信用貨幣について
TL, DR
(信用)貨幣とは、定量化された貸し借り関係を表現する正重み付き有向グラフである。
2つの信用貨幣
「信用貨幣」という言葉がある。
基本的には支払手段としての貨幣機能から生じたもので、「貨幣支払約束書」としての性格を有する。すなわち、期日指定・一覧払いを問わず、現実の貨幣(本位貨幣)への兌換性・同一性が保証されている必要がある。
これによれば、信用貨幣とは、本位貨幣との兌換性をもつ、またそのことによって価値が保証される貨幣のことだ。本位貨幣とはもちろん、貴金属硬貨、商品貨幣の一種だ。
その平価に相当する一定量の貴金属を含み、実質価値と標記額面との差の無い貨幣のことである。
この意味において、今現在、信用貨幣は存在していない。貨幣を発行する中央銀行は貴金属との兌換性を保証していないからだ。
一方でこうした不換紙幣すらも信用貨幣であるかのように呼ぶことがある。
金属とも何とも引換えてもらえないにもかかわらず、誰もがなぜか「ああ、それが手に入るなら交換に応じてもよい」と考えてしまうところにあります。(略)
人々の信念によって支えられたおかねのことを「信用貨幣」と呼びますが...
この意味では、現在の貨幣はすべて純粋な信用貨幣だ。
さてどっちなのか? この2つでは、信用貨幣という言葉の定義がすり替えられている。兌換貨幣の要件を脱落させた代わりに、上記の日銀のページでは発行者の財務/物価/通用力がそれに代わるものとして掲げられている。
こうした項目が掲げられているのは、結局はそれが商品の代理だからだろう。発行者の財務を気にせよということは、固定されたなにかしらの商品と交換する代わりに、発行者が持っている資産を払い出すことを期待しているということだ。その意味では商品貨幣や兌換貨幣と発想としては変わっていない。発行者が何かしらを「持っている」ことをその担保にしている意味で、この意味の信用貨幣はあくまで商品貨幣の変種であると言える。究極的には価値を商品に求めながらも、商品との結びつきをどんどん曖昧にしているということだ。
さて、ここまでの話はすべて忘れてほしい。 信用貨幣の常識的な認識をあえて書いたのは、これ以降の話は、ここまでの話とはまったく関係がない ということを強調するためだ。ここから、信用貨幣のより純粋な形態 というのを説明する。それは商品や商品との兌換性とは全く関係がない。発行者の財務や物価や法的通用力も、おそらく関係がないか、あるにしてもより間接的な関係しかない。これ以降の話を読むにともなって、ここまでの話がチラとでも頭をよぎったら、それをかき消す努力をしてほしい。「信用貨幣」という単語には、上記で述べた「結びつきを曖昧にした兌換貨幣」を指す場合と、これから述べる純粋な形態を指す場合とがあり、これは全く異なるものであるために話が混乱している。本稿でこれ以降断り無く「信用貨幣」と言った時は、後者の意味だ。
以下で述べるのは、A.M.イネスやR.G.ホートリーが1913年に指摘していたところの信用貨幣観の、自分なりの焼き直しである。当時はまだ金本位制が敷かれていたが、過去に金銀の価値が貨幣の額面価格と常に乖離したまま動いていたこと、および商業上の決済習慣から、彼らはこれから述べるような意味で、貨幣とは信用であることを見出していた。各国政府機関が金銀を兌換に備えて貯蔵する当時の体制を批判し、現在のような純粋な不換紙幣経済の到来を予見していた。
将来の世代は,高邁な経済法則を遵守し,世界の富と繁栄をいや増すとの信念から,ただ地下牢に留め置くためだけに金を大量に買い上げてきた19世紀,20世紀の祖先を嘲笑するであろう。
賢明な諸兄よ!経済と金融財政の知識を自ら誇る世代の奇妙な錯覚,それがいつまでも生き永らえないことを願わざるを得ない。一旦,われわれの時代の恥ずべき法律の枷から貴金属が解き放たれるとき,全世界に資するため,金が貯めこまれず,どのように使われるのかを誰が知るだろうか。
彼らが把握していた信用貨幣観は、現在においてこそ純粋な形で実現している。
ところで、この信用貨幣の「信用」とはなんだろうか? 先の日銀のページにあるような、発行者の財務/物価/通用力のことではない。イネスやホートリーが述べた信用貨幣とは、先述した商品貨幣の派生としての信用貨幣とはまったくの別物だ。例えばイネスは次のように述べる。
ここで必要なことは,「信用」という言葉の原初的な,そして,商業的あるいは経済的な,ただ真に意味することを説明することである。信用は単純に言えば,債務の相関語である。AがBに借りているということは,AはBに債務を負っていることであり,BはAに対して債権をもっていることである。AはBの債務者であり,BはAの債権者である。「債権 credit」と「債務 debt」は,両者間の法的関係を表しており,それらはふたつのそれぞれ反対側からみた同じ法的関係である。Aはこの関係を債務と言い,他方,Bはそれを債権と呼ぶ。
したがって、"常識的な"信用貨幣の用語との衝突と混乱を回避するために、この意味での「信用」とはつまり「貸し借り関係」のこと と理解すべきだ。貸し借り関係こそが貨幣である。貸し借り関係を作ることが貨幣の創出となり、貸し借り関係を精算することが貨幣の消滅となる。 たとえば、「信用がある」とは「借りを返すこと」ではない。返してしまったら信用は消滅する。むしろ多額の貸し借り関係を負っている状態こそ、信用が「ある」状態なのだ。
旧い信用貨幣の説明では、その発行者は何かしら「実物的裏付け」を持っていなくてはいけないような気がしてしまう。例えば発行額に応じた処分できる資産を持っているべきだとか、警察力や徴税による強権を持っているべきだとかだ。まるで貨幣の保有者はそうした発行者の具体的な資産を常に差し押さえているかのようだ。しかしそのような信念はここでの純粋な信用貨幣の発想からはズレている。発行者が実物的裏付けをもつことを要求するということは、結局貨幣価値をそうした実物資産や権力に求めていることにほかならず、それは商品貨幣/兌換紙幣の変種に過ぎない。 信用貨幣とは「発行者への貸し」それ自体が資産だと理解することから始まる。そもそも貸し借り関係とは、そうした実物的なものを即座に用意できないからこそ発生する。貸し借り関係に実物的な対応物を常に要求したら、貸し借り関係自体が成り立たない。 信用貨幣もまた、実物的な裏付けからは原則切り離されたものだ。
「貸し借り関係」と言っても、これは「何かが貸しだされた」ことを意味しない。この貸し借り関係の大きさは、数値で定量化され、それこそが 通貨単位 だ。しかしこの通貨単位は、何か具体的な物質に結びついているわけではない。それはその通貨圏の人間が合意している「価値の単位」 にすぎず、特定の物でも素材でもない。「100円分の貸し借り関係」があるとき、それは過去に100円玉が貸し出されたことを意味するわけではない。どちらかというと慣用的な「貸しがある」「借りがある」という言い回しのほうが近い。AがBに「借り」があるというとき、AはBになんらかの恩義のようなものが発生していて、Bもそれを覚えているということだ。Aは将来Bに相応の施しを行って借りを返すかもしれない。それがいつになるかは二人の関係や二人の間で交わされた約束次第だ(潜在的には無限の未来でありえる)。しかしうまく工夫すればこの「借り」にはそれ以上のことができる。
プロトタイプ
一体なにができるのか? それは、貸し借り関係は、その債務者の存在を知る人間の間では、譲渡・相殺ができる ということだ。
A,B,Cの3人の次のやり取りを考えよう。AはあるときB,Cにそれぞれ1000円分の施しをしたとする。例えば、3人で忘年会に行き、AがB,Cの分の飲食費(一人1000円)を建て替えた等だ。さらにBはあるときAに2000円分の施しをしたとする。例えばA,Bのみで二次会に行き、BがAの飲食費(2000円)を建て替えた等だ。
このとき
B,CはAに1000円の借りがある。
AはBに2000円の借りがある。
ことになる。このことを忘れないように、レシートの裏に「借りがある側の署名と金額」をメモしてもらい、貸しがある側がそれを持っているとしよう。もちろん、信頼関係があればただの口約束でもよいし、今風には3人のLINEグループにメモを投稿するだけでも済むだろう。
さて、3人はこれをどのように精算するだろうか?
B,CがAに1000円を渡す or 1000円分の施しをし、Aが持つB,C署名の入ったレシートを破り捨てる。
AがBに2000円を渡す or 2000円分の施しをし、Bが持つA署名の入ったレシートを破り捨てる。
のがもっとも簡単に見える。「破り捨てる」のは支払い済のマークをするためであり、物理的実装はなんでもいい。この場合は返済のために合計4000円分が動くことになる。
しかしもっと工夫することができる。実はAは何もしなくてもよい。
Aが持つ,B,C1000円分(合計2000円)の署名が入ったレシートBに渡し、Bが持つAの2000円分の署名が入ったレシートをAに渡す。 Aはもらったレシートを破り捨て、Bはこのレシートから自分の名前と金額の部分を消す(Cの署名は残す)。
CがBに1000円を渡す or 1000円分の施しをする。BはAからもらった、まだCの署名が残っているレシートをCに渡し、Cはこれを破り捨てる。
この場合は返済には1000円分しか動かない。
AがBに、B,Cの署名が入ったレシートを引き渡したのは、それをもって2000円の支払いとするためだ。これによって、AがBに負う2000円分の債務ないし請求を解消した。このレシートの内訳は、Cへの貸し1000円とB自身への貸し1000円である。BはAへの貸し(請求権)2000円のうち1000円分をCへの貸し1000円に乗り換え、のこり1000円分をAからBへの貸し1000円と相殺させた。
注目すべきはAが自らの債務を解消した方法だ。「誰かへの貸し」を引き渡すことで「自分への貸し」を精算できる 、これが貨幣の機能だ。実質的に、Aは自分が持つ B,Cへの債権をBに引き渡すことで、Bから2000円分の商品を購入したことになる。この事は、手順を入れ替えてAが二次会すぐにBに2000円を支払うようにすればより際立つ。
信用貨幣の観点とは、「我々が貨幣だと思っているものは、すべてこうした「署名付きレシート」の延長にある」というものだ。これは突飛な話ではない。実際、我々が貨幣だと思っているものは、すべて人為による発行者がおり、かつ彼らは同時に債務者である。紙幣も銀行預金も、(中央)銀行家の負債として認識されているし、硬貨は政府の負債である。発行者がそうしたものを自らの負債として認識しており、実際に負債らしくハンドルすることが、信用貨幣に価値を与えている。
X氏がY氏からモノやサービスを買うと、その金額の請求を受ける。Y氏は請求権を持っており、X氏はそれを支払う責務を負っているという意味で、それぞれ債権者、債務者だ。そこで、X氏は、以前なんらかの取引で得たZ氏の借用証書を持ち出す。それはZ氏がX氏に物を売ったときの未払金かもしれないし、もっと別の方法で入手したかもしれないが、ともかくZ氏がX氏に所定の金額を「負っている」証明だ。X氏がこれをY氏に引き渡すと、Y氏がZ氏のことをよく知っているなら、これを支払いとして受け入れ、Y氏からX氏への請求は解消される。これが金銭の支払いだ。ここで、X,Y,Zがそれぞれ既知の仲であるという条件はかならずしも満足されないかもしれない。では、Z氏が銀行、中央銀行、政府(他にも信用組合、信用金庫、クレジットカード会社、ポイント決済会社、etcetc)のいずれかであればどうだろうか?これのいずれも知らない人間が商いをやっているということはほとんどないので、Z氏がこれらのいずれかであれば、X,Y氏の関係がなんであれ、ほとんどの場合決済は受け入れられる。だからこそ彼らを債務者とする預金、紙幣、硬貨などが一般的に貨幣の代表とされる。
貨幣は、ある意味では「恩ゲージ」を実現する仕組みとも言える。「恩ゲージ」とは、例えばあなたが誰かに有償の施しをすると、施された側は「恩ゲージ」が減り、あなたは同じだけ「恩ゲージ」を増やす。「恩ゲージ」はプラスにもマイナスにもなり得て、その初期値は0であり、全ての人と法人の「恩ゲージ」の総和も0である。このような「恩ゲージ」があれば、それは日常的な「お金」と同じ位便利に使えるだろう。ところが、これを実現するための重大な障害がある。誰かが払い出した「恩」は、その人がマイナスの状態で死んでしまったり雲隠れされると、対応する「恩」保有者のゲージから消えてしまう。死んだ人間からは恩返しを期待できないからだ。このために、「恩ゲージ」は、単に各位に総和がゼロのパラメータを割り付けるだけでは実現できず、「誰からの恩なのか」という情報が常について回る。そうなれば人々はなるべく「強大な存在からの恩」や、「永続的な存在からの恩」や、「身近な存在からの恩」を好んで受け取ろうとするだろう。施しを行って恩を受け取るときに「相手がどんな人間の恩を自分に払い出すか」を常に気にしなくてはいけないことになり、スムーズな取引の妨げになってしまう。これを解消するための仕組みが銀行であり、後で説明する。
貨幣が貸し借り関係だとすると、世の中には様々な貨幣が発生することが予想される。実際その通りであり、日頃なにげなく行っている送金や決済という操作は、この様々な種類の貨幣を連動させることで行われている。ここまでの例では3者しか登場していないが、2者間の送金であったとしても、潜在的には彼らの口座がある銀行、中央銀行、国境を超える場合にはそれらを結ぶコルレスバンクや、外貨為替の取引先などずっと多くの機関のその貸し借り関係が連動する可能性がある。こうしたプロセスを議論するために、貸し借り関係をもっと簡明に記述したくなる。そのための準備をしよう。
貨幣のグラフ表現
「貨幣は貸し借り関係である」 ここから始めよう。そうであるならば、貨幣を記述するためには、貸し借り関係を記述する必要がある。さしあたって貸し借り関係を特徴づける属性として次を認めよう。
債務者:「借り」がある側
債権者:「貸し」ている側
金額:その大きさ(正の数値)
種類:通貨単位および貸し借り関係の細かい条件
最後の種類は、例えば外貨を考えるなど複数の通貨単位を使う場合や、債務に細かい付帯条件がある場合に押し込むためだ。しばらくは簡単のため通貨単位を一つだけとし、2者間の貸し借り関係を1種類で考える。なので最後の「種類」は省略する。外貨を考慮する時に復活させよう。
経済には様々な人や法人が参加する。彼らは債務者にも債権者にもなる。こうした情報を表現するための必要十分な構造は、正重み付き有向グラフである。
有向グラフという言葉を初めて聞くとしても警戒する必要は全くない。グラフとは単にいくつかの点といくつかの辺からなる構造で、辺とは点同士を結んだものだ。辺が有向とは辺が結ぶ2点の順序に意味があるということであり、正重みとは正の値が辺に割り当てられているということである。グラフ自体は、見出そうと思えばどこにでもある、全く日常的な、単なる概念である。
先の貸し借り関係は、このグラフの一つの辺に対応する。矢印のsource(生える側)は、債権者であり、target(向かう側)は、債務者である。重みは金額であり、それは正の値をとる。例えばこんなふうに:
これが貨幣だ。
繰り返しになるが、貸し借り関係こそが貨幣であり、硬貨だの紙幣だのは、債務者の署名を実現する手段にすぎない。貨幣の偽造が禁じられているのも、債務者の債務を捏造できないようにするためだ。そして関係に過ぎないのだから、管理できる限りにおいて物理的実装はどんなものでもよい。実際、銀行預金の実体とは、サーバーの電子データと通帳の記録でしかない。信用できる人間の間で流通するならば、ただの口約束やメモ書きですらある意味では貨幣と思える。
貨幣は貸し借り関係なのだから、これを持っていることは、一義的には次のように解釈できる。
あなたが1000円札を持っているとき、日銀はあなたに1000円の借りがある。
あなたが10000円の銀行預金を持っているとき、銀行はあなたに10000円の借りがある。
あなたが500円硬貨を持っているとき、政府はあなたに500円の借りがある。
銀行Aが当座預金を100万円持っているとき、日銀は銀行Aに100万円の借りがある。
中央銀行が国債を1000万持っているとき、政府は中央銀行に1000万の借りがある。
etcetc...
商品貨幣との対比として重要なことは、貨幣には必ず債務者が居る ということだ。貨幣は匿名中立な、例えば貴金属とか石油とか言ったものではない。まさにそのような認識こそ、商品貨幣がもたらした混乱だった。貨幣には、それが誰への「貸し」なのかという、明確な債務者が居る。債務者が異なる貨幣はすべて別種の貨幣だ。これは通貨単位が同じだとしてもそうだ。債務者が存在するからこそ、どれほど粗末な組成の貨幣でも価値があり、また債務者がさまざまだからこそある貨幣は別の貨幣よりも広い範囲で通用したり、長期間にわたって保有されたりする。
現実の状況からこのグラフを作ることは簡単だ。まず「いわゆる貨幣」について次のことをする。
普段「貨幣」と認識しているものの、発行者または債務者がだれかを突き止める。
その所有者(債権者)から、発行者(債務者)への矢印をグラフに書き入れる。
例えば、硬貨は政府が発行している。紙幣は中央銀行が発行しておりそれは中央銀行の負債である。銀行預金の債務者はもちろん銀行だ。
それから、必ずしも貨幣とは認識されていない、その他の貸し借り関係もここに書き入れる必要がある。具体的には
個人的な金銭の貸し借りやツケ
商取引を行ったあとの未払金、買掛金、売掛金、手形、為替etc…
銀行借入を行ったときの貸付金/借入金
など、おおよそ会計上金融負債と認識されるものをすべてここに書き入れる。これらは、貨幣のグラフ表現を完全なものにするために必要なものだ。そうすると一般的には貨幣とは認識されていない(支払いとしては受け入れられない)ものが含まれるが、それは「流動性が低い」と表現する。つまり、信用貨幣のうち、比較的高い流動性をもつものを、これまでは貨幣と呼んでいたということだ。この流動性の格差については後で触れる。
具体的に貨幣グラフを構築してみよう。
まず、あなたが1000円札を持ってるとする。紙幣は中央銀行の負債である。
中央銀行は銀行なので、一般的に金融純負債を負おうとはしない。金融資産を持っているはずで、その典型は国債である。したがって、中央銀行は国債を持っている。
さらにあなたは銀行Aに預金を10000円持っている。
同様に銀行Aも匹敵する資産を持っているはずで、国債4000円、当座預金2000円、貸付金4000円だとしよう。であれば中銀はさらに追加で2000円の国債を持っているべきだ。貸付金はX氏が融資を受けて得たものだとしよう。
X氏はこの融資で受けた4000円を現金で引き出してY氏に支払ってしまったので預金は2000円しか持っていない。しかし2000円預金があるということは銀行Aは追加で資産を持っているはずだ。銀行Aの資産に国債2000円を追加しよう。Y氏が2000円現金で持つということは、同様に中央銀行はさらに国債を2000円持つはずなのでこれも追加する。
あなたはY氏の営む店に行って3000円分飲み食いしたところだが、まだ支払いを済ませていないとしよう。あなたは未払金を負っている。
このような具合で、どんどん「貨幣」を書き加えていける。
なお、このグラフで自己ループは起きない。例えばあるノードから同じノードへの辺はない。それは「自分で自分に借りがある」ということであり、これは自分だけで即座に解消できるからだ。貨幣は、その発行者 (債務者)が受け取ったときには消滅する。
実の所、貨幣グラフは、簿記における貸借対照表の変種に過ぎない。
勘定項目として金融資産のみを採用して追跡し
経済に参加している全員の貸借対照表を常に計算する
ようにすれば、取り扱える情報としてはほとんど等価である。それ故に本稿で述べることは、本質的に目新しい話ではない。通貨政策に関係する機関の貸借対照表はこれまでもずっと存在したし公開もされている。信用貨幣とは、単に貨幣とは貸借対照表上の現象だと言っているにすぎない。それでも、従来型の貸借対照表ではなく、グラフによる貨幣記述を本稿で採用したのは、経済に参加する全員をそこに含めることで、「外部」を発生させない ようにするため、それから 貨幣が関係であること を強調するためだ。
個々人の貸借対照表を追うだけでは、さも経済全体で全員が努力によって金融黒字を達成できるかのような、あるいは政府債務を減らしながら政府以外が金融貯蓄を実現できるかのようなありえない錯覚をする人間が出てくる。後述するように、貨幣は貸し借り関係なのだから、全員の金融純資産総和、金融収支総和はいついかなるときもゼロであり、そのようなことは絶対に起きない。あるいは、現金を持っているとして、その紙切れがただそれだけで(商品として)10000円を価値を発揮するかのような錯覚をする人間もいるだろう。全くとんでもないことだ。10000円札が価値を発揮するのは、究極的には日銀がそれを負債と認識しているからである。経済全体を対象にし、常に金融資産を2者の関係として記述することで、会計的に整合しない貨幣の振る舞いを起こせなくし、信用貨幣としての一貫性を強制することができる。
信用貨幣の性質
純資産総和 = 0
貨幣グラフにおける、あるノードのバランスシート(貸借対照表) とは、そのノードから出ていく辺とその重み、入ってくる辺とその重みの一覧のことだ。そして、あるノードの純資産とは、そのノードから出ていく辺の重み総和から、そのノードに入ってくる辺の重み総和を引いたものである。 この動機は明らかだろう。ノードから出ていく辺は、それが債権、つまり資産であることを表し、入ってくる辺は、債務、つまり負債だからだ。
ところで、どのような貨幣グラフであっても、次がかならず成り立つ。すなわち、「全ノードの純資産の総和は0である」。なぜこれが成り立つかは、少し考えればわかる。全員の純資産を足すのだから、辺ごとに、それが入るときはマイナス、出ていくときはプラスで足しているので、常に相殺するからだ。
信用貨幣においては、貨幣グラフの純資産は、いわゆる金融純資産のことだ。したがってこのことは、「経済全体の金融純資産総額はいついかなるときもゼロ」 ということになる。
信用貨幣経済全体での「正味のお金」というものは一切存在しない。
誰かの金融負債によって、誰かの金融資産が成り立っている。ある集団の金融純資産をプラスにするには、純資産マイナスのだれかをその集団から除外することだけが唯一の方法となる。
例えば、我々が平均的に1000万円の金融資産を持っているときには、同時に我々は平均的に1000万円の金融負債を負っていることになる。これは体感に反するかもしれないが、それは金融純資産の分布が偏っているからだ。最大の純負債の担い手は通常政府であり、政府が負債を国債として集中的に負うことによって、我々民間はプラスの金融純資産を持つことができる。もし政府が相応の債務残高を負ってくれなかった場合、銀行家は純負債を嫌うので、民間が借金漬けで経済を回す羽目になる。
予備的需要、あるいは「借りは返すべき」か?
「貨幣とは貸し借り関係である」。しかしそうすると、「借りは返すべきなのでは」 という通俗道徳が頭をもたげる。これについて、一つ露払いをしておこう。それは貨幣の予備的需要だ。
あなたは今いくらかの金銭を持っている。それは誰かの負債として発行されている。それは銀行か中央銀行の「借り」だ。あなたはそのいくらかを今月使い、あなたが就労していれば賃金がそこに注ぎ足される。
では、あなたは平均でいくら持っているだろうか?これはフローではなく、ストックの問題だ。あなたが主な資産を銀行預金で行っているなら、その平均残高=いつでもだいたいこのくらいある、という額はいくらぐらいだろうか? 50万?100万?500万?1000万?
それがいくらであるかは人によるが、人々は相当量の貨幣を「使い切ることなく」持ち続けているという事実がここで浮かび上がる。これは不意の出費への備えや、何かを買うための貯金や老後の備えなど、もっともな理由があることが普通であり、合理的な行動だ。しかしこれは同時に、相当量の債務が返済されることなく、潜在的には永久に維持されていることを意味する。貨幣は常に誰かの負債として発行されているからだ。それが銀行預金や現金紙幣だとしても、銀行家は金融純負債を嫌うので、彼らは預金+発行紙幣に相当する規模の金融資産を持っている。それはつまり貸付金や国債のことであり(商業銀行と中央銀行を連結すると当座預金は相殺する)、つまり政府債務+民間債務はその総額が永久に維持されることになる。
例えば我々はローンを組んで、死ぬまでに返済する。しかし返済したときには銀行は新しい顧客を見つけて彼がローンを組む。寿命がない政府は毎年期限がきた国債を借り換える。個別の債権は償還されるが、トータルでは経済全体の負債総額は減らない(なんなら増えていく)。負債総額が維持され、それを(中央)銀行が紙幣や預金に変換することによって、我々は同額の貨幣を使い切らずに持ち続けることが可能になっている。
総額でみたときには、借りは返すべきでもなく、現に返されていない。 もし返されてしまったら、人々の貨幣を持ち続けたいという予備的需要を満足できないからだ。人々が貨幣を持ち続けたいと思い、実際にそうする限り、経済全体の負債総額は永久にその残高を維持することになる。信用貨幣経済全体では、人々が「借りを返しきる」ことと「貨幣を持ち続ける」ことは論理的に両立しない。 我々が1000兆円の現金だか預金だかを経済で使い続けるためには、1000兆円の債務を誰かが負い続ける必要がある。 あなたがいくらかの貨幣を持ち続けることを当然だと考えるなら、「すべての借りを返せ」と唱える資格はあなたにはない。
実際には、「借りを返せ」という人間も、その「貸し」が銀行預金や現金で支払われたときには大抵の場合満足するだろう。ところが、銀行預金や紙幣もまた銀行が顧客に負っている「借り」にすぎない。つまり、「借りを返せ」というのは実は文字とおりの主張ではないのだ。それは彼がもつ金融資産の債務者を入れ替えてくれという要求である。いずれにせよ、信用貨幣経済とは、借りが返されきらないことによって成立している。
銀行家の役割
貨幣グラフには、日常的な意味では貨幣と呼ばないものが含まれている。つまり、貸付金や未払金だ。日常的には貨幣といえば、硬貨、中央銀行券(紙幣)、銀行預金をさすことがほとんどだろう。単に貨幣が貸し借り関係と言っても、そこには程度の差がある。ある「ツケ」は支払いとして受け入れられないが、別の「ツケ」は受け入れられる。あなたは街の飲食店で飲み食いしてツケ払いをしようとしても断られる可能性が高い。しかし銀行の「ツケ」である紙幣や銀行預金なら支払いとして受け入れられる。これはなぜなのか? あなたが払い出す「ツケ」は、それは銀行の「ツケ」である銀行預金や、中央銀行の「ツケ」である紙幣とは何が違うのか?
これは開かれた問題なので、他にも様々な回答がありえるが、店の立場に立てばその一つはわかる。店はあなたのことを知らない。知らない人間のツケなど引き受けたくはない。 店もまた、完全な自営でない限り、仕入れ先や従業員に金銭を支払わなくてはならないが、彼らがあなたを知っている確率もまた低い。そうなれば店があなたのツケを彼らに譲渡することで支払おうとしても、おそらく引き受けてはくれない。こうした困難が予想される限り、店はあなたのツケ払いを受け入れない。
逆に、あなたが店長や店長の取引先を顧客に取るような仲であれば、話は別だ。 あなたのツケは、おそらくあなたが店側になにかの支払いとして請求する際に相殺することを見越して、引き受けてくれるかもしれない。
ここに個人の発行するツケが一般的な意味での貨幣になれない一つの理由が浮かび上がる。現実の経済は非常に多くの人との取引で成り立つ。商取引のネットワークで、彼らがお互いにお互いのことをよく知っている可能性は低い。知らない人間の「ツケ」を引き受けたくないので、彼らの間で彼ら自身が発行する「ツケ」通貨は限られた範囲でしか循環しない。ということは支払いを行えないため、彼らは取引機会を逃しているということになる。これは損失である。
そこで登場するのが銀行だ。銀行は、こうしたツケ払いネットワークのハブとしての役割を果たす。銀行家は、顧客が発行するツケ、というより貸付金(貸付債権)を貰い受け、代わりに銀行家のツケ、つまり預金ないし銀行券を引き渡す。これが融資だ。融資とは、お互いにツケを払い合う行為といえる。 そんなことをして意味があるのか? 大いにある。なぜならいまや銀行の顧客は、自分を債務者とするツケではなく、銀行を債務者とするツケを払い出せるからだ。この経済では、お互いはお互いのことよく知らないが、皆銀行家のことはよく知っている。したがって、銀行家のツケは支払いとして受け入れられる可能性が高い。
いわば銀行家とは、その威信と知名度を利用して、ツケの債務者を自らに統一する存在だ。そうすることで、この銀行家が知られている経済圏で、さも全員が全員のことを知っているときのツケ払い経済のようなものを演出することができる。つまり相互に支払いができるようになる。銀行は債務者としての自らの名義を貸すかわりに、金利をつける。銀行家が引き受けた貸付債権には利子がついていて、顧客がそれを精算するときにはすこし多めに借りを返すことを要求する。
これは絶大な効果がある。
アルゴリズムに詳しい人間なら、密グラフと疎グラフではグラフアルゴリズムの計算量オーダーが違うことを知っているだろう。例えば、ある銀行がカバーしているエリアにn人が居るとする。彼らは、n人の間で自由に取引をしたいが、そのためには支払いを受ける側は、相手が払い出すツケの債務者のことをよく知っている必要がある。この「知っている」という関係は、n人の間では潜在的にはn(n-1)個の関係であり、完全に自由な取引ができるためには、一人当たりn-1人に関する知識を持っていなくてはならない。ところが銀行家が存在することで、「n-1人がそれぞれ銀行家のことを知っており、銀行家はぞれぞれのことを知っている」つまりたった2(n-1)の関係が存在するだけで、相互の取引に必要な条件が達成できる。我々は単に銀行家が信頼できることを知っていればよく、銀行家は不渡りを出さなそうな顧客に融資をするだけでよい。
銀行家が顧客のツケを自らのツケに変換する(融資を行う)ことによって、見知らぬ顧客同士がそれを用いた支払いを可能にする、という意味で、実は銀行業における融資と決済は不可分な業務だ。 銀行家が単なる金庫やサラ金と違い、決済サービスを受け持っているのは十分な由来がある。
最初の疑問に戻れば、一つの答えは、結局我々は、よく知らない人間のツケ払いを受け入れたくはないが、よく知らない人間とも経済活動をしなくてはならないということだ。そのために、社会の関係の中でハブ的な存在を債務者とした「ツケ」(=紙幣、銀行預金)を生み出し、それを使ってよく知らない者同士での取引を行う。銀行や中央銀行(や政府)は、そうしたハブだ。彼らの「ツケ」は経済の広範囲で支払いとして受け取られ、あなたの「ツケ」はあなたをよく知る人間の間でしか支払いとして受け取られないという格差は、社会関係の構造によって生まれるといえる。
そしてこのことはなぜ貨幣総量とその流動性が経済活動において致命的に重要であるかという理由でもある。複雑なサプライチェーンによって成立している現在の産業にとって、貨幣の不足は取引機会の喪失を意味する。貨幣とその流動性が十分に存在することによって、漸く万人が万人を客に取れるという市場らしい市場が生まれる。「自由な市場」はそもそも経済に貨幣が潤沢に存在し、貨幣の不足による取引機会の喪失が起きないという前提がなければ成り立たないのだ。
貨幣グラフの差分で取引を見る
経済活動を行うと、貨幣の移動や生成消滅が起きるので、貨幣グラフは変化する。この変化を追ってみよう。変化の種類として2種類を考える。それは実物財の移動やなにかのサービスが発生している取引と、それが発生しない純粋に金融的な取引だ。この2つは性質が違うが、現実の取引はこの2つを組み合わせたものとして理解できる。これは会計における発生主義を採用しているというのに近い。発生主義では、財の取引において、財の移動や発生と、それの金銭による決済を分離して考えることがある。なぜならこの2つは同時に発生するとは限らないからだ。
実物取引は、取引に参加する2者間で、財やサービスの移動や発生があったときに生じる。しかし貨幣グラフはあくまで貨幣しか表現していないので、財やサービスの移動や生成は記録されない。代わりに、その代金としての「未払金」に相当する辺が貨幣グラフに追加される。 例えば、AがBに財を販売したとき、AからBへの「未払金」辺が追加される。あくまで「未払金」相当ということであり、例えば銀行が預金者から何かを買う場合は預金を追加することになる。
言い換えれば、実物取引は、「ツケ払い」を基準にして行われる。 こうしたツケ払いはそれほど一般的ではなくなっているが、その場合はこのツケ=「未払金」を解消するために次の金融取引を間髪入れずに実施していると理解できる。
金融取引は金融資産同士の取引だ。金融資産は貨幣グラフに含まれているから、取引の全体が貨幣グラフで捉えられる。しかし金融取引は銀行家が展開する決済システムを通じて行われるため、実物取引に比べると各位のバランスシートがずっと複雑に変化する。
そこで、金融取引については、それが行われる前後の 貨幣グラフの差分 について考えることにしよう。貨幣グラフの差分とは、差をとる2つの貨幣グラフと同じノードをもち、各有向辺について、その重みの差の重みをもつグラフとする。差分グラフの辺には、負の辺も認めるものとし、一方のグラフにだけ辺がないときは、重み0の辺があると考える。
金融取引の仕訳における貸方と借方の金額は、もちろん同額である。しかし借方には資産の増加と負債の減少、貸方には負債の増加と資産の減少のそれぞれ2つがまとめられている。これは貨幣の差分グラフで見たときには次のように対応する。
資産の増加:差分グラフにおいて、正重みの出ていく辺。借方
負債の減少:差分グラフにおいて、負重みの入ってくる辺。借方
負債の増加:差分グラフにおいて、正重みの入ってくる辺。貸方
資産の減少:差分グラフにおいて、負重みの出ていく辺。貸方
仕訳の上では各ノードごとに借方貸方の金額は同じなのだから、差分グラフにおいても、`正重みの出ていく辺 + 負重みの入ってくる辺 - 正重みの入ってくる辺 - 負重みの出ていく辺` はゼロである。この`正重みの出ていく辺 + 負重みの入ってくる辺 - 正重みの入ってくる辺 - 負重みの出ていく辺` は、いわば差分グラフにおける、各ノードの(金融)純資産の変化である。これが金融取引の特徴だ。つまり、金融取引では、その前後の貨幣グラフについて、全ノードの金融純資産の変化はゼロだ。 純粋な金融取引は誰も得も損もしていない。金融取引では、取引の参加者は次のいずれかしか行わない。
金融資産と金融負債を同額積み増す。
金融資産と金融負債を同額処分する。
金融資産を同額の別の金融資産に置き換える。
金融負債を同額の別の金融負債に置き換える。
このような整理のもとで、具体的に商取引とその決済がどのように実行されるのか見てみよう。
X氏は銀行1の顧客とする。Y氏は銀行2の顧客とする。X氏は銀行1の預金を1000持っている。銀行1と銀行2はそれぞれ中央銀行当座預金を500持っている。
X事業の仕入れのためにY氏から3000の仕入れを行う。ここは実物取引で、未払金3000を追加する。
これを決済しよう。Xは1000しか持ってないので、この支払いとして銀行1に2000の融資をしてもらう。金融取引なので差分を考えよう。
XはこれをYに送金する。銀行1は預金3000を解約するかわりに、銀行2からの請求を負う(リアルタイム決済ではないとする)。銀行2はこれを見合いにYの預金を負う。
窓口営業が終わると銀行同士の精算が始まる。銀行2は銀行1への請求を当座預金で解消したいが、当座預金は500しかないので、中央銀行から2500借り入れてこれを支払う。銀行2は当座預金3000を獲得する。
それぞれのステップの差分グラフで、各ノードの純資産変化はゼロだ。これはステップを複数の差分に分割したが、全ステップを1つにまとめても、純資産変化ゼロという性質は保たれる。
このように、決済とは単に金銭を渡すことではない。決済プロセスの間で、各ノードの純資産は変化していない。なぜこの決済が引き起こされたかというと、Y氏が持つ未払金の債務者を銀行に変更したいと思ったからだ。決済とは資産整理の一種なのだ。
債権者が債務の支払いを求める時,通常, 債務者の交代を求めているのである。即ち,彼は銀行宛の債権を求めるのである。そうすれば,債権者は容易にそれを使うことが出来るし,あるいは銀行に安全に使わないまま置いておけるのである。それ故,債権者は,あらゆ る民間の債務者に債務の満期が来たら,名声のある銀行家宛ての債権を自分 に振り替えてくれるように主張する。そうすれば,あらゆる支払能力のある 債務者は,こうしたやり方で彼の債権者を満足させることが出来る。
なお、利子やクーポンの支払いはどうなのか?と思うかもしれないが、これらはある意味融資や借り入れというサービス利用料のようなものなので、実物取引に含めてしまえばよい。
4部門B/S
貨幣が貸し借り関係である以上、潜在的には無数の貨幣が生まれることになる。それでは考察がとっ散らかってしまうので、経済の代表者をいくつか選び、彼らの間の貸し借り関係のみを考えてみよう。つまり、貨幣を粗視化する。
例えば、市民(非金融)、政府、銀行、中央銀行の4者を考える。この4者であったとしても、以下のような貨幣=貸し借り関係が発生する。
市民->銀行:銀行預金
市民->中央銀行:中央銀行券(紙幣)
市民->政府:硬貨
銀行->市民:(融資業務による)貸付金/借入金
銀行->銀行:(コール市場などでの)貸付金/借入金
銀行->中央銀行:当座預金(準備預金)
銀行->政府:国債
中央銀行-> 銀行:(中央銀行の貸出による)貸付金/借入金
中央銀行->政府:国債
政府->中央銀行:国庫
これを貨幣グラフに書き入れると以下のようになる。ただし、ここでは金額は考えず、それらの名称を書き入れている。
単純化しているものの、まだ複雑すぎるように見えるだろう。そこで、これらのうち、
金額が他に比べ相対的に少ないもの
一時的な融通であり比較的短期間に消えるもの
を削除することで近似してみよう。例えば、
硬貨は紙幣や銀行預金よりも額が少ない
国庫は通常支出されるので滞留させる意味がない
中央銀行による貸出、コール貸出は一時的なもの
だとして省略する。すると
さらに、市民と銀行それぞれ1者にマージしてみる。マージとは複数のノードを1つに、もしそれらが同一のノードとの辺を持っていたらその値を合計した辺に置き換える(ただし、今は数値を気にしていない)。まとめられるノード同士の間の貸し借り関係は連結によって解消される。
ここまで単純化しても、貨幣グラフの性質はもちろん保たれている。つまり、全員の金融純資産の合計はゼロだ。
ここで、銀行家のバランスシートの傾向について考えよう。銀行の主な仕事は金融資産のハンドリングであって、物を作ったり奉仕したりすることではない。となると換金性/収益性のある実物資産をあまり持っていないので、一般に金融純負債が蓄積するのを嫌う。一方で、金利収入などで金融純資産がプラスになったとき、その行員給与の支払いは給与振り込み口座への預金の創造、つまり負債を負うことで行われる。
これは、銀行家はバランスシートの資産と負債の規模を概ね揃えるように振る舞うということだ。実際には銀行も資本金等をいくらか持つが、その比率は他の業種に比べるとぐっと小さくなる。
これは例えば、いくつかの銀行や企業の決算を見てみればわかる。好きな企業の財務諸表をgoogleで検索して、純資産の割合(自己資本比率)を見てみるといい。非金融企業の自己資本比率企業にもよるが、数十%ほどある。ところが大手銀行は1割を切り、中央銀行に至っては1%もない。
そこで銀行家の純資産を無視してよいなら、貨幣グラフに残った4部門のバランスシートを綺麗に整理して書くことができる。銀行のBSから金融純資産/負債を無視して、先の貨幣グラフのバランスシートを図示すると次のようになる。
金融資産の種類によって色分けされているが、それが同額の負債と資産として2箇所に計上されているのが確認できる。つまり、繰り返しになるが、信用貨幣経済において、金融純資産のトータルは0だ。
※この図の横並びレイアウトは、朴勝俊 先生のツイート の図を参考にしてもう一段単純化した。項目を減らして横並びにレイアウトすることで貨幣統計がどれを指しているのか理解しやすい秀逸な配置だと思う。
図中の貨幣統計についても補足しておこう。
マネタリーベースとは、中央銀行が発行する負債の総額だ。それは現金と当座預金(少額なので無視されているが硬貨も含む)からなり、市中と銀行間において決済性を持つ。とりわけ銀行間決済において重要であり、いわゆる金融機関が言うところの"流動性"にあたる。中央銀行が金融資産を売買することで変化する。
民間金融純資産は、政府機関以外の部門がもつ「正味のお金」だ。つまり、民間での融資関係をすべて解消したときに手元に残る金融資産総額である。それは政府債務残高に一致する。民間融資の規模は景気動向によって変化するから、景気の影響を受けない貨幣総量と言ってもよいかもしれない。政府債務に一致するのだから、政府が赤字財政を行うと増え、黒字財政を行うと減る。
マネーストックは非金融民間が決済に利用できる貨幣の総額だ。それが現金と銀行預金(やはり少額なので無視されているが硬貨も含む)からなる。GDPに寄与する日頃の経済活動において広範に利用できる貨幣であり、したがってこの多寡は我々の経済活動にとってもっとも重要だ。民間金融純資産(=政府債務)に民間融資を足したものであるため、政府の赤字財政および民間融資で増え、政府の黒字財政および民間融資の返済で減る。
外貨の取り扱い
貨幣のグラフ表現で、グラフの辺の付帯情報の単位を無視してきた。ここに別の通貨単位の辺を追加することで、複数の通貨を考えることができる。すでに見たように、一国の内側では、概ね貨幣は次のような構造をしている。
現金紙幣は中央銀行によって発行される。
中央銀行の顧客として市中の商業銀行と政府がある。
中央銀行が金融資産を受け取る場合、およびその時に限り、国庫または中央銀行当座預金の残高が支払いとして増える。中央銀行が受け取る金融資産の筆頭は国債である。
市中商業銀行の顧客に市民がいる。顧客の要求によって預金を解約すると、銀行の中銀当預が解約され、紙幣として引き出される。
つまり、中央銀行<- 政府+市中銀行 <-市民、という預金関係の序列がある。場合によっては、市中銀行の下に信用組合などがもう一段入ることもあるが、概ね中央銀行をトップとした3段(以上)の構造をもつ。
ではこのような貨幣システムを備えた2国があって、相互の貨幣の運用をしたいとなったとする。どのようにすればいいか? 例えば、円預金しか持っていない我々が、海外ECサイトにドル支払いができるのはなぜなのか?
これにはそもそも 「外貨を保有する」とはどういうことなのかを理解する必要がある。ウクライナを侵略したロシアの外貨準備を各国銀行が凍結したように、「外貨を保有する」とは、例えばドル紙幣やルーブル硬貨を物理的に保有することではない。もしロシアがドルを紙幣や硬貨で持っていたら、それを凍結することなどできないはずだ。
例えば、日銀がドルを保有する方法は、FRBのドル口座を持つことだ。
他の金融機関も同様で、例えば日本の銀行がドルを保有したい場合、日本の銀行が、アメリカの銀行にドル口座を開き、そこで持つ。
このように、外貨を取り扱うときには、金融機関同士が、国境を超えてお互いに預金口座を持つことで実現する。 A銀行1が、外貨Bを扱うためにB国のB銀行1に口座を開くとき、B銀行1はA銀行1のコルレスバンク(特にデポコルレス)であるといい、そこに開かれた口座をノストロ口座という。
預金関係の結ばれ方が国内(中央銀行/商業銀行)×国外(中央銀行/商業銀行)で4パターンあるが、どの預金関係が主に利用されるかは、通貨間のバランスや外貨決済業務の重要性によって変わってくる。基軸通貨同士であれば中央銀行同士が互いに預金関係を持っている可能性がある。一方の通貨が強いなら、強い方の通貨は弱い方の通貨を持つ動機はあまりないので、弱い側の中央銀行が強い側の中央銀行の口座を持っても逆はないかもしれない。貿易がさかんに行われている2国間であれば、その商業銀行同士が互いにコルレス契約を結んでいる可能性は高い。
外貨の保有を、預金関係として行うことによって、通貨/国境をまたいだ送金が、物理的に紙幣や硬貨を動かさずとも実行可能になる。A,B国の通貨をa,bとする。A国、B国にそれぞれA銀行1、B銀行1がおり、これは互いに互いのコルレスバンクだとする。その顧客をX,Yとし、。為替レートが100a=1bだとする。Xは100aの預金を持っていて、Yから1bの商品を購入して請求されている。そこで、以下のような金融取引をすると、これを決済できる。
ここでも、差分グラフの各ノードの純資産変化はゼロだ。ただし、異なる通貨については現在の為替レートで換算する。この例ではA銀行1は通貨bの外貨預金(デポ1b)をすでに持っている想定だが、もし持っていなければ外貨為替に出向いて、資産を処分して調達する必要がある。
外貨為替も実は面倒な存在だ。まず大前提として、外貨為替市場は通貨の変換器ではない 。これは強調しておく必要がある。
異なる通貨単位を変換するといったことは、原理的に、一切、できない。 (ご唱和ください)
外貨為替で円売りドル買いをしたとき、それは誰かが円買いドル売りをしているということだ。 A,B国は互いに同程度の強さの通貨で、中央銀行と商業銀行は互いの間でなら預金口座を持てる程度の関係だとしよう。A銀行1が、100aの当座預金を持っているとして、100aを売って1bを買うことで、ノストロ口座に1bを調達したいとする。外貨為替で応じた相手が誰かによって、この調達経路は変わる。
例えば、国内の別のA銀行2がB銀行1に外貨預金を持っていて、彼が1bを手放してくれるなら、
相手国のB銀行2が、国内のA銀行2とデポコルレス契約を結んでいて、彼が100aを買ってくれるなら、
B国中央銀行がA-B通貨を使ってa買いb売り為替介入をしているのに応じた場合は
という具合だ。いずれにせよ、ここでも為替レートで比較した上で、金融取引の差分グラフの原則は守られている。各ノードの純資産変化はゼロであり、資産と負債を増やすか、資産と負債を減らすか、資産を切り替えるか、負債を切り替えるか、だ。
実際には、銀行は外貨を取り扱うにしても、多額の外貨預金をそのままにしておくことはない。すぐに使わないなら、金利がつく他の安全資産、例えば外国債などを運用したほうが有利だからだ。また、外貨にせよ外貨建て資産にせよ、中央銀行はともかく、破綻の可能性がある商業銀行は、外貨建て資産を大量に保有すると為替変動リスクにさらされるので、際限なく外貨資産を買い入れるということはしない。
このように外貨の調達手段がわかったことで、いわゆる 「輸出で稼ぐ」というのがどういう意味か がわかる。例えば、日本の企業が米国に輸出し、支払いがドルで行われたとする。支払い側の米国は円貨を持っていない。輸出企業は従業員や仕入先に円を支払う必要がある。しかし相手が支払ったのはドルだ。さてどうするのか?「為替市場に駆け込んで円に替えてもらう」ではマクロの視点からすれば不十分である。その円は誰が手放したのか?という問題が外部化されているからだ。マクロ視点では外部は存在せず、市場とは単なるマッチングであり、変換器ではない。
正解は、国内銀行か国内の中央銀行が外貨を買い入れ、その支払いとして円建て預金を供給した、ということだ。相手国の銀行家は円資産を持っていないのだから円を払い出すことなどできない。真に円貨を供給できるのは日本の銀行か日銀(か政府)だけだ。したがって、外貨為替市場でのドル売り円買いにドル買い円売りに応じる「正味の」相手方もまた彼らしかありえない。つまり「輸出で稼ぐ」とは、獲得したドル建て資産を銀行家に押し付けることで彼らに銀行預金を円建てで発行してもらうということだ。とはいえ、外貨資産を再現なく買い入れる能力があるのは中央銀行だけで、為替リスクもあるため、商業銀行は外貨資産を無尽蔵に引き受けようとはしない。このために貿易収支が黒字に偏ると通常は通貨高になり、それを打ち消すためには中央銀行による外貨資産買い入れ・為替介入が必要になる。あるいは外貨建て金融資産の収入が十分大きければ、金融機関は為替リスクを引き受けてでも外貨資産を買い入れるかもしれない。
商品貨幣批判
商品貨幣と信用貨幣は互いに単なる貨幣論のオルタナティブなのだろうか?つまり、それは単なる見方の違いの過ぎないのだろうか? 筆者の考える限り、商品貨幣には、そもそも根本的な欠陥がある。
ここで、商品貨幣について整理しておこう。商品貨幣とは、商品それ自体が貨幣であるということだ。使い勝手や保存性を除いて、我々が日々売買している商品と貨幣には本質的には違いがないとする。とはいえ複雑な工業製品を貨幣とするのは難しいので、なるべく質量が保存され、均一で計量できるものがよい。そこで金属素材がその典型例となる。とはいえ、それを貨幣と呼ぶ以上は、かつてどこにも存在しなかった物々交換経済とは当然区別したい。したがって、貨幣として選択された商品は、貨幣としてのそれなりの姿をもつ。それは単なる金属片ではなく、然るべき画一的な硬貨の形をとり、そこに額面価値が打刻される。そして額面価値は、それ自体の価値と一致する。
さて、これは一見もっともらしいが、すこし冷静になってみれば、次のような欠陥に気づく。
まず1つの欠陥は、何かの素材の価値を発揮させるためには、たいてい貨幣の形を維持できないということだ。例えば貴金属でできている硬貨をメッキや電気配線や化学薬品や宝飾に使うために溶かして変形したり反応させた場合、それはもう硬貨として使えない。硬貨として使いたいなら再度抽出して鋳造しなくてはならない。これは逆も言えて、普通我々が貨幣を使うというとき、その用途の大半は不確実な将来の出費のためにいつでも払い出せる形で保存しておくか、人に支払うことである。貨幣そのものの本位価値を発揮させようとする人はいるかもしれないが、ごく一部だろう(そもそも現在では貨幣の損壊は禁じられているし、銀行の電子データを一体どうやって「活かす」のか?)。貨幣としての用途と商品としての用途は排他的だ。もし貨幣の形をしていなくても支払いとして使えると主張するなら、それは物々交換が可能という主張に逆戻りすることになる。ほとんどすべての人は、貨幣を商品として使っていないのだ。使ってもいないのに、貨幣としての価値がその商品としての価値にあるとなぜ主張できるのだろうか?
もう一つの欠陥は、物価は変動する ということだ。商品貨幣の額面価格は鋳造時に固定されてしまう。しかしその素材の商品としての市場価格は市況によってどうとでも変動する。このことの問題は、もし `額面価格 < 商品としての市場価格` になったとき、それを制限する他の強制力が存在しないなら、貨幣は形を保てない ということである。なぜなら、額面価格より、その素材本体の価格のほうが高いのだから、鋳潰して別のことに使ったほうがよいからだ。金属硬貨を鋳潰して素材として使うのは、商品貨幣の本懐のはずで、商品貨幣観からすればこれを禁止する理由など出てこない。まさにそうすることによって貴金属は広い利用価値が開かれる。しかし当然貨幣としてはもう使えない。貨幣が安定的に存在するには、`額面価格 > 商品としての市場価格` を維持するか、そもそも貨幣を商品として利用することそのものを制限する必要がある。
つまり商品貨幣という考えは、次の2点で欠陥がある。
何かを商品かつ貨幣として利用することはできない。それができると主張することは物々交換経済を復活させることになり、そもそも貨幣が存在する理由がないことになる。
額面価値がつねに商品価値を上回っていなければ形を維持できず、鋳潰されてしまう。しかし商品貨幣は定義上額面価値と商品価値が等しくなると主張している。
実際はどうだったか? かつての貴金属硬貨は、貴金属価格が高騰すると、対応する硬貨が市中から払底したり、発行者が改鋳を迫られることがしばしおきた。本位貨幣の時代に"本位貨幣故に"貨幣が安定的に運用できていたというのは疑わしい。後に兌換紙幣が登場すると、大抵の場合はそれを貴金属と交換せず紙幣のまま使い続けた。貨幣価値を貴金属が担保していると皆口ではいいながら、多くの通貨ユーザーはその価値の源泉たる貴金属に触れもしていない。
商品貨幣観のこうした問題点を回避する方法は「貨幣など存在しない」と主張することだ。貨幣が貨幣の形を維持していなくとも貨幣として機能するなら、すなわち物々交換経済であれば、商品貨幣観の矛盾は回避できる。当然それは貨幣経済ですらないし、現実とは似ても似つかない代物となる。つまるところ、 商品貨幣というアイデア自体が、物々交換経済を貨幣経済と強弁するための虚飾にすぎないのではないか。 商品貨幣観とは実は貨幣の理論ではなく、貨幣などない、貨幣が貨幣であるべき理由などないという理論ではないか。
こうした商品貨幣の困難も、信用貨幣を部分的に適用することで多少整理できる。
例えば、だれかが貴金属硬貨を発行しようとする。額面が100だが、それの素材の価格は60しかないとする。残り40はどこから来たのだろうか? この硬貨を受け取った人は、それが60しか価値がないのに、100の価値があると「騙されている」のだろうか?
そんなはずはない。信用貨幣の観点から整理するなら、 差額40は発行者の負債だ。 つまり、発行者は素材価値60、額面価値100の硬貨を最初に引き渡すとき(実際には言っていないだろうが)こう言う。「この金属片は60の価値しかないが、100の価値があると思って受け取ってほしい。差額の40は貸しにしておいてくれ。その証書として金属片に私の名前を打刻しておく。この正規の打刻がある限りは、私は額面価値と本位価値の差額を所有者に負っていることを示す」
貴金属硬貨の発行者は、差額の負債を負っている。だからこそ受領者はそれを額面で受け取ることができる。差額は発行者への貸付債権で埋め合わされているからだ。そして打刻はその署名だから、差額がゼロより大きい限り、彼はこれを鋳潰さない。
もちろん、貸付債権である以上、その償還が不可能であっては困る。このために、発行者には一つ責務が加わる。それは、発行者は、自身が何者かに金銭を請求したとき、その支払いとして自身が発行した硬貨を額面で受領する というものだ。
これこそ信用貨幣を機能させる必要条件だ(十分条件かどうかは場合による)。X氏を債務者とする債権証書は、X氏を債権者とする債務を負ったときにはそれを同額相殺できるという性質によって価値を持つ。 同じ振る舞いが、貴金属硬貨に、それがそうと自覚されていなくても信用貨幣としての性質を部分的に宿らせる。
例えば、額面価値100、素材価値60の硬貨を発行している政府が、徴税なり公共サービスの料金請求なりで、市民にある100請求し、そこで自らが発行した素材価値60の硬貨を引き渡されたとする。請求者かつ発行者たる政府は「これは自分が発行したものだから知っているが、素材価値は60しかないよ」と言う。被請求者は「この硬貨は素材としての60以外に、発行者を債務者とする40の債権証書を兼ねているとあなたは言ったのだから、それと私へ残りの請求額40と相殺してくれ」という。そうしたなら発行者はこれに応じなくてはならない。 応じた結果、請求100は解消され、負債40も解消され、発行者の手元には、60の金属片が残る。これが自らが発行した硬貨による支払いを額面で受け取るということだ。この原則が守られている限り、受領者は貨幣の本体価値と額面価値との差額が、貸付債権として機能していること、つまり、額面による貨幣価値が失効していないことを確認できる。
逆に言えば、この原則が守られなかった場合、実質的に「貨幣をデフォルト」させていることになり、混乱を引き起こす可能性がある。素材価格60、額面価格100の硬貨を、額面ではなく80の支払いとしか認めないとしたら、硬貨に付随した40の債権証書のうち20は放棄させられたことになるからだ。これがより極端になると、例えば「素材価格60の硬貨は60の価値としてしか受け取らない」となれば、硬貨の形を維持している40の債権証書は完全に失効したことになる。こうなると、もはや硬貨はその形を留める理由はなくなり、鋳潰されて消費され、貴金属の回収それ自体が困難になる。また、発行者が額面での受領を保証していたとしても、発行したあとに貴金属価格が高騰して額面を上回ってしまえば、やはり鋳潰される。発行時に素材価格60、額面価格100で発行したとしても、含まれる金属の市場価格が上昇して100に引き上がったとしたら、差額の債権証書=刻印の価値がゼロになるからだ。
信用貨幣が発達する理由はある意味自然だ。貨幣が何であれ、その商品としての価値と貨幣としての機能を同時に発揮することはできない。したがって、物理的な何かを貨幣とする、ないし貨幣の担保として備え置く、ということは、その分の財産が死蔵されることを意味する。これは全くの無駄だ。そして、「悪貨」の運用実績を考えれば、人々は、そう自覚しているかによらず、貨幣価値が「信用=貸し借り関係」で埋め合わされている状態でほとんど困らない。「貸し借り関係」はあくまで関係であって、特定の物質と結びつくわけでもない。貸し借り関係はそれを精算するとき以外になんの役にもたたないが、貨幣を貨幣以外の用途に役立たせる機会など来ないのだから一向に構わない。であれば、本位価値を限りなくゼロにする、または凍結してしまい、額面全額が発行者の負債として埋め合わされる貨幣を作っても、普通に経済が回ることになる。そこには物質的裏付けはなにもないが、誰かへの貸付債権はある。その債務者が存在し、債務者への債務を額面で解消できるかぎり、その価値を確信できる。物々交換経済でない以上、貨幣は必要だし、その量は増えていくだろう。そしてそれが信用貨幣である限り、対応する誰かの負債も同時に増えていくことになる。
現在の硬貨は、額面が丸ごと発行者の負債になっている。 そもそも硬貨を鋳潰すことを法で制限しているので、建前としてもユーザーは硬貨の素材の商品価値を利用できないことを考えればこの扱いは妥当だ。硬貨の素材は、運用コストとして発行者が自腹で払い出していることになるが、もはや金銀といった高価なものは使っていないので、法規制だけで素材金属の流出は十分抑止できるということだろう。
コメント
1この理屈も銀行がきちんと機能する、という前提でのみ成り立つよね。
顧客が預けた金に手を付けて帳簿上から削除したり、すでに亡くなった人間に過去にさかのぼって借金があったことにして自分のお金にしたり、返したはずの借金が返されてなかったことにされたりなどは起こりうる。銀行そのものが「信用」できなければ成り立たない。