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第142話「ωヒュン」

 花園中学は、頭がお花畑の人間が通う中学ではない。花園という地域に存在している、まともな中学校だ。その花園中の文芸部には、お調子者たちが集まっている。そして日々、舞い上がりすぎて高転びしている。

 かくいう僕も、そういった、おだてられると木に登りやすい人間だ。名前は榊祐介。学年は二年生で、厨二病まっさかりのお年頃。そんな僕が、部室でいそしんでいるのは、備品のパソコンでネットを巡回して、何の役にも立たないネットスラングを調べて喜ぶことだ。


 そんな、そそっかしい面々の文芸部にも、落ち着いていて安定感のある人が、一人だけいます。「GS美神 極楽大作戦!!」の横島忠夫の支配する国に紛れ込んだ、おキヌちゃん。それが、僕が愛してやまない、三年生の雪村楓先輩です。楓先輩は、三つ編み姿で眼鏡をかけている文学少女。家にはテレビもなく、活字だけを食べて育ったという、純粋培養の美少女さんです。


「サカキく~ん。ネット詳しいわよね。教えて欲しいことがあるの~」


 間延びしたような声が聞こえて、僕は顔を向けた。楓先輩は、ととととと、と駆けてきて、僕の横にちんまりと座る。先輩は、僕よりも背が低い。その少し低い位置から、僕をにこやかに見上げる。眼鏡の縁から覗くようなその仕草は、がんばっているといった感じで健気さを感じる。ああ、先輩は何て可愛らしいんだ。僕は、その姿に満足しながら声を返す。


「どうしたのですか、先輩。ネットで、初めての言葉を見つけたのですか?」

「そうなの。サカキくんは、ネットの玄人よね?」

「ええ。勝海舟が、幕末の重要人物として地位を築いたように、僕はネット社会で地歩を築きつつあります」

「そのサカキくんに、聞きたいことがあるの」

「何でしょうか?」


 先輩は、最近ノートパソコンをお父さんに買ってもらった。文芸部の原稿を、こつこつと書き溜めるためだ。先輩は、そのパソコンをネットに繋いだ。そこで、ネットの有象無象の世界に迷い込んだ。そのせいで、ネット初心者の楓先輩は、ずぶずぶとネットの罠にはまりつつあるのだ。


「ωヒュンって何?」


 先輩は、その言葉をオメガヒュンと呼んだ。

 えー、それは読み方が違います。僕はωについて考える。大文字でΩ、小文字でωは、ギリシャ文字の一つである。二十四個ある文字の中で最後のもの。そのため、最後を意味する言葉としても利用される。「私はアルファでありオメガである」このフレーズは、新約聖書のヨハネの黙示録に出てくる有名な言葉だ。そしてωは、物理学や数学などで多用される記号でもある。


 しかし、そんな歴史的経緯は、ネット社会ではあまり関係がない。このωは、その形の面白さから、アスキーアートの一部として多用されている。最もよく使われるのが口である。猫の鼻梁を思わせるその形から、そのものずばりの猫に使われたりする。また、マンガの可愛らしい表現として猫耳を付けるように、猫口にして可愛らしさを表現するのにも利用される。


 このωには、実はもう一つのアスキーアートとしての用法がある。それは、ふぐりである。オオイヌノフグリのふぐり。瑠璃唐草、天人唐草とも呼ばれるこの植物は、その形が犬の陰嚢に似ている。オオイヌノフグリは、その形から、大きい犬の金玉という名前で呼ばれている。ωという記号は、このふぐりの表現として使われるのだ。


 金玉がマンガの題材として使われることは多い。特に低年齢層向け少年マンガでは、その傾向が顕著である。月刊コロコロコミックにその傾向が強く、この雑誌には、かつて「超人キンタマン」という、そのものずばりの名前のマンガが連載されていた。また、地味だけど実力派のマンガ家である徳弘正也の「ジャングルの王者ターちゃん」では、主人公が金玉の皮で、ムササビのように空を飛ぶ。

 そういった金玉の系譜は、現在でも脈々と受け継がれている。ネットでも大人気の荒木飛呂彦によるマンガ「ジョジョリオン」では、主人公の睾丸が四つあることが明かされている。そして、主人公の金玉が、物語の鍵を握っているのだ。


 金玉というと、先ほど僕が楓先輩に語った勝海舟にも、金玉のエピソードがある。彼は九歳の頃に、狂犬に睾丸を噛まれて生死をさまよった。まさにタマヒュンもののエピソードである。そう。ωヒュンは、オメガヒュンではなく、タマヒュンと読む。このネットスラングは、ωという記号を使わずにタマヒュンと書くことも多い。


 僕は脳内で、様々なωな話を展開させる。しかし、そんなことを口に出して言えるはずがない。

「ωは金玉なんですよ。僕は金玉について、これだけ知っています。僕は、金玉マンガ研究家ですからね」そんなことを言った日には、僕の文芸部での地位は地に落ちる。墜落して、地中に潜り、地底人になり、人類に復讐を誓い、地上で大暴れして、科学特捜隊に倒されてしまう。

 そんなことを瞬時に考えながら、僕は楓先輩にどう説明するのか考える。


「楓先輩。その言葉は、オメガヒュンではなく、タマヒュンと読むのが正しいです」

「そうなの? なぜオメガをタマと読むの?」


 因果関係が分からない。そういった顔を先輩はする。僕は、その説明を避けるために、男性の生理について、楓先輩に語りだす。


「先輩。男性には、女性にはない、特別な感覚があります」

「えっ? それは、タマヒュンと関係がある話なの」


「ええ。大いに関係があります。女性の生物としての本体が、卵母細胞と卵巣であるように、男性の生物としての本体は、精母細胞と精巣になります。いわば、僕たちが本体だと思っている人間部分は、その卵巣や精巣を運ぶ、乗り物でしかないわけです。


 この男性の精巣は、そういった観点から男性の本体であり、急所となります。そして女性と違い、男性の精巣は、外部に露出した作りになっています。

 この男性の睾丸部分は、腹筋の一部が変容した精巣挙筋に覆われています。この筋肉を使うことで、男性は無意識のうちに睾丸を上下させているのです。この運動は、寒い時は睾丸を体に近付けて熱を確保し、熱い時は体から遠ざけて、熱を逃がすためだと言われています。


 この陰嚢の上下運動は、実は他のケースでも起きるのです。それは、人体に危機が迫った時です。脳が生命の危険を察知すると、体は急所を守るために、精巣を下腹部に収納しようとします。そのため男性は、恐怖を感じると睾丸が上がるという現象が起きます。

 実はタマヒュンとは、この現象を指し示しているのです」


 先輩は、想像しにくいのか、少し考え込むような顔をする。楓先輩には、金玉はない。あってたまるものか。あったら、僕は耽美なBLワールドにダイブしないといけない。そんな金玉のない楓先輩だから、その動きを想像するのは困難だろう。この難局を乗り切るには、どういったものがタマヒュンなのか、具体的に説明しなければならない。


「楓先輩。ネットでωヒュンと書かれる画像や動画には、だいたい二つのケースがあります。男性の生理機能を知らなくても、その対応を覚えておけばよいでしょう」

「分かったわ。そのケースを教えて」


 先輩は、僕の話を熱心に聞こうとする。僕は、勢いに乗って説明する。


「一つ目のケースは、高いところに登って、下を見下ろしているような画像や動画です。生命の危機を感じて、思わずすくみ上がります。そういった時に、男性はタマヒュン状態になるのです。このパターンが最も多いです。

 二つ目は、男性の生殖器に損害を与えるようなケースです。男性が、股に打撃を受けて悶絶するところを見たことはありますか? 男性は、そういったことを想像するだけでも、恐怖を感じるのです。そのため、急所が痛そうな画像や動画を見るだけで、タマヒュンしてしまうのです。

 そしてωは、この男性のクリティカルな場所に、形が似ていることから、タマという言葉の代わりに用いられる記号なのです」


 僕はωヒュンの説明を終えた。完璧だ。きっと先輩は僕のことを、医学的、生物学的に人体を考察する、高尚な人間だと思ったことだろう。よもや僕が、金玉マンガに精通しているなど、思いも寄らないはずだ。


「うーん。言いたいことは分かるのだけど、男性がどういったようにヒュンとなるか、ちょっとイメージできないわ」


 楓先輩は悩ましい顔をしている。そうですか。分かりませんか。僕の説明が不十分でしたか。それは困りました。僕の沽券に関わります。僕は、どうすれば先輩が、男性の睾丸の生理について理解できるかを考えた。


「仕方がありません。一肌脱ぎましょう。楓先輩! 僕がその様子を見せて差し上げます」


 僕は股間に手を近付ける。その様子を見た楓先輩が、驚いた猫のように、ふぎゃーっとなり、顔を真っ赤に染めた。


「サ、サカキくんの、エッチ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!」


 先輩はその声を残して、部室から飛び出していった。

 えー、あのー、自分で自分に打撃を加えて、悶絶してみせようとしたのですが。いや、楓先輩に蹴ってもらった方が適切だったか。……ああ。僕は、自分が変態紳士の思考に染まっていることに気付き、うな垂れた。


 それから三日ほど、楓先輩は僕を避け続けた。ωに操られている、男性という謎の生物。楓先輩は、どうやら僕のことを、そういった目で見ているようだった。仕方なく僕は、その三日間、自分のωを恨めしく思いながら過ごした。


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