かつての古代シルクロード・北方陸路の重要中継点にあった現中国北西部、中央アジアの商業都市でした。

桜蘭の謎は「遺跡から発見される物が様々な文化圏の物であったので、どんな人が住んでいたか想像が難しかった」事にあるんではないかと思います。古代ギリシャの神話のエルメス、インド風の仏像、中国風の壁画、そして現中国西部から出土された3000年以上前のヨーロッパ人に見える紅髪のミイラ等があります。

1900年3月23日にタクラマカン砂漠を探索していたスエーデン人、スヴェン・ヘディンが中央アジアの砂漠地方、タクラマカン砂漠を探索している最中に人も水もほとんど無い僻地に古代の重要かつ広大な遺跡を発見しました。

19世紀末、タクラマカン砂漠は「地球上の最後の無探検地帯」等と言われていました。中国、インド、カザフスタン、チベット、タジキスタン等の多くの国家と面していますが、人も水も無い地域も多く、各国家の国境境や地理すらも曖昧になっていて、当時インドを植民地統治していたイギリス等は特にこの地理の整理について興味を示していました。

1894年~1908年の間に4度の中央アジアの探索捜査を行ったスエーデン人のスヴェン・ヘディンはこの地域の地理・測量と理解を進めるのに大きく貢献しました。

ヘディンは1900年8月に現地のカローシュティー語で「クロレン」、その発音に充てられた漢語の「楼蘭」(ローラン・ろうらん)で頻繁に呼ばれます。「クロレン」とは元々はカロ―シュティー語で「王都」を意味する言葉だったそうで、当初はその都市のみを指す言葉だったのが次第にその地域全体を指すようになったと考えられています。

ヘディンは楼蘭を形容する西晋(4世紀初頭)時代の文書やそれ以前のカロシュティー語の木簡を発見し、楼蘭と言う古代都市がこの地域にあった事が理解されました。

また、1906年~1911年にかけてインドよりイギリス人のオーレル・スタインも桜蘭の探索に、ヘディンが漠然と形容した古代遺跡の最大城壁跡(ルーランA・LA遺跡)、小規模の城壁跡(ルーランE・LE遺跡)、古代墓地(ルーランF・LF遺跡)、より小さな城壁の町跡(ルーランK・LK遺跡)等と合理的に地域の遺跡を整理、記録した上に、カロシュティー語で書かれた様々な古代文書もインドに持ち帰り、以後研究対象となりました。

日本からも第二次大谷探検隊が楼蘭遺跡を1908年に探索して「李白文書」と呼ばれる538年の文書を発見しています。紙で書かれた現存する最古の文書の一つです。

1970年代より中国政府よりの楼蘭遺跡の考古学的研究が進められ、多くの未発見の城壁等が無い当時の集落や出土品も増えて行って理解が進み、なお近来ではDNA研究よりどの様な人が住んでいたのかの理解も進められています。

楼蘭遺跡から1世紀BCから7世紀AD頃にかけて様々な文化背景の美術品が出土しました。

古代ギリシャの神話が描かれた壁画

漢時代の中国の文化影響が指摘される壁画

やインド文化圏の影響も指摘されます。

そして銅器時代からの中央アジアの遊牧民族の独特の文化の影響も見られます。

またもう一つ多くの人の関心を引いたのは「タリム盆地のミイラ」でした。1906年のスタイン探索隊から始まり、以後300以上のミイラが古代楼蘭遺跡より発見されています。

砂漠地帯の保存状態の良さより衣服、顔の原型や、髪の毛まで保存されている物が多く、

現在は最古のミイラは1800BC、4千年近く前の物である事も分かっています。

また、赤色の髪や褐色の髪、白人を思わせる様な骨格や顔の系統等も古代楼蘭の人々がどんな人種系統であり、どの様な経緯でこの地に住み着いたのかと言う事も多くの人の関心を生みました。


この様々な文化圏のアートの影響が見られるのはDNAから人の流れよりの影響が大きかった事が現在は確認できます。

近来ではDNAの研究、放射性炭素年代測定等より楼蘭の住民が誰であり、何時この地に住み込んで文明を開化させていったのかの理解が進んでいます。

最初の楼蘭に住み着いたのはトカラ民族が主であったと考えられています。

ユーラシア大陸の中央の遊牧民を起源とし、東西に広く配布した「トカラ言語」を話す人々がヨーロッパ、中東、インド圏や中央アジアにも移動し、その一部が楼蘭へと紀元前1800年頃には住み着いていた事が分かっています。

しかし、トカラ人の単一民族と言うわけでは無く、最古のミイラ(1800BC前後)からは72%古代北ユーラシア人と28%古代北東アジア人のDNAであり、古代ANE人口と比較してやや「ヨーロッパ人寄り」の古代民族であった事が分かり、赤い髪や現代のヨーロッパ系民族の顔つきに近い成り立ちが分かります。

この集落は19世紀BC頃から4世紀BC頃まで比較的に他の周囲の人口とはDNA的にはあまり混ざらず、人種的には孤立した集落が維持されていたと考えられていますが、文化的・農業技術等の影響は多大に受け、農業、工芸、軍事武装等においては周囲と合わせた社会を組んでいました。

4世紀BCにはアレキサンドロス大王がインド圏まで広大な帝国を築き、インド圏ではまずギリシャ文化の影響を多大に受けたグレコ・バクトリア王国(Greco-Bactrian Kingdom)が3世紀BCから2世紀BC末まで栄え、

その後には「クシャーン帝国」が3世紀ほどの覇を唱えます。

これらのギリシャ圏の影響が中央アジアに影響を及ぼしたのが桜蘭に見られるギリシャ風の神話の壁画やアートと考えられています。

特にインド圏(現パキスタン北部)からガンダーラ人が4世紀BC頃から多数楼蘭に移住してきて永住したと考えられています。

ガンダーラ語は桜蘭では公用語となっていき、文字が定着したのはガンダーラ語が利用された時に使われ始めたと考えられていますが、様々なトカラ語の言葉が組み込まれた独特の言語に発達したと理解されています。なお、仏教発祥の地であるガンダーラより仏教の経典や教え、文化も伝わり、桜蘭では仏教が大変に盛んな地域ともなります。

なぜ古代においても多くの人の流れが桜蘭を通ったかと言うと、シルクロードの商業ルート上にあったからです。

古代においておおざっぱに「陸路・海路」のシルクロードルートがありました。

陸路ではタクラマカン砂漠を突破する必要があり、 水や食料を確保しながら進むには川沿いにひたすら進む事が望ましかった事は容易に理解できると思います。タリム川は桜蘭の貴重な水資源だっただけではなく、シルクロードより西へと向かう商人にとって非常に重要な中継点であった事が理解できると思います。

アレキサンドロス大王の東進によりヨーロッパから中東、インドまでの広大な帝国が設立されると商業ルートも開け、人と物品の東西の流れが活発化していき、その中継点の桜蘭も栄えたのだと思われます。

関税を取る事より物流のメリットを得て、一部の商人たちも桜蘭に住み着いたと思われます。

結果としてタリム川沿いに多くの集落や城塞都市が建ち、その最大規模の街が桜蘭(王都)と呼ばれていました。

1世紀ADから3世紀ADの桜蘭の住民のDNAには中央アジア、ヨーロッパ、中国圏やインド圏のDNAの痕跡が発見されていてます。


しかし、3世紀BC頃より桜蘭は近隣の争いに巻き込まれて行きます。

この頃、桜蘭の北には匈奴帝国、南東には漢帝国がありました。

漢帝国の北のモンゴル草原には月氏と匈奴と言う有力な遊牧民族共同体が存在し、長きにわたって争われていました。しかし、176BCで匈奴と月氏の間で大きな戦が起こって月氏は壊滅的な敗北を経験し、モンゴル草原を匈奴の渡して民族大移動を開始します。

南へと現中国の青海省に移住した民族を「小月氏」、より西の中央アジアで一代勢力を築いた民族を「大月氏」と呼びます。

ちなみに中国史と照らし合わせると

  • 始皇帝が中華統一:221BC
  • 始皇帝死去:210BC
  • 秦帝国滅亡:206BC
  • 漢帝国建国:202BC
  • 201BC~198BC:第一次漢匈戦争
    • 201BC:匈奴が長城を突破して漢に侵略
    • 200BC:漢が大軍を送って匈奴と決戦。白登山の戦いで匈奴が圧勝、さらに前進
    • 198BC:漢が講和の条件として匈奴の属国となる事に同意
      • 漢皇帝は毎年の金銀財宝の貢物を匈奴単于(王)に送る、漢皇帝は匈奴単于に公主(皇帝の実娘)を側室として差し出す、匈奴単于は漢皇帝を義兄弟として認める
  • 劉邦(漢高祖)死去:195BC
  • 呂太后時代(劉邦の妃、呂太后が実権握る)195BC~180BC
    • 漢2代 惠帝時代:195BC~188BC
    • 3代 前少帝:188BC~184BC
    • 4代 後少帝:184BC~180BC
  • 5代 文帝:180BC~154BC
    • 176BC:匈奴が月氏に勝利してモンゴル草原を統一
    • 同年:冒頓単于が匈奴帝国を建国
    • 同年:月氏がモンゴル草原から撤退・民族大移動。
  • 6代 景帝:154BC~141BC
  • 7代 武帝:141BC~87BC
    • 133BC:武帝が60年ほど続いた匈奴との属国関係を否定して貢物の提出を否定、匈奴の将軍たちを奇襲で攻撃、第二次漢匈戦争に突入
    • 126BC:楼蘭が匈奴帝国に征服される
    • 108BC:楼蘭が漢帝国に征服される

と言う感じです。

月氏がシルクロード沿いの領土を征服して移り住み、現地も混乱したと思われますが、匈奴のモンゴル草原統一の影響はまだまだ続きます。

133BC頃に劉邦の白登山の戦い(200BC)の敗北より長らく続いていた漢皇帝の匈奴への服従を武帝が跳ねのけた事より、第二次漢匈戦争が開始します。この一環として、匈奴はより西から陸路シルクロードの利権のコントロールと漢への牽制に目を付けたと考えられています。

「漢書」(著110BC頃)は前漢の史書ですが、匈奴の単于(皇帝)が漢武帝にたいして漢の西の地で26の国を征服したと自慢・威嚇する文書が届いたと書かれていて、その26カ国の一つが「楼蘭」と記されています。

これは楼蘭の人々が丸ごと領土が追い出されたわけでも、既存の政府体制が取り除かれたわけでも無く、楼蘭の王が匈奴帝国に服従を示し、貢物と税、恐らく関税の一部等を匈奴に献上する義務が課せられたと考えられています。

シルクロードの利権を匈奴に危ぶまれた武帝は漢の西進を開始します。

133BCに匈奴の属国からの独立を宣言し、匈奴との全面戦争に突入した武帝は127BC~119BCに長らくの漢の匈奴に対する防衛体制を改め、積極的に北へと大軍を送り込み、匈奴を北へ、北へと追いやり始めます。当初は漢軍は苦戦するも、武帝の騎馬中心の軍事態勢への改革等も効果的であり、121BCには漢は匈奴よりシルクロードの重要通過回廊である河西回廊を奪い取りました。そして、119BCには匈奴は何百キロも北へ、シベリア地方へと撤退していきました。

匈奴は多くの遊牧に適した草原地帯へのアクセスを無くした事により人口の数割が餓死する惨状となりますが、一方で漢でも莫大な戦費より大幅な増税が行われ、領土拡張が行われたに関わらず、人口が低下すると言う国力低下が見られると言う事より第二次漢匈戦争の激しさが伺えます。

こうなると、楼蘭のあり、河西回廊の西にあるタリム盆地は大変な状況となりました。126BC頃よりタリム盆地地帯は匈奴帝国の一部となっていましたが、漢がすぐ東の河西回廊の地域を征服し、軍がタリム盆地にも遠征を開始し、匈奴と漢の軍勢が行き来するようになります。

匈奴はモンゴル草原の良放牧地を失った事より食料確保に必死であり、タリム草原の属国に重税を課し、食料を大量に徴収するようになります。

一方で漢も匈奴を弱体化する為にタリム盆地の諸王国に武威より匈奴から切り離し、漢の属国へと変じようとし始めます。

楼蘭等はこの間に挟まれた形となりました。桜蘭は匈奴寄りの外交立場を示し、漢に対して事構えたと「漢書」には書かれています。

108BCに漢の趙破奴将軍が一軍を率いて楼蘭王と一戦を交えたら桜蘭は大敗し、王は捕らえられ、漢軍が桜蘭を占拠しました。桜蘭王は王子を一人人質として差し出し、漢への服従を示し、貢物を毎年贈る事に合意しました。

ところが、漢軍は引き返して数週間もしないうちに今度は匈奴の軍勢が桜蘭を攻めて占拠しました。匈奴としても桜蘭は重要性が高く、桜蘭が漢に付く事は傍観できなかったと思われます。桜蘭王はもう一人の王子も匈奴に差し出して服従と貢物を約束したと言われます。

104BCに桜蘭の西の大国であった大宛国と漢が戦争状態となり、漢の大軍が西への遠征に行く途中、ほぼ「ついでに」と言わんばかりに桜蘭王は捕らえられ、長安に送られ、漢武帝に詰問されました。武帝は桜蘭王を「何故に漢に服従を誓った桜蘭王は匈奴にも臣下の交わりをかわすのか?」と責め立てたら桜蘭王は

「小国は大国の間にあり、両属せねば安んずることは出来ない」

と答え、漢が両属を許さぬのであれば、桜蘭の民は漢の領内で土地を分け与えてもらえるなら喜んで移住し、漢のみに服従すると約束しました。

これに武帝は桜蘭に他意は無かったと満足し、桜蘭王はお咎めなしの帰国を許されたと「漢書」で記されています。

しかし、桜蘭王が92BCに死去すると後継者問題が起きます。桜蘭よりは使者が送られ、漢に「王太子を即位させたいので桜蘭へ帰国を許してください、代わりの王子を送ります」と言う(至極最もな)文書が届けられると武王はこれを却下します。

桜蘭太子は漢朝廷で不敬罪を問われて宮刑に処されていて宦官となっていたので、この事を桜蘭に知られたくなかったと考えられています。

仕方なく桜蘭は匈奴に人質の王子の返還を求め、その王子が帰国して「新王」となりました。新王は漢にも匈奴にも王子を人質として送ります。

ところが新王は即位して数年の内に病死します。再び楼蘭は漢より太子の返還が求められますが、再び漢は却下します(この理由は漢書に記されていないので知られていません)。そこで匈奴に預けられていた安帰が帰国し、楼蘭王安帰となります。

匈奴と近い付き合いを持つ安帰王は漢に対して強い不信感を持ち、漢が王子を人質として漢朝廷への参朝を命じたら、安帰王は漢使を殺害してしまい、「漢に預けられた王子は誰一人帰らない」と指摘したと言います。

そして77BC、漢は大将軍電光に数万の大軍を与えて桜蘭に向けて侵攻を命じます。数千の兵しか持たない桜蘭は恐怖で大混乱に陥り、将軍電光は戦うまでも無く、安帰王を始めとした親匈奴派の首を要求したら安帰王は暗殺され、桜蘭は漢に服従しました。

漢朝廷に先代より預けられていた王弟の尉屠耆が楼蘭へと王位を得る為に送られましたが「楼蘭国」の王では無く、新たな漢の属国として「鄯善国」の王と言う称号が与えられ、漢の公式文書では桜蘭国を「鄯善国」と記すようになります。

しかし、現地では「楼蘭」と言う名称が使われ続けたようで、対外的には「鄯善国」、地域の現地名将としては「楼蘭」と言う風に収まったと考えられています。

ともあれ、以後より桜蘭王は漢の完全な傀儡となり、漢軍は桜蘭を軍事拠点として西進の一歩とされ、以後のタリム盆地征服の拠点として利用されていきます。楼蘭王は実権を持たないお飾りの王となり、現地に駐屯された漢の都尉が実権を握ります。

漢はタリム盆地の支配の度合いを深めていき、匈奴の影響力は十数年の内にほぼ喪失し、前60年には桜蘭を含むタリム盆地の諸王国は「西域都護」として漢帝国の一部として併合され、西域都尉が置かれる様になります。

漢の統治下でシルクロードの貿易は爆増して活発化していき、タリム盆地地帯も栄えていきました。桜蘭でも複数の新小型集落や城壁の拡大が行われて行き、全体としてはタリム盆地地帯の都市国家は26国から55国に増加します。これは既存の王国が分裂したのではなく、経済の活発化と農業用水路の建設より地域の経済が拡大し、多くの町が生まれ、一部が「国」と呼ばれる規模に拡大したからでした。

また、漢よりの「入植者」も長期駐屯兵の家族・氏族と言う形で大規模が送られてきて、鄯善国でも用水路の建設と新たな農地の開拓、新たな集落の建設と言う形で中国人が住み着いたと「漢書」で記されています。

この時代の楼蘭よりは漢の影響を色濃く受けた絹を始めとしたさまざまな豪華な物品が発掘されていて、楼蘭の栄華が感じられます。


しかし、漢の西域都尉の支配は長くは続きませんでした。

8AD頃の前漢の滅亡と中央混乱期より漢の西部地域への影響力は激減し、25ADには楼蘭国は「匈奴の属国」として記録されています。

これより楼蘭は数世紀も「匈奴」と「中華」の間で揺れ動きます。

再び天下統一を成し遂げた後漢朝78ADに西域の権力復興の為に班超将軍を大軍を与えて征服させ、楼蘭国では匈奴の軍使が斬首されて楼蘭に送られたら漢への服従を誓ったと記録されています。

三国時代(190AD~3世紀初頭)の混乱の初期では再び後漢の西域の影響力は激減し、匈奴の影響下に収まります。

以後、魏や西晋等の時の中華の支配者に服従を示したり、時には匈奴の支配下の半独立国家となったり、揺れ動きますが、桜蘭市が廃墟となったのはタリム川の流れが変わった事より330年ADに水が無くなった事にありました。

楼蘭王と楼蘭の民は50kmほど南の海頭市へと移ったとされます。鄯善国として存続を続けましたが以前のような栄華を誇る事は無く衰弱していき、吐谷渾、柔然等の遊牧民族の襲撃を頻繁に受ける様になり、人口がさらに低下していきます。

445ADには北魏が地域の直接的な支配に乗り出し、鄯善王を連れ去って最後の真達王は消え去ります。名ばかりの鄯善王が北魏より任ぜられるようになり、鄯善国は県と変わらぬ扱いを受けるようになり、独立性を完全に失います。

しかし、衰退の一路は変わらず、気候の変化より雨量の低下等の影響もあり、人口は減り続けました。

インドに仏教の勉強の為に陸路で遠路を旅した玄奘三蔵法師が帰路の途中、680ADに楼蘭地方に訪れた時は村人はインドの人々と同様に仏教の教えを日常的に行う敬虔な人々と形容しますが、この地域では城壁がいくつかあったがすべてが廃墟で中に人は誰一人いなかったと書き記しているので、地域の衰退が感じ取れます。

そのまま砂漠の最中の点在する村として地域はほそぼそと存続し続け、その廃墟が20世紀初頭に外界に再発見される時まで眠りにつきました。

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米国弁護士、法学博士
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