁がある。
鉄道模型に見られる正確さや再現性への強いこだわりは、裏を返せば歴史的な時間や空間を読み解く力でもある。それならば、鉄道路線の存続や駅舎の保存、地方路線の観光資源化といった課題にも十分応用できるはずだ。必要なのは、語る相手の輪郭を変えることにほかならない。
今のように、話す相手を同じ趣味を持つ人に限定している限り、情報は循環するが外には出ていかない。知識が蓄積されても、共有されず、意味が更新されない。結果として、趣味は社会とは別の世界として孤立してしまう。
そこにとどまり続けること自体が損失である。知識という資源が活用されないままになるからだ。知っていることが役立たないのではない。
「役立てるための仕組みが整っていない」
ことのほうが、根本的な問題なのである。趣味の空間を開かれた場へと広げていくには、
・誰と話すか
・どこで話すか
・何のために話すか
といった点で、戦略的に変えていく必要がある。専門性を保ちながら、その対象や文脈を社会のなかで展開する取り組みは、すでに一部のオタクたちが実践して成果を上げている。
模型が語る過去は、地域の物語とつながることで新たな価値を持つ。それは語る対象を変えるだけでなく、語り方を変えるという選択でもある。