長嶋茂雄さん 記憶に残る数々の偉業・名言

プロ野球・巨人の終身名誉監督で、選手、そして監督を務めた長嶋茂雄さんが亡くなりました。

長嶋さんは1958年に巨人に入団、引退後は巨人の監督を通算15年間務めました。

数々の偉業や記憶に残る名言を振り返ります。

スター選手として巨人に入団

長嶋さんは千葉県出身、佐倉一高から立教大学に進んで東京六大学のスター選手として活躍。1958年に巨人に入団しました。

オープン戦では7本のホームラン。ファンの期待はシーズンが始まる前からどんどん高まりました。

金田投手から4三振

開幕戦では国鉄のエース・金田正一投手と顔を合わせて4打席4三振を喫し、プロの厳しさを思い知らされるデビューとなりました。

しかし、すぐにその実力を発揮。
プロ17年の現役生活で首位打者6回、ホームラン王2回、打点王5回、最優秀選手5回など数々のタイトルを獲得しました。

プロ初ホームラン

『ONコンビ』黄金時代を築く

V9達成 川上監督を戦闘に(1973年)

巨人は1965年に川上哲治監督のもと日本シリーズで南海を破って日本一になると、1973年まで9年連続で日本一に輝き、V9を達成しました。

V9時代の巨人の中心となったのがまさに長嶋さん、王貞治さんの『ONコンビ』でした。

3番に王さん、4番に長嶋さんが座って打線を引っ張り、黄金時代を支えました。

王さんと長嶋さん(1970年)

この間、セ・リーグのMVP=最優秀選手には、王さんが5回、長嶋さんは3回輝くなど『ON』の2人がプロ野球界を引っ張り、一時代を築きました。

『ON』そろってのアベックホームランも観客を喜ばせ、V9時代には2人が2本ずつホームランを打った試合もありました。

『ON』そろってのホームランは1974年10月の長嶋さんの引退の日のダブルヘッダー1試合目が最後で、16年間で106回にのぼりました。

長嶋さん
「王さんがいなかったら寂しかったと思う。励みになる存在だった。試合に勝つということと、王さんにも勝つという思いでいた」(NHKの番組で)

昭和天皇、皇后の両陛下が観戦される中で

長嶋さんは大きな舞台で無類の勝負強さを発揮しました。

その象徴となった試合が、1959年6月25日に行われたプロ野球で初の天覧試合です。

天覧試合(1959年)

昭和天皇、皇后の両陛下が観戦される中、当時の後楽園球場で行われた阪神との一戦で、入団2年目の長嶋さんは4番を任されました。

試合は接戦となり、4対4の同点で迎えた9回、先頭で打席に入った長嶋さんは阪神の村山実投手からレフトスタンドにサヨナラホームランを打ち、試合を決めました。

長嶋さんのサヨナラホームランが出たのは、天皇、皇后両陛下が退席される直前だったと言われていて、ときおり身を乗り出して試合をご覧になっていた天皇陛下やファンの期待に見事に応える1打でした。

天覧試合でサヨナラホームラン(1959年)

長嶋さん
「自分の野球人生はあそこでマイナーからメジャーに評価されたし、同時に日本の野球界全体もマイナーだったものから一般国民から評価されるようになった」(自身の著書より)

サヨナラホームランについては「打ちたい。必ず打てる」と自己暗示をかけていたと振り返ったうえで、「野球をやっていてよかった。これ以上の選手冥利はない」とも記していました。

生涯打率は3割5厘でしたが、日本シリーズで3割4分3厘オールスターゲームで3割1分3厘と、注目の高い大舞台でその勝負強さを発揮しました。

現役最後の日

長嶋さんの現役最後の日は1974年10月14日で、後楽園球場で行われた中日とのダブルヘッダーが引退試合となりました。

通算444号ホームランを放つ長嶋さん

その1試合目で、長嶋さんはプロ通算444号のホームランを打ちました。

力強い弾丸ライナーでレフトスタンドに運び、衰えを感じさせない打球でスタンドのファンを大いに沸かせました。

1試合目と2試合目の間にはグラウンドに出て場内を1周する一幕があり、長年、声援を送ってくれたファンに直接、別れを告げる場面が見られました。

2試合目の現役最後の打席は、ショートゴロでダブルプレーに倒れ、17年間の現役生活に幕を下ろしました。

長嶋さん
「ファンの皆さんに“燃える男”と言われたが、燃えるものはいつかは消える。燃え方が激しければ激しいほど、消えるとさびしい。感無量だった。すがすがしい気持ちで球場をあとにすることができた」(現役最後の日について 著書より)

監督としてリーグ優勝5回 日本一2回

川上哲治監督から引継ぎ(1974年)

長嶋さんは、1974年かぎりで退任した川上哲治監督のあとを受けて、巨人の監督に就任しました。

前年にV9、日本シリーズ9連覇がストップし、チームの立て直しを期待された昭和50年の監督就任1年目、当時39歳だった長嶋さんはキャッチフレーズを「クリーンベースボール」としてファンを意識した鮮やかなプレーを見せることを目標に掲げ、コーチ陣やユニフォームのデザインを一新してシーズンに臨みました。

しかし、「長嶋選手のいない」巨人を率いた長嶋さんは、主力選手の高齢化もあって苦しい戦いをしいられ、この年、47勝76敗7引き分け、4割に満たない勝率で初優勝した広島に27ゲームもの大差をつけられたうえに、全球団に負け越して球団史上初の最下位に終わりました。

それでも、2年目にはのちに通算3085安打のプロ野球記録を残す張本勲選手を日本ハムから獲得する大型トレードを行うなど戦力を整え、監督として初のリーグ優勝、翌年もリーグ連覇を果たしました。

監督で初の日本一(1994年)

巨人の監督を2期、通算15年間務め、巨人の監督としては歴代3位となる1034勝をマークし、リーグ優勝5回、日本一2回を果たしました。

長嶋さん
「V9の老齢化に王選手のけが、勝利至上主義のつけで若手育成がおろそかになっていた。自分で振り返っても監督としてさっぱりだった。さい配、コーチ間のコミュニケーション選手管理など、オフは山ほど勉強することがあった」(監督就任1年目について 著書より)

「ファンあってのプロ野球」

長嶋さんが数字以上にファンを引きつけたのは、華麗でダイナミックなプレースタイルでした。

空振りをしたときに見せたヘルメットが脱げるほどの豪快なスイングでは、脱げたヘルメットがどう地面に落ちるかまで計算していたといいます。

サードの守備でも、軽快なフットワークでみずからの守備範囲を超えて打球を処理したり、帽子を飛ばしながら送球したりするなど走・攻・守すべてで華のあるプレーをみせ、プロ野球を日本でもっとも人気のあるスポーツに押し上げる立て役者となりました。

長嶋さん
「私はファンあってのプロ野球を全身で意識していた。バッティングがだめなら守備で、守備がだめなら走塁でとファンを喜ばせる手だてをあらゆる面から考え、実行した」(著書より)

「わが巨人軍は永久に不滅です」

「私はきょう引退をいたしますが、わが巨人軍は永久に不滅です」

1974年10月に行われた引退セレモニーでの長嶋さんのことばは、多くの人の記憶に残りました。

引退セレモニーで涙(1974年)

翌年から巨人の監督として1回目の指揮を執り、就任2年目と3年目にはリーグ優勝を果たしましたが、その後3年連続でリーグ優勝を逃し、「男のけじめ」として責任を取って退任しました。

そのあと、再び巨人の監督に就任し、平成6年に巨人と中日が同率首位で迎えたリーグ最終戦、いわゆる「10・8決戦」を「国民的行事」と表現し、試合前のミーティングでは「勝つ、勝つ、勝つ」と選手を鼓舞したことで知られています。

また、平成8年に首位・広島との最大11.5ゲームの差をひっくり返して逆転優勝した際には「メークドラマ」という流行語も生みました。

“ミスタープロ野球”

長嶋さんは、プロ野球を国民的な人気スポーツに押し上げたその活躍から「ミスタープロ野球」の愛称で親しまれました。

長嶋さんが巨人に入団した1958年、東京タワーが完成し、初めて一万円札が発行されました。日本が戦後の復興を遂げ、高度成長の時代を歩み始めた頃です。

戦後のスポーツでは東京六大学野球が高い人気を誇っていて、大学野球界ですでにスターだった長嶋さんの巨人入団でプロ野球人気が一気に高まりました。

皇太子ご成婚も決まり、明るい話題に事欠かない年となりました。

翌年、皇太子ご成婚のパレードがテレビ中継され、テレビの普及が一気に進みました。

本格的なテレビの時代を迎える中、長嶋さんはカメラを意識し、躍動感のあるプレーとともに喜怒哀楽も前面に出し、まさに全身でみせることにこだわりました。

長嶋さんと王貞治さん

当時、日本の人口は1億人を突破し、いざなぎ景気で、日本中が活気にあふれる中、長嶋さんは王さんとの「ON」で巨人の黄金時代を築きます。

こうした長嶋さんの活躍と歩調を合わせるかのように人々の生活は高度成長で豊かになっていきました。

一生懸命、働いてはお茶の間で長嶋さんのプレーを見て、あすへの活力とする、そんな時代でした。

「1度は日本野球の監督を」オリンピックに強い思い

長嶋さんは、アテネオリンピックの日本代表監督に就任するなど、オリンピックに対して強い思いを持っていました。

オリンピックの野球の日本代表は、初めてプロ選手が参加した2000年のシドニー大会でメダルを逃し、アテネ大会では悲願の金メダル獲得を目指す切り札として長嶋さんが監督に選ばれました。

長嶋さんは就任の会見で「野球人生でかつてない使命の重さを感じる。勝てる選手をそろえてオリンピックで日の丸を掲げる」と意気込み、初めてメンバー全員をプロ選手で固めました。

アテネ五輪出場決定(2003年)

2003年11月札幌で行われたアジア予選を3戦全勝で勝ち抜き、オリンピックの出場権を獲得しましたが、その翌年、夏のオリンピックを前にした3月に脳梗塞で倒れました。

長嶋さんは脳梗塞の影響で右腕にまひが残る中、オリンピックで指揮をとろうと懸命なリハビリを続けましたが、実現することはできませんでした。

大会は中畑清ヘッドコーチが指揮をとり、長嶋さんが病床で「3」と記した日の丸と、長嶋さんのユニフォームをベンチに掲げて戦いましたが、準決勝でオーストラリアに敗れ、銅メダルに終わりました。

長嶋さんは4年後の北京オリンピックの監督就任にも意欲を見せていましたが、体調面への不安などから断念し、オリンピックで指揮をとることはできませんでした。

長嶋さん
「1度は日本の野球の監督をやりたいと思っていた。肉体がそういう以上はこれは難しいと考えた。悔しいという気持ちはあった」(NHKのインタビューで)

背番号「3」

長嶋さんは、巨人に入団したとき、「猛牛」の愛称で親しまれ前年に引退した千葉茂さんから背番号「3」を引き継ぎました。

背番号「3」を背負った17年間の現役生活で、通算2471安打、ホームラン444本、1522打点をマークし、その活躍をたたえて背番号「3」は永久欠番になりました。

現役を引退し、翌年のシーズンから監督に就任した長嶋さんは、それまでの「3」から新たに「90」を背負いました。

「90」を選んだ理由は、当時、小学生だった長男の一茂さんに相談したところ、「背番号が3」で「3番を打つことが多く」、「3塁手」だったことから3を3つを足した「9」を提案され、その「9」に「0」を付けて「90」にしたと言われています。

しかし「90」を背負って1回目の監督を務めた6年間で2回のリーグ優勝は果たしましたが、日本一になることはできませんでした。

1992年のオフに巨人の監督に復帰した長嶋さんは、現役時代の「3」を重ねた新たな背番号「33」を背負い、1994年には監督として初めて日本一に輝き、1996年にも最大11.5ゲーム差を逆転してのリーグ優勝を果たしました。

その後、1999年オフにFA=フリーエージェントで広島から江藤智選手を獲得すると、江藤選手が広島時代に付けていた「33」を譲って翌年、現役時代の「栄光の背番号3」が26年ぶりに復活しました。

そして、監督として背番号「3」を背負った長嶋さんは、その年、リーグ優勝を果たし、日本シリーズで王監督が率いるダイエーに4勝2敗で勝って、日本一に輝きました。

クローズアップ現代 長嶋茂雄と松井秀喜 ふたりでかなえた夢

長嶋茂雄さんと松井秀喜さんは「ファンのためのプロ野球」を貫き、「10・8決戦」や「メークドラマ」など数々の熱狂を届けた。2人でかなえた「夢」に秘蔵映像と独占インタビューで迫る。

放送・NHKプラス配信: 6/4(水) 午後7:30から
配信期限: 6/11(水) 午後7:57まで

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