ポジション系譜学・巨人三塁手編(2024ver.)
三塁手出場数ランキング
(巨人通算200試合以上。カッコは在籍期間。*は2024年終了時)
1 長嶋茂雄(1958〜74)2172
2 原辰徳(1981〜95)1160
3 村田修一(2012〜17)735
4 岡本和真(2015〜)610*
5 岡崎郁(1982〜96)561
6 水原茂(1936〜42、50)501
7 山川喜作(1946〜51)417
8 小笠原道大(2007〜13)414
9 江藤智(2000〜05)412
10 元木大介(1992〜05)399
11 高田繁(1968〜80)388
12 宇野光雄(1947〜53)358
13 手塚明治(1949〜54)352
14 小久保裕紀(2004〜06)350
15 中畑清(1977〜89)346
16 土屋正孝(1955〜60)243
17 後藤孝志(1988〜05)235
18 古城茂幸(2006〜13)228
19 柏枝文治(1953〜56)209
20 マギー(2017〜18)207
■戦前のチームリーダー・水原茂
巨人の初代監督・三宅大輔は、著書で「三塁手」についてこう定義している。
「三塁のことをアメリカでは『ホット・コーナー』という。〝火の出るようなものすごい打球に見舞われる一角〟という意味である。(中略)打者と三塁手との距離が近いから、三塁手はよほど後退して守っても、強襲打をうけて一塁でアウトとすることができる。したがって、三塁手は強肩であることが要求される」[1]
慶応大で三塁手兼投手として活躍し、六大学のスターだった水原茂を職業野球の世界に誘ったのは、大学の先輩でもある三宅だった。
「昭和九年三月慶応を卒業したぼくは、奉天の自動車会社へ就職した。満洲へ渡ってまだ半年もたたぬある日、慶応先輩の三宅大輔さんが訪ねて来た。『今年の秋、読売新聞がベーブ・ルース一行の大リーグを招待する。そのチームを相手するための全日本チームを作ることになった。全日本チームは、そのままプロ球団として組織し、来年の二月には渡米遠征をやる計画だ。水原くん、キミにも是非参加してもらいたい』という話だった。ぼくは一も二もなく賛成し、全日本チームへの参加を約束した。(中略)満洲にはなんの未練もなかった」[2]
1909年香川県生まれの水原は、高松商で25年夏と27年夏の甲子園に優勝。慶大に進学し、28年秋、29年春、30年春、31年春に優勝する「慶応黄金時代」の中心選手として活躍する。31年の第1回日米野球にも、他の六大学選手たちと共に参加した。高校、大学を通じて投手と三塁手を兼任していた水原の最大のセールスポイントは、その強肩だった。
三宅の誘いに応じて全日本チームに参加した水原は、34年の第2回日米野球を経て、同年12月の「大日本東京野球倶楽部」設立メンバーに名を連ねる。ただし、このときは「投手」として登録されていた[3]。35年の第1回北米遠征で三塁手として102試合に出場し[4]、翌36年の第2回北米遠征にも参加したが、「連判状事件」(二塁手編参照)により36年6月22日に免職退社処分を下され、チームを離れてしまう。
水原は、アマチュア時代から逸話の多い選手だった。有名なのは33年秋の早慶戦における「リンゴ事件」(早大応援席から三塁を守る水原に食べかけのリンゴが投げ込まれ、それを水原がスタンドに投げ返したことから、早大応援団が謝罪を要求する騒動に発展した)だが、麻雀賭博で検挙され野球部を除名されるという〝前科〟もある。巨人入りしてからも、第1回北米遠征中にこんな事件があったことを苅田久徳が書き残している。
「水原茂が鈴木惣太郎に『飲め』『飲まない』でやり合い、水原がサカズキを投げて、鈴木のメガネをこわした(中略)あとで聞いた選手たちは『やったあ、バンザーイ』を叫んだものだ」[5]
後年の監督時代は「ダンディ」なイメージを通した水原だが、若い頃は、直情径行なトラブルメーカーという一面があったようだ。「連判状事件」の背景にも、そのキャラクターに起因する球団首脳陣との確執があった。ただ、そのメリハリがはっきりした言動は、別の見方をすれば、強烈なリーダーシップにも転化しうる。チーム復帰後の水原は、そういう存在になっていく。
水原の離脱によって、巨人は「正三塁手不在」の状態で公式戦に臨まなくてはならなかった。36年7月1日、公式戦初戦の名古屋戦(戸塚)でサードを守ったのはルーキーの白石敏男だったが、白石は本来、ショートである。
同年秋の〝茂林寺の特訓〟で、投手として入団した前川八郎が藤本定義監督からサードへの転向を命じられ、猛ノックを受けたのはそういう背景があった。11月4日の大東京戦(上井草)までの公式戦18試合における巨人のスタメン三塁手の内訳は、前川9、津田四郎4、白石3、筒井修1、内堀保1。内堀に至っては捕手が本職であり、苦しいやりくりであったことが窺える。
水原がチームに戻って来たのは、処分を受けてからおよそ半年後。11月5日、名古屋戦(上井草)のスタメンに「2番サード」で名を連ねた。これが公式戦デビューである。36年の三塁手出場数は以下の通りだ。
36年 水原茂16、前川八郎12、津田四郎8、白石敏男3、筒井修1、内堀保1
翌37年、水原はチームの主将に任命され、ここから巨人のホットコーナーに君臨する。
37年春 水原茂56
37年秋 水原茂48
38年春 水原茂32、千葉茂5
38年秋 千葉茂25、水原茂16、井上康弘2、前川八郎2
39年 水原茂96、井上康弘1
40年 水原茂85、千葉茂11、楠安夫10
41年 水原茂86
42年 水原茂65、小池繁雄32、三好主16、青田昇10、楠安夫1
38年秋の三塁手出場数が少ないのは、人員不足を補うべく、投手としても起用されたためだ。11試合に登板して8勝2敗、防御率1・76。19勝のスタルヒンに次ぐチーム2位の勝ち星を記録して優勝に貢献した。
先に述べたように、水原のセールスポイントは強肩だった。それは、投手としても一流であったことと無関係ではないだろう。千葉茂の回想によれば、「キャッチボールの相手に指名されたんやが、一球目からもの凄い球がビューンと来よった」「前進して素手の右手でゴロをつかんでそのまま一塁へ投げるのを日本で初めてやった人やった」[6]。
ただし、その〝球筋〟に相当クセがあったことも事実のようだ。以下は、千葉と苅田久徳との対談から[7]。
千葉 ダブルプレーができるもできないも、やっぱり投げてくれる球次第だもの。水さんみたいにひねくれ球投げてくるんじゃ、ほんとかなわん。元来がピッチャーの球でしょう。だからシュートしたりスライドしたりするんだ。
苅田 お水の球は低くて落ちるんだ。それで見てると大きなモーションだから、いい球投げるんだなと思うけれども、なかなかどうして(笑)。あれの特徴といったら、肩だけだったからな(笑)
42年シーズンが終盤となった9月12日に、水原は応召されてチームを離れる。この年の巨人は2位の大洋に12・5ゲーム差をつけて優勝するのだが、最高殊勲選手に選ばれたのは水原だった。規定打席に達しておらず、打率.225、本塁打0、打点16という平凡な成績だったが、巨人の球団史には「戦地に向かう球界の功労者に報いようとしたもの」と記されている[8]。シベリアに抑留された水原が日本へ帰ってくるのは、7年後のことである。
■戦中〜戦後の三塁手たち
水原に代わって43年に正三塁手をつとめたのは、41年に長野商から入団した小池繁雄だった。しかし小池はシーズン終了後に応召され、実働3年でプロ野球生活の幕を閉じる。
44年はいよいよ内野手がいなくなり、投手の中村政美を三塁手にコンバートした。中村は43年に長崎商から入団し、20試合に登板して4勝をあげていた。44年シーズン終了後に応召され、翌45年1月に20歳で戦死する。また、投手の藤本英雄と近藤貞雄も、共に三塁手として出場している。
43年 小池繁雄74、三好主9、中村政美9、大屋克己8、遠山隆男2
44年 中村政美24、宮下信明8、藤本英雄3、近藤貞雄3、渡部弘1
22年に長崎で生まれた山川喜作[9]は、鎮西学院から40年に金鯱(41年から翼と合併して大洋)に入団。42年までの3シーズンで113試合に出場した。ポジション別出場数は、三塁手54、二塁手45、遊撃手1。チームの監督は石本秀一(41年は総監督)で、内野手の先輩として苅田久徳がいた。史上最長の延長28回引き分けとなった伝説の一戦、42年5月24日の大洋対名古屋(後楽園)に山川は「7番セカンド」で出場している。しかしサードゴロ、三振と凡退すると3打席目に苅田が代打に送られ、そのままセカンドに入った。この試合、スタメンの山川は2打席、途中出場の苅田は9打席である[10]。
一塁手編の川上哲治の項で触れたように、戦後、復員した選手は「戦前に所属していた球団に戻ること」という申し合わせがあった。しかし山川の場合、所属球団の大洋は西鉄に経営が代わった43年限りで解散したため、自由獲得選手となっていた。
千葉茂は45年秋に復帰していたが、水原茂、白石敏男、川上哲治といった戦前のレギュラー内野手はまだ戻ってこない。巨人は、プロの実績がある山川に目をつけ、水原不在のホットコーナーを任せた。
公式戦が再開された46年以降の三塁手出場数を示す。
46年 山川喜作100、宮下信明5、千葉茂1、三好主1
47年 山川喜作104、古家武夫11、宮下信明7、宇野光雄3、武宮敏明1
48年 山川喜作126、田中資昭16、宇野光雄9
49年 山川喜作78、手塚明治76、田中資昭8、千葉茂2
千葉茂は以下のように回想する。
「昭和二十一年、山川が初めて巨人のユニフォームを着て三塁を守った時ワシは目をこすった。水原先輩がシベリアから帰って来たのかと思うほど捕球、送球の身のこなしがそっくりやった」[11]。ただし「おミズさんはピッチャー兼任やったからものすごいヒネクレ球がきよったが、山川の送球は純情青年のそれやった」[12]
ファンからも「小型水原」と呼ばれていた山川だったが、白石敏男(48年から巨人復帰)が新球団・広島へ移籍したため、50年はショートにコンバートされる。そして、51年の開幕直後に広島へ移籍した。巨人が広島から樋笠一夫を引き抜いた(水原茂は「樋笠から『巨人に入れてくれ』といってきた」と回想している[13])代償としての移籍だった。54年まで広島でプレイして引退。広島の監督は石本で、プロ入り時の恩師のもとに帰還した形だった。
21年長野県生まれの手塚明治は山川の1歳上だが、プロの球歴では、はるか後輩になる。松本商(現・松商学園)で38年夏の甲子園に出場し、明治大を経て社会人の小口製作所で野球を続けた。48年春の社会人選抜東京大会で優勝するなどアマチュア球界での実績を買われて、49年の開幕直後に巨人と契約。27歳のオールドルーキーは、前掲の三塁手出場数が示すように、1年目からレギュラーの山川と同等の出場機会を与えられた。スタメンは60試合で、7月24日の大映戦(後楽園)以降、後半戦はほぼ手塚がスタメンのサードに定着し、この時点で実質的にレギュラーを奪取している。
山川がショートに回った50年は開幕から正三塁手に座り、3番・青田昇、4番・川上哲治の後を打つ5番に定着した。
50年 手塚明治114、宇野光雄25、山川喜作9、水原茂1
ようやくシベリアから帰還した水原茂は、前年(49年)7月24日に後楽園球場で「水原、ただいま帰って参りました」と挨拶した。そして50年から監督に就任するのだが、その時点では、まだ選手兼任だった。現役への未練を断ち切れていなかったのだ。しかし、水原は50年開幕時には41歳。結局、7試合に出場しただけで「現役」を諦め、以降は監督に専念することになった。
17年和歌山県生まれの宇野光雄は、山川や手塚よりさらに年長である。和歌山中(現・桐蔭高)から慶応大へ進み、ファースト飯島滋弥、セカンド宮崎要、ショート大館盈六とともに「百万ドルの内野陣」と呼ばれた名三塁手だった。その頃の慶大野球部のマネージャーが、後年、巨人軍オーナーとなる正力亨だ[14]。
戦後、ノンプロの藤倉電線に在籍していた宇野が巨人に入団したのは47年のシーズン終盤で、このとき、すでに30歳。戦前の六大学ファンを魅了した強肩は見られなかった。巨人入団後に肩を故障していることが判明し、翌48年は大半を二軍で過ごすと、その年限りで退団してしまう。退団後は映画会社の新東宝で俳優のマネージャー業という畑違いの世界に転身し、野球とは縁を切ったように思われた。
そんな宇野に復帰を促したのが、慶大の先輩でもある水原だった。
「宇野ほどの野球感覚を持った男を、いたずらに埋もれさせておく手はない。(中略)『帰ってきてくれないか』と話すと、『肩も弱いし、現役には自信がない』という。『いやそうじゃない。二軍の面倒を見てもらいたいのだ』」[15]
宇野は二軍監督として、50年に巨人に復帰する。すると、肩の状態が徐々に回復してきた。同年の終盤戦、千葉茂が故障して攻守に穴があいたとき、水原に現役復帰を懇願された。「選手」として一軍に上がった宇野は、11月5日の中日戦(後楽園)で杉下茂からホームランを打ち、鮮やかにカムバックする。翌51年から、手塚明治を押しのけてホットコーナーに君臨することになった。
51年 宇野光雄111、手塚明治28
52年 宇野光雄115、手塚明治28
53年 宇野光雄95、柏枝文治57、手塚明治7
この3シーズンに、巨人はセ・リーグ3連覇、および日本シリーズ3連覇を果たした。第2期黄金時代の到来である。黄金期は、宇野のサード定着とともに訪れたといっていい。
回復したとはいえ、肩は往年の状態ではない。宇野は守り方に工夫をこらしていた。
「できるだけ早く打球に触れば、その後が楽になる。前進守備はもちろんですが、一歩目をいかに早くするか考え、相撲の仕切りも研究しました。あとは打者の観察ですね。しばらくしたら、肩と腰の線から打球が予測できるようになりました」[16]
川上、千葉より2歳年長の宇野は内野陣のリーダーであり、水原の意図をチームメイトに伝えるキーマンでもあった。水原は「宇野君はぼくが巨人軍に呼びもどした選手だ。将来は監督の器と思い、またそのようにいって呼びもどした選手である」と書いている[17]。
その宇野が、54年シーズンの開幕直前に国鉄へ移籍してしまう。いったい、何があったのか。
巨人の球団史には、宇野の移籍について「水原監督や川上、千葉両助監督も反対したが、安田庄司・読売新聞社副社長に『同じリーグの国鉄を強くするため』と説得され、苦渋の中で承服する」[18]とある。
水原の回想によれば、国鉄は当初「手塚を譲ってくれ」といってきた。現場は承諾したが、しばらくしてから水原は安田に呼ばれ「国鉄は、手塚ではなく宇野をくれといってきた」と告げられる。水原は抵抗するが、結局、押し切られた。2リーグ分立後、安田が国鉄の加賀山総裁に働きかけて球団創設を後押しした経緯があるため、国鉄の要求を無下に断ることができなかったのだろう、と水原は推測している[19]。
移籍した宇野は、助監督兼サードとしてチームを牽引した。国鉄は、4月4日のダブルヘッダー第2試合(後楽園)から6月22日(後楽園)まで対巨人戦に8連勝し、トータルでも14勝12敗と勝ち越した。巨人は、お得意さんだった国鉄戦(前年の対戦成績は巨人の15勝6敗)の負け越しが響き、中日に優勝をさらわれてしまう。水原は、国鉄戦のときは「試合前に宇野と話すな」と選手たちに厳命したという[20]。
宇野の移籍によって、巨人のサードは流動的なポジションになった。54年以降の三塁手出場数は以下の通り。
54年 手塚明治99、柏枝文治77、広岡達朗12、平井三郎7、内藤博文3
55年 広岡達朗98、柏枝文治67、土屋正孝6
56年 土屋正孝111、岩本尭52、柏枝文治8、千葉茂7
57年 土屋正孝113、岩本尭24、藤本伸10
手塚は55年に大洋へ移籍。54年に入団した広岡はショートが本職だが、55年は平井三郎が復帰したため暫定的にサードに回り、翌56年からショートに定着する。
56年に抜擢されたのは、35年長野県生まれで、松本深志高から54年に入団した土屋正孝である。土屋は2年続けて100試合以上の出場を記録し、このまま「正三塁手」に定着するかと思われた。
しかしこの時期、巨人は第2期黄金時代の主力が衰え、明らかな世代交代期を迎えていた。57年の日本シリーズでは「サード・中西太」を擁する西鉄に4連敗と歯が立たなかった。同年の土屋の打率は.221で、打順は下位を打つことがほとんどである。打線強化のためには、宿敵西鉄のようにサードに打てる選手を置きたい。57年オフ、球団は「強打の三塁手」の獲得に動いた。11月5日に、関西六大学で通算7本塁打を打った三塁手、難波昭二郎(関西大)と契約。その約1ヶ月後の12月7日に、東京六大学で当時新記録の通算8本塁打を打った「強打の三塁手」とも契約を結んだ。
巨人の歴史、いや、プロ野球の歴史が変わろうとしていた。
■長嶋茂雄の時代・V9以前
53年6月。銚子市営球場に千葉県下の高校野球部が集まり、練習試合が行なわれていた。佐倉一高のショートは身長177センチで、当時としては大型遊撃手である。ところが……。
「第一試合で4失策した。第二試合でも五回にまたトンネルだ。見るに見かねた加藤哲夫監督が飛び出して『ショート長嶋をサードに、サード鈴木をショートに』と告げた」[21]
サード・長嶋茂雄[22]が誕生した瞬間である。
36年2月20日に千葉県臼井町(現・佐倉市)に生まれた長嶋は、佐倉中学に入学後、本格的に野球を始める。小柄だった長嶋は、俊敏性を買われてショートを守っていた。ところが中学2年以降、身長が伸び始める。佐倉一高進学時には165センチ、2年時には170センチ、3年時には、前述のように177センチに達した[23]。急激に身体が大きくなったために、フットワークがおぼつかない。サード転向の遠因はそこにあった。
立教大に進むと1年秋から正三塁手となり、4年秋の慶応戦で六大学記録を更新する8本目のホームランを打って日本中を熱狂させる。当然ながら、プロ各球団による激しい争奪戦が展開された。
長嶋獲得レースで先行していたのは南海である。立大で2年先輩の大沢啓二が、56年に南海に入団していた。南海は大沢を介して、長嶋と、立大のエースだった杉浦忠と接触を続けていたのだ。大沢の証言によれば「南海は長嶋と杉浦が卒業するまでの間、『栄養費』という名目で毎月2万円ずつ小遣いを渡していた」[24]。
だが、長嶋が選んだのは南海ではなかった。4年秋のリーグ戦終了後、長嶋は、南海の鶴岡一人監督と都内の料亭で会った。大沢も同席していた。
「長嶋のやつ、突然、土下座をしてな、こう言いやがる。『申し訳ありません。これまで、さんざんお世話になっておきながら……。僕を巨人に行かせてもらえませんか』(中略)理由を聞きたがる俺に鶴岡さんはこう言った。『もういい。やめろ、大沢』。そのひと言で話は終わった」[25]
長嶋自身は、淡々とプロ入りの経緯を回想している。
「南海か巨人か、たしかにそういう一時期もありましたが、(中略)最終的に巨人を選んだのは、母親の存在が大きかったんですよ。いま思うと母親の意志を尊重したんですね。親の気持ちとしてはやはり実家の千葉から近いチームに入ってほしい」[26]
ただ、巨人が提示した条件は、必ずしも長嶋の希望に叶うものではなかった。むしろ、失望のほうが大きかった。
「巨人の契約金は千八百万円で一番低かった。中日ドラゴンズはたしか二千三百五十万円。契約金のほか映画館を一館提供という大映の提案もあった」
「最低二千五、六百万円だと思っていた。巨人はどうしてこんなに安いのかって。(中略)僕はもう少し高くてもいい選手ではないかと自負していた。僕が一カ月、後楽園に出れば、必ず取り返す、そんな気持ちだったと思う」[27]
長嶋は、最初から自信満々だった。生意気なルーキーだった。1年目の明石キャンプでは、水原茂監督に「こんな軽い練習で一年間持ちますか。プロならもっと練習しなければおかしいでしょう」と言い放った[28]。
「当時、プロ野球の、それもジャイアンツの選手を見てましてね、僕と勝負できるのは、ひとりかふたりくらいしか。もうね、ナメきってました。後楽園のスタンドから、そうやってプロ野球を見てました」[29]
前述したように、57年のオフに、巨人は東西の大学球界を代表する「強打の三塁手」を獲得した。長嶋と難波昭二郎である。しかしキャンプの段階で、すでに2人の優劣は明らかだった。水原はこう回想している。
「難波君は、大阪読売の運動部にいる関大の先輩の記者が話をつけてとった。(中略)千葉君が現役を去ってから、二塁が弱かったので、二塁に使おうと考えていた。しかし、いざキャンプでやらせてみると、フットワークが悪い。そのため横の動きがにぶく、守備はもろいことがわかった。バッティングはいいという話だったが、カーブが打てない。(中略)三塁長嶋、二塁難波という構想はくずれてしまった」[30]
構想を練り直した水原は、前年までの正三塁手・土屋正孝を二塁手にコンバートし、長嶋をホットコーナーに据えた。長嶋はオープン戦18試合で7本のホームランを打って実力を示し、4月5日、開幕の国鉄戦(後楽園)に「3番サード」で先発出場。金田正一の前に4打席4三振という壮絶なデビューを飾る。
以下、長嶋のルーキーイヤーである58年から、V9前年の64年までの三塁手出場数を示す。長嶋にとっては23歳から29歳まで、20代の7シーズンである。
・58年 長嶋茂雄130
・59年 長嶋茂雄123、土屋正孝9、工藤正明5、難波昭二郎3
・60年 長嶋茂雄123、難波昭二郎15、土屋正孝4
・61年 長嶋茂雄129、宮本敏雄8、難波昭二郎1
・62年 長嶋茂雄134、船田和英1
・63年 長嶋茂雄132、船田和英8、塩原明3
・64年 長嶋茂雄133、船田和英9、塩原明4、黒江透修1
長嶋はデビュー以来222試合連続で出場していたが、59年8月19日の阪神戦(後楽園)で連続出場がストップする。理由は「肉離れ」だったが、そこには意外なエピソードがある。同期の難波と高輪プリンスホテルのプールへ遊びに行き、2人で競争しようという話になった。以下は難波の回想である。
「長島はなんと、のし泳ぎ(横泳ぎ)なんだ。おかしいが、笑うに笑えない。勝負はもちろん、クロールのこちらの勝ち。おまけに長島が肉離れをおこしちゃって一週間休んじゃった。その間、ぼくが試合に出た。そんなこと、えらい人たちに言ったら怒鳴りつけられるから黙っていたけど、悪いなあと思いながら試合に出ていた」[31]
長嶋が欠場したのは、8月19日の阪神戦から27日の中日戦(後楽園)までの7試合。この間のスタメンは「セカンド難波、サード土屋」が6試合、「セカンド藤本伸、サード難波」が1試合だった。
難波は62年に西鉄へ移籍し、同年限りで引退する。通算出場試合数は179、三塁手出場数は23だった。
宇佐美徹也によれば、長嶋入団以前と以後で、巨人の三塁手の「刺殺数+補殺数」が劇的に変わったという。57年の巨人の三塁手の「刺殺数+補殺数」は443で、リーグ最下位だった。ところが、長嶋が入団してフルシーズン三塁を守った58年は、514に急上昇。7年目の64年には、その数字はリーグ1位の540に達した[32]。57年との比較では、実に100近く増えている。その中には、ショート・広岡達朗の守備範囲に飛んだゴロを「横取り」してさばいたものもあっただろう。長嶋によって、巨人のホットコーナーが一変したことを物語る数字である。
■長嶋茂雄の時代・V9以降
65年から始まるV9時代は、30代になった長嶋が円熟味を増し、やがて加齢とともに緩やかに衰えていくプロセスでもあった。
65年以降、長嶋が引退する74年までの三塁手出場数を示す。
65年 長嶋茂雄131、船田和英8、塩原明7、瀧安治2
66年 長嶋茂雄127、塩原明7、松村正晴4、千田啓介2、瀧安治2
67年 長嶋茂雄121、塩原明17、瀧安治10、上田武司5、千田啓介2、松村正晴1
68年 長嶋茂雄131、瀧安治7、上田武司1
69年 長嶋茂雄126、瀧安治9、上田武司1
70年 長嶋茂雄127、瀧安治12、上田武司1
71年 長嶋茂雄129、瀧安治12、上田武司7、大竹憲治3、河埜和正1
72年 長嶋茂雄124、瀧安治32、上田武司5、矢部祐一3、山下司1
73年 長嶋茂雄127、瀧安治30、富田勝14、上田武司2、山本和雄1
74年 長嶋茂雄125、富田勝92、山本和雄5、上田武司2
65年〜73年のV9期間に「長嶋以外の選手がスタメン三塁手」だった試合は、どのくらいあるだろうか。年度ごとに見てみよう(カッコ内はスタメンだった選手)。優勝決定後のいわゆる「消化試合」がそのうちにいくつ含まれているかも記した。
・65年 9試合/消化試合8(船田和英5、塩原明4)
・66年 7試合/消化試合4(塩原明4、松村正晴3)
・67年 14試合/消化試合7(瀧安治7、塩原明6、上田武司1)
・68年 3試合/消化試合3(瀧安治3)
・69年 4試合/消化試合0(瀧安治4)
・70年 6試合/消化試合0(瀧安治6)
・71年 1試合/消化試合1(上田武司1)
・72年 6試合/消化試合1(瀧安治5、矢部祐一1)
・73年 3試合/消化試合0(富田勝2、上田武司1)
V9期間の公式戦はトータル1192試合。そのうち長嶋がスタメンを外れたのは53試合で、スタメン率95・5%。そこから「消化試合」を除いたスタメン率は97・4%(1139試合中1110試合)になる。9シーズンの中でシーズン序盤(4〜5月)にスタメンを外れたのは、扁桃腺炎による69年4月17日の中日戦(後楽園)から20日の大洋戦(川崎)までの4試合と、72年5月14日の大洋戦(川崎)の計5試合のみである。
現役最後の年となった74年シーズンについて見てみたい。三塁手出場数125という数字自体は、それまでと遜色ない。しかし、2番手の富田勝(球歴はソフトバンク三塁手編参照)も92試合でサードを守っている。それまで、長嶋の2番手三塁手で最も多い出場数は72年の瀧安治32だから、およそ3倍だ。
スタメンは長嶋123試合、冨田7試合。つまり、85試合で冨田が試合途中からサードに入っている。長嶋は「試合後半に守備固めを送られる選手」になっていた。
打順についても見ておきたい。シーズン53試合目の6月19日の中日戦(中日球場)で、長嶋は「1番」でスタメンに名を連ねた。スタメンでクリーンアップ以外の打順に入るのは、ルーキーイヤーの58年以来だった。58年の長嶋は、4月9日の大洋戦(後楽園)から12日の阪神戦(甲子園)までの3試合で「2番」、5月4日の広島戦(後楽園)から7日の大洋戦(富山)までの5試合で「6番」だったが、5月10日の中日戦(中日球場)以降はクリーンアップに定着する。その日から74年6月19日までの約16年にわたって、クリーンアップから外れることはなかった。「1番サード長嶋」というアナウンスは、同時代の野球ファンにとって衝撃的な響きがあったに違いない。
長嶋はこの日を含めて、30試合で1番を打った。私事になるが、筆者の父親(長嶋の2歳上)がテレビの野球中継を見ながら「長嶋は1番なのか。もう終わりだなあ」とボソッと呟いたことを鮮明に覚えている。
長嶋が正式に引退を表明したのは、74年10月12日だった。この日の昼前、川上監督とともに正力亨オーナーを訪ねて引退の意思を伝えた[33]。その夜、巨人は神宮球場でヤクルトと対戦。長嶋は「3番サード」で出場した。その試合中に、中日が本拠地で大洋を破り、優勝を決めた。巨人の黄金時代が終焉した瞬間である。
神宮でこの試合を観戦していた山口瞳は、以下のような文章を残している。
「五回の表、先頭打者となった長島の一打は、浅野の外角球をとらえ、右前に飛んでいた。(中略)長島は一塁ベース上に立った。一点リードされているのだから、同点となるべきランナーである。しかし、その瞬間に代走冨田が告げられていた。長島が一塁ベースからベンチへ戻ってくるときの泣き笑いの顔を私は終生忘れることがないだろう」[34]
「神宮でのヤクルト戦だから、巨人軍ベンチは三塁側である。(中略)しかし、どの回でも、自分のポジションに着くのが一番遅いのが長島だった。(中略)遅いどころではない。一塁手の王が、セカンドの土井に、ショートの河埜に、二球三球と守備練習を行っているのに、まだ長島が三塁ベースにも達していない。やっと守備位置についた長島に、王はいたわるようにして一球だけ、ワンバウンドかツウバウンドの捕球しやすい球を投げるのが常だった。長島の体が動かなくなっている。足があがらなくなっている」[35]
その2日後、10月14日の中日戦(後楽園)を最後に、長嶋茂雄はグラウンドを去った。そして、巨人のホットコーナーが空白になった。
■「ポスト長嶋」の行方
75年。長嶋が監督に就任し、巨人の新しい時代が始まった。長嶋にとって最大のテーマは「長嶋茂雄のいない巨人軍」を指揮しなければならないというジレンマである。
開幕戦のスタメンサードは、前述の富田勝だった。富田は、前監督の川上哲治が長嶋のバックアッププレーヤーとして南海にトレードを申し入れた選手で(ソフトバンク三塁手編参照)、後継の正三塁手に収まるのは自然な流れだった。
しかし長嶋は、自分の後継者としての富田に満足していなかった。
開幕後の4月20日、現役メジャーリーガー、デーブ・ジョンソン(球歴は二塁手編参照)が来日。26日のヤクルト戦(後楽園)に「3番サード」で出場する。長嶋は、自らの後継者はアメリカから補強するしかないと考え、前年のウインターミーティングに自ら出席するなど外国人選手の獲得工作を続けていた[36]。しかし、ジョンソンは不慣れなサードへの適応に苦しみ、まったく力を発揮できなかったことは二塁手編で述べた通りである。
75年 ジョンソン86、富田勝66、山本和生12、上田武司6、柴田勲1
球団史上初の最下位に沈んだ75年シーズンが終わり、秋季練習が行なわれていた多摩川グラウンド。そこには、驚くべき光景があった。外野手の高田繁(球歴は外野手編参照)がサードの練習をしていたのである。
1年目の68年からレギュラーとなった高田は、主力選手としてV9に貢献した。主なポジションはレフトで、ゴールデングラブ賞を4回受賞。とりわけ「ツーベースをシングルにしてしまう」ライン際の打球処理には定評があった。
プロ野球の世界で「内野→外野」のコンバートは珍しいものではないが、「外野→内野」というコンバートは、ほとんど例がない。加えて、高田は75年で30歳になる。この年齢の選手に前例のないチャレンジを強いることに誰もが驚いたが、長嶋は「左翼と三塁への打球は遠近の差こそあれ、同質に近い。高田は反射神経が鋭い。是非やらせてみたい」[37]という独特の理論でコンバートを決断したのである。
長嶋は、シーズン中から高田の三塁コンバートを構想していたというのだが、75年8月24日の読売新聞紙上で、千葉茂が「特に高田を三塁手にすることを勧めたい。彼はいい内野手になれると思う」とコメントしている[38]。長嶋はこれに示唆されたのだろうか。もしくは、長嶋の構想をひそかに聞いていた千葉が、援護射撃の意味でこのようなコメントを発したのか。真相はわからない。
一方、高田にとっても、この〝無謀な〟コンバート案を受け入れなくてはならない事情があった。巨人と日本ハムとの間で大型トレードが発表されたのである。首位打者7回の大打者・張本勲が、高橋一三、富田勝との交換で巨人に入団することになった。張本のポジションはレフトだから、高田が押し出されてしまうことは誰の目にも明らかだった。
「張本さんの入団が決まってから『高田放出』の報道が新聞を賑わしててね。『おれは来年どうなるのかなぁ』と思ってたら、長嶋監督に『明日の練習後、家に来てくれ』っていわれて。『これはトレードか…』と思って(中略)覚悟して長嶋さんの家に行くと、『トレードはない。おまえは出さない』という。そして『ところでタカ、来年からサードやらないか?』と…」[39]
11月15日の阪神とのオープン戦(福山)が「サード・高田」のデビューとなった。1回表、いきなり初球から強いゴロがサードへ飛ぶが、高田は無難にこの打球をさばき、セーフティバントを含め合計6個のゴロを処理した。捕手の吉田孝司は、阪神の打者に「高田がサード初めてだから、ちょっとバントしてやってくれ」と頼んだという[40]。
「とにかく不安だったのはゴロを捕ること。でもね、まずサードの守備位置に立ってみたら、ものすごく一塁が近く感じた。(中略)『あんなに近いところに投げるだけでいいんだ。捕ってしまえば絶対アウトにできる』って思った」[41]
76年4月3日。開幕のヤクルト戦(神宮)で、高田は「2番サード」でスタメンに名を連ねた。そして周囲の不安をよそに、新しいポジションに鮮やかに適応してみせた。コンバート1年目でゴールデングラブ賞を受賞し、内野手と外野手の両方で同賞を受賞した史上初の選手となった[42]。また、打撃面でも自己最高の打率.305をマークし、優勝に貢献した。
高田の成功を後押ししたのは、この76年から本拠地の後楽園球場に人工芝が敷かれたことだった。イレギュラーがない人工芝は、土のグラウンドに比べて内野手の負担は少ない。加えて、多摩川グラウンドにも敷かれた人工芝の上で前年秋から練習を積んで慣れていたため、他球団の内野手よりアドバンテージがあった。
76年 高田繁115、山本和生54、ジョンソン14、上田武司13、伊原春樹3
77年 高田繁118、山本和生37、上田武司14、松本匡史9、リンド7、河埜和正2、中畑清1
78年 高田繁94、シピン30、上田武司19、松本匡史16、山本和生14、大北敏博5、篠塚利夫3、中畑清1
こうして高田がサードに定着する陰で、78年オフの日米野球でのホームランで自信をつけた中畑清(球歴などは一塁手編参照)が、徐々に台頭していた。
79年4月11日の阪神戦(甲子園)。長嶋監督は高田をライトに回し、中畑を「7番サード」でスタメンに起用した。そして、高田が右ヒザを故障したこともあり、6月2日の阪神戦(後楽園)以降、中畑が正三塁手に定着する。そして、8月19日のヤクルト戦(後楽園)は記念すべき試合となった。以下は中畑の回想。
「オレにとってもチームにとっても、歴史の変わる一日だった。『三番・サード中畑、四番ファースト王』の場内アナウンスがゲーム前の後楽園球場に流れたのである。『王さんと並んだ……』。一年前までイースタンの四番が精一杯といわれていたオレが王さんと並んでニューNO砲を組んでいるのだ」[43]
長嶋に憧れ、長嶋を追いかけて野球を続けていた中畑にとって、巨人のホットコーナーは夢のポジションだった。高田が80年限りで引退したこともあり、正三塁手としての地位は盤石になったかと思われた。
79年 中畑清97、高田繁52、篠塚利夫4、平田薫2
80年 中畑清124、高田繁9、平田薫1、篠塚利夫1、鈴木康友1
だが、中畑がその位置にとどまることができたのは、短い期間にすぎなかった。
■原辰徳の時代
80年の夏、長嶋監督は、かつてのチームメイト・瀧安治からロングインタビューを受けている。なかなか浮上できないチーム状態(80年の巨人の最終成績は61勝60敗9分で3位)を嘆いた後、インタビューはこんなふうに結ばれる。
「やっぱり『長島』を作りたいですよ。もう一人の長島を」
それに対して、瀧が「じゃあ、もし原辰徳が入ったらどうしますか」と問いかけると、長嶋はこう答える。
「これは、やっぱり考えるな。(中略)もし、本当にそうなってくれたら、夢が実現するな。やっぱり『長島』を作りたいよ」[44]
シーズン終了後の80年10月21日、長嶋は辞任会見を行なう。事実上の「解任」である。新監督に就任した藤田元司は、11月26日のドラフト会議で東海大の三塁手、原辰徳の交渉権を引き当てた。ここから、80年代巨人の激動が始まる。
58年7月22日、原辰徳は福岡県大牟田市で生まれた。父の貢は三池工野球部監督で、65年夏の甲子園でチームを全国優勝に導く。小学生の辰徳は、地元に凱旋した父の優勝パレードを目撃し、野球少年の王道をまっしぐらに進んでいく。
「もちろんジャイアンツのユニフォームでした。ズボンの横にはGラインがはいっていて、背番号は3番。もちろん長島さんの大ファンでしたから当然ですね。帽子は黒地にオレンジ色で、GとYのマーク。オヤジにそれを買ってもらって、自分で初めて着てみたときには、嬉しかったですね」[45]
原一家は、貢が東海大相模の監督に就任したため神奈川に移住。辰徳は東海大相模、東海大と、父が監督を務めるチームで野球を続けた。高校では1年からサードのレギュラーで、春夏通算4回甲子園に出場。大学では首都大学リーグ三冠王を2回獲得し、通算21本塁打を打った。
プロ野球選手の多くがそうであるように、原も、中学時代までは「エースで4番」だった。高校入学時の「転機」を、貢が回想している。
「辰徳は中学のとき投手だったので、最初は外野でもさせようと考えていた。ところが、練習で新入生に好きなポジションについてみろと言うと、三塁へつく。それで打つから三塁手としてスタートさせたんです」[46]
中畑と同様、原も〝長嶋チルドレン〟の一人だった。当然、つくべきポジションはサード以外には考えられない。ホットコーナーは、彼らにとっての聖域だった。
81年シーズンの序盤、紆余曲折を経て「サード・原」が誕生するまでの経緯は、一塁手編の中畑清の項、二塁手編の篠塚利夫の項で述べたとおりである。
原が初めてスタメンでサードに入ったのは、81年5月5日の中日戦(ナゴヤ)。同年から88年までの三塁手出場数を以下に示す。88年で区切るのは、原が「正三塁手」だったのは88年までだからだ。
81年 原辰徳101、中畑清39、鈴木康友1
82年 原辰徳127、中畑清3
83年 原辰徳124、中畑清7
84年 原辰徳128、中畑清5、鈴木康友1
85年 原辰徳121、中畑清11、鴻野淳基11、岡崎郁3、川相昌弘2、上田和明1
86年 原辰徳109、中畑清17、岡崎郁10、川相昌弘6、河埜和正1
87年 原辰徳114、中畑清17、川相昌弘8、鴻野淳基4、福王昭仁3、岡崎郁2、佐藤洋1
88年 原辰徳124、岡崎郁5、川相昌弘2、鴻野淳基2、中畑清2、佐藤洋2、福王昭仁1
「もう一人の長島を作りたい」という野望を果たせず、長嶋茂雄はチームを去った。入れ替わりで入団し、巨人の「4番サード」に定着した原は、「もう一人の長島」になれたのだろうか。答えは否である。長嶋になれるのは、長嶋しかいない。それは初めから、ないものねだりの命題というしかない。しかし原の80年代は、この「ないものねだり」と戦わなくてはならない厳しい日々だった。打点王やMVPを獲得しても(ともに83年)「物足りない」「長嶋はこんなもんじゃなかった」と言われ続けた。
81〜88年の8シーズンで、原は通算249本の本塁打を打っている。長嶋のデビューから8シーズンの通算本塁打は210本である。同じ期間の打点数は原が693、長嶋が686。単純に比較すれば、原は長嶋以上の数字を残していたのだが、「ないものねだり」の声が止むことはない。そういう声を発するファンの多くは、V9時代を知る中高年世代だった。
79年生まれのライター・中溝康隆は、小学4年だった88年に、原の夫人に「旦那さんになにかあったら言ってください」と書いた手紙を出したという。
「当時の原辰徳は子どもにも心配されるくらいマスコミに叩かれまくっていた。『巨人史上最低の4番』『お嬢さん野球』なんつってボロクソだ。(中略)おじさんたちはよく背番号8を馬鹿にしたよ。『長嶋はもっと凄かった』『王はこんなもんじゃなかった』ってさ」[47]
同時代のセ・リーグには、原の他にも、掛布雅之(阪神)、衣笠祥雄(広島)、田代富雄(大洋)など、実績も貫禄もある三塁手が揃っていた。上記の8シーズンで、原がセ・リーグの三塁手ベストナインに選ばれたのは83年、87年、88年の3回(他は掛布3回、衣笠1回、レオン1回)であり、17年連続ベストナインの長嶋と比較すれば「物足りない」ということになってしまうわけだが、いくらなんでも、それは酷に過ぎる評価だろう。しかし、原は「巨人の4番サード」として、そういった理不尽を引き受けてプレイし続けたのである。
巨人の長い球団史で、1000試合以上サードを守ったのは長嶋と原の2人だけだ。ただし、長嶋の2172に対して原は1160で、倍近い開きがある。実働は長嶋17年、原15年だから、そこまで差があるわけではない。引退まで「生涯三塁手」を全うした長嶋と、全うできなかった原との違いである。
88年オフ、退任した王監督に代わって、藤田元司が再び監督になった。藤田は、大胆なコンバートによるチーム改造を目論んでいた。就任直後の10月に、中畑に「来年サードをやってもらう」と告げた(一塁手編参照)藤田は、同時期に原とも面談している。
秋季練習3日目の10月17日、ジャイアンツ球場のコーチ室に呼ばれた原は、藤田から「レフトをやってくれないか」と告げられる。藤田は、中畑をサードに、主に外野だった駒田徳広をファーストに、そして原をレフトに回すコンバート案を説明した。原が「またボクがサードに戻ることもあるんですか?」と尋ねると、藤田は間髪入れず「それはない」と答えた[48]。さらに「今度お前を動かすときは、塀の外だ」と言ったと伝えられる[49]。レフトがダメなら、もうグラウンドから出てもらう。つまり引退だ──という非情な通告である。
コンバートの理由の一つは、アキレス腱に不安を抱える原のコンディションにあった。発症したのは87年からで、「断裂」の恐怖と背中合わせのままプレイを続けていた。外野なら「瞬発的な動きは内野ほどではない。そのぶん負担は軽くなるはず」と藤田は考えた[50]。そこまで藤田が慎重になった背景には、監督就任の3ヶ月前、88年7月6日の中日戦(札幌円山)で、吉村禎章が左膝靭帯断裂という大怪我を負ったことがあったのではないだろうか。吉村に続いて、原に「もしも」のことが起これば大変な事態になる。巨人というチーム全体に、故障への恐怖感が普段以上に蔓延していた時期である。
コンバート後の原は、89年シーズン開幕後に長嶋茂雄と対談し、そこで複雑な心境を吐露している。「僕みたいなタイプは外野手だったらまず打てない」と語る長嶋に対して、原は「僕は守備は守備、バッティングはバッティングという感じですね」と返し、サードに戻りたいという気持ちはない?という司会者の問いかけには「ないですよ。そういう気持ちがあったんだったら、レフトになんかまわりませんよ」と答えるのだが、続けて、以下のように語り始めるのである。
「でも、僕はサードにあこがれてね、長島さんにあこがれて、野球に取り組んだわけです。小さい頃僕は九州にいまして、テレビは巨人戦しかないわけです。『僕は大きくなったら、巨人のサードを守るんだ。巨人の四番を打つんだ』という夢を抱いてやってきて、それが現実になって、そしていまはレフトを守っている。やはり1時間2時間じゃあ語りつくせないものはありますよ」[51]
■ショートリリーフ・岡崎郁と迷走時代
藤田監督の「サード中畑」構想は、89年シーズン5試合目に中畑が故障したことによって早々に頓挫する(一塁手編参照)。代わってサードに入ったのは、10年目の中堅選手、岡崎郁だった。
61年大分県生まれで、79年ドラフト3位で大分商から入団した岡崎は、83年に肋膜炎を患い、84年の開幕時から8月まで練習生扱いになるなど苦労を重ねていたが、85年から一軍に定着する。88年までのポジション別出場数はショート315、セカンド71、サード20。86年以降は「正遊撃手」と言っていい存在だったが、ここまで一度も規定打席に達していない。レギュラーではなく「レギュラー格」という曖昧な領域で伸び悩んでいた。88年まで内野守備コーチだった土井正三は、岡崎について「野球センスはすごいんだけど、どうももうひとつ体でレギュラーをとろうとする迫力がない」[52]と、厳しいコメントを発している。
89年のオープン戦で、岡崎はファーストミットを用意するように命じられる。「一塁兼用で130試合出場をめざせ。一般の会社でも兼務をまかせられる人間というのが、一番信用あるんだ」というのが藤田監督の理屈だったが[53]、事実上の「遊撃手失格」である。東京ドームでの初公式戦である4月8日のヤクルト戦に「6番ファースト」で出場。ショートのスタメンは3年目の勝呂博憲で、ファーストに回るはずの駒田は、結局、ライトを守っている。
中畑が離脱した後、岡崎がサードに回るのは4月29日の中日戦(東京ドーム)である。ファーストには、当初の予定通り駒田が入った。「いまのライバルは勝呂や川相ではない。原さんや篠塚さんですよ。常に両先輩と競ってクリーンアップに収まる選手になりたいですね」[54]という岡崎のコメントは、サードという新天地を得て気持ちが吹っ切れたことを示している。この布陣で巨人はその後のシーズンを戦い、リーグ優勝、日本一へと突き進む。そして、岡崎は初めて規定打席に達した。
89年 岡崎郁108、中畑清22、勝呂博憲14、川相昌弘10、福王昭仁7、緒方耕一6、上田和明4、佐藤洋2
90年 岡崎郁98、原辰徳31、緒方耕一6、藤岡寛生3、上田和明3、福王昭仁2、井上真二1、佐藤洋1、勝呂博憲1
91年 岡崎郁99、ゴンザレス15、原辰徳13、上田和明12、後藤孝志8、佐藤洋3、デラクルーズ2、福王昭仁1、篠塚利夫1
92年 岡崎郁124、大野雄次6、原辰徳3、佐藤洋2、上田和明2、福王昭仁1
93年 原辰徳80、長嶋一茂32、岡崎郁17、吉岡雄二10、元木大介6、福王昭仁4、篠塚和典1、鈴木望1
94年 岡崎郁72、原辰徳55、長嶋一茂38、元木大介21、福王昭仁3
ここで疑問が生じる。三塁手として引導を渡されたはずの原が、コンバート翌年の90年以降、散発的にサードを守っていることだ。そして93年には、一時的に「正三塁手」に復帰している。「今度お前を動かすときは、塀の外だ」という藤田の言葉は、あっさりと反故にされたのだ。
90年は岡崎が故障した穴を埋めるため、5月9日の大洋戦(横浜)から6月5日の大洋戦(福島)まで、原が1ヶ月近くサードを守った。
そして、長嶋が監督に復帰した92年オフ。宮崎秋季キャンプ中の11月10日、長嶋の部屋に呼ばれた原は、「これからはサードの練習もやるように」と告げられる。原はこの年、レフトからファーストに再コンバートされていたが、長嶋は「やっぱり、サードは華のある選手がいい。そう窮屈に考えずに、サードとファーストの両方できる態勢でいこうじゃない」と原に語りかけた[55]。しかし、晩年を迎えていた原の成績は、サードに戻ったからといって上向くことはなかった。93年は打率.229、本塁打11、打点44。すべて自己最低の数字である。
翌94年9月7日、サード争いのライバルでもある長嶋一茂を代打に送られるという屈辱を味わった原は、95年限りでユニフォームを脱ぐ。東京ドームでの引退試合(10月8日、広島戦)に「4番サード」で出場し、試合後のスピーチで「巨人軍には、何人も冒すことのできない聖域があります」と語った。筆者は球場で観戦していたが、その時は「長嶋茂雄」の幻影と戦い続けた痛々しさしか感じ取れなかった。その後、原が「監督」として長嶋を超える実績を残す存在になるとは、正直、まったく予測していなかった。
95年から97年までは、助っ人にサードを任せようとして、ことごとく失敗した3シーズンである。
95年 ハウエル63、原辰徳30、吉岡雄二30、岡崎郁21、後藤孝志8、元木大介6、広沢克己1
96年 仁志敏久91、後藤孝志23、長嶋一茂23、マント9、吉岡雄二9、元木大介8、福王昭仁5、岡崎郁2
97年 後藤孝志47、カステヤーノ44、元木大介42、ルイス30、石井浩郎22、福王昭仁3、仁志敏久2
95年は、ヤクルトで活躍し、92年に首位打者と本塁打王の二冠でMVPとなったジャック・ハウエルを獲得したが、夫人との離婚調停を理由に7月23日の中日戦(ナゴヤ)を最後に帰国してしまい、そのまま退団する。
96年は、ボルチモア・オリオールズの正三塁手だったジェフ・マントを獲得したが、開幕からまったく打てず、4月23日に解雇されてしまう。出場10試合、27打数3安打、1打点、本塁打0。それが「クスリとマントは逆から読んだらダメ」と渡辺恒雄オーナー(当時)が嘆いた助っ人の通算成績だった。
97年は、台湾プロ野球で3年連続首位打者を獲得していたルイス・デロスサントスを獲得したが、5月以降は後藤孝志にスタメンを奪われ、6月5日のヤクルト戦(東京ドーム)を最後に二軍に落ちると、再昇格することなく退団した。ルイスの穴を補うべく、コロラド・ロッキーズの3Aから急遽獲得したペドロ・カステヤーノが6月6日の中日戦(ナゴヤドーム)から戦列に加わったが、2割に満たない低打率(最終成績は.197)に喘ぎ、同年限りで退団している。
巨人のサードは、完全に迷走期に入った。度重なる失敗に懲りたのか、続く2シーズンの三塁手は「国産路線」に転換している。
98年 元木大介60、後藤孝志55、仁志敏久27、永池恭男25、石井浩郎24、広沢克己13、ダンカン1、福王昭仁1
99年 元木大介88、後藤孝志45、川相昌弘32、永池恭男13、清原和博11、川中基嗣9、佐々木明義3、広沢克己1
内野のユーティリティだった元木大介(球歴は二塁手編参照)のポジション別通算出場数は、三塁手399、二塁手373、遊撃手348、外野手64、一塁手48である。
■「外様」の時代
2000年以降、巨人のサードは「外様用」のポジションになる。既にそうなっていたファーストと同様、水原茂以来の伝統を紡いできたホットコーナーは、「大型補強」でやって来た選手たちのゲストルームになった。
00年から19年までの三塁手出場数を以下に示す。
00年 江藤智123、元木大介34、佐々木明義15、川相昌弘14、永池恭男4、後藤孝志4、福井敬治3、川中基嗣3、田辺徳雄1
01年 江藤智133、川相昌弘21、元木大介19、川中基嗣15、福井敬治10、後藤孝志8
02年 江藤智73、元木大介60、川相昌弘37、川中基嗣35、福井敬治32、後藤孝志19、クレスポ13、永池恭男3、十川孝富3、宮崎一彰2、大須賀允1、斉藤宣之1
03年 江藤智67、元木大介42、川相昌弘40、斉藤宣之33、福井敬治25、川中基嗣23、後藤孝志11、黒田哲史4、宮崎一彰3、長田昌浩2、二岡智宏1
04年 小久保裕紀121、黒田哲史18、江藤智15、大須賀允8、後藤孝志7、元木大介5、福井敬治4、川中基嗣2、岩舘学1、長田昌浩1
05年 小久保裕紀142、黒田哲史18、元木大介8、川中基嗣6、十川孝富4、岩舘学2、江藤智1
06年 小久保裕紀87、古城茂幸45、黒田哲史21、ディロン16、アリアス15、川中基嗣14、岩舘学13、脇谷亮太9、木村拓也7、二岡智宏6、十川孝富2
07年 小笠原道大139、古城茂幸26、脇谷亮太18、二岡智宏4
08年 古城茂幸57、小笠原道大41、脇谷亮太32、二岡智宏25、寺内崇幸22、木村拓也18、岩舘学7、小坂誠5、円谷英俊4
09年 小笠原道大123、寺内崇幸41、脇谷亮太40、古城茂幸16、中井大介14、大田泰示2
10年 小笠原道大102、脇谷亮太67、寺内崇幸15、古城茂幸11、中井大介2
11年 古城茂幸54、寺内崇幸49、亀井義行42、ライアル27、フィールズ23、脇谷亮太17、小笠原道大9、円谷英俊9、大田泰示2、中井大介1
12年 村田修一139、寺内崇幸24、古城茂幸18、中井大介6、大田泰示2、亀井義行1
13年 村田修一144、立岡宗一郎11、脇谷亮太8、中井大介4、高口隆行4、亀井義行3、坂口真規2、藤村大介1、古城茂幸1、ロペス1、大累進1
14年 村田修一141、寺内崇幸20、井端弘和16、中井大介3、藤村大介2、ロペス1
15年 村田修一97、井端弘和39、吉川大幾26、岡本和真12、寺内崇幸12、立岡宗一郎6、中井大介4、辻東倫2、フランシスコ1
16年 村田修一143、吉川大幾24、寺内崇幸8、脇谷亮太2、クルーズ1、中井大介1、藤村大介1
17年 マギー79、村田修一71、寺内崇幸8、山本泰亮1
18年 マギー128、吉川大幾53、岡本和真19、中井大介18、田中俊太8、辻東倫1
19年 ビヤヌエバ69、岡本和真65、山本泰亮28、田中俊太22、増田大輝22、若林晃弘17、中島宏之10、吉川大幾4、北村拓己2、マルティネス2
上記の20シーズンの中で、巨人がホットコーナーに迎え入れた「大型補強」選手が4人いる。FAで獲得した江藤智、小笠原道大、村田修一、無償トレードで獲得した小久保裕紀である。それぞれ、広島、日本ハム、横浜、ダイエーの中心打者だった。ファーストと同様、「巨人の4番打者コレクション」と揶揄されもした面々である。
この4人の、巨人における成績を比較してみたい。カッコ内は巨人在籍年。
◆江藤(00〜05年)627試合(三塁手出場数412)/465安打/打率.256/296打点/101本塁打/OPS.802
◆小久保(04〜06年)355試合(三塁手出場数350)/371安打/打率.287/238打点/94本塁打/OPS.906
◆小笠原(07〜13年)701試合(三塁手出場数414)/745安打/打率.296/413打点/138本塁打/OPS.879
◆村田(12〜17年)795試合(三塁手出場数735)/765安打/打率.274/391打点/109本塁打/OPS.776
「サード」としての貢献度が高かったのは誰か、その判断は難しい。
出場数なら村田が突出している。冒頭で示したように、三塁手出場数735は、長嶋、原に次ぐ巨人歴代3位である。在籍は3シーズンと短いが、小久保のOPS9割台も見事な数字だ。在籍時のリーグ優勝回数は、江藤が2回、小久保が0、小笠原が5回、村田が3回で、これだけを見れば、小笠原がいた頃の巨人が2000年以降では最強と考えることもできる。
彼らは、移籍時には既にプロ野球を代表するスター選手ではあったが、巨人という「特別な」球団の一員となって戸惑うことも少なくなかった。その際たるものが、メディア対応である。
「春のキャンプ中の取材の数といえば、ホークスの三倍くらいはありました。(中略)さすがジャイアンツはマスコミが親会社の球団だと感じたものです」(小久保)[56]
「はじめはその報道量に戸惑ったことは間違いない。それまで、いくら打ってもあまり大きく取り上げられることがなかったので、そのギャップは大きかった。『いつも見られている』状況になかなか慣れることができなかったし、『新聞は読まなくていいや』と思うようになるまではかなり時間がかかった」(村田)[57]
とはいえ、ファーストにやってきた「外様」たちに比べると、サードにやってきた選手たちには「外様感」が薄い。落合博満や清原和博のようなアクの強い面々と違って、上記の4人は優等生的なキャラクターだった。小笠原は移籍時にトレードマークだった髭をバッサリ剃り落とした。小久保は06年にキャプテンを務め、村田は14年から2年間、選手会長を務めた。彼らは進んで巨人というチームに順応し、高橋由伸、阿部慎之助、坂本勇人ら生え抜きの主力選手に配慮しつつ、影のチームリーダーというべき役割を引き受けていたのである。
あらためて00年以降の三塁手出場数を眺めてみると、この間、生え抜きの三塁手を積極的に育成しようとした形跡はほとんど見られない。「外様」の正三塁手のサポートとして起用されるのは、寺内崇幸、脇谷亮太らユーティリティ選手、黒田哲史、古城茂幸、井端弘和ら移籍組がほとんどである。外野手の亀井義行や立岡宗一郎をコンバートしたこともある。村田に衰えが見えてくると、生え抜きの若手で代替するのではなく、楽天で活躍したケーシー・マギーを獲得した。
■岡本和真は伝統を継ぐのか
そして、20年シーズン。原辰徳監督は、自身が背負った伝統を継ぐ存在として、生え抜き6年目の岡本和真をサードに固定する。
岡本は96年奈良県生まれで、15年ドラフト1位で智弁学園から入団した。18年にファーストのレギュラーに抜擢されて結果を残し(一塁手編参照)、中軸打者に成長したうえでのサード転向だ。長く続いた「外様の時代」が終わるのかどうか、それは岡本のパフォーマンスにかかっていた。
20年 岡本和真118、若林晃弘9、北村拓己8、田中俊太7、吉川大幾4、増田大輝3、湯浅大3、ウィーラー1、ウレーニャ1、香月一也1
21年 岡本和真143、増田大輝9、廣岡大志5、湯浅大5、香月一也4、若林晃弘4、北村拓己3
22年 岡本和真140、増田大輝5、北村拓己4、増田陸4、若林晃弘4、湯浅大4、香月一也2
23年 岡本和真84、門脇誠48、中山礼都24、坂本勇人21、北村拓己9、菊田拡和3、増田大輝3、廣岡大志2、松田宣浩1
20年の岡本は「4番サード」としてほぼフル出場し、31本塁打、97打点で二冠王となった。21年は39本塁打、113打点で連続二冠王を獲得するとともに、初めてゴールデングラブ賞を受賞。22年は30本塁打、82打点で2年連続ゴールデングラブ賞と実績を積み上げていく。
だが、23年シーズンの後半に事情が変わった。9月7日のヤクルト戦(神宮)で、それまで不動の正遊撃手だった坂本勇人がサードのスタメンで出場(詳細は遊撃手編参照)。岡本は古巣のファーストへ戻っていく。坂本は翌24年、完全にサードに転向した。
24年 坂本勇人104、岡本和真29、増田大輝18、門脇誠16、モンテス11、湯浅大10、中山礼都8、泉口友汰4、ウレーニャ1
巨人のホットコーナーをめぐる物語は、また新しい展開を見せることになった。36歳でのポジション変更となった坂本は、どこまで選手寿命を長らえるのか。岡本は、再びホットコーナーに帰ってくることはあるのか。それとも、新しい顔が台頭するのか。
■総論──三塁手から「監督」へ
巨人の歴代監督には、三塁手出身者が3人いる。水原茂、長嶋茂雄、原辰徳である。監督としての勝利数と優勝回数を見てみよう。水原は881勝、リーグ優勝8回、日本一4回(東映、中日監督時は含まず)。長嶋は1034勝、リーグ優勝5回、日本一2回。原は1291勝、リーグ優勝9回、日本一3回。3人合計の勝利数は3206。これは、巨人の通算勝利数6343(2024年まで)のおよそ51%にあたる。
これを、川上哲治、王貞治という一塁手出身の監督と比較してみる。川上は1066勝、リーグ優勝11回、日本一11回。王は347勝、リーグ優勝1回(ダイエー、ソフトバンク監督時は含まず)。2人合計の勝利数は1413で、巨人の通算勝利数のおよそ22%である。
巨人の通算勝利数のほぼ半数は「三塁手出身」の監督によって挙げられている。このことが、巨人というチームにおいて、三塁手というポジションが「聖域」として語られる一因でもあるだろう。
他球団にも、「監督を多く輩出するポジション」はいくつかある。例えば、阪神における二塁手(安藤統男、中村勝広、岡田彰布、和田豊)、広島における遊撃手(白石勝巳、古葉竹識、三村敏之、野村謙二郎)など。しかし、水原、長嶋、原と続く「巨人の三塁手」の実績とオーラは、他を圧するものがある。
筆者はここに、もうひとり「幻の三塁手出身監督」を加えたい欲望にかられる。それは宇野光雄である。
文中で記したように、水原が自らの後継監督に考えていたのは、川上でも千葉茂でもなく、宇野だった。フロントの政治的な思惑による国鉄へのトレードがなければ、宇野は水原の後を受けて巨人の監督に就任していたのではないか。もしそうなったら、巨人の歴史、プロ野球の歴史はどうなっていただろうか。巨人の三塁手の系譜を追っていくと、そんなことを夢想してみたくなる。(了)
参考文献・資料
『読売巨人軍75年史』(読売巨人軍、2010)
「ジャイアンツ栄光の70年」(ベースボール・マガジン社、2004)
「ジャイアンツ90年史」(ベースボール・マガジン社、2024)
「日本プロ野球80年史」(ベースボールマガジン社、2014)
「THE OFFICIAL BASEBALL ENCYCLOPEDIA 2004」(ベースボールマガジン社、2004)
「ベースボール・レコードブック」(ベースボールマガジン社)
森岡浩編著『プロ野球人名事典2001』(日外アソシエーツ、2001)
坂本邦夫『プロ野球データ事典』(PHP研究所、2001)
宇佐美徹也『プロ野球記録大鑑』(講談社、1993)
三宅大輔『野球学』(ベースボール・マガジン社、1965)
水原茂『華麗なる波乱 わが野球一筋の歩み』(ベースボール・マガジン社、1983)
永田陽一『東京ジャイアンツ北米大陸遠征記』(東方出版、2007)
苅田久徳『天才内野手の誕生』(ベースボール・マガジン社、1990)
千葉茂『巨人軍の男たち』(東京スポーツ新聞社、1984)
「日本プロ野球偉人伝 Vol.1」(ベースボール・マガジン社、2013)
大和球士『真説日本野球史 昭和篇その四』(ベースボール・マガジン社、1979)
「日本プロ野球偉人伝 Vol.3」(ベースボール・マガジン社、2013)
長嶋茂雄『野球は人生そのものだ』(日本経済新聞出版社、2009)
岩川隆『キミは長島を見たか』(立風書房、1991)
大沢啓二『球道無頼 こんな野球をやってきた』(集英社、1996)
玉木正之編著『定本・長嶋茂雄』(NESCO/文藝春秋、1989)
山口瞳『草野球必勝法』(文春文庫、1983)
「野球小僧テクニカル NO.2」(白夜書房、2004)
中畑清『熱球悲願〝絶好調男〟の道』(恒文社、1982)
軍司貞則『原辰徳 おやじと息子の二十三年』(文藝春秋、1981)
中溝康隆『原辰徳に憧れて ビッグベイビーズのタツノリ30年愛』(白夜書房、2019)
赤坂英一『ジャイアンツ愛 原辰徳の光と闇』(講談社、2003)
小久保裕紀『一瞬に生きる』(小学館、2013)
村田修一『あきらめない。』(KADOKAWA、2019)
「Number」(文藝春秋)
NPB個人年度別成績
スタメンアーカイブ
スタメンデータベース
日本プロ野球記録
註
[1] 『野球学』224頁
[2] 『華麗なる波乱』42頁
[3] 『読売巨人軍75年史』31頁
[4] 『東京ジャイアンツ北米大陸遠征記』436頁
[5] 『天才内野手の誕生』149頁
[6] 『巨人軍の男たち』31頁
[7] 「日本プロ野球偉人伝 Vol.1」27頁
[8] 『読売巨人軍75年史』85頁
[9] 広島移籍後の51年以降の登録名は「武範」
[10] 『真説日本野球史 昭和篇その四』141頁
[11] 『巨人軍の男たち』100頁
[12] 『巨人軍の男たち』100頁
[13] 『華麗なる波乱』122頁
[14] 「ジャイアンツ栄光の70年」45頁
[15] 『華麗なる波乱』92頁
[16] 「日本プロ野球偉人伝 Vol.3」50頁
[17] 『華麗なる波乱』96頁
[18] 『読売巨人軍75年史』178頁
[19] 『華麗なる波乱』96、97頁
[20] 「日本プロ野球偉人伝 Vol.3」50頁
[21] 『野球は人生そのものだ』31頁
[22] 本稿では「長嶋」表記で統一する。ただし引用文については原典の表記に準じる。
[23] 『キミは長島を見たか』95頁
[24] 『球道無頼』38頁
[25] 『球道無頼』56、57頁
[26] 『ジャイアンツ栄光の70年』15頁
[27] 『野球は人生そのものだ』92、93頁
[28] 『野球は人生そのものだ』99頁
[29] 『定本・長嶋茂雄』56頁
[30] 『華麗なる波乱』280、281頁
[31] 『キミは長島を見たか』125、126頁
[32] 『定本・長嶋茂雄』275頁
[33] 「読売巨人軍75年史」350頁
[34] 『草野球必勝法』167頁
[35] 『草野球必勝法』168頁
[36] 「読売巨人軍75年史」366頁
[37] 「読売巨人軍75年史」371頁
[38] 「読売巨人軍75年史」371頁
[39] 「野球小僧テクニカル」64頁
[40] 「野球小僧テクニカル」64頁
[41] 「野球小僧テクニカル」64頁
[42] この後、西村徳文が二塁手と外野手、稲葉篤紀が外野手と一塁手で受賞している。
[43] 『熱球悲願〝絶好調男〟の道』174頁
[44] 「Number」2001年10月25日緊急増刊号28頁(初出は同誌1980年8月20日発売号)
[45] 『原辰徳 おやじと息子の二十三年』117頁
[46] 『原辰徳 おやじと息子の二十三年』187頁
[47] 『原辰徳に憧れて』9頁
[48] 「Number」1989年4月20日発売号78頁
[49] 『ジャイアンツ愛』96頁
[50] 「Number」1989年4月20日発売号79頁
[51] 「Number」1989年6月20日発売号15頁
[52] 「Number」1989年6月20日発売号74頁
[53] 「Number」1989年6月20日発売号74頁
[54] 「Number」1989年6月20日発売号75頁
[55] 『ジャイアンツ愛』104頁
[56] 『一瞬に生きる』209頁
[57] 『あきらめない。』141頁



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