新・私の本棚 ブログ記事 短里説: 新古代史の散歩道 補充
短里説: 新古代史の散歩道 2025/03/08
私の見方 ☆☆☆☆☆ 文献学逸脱 遺跡遺物考古学の余芸か 2025/04/10
短里説(たんりせつ)は魏志倭人伝の里程記事の距離が「短里」により書かれているとする説である。
◯はじめに
本項の「難点」は、項目筆者「新古」氏が、話題を論じるのに不可欠な知識・教養に欠けたまま、手当たり次第に旧世代諸論考読みかじりに耽ったため、闇なべ状態は壮観であるが、理解できない議題に理解しないまま結論を出すのは不都合ではないかと思われる。ブログ主催者南畝殿は、項目筆者(Editor)を、読解力、構文力のある方に変えた方がいいようである。
*引用とコメント
結論 『魏志倭人伝』における距離の記述の誤差を説明するために、「短里説」が提唱されているが、魏の時代に標準的な「里」が確立されていたことは出土したものさしによって確認されており、陳寿の記述の整合性を考慮しても、公的な文書において特別に短里が用いられたとする証拠はない。 したがって「短里説」を積極的に採用して辻褄を合わせるより、伝聞情報による誤差や航路の影響、方位の誤差、あるいは山道など歩行困難なルートの影響、など他の要因を考慮する方が妥当であろう。
折角の御高説でも、「短里説」は、六倍変動であり、「距離」「誤差」「辻褄合わせ」は別次元、些末である。「他の要因」で六倍変動など到底ありえないのではないか。とにかく、用語・構文が、ころころ動揺して、つぎはぎ状態では、老眼読者には、スジが通った理解が困難である。
なにしろ、くりかえすのは好まないのだが、「結論」と打ち出しながら、「短里説」の評価として、何の「結論」にもなっていないのは、どうしたことか。誠に、不憫である。
求められているのは、「短里説」の当否判断なのに、「積極的に」「採用して」「辻褄を合わせる」という、小手先の論証技巧として、ごたごた理窟をこね回した方がいいというような、当てこすりに違いないのである。案ずるに、「辻褄合わせ」にアラを見つけられないから、ケチを付けているのでは、「結論」とは言えまい。
もっとも、「短里説」の理解がドロドロ、ぐずぐずでは、明快な結論が出せるわけはないのである。
◯まとめに代えて
本稿は、担当者が雑多な文献を読み囓って、文意を理解できないままに、無理やり貼り合わせたと見え、用語構文が混沌としている。そそくさと例示したように、補正案が書ききれないほど、散漫な無資格放談に「結論」があるとは恐れ入る。いや、「結論」は、全く示されていないのである。
私見では、「短里」説は、「魏志倭人伝」の行程道里が、秦代以来の「普通里」約四五〇メートルの六分の一程度の仮想「短里」制度をもとに書かれていて、「倭人伝」内では整合しているとの提言であり、「誤差」などとは無関係である。
それにしても、蛇行しつつ練り歩いているような先行「反論もどき」は、ほぼ悉く的外れで、本来、「結論」は不適切である。
*問題点/課題の確認
古田氏は、「倭人伝」文脈で道里を精査すると、魏代「尺」と「倭人伝」「里」が、一里千八百尺関係でなく、氏が、暗黙で示唆しているのを見てとると、一里三百尺との仮定であり、そのように限定的に主張することにより、東夷伝「倭人伝」の「里」は、道里記事とほぼ整合するとしているのである。といわれて理解できるようなら、このような「結論」不在の記事を公開することもないと思える。
何しろ、研究者の主張を適確に読み取れず、「結論」を組み立てる知力もなく、まして、意見を論理的に展開できない「記事筆者」の指導ができないとは、当ブログ主催者ほどの立場の方は、専門外でたいへん苦痛とは拝察するが、方々問題点を読み切って、論理的で明快な結論を展開して欲しいものである。実質上、匿名無記名の記事とは言え、考古学研究者に対して、文献史料の解釈にお手本を示さないのは、サイトの本来の、つまり総合的な世評を落としていると見えるのではないかと、傷ましい。
*付け足し
参考文献の提示が混乱している。本当に文献実物を参照したのだろうか。教育的指導 (Elmentary)
参考文献
1.山尾幸久(1986)『魏志倭人伝』講談社
「魏志倭人伝: 東洋史上の古代日本」1972年初版 (講談社現代新書 284) の改訂新版であり、
本書が、山尾氏の最終見解とは、気の毒である。
2.古田武彦・谷本茂(1994)は『古代史のゆがみを正す』新泉社
何の事か意味不明。
3.古田武彦(1992)『「邪馬台国」はなかった』朝日新聞
第一書は、初刊1977年「朝日新聞社」刊でなく決定版を参照すべきである。
古田「短里説」は、初刊では、全「三国志」を悉皆で論じたが、最終的には、
「魏志」、しかも、曹魏明帝景初改暦から西晋末に期間・地域限定している。
古田武彦(2010)『「邪馬台国」はなかった』ミネルヴァ書房
以下略
以上
いつも勉強させていただいていますが、今回のお話は古代史解明のカギを握っています。
大夫難升米が帯方郡を訪れたのは景初二年六月ではなく景初三年(239年)六月の誤りであることは以下のことから推理できます。
「魏書 東夷伝
韓伝」に「明帝が景初中(237~239年)に密かに楽浪郡太守鮮于嗣と帯方郡太守劉昕を送った」という記事がありますが、「東夷伝
序文」に「景初年間、大規模な遠征の軍を動かし、公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った。」とあります。「魏書公孫淵伝」によれば公孫淵の死は景初二年八月ですので、明帝は公孫氏滅亡を知ってから、楽浪郡と帯方郡を攻めさせたと分かりますので、景初二年六月よりも後の話なのです。
そして難升米が帯方郡で面会した太守は明帝の送った劉昕とは全く別人の劉夏なのです。
司馬懿が明帝崩御の景初三年春正月一日の後少帝の太傅(後見人)となって尚書省の長官に就いているので、人事権も掌握し、部下の劉夏を帯方郡太守に就け、戦略上重要な場所にある倭国を朝貢させたと推理できます。倭国王への詔書は司馬懿が書かせたものだと分かります。
つまり魏志倭人伝にほぼ全文掲載された詔書は、陳寿がそのまま転載したということです。陳寿は西晋の宣帝司馬懿を称揚するために魏志倭人伝を編纂したのです。晋書にも東夷の朝貢は司馬懿の功績だと記されているのですから、倭の魏への最初の遣使は明帝崩御後の景初三年六月が正しいと言えるのです。
ここが理解されないから、魏志倭人伝がコテコテの政治文書だと気づかないのです。
このため邪馬台国問題が解決しなかったのです。
従来の史料批判の考え方はそろそろ見直すべきですよ。
政治文書だと分かれば、七万戸の邪馬台国や五万戸の投馬国などホラ話だとすぐに気づきますし、帯方郡東南万二千余里の海上にある魏のライバル孫呉を挟み撃ちにする位置に計十五万戸の東夷の大国とした倭国の女王が都にするところが邪馬台国という記述も、すべて司馬懿を持ち上げるための潤色どころか大ボラだったということに気付けます。
多くの方は卑弥呼が鬼道で倭国を統治する、大集落の中に居た女王と考えていますが、本当の倭国王難升米が伊都国に居たのでは司馬懿の功績を持ち上げるには迫力不足だったから卑弥呼を女王にして騙したということなのです。
卑弥呼は倭国王よりも実力を持つ縄文海人ムナカタ族の族長赤坂比古(和邇氏の祖、魏志倭人伝の伊聲耆)の女(むすめ)イチキシマヒメだと突き止めています(宗像三女神の残り二女神は政治文書「日本書紀」のゴマカシ)。宇佐神宮・宗像大社や全国の八幡神社、厳島神社や神仏習合して弁天宮で祀られています。詳しくは拙ブログ「刮目天の古代史 邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」などをご参照ください。どうもお邪魔しました(;^ω^)