連載第32回で、石井が書いた葬儀の記述は、いつも通り約8割が虚偽です。石井によると、本通夜や葬儀は中標津にある寺で営まれ、「喪主は祖父の正英」だったといいます。喪主は、長男である弟の正典が務めました。これが事実です。石井は、親族が母を一連の葬儀に列席することを許さなかった、日時を伝えていなかった、と書きました。当然ですが、母子の仲は良好でしたから、お寺で営んだ葬儀について母には日時を伝え、列席できるよう手配しています。もちろん親族は同意しており、「冷たい一瞥を送り、中には追い返そうとして腰を上げる人もいた」事実はありません。
「母が寺に姿を見せると列席者の間に緊張が走った。玄関で手間取っていたが、誰も手を貸そうとしなかった」という事実もないです。なぜなら、母は健常な祖母と一緒に来ていました。母と親族に確認したところ、平成17年9月10日午後7時からの通夜と9月11日午前10時からの葬儀に列席し、祖母と母は9月10日の夜、中標津のホテルに宿泊したということで、私の記憶とも合致しています。
私と弟妹は父の遺書を読んでいましたから、母の扱いは自然なことだと受け止めていました。ただ石井が書いた「緊張感が漲り、故人を偲んで悲しむという空気は薄かった」事実はありません。
母と父の妹たちは、父の柩の前で涙を流し抱き合い、慰め合っていましたし、父の小中高校時代の同級生たちは、父との思い出話を聞かせてくれたのです。
また石井は、木嶋家の墓は別海町の共同墓地にあると書きました。確かに墓は存在しますが、納骨堂の中は空です。別海で亡くなった祖父の両親の名が、どうして墓誌に刻まれていないのか。石井は先祖の遺骨がどこにあるのか特定できていません。
別海町の墓地には一度だけ行ったことがあります。お墓を建てたのに納骨しないと決めた祖父から、その事実を聞いたときは驚きました。私は父の実母のお墓がある寺との縁の深い浅草の東本願寺に墓を建てることに迷いはなかったです。お寺と石材店との交渉や契約には、きょうだい4人揃って行きました。
石井は「400万円ほどの小さな墓」と書きましたが、400万円はお墓の区画を使う永代使用料だけで、墓石購入費や工事費等に200万円近く必要でした。平成17年時点で、区画の空きはごく僅かでしたから、石井の取材力では墓石費用を調べることすらできなかったのでしょう。私たち4人の子には600万円を支払う余裕がなかったので、父の預金から購入しました。一括払いです。家族が墓参しやすいよう、京都ではなく東京のお寺にお墓を建てました。私の事件で、最高裁判所において判決言渡し期日が決まると、直前に家族が東本願寺へ行き、私に差し入れてくれた御朱印の写真を添付します。
そして、父の遺産について石井が書いたことはすべて嘘です。
石井は、父の死亡後、生命保険会社の調査に、親族が「事故死」だと主張して押し切った、それが可能になったのは、そのように解釈できる死に方を父が選んだからだった、と書きました。
父は亡くなる直前に、貴重品を子供たちに送りましたが、保険関連書類は入っていませんでした。父は保険金が下りないと分かっていたので、保険に関する書類を自宅に置いたまま亡くなり、他界後に親族が手続きをしたのです。
調査が長引き保険金が下りなかった理由は、警察による交通事故証明書を提出できなかったから。石井はこの事情をまったく知りません。
石井によると、父の死亡後生命保険会社は自殺を疑い何度も調査に入ったが、親族が事故死だと主張して押し切り保険金は下りた、 自宅のローンは団体信用生命保険が適用されローン返済の義務を免除された、という話になっていますが、このような事実は一切ありません。石井は絶対に証拠を出せないことです。父は団体信用生命保険に加入していませんでしたし、保険会社は事故死と認定しませんでした。調査結果が出たのは、お墓が完成し、納骨の法要を済ませた後です。結果は、数名の親族しか知りません。石井は田舎町の噂話と、実家の登記簿謄本から推理して物語を書いただけです。思い返すと母は、父の遺産分割協議や家の相続にも関心がなく、4人の子は親族に相談して決めました。
結論を母に伝えると、相続により家の所有者が息子ではなく妻になったことに驚いていたものです。事実として、実家が母の名義になっても、母は祖母の家で生活を続けました。引っ越す気配はなく、父の死から4年経ち、母は4人の子に、これからもずっと祖母の家で暮らすこと、新しいピアノを購入したことを報告してきました。それは平成21年、私が逮捕された年のことでした。また父の生前、母は祖母と揃って一式数十万円の布団と、これまた数十万円の鉄鍋セットを購入しています。そして母は、水道水がおいしい道東に暮らし、1本700円するペットボトルの水でご飯を炊いていました。倹約家の母は、時にこういうお金の使い方をしていたのですが、傍からは見えないことでしょう。まして家の外観や大きさでしか物事を判断しない石井には母の心情を理解することは不可能です。相続や母の購入品についても、刑訴記録に入っていますので、石井が訂正しなければ後日公表する予定でおります。
結論を母に伝えると、相続により家の所有者が息子ではなく妻になったことに驚いていたものです。事実として、実家が母の名義になっても、母は祖母の家で生活を続けました。引っ越す気配はなく、父の死から4年経ち、母は4人の子に、これからもずっと祖母の家で暮らすこと、新しいピアノを購入したことを報告してきました。それは平成21年、私が逮捕された年のことでした。また父の生前、母は祖母と揃って一式数十万円の布団と、これまた数十万円の鉄鍋セットを購入しています。そして母は、水道水がおいしい道東に暮らし、1本700円するペットボトルの水でご飯を炊いていました。倹約家の母は、時にこういうお金の使い方をしていたのですが、傍からは見えないことでしょう。まして家の外観や大きさでしか物事を判断しない石井には母の心情を理解することは不可能です。相続や母の購入品についても、刑訴記録に入っていますので、石井が訂正しなければ後日公表する予定でおります。
検証や考察をしていただける方には、石井が取材した相手に親族と友人が一名もいないことに注目すると、石井の嘘がすぐ判明します。石井の常套手段は「関係者」に都合よく語らせることです。
石井は私がベンツを買ったことをあげつらい、父は38歳の頃「外車に乗っていた」とも書きました。当時の木嶋司法書士事務所を知る女性に「祖父は派手なことを嫌う方でしたから親子でもだいぶ違うなと思いました」と語らせています。
昭和54年に結婚した父の妹は、夫婦共に公務員で、いずれもドイツ車に乗っていました。私の幼い頃と同様に、夫婦の娘は祖父母に預けて働き、仕事が終わると祖父母宅に車で迎えに来る、という生活です。その時期は、私が中標津から別海に引っ越した頃と重なり、祖父母の家の前にドイツ車が止まっているのをよく見かけました。
父が亡くなった平成17年にも、父の妹夫婦は輸入車に乗り、別海に来ていました。車種はベンツです。なぜ輸入車を所有したことのない父が、外車に乗っていたと非難され、実際に夫婦で若い頃から輸入車に乗っていた妹夫婦のことには触れないのでしょう。昭和62年に結婚した父の妹夫婦は、アメリカ車に乗っていました。
石井は「よく知る」人物の証言を自慢して書きますが、事実は「よく知らない人物」に噂を聞いただけのこと。父の恋人が事務所に電話をかけ「連絡がつかないのですが何かあったのでしょうか」と訊き、死んだことを伝えると受話器の向こうから号泣する声が聞こえてきた、という映画のシーンみたいな話も石井の創作です。彼女は父の捜索に協力しており、このようなやりとりはあり得ません。また、ご本人が否定していることも、強く申し添えます。
連載第32回も、石井の剽窃が炸裂していました。私がブログを始めると、「父はセスナに乗っていて事故死した」と語るようになった、といいます。私はそのようなことを言ったことも書いたこともありません。この出典は、2009年「週刊文春」編集部の取材に応じた紙材会社取締役の証言です。連載第12回「ある“愛人”の不審死」に書かれています。石井が取材して聞いた話ではありません。
リサイクルショップの社長・福山さんから私は1億円近いお金を受け取っていました。この取締役は、石井によって福山さんの唯一の友人とされていますが、私はこの男性の存在を福山さんから聞いたことがないため、唯一の友人ではありません。私は福山さんの生まれ育ちから交友関係まで教わっていました。何しろ証言内容が嘘まみれなのです。福山さんについて、昔は夫婦円満だったけれど途中から不仲になった、でも女性がいたわけじゃない、お酒もほとんど飲まない、女遊びもしなかった、といいます。いずれも事実ではありません。
福山さんは昭和58年に起業しました。商号の沖愛堂は、恋人の氏名からつけたものです。40代だった当時から夫婦は別居状態だった、と本人とご家族から聞きました。刑訴記録にもなっている私の携帯電話のアドレス帳には、奥様と娘が暮らす柏市高柳にある家の住所と電話番号、市川市に暮らす息子の連絡先も残っているのです。私と福山家は、連絡を取りあえる関係でした。
石井は第12回で「セスナに乗っていて事故死」と引用しましたが、第32回では剽窃し、私が語ったことにすり替えました。これが石井の手口です。石井は、過去の文春報道と裁判報道のみから推理し、私と福山さんは「援助交際であり、愛人として付き合っていた」と書きました。笑ってしまう話です。
そして石井は、福山さんから振り込まれた7,380万円の口座の名義は「吉川桜」、福山さんは「吉川桜」が私の本名だと思っており「木嶋佳苗」だと認識していなかったと断言しています。
皆さん、ここから非常に大切なところです。私は福山さんと性的な関係は一切ありませんでした。彼は若い女性を性的対象としていなかったからです。恋人の愛子さんが他界してからも、遊び相手は熟女だけでした。還暦過ぎても精力絶倫で、常にお相手がいたのです。
まず、沖愛堂の社長に採用された当初、私は木嶋佳苗名義の口座で報酬を受け取っていました。面接では本人確認書類も提出しています。刑訴記録を見ていない石井はその事実を知らず、素人の傍聴記を鵜呑みにしてしまった。愚かな作家です。末尾に福山さんから木嶋佳苗名義の口座に振り込まれた送金記録を添付します。
福山さんとは、当初契約していた業務内容を超えた依頼を受けるようになり、歩合の報酬が増えていきました。石井は刑事裁判に無知なため、訴訟記録の重要性を分からず、噂話を集めノンフィクションを書いているのですから、哀れとしかいえません。福山さんが私を木嶋佳苗だと認識していなかった、という石井の嘘を暴くのも、別件の訴訟記録なのです。
第11回「ヤフオク詐欺事件」に、2003年私が逮捕された話が出てきます。もちろんこれも石井の取材ではなく、2009年「週刊文春」記事の引用です。この事件に私は関与していませんが、詳細は省きます。文春報道によると、私の代理人だという池袋に事務所を持つ女性弁護士から男性に、示談書と見舞金の送金依頼書が送られてきた、といいます。私の弁護人の事務所は池袋ではありませんでしたが、それはさておき、私は2名の弁護人と打ち合わせ、身体拘束からの解放(早期釈放)を目指すことにしたのです。求める結論を執行猶予を付した判決とし、被害弁償と示談を目標に弁護活動を行ってもらい、資金の準備は父に頼みました。
そして、監督の具体的な内容は家族による証人尋問で立証し、判決言渡し後直ちに就労が確保されていることを、勤務先会社経営者の福山さんが立証してくださったのです。分かりますよね? 刑事裁判は本名でしか受けられません。福山さんが私のことを木嶋佳苗だと認識していなかった、という石井の見立ては嘘、ということです。福山さんは私の弁護人と家族とも連絡を取り合っており、当然に私の名前が木嶋佳苗と知っています。3カ月にわたる霞が関での勾留中に、福山さんは何度も衣類を差し入れてくれました。それらは全部リサイクルショップ沖愛堂に並んでいる商品です。
釈放後には、各地の湯治場に誘ってくれました。すべて格安ツアーです。そして、弁護士の成功報酬は全額福山さんが支払ってくれました。福山定男さんはそういう人でした。父のように大切な人でした。
福山さんからの入金状況が分かる一覧表はこちらです。

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