「指標論」:ロザリンド・E・クラウス『アヴァンギャルドのオリジナリティ』入門
「指標論」の主張は次のものです。
70年代の美術の本質は「指標(インデックス)」の論理にある。
以下では、この主張の内実を解説していきます。
なお、「指標論」は2つの「パート」に分かれている論考なので、解説もそれにしたがいます。「パート 1」の解説では、「指標」という概念の概要とその代表例としての写真について、そして70年代美術の「先例」としてのマルセル・デュシャンについての議論を取りあげます。
「パート 2」の解説では、70年代美術のなかでも抽象絵画が写真的となっているという議論を解説します。
パート 1
70年代の美術には、かつての「抽象表現主義」や「ミニマリズム」のような覇権的なムーブメントが存在しないとされます。例えばクラウスは、70年代美術の多様性を示すために以下の「リスト」をあげています。
ヴィデオ、パフォーマンス、ボディ・アート、コンセプチュアル・アート、フォト・リアリズム絵画、それと結びついたハイパー・リアリズム彫刻、ストーリー・アート、モニュメンタルな抽象彫刻(アースワーク)、さらに、いまでは厳格さではなく故意の折衷主義を特徴とする抽象絵画。
しかし、クラウスは〈様式〉こそ多様であっても、それらには本質的な共通点があると主張します。それが「指標」の論理の存在です(「シュルレアリスムの写真的条件」において、シュルレアリスムの定義に使ったのと同じ論法ですね)。
***
最初に登場する作品は、ヴィト・アコンチのヴィデオ作品、《エアータイム》(1973年)です。それは、
作家が座って、鏡に映る自分の像に向かって、40分間、語りかけるという作品だ。自分自身を指示するために、彼は〈私〉と言うが、しかし常にではない。ときどき彼は鏡に映った自分に〈おまえ〉と話しかけるのである。〈おまえ〉は、録画された彼のモノローグの空間のなかで、ある不在の人物、彼みずから話しかけていると想像する誰かによって満たされもする代名詞である。しかし〈おまえ〉の指示対象は不断に逃げ去り、入れ替わり、再び鏡に映った自分自身である〈私〉に戻ってくる。
つまり《エアータイム》は、〈私〉や〈おまえ〉といった人称代名詞による、さまざまな人物の指示を主題(の一つ)とする作品だということです。
その代名詞の性質は(アコンチはそれを大胆に利用していますが)、どんな日常的な状況においても変わりません。クラウスも言うように、「われわれは互いに話しかけるとき、双方が〈私〉と〈あなた〉を使うが、これらの言葉の指示対象は会話の空間を横切って入れ替わり続ける。私が〈私〉の指示対象であるのは、自分が喋っているときだけであり、あなたの番になれば、あなたが〈私〉になる」(300頁)というわけです。
そして、クラウスは代名詞が「指標」という記号であると言います。
では、指標とは何か。
注目すべきは、指標が「象徴(シンボル)」という記号に対置されることです。というのも、象徴は慣習的な規則にしたがって、常に特定の何かを指し示す記号であるのに対し、指標はそうではないからです(例えば、「鏡」という語の指示対象は常に鏡だと決まっていますが、「私」という語の指示対象は誰がその語を発しているかによって決まります)。
ここで、クラウスによる指標の説明を引用しましょう。
象徴と違い、指標はその意味をその指示対象との物理的関係軸に沿って打ち立てる。指標は、ある特定の原因の印または痕跡であり、そしてその原因は、指標が指示するものであり、意味する対象なのである。指標のカテゴリーのなかに、われわれは物理的な痕跡(足跡のような)、医学的徴候[…]を含めるだろう。投影(キャスト・シャドウ)もまた、対象の指標的記号として仕えることができるだろう…...。
ここでの指標の説明を、代名詞についての話と合わせて理解するのはむずかしいのですが、指標という記号が何を指し示すかは(象徴と違って)規則によらず、指示対象との物理的関係によって決まるということを把握しましょう。例えば、ある人の足跡が指標であり(またはある人が発した「私」という語が指標であり)、その指標はその「ある人」を指示している・意味しているということです。
指標の実例はこのあとも出てくるので、きっとのちのち理解は深まるでしょう。
ともかく、以後も指標vs象徴という対立図式が繰り返されつづけるので、この図式を念頭におきましょう。
***
ところで、70年代美術を論じると言っておきながら、「パート 1」はほとんどマルセル・デュシャン論です。なぜかと言うと、「指標記号の問題に対するデュシャンの関係[…]は、70年代の美術にとってあまりにも重要な先例であ」り、そして「デュシャンこそが指標[…]と写真との結びつきを初めて打ち立てるから」です。
あらかじめ言っておくと、クラウスは写真こそが指標の典型例であり、言い換えれば、70年代美術が写真的であると考えているわけです。
では、クラウスが「写真」の何に注目しているかというと、その「物理的生成の絶対性」です。彼女はその点で写真(=指標)を絵画(=象徴)に対置します。
いかなる写真も、光の反映を感光性の表面に転写した物理的痕跡の結果である。写真はそれゆえ、一種のイコン[類像]つまり視覚的類似性であり、対象に対し指標的関係を持つ。真のイコンとの隔たりを写真が感じさせるのは、この物理的生成の絶対性によってである。つまり、大抵の絵画の描写的表象のなかで作用している図式化とか象徴的介入といったプロセスの入りこむ余地を与えない、もしくはそうしたプロセスを短絡させるように見えるような物理的生成によってである。
ここで言われているのは(かなりおおざっぱな議論ですが)、たいてい絵画は固有の規則にしたがって制作される「象徴」であるのに対し、写真はたんに物理的痕跡、つまり「指標」であるということです。写真は美術(史)の慣習や決まりごとを無視して作られるとも言えるでしょう。
(おまけに言及しておくと、ここで「イコン」とは視覚的に類似した記号のことであり、絵画も写真も(たいていは)イコンです。少なくともクラウスはイコンという概念をそのような意味で使っています)。
では、デュシャンについて。クラウスはたくさんの彼の作品に言及しているのですが、以下では、特に〈レディメイド〉を取り上げます。
クラウス以前にも以後にも〈レディメイド〉の解釈は無際限にありますが、ともかく彼女はそれを——デュシャンの言葉を傍証として引きつつ——「スナップショット」として見ます。
クラウスの主張は単純で、つまり〈レディメイド〉とは写真のようなものだということです。なぜなら、「それは、ある対象を、現実の連続から、分離あるいは選択の契機によって、芸術・イメージの固定された状態へと物理的に転置させる」ものだからです。つまり、デュシャンは、写真を撮るようにして日用品を「切り取っ」て、それをレディメイドとして「登録」するというわけですね。
そしてクラウスは、この〈レディメイド〉論をふまえて、指標という記号の重要な特徴を(再度)指摘します。
それは本来的に「空虚な」記号であり、その意味作用は、ただこの一つの事例の関数であり、ただこの対象の実在的現前によって保証される。指標という条件によって制定されるのは、意味無き意味にほかならない。
ここで(難解な言葉遣いによって)言われているのは、指標とは「空虚」な記号であるということ、つまり、まさに〈レディメイド〉がそうであるように、(美術史上の)慣習的な規則にしたがった意味は持たないものだということです。
そして、ここからクラウスの議論は70年代美術へと折り返します。
70年代の美術がこうしたいっさいとどんな関係があるのか問うとすれば、再現=表象の手段としての写真の浸透を指摘することによって、きわめて手短かに要約することができるだろう。写真はフォト・リアリズムというあからさまなケースにおいてだけでなく、ドキュメントに依存するあらゆる形式——アースワーク(とりわけここ数年の間に展開したような)、ボディ・アート、ストーリー・アート——そしてむろんヴィデオにも浸透している。だが重要なのは、たんに写真そのものが至るところに現われるようになったことではない。そうではなく、明白な指標的条件と結合した写真が重要なのである。
この文章のあと、いくつかの作品が具体例としてあげられるのですが、70年代美術の本格的な紹介は「パート 2」においておこなわれます。
次に進みましょう。
パート 2
もちろん、クラウスの主張は「パート 2」においても変わりません。再度確認しておくと、それは70年代の美術が指標の論理にしたがっている、つまり写真的であるというものです。
そして「パート 2」は、なかでも抽象絵画が写真的になっているという(極端な)事態に焦点を当てます。いわく、「写真が抽象のモデルとなるということは異例の変異であり、私の思うに、その変異の論理を掌握することこそ重要」だからです。
そこでクラウスがあげている例は、どれも1976年のP. S. 1——公立学校を(アトリエと)展覧会スペースとして改装した建物——における「ルームズ(Rooms)」展での展示作品です。以下では、彼女がなかでももっとも分量を割いて論じている抽象絵画、ルチオ・ポッツィ《P. S. 1 Paint》を取りあげます。
[…]ルチオ・ポッツィは、二色に彩色した一連のパネルを、施設としての都合によって別々の区画としてペンキの色で唐突に塗り分けられていた学校の壁のあちこちに配置した。ポッツィがこれらの壁に取りつけた小さなパネルは、壁のペンキの色の境界線を横切って架橋しながら同時にそれを反復することで、この現象に同調するものであった。パネルの両半分の色は、その下の壁の色と符号し、色の境界線はもとの場の非連続性を反復した。
ここで言われているのは、ポッツィの絵画が既に塗り分けられている学校の壁の上に、それを反復するように置かれているということです。
そして、やはりそれは写真的だとされます。というのも、その絵画は「切り取り、縮小、そして明らかな平面化」によるものだからです。
それから、クラウスは70年代のポッツィの絵画を、60年代のエルズワース・ケリーの抽象絵画に対置します(ここでもやはり先ほど言及した、指標vs象徴の対立図式が繰り返されます)。
少し長くなりますが、引用します。
たとえば、ポッツィのこの作品と、エルズワース・ケリーによる二色の絵画とを比較してみることができるだろう。ケリーの作品では、ポッツィのパネルの場合と同様、鮮明な二つの色面が隣接し、それらの色面内ではいかなる色彩の変化もなく、そしてこの単調な色彩がそのまま作品の物理的支持体の縁まで及んでいる。しかし、体裁上の相似がなんであれ、二作品のもっとも明らかな違いは、ケリーの作品がその環境から切り離されているということである。視覚的にも概念的にも、それはいかなる特定の場所からも自由なのだ。それゆえ、ケリーの絵画の境界内で生じていることはすべて、作品のある種の内的論理との関連で説明されなくてはならない。このことはポッツィの作品においては違う。その色彩と色彩間の分割線とは、それらの色彩がその内部に視覚的に組みこまれ、その特徴を複製している壁に厳密に負っているのである。
つまり、両者の抽象絵画は見た目こそ似ていますが、一方はその環境に依存しているもの(ポッツィ)であり、もう一方は環境から切り離された「内的論理」に依存しているもの(ケリー)であるという点でまったく別物だということです。
(なお、ここで「内的論理」とは、モダニズム(絵画)の還元主義と関連するものです。クラウスは、ケリーによる絵画の抽象への還元を「絵画的コードのある種の図式化」だと言います)。
***
ほかにもいくつかの作品が取りあげられているのですが、「指標論」の主張は一貫しており、「パート 2」の最終段落でも「指標が、非常に多くの今日の芸術家の感性をかたちづくるなにものかとみなされねばならない」(331頁)ということが再確認されています。
やはり写真的であるということが「現代」美術の特徴だということですね。
今回は以上です。お読みくださりありがとうございました。
画像出典
見出し:Rosalind E. Krauss, The Originality of the Avant-Garde and Other Modernist Myth, MIT Press, 1986, p. 214.
Rosalind Krauss, “Notes on the Index: Seventies Art in America. Part 2,” October, Vol. 4 (Autumn, 1977), p. 62.



コメント