2025年5月31日 (土)

新・私の本棚 ブログ記事 短里説: 新古代史の散歩道 補充

短里説: 新古代史の散歩道          2025/03/08
私の見方 ☆☆☆☆☆ 文献学逸脱 遺跡遺物考古学の余芸か 2025/04/10

 短里説(たんりせつ)は魏志倭人伝の里程記事の距離が「短里」により書かれているとする説である。

◯はじめに
 本項の「難点」は、項目筆者「新古」氏が、話題を論じるのに不可欠な知識・教養に欠けたまま、手当たり次第に旧世代諸論考読みかじりに耽ったため、闇なべ状態は壮観であるが、理解できない議題に理解しないまま結論を出すのは不都合ではないかと思われる。ブログ主催者南畝殿は、項目筆者(Editor)を、読解力、構文力のある方に変えた方がいいようである。

*引用とコメント
結論 『魏志倭人伝』における距離の記述の誤差を説明するために、「短里説」が提唱されているが、魏の時代に標準的な「里」が確立されていたことは出土したものさしによって確認されており、陳寿の記述の整合性を考慮しても、公的な文書において特別に短里が用いられたとする証拠はない。 したがって「短里説」を積極的に採用して辻褄を合わせるより、伝聞情報による誤差や航路の影響、方位の誤差、あるいは山道など歩行困難なルートの影響、など他の要因を考慮する方が妥当であろう。
 
 折角の御高説でも、「短里説」は、六倍変動であり、「距離」「誤差」「辻褄合わせ」は別次元、些末である。「他の要因」で六倍変動など到底ありえないのではないか。とにかく、用語・構文が、ころころ動揺して、つぎはぎ状態では、老眼読者には、スジが通った理解が困難である。

 なにしろ、くりかえすのは好まないのだが、「結論」と打ち出しながら、「短里説」の評価として、何の「結論」にもなっていないのは、どうしたことか。誠に、不憫である。
 求められているのは、「短里説」の当否判断なのに、「積極的に」「採用して」「辻褄を合わせる」という、小手先の論証技巧として、ごたごた理窟をこね回した方がいいというような、当てこすりに違いないのである。案ずるに、「辻褄合わせ」にアラを見つけられないから、ケチを付けているのでは、「結論」とは言えまい。
 もっとも、「短里説」の理解がドロドロ、ぐずぐずでは、明快な結論が出せるわけはないのである。

◯まとめに代えて
 本稿は、担当者が雑多な文献を読み囓って、文意を理解できないままに、無理やり貼り合わせたと見え、用語構文が混沌としている。そそくさと例示したように、補正案が書ききれないほど、散漫な無資格放談に「結論」があるとは恐れ入る。いや、「結論」は、全く示されていないのである。

 私見では、「短里」説は、「魏志倭人伝」の行程道里が、秦代以来の「普通里」約四五〇メートルの六分の一程度の仮想「短里」制度をもとに書かれていて、「倭人伝」内では整合しているとの提言であり、「誤差」などとは無関係である。
 それにしても、蛇行しつつ練り歩いているような先行「反論もどき」は、ほぼ悉く的外れで、本来、「結論」は不適切である。

*問題点/課題の確認
 古田氏は、「倭人伝」文脈で道里を精査すると、魏代「尺」と「倭人伝」「里」が、一里千八百尺関係でなく、氏が、暗黙で示唆しているのを見てとると、一里三百尺との仮定であり、そのように限定的に主張することにより、東夷伝「倭人伝」の「里」は、道里記事とほぼ整合するとしているのである。といわれて理解できるようなら、このような「結論」不在の記事を公開することもないと思える。

 何しろ、研究者の主張を適確に読み取れず、「結論」を組み立てる知力もなく、まして、意見を論理的に展開できない「記事筆者」の指導ができないとは、当ブログ主催者ほどの立場の方は、専門外でたいへん苦痛とは拝察するが、方々問題点を読み切って、論理的で明快な結論を展開して欲しいものである。実質上、匿名無記名の記事とは言え、考古学研究者に対して、文献史料の解釈にお手本を示さないのは、サイトの本来の、つまり総合的な世評を落としていると見えるのではないかと、傷ましい。

*付け足し
 参考文献の提示が混乱している。本当に文献実物を参照したのだろうか。教育的指導 (Elmentary)
参考文献
1.山尾幸久(1986)『魏志倭人伝』講談社
 「魏志倭人伝: 東洋史上の古代日本」1972年初版 (講談社現代新書 284) の改訂新版であり、
 「魏志倭人伝 新版」 (講談社現代新書 835) と明記すべきである。
 本書が、山尾氏の最終見解とは、気の毒である。

2.古田武彦・谷本茂(1994)は『古代史のゆがみを正す』新泉社
 何の事か意味不明。

3.古田武彦(1992)『「邪馬台国」はなかった』朝日新聞
 第一書は、初刊1977年「朝日新聞社」刊でなく決定版を参照すべきである。
 古田「短里説」は、初刊では、全「三国志」を悉皆で論じたが、最終的には、
 「魏志」、しかも、曹魏明帝景初改暦から西晋末に期間・地域限定している。
 古田武彦(2010)『「邪馬台国」はなかった』ミネルヴァ書房

       以下略

                               以上

2025年5月30日 (金)

倭人伝随想 「倭人伝道里の話」司馬法に従う解釈

初稿 2019/02/27 表現調整 2020/11/10 最終版 2025/02/20, 05/30 

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 本稿は、元々、等閑(なおざり)にされがちな中国里制制度の基礎からの見直しであり、世上取り沙汰される「倭人伝」の道里について、まずは、公的道里は、一里四百五十㍍程度の「普通里」で一定していたとの主張であり、この点を確認頂ければ、史書に現れる「里」を現地の道のりと比較して、「里」の長さ「里長」を検証する必要が無いとわかるのです。
 そのように確認すれば、倭人伝の「道里」が、なぜ、そのように造作されたのか、思索に専念できるというものです。

□文献解釈編
 晋書地理志
 以下、晋書地理志司馬法収録の周制以来魏晋朝の里制について考察します。

 当記事で創作した概念図(Picture)から見て取れるのは、周制単位系が、一尺25㌢㍍の「尺」から天子領地にあたる一辺一千里「畿」まで階梯のように十倍、百倍で連綿としているということです。(井、里の下で三倍になっていますが、事情あってのことです)概念図というのは、本来、文字で書かれている縦書き文書が構築している単位系が、現代人に理解困難なものなので、忠実に概念図化したものであり、依然として、補足説明が必要ですが、現代人が辛抱強く解釈すれば、筋の通ったものと理解できるだろうということで、ほぼ独力で製作したものです。
 とかく、一歩六尺、一里三百歩という関係だけが説かれていますが、それは、解釈を誤っているものと見えてくるはずです。

 「歩」(ぶ)は、農地測量のための面積単位(方歩)が本旨で、測量の才能の幾何単位(尺度)として、一歩六尺の関係が利用されているものです。

 「里」は、農地面積集計のための面積単位(方里)であり、土地台帳集計であれば、「方一里」まで計算できるのですが、地域拠点間の公式道里に活用される場合は、数千里という「千里」単位の概算になるので、それなりの精度しか取れなかったのです。

 よくよく丁寧に追いかけると、里から尺に下る単位系と里から畿に上る単位系は傾向が一致しないようですが、この点は本論に関係無いので割愛します。
 当概念図は、当方自習用であり、「晋書」所収司馬法は。言葉の定義だけですから、概念図の出来具合は本論に関係無いのです。

*綿密な単位体系
 周制単位系は、連綿と築かれていて、里を1/6、6倍に伸縮すると、尺に始まり畿(一辺千里)に至る階梯が乱れるので、全国に混乱を引き起こすこと無しに実施できないのです。少なくとも、秦漢代から曹魏を経て晋書の書かれた唐代に至る十世紀に垂(なんな)んとする歴史時代において、西晋の天下が壊滅して、東晋が江南に逃避した後も、当然維持した南朝諸国と共に、進入した北方異民族が、統治の制度として維持したのであり、一貫として有効であったものであり、南朝の叛徒を滅ぼして、全国を統一した隋唐代に、ようやく、単位体系に調整が加えられたと言うだけです。

 なお、里に始まり、歩、尺に下る部分は、歴年保守されてきた土地台帳に常用される「畝」を含み、社会的に大混乱を起こさずに実施できないのです。
 総じて言うと、周制でこうした単位系が始めて構築、公布されて確定して以降、里長の伸縮は、歴史に深い刻印を残さずには不可能だったのです。

*周制以降
 ここで提示したように、殷周革命による周の天下統一後も、相当部分で殷制を踏襲した「周制」の公布後は単位系が、一貫して維持されたものと見えます。
 「里長」や換算係数の当否は、本論に関係無いので、深く議論しません。
 「周制」以前、商(殷)の単位系は、史料に残されてないので実体不明であり、短里の由来や時間/空間的棲息範囲は、今となっては憶測しかできないのです。添付した漢書「食貨志」の伝える太古の名残は、時に、先賢諸兄姉の説かれる「里」の二面性の根拠かもしれないという程度です。

*公孫氏「倭人伝」年代記以来の変転
 後漢献帝建安年間に遼東郡太守に就職した公孫氏が、漢武帝以来、半島以南の東夷の窓口となっていた楽浪郡に命じて提出させた「倭人」身上書が、公孫氏「倭人伝」の端緒となり、以後、曹魏明帝の楽浪郡回収によって、曹魏公式の「倭人伝」となったとして、そのような異例の経過で洛陽天子の知る所となった以降、曹魏「倭人伝」は、書き足されていたものですが、西晋代に到って、史官陳寿の手元に届いた時点では、歳々年々書き足されていたものです。して見ると、「魏志倭人伝」の道里行程記事に普通里が適用されず、とのような理由で、例外的に一里75㍍程度とみえる「倭人伝」「里長」が適用されているのか、この場では、不明と言わざるを得ません。
 念のため言うと、「倭人伝」「里長」は、後漢、魏代に国家制度として実施されていたわけは無く、後漢献帝期の公孫氏以来の流転の果ての「倭人伝」にだけ書かれているのであって、当然、先行、同時代用例はありません。

*司馬法里制概念図
  250220

 「漢書食貨志に見える畝-里」は、太古、つまり、殷周代に広域国家が形成されつつある時代の地方聚落としての「里」(さとの趣旨か)が書かれているものと見え、「家」が15㍍四方と仮定すると、「里」は、75㍍四方程度となりますが、そのような地理観が、いつまで、何処で通用していたのかは、確かではありません。
 「漢書食貨・地理・溝洫志 班固」(平凡社 東洋文庫 488)の附注(永田 英正・梅原 郁(みやこ)によれば、漢書「食貨志」は、後漢史官であった班固が編纂した大著「漢書」の志部の一志であり、ここに参照した「聖王のおしえ-井田制-」は、「周礼」に示された井田制の細部を再現したものです。つまり、秦始皇帝の全国制覇に伴い廃された周制を再現したものと見えますから、秦制を根拠とした「司馬法」とは、構成が大きく異なるものです。

 ちなみに、同附注では、一歩(ぶ)は、一辺六尺の方形の面積と適確に解釈されていて、以下、面積が倍数計算されることになっているのが分かります。とはいえ、漢書は、太古以来の書法に従っているため、史官の伝統が絶えた東晋以降では、史官と言えども正確に解釈できなかった可能性が高く、そのため、唐代に編纂された晋書「地理志」に、正確に承継されなかった可能性があります。

                         以上

2025年5月23日 (金)

新・私の本棚 番外 小澤 毅 邪馬台国の会 第386回 講演会 1/4 肆

『魏志』が語る邪馬台国の位置:小澤毅(三重大学教授) 2020/02/23開催
私の見立て ★★★★☆ 堅実 不偏不党 2020/04/04 改定2021/01/29 2024/04/02,04/06 2025/05/23

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇始めに
 小澤氏は、三重大学教授として紹介されていますが、同大教授着任以前は、橿原考古学研究所及び奈良文化財研究所の研究者として著名のようです。
 不偏不党と書いたのは、考古学専攻とはいえ、文献史料にも造詣が深く、本講演に於いても、国内史料まで取り込んで幅広い視野から考察しているので、特定の統一見解に偏しない見るからです。ここに、賛辞を呈します。

 以下、氏の講演記録を参照しながら、当ブログ視点から批判しますが、見解の相違の摘発で無く、異なる視点からの意見で氏の学識の更なる研鑽に寄与したいと思っています。因みに、本稿は、季刊邪馬台国誌第139号にも掲載されていますが、誌上には、些細とは言え、編集時の脱落らしい部分があり、文献批判する際には、注意いただきたいのです。

1.1 はじめに
*至当と不当の交錯
 氏は、冒頭で、『魏志』を「通常『倭人伝』という二千余字」と定義しますが、『魏書』同義で通用の「魏志」は、広く定着した学術用語であり、勝手に転用するのは禁じ手です。文献史学部外者のため、「倭人伝」通称が定着の史料を、それと知らずに我流で呼び変えて事故となったようですが、誰か助言しなかったのかと残念です。
 本文定義の前に読者が目にする掲題「魏志」が先行予約済みで読者は誤解/混乱します。 俗称『倭人条』を、本稿独自(local,ないし private)に通称『倭人伝』とでも定義すれば、学界作法(global)にも反しないでしょう。いや、「釈迦に説法」でしょうが、勘違いは誰にでもあるのです。
 それはさておき、「倭人伝」に対する「第一級史料」評価は至当であり賛辞に値します。この程度の表現でも、世間には、色々難癖を付ける人がいて、人格を疑わせる攻撃的言辞が飛び交うのですが、要は、相対評価で、一番上質と見ているというだけで、およそ、どんな史料にも、誤記や誤伝がある/皆無とは言い切れないのは、言うまでもないことなのですが、世の中には、編纂者の遺した内容に一つでも作文や齟齬があれば、史料として信用しないと、極端な発言をする論者がいるので、氏のように、穏当な発言をしていただける方がいると、ホッとするのです。なにしろ、そのような論者は、ご自身の発言には、ご自身が含まれるという自明の事情に気づいていない、子供っぽい自爆発言であるということに気づいていないのです。
 氏の史料観は、そのような自爆発言と無縁であり、基本信条、「モットー」なので「明確に」記憶したいものです。

 とは言え、氏は、劈頭で「やまと」とふりがなした「邪馬台国」を信奉し、「モットー」と矛盾する誤謬を掲げているのは、もったいない話です。「魏志」の文献論議に、どうして、無関係/無根拠の憶測を持ち込むのでしょうか。多分、色々忖度されているのでしょうが、学問上の論義に対して、場違いとも見える異物が練り込まれるのは、もったいない話です。

*それは問題である
 因みに、氏の「問題」は、古典的な意味を守っていて、解消すべき「難点」でなく「課題」と見えます。

 賢者が用意した「問題」には、必要な知識を身につけていれば自ずと解ける「解答」があるので、怖れる必要は無いのです。

*諸書の泥沼

 氏は、定説派の定番に似て「諸書」を羅列しますが、氏は、「諸書が『魏志』を引用するにさいしては、粗略な抜き書きと再構成がしばしばおこなわれており、いずれも史料的価値は『魏志』に比べて数段劣る。よって、それらの引用文を『魏志』以上に重視するのは、本末転倒といわざるをえない。」と読解評価を明記していて、この点を初稿で見過ごしていて/誤解していたのは、陳謝します。

*後世史書・類書山積の惨状
 氏は、定説派の定番に似て諸書を列記しますが、史料の質に大差がありバラバラなのを、芋の子のように羅列して、数や目方で片付けるのは、「ド」の付く素人だけです。いろいろご事情があって、これが、党議拘束による定番になっているのでしょうが、まことに勿体ないことです。

 笵曄「後漢書」について、自明事項を含めて、考察を加えます。先行ないしは同時代に近い史書中、袁宏「後漢紀」は、東晋再興後、間もない時期の編纂であり、比較的、後漢書文書に近い資料が参照できたものと思われます。後代劉宋の笵曄は、散佚した後漢公文書に加え、袁宏「後漢紀」を大いに参照したものと思われます。

 本稿関連の東夷記事の由来ですが、後漢創業期以外、桓帝、霊帝期以降は、東夷との交信がなく、依拠すべき公文書がなかったため、范曄は、対象年代がずれている魚豢「魏略」という、陳寿「三国志」魏志と同時代の著作から、後漢末と粉飾できる部分の「流用」、「創作」を行ったと見えますから、笵曄「後漢書」東夷列伝倭条の陳寿「三国志」魏志批判への起用は本末転倒です。

                                未完

新・私の本棚 番外 小澤 毅 邪馬台国の会 第386回 講演会 2/4 肆

『魏志』が語る邪馬台国の位置:小澤毅(三重大学教授)2020/02/23開催
私の見立て ★★★★☆ 堅実 不偏不党 2020/04/04 改定2021/01/29 2024/04/02,04/06 2025/05/23

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*後世史書・類書山積の惨状~承前
 以下の後世史書は、先行史書の再、再々構成で、時代につれ順当に劣化していて、本来対象外の「書紀」まで交えて、枯れ葉も枯れ木も山の賑わいですが、ゴミ史料は外野に置いた方が、後漢書の評価が上がるのです。

 類書と呼ばれる大部の百科全書類の一部を為す歴史記事は、所引と言い慣わされていますが、要するに、本質的に、原史料の粗雑な抜き書きであり、誤謬、脱漏が避けられません。と言うか、付きものです。特に、「太平御覧」は、正史史料からの直接引用では無く、先行する類書の踏襲、再踏襲であり、粗雑史料の粗雑引用なので一段と信を置けません。

 「翰苑」は、残存写本断簡が完本で無く、異本との比較考証不能な孤証であり、史料としての信頼性を有しません。また、無校正の乱雑な有り様で一段と信を置けません。

 以上は、氏の見解を補強したものであり、同意しているものです。

*「魏志」の偉容再確認
 ただし、陳寿「三国志」魏志を粗雑、劣悪な史料と同列に論じていて、氏の「魏志」評価と齟齬します。なお、段落ごとに、しばしば価値観が転換するのを見ると、同一人物の見解と見えない不都合さです。ご自身で吟味したのでしょうか。

*台所事情推察
 小澤毅氏は、三重大学教授、敬称博士ですが、当ブログでは略しています。
 氏は、考古学分野での多年の学究で、文献学にも造詣が深いものの、専門外なので権威者の助言を得ていて、遠慮があるように思われます。
 先の刊本用語読み替えは、断定的改竄でなく、氏が当史料で採用している用語を臨時に宣言したので定説への異論派も口を挟めない仕掛けのようです。
 と言うことで、本記事は、文献解釈で定説の顔を立てつつ氏の見識を盛り込んだようです。歯切れ悪さや戸惑い表現もその背景から来たようです。

 以下の考察に於いても、氏の見解と借り物らしい意見に差があり、言うならば、大半を占める文献解釈は、かなりの部分が借り物らしく見えて、氏の学識を知るには、言わく言いがたい味わいがあります。

1.2 邪馬台国の位置
『魏志』の里程記事
 郡からの道中に触れず、単に、倭の「北岸」狗邪韓国なる通過点としていますが、補足が必要です。戸数等の要件に欠けるので、狗邪を倭とは解釈することはできません。岸に倭の管理する船着場や公館があったのでしょうか。

*「海北倭地」談議~追記 2024/04/06
 「海北」は、後生の概念ですが、「海北倭地」談議とは 、『「韓伝」/「倭人伝」が、北九州から見て、大海の北、韓国のある「半島」の南部に、韓国に属さない「倭」の領域があったと記録している』とする作業仮説を審議しているものです。
 端的に言うと、韓伝が「南で倭と接する」と書いていても、その時点では、目下俎上にあげている「倭人伝」が、読者にとって未見ですから実態は不明です。
 ついでに言うと、これは、地理的に見て、韓国という領域が、西と東で、それぞれ「海」と言う領域に接しているのと同様に、韓国が南で「倭」という領域に接していると言うだけで、陸上で、韓国と倭国が互いに接しているという意味に解すべきかどうか不確実ということになります。ちなみに、韓の西の「海」と東の「海」は、韓の南の「大海」と異なる概念であり、半島が、ぐるりと「海」に囲まれているとは書かれていないのです。
 何しろ、「韓伝」に続く「倭人伝」に記録されているのは、「韓の東南部にある狗邪韓国から、倭の対海国をはじめとする列国を経由するのに南に渡船で大河ならぬ大海を三度渡った後、末羅国で上陸し更に地続きの伊都国に向かう」と言う限定された記録であり、韓の南部のそれ以外の部分がどのような地理になっているのか、示していないのです。
 ⑴韓と倭が地続きになっている「連」なのか、⑵大海を隔て「絶」なのか、⑶韓の南に倭が地続きで接していて、更に大海を隔てて、倭があるのか、⑴、⑵、⑶の何れの地理関係にあるのか「倭人伝」に記録されていないのです。
 記録されていない理由は、➀不明であったのか、②わかっていたが「倭人伝」の道里記事の目的が、郡から倭に至る行程の確立であったから、わき道は無用としたのか、➀,②の何れかの事情があったと推定されますが、いずれにしろ、「倭人伝」に記録されていない以上、二千年後生の無教養の東夷には、⑴、⑵、⑶の何れの地理関係であったか、確実に知るすべがないのです。

 念のため書き残すと、以上の事情を、現代の地図で確認できる地理関係を根拠に推定するのは、「倭人伝」の解釈に時代錯誤の混乱を招くだけなのです。また、後世史料に「海北倭地」が示されているという議論は、『時代をさかのぼって、陳寿「三国志」魏志の巻末に記録されている「韓伝/倭人伝」の解釈に影響すると断定できない』ということでもあります。

里程記事が語るもの
 「郡~女王国万二千里、うち伊都国まで万五百里、よって女王国は九州北部」と見たのは、限定した明解な議論の好例です。
 但し、氏の概数観には難があり、千里単位概算に五百里が紛れ込んで議論が揺らぎます。議論を厳密に展開するには、藤井滋氏の先見の明を紹介した安本美典氏に従い、「末羅国まで一万里」とすべきです。この点は、瑕瑾と言うには、ちと重要な議論を含んでいます。
 氏の論義は、惜しむらくは、本来、古代史論義で有りえない多桁算用数字で精度を誇張する世間一般の安直な風潮に足を引っ張られていて、折角の好解釈が損なわれています。古代史論は漢数字縦書きをお勧めします。
 ちなみに、「倭人伝」では、里数、戸数の数字は、「餘」として下の桁を無視した表記で、最上位を起用した算木による一桁計算であり、加算時の桁上がりはあっても、有効数字は一桁が精々です。ケタ違いの小さい数は、記事に書かれていても、けた上の大きな数には加算しないのです。

「水行十日、陸行一月」
 「邪馬台国へのそれ(道程)を水行十日、陸行一月」との解釈は、伊都国からの道程でないという文脈解釈に気づかず、また、正史「夷蕃伝」に「郡からの文書伝達の所要期間」が必須要件なのを軽視しています。
 正史夷蕃伝で、蕃王の居処に「都」の美称を許すことはないので、ここは、普通に「すべて(都)水行十日、陸行一月」と読むべきであるという常識も、当然、氏の意識から漏れています。

 「魏志」は、小賢しい後世人が勝手に言い立てているような粗雑な史料でしょうか。陳寿が、天下の史官として最善を尽くして明記しているのに、後世人(二千年後生の無教養な東夷)が小賢しく非難するのは自己満足ではないでしょうか。そして、陳寿とそのような不確かな意見が対立しているとき、どちらに信を置くべきでしょうか。いや、ここまでの発言の大部分が、小澤氏に対する発言ではないのと同様、この発言も、むしろ、小澤氏の真意に沿っているものと考える次第です。

                                未完


新・私の本棚 番外 小澤 毅 邪馬台国の会 第386回 講演会 3/4 肆

『魏志』が語る邪馬台国の位置:小澤毅(三重大学教授)2020/02/23開催
私の見立て ★★★★☆ 堅実 不偏不党 2020/04/04 改定2021/01/29 2024/04/02 2025/05/23

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「道里」の辻褄
 端的に言うと、当然ながら、郡~倭の全所要期間と全里数は明記されているから、道里に応じて日数を配分すれば、個別日数は、手堅く推定できるはずです。
 手早く言うと、「倭人伝」の郡~倭の道里は、一日三百里程度であり、また、千里単位が大半であるように、大まかな概数ばかりです。それが、「公式道里」と言うものです。
 本来無理な時代考証より史料依拠の大局論が先ですが、姑息な辻褄合わせが本筋を外していると見えます。

 例えば、皇帝の下賜物の送達が任務である魏使が、迂回や巡察で日数を費やしたと推定するのは、見苦しい辻褄合わせの例です。使節が行程道里の記録を報告したのなら、迂回や道草を報告するはずはなく、また、読者たる高官が誤解する書き方を採用するはずはないと思うのです。

 というものの「倭人伝」の道里行程が、景初、正始の記録に基づくとは早計でしょう。生還すら当然ではない使節の報告を、新来蛮夷「倭人」の「倭人伝」記事に採用するのは早計です。

 使節の使命の前提は、帯方郡からの文書到達日数であり、文書回答期限に関わる事務的事項であり、荷を抱えた魏使の「実際の」行程は参考にならないとも言えます。

 放射説の解釈で、伊都国から邪馬台国への行程を「水行十日、陸行一月」とする高度な「決め込み」は、至高の畿内説の生存に拘わるので、無理でも何でも作業仮説として採用せざるを得ないとしても、考察途上で不都合があれば遡って再考すべきです。ことの採否は、文法や字義解釈で決定されるべきではないと考えるものです。まことに残念です。

 と言っても、これは、多くの先賢が陥った錯覚であり、「伝」の構成要件を見落としていても批判されていないのですから、氏の責任とは言えません。針路を見失い行き詰まったときは、迷わず原点回帰すべきでしょう。
 幾つかの先入観が、陳寿「三国志」魏志の解釈をあらぬ方向に転進させています。

*隋(唐)使来訪史料引用
 本件で、参考資料として日本書紀「推古紀」を無批判参照するのは、出典を明らかにしないのとあわせて不用意です。信頼性が不確定な「唐使来訪」国内史料は、「魏志」批判に、全く意味がなく、無効です。何しろ、空前の蕃客来訪記録ですが、精々が不用意な原資料引用です中国正史すら、信用すべきかどうか精査が必要なのに、国内史料は、無批判とは、困ったものです

『魏志』の里程の誇張
 無批判な先行諸説依存で、賢察が台無しです。「里程誇張」論は、前世紀の遺物、「レジェンド」であり、早急に、博物館に引退いただくべきです。「水増し」を「事実」と呼び、「可能性を示唆」は直後に「誇張が確実」と錯乱しています。

 狗邪韓国は郡管轄下であり、郡からの道里、所要日数は、官制で厳密に管理されていたものです。言うならば玄関先を七千里と書くのは、賢察の果てと見るべきです。粉飾、誇張、水増しとは、郡太守も見くびられたものです。
 世襲していた公孫氏時代と異なり、曹魏明帝が管理した帯方郡の太守は、一片の帝詔で更迭されるものなので、勝手な運用はできないのです。まして、曹魏は、郡太守に月報頻度で報告することを要求し、粉飾は、立ち所に喝破されるので、それこそ、針のムシロだったのです。

*水増し論~余談
 氏が、誇張表現とする「水増し」は、案ずるに、江戸時代の居酒屋が、上方から届いた濃いめの下り酒を喉ごしの良いように水割りして提供したことを諷しているようですが、当時の商習慣の揶揄を、無批判に「魏志」に適用するのは、氏の見識が「水増し」供用されていると見え、勿体ない誤用です。

 もっとも、氏自身が、陳寿「三国志」魏志の道里は「水増し」で無く、整合性を保っていると評しているので、あるいは、関東方面で蔓延しているらしい論争作法と見られる「罵倒」儀礼と忖度するしか無いのでしょうか。私見では、論議の邪魔になる遺物表現は、早々に「レジェンド」扱いで博物館入りさせるべきでしょう。
                                未完

新・私の本棚 番外 小澤 毅 邪馬台国の会 第386回 講演会 4/4 肆

『魏志』が語る邪馬台国の位置:小澤毅(三重大学教授)2020/02/23開催
私の見立て ★★★★☆ 堅実 不偏不党 2020/04/04 改定2021/01/29 2024/04/02 2025/05/23

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*誇張と仮定
 「誇張論」に対するとどめになるといいのですが、要は、氏の書き殴っている議論は、「倭人伝道里記事は、ほぼ一貫して、郡と狗邪韓国の間を七千里と「仮定」した『里』に基づいて書かれている」という観測に過ぎず、「魏志」の定義と同様に、ここ(「魏志倭人伝」)の「里」を「仮定」すれば、別に度量衡など国家制度を担ぎ出さなくても、合理的解釈ができるのです。
 因みに、「度量衡」に、道里が含まれるかどうかは明解ではありません。何しろ、道里の一里は常用単位でなく、一歩の三百倍も、手軽に例示できないのです。何分素人の憶測発言ですから外していたら失礼します。

〇まとめ
 以上述べたように、一介の素人が氏の論考のすすめ方に対して文句を言う筋合いはありませんが、全体に、(複数の)権威者の助言を受けたと思われる定説的な史料解釈を踏襲している」ように感じられる例が多く、『氏の卓見、就中、「魏志」に関するモットーと整合しない』と見え、読解の際に躓きを起こしています。
 特に、氏の論考の躓きの原因と見える「定説踏襲」を追求せずに追従しているため、論考の不具合が是正されないでいると見受けられ、勿体ないのです。

*史料解釈の膠着~私見
 「魏志」(通常言う「倭人伝」)行程記事解釈の際にも感じたのですが、どうも、氏の助言者は、世上多大な論議の的であって、異論を克服できていない、いわば、文献解釈の難路というか、札付きの隘路を丸ごと氏に押しつけているようで、氏の困惑が感じ取れるようです。

 特に、行程記事解釈は、至高の畿内説の生存に関わるので、学説としての当否は論外、とにかく、定説の保身は「絶対」譲れないので、党議拘束するという硬直した姿勢が見えるので、氏の柔軟な姿勢は貴重です。

*いまどきの古代史~風説
 概して、いまどきの古代史論を見ると、俗に言われている定説は、基盤としている「倭人伝」の文献解釈が、中国古代史文献解釈の門外漢の素人考えに終始していて、論考進路の選択肢を先入観で塞いでいるので、多くの無辜の読者は、押しつけられた隘路で悪足掻きし、果ては、自身の理解力不足や定説の妥当性を疑わず、「魏志」が誤っているなどと迷言を垂れる苦境に追込まれているのです。

 この点、岡田英弘氏は、『陳寿は、同時代随一の「専門家」として、自他共に認められていたのであり、後世の一般人の及ばない豊富な教養を背景に著述していたから、「後世の一般人」、つまり、二千年後世の無教養な者は、安易に攻撃してはならない』と箴言を呈上していて、当ブログ筆者は、角を立てて「二千年後生の無教養な東夷」と苦言を述べることにしています。

 何しろ、周囲は、同様の理不尽な被害挫折者ばかりで、陳寿は、例え眼前にいたとしても言葉が通じない異邦・異時代・異界人ですから、挫折の責任を押しつけられて罵倒されても、理解も反論もできません。まことに、理不尽な話です。

 定説は、長年膠着していて、諸般の事情から、論理の破綻を是正、自己修復できないのです。して見ると、原典誹謗は、無能な史学者の最後の隠れ家」でしょうか。いや、まだ、永久政権は終わっていないというのでしょうか。

*原点回帰
 と言う背景を見るに付け、氏の提言のように、「魏志」が当時最善の記録で、編者陳寿が、その内容に最も精通していると見れば、視点が反転するかと見るのです。だから、氏の論説に、見当違いの苦言を呈しているのです。

 「魏志」を現代人が読み損なっているとの視点から、一から虚心に読みなおせば、大抵の隘路は霧消、氷解するはずです。行程解釈で例示したように、半歩戻って読みなおせば、「魏志」は「シンプル」です。魏志に王道は無いとしても、時の皇帝を挫折させるための難題ではないのです。

*蛇足 季刊「邪馬台国」誌掲載記事に関する所感 2021/02/04
 アラ探しの域を脱していると思うのですが、当講演記録に文句を付けるとすると、氏は、この構文の通り喋ったのだろうかという事です。
 つまり、途中で注記の必要なところでは、注1などと述べて、説明を先送りし、講演最後に、つらつらと注記項目を読み上げたのかという事です。それでは、とても論を尽くせるとは思えないのですが、それが事実と言われると引き下がるしかありません。

 普通に考えると、当日は、別にレジュメのようなものを用意して手元に置いて、それをもとに、聴衆が聞き分けられるように語りかけ、「ご不審の点は、論文稿を参照ください」とでも説明したと思うのです。月並みですが、資料を読み上げるだけなら、延延と付き合う必要はないのです。

 いや、別に事実の記録の限界を言うつもりはないのですが、後日、全文が季刊「邪馬台国」誌に掲載されたことを思うと、やや疑問を感じると申し上げておきます。
                             以上

2025年5月20日 (火)

新・私の本棚 松尾 光 「治部省の役割と遣外使節の派遣を巡って」~古代日本外交の謎 再掲

別冊「歴史読本」 日本古代史[謎]の最前線 1995年1月刊 新人物往来社
私の見立て ★★★★☆ 堅実。賢明な史料考察 「日本」視点の限界         2023/04/30 2025/05/20

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。 

*お断り
 本記事は、下記書評と重複していますが、現時点で、一から書き出したものなので、もし、ブレがあったら、ご容赦ください。
 新・私の本棚 別冊歴史読本 日本古代史[謎]最前線 1/2

〇はじめに~中国史料解釈の原点確認
 当記事は当ブログ範囲を外れるが、漢日語彙の齟齬という観点から、日本史料の視点で中国史料を考察して生じた誤解を指摘する。刊行以来25年を経て、同様の誤解が世上に散見されているので、僭越ながら苦言する。

*国内史料視点の解釈~中国史料を不備との速断
 氏は、七世紀後半から整備された国内律令は、漢(中国)律令を模倣、翻案したため、漢制を誤伝したと解している。つまり、「外交」部署が、鴻臚寺と別部署に分かれて書かれた律令を唐代官制老朽化兆候と速断しているようである。

*用語解釈の誤解~文化解釈のずれ
 本記事副題は、当時、日本に(外国との)外交が存在したと決め込んでいるが、漢律令に「外交」は存在せず、模倣ではなく一種の誤解、曲解とわかる。
 秦漢代以来、漢蕃関係であり蕃夷は対等ではない。「外国」は蕃「国」である。「国」は、本来、漢代の「国」は、劉氏一族を頂いた分国であった。対して、蕃夷の「国」は服属するが「交」は無い。群小蕃夷は、美称で「蕃客」とされたが、「客」は、よそ者を応対する渉外活動の対象と言うだけである。

*鴻臚寺の役所(やくどころ)
 要するに、鴻臚寺は、無礼な蕃夷をあしらって服属させ、手土産を与えて、次は何年後、「それまで来るな」と厳命して送り返したのが、主務であった。
 端的には、氏が末尾に感慨を述べるように、漢に対等の外国は存在しない。(例外は、漢高祖劉邦親征軍を包囲して屈従の盟約を結ばせた匈奴である)漢蕃関係は「外交」を想定してないので対応する官制は存在しない。
 要するに、中国律令の備えた理念と法制、官制が整合した制度を、「外交」が必要である日本に、無批判で写し込むことが「無理」だったのである。

*律令模倣禁止
 本来、中国律令は、国外持ち出し禁止であるが、一つには、律令にいう「天子」を蛮夷の王に書き換えると、中国が蕃夷になってしまうからである。

*日本の対外関係
 日本は、対等とみられる高句麗、百済、新羅とは「外交」が可能であったが、お手本とした中国律令に、そのような蛮夷間交際に関するお手本がなかったので、日本は、これら諸國を「蕃客」扱いし、隋唐使節をも「掌客」の手に委ねた。隋唐使が、「客」扱いに激怒しなかったら不思議である。

*使人の使命
 裴世清は、文林郎(文官)の登竜門から俀国に赴いたのであり、日本書紀が造作したようにお門違いの蕃客接待の「掌客」に任じられてはいない。(隋書俀国伝)
 要は、正体不明の蛮王への使人は生還を期せないから、低位官人から選任したのである。但し、派遣に際しては、臨時に高位に任じて皇帝名代とした。高位の使節団員は、下級官人には本末転倒で服従できないからである。

 また、皇帝の名代が、派遣先で、原職は下級官人であることを名乗ることは、あり得ない。余り顧みられることがない事情を蒸し返すのである。

〇誤解の起源と継承
 中国人が中国人を統御するための律令を、土壌の異なる日本に無理矢理移植したために不合理が生じているが、それを、現代日本人の言葉と世界観で、正確に理解はできないことに、早く気づいて欲しいものである。

                               以上

新・私の本棚 松尾 光 「現代語訳 魏志倭人伝」 参 通詞論 1/2 三掲

 新人物文庫 .KADOKAWA/中経出版 Kindle版
 私の見立て ★☆☆☆☆ 誤解と認識不足の露呈  2020/08/05 2023/04/29 2025/05/20

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。 

〇はじめに
 当記事は、本書に追記された「通詞論」に関する批判である。
【Q】魏の使者と倭人は、どのようにして会話したか
【A】魏国の使者が倭国に来たときもそうだが、倭国の使者が魏国に赴いても、使者の出身国の言葉がそのまま通じることはない。まして、世界の真ん中にいると称する国の人が、蛮夷の言葉に通じているはずも、通じていようと努力するはずもない。

〇コメント
 問われたのは、魏使来訪時の会話方法と明快だが、氏は時代錯誤の自己満足のせいか、筋の通った説明を怠っているので、率直に指摘せざるを得ない。

〇「倭人」錯誤看過
 「倭人」を、倭人伝「倭人」でなく、倭の住民とみて躓き石をやり過ごす。

〇識字率ならぬ識語率
 倭の住民といっても、庶人の大半、ほぼ全員は「文字」を知らないし、一切教育されてないので、魏使の発言を理解できるはずはなく、また、身分の高い魏使と対話を許されるのは、同様に身分が高く「文字」を解する高官だけのはずである。「会話」など、端からあり得ないのである。通人ぶって託宣をぶち上げたいのなら、しっかり、事態を想定する必要がある。

〇洛陽遣使談義
 洛陽に赴いた倭正副使は、当時倭人高官であり、当代最高の教養の持ち主であり、あるいは漢語を解したかも知れないが、概していえば、それ以外の倭王以下の高官は漢語を解せず、倭国使が漢語まじり倭語に通訳したはずである。

 ちなみに、倭王は、国王の教養として漢字の素養はあったと思われる。でなければ、国事報告の内容が理解できず、裁決、指示できないからである。

 言うまでもないが、当時、中国語の通じない蛮夷、倭に、中国人と国事を談じる「日本語」など存在しなかった。(日本が影も形もないことは別として)関心を持っても、存在しない言葉を学ぶことはできないのである。

 三世紀当時、中国世界では中国が(唯一の)文明国であり、国事を語る言葉は中国語だけだったのである。「天下」も「世界」も、中国であった。松尾氏は、わけもなく中華思想を揶揄しているようだが、自身が不勉強で、誰かの意見に追従しているだけであり、つまり、見識が狭いために、自身の井戸の中に囚われていることに気づいていないのである。
 特に、三世紀どころか、中国太古以来の文字文化の堆積と当時の『外国』の「文字」が無く、したがって「文化」のない世界との隔絶を想到できないで、勝手な意見を垂れ流しているのではないかと危惧される。一度、顔を洗って出直して欲しいものである。

 因みに、「井蛙」は、必ずしも蔑視ではない。人はだれでも、「世界」と言いつつ、自身の知悉している「井戸」に籠もっていて、訪れる「客」によって、外界の見聞を広げているのである。それを自覚するかどうかである。

 一方、成語である「夜郎自大」は、いわば、見識の無い「お山の大将」が、来訪した「中国」使節に、「中国」も、「天下」を支配している自国に及ぶまいとうそぶいたことから来ている。氏の「夜郎自大」は、二千年の時を経ているものの、所詮、当時の基準で無教養の蛮夷であり、時の「中国」を見下す資格はあるのだろうかと、疑問を唱えるものである。もちろん、武力闘争であれば、又、別であろうが、「中国」は、武でなく文で蛮夷を馴化しようとしたのである。

〇掌客の意義
 中国は、世界の外の「外国」つまり外道の来訪時、紛糾を避けるため、客として遇したが、客は、中国の「内国」として認知されるために懸命に中国語、中国古典を学んだのである。蛮人が中国人として認知されるには、四書五経を暗唱し、古典書に書かれた先哲の言葉に関して問答に耐えることが「目安」とされていたのである。
 それでも、帝都の蕃客受入部局鴻廬の下級官、実務担当者の「掌客」が蛮人に言葉と儀礼を教えて、宮中参内で大過ないようにしたのである。
 ちなみに、「中国」において、「士人」として認められるための資格を蕃夷に適用しているだけであって、別に、差別しているのではないのである。

〇掌客の実務
 蛮人との『会話』の最先端に位置する掌客は、最下級とは言え官人であるから、蛮夷の言葉に染まることは許されなかったが、通詞として蛮夷の言葉を解する官奴がいたとも思われる。通詞を介しなければ、漢語、漢儀礼を教えようにも、端緒がつかめないのである。会話に要する片言は覚えざるを得なかったであろう。

〇会話通訳の意義と限界
 以下、氏が図式化して論じているのは、会話通訳であり、同原理を国事の意思疎通に敷衍するのは、全くの見当違いで、氏の認識不足を露呈している。蛮夷は、高度な概念を表す言葉を持たないから、「通訳」は成立しないのである。いや、脳内に図式がなければ、文字や図で表しようはないのであり、氏は、読者に教授するつもりで、自身の浅薄な理解を示しているのである。

 また、日常会話の類いでも、両者の間に通じるものがなければ、通訳のしようがないのである。
 例えば、対面で行われる商取引では、数や通貨の勘定や月日の記法も、共通していたはずである。共通していなければ、言葉が通じても、意思が通じないことになる。言うならば、目前に「もの」があれば、互いに共通の認識を確認しつつ対話できるので、「通訳」が仲介して意思疎通する事ができると言える。
 関連して、蕃夷が銅銭で対価の支払いができれば、中国の市で堂々と買い物ができるが、銅銭で支払いできなければ、蕃夷は、持ちこんだ物品と市の場で買い付ける物品を相対で等価と認めて、交換するしかないのである。後世で言う経済原理の働きであるから、必ずしも、蕃夷が中国文化を高度に理解習得する必要は無いとも言える。

 それにしても、簡単な日常会話は理解し合えたとしても、日常会話の延長の言葉や概念で国事は語れない。「中国」と交際するには、中国語とその表す概念に通暁する必要があるのであり、それは、通訳や翻訳者のなし得ることでは無い。

 いや、ここまで説いている勘違いは、一般人、素人にはむしろ常態であり、民放の古代史番組で、司会者が番外発言として、同様の誤解をこぼしたのを聞いたことがあるが、氏のように中国史書の翻訳に挑むほどの玄人論者が、これほど簡単な原理を知らないままに過ごしてきたことが、不可解である。

                                未完

新・私の本棚 松尾 光 「現代語訳 魏志倭人伝」 参 通詞論 2/2 三掲

 新人物文庫 .KADOKAWA/中経出版 Kindle版
 私の見立て ★☆☆☆☆ 誤解と認識不足の露呈  2020/08/05 2023/04/29 2025/05/20

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。 

〇文書論議
 文書交換は高度な筆談であるから、ここに書かれているようなお粗末な手配りはあり得ない。まして、国家の大事に無教養な野良通詞を雇うのは、失笑ものである。鞍作福利は中国古典に精通していたと同時に、その高度な概念をヤマト言葉に噛み砕いていたものと思われる。中国人と会話するためには、鞍作氏が創造したヤマト言葉によって思考できる人材が求められたのである。何しろ、ヤマトの側には、後世律令で確立するような国家規律の言葉はなかったから、その大半は、漢語で埋められていたはずである。

〇漢字現地化禁制
 因みに、漢字を自国風に発音して文章、会話を構築することは、文明の根幹に反するので、固く禁じられていたのである。かな文字は、中国との交通が疎遠だったため見過ごされたのであり、至近の百済と新羅は、中国の規律に厳格に拘束されていたので、漢語の現地化などできなかったのである。
 今日でも、政治、経済などの高度な談義で、漢語や漢語風現代造語をヤマト言葉に置き換えたら、意思疎通できないのである。

〇児戯敷衍の愚
 ちなみに、「伝言ゲーム」なる、低級で陳腐な比喩が登場するが、事は、子供の遊び事ではないのである。正確な意思伝達の保証には、対面筆談による文意確認であり、つまり、都度伝達内容を検証し是正するのである。
 このような、児戯に属する低劣な比喩を持ち出して、古代人の叡知を見くびるのは、自身の無知を高言しているものである。

〇外世界の文化、文明
 史記大宛伝、漢書西域伝の漢武帝期の西域踏査記録で知られているが、西域のさらに西の果てに威勢を誇った「安息国」は、皮革に横書きで文字を書き付ける高度な文書制度を有し、東西数千里に広がる広大な国内に宿駅を備えた街道を隈無く整備運用し、常時、官制文書使を往来させ、漢使の東部国境到来時は、メソポタミアに君臨する国王の王都に急報し、想定日数内に国王から応対許可の指示が届いたと報告されている。班固「漢書」西域伝には、多数の蕃夷の「国」が銘記されているが、「王都」と書かれているのは、漢に匹敵する「法と秩序」が確立され、漢文と異なる文書が運用されていた安息(バルティア)だけである。
 つまり、其国では、縦書き漢字文書ではないが、巨大国家が、文書行政で秩序正しく運営されていたと知られている。其国は、銀銅貨が有り、計算集計技術が確立し、前世、女性一人で安全に長旅できたとされている。
 ただし、これは中原外の風聞であり、中国に皮革紙や横書筆記が伝わったわけではない。また、中国の基準では、先哲の古典書を読解していないものは、無知のものなのである。

〇まとめ
 文化、文明は、文字の上に構築される。単なる民族風習ではない。

〇魚豢の嘆き
 魏書第三十巻巻末に裴松之が補追した魏略「西戎伝」全文で魚豢の著作が伝えられているが、巻末で、魚豢のような知識人でも知りうる範囲の限られた池の鯉で外界を知り得ないと達観したが、現代人は知識を得るのに池を出る必要はないから、その場で認識を広め、かつ、深めて欲しいものである。

〇教訓
 古代史談義を現代人の言葉と概念で進めるのは無謀である。同時代概念を摂取し、内なる言葉と概念を整えた上で古代史料の言葉を取り込むべきである。氏の解説は、言葉と概念の貧困により意図不明の絵解きに終わっている。
 更なる境地に至るためには、情報源の「貧困」を理解いただいた上で、止まる木を選んで研鑽いただきたいものである。

                                以上

新・私の本棚 松尾 光 「現代語訳 魏志倭人伝」 弐 陳寿論 1/2 三掲

 新人物文庫 .KADOKAWA/中経出版 Kindle版
 私の見立て ★☆☆☆☆ 史料批判なき風聞憶測 2020/08/02 2023/04/29 2025/05/20

*加筆再掲の弁
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〇はじめに
 当記事は、本書に追記された「陳寿論」に関する批判である。
【Q】『魏志倭人伝』の著者・陳寿とは何者か
【A】『魏志倭人伝』の著者である陳寿については、『晋書』巻八十二にその伝記が載せられている。このほかには格別の資料もないので、筆者の解説をまじえて、『晋書』の陳寿伝の語るところを紹介しよう。

〇史料批判なき筆者解説
 一見客観的な書き出しから流れ出す評言の大半は、俗説流布の根拠不明の誹謗中傷であるが、著者は、俗説風聞の史料批判を行わず、無造作に風評に追随し、最後に、個人的信条に筆を撓(たわ)めて敷衍し、結局、世上の誹謗中傷を正当化して結んでいると見えるのである。勿体ないことである。

〇蜀漢誤伝
 蜀の建国の意が示されていないのは、不用意である。蜀漢の視点から言うと、「漢高祖以来の伝統を継承していた漢朝が、逆臣曹氏に滅ぼされたので、蜀の地で漢の正統を保った」のであり、単に三国鼎立の最弱国ではない。建国以来、漢と自称していたのを、敵は「蜀」と呼び、創業皇帝劉備を先主、継嗣劉禅を後主と、皇帝から地方領主に格下げしたのは、魏晋朝の正統宣言による。

 陳寿は蜀漢の士人、史官として育成され、亡国の後、司馬氏の晋に仕官したが、蜀こそ正統の意識は保っていたのである。従って、陳寿編纂による「三国志」の「蜀国志」である蜀書は、蜀漢史官の視点で書かれているのである。また、呉書は、東呉孫氏政権の史官の呉書稿を、基本資料として採用している。

〇蜀漢亡国事情
 蜀は、皇帝劉禅が魏軍の前に開城降伏したため、臣下官人は、多くが身分、職を保つことができた。勿論、皇帝の代わりに魏の任じた太守が君臨し、旧蜀漢高官は職を免じられたが処刑されたわけではない。当然、旧来蜀官人は、新来魏官人の下につくが、亡国でその程度で済んだのはむしろ幸運である。
 因みに、諸葛亮の後継として蜀軍の北伐を指揮した姜維は、後主劉禅の指示に従い侵攻軍に降伏した後、敵の指揮官鐘会の戦後処理の補佐を務め、魏軍の内紛によって戦死したが、敗軍の将として刑死したわけではない。

 著者の余談に悪乗りしたが、蜀人の資質を論じたかったのである。

〇千石の米、一膳の飯
 千石事件については、古田武彦氏が冷静な解釈を発表している。千石の米とは、後世、室町時代や江戸時代に、沿岸航路で大量千石の米を大型帆船で運んだように、とんでもない大量の米である。一方、千斛(石)の米の価値は、言うまでもなく莫大である。無理に例えるなら、数千万円の価値のようである。
 金に飽かせて、功名のない父親の伝を正史に立てさせるというのが、どれほどの罪悪か思い知らせたのであり、賄賂で動かないと公表したのに等しい。当の兄弟も、大金を惜しんで無理押ししなかったし、この相場では、以後、持ちかける相手は出なかっただろう。一罰百戒である。

〇冤罪と誤断
 著者は、現代風経済観念から、莫大な賄賂なら陳寿も動いたろうとの評価のようだが、憶測による冤罪も良いところである。
 陳寿誹謗の記事にすら書かれていない「史実」を独自創作して、史論にあるまじき筆踊りである。ことは、筆曲がり、筆撓めを越えている。

 春秋時代以来、司馬遷を代表として、時には、皇帝の指示に刃向かって、文字通り馘首も怖れないという、伝統的な史官の根性を見くびったものである。

                                未完

新・私の本棚 松尾 光 「現代語訳 魏志倭人伝」 弐 陳寿論 2/2 三掲

 新人物文庫 .KADOKAWA/中経出版 Kindle版
 私の見立て ★☆☆☆☆ 史料批判なき風聞憶測 2020/08/02 2023/04/29 2025/05/20

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。 

〇陳寿の諸葛亮観
 続いて、氏は陳寿の諸葛亮への感情を述べるが、普通に見て深い尊敬を抱いていたとみる。魏では、諸葛亮は連年関中方面を侵略し続けた極悪人であり、魏略を書いた魚豢は、魏官人として当然、諸葛亮に敵意を示す記事を残している。
 魏官人の憤懣を引き継いだ西晋に於いて、旧敵国の巨魁たる「諸葛亮著作集」を上申したのは、大抵の決意ではない。
 因みに、魏を創始した武帝曹操は時代最高の詩人であり、孫子兵法の注釈を表した文人であるが、「曹操著作集」は残されていない。
 諸葛亮は、私心のない宰相であり、戦地にあっても政務に心身を労したが、軍人として、むしろ凡庸(非凡とは言えない)とみるのが妥当な人物評ではないか。その子についても、陳寿は、むしろ冷静に評価しているとみられる。これを害意と見、筆誅と見る者は、陳寿の器を見くびって、評者自身の狭隘な史眼を露呈しているものである。

〇三国志上申挿話の考証
 全体に、なぜか、陳寿を支持する筆勢が痩せているが、例えば、没後の三国志上申の際の識者の建言は、三国志六十五巻の大著の書写と皇帝上程を齎すものだから、識者は、身命を賭して推薦したはずである。
 著作とは、上申を想定してまとめていた三国志最終稿善本、美本を言う。つまり、陳寿原本を上申し、書写は控えと見るべきである。実務は、河南尹・洛陽令の采配であるが、六十五巻分の用紙、ないし、簡牘と墨硯は、官費で手配するとは言え、最高級の資材である。また、写本工は、在野の職人ではなく、皇帝書庫写本に任じられる当代最高の著名の人材だった筈である。何しろ、皇帝命で、金に糸目は付けなかったと見るべきである。

〇洛陽の復興
 まさかとは思うが、このような写本工の動員を、現代風の雇用形態とみていると困るのでわかりきったことを言う。
 まずは、写本工は高度な専門技術者であり、官営工房に多数の職人が常雇い、つまり、官人となっていると共に、周辺の下働きは、官奴として組織化されていたのである。簡牘書写と仮定すると、必要な竹簡なり木簡なりは、規定の尺寸、品質のものを、要求量納品する業者が必要であり、途中で、簡牘を保管する問屋めいた存在があって、それぞれの間のやりとりは、価格、数量、納期が協定されて運用されているのである。
 こたびのように、六十五巻に及ぶ特上写本の場合、国営工房に皇帝命が下って最優先で取り組むから、そこそこの納期で完了するが、それ以外だと、後回しとか、写本工不足とかで、随分期間を要するのである。

 大量の新規写本が粛々と行われたのは、曹操が、半ば廃墟となっていた帝都洛陽を、献帝の威光を生かして、勅命で復興したからであり、魏が建国した文帝曹丕の時代も、後漢雒陽以来の長安、鄴、許都などの「都」を転々とした天子の威光が、雒陽を「首都」として、着々と往年の雒陽の威光が再建されていたからである。陳寿の時代には、既に晋に代替わりして、雒陽の活気は戻っていたから、かなりの数の写本工が、陳寿の結構広壮な旧宅を埋め尽くし、手分けして六十五巻の筆写を手がけたと思うのである。

〇洛陽の荒廃
 これも念のための背景確認であるが、かの霊帝の没後、雒陽は戦場と化して、最後は、暴君董卓の指示で、西方の旧都長安への遷都が強行され、董卓が、移転督促の目的で、雒陽に火を放ったので、一時期、雒陽は、廃都となっただけでなく、廃墟と化していたのである。
 そのため、献帝が東都雒陽に復帰と言っても再建が追いつかないため、後漢宮廷は、曹操一党の本拠、許昌なる地方都市に再興されたのであり、雒陽が国都に戻るまでには、さらに年月を要したのである。

〇士誠小人
 最後に、松尾氏は、陳寿に対して勝手に矮小化された心情を想定しているが、自身との器の違いに気づかない小人の誤解と言わざるを得ない。「(士誠小人也)『孟子』」と言うべきか。以下は、小人の史上の偉人に対する阿りとしか見えないので勿体ない。

〇東冶幻覚
 蜀は、地図上では「会稽」から見て長江(揚子江)の遥か上流であるが、地上では、とてもではないが、成都から会稽は見通せず、どの方角と言えない。また、東冶県は、一時会稽郡に属し、地図上、会稽の南とは言え、巨大な福建山地の南であり、交通至難のため、早々に会稽郡から分離され、建安郡とされている。
 と言う事で、東冶は、蜀都成都から親しく感じられるものではない。
 まして、これら地域は、三国時代の東呉、孫氏の領分で、敵地であった。心情的にも遠いのである。

 紙上の散策だけで、深く資料批判を行わず、事情のわからないままに、勝手な感慨を加えて、陳寿を戯画化するのは御免である。

〇政治的歴史観の蔓延
 一方、世上、「ためにする陳寿誹謗」が絶えないのは、こと「倭人伝」論に於いては、そこに書かれている倭人記事が、国内史書を基礎にした政治的な歴史観と衝突/相克/輻輳するからである。そこから、国内史書基準の世界観、つまり、政治的な歴史観は、国費によって正当化されて根強いのである。何しろ、三国志の校訂が二千年に渉って丁寧に行われたため、異稿、異本が無いに等しいことまで誹謗の種になっている」のは滑稽ですらある。そのような「がさつ」な論者にとって、普通に倭人伝を尊重する論義は、「聖典」崇拝と罵倒され、もう一つの誹謗の種になっていて、見苦しい物がある。

 そのような魔境では、論理でなく俗耳に心地良い響きを求めて小人跋扈するのである。松尾氏は、そのような歴史観迎合の魔境潮流に流されて満足なのだろうか。
                                以上

新・私の本棚 松尾 光 「現代語訳 魏志倭人伝」 壹 祢軍墓誌「本余譙」談義 三掲

 新人物文庫 .KADOKAWA/中経出版 Kindle版
 私の見立て ★★★★☆ 倭人伝訳文は ★★☆☆☆  2020/08/02 2023/04/30 2025/05/20

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。 

〇はじめに 余塵顕彰
 本書は、倭人伝現代語訳の労作を展開しているが、ここに提示するのはその余塵である。しかして、肝心の倭人伝訳文は偉業ではあるが、俗説/定説どっぷりの凡々たる展開と見る。おまけ部分は、力作であって毀誉褒貶混沌であるが、本稿では触れない。

〇百済祢軍墓誌に関する考察
 墓誌本文については、別記事で詳報したので、当記事では省略する。ここでは、改行を追加して、氏の注記を引用する。
(2)日本の餘、扶桑に拠りて以て誅を逋がる
白村江の戦いに敗れた日本軍の残党ともいえるが、百済の残党とも読み取れる。
 というのは前項の『旧唐書』列伝劉仁軌伝の続きに「百済の土地を棄つるべからず。余豊は北に在り、余勇は南に在り。百済・高麗は旧より相党して援く。倭人遠しと雖も、亦相影響す【百済の土地を棄ててはならない。余豊璋は北(高句麗)におり、余勇は南(倭)にいる。百済・高句麗はもともと相党して助け合っていた。倭人は遠いとはいえ、亦おたがいに影響しあっている】」とあり「扶余勇は扶余隆之弟也。是時走れて倭国に在り、以て扶余豊の応を為す【扶余勇は扶余隆の弟である。白村江の戦いの時に戦場から逃れて倭国におり、それによって余豊璋の応援をしている】」とある。余勇はほかに見えないが、扶余隆の弟ならば余豊璋の兄か弟である。余豊璋とともに人質とされていた余禅広(善光)は日本に滞在し、帰国しないまま百済王の氏名(うじな)を得ている。この余禅広の実名が扶余勇だったのか。
 その当否はともかくとして、倭国では唐軍の侵攻を覚悟し朝鮮式山城・水城の防禦施設や烽火という情報伝達施設を造らせて本土決戦の日に備えているが、唐では高句麗と連携した倭軍による百済復興・唐軍挟撃の動きを警戒していた。


〇時代考証の試み~史料批判の第一歩
 史書の解釈で、時代考証が混乱しているのは気がかりである。

 何しろ「唐軍の侵攻を覚悟し」「本土決戦」と、現代諸兄姉には耳に馴染まない、言うならば、古代史には場違いな「大本営」用語が飛び出すが、ヤマトに王都防衛施設を大挙造成したとは聞かない。また、ヤマトが、比較的近場の百済残党を差し置いて、極北の高句麗とどう連携したか、誰の懸念か不審である。全知全能の神のごとき陰謀説は、華麗で俗耳に馴染みやすいが、限りなく後世人の妄想世界と見える。

 と言うように、さまざまな時代錯誤、視点のずれが露呈している。

〇早計、浅慮の俗説への適確な異論
 重大なのは、八世紀冒頭の公開以前で誰も知らない「日本」が墓誌に書かれたとの「俗説」である。
 氏は、白村江の戦いに敗れた日本軍の残党などと筆を走らせているが、当時、「日本」は、存在していないのを失念されたようである。
 なお、舊唐書では、専ら「倭」であり、倭、倭人ないし倭国と気ままである。「日本」なぞ誰も理解できないから、墓誌作者は、高名な貴人の墓誌に「日本」余譙と書けず、氏の提起のように百済残党、「本藩余譙」を「本余譙」と縮めたではないか。私見では、墓誌構文としては、「于時日、本余譙」と三字句に読むものだろう。

 案ずるに、墓誌は、唐代当時最高の教養人を読者として想定し、「読者衆知の百済亡国後の残党の想定で書いた」のであり、読者にとって典拠不明の「日本」を書くはずがないと思う。

 して見ると、本件で早計、浅慮の俗説の粉塵の中、氏が文脈を丁寧に読み取った「百済の残党」は、燦然と筋が通っていると賛辞を呈したい。「俀国ヤマト説」など「党議拘束」の範囲外では、氏は、卓越した史料解釈を示すようである。

〇先行文献調査不備
 基本的な事項であるが、「祢軍墓誌」解釈は未踏分野でなく、論文の数は限られているから、逐一、確認が可能と思う。
 当ブログでは、素人なりに著名な先行論考を克服して、『祢軍墓誌に「日本国号不在」』と断じている。よくよく調べて書くべきではないか。

 私の意見 禰軍墓誌に日本国号はなかった 1/6  序論

                                以上

2025年5月17日 (土)

新・私の本棚 井上 悦文 邪馬台国の会 講演 第426回 卑弥呼の墓を掘る

卑弥呼の墓を掘る (2025.1.26 開催)   初掲 2025/04/08 改訂 2025/05/17(誤記訂正)

◯はじめに
 氏の著書・動画講演の影響が絶大なので敢えて批判しました。

*引用とコメント
 「氏にして疎略」と「空耳」の混在です。
 1.1―1.3の書道家蘊蓄については、本編では口を挟まないことにしましたから、話は、当方の縄張りなのです。

1.4.魏志倭人伝の邪馬台国
 ...「邪馬台国」は、魏志倭人伝には「邪馬壹国」と表記されています。ところが、この邪馬壹国は、...「魏略」「魏志」「梁書」「後漢書」その他をもとに分析すれば、...「壹」...は魏志倭人伝だけです。中略「邪馬台国」...は「耶馬臺国」が正表記で ...す。

 随分手馴れた捌きの口調ですが、内容は、大分受け売りの固まりです。受け売りなら、ご自分の見識だと肩肘を張らず、どの家元のご託宣か書くものです。
 それにしても、「その他の ...その他」は「魏志」自体を「その他」と錯綜です。「魏略」、「梁書」は級外史料です。ぼちぼち、割愛してもいい頃です。

*魚豢「魏略」の意義確認 追記 2025/05/17
 丁寧に言うと魚豢「魏略」は、史料としては大半が散逸していて、今気軽に「魏略」とおっしゃっているのは、魏略「東夷伝」そのものでなく、大変粗忽に所引された、つまり、間違いだらけの引用として太宰府天満宮に残簡が所蔵されていた「翰苑」に書かれている断片であり、信頼に足る史料ではないのです。言わば、「ジャンク」であり、井上氏ほどの書家なら、正確な引用が継承されていないと瞬時に見て取れるはずなのです。
 因みに、魚豢「魏略」西戎伝は、陳寿の百五十年ほど後生の劉宋史官裴松之の三国志付注の際に、魏略善本が健全に継承されていたのは、「魏略」西戎伝が、裴松之附注「魏志」の第30巻「魏志倭人伝」に続いて収容されいることで確認できます。
 つまり、魚豢「魏略」西戎伝は、当時編纂中で未公刊の范曄「後漢書」の西域伝の基幹となるべき史書稿であり、後に公刊された范曄「後漢書」の西域伝と併せて読むことにより、「魏略」の史書としての抱負を知ることができます。因みに、裴松之は、「魏志倭人伝」で割愛されている事項があれば、附注していますが、実際は、皆目附注と言うに足る附注は書き残していないので、魚豢「魏略」の倭人伝相当記事は、特に書くに足るものではなかったと証されているのです。

 按ずるに、陳寿が魏志倭人伝に収録した原資料は、曹魏明帝が、楽浪/帯方郡を景初初頭に接収した際に齎された、言わば、「原始倭人伝」と言うべき郡志史料であり、端的に言うと、公孫氏に上申した報告書の控えであったと見えます。もっとも、当時、遼東郡に届いて郡公文書庫に収容されていたと見られる公孫氏時代の遼東郡志は、司馬懿の征討軍が、景初二年の戦捷時に根こそぎ破壊殺戮したので、失われたものと見えます。司馬懿は、公孫氏の帯方郡設置による貧弱な東夷管理の深謀遠慮には、全く関心が無かったと見えるのです。

 ということで、「魏志倭人伝」は、陳寿とその支援者(優秀な書生)によって、一次史料である「原始倭人伝」を忠実に収録したのであって、当然、別系統の史官であった魚豢の「魏略」倭人伝も、特に疎略に扱う動機も無かったであろう事から、「魏志倭人伝」と同等の正確さで書かれていたものと見えます。但し、翰苑の所引は、史料の意義を知らない粗雑な所引者による魚豢「倭人伝」からの粗雑な引用であり、陳寿が、専門史官として、精魂込めた引用を否定する効力を持たないものなのです。
 御理解いただけたでしょうか。

 笵曄「後漢書」東夷列伝倭条は、大分玄人っぽい解釈がついて回るので、素人さんは手を出さない方がいいでしょう。とにかく、書かれているのは、別時代・別「国」を示し、難ありです。

 それにしても、困惑させられる「その他」重複は、なにかの取り違えでしょう。失笑連発です。

 倭人伝に曰わく、「南邪馬壹国に至る」「女王之所である」が正解で、ここに、後漢末に荒廃した洛陽の復旧に勤しんでいた曹魏天子も顔負けの「都」(みやこ)は、見当外れのこじつけです。なかなか、ここまで掘り下げる人はいないので、毎回、難癖をつけざるを得ないのです。

 氏が、文献解釈に疎いのか、勿体振った「蓋然性」評価は、まことに非科学的で、力み返った「本来」「推察」は、根拠皆無で、空転しています。「倭人伝」は、すらすら読めるから楽勝だ、要するに、陳寿がペテン師なんだとでも言いたいような、やじうま論議が巾をきかせているのですが、幸い、氏は、圏外のようです。

1.5.卑弥呼の墓 中略 
 「径百歩」は正確な引用ですが、文書考証すると女王「冢」の規模、敷地広さで、「歩」(ぶ)は、長さでなく面積単位であり、現代風「平方歩」です。
 これは、なかなか理解できる人が少ないので、歎いているのですが、氏も自認されているように、実務を想定すると、墳丘墓「直径」は、現地測量不可能です。陵墓規模は、測量可能な敷地面積で示すものです。当方の中国算術史料「九章算術」研究の成果で、「径百歩」は、常用の面積「方百歩」を「一辺十歩(15㍍)の敷地で冢が円形」と、異例の「径百歩」で明示したものです。

*古代算数の勉強
 円形図形の専有面積は、「直径」がわかっていれば、「直径」の二乗、「直径」掛ける「直径」に、「3」を掛ければ概数として正しいのですが、「直径」が測れない場合は、「外周」の測量値「歩」を「3」で割れば「直径」(の正しい概算)が得られるので、先の計算式に持ち込んでもいいのですが、一度3で割ってから3を掛けるのは、いかにもムダなので、「外周」の二乗を「3」で割っても、正しい結果が得られるのです。「3」は、円周率であり、諸兄姉は、3.141592などと記憶されているでしょうが、小数を省いて、「3」とすることにより、整数計算になるので、随分簡単に計算できるのですから、古代中国の「算数」を見直して欲しいものです。以上は、「九章算術」なる必須教養を学んでいる、漢魏晋官人には、概数計算の常識なのですが、諸兄姉は、ご存じだったでしょうか。

 因みに、墓制に昏(くら)い東方は、これを「直径 百歩≒一五〇㍍」「円墳」とそそくさと解釈して「大規模墳丘墓」の原型/ひな形としたのでしょうか。多分、「九章算術」を学んでいない、「二千年後生の無教養な東夷」なのでしょうが、無教養は、教養を学べばいいのです。
 それとも、卑弥呼ー壹輿の後継王が、帯方郡滅亡時の亡命造墓集団に「大規模墳丘墓」を課したのでしょうか。
 伝統は、大抵、いつかどこかどこかで断絶するものです。だからといって、卑弥呼の不朽の偉業は、些かも光芒を失うものではないのです。

 ということで、名もない「倭人」の後継者達は、「中国」の衰退により、既に支援、指導を受けていた土木工学技術を強化して、独自の「けもの径」を進んだとも見えます。このあたり、所説が錯綜して、当方の乏しい知識では、何とも、判別できないのです。

 ところで、直後の安本美典氏の講演は、漢魏晋墓制を、遺物/遺跡考古学の見地から広範多岐に亘って論じますが、「客」の顔を潰さない配慮か、蘊蓄豊富でも、漢魏王墓考証では、地下に複数墓室を設けた方形との明言を、大人の知恵で避けていると見えます。

*円丘・方丘の隔絶
 「円丘」は、頂部演壇で三六〇度全周で、時日に応じた方位で天に礼を示す「天丘」は、祭礼であり、葬礼、墳墓など見当違いです。対照の「方丘」は、葬礼であり、別紀日に地下祖霊を弔い、「円丘」と隔離しています。造語するなら、「方円絶遠」です。

 要するに、「中国」王侯墓に大規模円墳など存在しなかったことは明らかであり、帯方郡から長期駐在した大宰張昭」は、「親魏倭王」に葬礼に反する大規模円墳など許さないのです。また、西晋史官であった陳寿は、当然、葬礼墓制に通暁していて、無法な大規模円墳など記録することは有り得ないのです。それが、史官の真意というものです。

 無学、無教養の素人である当方の無上の「知恵蔵」である、殷周代以来の太古漢字史料を深く極めた白川勝氏の詳説では、太古東夷と称された周代齊魯領域では、棺を埋葬し封土する「冢」の型式が整っていて、神社祭礼に属すると見える「鳥居」共々、「倭人伝」前段に略記された葬礼墓制は、渡来ものと見えます。
 伝統を破壊し、中国「文化」を拒否したいわゆる「前方後円墳」墳墓の繁栄は、一方で、神社がはるか後世に継承されているのを見ると、一介の素人の理解を越えて、不可解と言わざるを得ません。

閑話休題   訂正 2025/05/17 150㍍と誤記していたのを訂正したものです。
 当方の行きついた理解は、「倭人伝」に丹念に書き込まれている卑弥呼の「冢」は、「径百歩」規模、すなわち、「十歩(15㍍)角の敷地中央に納棺、封土した円形「冢」である」と端的です。整地、掘削、納棺、埋設、封土、一本植樹の墓碑等の力仕事は、近隣、近在の百人程度の「徇葬者」の一ヵ月程度の通い仕事だったはずです。簡にして要を得た記事です。
 中国葬礼では、必ず、石刻墓誌を設けますが、葬儀薄葬令もあり、また、先祖以来の墓地に月々墓参するので、墓碑も墓地も必要なかったのです。また、伝来墓地であらたな守墓人は不要です。蛮習「殉死」等、もっての外です。(字を変えているのに誤解するとは、失笑ものです)

 諸兄姉の思考には干渉できませんが、よそごとながら、随分不合理な「歴史ロマン」を死守されているのだなあと、感嘆するものです。

 この通り、氏が見習っているらしい世上の雑駁な論議は、悉く空を切っています。

 それにしても、前半部を飛ばし読みしても、全般にアラ散在の講義であり、このさい、昭和百年を契機と捉えて、時代物のレジュメを、編集校正し晩節を整えていただいた方がいいでしょう。

                                以上

2025年5月15日 (木)

新・私の本棚 古賀達也の洛中洛外日記 第3484話 『三国志』夷蛮伝の国名表記ルール

『三国志』夷蛮伝の国名表記ルール 2025/05/13 2025/05/15

◯はじめに
 今回は、「倭人伝」における蔑称論議に異議を唱えるものです。

*古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』 今一つの虚構の始まり
 本書を「第一書」と略称します。同書は、まず、陳寿「三国志」「魏志倭人伝」の最善史料、宮内庁書陵局所蔵「紹凞本」を判断の起点としたのです。
 ただし、古田氏は、行程記事の「南至邪馬壹国女王之所都…」に「女王之都」を見ますが、蕃王治所を「都」、さらには、「首都」と見る不合理を軽視されたようです。

 実際は、女王は、重臣である倭大夫を滅多に引見せず、御前朝議を行わなう事もないので、行政機関を統御することはなく、稟申、諮問された議事に捌きを与えるだけなので、精々、実務の有り体は「居処」であり、「宮殿」「王都」などではなかったのは、「倭人伝」から読み取れるはずなのですが、古田氏ばかりでなく、世の諸兄姉は、至高の高みを眺めていて、足元を見ていないようです。最近のNHK教養番組で、若々しい女王が、居並ぶ家臣に檄を飛ばすのを見て、俗受け狙いのホラ話も程々にしろよと言いたかったものです。

 しかし、「首都」は曹魏文帝創唱であり、西都長安、献帝居処許昌の勅命発信は否定せず、洛陽「首都」宣言したのです。してみると、蕃夷「首都」は曹魏と同等の地位となるので、陳寿は、頑として不法な尊称を与えなかったのです。

 この点、古田氏が「和風」解釈を脱しなかったのは大変勿体ないのです。

 以上の「都」、「首都」用語論は、古田氏提言『「邪馬壹国」が、「邪馬臺国」なる「尊称」と一線を画する穏当な国名である』に整合しないと見えます。

*細瑾の指摘
 以上は、三国志の用語解釈に現代日本語を持ち込む危うさを述べたものです。これは、古田氏の見過ごしであって誤謬や錯誤と言うほどではありません。世間には三世紀論議にもっと深刻な時代錯誤が持ち込まれているのです。

*「ルール」の確認 
 ここで、茂山憲史氏談として、忽然と「七箇条憲法」が登場します。二重引用御免🙇

誰でも分かり、異存のなさそうなルールには適用序列があります。ルールは
1 出来るだけ発音が現地国名を写すような漢字群で考える
2 その中から国のイメージや性格を表わす用字を考える
3 イメージには当初から「夷蛮」という蔑んだ意味が含まれている
4 イメージを優先したいときは、発音を少々犠牲にすることもある
5 政治的に対立すると、さらに発音を崩しても侮蔑的な字を当てる
6 夷蛮の国が漢字に習熟して国名を自称しても、中国側の呼称が優先される
7 夷蛮の国の自称を採る場合でも、音に従い用字まで受入れることは少ない

*苦言/諫言
 用字/用語の眩惑に加えて「ルール」、「イメージ」のカタカナ語はご勘弁いただきたいのです。「誰でも」と言っても陳寿、笵曄、本居宣長に理解できなかったはずです。「スルー」はインチキ語でこの場で見たくないものです。(うちわ/Privateでも、格調を保っていただきたいものです)

 さて、「七箇条憲法」は、素人眼には「思い込み」に見えます。出所は不明と見えますが、これが古田史学の会内の「ルール」でしょうか。

*蔑称の斜陽
 古田氏も提言したように、自称は、大抵、見つくろいの当て字で、既存国名、人名と抵触しない、常用されない文字が起用されたはずです。不明な蕃夷も、何れは中国語を学んで気づくので、蔑称は回避したと見えます。
 茂山氏の命名論は、一部で支持されたでしょうが、蕃夷が背けば多大な戦費が必要であり、命名で手心を加えて辺境の安寧を買ったと見えます。
 曹魏明帝は、東夷の歓心を買うために一字国名「倭」を許容し、東夷制覇の先兵とすべく大層な下賜物を与えたのであり、明帝の深意を理解した陳寿は、「倭人伝」に「蔑称」を用いなかったと見るのが、順当な見方というものです。

 後生、つまり、二千年を経て、三世紀当時の教養を受け継いでいない東夷には苛立つ用字かも知れませんが、当時、そこそこの格式であったと見えます

 王莽の「下句麗」は、光武帝が復元しました。金科玉条はなかったのです。

*虚名の払拭
 いや、明帝の誤解を正すべく、「倭人」諸国は、城壁のない貧弱な「国邑」に過ぎず、国力を示す「戸数」は、行程上の列国であっても、せいぜい数千戸に過ぎず、したがって兵力も収穫も乏しく、通貨がないので税を銅銭で郡に納付できず、牛馬がないので耕作が人力であって農産物が乏しく、牛馬がないので輸送力が乏しく、各戸には、老人や寡婦の扶養が多く含まれていて、実収に乏しく、到底、韓国平定の戦力にならないと念入りに書き遺したのです。

 後生、つまり、二千年を経て、三世紀当時の教養を受け継いでいない東夷には苛立つ「真相」かも知れませんが、「倭人」が、途上国の境地を達するには、実に数世紀を要したのです。

                                                      以上

2025年5月12日 (月)

新・私の本棚 西村 敏昭 季刊「邪馬台国」第141号 随想「私の邪馬台国論」補追

 梓書院 2021年12月刊
 私の見立て ★★☆☆☆ 不用意な先行論依存、不確かな算術 2022/01/04 追記 2022/11/20 2023/01/23 2024/04/15 2025/05/12

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。 

〇はじめに
 当「随想」コーナーは、広く読者の意見発表の場と想定されていると思うので、多少とも丁寧に批判させていただくことにしました。
 つまり、「随想」としての展開が論理的でないとか、引用している意見の出典が書かれていないとか、言わないわけには行かないので、書き連ねましたが、本来、論文審査は、編集部の職責/重責と思います。安本美典氏は、季刊「邪馬台国」誌の編集長に就任された際は、寄稿に対して論文査読を実施するとの趣旨を述べられていて、時に「コメント」として、講評されていたのですが、何せ四十年以上の大昔ですから、目下は、無審査なのでしょうか。

▢「邪馬壹国」のこと
 季刊「邪馬台国」誌では、当然『「邪馬壹国」は誤字である』ことに触れるべきでしょう。無視するのは無礼です。 
 大きな難点は、「邪馬タイ国」と発音するという合理的な根拠の無い「思い込み」であり、この場では、思い込み」でなく「堅固な証拠」が必要です。半世紀に亘る論争に、今さら一石を投じるのは、投げやりにはできないのです。パクリと言わないにしても、安易な便乗は、つつしむものではないでしょうか。

 そうで無ければ、世にはびこる「つけるクスリのない病(やまい)」と混同されて、気の毒です。

 因みに、氏は、説明の言葉に窮して「今日のEU」を引き合いにしていますが、氏の卓見に、読者の大勢はついていけないものと愚考します。(別に、読者総選挙して確認頂かなくても結構です)
 素人目にも、2023年2月1日現在、イングランド中心の「BRITAIN」離脱(Brexit)は実行済みとは言え、実務対応は懸案山積であり、連合王国(United Kingdom)としては、北アイルランドの取り扱いが不明とか、EU諸国としても、移民受入の各国負担など、重大懸案山積ですから、とても「今日のEU」などと平然と一口で語れるものではないので、氏が、どのような情報をもとにどのような思索を巡らしたか、読者が察することは、到底不可能ですから、三世紀の古代事情の連想先としては、まことに不似合いでしょう。

 「よくわからないもの」を、別の「よくわからないもの」に例えても、何も見えてきません。もっと、「レジェンド」化して、とうに博物館入りした相手を連想させてほしいものです。

*飛ばし読みする段落
 以下、「邪馬壹国」の「国の形」について臆測、推定し、議論していますが、倭人伝」に書かれた邪馬壹国の時代考証は、まずは「倭人伝」(だけ)によって行うべきです。史料批判が不完全と見える雑史料を、出典と過去の議論を明記しないで取り込んでは、泥沼のごった煮全てが氏の意見と見なされます。「盗作疑惑」です。

▢里程論~「水行」疑惑
 いよいよ、当ブログの守備範囲の議論ですが、氏の解釈には同意しがたい難点があって、批判に耐えないものになっています。

*前提確認の追記 2023/01/23
 ここで、追記するのですが、そもそも、氏の提言の前提には、当ブログが力説している『「倭人伝」の道里行程記事は、帯方郡から倭への文書通信の行程道里/日数を規定するもの』という丁寧な視点の評価がないように見えるのです。つまり、「必達日程」と言われても、何のことやらという心境と思います。説明不足をお詫びします。
 手短に言うと、正史読解の初級/初心事項として、『蛮夷伝の初回記事では、冒頭で、当該蛮夷への公式行程/道里を規定するのが、必須、「イロハのイ」』という鉄則です。

*前稿再録
 氏の解釈では、『帯方郡を出てから末羅国まで、一貫して「水行」』ですが、里程の最後で全区間を総括した「都(すべて)水行十日、陸行三十日(一月)」から、この「水行」区間を十日行程と見るのは、どうにも計算の合わないもいいところで、途方もない「無残な勘違い」です。
 氏の想定する当時の交通手段で「水行」区間を十日で移動するのは、(絶対)不可能の極みです。今日なら、半島縦断高速道路、ないしは、鉄道中央線と韓日/日韓フェリーで届くかも知れませんが、あったかどうかすら不明の「水行」を未曾有の帝国制度として規定するのは無謀です。因みに、三世紀時点で、公式行程として海船で移動する「水行」が存在しなかったことは、周知の事実です。

 何しろ、必達日程」に延着すれば、関係者の首があぶないので、余裕を見なければならないのですから、氏の説く「水行」を官制、つまり、曹魏の国家制度として施行/維持するには、各地に海の「駅」を設けて官人を常駐させるとともに、並行して陸上に交通路を確保しなければなりません。いや、海岸沿い陸路があれば、まず間違いなく、帯方郡の文書使は、騎馬で、安全、安心で、迅速、確実な「官道」を走るでしょう。
 先賢諸兄姉の論義で、海岸沿い陸路を想定した例は見かけませんが、好んで、選択肢を刈り込んだ強引な立論を慣わしとしているのです。

 前例のない「水行」を制定/運用するに、壮大な制度設計が必要ですが、氏は、文献証拠なり、遺跡考証なり、学問的な裏付けを得ているのでしょうか。裏付けのない「随想」は、単なる夢想に過ぎません。場違いでしょう。

▢合わない計算
 狗邪韓国から末羅国まで、三度の渡海は、それぞれ一日がかりなのは明らかなので、休養日無しで三日、連日連漕しないとすれば、多分六日、ないしは、十日を想定するはずです。

 誤解を好む人が多いので念押しすると、当時、一日の行程は、夜明けに出発して、午後早々に着く設定なのです。各地の宿駅/関所は、当然、隔壁に囲まれていて、厳重に門衛があり、日が沈めば厳重に閉門、閉扉するのです。門外野営など、無謀であり、特に、冬季に厳寒の事態となる半島では、冬場の野営は凍死必至です。従って、行人は、一日の行程に十分に余裕を見て、早々に宿場に入るのです。倭人伝が新規規定している「渡海」「水行」の場合はさらに顕著で、便船に乗らなければ対岸に渡れないのです。そして、早々に着いて次の渡海を急いでも、そのような便船がないのが普通ですから、渡海が、実務として半日かからないとしても、それで一日と数えるのです。

 そもそも、氏の想定を臆測すると半島西岸~南岸を600㌖から800㌖ 進むと思われる『氏が想定している遠大極まる「水行」』行程は、七日どころか、二十日かかっても不思議はない超絶難業です。潮待ち、風待ち、漕ぎ手交代待ちで、乗り心地どころか、船酔いで死にそう、いや、難破すれば確実にお陀仏、不安/不安定な船便で長途運ぶと、所要日数も危険も青天井です。
 諸兄姉は、そう思わないのでしょうか。聞くのは、陸上街道は、盗賊がでるとか言う「おとぎ話」/風評であり、なぜ、船が安全、安楽で良いのかという議論は聞きません。
 隣近所までほんの小船で往来することは、大抵の場合、無事で生還できたとしても、数百㌖の海船移動を一貫して官道として運用するのはあり得ない(馘首/死罪)です。
 一方、「幻の海岸沿い陸路」ならぬ半島中央の縦貫官道を採用して、ほぼ確実な日程に沿って移動し、最後に、ほんの向こう岸まで三度渡海するのであれば、全体としてほぼ確実な日程が想定できるのです。えらい大違いです。

 この程度の理屈は、小学高学年でも納得して暗算で確認できるので、なぜ、ここに無謀な臆測が載っているのか不審です。

▢古田流数合わせの盗用
 氏は、万二千里という全行程を『三世紀当時絶対に存在しなかった多桁算用数字」で12,000里と五桁里数に勝手に読み替えて、全桁「数合わせ」しますが、そのために、対海国、一大国を正方形と見立てて半周航行する古田説(の誤謬)を丸ごと(自身の新発想として)剽窃しています。
 安本美典氏の牙城として、絶大な権威ある「邪馬台国」誌が、このような論文偽装を支持するのは、杜撰な論文審査だと歎くものです。

〇まとめ
 後出しの「必達日程」論は言わなくても、凡そ、『帯方郡が、貴重な荷物と人員の長行程移送に、不確実で危険な移動方法を採用することは、あり得ない』という議論は、絶対的に通用するものと思います。
 まして、正始の魏使下向の場合、結構大量の荷物と大勢の人員を運ぶので、辺境で出来合の小船の船旅とは行かないのです。とにかく、いかに鄙(ひな)にしては繁盛していても、隣村へ野菜や魚貝類を売りに行くのと同じには行かないのです。人手も船も、全く、全く足りないので、現代世界観の無造作な塗りつけは、論外です。

 弁辰狗邪韓国近辺の鉄山で産出した「鉄」は、陸上街道で帯方郡まで直送されていたのですから、そのように、郡の基幹事業として常用している運送手段を利用しないのは、考えられないのです。と言うことで、本稿の結論は、維持されます。
 氏が、自力で推敲する力が無いなら、誰か物知りに読んで貰うべきです。「訊くは一時の恥……」です。
 
 それにしても、高名であろうとなかろうと、誰かの意見を無批判で呑み込むのは危険そのものです。聞きかじりの毒饅頭を頬張らず、ちゃんと、毒味/味見してから食いつくべきです。
 以上、氏の意図は、丁寧かつ率直な批判を受けることだと思うので、このような記事になりました。頓首

                                以上

2025年5月 1日 (木)

新・私の本棚 番外 NHKBS空旅中国 悠久の大地を飛ぶ 曹操の峠道

[BS] 2025年05月01日 放送日:2023年3月20日
私の見方 ☆☆☆☆☆ 美観を塗り尽くす誤解・欺瞞     2025/05/01 05/07 一部補充

*番組概要
BSプレミアムで放送したドローン映像による紀行番組「空旅中国」から、三国志の英雄の一人、曹操の物語を紹介。後漢王朝の役人をしていた曹操は、天下統一を夢見て、時の皇帝を都・洛陽から連れ出した。追手が迫るかもしれない中、200キロほど離れた自らの拠点を目指し、険しい峠道を越えた。美しい山々の風景と山中にあるカンフーで知られる少林寺も紹介。ライバル劉備の武将・関羽と曹操の涙ぐましい物語も!

◯異議あり
 いや、これまで何気なく「見過ごし」ていたのだが、今回のように取りだしてでかでかと言い立てられると、異議を唱えなければならない。
 視聴者の受信料をもとに運営されている公共放送であるNHKの歴史番組は、入念に時代考証されているはずなのだが、今回の「物語」には、根拠となる資料が示されず、誰かのホラ話が書き綴られているのである。「番組概要」が語っているのは、そうした失態なのである。
 NHKは、「教養番組」の台本を校閲、審査しないのだろうか。受信料返せである。当ブログとしては、取り敢えずは、「番組概要」に示された制作方針に異を唱えるのであり、番組の中でばらまかれているらしい「お話」には、一々口を挟まないのである。

*曹操の皇帝拐帯
 同時代最大の英傑であった曹操は、中原大乱の中から頭角を現した建安年間に、時の皇帝献帝を、根拠地許昌に収容したことには間違いない。ただし、少帝として暴漢董卓に擁立された皇帝は、後漢帝都であった「東都洛陽」に安住していたのではなく、少帝の身分で、後見役にして宰相となった董卓によって半ば廃虚となっていた旧都、「西都長安」に遷都させられ、董卓誅殺後、「長安」で名ばかりの皇帝として躍らされていた境遇から脱走して、僅かな手兵と共に、僻地に孤立していた時期があり、辛うじて、洛陽に帰還したものの「時の皇帝」などとは、何かの皮肉としか見えない。

 曹操は、国体が崩壊していた後漢の再興に必ずしも乗り気ではなかったが、だれも皇帝の招請を図っていない、言わば、無競争情勢であることから、「奇貨居くべし」(格安の掘り出し物)と見て、渋々ながら、獲得に乗り出したとされている。と言うことで、皇帝は、食うに事欠く窮状から曹操の派遣した重臣に従って召喚された。この辺り、皇帝に命令はできないので、丁重に招請したと丁寧に言うしかない。皇帝は、窮地を脱して、天子の権威を回復できることに、心底感謝したに違いない。
 それにして、引き続く大乱の最中、最高指揮官が、自ら、皇帝拐帯に乗り出すなど、何かの戯画としか言いようがない。
 
 以後、曹操は、後漢宰相を経て格別の魏王の尊称を受けた。と言っても、あくまで、皇帝の臣下であり、天子となったわけではない。
 当たり前の話しであるが、皇帝は、帝国の象徴であり、現代風に言う諸官庁官僚が行政命令を発して、税収、官吏俸給支給などの国家行政を行ったので、洛陽、長安両都が行政執行し、以後、天子の仮住まいである行在(あんざい)許昌も、帝都として行政執行したと見える。
 許昌に皇帝を招請した曹操の心境は、二千年の後世の凡人からは、拝察するしかない。自力で王朝を興すのは、武力闘争に勝ち抜いたときに初めて獲得される境地であり、既に、道半ばで身内の犠牲を重ねて身の細る思いであったろうから、「孫子兵法」の教えに従い、後漢の形骸を復旧して天子の威光を借りることにしたと見える。

 但し、後漢の形骸が復旧すれば、二流でしかなかった曹家の位置付けが復旧するのであり、亡国の天子とは云え、名目を回復した献帝から禅譲を受けて天下に君臨するには、洛陽に屯(たむろ)する「亡霊」が妨げになると見て、あえて、許昌に「世界」の中心を置いたと見えるのである。

 このあたり、今回提示されたNHK「三国志」物語から見えてこない高度な世界観であり、当番組が誤った曹操観を定着させるのでなければ幸いである。

 とはいえ、大軍を擁して睥睨していたそうそうは、後漢の役人風情ではなく、時の皇帝(献帝)は、かっての東都洛陽の仮住まいにいたとは言え、

*三国時代前史の「けじめ」
 曹操は、時の後漢宰相として帝都許昌を中心として皇帝居処を支配しただけであり、「魏」を創業したわけではない。「呉」は、天下大乱時代に長江下流域「江東」を実効支配したが、あくまで、後漢郡太守であった。劉備は、その時点では根拠地を持たず、配下の軍団と共に流浪していたが、時の皇帝から、皇叔(叔父さん)と尊称されたように、あくまで、後漢臣下であった。ただし、呉と共に、曹操宰相/魏王には、服従しなかったのである。
 それにしても、天下大乱時代に於いて、劉備の際だった弱小さは、関羽「美談」でも明らかである。

 総括すると、番組は、「魏」「呉」「蜀」「三国」を唱えて、視聴者を愚弄している。

*墓所談議 余談
 ちなみに、曹操地下墓所は、生前に施工されていたものの、葬礼は、武帝と尊称された曹操を継ぎ、後漢から禅譲を受けた文帝曹丕の事業であった。同墓所は、地上に墳丘など、一切、設(しつら)えなかったので、二千年後まで秘匿できたのである。

*首都宣言 余談
 初代皇帝曹丕は、後漢末、董卓による長安遷都の際に手ひどく略奪・破壊された洛陽を整備して帝都とし、許昌、長安から引きつづき発信される行政命令を超える「首都」(新語)宣言した。以後、諸管庁を復旧し、解雇されていた諸官僚を再雇用し、帝都洛陽の復旧を進めたが、往時帝国各機関の運用と地方統制の実務采配を担っていた宦官が董卓によって一掃されたこともあり、また、曹操が構築した法と秩序の体制を、文帝曹丕、明帝曹叡の治世が短期であったため充実できなかったこともあって、後漢盛時の威勢は、杳(よう)として復興しなかったと見える。

*NHKの偏向報道について
 ということで、端的に言うと、今回の「教養」番組は、NHKの「特製三国志」に基づく特製番組であって、正確とほど遠い「拵え物」と見える。
 NHKは、視聴者の信頼に甘えて/媚びて、壮麗な絶景に乗せた、見映えがして耳触りがよい歴史絵巻に専念して、歴史の正確さなど無視するのであろうか。誠に困ったことである。

*文字校正
 書きもらしていたが、「峠」は、漢字に存在しない「嘘字」であるので、曹操の知らないものである。日本語として、何の問題も無いのだが、中国史について書くときは、同様の境遇にある「辻」ともども、控え目にした方が良いと愚考する。

                                以上

2025年4月25日 (金)

新・私の本棚 越智 正昭 「最終結論 邪馬台国は阿波だった」

 リベラル新書 サイエンスで読み解く古代史ミステリー 2024/12/25
私の見方 ★★☆☆☆ 文献逸脱 「地政学」で奈落落ち 2025/04/18

◯総評
 越智さんの意欲作であるが、史料参照無しのべたべた文で、ツッコミどころ満載で「蛇足」の鉱物資源論の推測羅列の相手をしている余裕はない。肝心の比定論に通じないのは残念である。それにしても、第6章 地政学的見地からの考察は、不出来な俗説の安易な追従で、どんと地に落ちている。

*俗説に足を取られた行程臆測
 どこからかすめ取ったのか、伊都、奴、不弥、投馬を経て「邪馬壹国」とは、不出来な「水物」俗説である。三崎半島速吸瀬戸を抜け、豊予海峡東岸行きは、古田氏著書などにもある出がらしで、根拠不明では感心しない。
 行程記事で大事なのは、国主居処だけであり、投馬は幡多郡となるようである。遺跡遺物が豊富なら、ここは、むしろ邪馬壹国かと見える。
 以下、氏は、最終目的地邪馬壹国を、南予投馬から四十日とするが、既に伊都から一ヵ月弱程度かけているから、郡想定外、現代人の理解外である。

 氏は、四国山地南側に東西陸路を見るが、長丁場の水行の後に長途山行で、以下、氏の比定する阿波「邪馬壹国」は殆ど近畿圏よりとなり、何故、女王之居処としたのか不可解である。ここから伊都遠隔統御は、不可能である。

*余談山積 陳寿の真意を見失ったこだわり
 氏は地学地方志蘊蓄を傾けるが、臆測による信頼性稀釈化は、世の常である。それなしに正当化できないのでは、明快を旨とした「倭人伝」の真意を見失っている。
 氏の「倭人伝」解釈は、中国側では行程長途で錯綜して難航必至と見え、いかに先帝の遺詔でも守れない重大な状況証拠である。後年、帯方郡軍官張政は、百人の郡兵を阿波まで率いたのだろうか。狗奴はどこか。

*再出発の提言
 随分ご無理かとは思うが、構想を白紙に還して、郡から狗邪まで陸路を一路七千里、三度の水行三千里を経て、末羅から陸上五百里で伊都に到着して完結、後は、南郊の邪馬壹国から女王にお出ましいただいて授受完了という、シンプルで美しい行程なら難所はないので気持ちよく発送できる。と言うと、行程が東方に出ないので、しきりに解釈を混乱させる近畿論の動機不純を見ぬいていただきたいものである。いや、これは、氏に掠(かす)るが、当方見解は、余傍の投馬に干渉せずどこにでも持って行けるのである。
 それでは、阿波説が成立しないが、と言って、御自分の都合で、大事な文献考証をねじ曲げるのは、よくある手口とは言え、所詮「窮鼠猫を噛む」ブラック解釈であり、苦しまぎれの「倭人伝改竄」は感心しない。

*宇摩邪馬臺国説 文献との折り合い重視の余談
 ちなみに、当方案は、女王は水郷西条市付近の投馬国主の長女で生涯不婚の巫女であり、現四国中央の邪馬氏神一の宮にいたものが、伊都王の娘であった母の実家の招請で、15歳の年に筑紫に移動し、『投馬と伊都に共立されて、伊都南郊の新設「邪馬壹国」に居処を定めた』との異論である。女王は伊都王の一女子(外孫)で、投馬の娘でもあり、妥協が成立したとの珍しい意見である。笵曄「後漢書」東夷伝「倭条」は、女王以前の邪馬台国が遠方にあったとの幻を書いたとの意見であり、「倭人伝」時点では女王は筑紫という解決策である。
 解釈転換は、二、三あるが、氏の大捻転より美しいと思う。

 因みに、海産に富み、太古、大三島(伊豫三嶋)に先立つ大海(東西瀬戸の内なる燧灘)の中心、宇摩・三島に女王生家を誘致したのは愛郷心からである。

                               以上

2025年4月19日 (土)

新・私の本棚 古賀達也の洛中洛外日記 第3460話 倭人伝「万二千余里」のフィロロギー(1)-(2) 改訂

 倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (2) ―総里程「万二千余里」の根拠は何か― 2025/03/28 初稿2025/03/31 04/19

◯はじめに ブログ記事批判の弁
 ブログ記事ながら、当記事は、古賀達也氏の公式見解と尊重した上での書評です。(1)は論義不鮮明なので本項に併合しました。

 まずは、古賀氏の語彙が学術的な語彙からずれているのが気になります。

 「概数」を、厳密な計算に基づかない「アバウトな数値」とする理解は、ある種「誤解」と思われます。まして、後に出て来る「アバウトな概数」とは、二段重ねで何のことか(😯)びっくり。

 ちなみに、今日、「がい数」は小学四年段階で教えられています。
*概数定義の確認  新興出版社啓林館サイトからの引用です。
 概数|算数用語集 「概数:およその数のことを概数といいます。概数は,日常生活の中で「およそ3000人」「約50000円」「だいたい20%」などの表現で使われます。細かな数値そのものが必要でなく,大まかに数の大きさが捉えられればよいとするときに使われます。また,人口や国の予算などの大きな数で,正確に数値を表してもあまり意味がない場合にも概数で表すことがあります」 (参照 2025年3月31日)
 古代中国史料では、実務上「おおよその数」として扱う数値にも、大抵の場合概数が使われます。(例外として、1の桁まで全桁計算することもありますが、あくまで例外中の例外です)

 古賀氏の理解は、年功を歴た大人の常識としても、本義から外れているのではないかと懸念されます。今回紹介された異論は詳細不明ですが、むしろ(小4生も同感するような)素朴な意見であり、はなから否定すべきではないと思われます。

*引用文献の不整合
 なお、ここでことさらに引用された古田氏提言に「概数」は含まれず、反論の根拠として不十分と思われます。なにしろ、本書は、一般聴衆向けの「教養セミナー」講演録であり、史学論議に耐える厳密な語彙に従っていない可能性があります。古田武彦氏著書「俾彌呼」第Ⅰ部第3章 「女王国への道」から抜粋すべきではないでしょうか。

*余談 「周旋」用例論議
 ちなみに、まずは、通説の「周旋」解釋の混乱を解決しないと、議論が成り立たないように見受けます。

 当ブログでは、「倭人伝」文意解釈に於いて有力な同時代(後漢献帝期)用例袁宏「後漢紀」卷三十孝獻皇帝紀建安十三年の孔融記事に加えて陳寿「三国志」魏志「崔琰伝」裴注(「続漢書」から引用)のほぼ同文の孔融記事を取り上げて、同時代の三用例を勘案して、「周旋」は「往来」の常用表現と画定し「倭人伝」の語義としています。これは、古田氏見解にも、見事に整合すると見えますが、野田氏も含め拡大解釈型の論者を克服するに至っていないと見えます。ちなみに、孔融は同時代人として大変高名であったものの、後漢献帝建安年間に最高権力者曹操の命により族滅されているので、陳寿は史官の見識で、孔融伝を魏志に収録しなかったと見えます。

*構文の乱れ
 古賀氏は、反論の根拠として、先だつ三項目外で末羅伊都間五百里と不詳の伊都不弥間の百里で不意打ちし、構文不明瞭と言われかねないところです。
 これは、引用記事の『「全行程一万二千里」を、既知の郡狗邪韓国の七千余里と倭地の「周旋」五千余里の合算とする』との趣旨と見える古田氏の簡潔な構想を外れ、概数概念不整合と相まって提言者を承服させるのは難しいと感じます。「倭人伝」記事に関する陳寿の真意は、三世紀時点で存在しなかった後世概念で推し量るのでなく、陳寿に理解できる論旨で想到するものであり、まずは「東夷伝」の概念で提示すべきでしょう。それは、二千年後生の(無教養な)東夷に「初耳」であっても、新説ではないのです。
 とにかく、正しい概算式の正しい概数項を解剖して、概数理念に反した端数を取り出すのは、端的に言って無法です。そのような端数は、概数計算式の埒外であり、概算式から排除されるのです。提案者は、そのような端数道里は、実測されていないのでないかとの疑念を呈していますが、これは、ここまで述べたような事態の本質を取り違えています。
 ちなみに、私見では、渡海水行の千余里は、正始使節の発進前に知られていたものであり、使節は、ここは、三回の渡海を行う水行十日と承知していたのであり、使節の報告書以前のものなのです。今回の議論の本質に関わるものではないのですが、この際、誤解を説こうとしたものです。

*持論提示 遅れてきた「定説」
 当ブログ筆者の持論では、「倭人伝」の『「郡から倭に到る万二千余里」は、公孫氏が、実際の道里が不明な時点で公式道里としたものであり、各部分の実測道里の加算(概算)で求めたものではない』(後漢献帝建安年間、帯方郡創設前後と推定)との意見ですから、食い違っています。
 なお、当然の常識として[千余里]単位概数の一桁漢数字の加算で、百里以下の端たは無視するものと思っています。

*率直な苦言
 ついでながら、+αは「プラスアルファ」なる大変不都合な(インチキ)外来語の派生表現であり、同様に不都合である「アバウト」共々、古賀氏の信用を損ないかねないので、考えなおされることをお勧めします。

                                以上

新・私の本棚 古賀達也の洛中洛外日記 第3461話 倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (3) 改訂

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (3)『史記』大宛列伝、司馬遷の里程計算 2025/03/29  初稿2025/04/01, 04/19

*議論の確認
 今回の論議は、却って、古賀氏の「倭人伝」解釈の未熟さを示しているように見えます。「伊都国から奴国への百里は傍線行路であり、郡より女王国に至る一万二千余里に含まれない」としながら、伊都から不弥の行路が傍線でなく万二千余里に含まれるとするのは、承服することが困難です。まして、「倭人伝」に触れられていない「島巡り半周読法」なる新説により百里単位の追記を詰め込むのは「公理」に反すると見えますが、いかがでしょうか。

*第一法則「部分の総和は、総計に等しい」の締め
 今回蒸し返されている議論は、前回、古田師の提言として明快に示された「帯方郡治から邪馬一国までが一万二千里。帯方郡治から狗邪韓国までが七千余里、そして海上に散らばっている島々(倭地)を「周旋」(周も旋もめぐるという意味)してゆくのが、五千里なる明快な解釈に対する「蛇足」(一切ぶち壊し)になっています。まずは、ここで「第一法則」の論証を、一度締めて異議を求めるべきです。議論は小刻みに収束させるべきであり、拡大混乱させるべきでないというのは、世間一般の通則と思うのですが、古代史学は、共感していないと見えて残念です。
 ついでながら、明快解釈に茶々を入れる野田氏の解釈は、折角ですが、目下の議論の邪魔になるので、後回しにすべきです。時間は、タップリあります。

*蛇足の確認
 「蛇足」部を混乱させるのは、追加された「末羅伊都間 五百里」の解釈です。
 古来の定則の根拠は[千余里]単位概算の整合であり、古来の漢数字で、七に五を加えればピッタリ十二なので、間違いようがないのです。古来の算数には小数は無いので現代風に言う0.5[千余里]は、無法なのです。

 周知のとおり、古代中国では、[千余里]の一桁数字の算木計算で、加算結果の繰り上がりはあっても、下位桁相当の小数は排除されているのです。
 古賀氏が忌避しているようなので再確認すると、提案された異議は、[千余里]単位概算では端たの百里単位は計算しないので、島巡り半周読法など「無用」との意見でしょうから、今回も反論できていないのです。

*参問倭地、周旋
 案ずるに、古田氏の「海上に散らばっている島々」は、「參問倭地」「或絕或連周旋可五千餘里」の意味を軽視されたもので、提言として、不用意です。

 本件は、郡から倭に到る行程の当初、つまり、後漢献帝建安年間、遼東で君臨していた公孫氏の概念説明であり、狗邪韓国からの渡海以下の行程は、末羅まで洲島、中之島を渡船で水行し、上陸直ちに陸行伊都国に到り、以下の行程は書かれていないであったと見えるのです。正史行程記事の「行程」は、陸上街道で目的地まで最短で結ぶのです。
 と言うことで、追加された「不弥国」論は、「行程」外に道草し、(古田氏自身の迷い道とは言え)古田氏の明快な解釈が溶け落ちています。提言は、ここで確立すべきだったのです。

*規範の取り違い
 ちなみに、氏が「倭人伝」のお手本と見た司馬遷「史記」大宛伝は、班固「漢書」西域伝転用と推定され、議論に影響しない「雑音」の混入です。陳寿は、饒舌な史記でなく朴訥な漢書を範例としたはずです。

*算数教科書 不朽の「九章算術」
 お言葉ですが、測量実務の根幹は、あくまで「九章算術」であり、検地や初歩的な土木工事実務教科書であり、高度な理論展開の場ではないのです。流し読みするだけでも、同書の深意を察することができます。
 ちなみに、これら算術書は、おそらく、周代門外不出の「秘伝」であったものが、東周滅亡時に秦朝に献上され、同国国内で「教科書」として施行されていたものが、秦始皇帝が、秦律の一環として全国地方官吏に配布、普及して、国政の根幹として運用したと見え、以後、文官の必須教養と思われます。
 もちろん、「部分里程の和が総里程」との「公理」は基本の基本で「証明不要」であり、金銭計算にも通じるので文官全員が通暁していたと思われます。但し、金銭計算は概算しないので諸兄姉は勘違いされるかも知れません。

                               以上

新・私の本棚 古賀達也の洛中洛外日記 第3463話 倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (4) 改訂

 「周旋五千余里」、野田利郎さんの里程案 2025/03/31  2025/04/02 改訂 2025/04/19

◯はじめに
 当連載記事は右顧左眄せず一路邁進ですから、当方も一路邁進します。
 既に泥沼化しかけていますが、懸案は「里数の概数計算において、部分里数計は総里数とピッタリ一致しなくても良い」とする「公理」の確認です。

倭人伝の里程記事「倭地周旋五千余里」は、古田説によれば次の倭国内の部分里程の合計と一致します。
 当ブログでは、古田師の第一段階提言の総括として、以下を懇望します。

 「倭人伝」に、明記も示唆もない、一切書かれてない島巡り論は、論議無用です。「方里」談議は、深くて大きい傍路に入るので割愛します。
郡狗邪韓  陸行 七[千余里] 狗邪韓対海  水行 一[千余里]
対海一大  水行 一[千余里] 一大末盧   水行 一[千余里]
末盧伊都  陸行 無[千余里](五[百余里])*切り捨て
末盧伊都  陸行 二[千余里]    差分であり、自明
 誤解を招くので、本項を改訂します。
部分行程計   十二[千余里] 全行程     十二[千余里] 

 陳寿の理路に従い時代錯誤の現代的作表でなく縦書表記したいのですが、ブログで縦書表示は大変困難です。五百余里は島巡り共々捨てます。

 部分計十[千余里]と全行程十二[千余里]の差分二[千余里]は、[千余里]単位の一桁概数の計算で生じたものなので、数学的に無視可能です。特に、「水行」は、測量不能、かつ、無意味な実際の道里でなく、所用日数を当てはめた「見なし」里数なので、辻褄合わせは不合理です。
 訂正 正しくは、差分二[千余里]は、初期段階で、末羅国~伊都国間の道里としたものであり、水行一[千余里]同様、実際の道里でなく、概念を示したものなのでした。

 陳寿の表示は、後漢献帝建安年間に、公孫氏がつけた全行程万二千余里の公式道里を熟慮案分した結果の概算差分を消す策がなかったことによります。率直に案分したものなのです。衆知の如く、概算計算の加減算で、細部の辻褄が合わないのは、むしろ当然・自明です。

 古田氏は、第一書執筆の途次で、直感・熟慮により差分解消の錯綜した論理を創唱したと見えます。何しろ、時点の氏の学識限界を承けているので、致し方ないのですが、半世紀を経て、通過点に残した瑕瑾が是正されないのは、大変残念です。僭越ながら、後生は、先生である古田氏の学説の不合理な細瑾を是正して、学説基幹を、外部からの攻撃から守るべきであり、この点是非とも慎重にご考慮いただきたいのです。


 なお、氏が創唱した「漢江河口部回避の部分的な海上移動」を「水行」の初出用例とする理窟は、「倭人伝」原文が遵守した古典史書語法による真意に反していることが見すごされ、以後、追従者が多く、不合理が拡散されているのですが、本件の論議では、別儀として極力直接言及するのを避けているのです。これまた、深くて大きい傍路なのです。

 古賀氏曰わく「野田説を『邪馬壹国の歴史学』(…2016年)に収録し、後世の研究者の判断に委ね…ました。」は、傍路と見えます。「魏使の最終目的地を侏儒国」なる見解の提示は[事実]でしょうが、未検証の思いつきと見て、検証し採否を示すのが、後生の重大な務めと感じます。ご一考ください。

 懸案の換言、蒸し返しになりそうですが、正統史官が蛮夷伝で姑息きわまりない辻褄合わせを弄すると想定するのは、不合理です。

 世にはびこる時代錯誤のほんの一例ですが、本件討議の圏外から提起の野田氏論理は、原文にない算用数字多桁表示濫用で、三世紀史官に不可解きわまりないものです。3000余里の1里単位非「概数」と[千余里]単位、「四」引く「一」の「三」の単位不揃いにお気づきでしょうか。なお、野田氏論考は、既に参照論文で確認して、当ブログでは、難点から成立しがたいと断じました。古賀氏が何故、明白な議論を先送りにしたのか、不可解です。
 以下、ますます本件の議論の傍路に入り付随論を無用に拡散させ、「倭人伝」の末梢を論じて、貴重な連載記事の進路を崩しているので、無用と断じます。傍路から本道への復帰を切望する次第です。

*用語談議
 ついでながら、用語誤解により論理階梯が乱れているのを、敢えて指摘します。

  1. 「参問倭地」は「倭地」を訪れることです。「倭人伝」では、殊更定義した上で、古典史書で前例のない「水行」、「陸行」を予告の上で導入し、狗邪韓国から末羅国まで渡船で渡り継ぐのを「水行」によって州島を渡り継ぐと概括し、区間内の陸上移動は述べず、末羅国で上陸した後「倭人伝」で初めての「陸行」と述べています。不記載事項援用は読者の怒りを買います。
  2. 「周旋」は、差分論議を避けて狗邪韓国-倭間の直線行程を復唱したものであり、直前に示された内容なので容易想到されるので、語義解釈は、野田氏の解釈と大きく異なります。
  3. [方...里]は、「道里」ではなく面積表示であり、中国古代史書の書法にならい、混同されないように単位表記を変えているので明らかなであり、取りあえず、道里論議から除外すべきです。簡明であるべき議論を、拡大、混乱させないように、最低限の確認にとどめるものです。

     ご一考いただけるまで提言しますので、御不快でも御容赦いただきたい。

                                    以上

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十五集~キャラバンは西へ~ 余談

                   2021/02/03  2025/04/19
*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが来訪して、当ブログの記事を読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。

〇NHKによる番組紹介
 NHK特集「シルクロード第2部」、第十五集は「キャラバンは西へ~再現・古代隊商の旅~」。内戦前だったシリアの人々の暮らしや世界遺産・パルミラ遺跡を紹介する。

古代の隊商はどのようにして砂漠を旅したのか。 隊商都市のパルミラまで、約200kmの道のりを、ラクダのキャラバンを組織し、古代人そのままの旅を再現する。いまは激しい内戦下にあるシリア。80年代、取材当時の人々の暮らしや、破壊された世界遺産・パルミラ遺跡の在りし日の姿がよみがえる。

〇中国世界の西の果て
 この回は、中国両漢代、つまり、漢書と後漢書の西域伝の限界を超えているので、本来、注文を付ける筋合いはないのだが、シリアの探査で、何の気なしに後漢甘英を取り上げているので、異議を唱える。

 つまり、後漢書に范曄が書いた西域都護班超が派遣した副官「甘英は、西の果ての海辺で、前途遼遠を怖れて引き返した」との挿話を引いて、地中海岸かペルシャ湾岸か不明というものの、どうも、取材班は、目指す地中海岸を見ているようである。

 しかし、ここまで踏破してきた旅程を思えば、後漢代に、安息国との国交再開を求めた甘英が、既にメルブで使命を達成していながら、これほどの苛酷な長途を旅したとは思えなかったはずである。まして、当時、この行程は、西のローマとの紛争下、大安息国、パルティアの厳戒下にあり、地中海岸に達する前に、王都クテシフォンで国王に拝謁した記録すらないのに、王都を越えて敵地である地中海岸に達したはずがない。

*後日談 2025/04/19
 また、外交の秘事であるので記録されていないが、永年西域都護班超に反抗し続けていた貴霜国/大月氏に対抗して、同盟する提言を成したものと推定されるのである。大月氏は、西域変遷の果てに、貴霜国に寄宿したとき、西方の安息国に対して、掠奪行を仕掛け、騎馬兵団の威力で、国王親征の国軍を壊滅させて、安息国の財宝を奪ったのである。

 「この事態に応じて、隣接する波斯(ペルシャ)軍を含め、パルティア全土から大軍が駆けつけたため、大月氏の侵略軍は大破され、パルティア軍は、貴霜国を大破して、領土を奪い、財宝を回復した」事件があったから、以後、メルブに二万の大軍を常駐していたのであり、後漢西域都護としては、両国が同盟すれば、大月氏を大破することができると構想したのであるが、パルティア王の許可が下りなかったようである。何しろ、西方では、シリアに4万の常駐軍を置いて圧力を掛けていたローマ帝国の大軍は、共和制末期のクラッスス敗死、一万人捕虜の東方国境転送という大敗の報復を100年越しに画策していて、東方で戦を起こす余裕はなかったと見えるのである。

 後年のことであるが、「西方の大敵ローマ帝国は、北方のアルメニアを陥落させた上で、未曽有の大軍と強力な攻城兵器を動員して王都を包囲攻撃し陥落させて世界最大級の財宝を奪った」ことから、大国パルティアは崩壊し、ペルシャの地から興ったササン朝が全土を制覇したのである。

 さらに後日談であるが、ササン朝帝国は、大挙東進して、大国貴霜国を滅ぼしてしまったから、後漢西域都督の撤退後に、宿願の大月氏打倒が実現したのであるが、曹魏、西晋には、その情勢好転を利用する国力はなかったのである。

*笵曄の誤報~幻想の始まり
 そもそも、范曄「後漢書」では、漢使は武帝代に安息国まで到着したが、大海対岸の海西條支国すら尋ねてないとの見解であるが、それはひとつの認識としても、数千里彼方のパルティア王都、さらには、その彼方まで行ったとの誤解は、なぜなのだろうか。

 現代人の眼で見ても、安息国東部辺境メルブの西域は、北に延びた「大海」カスピ海とその西岸、「海西」と呼ばれた條支(アルメニア)止まりである。

 後漢書の西域世界像を描いた笵曄は、一旦、小安息の隣国で大海裏海の海西として知られていた條支(アルメニア)の世界観を描きながら、なぜか、数千里に及ぶ大安息国の隣国として、途方もない遠国の條支(ローマ属領シリア)と西海(地中海)の幻像を見てしまったのではないだろうか。
 さながら、砂漠の果ての蜃気楼に甘英の道の果てを見たようである。笵曄は、後漢書西域伝の名を借りて、事実に反する一大ファンタジーを描いたのだが、以後、今日に至るまで、不朽の傑作として信奉されているのである。

 お陰で、西方世界では、この時、後漢の最西端がローマ帝国に接触したとの「神話」が創造され、後漢書の「大秦」(莉軒)なる流亡の小国が、パルティアにとって、西方の侵略者にして貪欲な宿敵(ローマ帝国)と混同されてしまっているのである。どこかで聞いたような話と感じられたら、それは、空耳であるから、慷慨しない方が無難である。


*甘英英傑談~孤独な私見
 以上は、世界の定説に背く孤独な令和新説だから、往年80年代のNHKの番組制作者が知らなくて当然だが、取材班が、後漢人甘英の足跡を辿っているように感じたとき、一切記録がないことに感慨はなかったのかと思うだけである。そして、新規制作の同番組でも、一向に、誤謬に近い世界観が是正されていないのは、まことに残念なのである。

 甘英は、漢武帝代に交渉がありながら、長年、接触が絶えていた西方万里の大国安息国との交流を再現した功労者なのである。
 当ブログ筆者は、甘英の偉業を笵曄が創作で練り固めたために、貴霜国を撲滅すべく安息国との盟約を提言した甘英の偉業が正当に評価されないことに不満で、ここに書き遺すものである。

〇まとめ
 言うまでもなく、当シリーズは、NHKの不朽の偉業であり、以上は、それこそ、天上の満月を取ってこいと命ずるものだが、僭越にも不満を記したのである。

*参考書
 塩野七生 「ローマ人の物語」 三頭政治、カエサル、アウグストゥス、そして ネロ
 司馬遷 史記「大宛伝」、班固 漢書「西域伝」、范曄 後漢書「西域伝」、魚豢「西戎伝」(陳寿「三国志」魏志 裴松之補追)、袁宏「後漢紀」
 白鳥庫吉 全集「西域」

*追記 2025/04/27
 今般の再放送で確認したのだが、NHKの時代/地理認識は大きくずれていて、甘英一行の安息訪問が長安を発していたとしていて、残念な早合点である。実際は、後漢西域都護は、西域の入口の亀茲(クチャ)に「幕府」を開いていたのであり、また、当時の帝都は洛陽であった。制作者は、後世唐代の事情と混同していたようであるが、つまらない誤解を後世に伝えたのは、勿体ないところである。

 既に書いたように、甘英が派遣されたのは、カスピ海東岸、オアシス都市のMervであり、安息国との旧交を温めただけで引き返しているので、カスピ海すら渡っていないのである。大秦は、風の噂に聞いただけであり、既に書いたように、西方の蛮族「ローマ」などとんでもない話である。

 NHK取材班は、悪戦苦闘して地中海岸に出たのであるが、二千年近い過去の甘英がどのようにして、異境を踏破したと見たのか、興味深いところである。もちろん、パルティアの時代には、東西を結ぶ街道が整備されていたから、ラクダの厄介になどならなかったと思う。
 現代は、イランの治安体制に阻まれて、難儀としたのかと思うのである。

 ついでに言うと、隊商が東西を繋いだのは、モンゴルが東西交通を阻んでいたオアシス都市を均して、モンゴル可汗の許可があれば、途中で過大な関税を払わず、略奪されずに往き来できるように秩序を確立したからであり、ベネチア商人が、元の大都に乗り込んで、皇帝と条件交渉できるようになったものである。甘英の時代から、一千年はたっていたのである。

                                以上

2025年4月15日 (火)

新・私の本棚 ブログ記事 邪馬台国: 新古代史の散歩道 1/2

邪馬台国: 新古代史の散歩道          2024/12/31
私の見方 ☆☆☆☆☆ 文献学逸脱 遺跡遺物考古学の余芸か  2025/04/15

近畿説の課題
坂靖(2021、p.44)は近畿説の課題として、(1)纏向遺跡の規模が北部九州、大阪湾岸の規模と比較して小さいこと、(2)楽浪系土器が纏向遺跡から出土していないこと、の2つを挙げた。
しかし、1点目について寺澤薫(2024)は出現期の纏向遺跡…は…同時期の池上曽根遺跡(大阪湾岸)、板付遺跡(北部九州、…)に比べて大きい…

 纏向に環濠も隔壁も無かったということか。ないものとあるものの比較は不可解である。

2点目は楽浪系土器の出土の有無が…判定要因ではない…公孫氏が支配してる間は献使していない…公孫氏とは良好な関係を築いていなかった…

「238年に魏が公孫氏を滅ぼしたその翌年」とは、不確かな一説に過ぎない。
公孫氏の支配時、献使していないとしても「関係」がないとは不可解である。

邪馬台国の方角
…近畿説の…欠点は「方角」である、…中国の地理感…とみられる。渡邊義浩…は「…邪馬台国は会稽郡東冶県の東方海上…」…原因を2つ挙げる。…
次に…政治的な理由が考えられ…る。…陳壽が『三国志』を執筆するときの種本…『魏略』より倭国に南方的な要素を追加している。呉に対抗できる南の国として…人口、距離、方角は操作されている…。『魏志倭人伝』から邪馬台国の位置を定めることは不可能…

 胡散臭い根拠は無用である。「二つの課題」に「唯一の欠点」は不可解である。

 古地図に東冶はあるのか。南宋刊本に会稽東冶はない。会稽は三国魏管轄外で、陳寿が魏志に書くはずがない。初歩である。(Elementary)「政治的事情」臆測は不可解。陳壽(正字体)は晋の家臣である。西晋は、降服東呉献呈呉書で、「倭国」と接触がないと確認した。倭人伝にない人口は、「操作」しようがない。史書編纂は、知識人が多数参加し、不法な操作など有り得ない。
「倭国」が東呉に対抗するなど、孤高の概念で不可解である。

邪馬台国に致る距離
…邪馬台国までの距離を帯方郡から万二千余里と書く。…これは大月氏国…との釣り合いで等距離に観念的に位置付けられたものである(渡邊義浩…)。
大月氏「親魏大月氏王」と卑弥呼「親魏倭王」…万二千余里は… 観念的な数字である …『礼記』王政編の王政九州から『周礼』の方万里の…中心に王畿…(5)衛服の外側に夷狄…九服が定められ…た。(6)以下が夷狄…外側に荒域がある。郡から狗邪まで…は(5)衛服…。… 不弥から投馬を「水行二十日」、投馬から邪馬台を「水行二十日陸行一月」合計万二千余里とした。…

 渡邉氏は西域大月氏談議で岡田英弘氏に追随した。不明の「『礼記』王政編」で不弥距離を端折り、「礼記」次第で郡管内の狗邪を七千里衛服、以降、道里に日数継ぎ接ぎは不可解で、結論がない。「致る距離」は新語で「合計」は仮説に過ぎない。

纏向遺跡の土器の集積    鉄器の出土
 遺物談議は、当方の圏外なので、口を挟まない。

九州説の課題
大塚初重は「九州説の…弱点は、…卑弥呼の墓の候補は…見当たらない…」…渡邊義浩は、「…北部九州の弥生遺跡の優位性が、3世紀に…失われる」…。

 要するに、現在では、何の課題もないということである。

国制(刺吏と司隷校慰部)
当時の中国の国制では、中央に司隷校慰部を設置し地方に刺吏を置く。…。渡邊義浩は文意解釈から邪馬台国は九州にはない…とする。

 誤字に続く引用文は、紹凞本「検察」脱字を反映しているが、紹興本依拠ではなかったのか。「首都」は曹魏洛陽であり、蕃夷「中央」共々、不敬罪である。

                                未完

新・私の本棚 ブログ記事 邪馬台国: 新古代史の散歩道 2/2

邪馬台国: 新古代史の散歩道          2024/12/31
私の見方 ☆☆☆☆☆ 文献学逸脱 遺跡遺物考古学の余芸か  2025/04/15

放射説と短里説
九州説の距離の克服解消法として、放射説と短里説とがある。

 「九州説」は、確固たる幾つかの本格的な提言に、ヤジ馬のてんでんバラバラの放言が、山ほどぶらさがって混乱している。誤解、勘違い、大間違いを重ねていて、かくも明快に診断したとは、信じられない。神がかりであろうか。

放射説
…榎一雄が提唱した…伊都国を起点としてそれ以後の国々への行路…とする。…以後…放射状…は、…なぜ…伊都国まで戻るのか…説明…できない。…

 「新古子」は、ご自分が読替え依存症で他人も同病とみたのか。
 克服を解消したら元の木阿弥である。「なぜ…できない」は誤解に根ざした愚問である。要するに、明解な行程が理解ができないのは、勉強不足である。

短里説
…一里は414m…古田武彦は魏志倭人伝の里程記事は…1里が約 76~77mの「短離説」を唱える。…詳しくは「短里説」の項を参照…

 当「短里説」項に成り立たないと書かれていない。不出来な付け回しである。

女王国と邪馬台国は同一か
… 翰苑が引用する『魏略』逸文では伊都国の後に、「其の国王は皆女王に属する(…)」…オリジナルの『三国志』は…伊都国、末盧国、伊都国の全部が女王に従うと書かれていた…女王国と邪馬台国は同一である…

 世上「オリジナル三国志」は今どきの歴史と見える。「王」は、対海、一大、末羅、伊都で女王国は算えない。名解釈は、沢山である。共立以前女王国はなかった。「邪馬壹国」は女王之居処で、戸数は書かれていない。
 女王国と邪馬台国が同一とは、これまた神がかりで、根拠不明である。

邪馬台国か邪馬一国か
古田武彦は…「邪馬一(壹)国」が正しいと主張する…確かに魏志倭人伝に「南至邪馬壹國 女王之所都」と書かれている。理由を次の様にまとめている…。

これに対して山尾幸久は「邪馬臺国(邪馬台国)」の表記が正しい…

1.「邪馬壹国」は11世紀初頭の北宋版で誤刻された表記である。
2.…10世紀末までに執筆された諸本がすべて邪馬臺国となっている。
(3.は、欠落)
4. 1983年に成立した『太平御覧』が引用する『魏志』でも臺となっている。

5. 『三国志』の最古の版本は紹興年間…(南宋本)…

…10世紀末までに執筆された諸本には、…『後漢書』、…『梁書』…がある。…『三国志』の南宋本より古い版本がすべて「臺」(台)…、南宋本が印刷時に間違ったと考える方が合理的である。…


 類書所引は信頼できない。太平御覧は南宋刊本である。
 宮内庁書陵局所蔵紹凞本は紹興本より上質とされる。「諸本」現存刊本は、いずれも南宋刊本依拠である。木版印刷は、試し刷りを校正する。
 山尾氏は北宋刊本時誤刻と断定している。何も知らないくせに、御両所著作と拾い食いの巷間風評で判断するとは、いい度胸である。

里程と距離、遺跡の検討
…行程記事…各国を否定するにはそれぞれ3世紀代の遺跡と対応させる…

 行程を三度都度言い変える位だから、百年経っても解決しない。職と食が保証されるからいいのか。それにしても、三世紀代「全候補地を否定」とはいい度胸である。なぜ、三世紀なのか。神がかりである。

比定集落遺跡と王墓 表略

 なぜ、各国を否定する のにぶら下げて、邪馬臺国纏向遺跡説を否定するのか。南畝氏は、命が惜しくないのか。

参考文献  問題山積 参照箇所不明多発。
1.鳥越慶三郎(2020)『倭人倭国伝全釈』KADOKAWAM 所在不明。
 鳥越憲三郎氏には「倭人・倭国伝全釈 東アジアのなかの古代日本」がある。

4.古田武彦(2014)「筑後国の風土記にみえる荒ぶる神をおさめた女王か?」歴史読本、KADOKAWA
 所在不明。【ここまでわかった! 卑弥呼の正体 (新人物文庫) 文庫 – 2014/10/9『歴史読本』編集部 (編集) KADOKAWA/中経出版】のことか。

5.古田武彦・谷本茂(1994)は『古代史のゆがみを正す』新泉社
 意味不明

6.古田武彦(1992)『「邪馬台国」はなかった』朝日新聞
    所在不明。

7.古田武彦(1977)「邪馬台国九州説10の知識」『歴史読本』新人物往来社
 所在不明。

10.石原道博編訳(1985)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝: 中国正史日本伝 1』岩波書店
 2と10は齟齬していないのだろうか

14.渡邊義浩(2012)『魏志倭人伝の謎を解く』中央公論新社>
 南畝氏は安本美典嫌いか。古田武彦4件の偏愛は肩身が狭いのではないか。

◯まとめ
 率直なところ、「新古子」の名目でも、初級者寄せ書きでなく、御大南畝氏の著作と見られる。誤字、誤記、錯簡放置は別儀としても、肝心の論考の構文がつぎはぎで、大局的な主張が見られない(不合理)のは、「新古代史の散歩道」の遺跡・遺物学殿堂としての名声を地に墜とすものではないかと危惧する。
                                以上

2025年4月11日 (金)

新・私の本棚 安本 美典 「卑弥呼の墓はすでに発掘されている!?」 1/2

●福岡県平原王墓に注目せよ● 季刊「邪馬台国」第129号  梓書院  2016年5月
私の見方 ★★★★☆ 広汎堅実な老舗の見識 細瑾確認 2025/04/11, 05/02

◯はじめに
 本稿は、「邪馬台国全国大会in福岡」特集号の基幹記事であり、卑弥呼の墓の候補である平原王墓論の講義録の中心部に対する論議です。

クリアしなければならない諸問題
 平たく言うと、以下の4「問題」(Question)に対して、悉く解答(Answer)を提出して、総合的に審査し、適否を判定すべきとの趣旨と思われます。古代史学に確固たる令名を有する安本氏の意見を拝聴するもので、野次馬の気まぐれではありません。
 本件は、平原王墓審査であるが、当然、全候補への「問題」である。当ブログの好みで、10文字程度の小見出しとしています。お目汚しまで。
 1 造営年代考証    2 径百歩の検証   「徇葬」百余人の検証   位置比定の検証

 安本氏の論議の原点は陳寿「三国志」魏志「倭人伝」であり、氏は、「邪馬台国」とし、朝倉比定を持論としていることを、承知しておく必要があります。誤解されると困るのですが、べつに、当方の愚考に承服せよと言っているのではないのです。念のため。

1.造営年代考証
 安本氏は、「倭人伝」にある「卑弥呼」の死は、西暦(CE)表示で、247ないし248との判断であり、当方は、これに異を唱えるものではありません。
 安本氏は、考古学権威森浩一氏の見解として、『遺跡考古の見地から、特定「古墳」の造営年代の考証では、古墳自体と出土遺物には、年代を確定する文字資料が同時に出土していない以上、同一地域の他の古墳であれば、相互の関連から、造営問題を考証することになるが、年代の特定では、ある程度の「誤差」、許容範囲を伴うべきである』との主旨紹介であり、記事中の長文引用は、安本氏が遵守される「文脈」重視の堅持とみえます。
 安本氏は、考古学考証により、平原王墓の造営年代は、「倭人伝」から想到される「卑弥呼の歿年」と重なる可能性は十分にあるので、本項によって、欠格とされないという判断と見えます。

2.径百歩の検証
 安本氏は、本項では、考古学的な発掘成果はもとより、国内史料「延喜式」に記載された天皇墓陵の「町」単位「矩形域」記録を複数考証しています。
*第一推定
 「第一推定」では、「倭人伝」の「径百歩」は径150㍍程度の領域と見ています。この点については、異議を保留し、論議は後述します。

*第二推定
 「第二推定」では、「径百歩」を墳墓の外形でなく墓域を示すとしています。
 文武天皇夫人の陵墓の天皇陵と趣(おもむき)の異なった表記紹介ですが、お話はそこまでです。
 安本氏は、卑弥呼の「親魏倭王」号について、漢代以来の中国制度、漢制の「王」とされているように見えますが、早計と思われます。蕃夷「王」が、漢制「王」と同等でないのは確かです。ただし卑弥呼「冢」が、漢制によると見ること自体は可能とされているように見えます。

 安本氏は、慎重に、「倭人伝」先行記事の大人「冢」が、単に「封土」であり、高塚などで無いとされています。当座の議論の収束として妥当です。

 安本氏は、平原王墓は、卑弥呼の「冢」を外れていないという結論です。

*「第一推定」への異議
 安本氏は、「冢」の漢制にもとづくと 判定される「歩」表記に対して、後年の「延喜式」が、漢制と全く別体系の「町」表記である点を、特段考慮されていないと見えます。
 安本氏は、「倭人伝」から数世紀後世と見られる国内史書に関して、広く、堅実に渉猟された上の提言であり、「延喜式」論議は謹んで拝聴します。
                               未完

新・私の本棚 安本 美典 「卑弥呼の墓はすでに発掘されている!?」 2/2

●福岡県平原王墓に注目せよ● 季刊「邪馬台国」第129号  梓書院  2016年5月
私の見方 ★★★★☆ 広汎堅実な老舗の見識 細瑾確認 2025/04/11, 05/02

*中国史書の世界観
 以下述べるのは、「倭人伝」は、三世紀中原人の編纂した公式史書であり、解釈に際しては、編纂した史官である陳寿の見識による斟酌が優先するとの趣旨です。つまり、陳寿が教育、訓練を受けた基礎教養を理解することが前提と見えるのですが、いかがでしょうか。
 曹魏臣従の「邪馬台国」の「冢」は、漢制律令の中国里制、度量衡、戸籍/地籍制度に従うのに対して、「延喜式」は、日本律令に従う点に議論が生じます。
 端的に言うと、臣従蕃夷は漢制律令に従い、独自律令制定施行は厳重に禁止されていました。蕃夷律令が制定されるとすると、そこでは、必然的に、天子は蕃王であり、それは「天子」にたいする大逆となるからです。
 すなわち、後世国内史料である「延喜式」に記録された天皇陵は、漢制に従った尺度に従っていないので、漢制で記録されている卑弥呼の「冢」に類推することは論外です。かりに、造営の際に漢制に基づいたとしても、そのような文書記録はないので、記録されたのは漢制に基づく測量でないことは明らかです。ちなみに、円丘の盛土の直径を測量するのは、実際上不可能であるので、記録されたのは、墳丘の直径でなく墓域の外形を残すものと見えます。ついでながら、漢制で、円丘は頂部で拝天する、祭礼のためのものであり、埋葬するための墳丘でないと見えます。中国では、貴人の墓所は、死者の世界である黄泉、つまり、地下に穿つものであり、地上に盛り土して埋めるものではないのです。
 もちろん、祭礼の場である円丘に、葬礼の場である方丘を連結する造墓は、法外です。
 あわせて、天皇陵が漢制に基づくものではないとする傍証です。

*漢制「径百歩」の考証
 して見ると、「径百歩」真意は、漢制造墓の基礎となる「算数」理解なしに知ることはできません。 端的に言うと、「径百歩」が墓域広さ/面積表示とすれば、自動的に「方百歩」、辺十歩、六十尺領域の面積表示です。官人に必須の基礎教養ですから、「方…歩」と面積表示を明示しなくても「冢」記事文脈から自明であり、さらに、「径」を頭書して「冢」が円形であると、史官及び史書読者に対して明確に示唆したと見えます。
 明確な示唆は、明示に等しいものです。史官は、一字一句疎かにしないのは明らかです。
 この際、「九章算術」の面積「歩」(ぶ)を、ご一考いただきたいものです。

*従来候補の一括欠格
 とはいえ、この解釈に従うと、卑弥呼の墓と比定されている各地の候補墳墓が、軒並み欠格となるので、大利に反するとして黙殺されるでしょうが、理論的に考慮いただけるものとして、あえて、安本美典氏に異を唱えるものです。

3.「徇葬」百余人の検証
 安本氏は、「徇」が「殉」と同義であるとしているので異議を提起します。

*「徇」の字義
 「徇葬」の「徇」は、部首から「行く」「行う」の意義であり、卑弥呼「冢」造営に尽力したと見るのが順当です。先に示したように、縦横十歩、15㍍の墓域の陵墓造営は、百人程度の専従で十分と見るものです。

*殉死、殉葬考察
 かたや、「倭人伝」にない「殉死」は、東夷伝で蛮習とされますが、「倭人」は礼節を知るものとして格別なので、「親魏倭王」の葬礼で蛮習を行ったとするのは筆誅に近いものであり、「倭人伝」の文脈に沿わないものです。
 ただし、「殉死」ならぬ「殉葬」は、「徇葬」と類義の葬礼の一環とすれば穏当と見えます。それにしても、無教養な読み替え、書き換えが蔓延して居るのは、何とも、勿体ないことです。
 是非、ご一考賜りたいと、伏して懇願するものです。

4.位置比定の検証
 本項は、当ブログの圏外であり、何も異論を唱えるものではありません。

◯最終結論
 当ブログ筆者の意見では、平原王墓は、卑弥呼「冢」の寸法十倍、面積百倍、用土千倍の隔絶規模ですので、この一点だけで不適格と断定できます。

◯まとめ
 以上、安本氏に対して、敢然と異を唱えるために、断定的な文飾が見られますが、もちろん、無礼を覚悟でご賢察を仰いでいるものです。
 同誌巻頭の「時事古論」第3回「卑弥呼の宮殿はどこにあったか」は、縦横広汎の論議であり、多々異論があるので、手に負えていないのです。決して、黙殺しているのではありません。
 なお、本項の参考史料は、既知のものであり、逐一言及すると随想が膨張することもあり、また、大半が衆知公知のものなので、ここからは割愛しています。機会があれば、「論文」なみに表記したいと考えます。

                                以上

2025年4月10日 (木)

新・私の本棚 河村 哲夫 講座【西日本古代通史】「邪馬台国論争のいま」Ⅰ 壹臺 1/2 更新

アイ&カルチャ天神 講座【西日本古代通史】資料 平成26年8月5日
私の見立て ★★★★☆ 沈着な論評 2020/09/22 補記 2022/08/29 2024/04/04, 07/05 2025/04/10

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇はじめに
 今般、若干の事情があって、河村氏の講演資料を(有償にて)提供戴いたので、ほかならぬ学恩に報いるために、以下、冒頭部分の批判を試みたものです。
 案ずるに、氏の本領は国内古代史分野にあり、以下引用する中国史料文献考証は、第三者著作から採り入れたものと思われますが、素人目にも、検証不十分な原資料を、十分批判せずに採り入れていると見えるので、氏の令名を穢すことがないよう、敢えて、苦言を呈するものです。
 なお、当部分は、氏の講演全二十四回のごく一部に過ぎない瑕瑾なので、軽く見ていただいて結構です。
 また、仮に「邪馬臺国」が、実は、「邪馬壹国」を後漢書が誤解したものが引き継がれたものであったとしても、氏の講演、著作の全貌を些かも毀傷するものではないことは、ご理解いただけるものと考えます。あくまで、学術的な論証手法の瑕瑾を指摘しているだけです。
 以下、役儀に従って、言葉を改めるのを御容赦いただきたい。

〇「邪馬台国か邪馬壱国か」
第9回『魏志倭人伝』を読む ①倭の国々 1、『魏志倭人伝』  ⑴邪馬台国か邪馬壱国か
①「邪馬台国」ではなく「邪馬壱国」が正しいとする説がある(古田武彦氏)

コメント これは古田氏の説でなく、「三国志」現存史料は、全て「邪馬壹国」(壱)との客観的事実を述べている。この「客観的事実」を否定して「邪馬台国」とする強固な論証は皆無である。原点の取り違えと見える。
 ちなみに、字形の混同を言うのに、略字を使うのは、もったいないものである。
 もちろん、一般向けの講演演題の用字は、制限があるのは理解しているが、ことは、歴史的文書の取り違いに関する学術的な論義であり、いずれか、初期の段階で、正字を提起して、以後正字で論議するのが、講演者の務めと見える。
 例えば、古代史書に「邪馬台国」(やまたいこく)は、皆無であり、あるのは「邪馬臺国」(やまだいこく)及びその誤伝と見える、似た形の文字である。

引用 ・現存する最古の南宋(一一二七~一二七九)時代の『三国志』のテキストには「邪馬壱国」と記されている。
※陳寿が3世紀末頃に著した『魏志倭人伝』の原本そのものは失われている。

コメント 古代史書の残存原本は、例外無しに皆無である。取り立てて言う事ではない。
 ちなみに、「魏志倭人伝」は、陳寿「三国志」魏志第三十巻なる史書の巻末に近い一部分に過ぎないので、「原本」などと言い募るのは、失当である。

引用 ②その他の文献
『魏略』の逸文、『梁書』『北史』『翰苑』『太平御覧』などには、「邪馬台国」と記されている。

コメント 既に述べたようにこれら文献に書かれているのは「邪馬台国」ではない。氏ほどの権威が、誤解に加担するのは、勿体ないことである。
 特定されていない、一般論としての「魏略の佚文」は、氏の指摘の通り、原本でも正統な写本でもない。他方、魚豢「魏略」の佚文を所引したと実見できる太宰府天満宮所蔵の「翰苑」残簡は、史書でなく、明らかな誤写/誤記山積の「断簡」、破損した資料断片であり、参照できる善本が存在しないから、正確なテキストであるかどうか検証できず、したがって、文献として信じることができない。
 これまで、翰苑「偽書」論は提起されていないが、中国では、文書名のみで、刊本が亡失した古典書を、偽って覆刊し、虚名を博することほ測るのが絶えない。いずれかの「書家」が、美術資料として想定復原した可能性も考えられるほどであるが、「翰苑」断簡に対する史料批判は、どこまで行われているのだろうか。素人は、ものを知らないので、素朴な疑問を禁じ得ないのである。
 少なくとも、「翰苑」所引「魏略」佚文を史料として評価するためには、文書校正によってあり得るテキストを復原した上で、「所引」史料として論ずるべきである。そこに書かれていると見える「魏略」佚文は、別系統史料と較正して、正確な原文を確認することができない。

 どちらの見地から判断しても、「翰苑」断簡所引「魏略」は、文献史料(Text)としては、考慮に値しないごみ(ジャンク)である。ジャンク史料に書かれていると見えるテキストは、棄却されるものである。

 「太平御覧」は、類書と呼ばれる「百科全書」であり、史書としての厳密な編纂がされていない。従って、低質の「史料」と言わざるを得ない。時代考証によれば、南北朝の分裂時代を統一した世界帝国「大唐」が滅亡したあとの「五代十国」の分裂期に、中国の後継を自負した王朝が、大唐分裂後に散乱した重要資料の集成を図ったものであり、数度の集成の果てに、全国統一を再現した宋(北宋)が、「太平御覧」として完成形としたものであるから、いずれの時代にどのような編集が成されたか不明の場合は、確たる信頼を置くことはできない。端的に言うと、「太平御覧」が所引した「資料断片」は、当時のどのような継承されていたか不明の「正史」の断片でなく、いずれかの時代に所引された「資料断片」の所引であると思われるから、所引の正確さは、問うべきものであって、問うすべがないと思える。
 結論として、「御覽所引魏志」は、「魏志」の正確な引用とみるのが困難と見える。(信用できないという趣旨である)

 「梁書」、「北史」は、公式史書と見なされているが、対象としている時代/王朝(群)の公文書に依拠した史書ではなく、不確かな後世多重孫引きによる編纂と思われ、信ずるに足りない。少なくとも、厳密な史料批判によって、史料としての信頼性を検証した上で、俎上に列するべきである。

 考慮に足る後世史書は、先行する諸家後漢書に依拠した笵曄「後漢書」本紀、列伝部、「本体部」である。但し、「東夷列伝」倭条は、依拠した原史料が不明であり、「本体部」と同列に見ることはできない。
 笵曄「後漢書」「西域伝」は、確たる史料が想定できる安息国、及びそれより以西の辺境に関して、造作を行っていることが明瞭であり、それ以外の「本体部」と同等の信頼を置くことができないものと思われる。

※これらはいずれも現存する南宋時代の『三国志』よりも成立が古い。

コメント 「三国志」は、「南宋時代」の新規著作ではなく三世紀に編纂された史書であり、どの参考資料よりも「成立」が古い。

 各資料/史料の現存刊本は、いずれも、南宋以降のものである。概して、南宋紹興年間に開始された古典書復刻大事業で、順次全面的な校訂、版刻を行ったのであり、言わば「同期生」である。
 その時点で絶滅していた「翰苑」は、例外で、由来不明の原本は疾うに消失していて、唯一、ただ一個だけの「断簡」が混乱した状態で生存しただけである。
 このあたり、苦し紛れの理屈づけが混乱して、誰かが、何か、素人臭い勘違いをしたようである。そして、言いだした以上、頑強に固執しているように見受けられる。
 そのような他愛ない勘違いを、無批判に継承していては、見識を疑われるだけである。

③したがって南宋時代の『三国志』が、台を壱と誤植してしまった可能性が高い

コメント 南宋時代の『三国志』 、つまり、「三国志」の南宋刊本は、ページごとに木版を彫っていて、活字植字ではないので、「誤植」つまり、近現代の出版産業における活版職人の活字拾い間違いは、原理的/物理的にあり得ない。もちろん、「三国志」に人格はなく、自分で自分を植字することもない。「頭上注意」である。
 なお、活字の所蔵棚配列は、漢字部首によって分類配置であったと見るべきであり、「臺」「壹 」は、別部首に分類されるものであるから、ますます混同されることは、たいへん考えにくいのである。河村氏が、どの程度、活字印刷に通じているか不明なので、敢えて、細々と提起したものであり、「釈迦に説法」であれば、御容赦いただきたい。ここで言いたいのは、講演の聴衆に、一見して異なると判別できる漢字が混同されたと誤解を与えたのではないかという懸念である。

 二種刊本のうち、「紹興本」は、南宋草創期の紹興年間に、天下最高の衆知を集めて、北宋末の大動乱で全滅した北宋刊本を『刊本から起こされた数種の良質の写本』をもとに復元して、言わば、決定版と言える「本」を確定し、南宋の官営印刷工房を駆使して刊行したものである。

 後続の「紹凞本」は、「紹興本」の刊行にも拘わらず、いずれかに秘蔵されていたより優れた良質写本が、建康の校勘部門に齎され、更に国費を投じて刊刻すべきと判断されて、繁忙していた帝国興亡でなく、当時、復興を遂げていた民間印刷工房を起用したものであり、国費を節減するために、長江の水上運送を支配して巨利を上げていた槽運船主が、多額の献金を投じたものと見える。ために、「坊刻」と軽視されることがあるが、問うべきは、総合的な信頼性であり、「紹凞本」が、「紹興本」と同等以上の文書史料(Text)であることは確実と見える。

*「三国志」の来た道(中) 余談 2025/04/10
 大唐滅亡後の乱世を統一し、「武」に拠らず「文」に依って天下を支配した宋が、国家の威信をかけて、木版印刷冊子として刊行した国宝級の「三国志」は、最早、膨大な巻物でなく、身軽な綴じ本であり、また、少数であっても、帝室蔵書、ないしは、皇帝蔵書として厳重に管理されていたのである。亡国の国難を一部として生き延びなかったところを見ると、大軍を上げて、それこそ、怒濤のごとく、積水の奔流のごとく、侵攻した北方の異民族国家「金」が、いかに、邪悪な宋帝国の国家機構の打破だけでなく、邪悪の根源である「文化」の撲滅を図ったかということでもある。侵入軍は、北宋首都「開封」を始めとする中原諸都の書庫を悉く破壊しただけでなく、官営印刷工房の版木まで破壊し、さらに、当時振興されていた長江流域の民営印刷工房をも、版木もろとも破壊したので、破壊活動に満足した金軍が撤退したときは、膨大な文化遺産は、再版不可能なまで破壊されていたということである。

 南宋刊本事業は、往年の南朝天下において、文化再興を図った南宋が、各地に秘蔵されて破壊を免れた良質の写本を糾合して、往年の帝室蔵書を再興したものであり、正史復興について言えば、大唐の国家事業で結集された最善の写本が、軒並み一度灰塵に帰して、そこから復興した点では、大差ないと言う事である。
 三国志は、蜀漢、東呉の国史を包含していたので、それぞれ、成都、建康で良質の写本が行われていて、南宋刊本に結集されたことから、その際に、良質の善本が、結集され、一堂に会して校勘された上で、南宋刊本の原本として継承されたものと見える。汗牛充棟の大作である司馬遷「史記」、班固「漢書」、笵曄「後漢書」の三史と比較して、「三国志」は、巻数、字数が、格段に少なく、資料集であって無味乾燥の「志」部がないのとあいまって、全巻写本が容易であり、亡国遺民による私的な写本が比較的豊富であったと見える。

 その結果、「三国志」北宋刊本の地方写本は、諸史料と比して善本の質量共に優れているという結果につながり、粗雑な異本の発生が抑制されたものと見える。文書考証学の先生方は、「三国志」に異本が少ないのを、飯のタネにならない、営業妨害だと歎く向きがあるが、ここまで推定したように、歴史事物には、ふしぎな原因はないものである。

*閑話休題
 南宋刊本の木版を彫った刻工は、少なからぬ数の実名が残されていることでわかるように、南宋代の天下最高の専門職人であり、誤刻が露見すれば厳罰に処されるから、伝統に基づき万全を期して厳重に校正したのは当然である。
 以上に示した南宋刊本の際は、大勢の専門家が作成した決定稿をもとに、刻工が正確無比に木版を彫ったのであり、無謀な誤写は、もし、発生したとすれば、北宋刊本以前と見るしかない。ただし、それ以前の写本は、陳寿遺稿/決定稿を写本して西晋皇帝程に上程して嘉納され帝室書庫に収蔵されて以来、時代時代最高の人材を結集して写本を継承したものであり、それら写本は、繰り返し照合して、誤写の発生を極限まで減らしていたものであるから、凡そ、史書の写本継承に於いて、最善のものであったと見られる。

 以上は、総じて、尾崎康 「正史宋元版の研究」(汲古書院 1989)等による個人的感想である。

 巷説は、『三世紀に「三国志」の上程後、誤写が発生した』つまり、『百五十年後の范曄「後漢書」』に見える、晋代原本に記載されていた(と敢えて仮想された)『「邪馬臺国」が、後に「邪馬壹国」に改竄された」という構想のようであるが、以上のように、時代原本の厳格な継承という原則を見る限り、同時代に存在していた善本を駆逐して、新たな原本を設(しつら)えるというのは、国策的、組織的な改竄事業でしか実現し得ないものであり、何ら痕跡をとどめずに遂行することは不可能と考えられる。言うならば、ヤジ馬の勝手な風評でしかないのであるが、根拠の無い風評(groundless rumor)は、いつの時代にも、底層に拡散し続けるもののようである。

 笵曄と同時代の裴松之は、皇帝の命で、当時帝室で所蔵していた「三国志」の校訂と付注に取り組んだのである。
 東晋南遷時の混乱で「三国志」の帝室所蔵原本に不安があったのかも知れないが、まずは、帝室所蔵以外の上質写本をも呼集して、同原本を基準として、克明に校正したと見える。呼集された「上質」写本に、無残な改竄があれば、摘発され、是正されたはずであるが、裴松之は、そのような異常事態を一切述べてない。つまり、南朝劉宋代、「三国志」原本は、ほぼ、完全無欠であったと見るべきである。

引用 ※そもそも「臺」と「壹」は字形が似ている。『魯魚の誤り』という言葉があるが、両者は誤植の起きやすい字といえる。

コメント あくまで、「時代最高の写本が、素人臭い手口で行われ、校正されていなかった」という途方もない「仮定」を力まかせに持ち込んだ「タラレバ」の憶測でしかない。因みに、誤写の可能性が二千分の一であって、「倭人伝」を通じて一字程度であっても、氏が、官制写本工程の綿密さを想定することなく、漠然と「起きやすい」と憶測すれば、それは、神がかりで「起きやすい」のであろうか。
 意見は人によって異なるものであるが、氏は、誰に学んで、この意見を「伝言」板に書き残しているのだろうか。繰り返すが、事は、近代の活版印刷印刷工房の植字工の手違いという「誤植」問題ではない。「現実」に即して判断すべき事項と思われる。

 因みに、正史の写本、刻本は、厳格に実施される国家事業であるから、「誤認されやすい」字は、関係者が、一段と厳重に確認するので、むしろ、誤認は発生しがたい。当然、自明であるが、無視されている事が多い/大半/事実上全て、であるので、念押しするものである。

 但し、「正史」官制写本工程以外の緩やかな写本は、氏が指摘するように誤写は「稀少であっても絶無ではない」から、むしろ、列挙された史料の所引、つまり、抜き書きによる編纂に使用されたものが、「魏志」の正確な写本であったという証拠はない」、つまり、国宝であった「原本」から直接写本/所引する以外、信頼性の低下した通行写本に依存するから、所引された簡牘が編集者の手許に届いた時点で、誤写が発生している可能性は、極めて高いと見るものではないか。

 そのように拙(つたな)い憶測の積層を根拠とした「証拠」に基づいて、現に存在する南宋刊本に現に書かれている文字を否定するのは、相当な検証を経た「証拠」によって支持されない限り、非科学的な恣意に過ぎない。

                                未完

新・私の本棚 河村 哲夫 講座【西日本古代通史】「邪馬台国論争のいま」Ⅰ 壹臺 2/2 更新

アイ&カルチャ天神 講座【西日本古代通史】資料 平成26年8月5日
私の見立て ★★★★☆ 沈着な論評 2020/09/22 補記 2022/08/29 2024/04/04, 07/05 2025/04/10

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

⑴邪馬台国か邪馬壱国か  承前
④「邪馬壱国」と記しているのは、いずれも十二世紀以降の文献ばかり

コメント 「刊本、つまり、木版出版は宋代でありそれ以前は写本継承」であるからと言って「十二世紀以降の文献」と決め付けるのは、理窟が外れていて、見当違いの誤解である。このような子供じみた主張に追従していると、氏の見識が疑われるのである。

⑤「臺(台)」は神聖至高の文字ではない
陳寿の『三国志』にも、牢獄とか、死体置き場といった意味で「臺」の字が使われている。魏から見て敵国に当たる呉の国の君主孫権の父親である孫堅のあざなは「文臺」である。神聖な文字を、死体置き場や敵国の人間の表記に使ってもよいが、未開の友好国に使ってはいけないというルールは見当たらない。

コメント 当時の「ルール」(用語の時代錯誤)は、史書などに一切書き残されていないから、氏の見聞範囲に見当たらなくても不思議はない。
 「三国志」と大雑把に指摘しているが、東呉創業者孫堅を記録しているのは、東呉の史官が書き、陳寿が用語に干渉しなかった「呉書」による「呉志」であり「魏志」ではない。「三国志」では、孫権は、呉主、つまり、地方首長であり、また、地方首長が字を名乗るとき、古典書典籍も含めて、その時点での自身の見識で選んだのであり、「孫堅」存命時には未だ存在しない魏朝が後世定めたと思われる「貴字」を回避する理由はない。何かの勘違いであろう。論拠にならない。
 それ以外の指摘は、文献考証の鉄則に従い、個々の当該文字用例の出現場所と文脈(前後関係)で判断すべきである。(時間と労力を要する作業である)そもそも、二千年後生の無教養の東夷(筆頭は古田武彦氏である)が、西晋史官の教養を、ぞろぞろとあげつらうのは、はなから無謀である。

*「臺」の意義
 「春秋左傳」なる(陳寿を含めた)史官必読の権威典拠によれば、「臺」は、天子の下にぶら下がる十階級の身分の最低格である。「倭人」を未開であるが周礼を知っている格別の蕃夷と密かに敬した陳寿が、その女王の居処に、「邪馬臺」と蔑称の中でも最低の蔑称を呈するはずが無い。少なくとも、周代以来の史官伝統を継承していた魏晋代教養を有する陳寿は、そのような愚を犯さなかったとほぼ断言できるのである。もっとも、「未開の友好国」は、二千年後生の無教養な東夷の時代錯誤の錯覚に過ぎず、当時そのような蕃夷はあり得ない。

 魏は天下唯一の正統政権であって、呉は後漢の臣下でありながら後継政権に背いた「叛賊」に過ぎず、もちろん「国」などではなく、魏と対等の「敵」ではない。
 そのような不法な存在を敵国」と称するのは、古代史学に相応しくないし、「友好国」共々、氏の時代錯誤の世界観の弊害と見える。と言っても、中国古代史史料は、氏の本領ではないので、素人めいた言葉遣いに陥っていると見える。(講演を行うなら、聴衆への責任があるので、誰かにダメ出しして貰うべきではないだろうかと愚考する)

 本項で言うと、確かに、「神聖至高」は、誰が言い出した知らないが、素人目にも、不適当な用語で、しかも、言いすぎであり、また、「三国志」全体で通用するとは言えないし、古田氏も、そのような主張はしていないはずである。
 お互いに、枝葉末節を力んで論議するのは、学問の本筋を外れているように見える。

⑤結論:以上より「邪馬臺国」が正しい。

コメント 各種の主張を列記したが、それぞれ、未検証にとどまり、確たる論証になっていない。飛躍して「以上より」で結論に結びつけるのは、余りに性急で、氏の見識に疑いを投げかけるものであり、勿体ない。

引用 それを現在は簡略文字で「邪馬台国」と表記している。

コメント 「現在」とは、「古代史界」(実態不明)の大勢(実態不明)を言うのだろうが、論証無しで表記している」こと自体は「自明」である。氏は、それが、妥当かどうか検証したかったと思われるが、以下述べるようにそれは不要と思う。ちなみに「簡略文字」は、意味不明の造語とみられる。簡体字、略字などに属するというのは、考え違いである。
 いうまでもないが、「台」は、本来「臺」と別の由来の文字(正体)であり、安直に代用してはならないが、太古以来、しばしば代用されているだけである。「邪馬台国」なる表記は「ヤマト」と発音することを否定しきれないために一部論客に偏愛されているが、あくまでも、王の居城の名称、ないしは、所在地の地名であり、国号は、「倭人」ないしは、「倭」となっている。それにつけても、かりに、国号として名乗ったのであれば「邪馬臺」であり、漢字の発音としては、「ヤマダイ」に近いものとされているのではないだろうか。古来「ヤマト」と発音したという論証は見かけない。論理の綱渡りだが、渡り切った論者はいるのだろうかと、素朴な意見を提示する。
 これは、ご一同の意見を求めているのであって、河村氏に問い返しているのではない。

〇まとめ
 と言う事で、当ブログ筆者は、素人なりの見識と知識を駆使して、河村氏の「邪馬臺國」説を追尾し、反論して時間と労力を費やしたのである。

〇論争停戦の勧め
 古代史分野は、「倭人伝」二千文字の中の壱文字の話題で随分盛り上がるが、ここにあげられているような無意味な根拠で力説するのは、氏の古代史に関する見識に疑念を投げかけるものであり、随分勿体ないと思われる。(俗な言い方をすると、「余計なことを言うと信用をなくす」と言う事であり、下手すると、論争相手の失笑を買うことになりかねない)
 氏ほどの学識であれば、この話題は飛ばして【本講演は「邪馬台国」(略字)で進める】と「宣言」するのが好ましいように思う。「ここだけ宣言」すれば、混沌、無面目の国名論議がなくなるので、聴衆も随分気が楽になる。
 ちなみに、ChatGPTに代表される「聞きかじり」引用手法で摘まみ食いされると、「ここだけ宣言」は、取りこぼされるので、誤解の可能性が高くなる。 

                                以上

新・私の本棚 河村 哲夫 講座【西日本古代通史】「邪馬台国論争のいま」Ⅱ 道里 1/3 更新

アイ&カルチャ天神   資料 平成26年8月5日
私の見立て ★★★★☆ 沈着な道里論評  2020/09/24 補記 2022/08/29 2024/04/04, 07/04, 2025/04/10

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇はじめに
 今般、若干の事情があって、河村氏の講演資料を(有償にて)主催者から提供戴きましたので、学恩に報いるために、以下、部分批判を試みたものです。

 要するに、最近、倭人伝道里議論で、「帯方郡から投馬国への道里が水行二十日と書かれている」という迷解釈が浮上して、提唱者不明、提唱媒体不明の、いわば典型的な「フェイクニュース」が、某古代史ブログで論評されているのに遭遇して、趣旨理解に苦しんで、事の発端を確かめようとしたものであり、事態は未解明です。
 因みに、講演資料は、河村氏が、道里行程論諸説にメスを入れ、短評を賦したもので、全て論議に価する一説とは評価してはいないと見られます。すなわち、氏の論評は概して妥当であり、世に知られることなく埋もれている論考を当ブログで紹介する目的で(適法な)抜粋引用にコメントを付したものです。

 当部分は、氏の講演全二十四回のごく一部に過ぎず、要するに、倭人伝に基づく行程道里談義に限定です。引用の抜粋、要約文責は、当ブログ筆者に帰します。

〇第9回『魏志倭人伝』を読む 倭の国々
2、倭人
⑴倭人がはじめて登場する中国の正史『漢書』地理志、
⑵この文章が書かれた文脈、
⑶『漢書』の注目すべき個所、
⑷『山海経』海内北経、
⑸その他

3.狗邪韓国と倭との関係
4.狗邪韓国から倭国へ
⑴対馬 ⑵壱岐 ⑶末慮国 ⑷伊都国 ⑸奴国
結論:以上の国々については、ほとんどの学者、研究者が一致している。

コメント  「風評」記事の誹りを避けるためには、「ほとんどの学者、研究者が一致している」と主観的な発言を避け、検証可能な項目を明記し、検証すべきです。素人の限られた見聞でも、百花斉放となっているように見受けます。それとも、氏の書卓には、氏自身の論考が積み上げられているだけなのでしょうか。

⑹不弥国
⑺投馬国
①(続いて)南、水行二十日で投馬国に至る。
・水行起点に不弥国と伊都国の両論がある。帯方郡起点説もあるようである。
結論:『魏志倭人伝』だけではその位置を特定することはできない。

コメント この点で、本来、最優先であげられるべき「韓地陸上移動」説に言及していないのは、まことに不用意であり、残念です。
 出所不明で追試できない帯方郡起点説に、この点で言及したのは、余りに不用意に思います。感心しません。
 後記するように、論外の思い付きは、氏の見識で決然と棄却すべきです。

⑻邪馬台国

①(続いて)南、邪馬台国に至る。女王の都するところである。水行十日、陸行一月。

コメント 別の記事で論じているので、重複になりますが、道里記事の根底を定めるものなので、手短に述べます。
 倭人伝は、公式史書「魏志」の一章である「東夷伝」の小伝であり、三世紀に編纂された「魏志」に於いて魏朝皇帝の「首都」は「雒陽」と定義されていて、東夷の蕃王である女王の居処に「都」を冠することはあり得ないのです。つまり、「所都」と句読点付けして、「都する所」と解するのは、どえらい間違いだという事です。
 従って、「都」は、順当に、「都(都合)水行十日、陸行一月」と、総所要日数を記し、道里記事の結末としたと解するべきです。この意見は、中国史書を含む古典書の常識/教養に従うものなのですが、二千年後生の無教養な東夷には、く一部の論者に知られているだけであり、「総選挙」すると大敗するでしょうが、学術論で言うと、「エレガント」な解の端緒としています。

②不弥国までは何里、何里と距離できたものが、投馬国と邪馬台国では突然日数表示になる。これが一つの謎である。

㈠〈伝聞説〉 諸説㈠~㈩は当ブログの追加。「問題点」は、河村氏の表現、短評。
問題点・・『魏志倭人伝』によれば、魏使は長期滞在し邪馬台国の政変に関与した形跡もあり、邪馬台国に行ってないとするのは否定的に解する。

コメント 「否定的」との意見が、出所不明の誤解に巻き込まれていて、感心しません。そもそも、「否定的」とは、このような文脈で使用すべき現代語ではないのです。ちなみに、「長期滞在し邪馬台国の政変に関与した魏使」とは、一体何者なのでしょうか。ご教授賜りたいものです。

㈡〈千三百里=水行二十日+水行十日+陸行一月とする説〉
・のちに帯方郡から邪馬台国まで一万二千(里)との記述がある。郡から不弥国まで七千、千、千、千、五百、百、百と里数を足すと一万七百(里)であり、残りは千三百(里)となる。これが、投馬国水行二十日と邪馬台国水行十日、陸行一月を足した日数に相当する距離になる。
問題点・・日数がかかりすぎる。

コメント 本説は、単なる思い付きに過ぎず、そのような提言は、「提案者」に立証義務が課せられているのであって、氏が、代弁すべきではないと考えます。こじつけを正当化する論義は、時間の無駄です
 「倭人伝」は、三世紀の史官陳寿が、皇帝初め洛陽の読書人に上程し高評を仰ぐべく心血を注いだものなので、解くに解けない判じ物でなく、少考して解に至る手頃な「問題」であり、明快な解の得られない「難問」ではないはずです。

 後日追記すると、氏の「里数」観は、賢明にも、近来蔓延っている算用数字多桁表示、時に、小数点付きの愚は避けられているものの、提示いただいた計算は、桁違い数字混在加算の不合理を見過ごすものであり、一度お考え直しいただきたいものです。

 端的に言うと、書き方を当時の里数観に合わせると、郡から倭まで12(千里)との記述がある。郡から狗邪韓国到着まで7(千里)、以下、対海国まで1(千里)、さらに一大国まで1(千里)、さらに末羅国まで1(千里)と千里単位の里数を足すと10(千里)であり、残りは2(千里)で倭(伊都国)に到着するというものです。
 千里単位の概算において、千里未満の里数は、本来の里数計算外の「わき道」であり計算されないのです。つまり、概算では、簡単な数式/計算式で、等号の左右がピッタリ一致しないこともあるという、不偏の真理なのですが、この点、概数計算の要領を失念された方が、結構多数いらっしゃって、多大な誤解を催しているのです。概数計算は、今日、小学校高学年で教えられているということなので、虚心に再入学していただければ、疑問が氷解するものと信じるものです。

 何れにしろ、これは、計算手段が、算木による一桁加算に限定されていた古代には当然の真理であり、時代相応の算数原理に戻れば、これなら、高貴な読者にも、簡単に検算できるのが、理解できるはずです。
 河村氏は、算用数字多桁表示の小数付きなどと言う時代錯誤を疾うに脱却されているので、あと一歩踏み出していただいて、二千里刻みと見える概算に、五百里、百里、百里の端(はした)の帳尻合わせは無意味と理解いただけるはずです。
 もちろん、概算には、お馴染みのないしは欧米流のが必要ですが、算用数字を常用していると、1000(里)と書いたとき、100X10の1乗 =百[十里]、10x10の2乗=十[百里]、1X10X1の3乗=一[千里]の区別がつきにくいのです。何しろ欧米などの数字には、万も、億も、兆もなく、当然、十万、百万、百万も(以下略)もないのですから、太古以来の中国流位取り前提の数字表記は、なかなか理解されないのです。

 いや、河村氏は、そのような理窟は、当然/自明として踏みこえられているのでしょうが、世間には、小学校算数で習うようなことを、失念している方が、随分多いのです。

 ちなみに、「日数」は、里数と別に「水行十日、陸行一月」、足して四十日と明快であり、曹魏少帝正始初頭、帯方郡官人が先帝曹魏明帝の遺志に従い大量の下賜物を運んだときは、はなから、所用日数を承知であり、経由予定地には、全て、到着予定日を通達し、全員分の食料と宿舎を用意させていたのですから、全て、計画通り、予定通りであり、それを日数がかかりすぎるなどと言う不埒な者は、一切いなかったはずです。いたら、先帝を侮辱する者として死罪です。それとも、現代若者言葉で、「かかりすぎる」は、大変な誉め言葉なのでしょうか。いや、年寄りには住みにくい世の中になっていますね。

                                未完

新・私の本棚 河村 哲夫 講座【西日本古代通史】「邪馬台国論争のいま」Ⅱ 道里 2/3 更新

アイ&カルチャ天神   資料 平成26年8月5日
私の見立て ★★★★☆ 沈着な道里論評 2020/09/24 補記 2022/08/29 2024/04/04, 07/04, 2025/04/10, 05/02

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。  

⑻邪馬台国  承前
㈢〈六百里=水行二十日+水行十日+陸行一月とする説〉

・不弥国までの七百里に対馬と壱岐の一辺四百里と三百里の七百里を加え、残る不弥、投馬、邪馬台の六百里を、水行と陸行2ヵ月かけることになる。
問題点・・さらに日数がかかりすぎる。

コメント 趣旨不明、意味不明です。根拠のない思いつきは、そうそうに門前払いすべきです。
     難点は、日数がかかることではなくて、錯綜した作文のもたらす混乱です。

㈣〈投馬国水行二十日と邪馬台国水行十日陸行一月は別々とする説〉

問題点・・苦肉の策問

コメント また一つの「趣旨不明、意味不明。門前払い 」です。
     難点は、日数がかかることではなくて、錯綜した作文/策問のもたらす混乱です。

㈤〈放射状説〉
・伊都国から先は伊都国を起点にして、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国へ別々の道をたどる「放射式読み方」説。
問題点・・恣意的解釈

コメント 当説は、ほぼ榎一雄氏創唱のようです。論旨明快で、意義ある提言です。(以下の展開で、混乱を招いていますが、引用されている範囲では、明晰な思考を示しています)

 なお、蛮夷伝の道里行程記事で、蕃王王治などの地域中心を終着点/始発点とみて、地域内の行路の扇の要とする「放射状」記述とするのは、班固「漢書」西域伝で前例のある「正史」書法であり、氏は、そのような定則を見過ごしているようです。そのために、榎一雄師という知識、見識に富む識者の意義深い提言を、十分考証することなく等閑に付しているのは、河村氏ほどの学識の持ち主にしては、不審です。

 ついでながら、およそ、あらゆる論考は、すべて、自身の論説を補強する論拠を収集、構築するものであり、いわば、「恣意」の固まりなのです。氏は、「恣意に過ぎる」とおっしゃりたいのでしょうが、「恣意的」となると、肯定的な評価なのか、否定的な評価なのか、意味不明で、読者は困惑するのでは無いでしょうか。もっとも、「恣意過ぎ」というと、現代若者ことばでは絶賛なので、一段と混乱しますが、どうでしょうか。
 まずは、ご自身の所説を姿見に映して、冷静に批判することが、必要と見るものです。

㈥〈選択的道程説〉
・水行なら二十日で、陸行なら一月、所要日数は二十日あるいは一月との説。
問題点・・文法的に問題あり。

コメント また一つの趣旨不明、意味不明。門前払いです。根拠の不確かな文法論議でなく、厳密な時代考証で評価されるべきです。
 ついでながら、伝統的な史学用語では、「問題」は、出題者が提出して、解答を求めているものであり、ここで「問題点」などと声を荒げるのでは、読者は困惑してしきいます。ご自愛ください。


〈一日誤記説〉
・九州説では、陸行一月はかかりすぎだから、一日の間違いだとする。

コメント また一つの趣旨不明、意味不明。門前払いです。とても、学術的な論義とは思えません。「永久追放」ものの失格発言です。

〈方角修正説〉
・畿内説では、日数はあっているが、方角の南は東の間違いだとする。
㈦、㈧ 問題点・・恣意的読み替え

コメント ㈦、㈧ 共に、「単なる勝手な言い逃れであり、棄却すべきである」という点は、同感です。「畿内説」は、ここでは「罵倒」されています。

㈨〈公休説〉
問題点・・公務員的発想

コメント 論外の児戯。「公休日」、「お役所仕事」、「接待漬け」など、論者の妄想、願望、公務員への私怨、偏見が拡大投影されています。公的研究機関の研究者は、基本的に公務員待遇です。つまり、このように、同学の士である研究者の大半を蔑視する見解は、意味もなく敵を作っているものと見えます。
 当然ながら、論議は論理的に行うべきであり、現代人の見当違いの感情論を持ち出すべきではありません。いうまでもなく、魏使/郡使は、監査役/お目付役付きです。曹操規準を見くびってはなりません。できの悪い、すべり放しの漫談ネタでしょうか。

㈩〈虚数説〉
・一万二千里というのは、まったくでたらめな虚数である。
・松本清張は『古代史疑』において、一万二千里は、漠然と遠い地域を指す場合にしばしば用いられた数字で実測ではないとする。その例として、『漢書西域伝』の大宛、烏弋、安息、月氏、康居道里が、「揃って長安から万二千里前後とは、明らかにいいかげんである」と断じている。
問題点・・陳寿は歴史を書こうとしている。

コメント 「まったくでたらめな」「虚数」は、数学の重大な原義を見損なった、まことに粗忽な罵倒です。
 この点が河村氏のご意見なのか、いずれかの風聞であるかは不明ですが、取り敢えず、「でたらめ」が神託であるとの論義は、後述します。
 また、松本清張氏の見解は、多忙を極めた一代の文筆家が、寸暇を惜しんで書きためたものであり、歳月を味方にした古代史学者ではないので、兎角、性急な武断に走ることがままあり、ここでも、数学用語の誤解を持ちだす事により、折角生前/大胆に展開した論議の段取りが、無理になっているようです。単に、帳尻合わせの「虚構」と云えば良かったのです。因みに「虚構」自体は、論議を一般人向けに整形したものであり、「帳尻合わせ」と共に、決して、史学論において、非難されるべきものではないのです。現代政治における「社会悪」を糾弾する執筆姿勢からあふれた熱血表現なのでしょうが、場違いになっているのではないかと懸念されます。

 西域諸国道里は「万二千里」の「規準」に纏わり、例示されている諸国は、現地では、千里と離れてない塩梅の隣国であり、書かれている道里は、西域都護が得た百里単位の里数に即しているのであり、決してデタラメではありません。(筍悦「前漢紀」安息道里は、万二千六百里)
 清張氏の正鵠を得た着眼/発想には、ここでも脱帽しますが、以下の詰めが甘いのは、人気作家として多忙を極めたからでしょうか。補佐役に恵まれず独走したと見られます。陳寿は、計算の合わない「しくじり」は、何としても避けたはずです。

 なお、「問題点」として、河村氏によって物々しくあげられている「陳寿は歴史を書こうとしている」と言うのは、現代用語を真に受けるとすると、誠に至言ですが。何が「問題」なのか、理解に苦しみます。ひょっとして、陳寿に対して、自己流の同時代歴史の著作を創作しようとしたと断罪しているのでしょうか。随分言葉足らずで、特に、「歴史」の意味付けが、軽薄な欧州由来の現代言葉に染まっているのかと疑われます。史官が、「歴史」を創作するなど、論外の暴論です。

 河村氏の意見を推定し、反論すると、陳寿は「規準」を熟知の上で、筋の通る数字を書いたのです。現代人の(欲ボケ)感性で批判してはなりません。魏志編纂を委嘱されていたとは言え、編纂した史書に皇帝以下の読者が納得しないと、解任/解雇で済めばまだしも、果ては、家族ともども「馘首」、刑死なので、全ての記事が真剣勝負です。
 中々、世上の論客に浸透しないので、念押しさせてもらうと、陳寿は、伝統的な史官の規律と基礎教養に従って、史実、すなわち、公文書に明記された公式記録を「倭人伝」の行程道里として集約したものであり、当時の読者は、史官と同等の基礎教養をもって読解し、滑らかに深意を想到したので、「倭人伝」は、後生に継承されたのであり、後世の裴松之も、史官と同等の基礎教養を有していたので、特段の補追を加えなかったのです。まことに、明快な結論と思うのですが、いかがでしょうか。批判するのであれば、下線部を忠実に引用した上で、具体的に反論してほしいものです。

 あるいは、視点を変えてみると、陳寿は、三国志全体を承認してもらうためには、「倭人伝」を、すらすら理解してもらう必要があり、こみ入ったことは排除して、とにかく明快に書き上げたものと見るのです。もちろん、余り明解に書くと、読者のお怒りを買うので、適度の難所を組み込んだでしょうが、それでも、倭人の国内地勢など、書き込んでいないのは間違いないところではないでしょうか。

*「魏志」西域伝談議 余談
 因みに、「魏志」「西域伝」に関する当ブログ筆者の意見は、陳寿は、班固「漢書」西域伝に心服していて、これに付け加えるべき業績がなかったという理由から、「魏志」西域伝を割愛したと見るのです。何しろ、魏代、蜀漢の北伐で、関中平原以西は、魏の支配下になかったので、魏代「西域」は、はなから虚構だったのです。そして、三世紀当時、その点に関して、特段の非難がなかったところから見て、そのような西域観は、時代の読者の支持、ないしは、黙認を得ていたと見るものです。
 また、裴松之は、陳寿の割愛を支持する論拠として、最善の史料である魚豢「西戎伝」を全面的に補追したものと見えるのです。

 この意見は、陳寿が、後世の笵曄「後漢書」の底本となった、同時代の各家「後漢書」を参照していたとの見解/思い込みを、完全に否定するものではありません。むしろ、後漢代後半の霊帝以降の東夷(倭漢濊)事績が、遼東郡太守公孫氏の専横/専断により、後漢公文書にほとんど記録されていなかったことを前提に、「魏志」東夷伝を集成したと見るものです。

*公孫氏の百日天下/萬里七万戸の酔夢 余談 2025/05/02
 公孫氏の専断を弁護すると、霊帝没後の後漢は、皇帝の権威が欠落していて、各地諸侯が自立していたので、公孫氏が、これからは、諸国分立、天子乱立を想定しても無謀では無いと見えるのです。実際は、曹操が台頭して、後漢献帝を引き取り、根拠地としていた許昌を帝都とする帝国復元を行ったため、公孫氏の野心は、束の間の光芒を失ったのですが、それでも、一時、公孫氏は天子気取りで、倭人を天下の東の果て、万二千里の彼方の七万戸の「大国」と見立てたものと見えるのです。

 後漢の東夷管理が健在であった時期の統計として、後漢書郡国志によれば、樂浪郡は、漢武帝が新設したものであり、雒陽東北五千里にあって、十八城,戶六萬一千四百九十二,口二十五萬七千五十と、綿密に、つまり、厖大な労力をかけて、一戸/一口まで集計されています。楽浪郡管内は、朝鮮,烫邯, 浿水,含資,占蟬,遂城,增地,帶方、駟望,海冥,列口,長岑,屯有,昭明,鏤方,提奚,渾彌,樂都と半島中北部の諸縣が列記されていて、それでも、六万余戸なのですから、「倭人」の三十城、七万余戸が、いかに法外か理解できるはずです。
 因みに、この時期の「帯方縣」は、韓、濊、倭を所管していなかったので、後日判明した「倭人」七万余戸は、計上されていなかったのです。

新・私の本棚 河村 哲夫 講座【西日本古代通史】「邪馬台国論争のいま」Ⅱ 道里 3/3 更新

アイ&カルチャ天神   資料 平成26年8月5日
私の見立て ★★★★☆ 沈着な道里論評  2020/09/24 補記 2022/08/29 2024/04/04, 07/04, 2025/04/10

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

「魏志倭人伝」における一里
・漢代の一里はだいたい400㍍。これを帯方郡から邪馬台国までの一万二千里にあてはめると4800㌔㍍。これでは日本列島をはるかに飛び越してしまう。
・「誇張説」・・旅費の過大請求のため。
・「短里説」・・・・中国本土確認できない。
・「地域的短里説」・・『魏志倭人伝』における一里は、おおむね90㍍であり、理由は分からないが、それなりの一貫性を保っている。
結論::『魏志倭人伝』には、正確な部分もそうでない箇所もある。従って、、是々非々で検討するしか道はない。逆に言えば『魏倭人伝』のみで結論は出せない。日本文献や考古学成果など、総合的・多角的なアプローチが必要。

コメント ぞろりと陳列された諸説は、それぞれ、確証の無い一説であり、いわば、「思いつき」に属するものですから、提案者に、重大な立証責任が課せられているのですが、未だ、評価するにたる「立証」は、提示されていないものとみられます。
 先ずは、秦漢魏制の「普通里」は、450㍍程度であり、これは、議論の余地のない史実です。道里記事の後に付された国名列記と狗奴国言及の後の「自郡至女王國萬二千餘里」なる行文を「普通里」と仮定すると、伊都国の至近と解釈される「女王国」が論外の遠隔になるということから、この仮定が「不成立」で有ることは、誰の目にも明らかです。いわゆる「帰謬法」で、即決否定されるべきものです。
 にも拘わらず、陳寿が「倭人伝」に書き留めたのは、そのように書かれた「史実」、つまり「公文書」が魏から晋に承継されていて、史官として、改訂も排除もできなかったことを示しています。そのような背景を確認した上で、以下、提示頂いた論義を、順次検証/評価すべきであると思量します。
 「誇張説」は(正確な)実測値が存在したとの妄想(推定、憶測、願望)に基づいています。
 正確な行程も道里も確認されていない時点ですから、「誇張」などできるはずがないのです。つまり、当提言は過去の遺物と言うべきです。
 「短里」は、魏晋朝で国家制度として実施された証拠が全く存在しないので、無法な強弁です。(里制は、国政の根幹に関わるので、改訂があれば、全国に告知する必要があり、記録に残らないことはあり得ないのです)
 「地域的短里説」は、さらに、魏晋朝国家制度に関する無謀な思いつきであり、文献証拠は存在しません。単なる逃げ口上に過ぎないのです。(当ブログ筆者も、批判をやり過ごす隠れ家にしていましたから、その点に関しては、逃げられないのです)

 後漢献帝建安年間から、曹魏明帝景初年間に到る期間、東夷に対して絶大な権限を有していた遼東郡は、秦始皇帝が、全国制度の一環として創設したものであり、始皇帝が、周制や戦国各国の地方制度を全廃して統一施行した秦律に基づく「法と秩序」の敷かれた堂々たる「郡」であり、原器配布により徹底した「度量衡」制度に始まり、農政の根拠である「歩」(ぶ)を歴て、街道測量の原寸である里制に至るまで換算係数が明示されていて、厳密/厳格に「普通里」制度が施行され維持されていたとみるべきです。(晋書「地理志」などで容易に確認できるように、秦代以来、一歩(ぶ)は、六尺であり、一里は、三百歩であるから、概算値で確認すると、一尺が25㌢㍍であれば、一歩は150㌢㍍、1.5㍍であり、一里は450㍍となります)
 その後、朝鮮国が一時横行しましたが、同国は漢帝国の臣下であり、従って、漢制に基づく「普通里」を敷いていたと見るべきです。ということで、後漢末期に、公孫氏が、勝手に遼東郡太守に就職したとき、楽浪郡が依託されていた半島南部と海南の東夷は、秦漢制「普通里」を敷いていたと見るべきです。楽浪郡が依託されていた所領の南部の荒地を分郡された帯方郡は、当然、秦漢魏の三代を貫いて各帝国の全土に施行されていた「普通里」を敷いていたと見るのであり、にも拘わらず、帯方郡管内に限り、いわゆる「短里」が通用していたと主張するには、確固たる公的文書が必要/不可欠です。
 一歩は、農地測量の面積単位であり、全国各地で運用されていた土地台帳の記事を変更することは不可能なので、事実上、固定されていたのです。「いわゆる短里」を施行するには、一里を、切りの良い五十歩とする必要があり、これは、計算上、75㍍程度となります。しかし、そのように短縮した里を施行すると、全国各地で、槽運(船舶運賃)、陸運(陸送運賃)の区間規定と運賃規定を、里数を六倍にしながら運賃を維持するよう、多大な計算を伴う変換の必要があり、全国各地で厖大な計算業務が発生します。当然、天子の元に報告が届き、公文書記録が発生しますから、当然、史官たる陳寿は「魏志」に収録すべきです。時に論じられるように、単なる一時の権利者である司馬氏の名誉/不名誉を計らって、衆知の記事を割愛するとは思えないのですが、どうでしょうか。
 また、後世、「普通里」回帰の際に晋書に明記されるだけでなく、通典などの記録文書にも、そのような大事件は明記されます。為政者が行った国事は、何らかの形跡を残すのです。
 
 議論を本筋に戻すと、倭人伝」道里行程記事の解釈で確実なのは、『「倭人伝」道里行程記事が、首尾一貫して短里らしき里長で書かれている事を否定できない』だけであり、文献としては「倭人伝」が孤証です。

 なお、「倭人伝」が、同時代の同地域の道里の「唯一の文献記録」ですから、他に信頼できる史料が提示できるはずがありません。現実逃避、先送りは、徒労の繰り返しであり、後世に申し送りするのは「非科学的」で賛同できません。

 既に述べた気がするのですが、過去の「倭人伝」に対する誹謗中傷は、とにかく、「倭人伝」の道里行程記事が、自説、つまり、「奈良方面説」の所在地比定に「大変邪魔」、「百害あって一利なし」の「天敵的存在」なので、陣営として、寄って集(たか)って、根拠薄弱な「異論ごっこ」を繰り広げていて、言うならば、「焦土作戦」、「泥沼作戦」を繰り広げていたものと見えます。
 その「作戦」(campaign)副産物であり、どんな途方も無い比定地であっても、原文を拡大解釈するとか、原文改竄説を言い立てるとかで、混乱を掻き立てていれば、「疑わしくとも否定はできない」との風評を形成しているのです。

 現に、河村氏の論考も、各説を陳列し論評するだけで多大な労力を費やされていて、依然として議論の混乱を維持しているような印象に巻き込まれているのは、勿体ないところです。さらには、多数の暴論を棄却するために、売り言葉に買い言葉とばかり、乱暴な言質を取られています。
 以上の難儀を、解消するには、「倭人伝」を時代考証の原典とし、異議を唱えるためには、提言者が重大な立証責任を課せられているという認識が必要と見るものです。但し、それは、学界の大勢を占めている「泥沼作戦」に真っ向から対峙するので、余程の覚悟が必要なのです。
 当ブログは、微力ながら事態の整頓に挑んでいるのですが、なかなか、耳を貸してもらえないのです。

 ここで一言提言すると、倭人伝」のことは「倭人伝」に聞くしかないのです。つまり、「倭人伝」に「郡から狗邪韓国まで七千里」とする「道里」で書くと明確に宣言されている以上、それ以降は、そのように解すべきなのです。また、文章解釈は、中国古代の史官の意図を理解して進めるものであり、河村氏が後記しているような現代人の思い付きを押しつけるのは、後回しにすべきであると思うのです。

 ちなみに、河村氏の提言されている「日本文献や考古学成果など、総合的・多角的なアプローチが必要 」との指摘は、まことに含蓄の有るものですが、「日本文献」は、三世紀に編纂された「倭人伝」から、遙かに後世に創出された文献であり、また、「考古学成果」は、絶対年代を確定するデータを持たないので文献とは言えず、あくまで、漠たる参考に留めるべきと思量します。くれぐれも、本末転倒の陥穽に陥らないことを祈ります。

5、邪馬台国は何カ国の連合か

コメント 当ブログの圏外。別に30国でも31国でも、道里行程論議には、何の問題もありません。
     議論を攪乱させるので、当分保留にして、後回しにしたいものです。

6、邪馬台国の周辺諸国について
⑴『魏志倭人伝』には、「女王国より以北はその戸数と道里を略載できるが、その余の傍国は遠絶していて詳らかにはできない」として、二十一か国の国名だけを挙げている。

コメント この解釈は、原文の文意を離れて事態を混乱させているので、考えなおしていただきたいものです。
 先ずは、原文を掲示しますが、行文論義は少し後になります。
 自女王國以北其戶數道里可得略載其餘旁國遠絕不可得詳

・再考懇望 
 氏は、有識者であるので、余計な付け足しは不要ですが、一般読者のために念押ししますが、「考えなおしていただきたい」とは、熟考の上、「意見を変えていただきたい」と懇願しているものです。別に、「もう一度同じ事を考えても、意見は変わらない」という回答を求めているのではないのです。
 それはさておき、具体的に言うと、「倭人伝」原文は、当時最高峰の記録者、史官の労作であるので、短文であっても、大変端的な意味がこめられているのであり、当ブログは、世上読み違いが横行しているのを歎いているものです。以下、私見を連ねますが、別に同意いただけなくても、当方に何の「損」もないのです。

 ちなみに、氏の用語は、「周辺」を当該領域の一部とする正統な語義に従っているものですが、世上、「周辺」は領域の外部とする語義を採用している向きも少なからずあるので、ここは、無用の誤解を避ける意味で、用語を変えるのが賢明と感じます。

*「以北」と「余傍」
 「以北」が、女王国を含むか含まないかとする論義は、取り敢えず外しておきます。
 行文解釈の基本が疎かになっている方が多いので、当然自明のことを物々しく述べますが、「女王国より以北」と「その余の傍国」は、伊都国までに登場した諸国を取り上げているのであり、読者が眼にしていない後出する「二十一ヵ国」に触れているものではないのです。
 これで、大部議論が明確になるのです。「泥沼作戦」推進派の方には、さぞかしご不快と思いますが、暫く、お静かに願います。

  「女王国より以北」とは、直前までの行文で、郡を出て以来ほぼ一路南下してきた経路上の諸国について述べているのです。といっても、ここは、「倭人伝」ですから、狗邪韓国以北は、当然除外されます。して見ると、それらの国名は、まだ机上に開いている倭人伝文書を見ればわかるので、重複列記を避けて簡潔に留めているのですが、逆順に北上して、伊都国、末羅国、一大国、対海国の全て/都合四ヵ国であることは、想定されている読者には「自明」です。

 ちなみに、「列国」と称すれば明確なのですが、「列国」は、漢武帝劉徹以後は、皇帝/天子に列(つら)なるという意味であり、蛮夷の国に許されないので、「倭人伝」に於いては避けざるを得ないのですが、当ブログ筆者は、史官の修行をしていない二千年後生の東夷の無教養なものなので、時に筆が滑ることがあるのは、ご容赦頂きたいものです。

 「その余の傍国」とは、其処までの道里行程記事に名を挙げられているが、行程外、つまり、四ヵ国以外の国(四ヵ国は含まれない)のことです。この一句でも、奴国、不弥国、投馬国が、行程外であることが、念押しされているのです。これほど丁寧に念押しされているのに、解釈が、あらぬ方、「余傍」に迷い込むのは、まことに残念です。くり返しますが、この時点で読者が眼にしていない。行程道里不明、国状不明の後出「二十一ヵ国」に触れているものではないのです。

 「余の傍国」の代表は、投馬国です。「倭人」随一の五万戸の大国としながら、正確な道里行程も戸数も報告していません。それでは、女王、つまり、女王に任じた魏朝に対して「無礼」、「死罪」ですから、「遠絶」「不詳」「余傍」と「逃げ口上」を貼り付けて、譴責を避けたのです。
 思うに、前世、倭人に東夷としての登録時に、調べの付かないままに「全国七万戸」と、早々に登録してしまったため、後年、現地事情が分かってきて、「倭人伝」をまとめる際に、「余の傍国」として、奴国二万戸、投馬国五万戸を辻褄合わせにつけ回しただけであり、両国に関する実質は不詳というか、不明なのです。

*「倭人伝」の冷静な筆致 書き足し2024/07/04
 「倭人伝」冒頭で、「倭人」の「国」は、漢代以来の王族が統治する「小帝国」とも言うべき巨大な領域国家でなく、「國邑」、つまり、殷周代の黄土高原に散在していた「邑」と同様の存在であり、ただし、中原太古「國邑」は、城壁に囲まれた自立/戦闘聚落なのに対して、「倭人」現代「國邑」は、海上の離ればなれの島(複数)に、それぞれ孤立していたので、防衛のための城壁が無いという説明が付いているのです。「中国」即ち中原を制している曹魏-司馬晋の常識では、「國邑」に城郭が無いのは、被服、食餌など共に野蛮そのものですが、「東夷」である「倭人」は、周代の古風を備えていると、庇い立てているものです。

 「國邑」は、別の言い方では「里」(さと)であり、数百戸に始まって、せいぜい、数千戸に過ぎないのです。「倭人伝」の主要国は、そのように「國邑」の一言で見事に定義されているので、当時の読者に、それ以上の説明は不要だったのです。

 「倭人」諸国は、せいぜい千戸代止まりの「國邑」であり、それなりの農地を伴っているものの、ほとんど余剰のないものであって、領地を互いに争うことは、実際上不可能だったのは、読者が承知していた殷周代、太古の様相に列なるものであり、陳寿は、史官の博識を生かして、手短に、読者の博識に訴えたものですが、「二千年後生の無教養な東夷」は、博識ではないので、誤解に誤解を重ねて、夢想に耽っていると見えるのです。
 端的に言うと、牛馬を農耕に動員できない「倭人」の世界では、各戸の耕作する農地は、中原の数分の一であり、従って、戸籍/地券制度を敷いているわけでもないので、戸数をもとに収穫量を計算しては、途方も無い過大評価になるのですが、それが、苛税につながらないように、冷徹な陳寿は、諸処に「二枚舌」を駆使して、明帝の熱狂と読者の誤解を、冷水を浴びせることなく、静かに冷ましているのです。

 この点、全道里万二千里の辻褄合わせと同様、「前世」、つまり、後漢献帝期から曹魏明帝期までの「倭人事情混乱時代」に「誤って登録されてしまった」報告内容が、時の王朝の「公式記録」になって、「禅譲」の際に、前世の記録は、全て受け継ぐという大原則があるので、西晋史官たる陳寿には、承継された「公式記録」は、削除も改竄もできないのです。
 そのため、「倭人伝」の記事において、別の観点からの記事を書くことによって、誤解の拡散を鎮めようとしたものと見えます。当時の読者は、陳寿の苦肉の策を見過ごすことにしたようですが、後世読者は、そうした「大人の事情」に気づかず「誤解」を募らせたようです。先生の心、後生知らずということです。

 因みに、「遠絶」とは、もちろん、ここまでに「連」「絶」の形容に登場したような地理的な距離の問題、地続きか離島かの形容だけでなく、女王に対する臣下としての報告がなく、そのため、指示も届いていないという意味であり、服属していても臣下でなく、もちろん、同盟なども存在しないという如水の境地と見た方が無難です。離島/州島とは、「倭人伝」で定義したての「水行」、つまり、渡し舟で大海の流れを渡るという行程が的確です。

 幻の投馬国に至る「水行二十日」とは、途中に渡船/水行があり、行程全体として二十日であると見れば、恐らく、少し南方の日田から中央構造線沿いに東に向かう道程が示唆されていて、大分から佐多岬半島に渡る、手軽な渡船が示唆されていると推定できるように思いますが、なにしろ、よくわからないとされているので、確信は出来ません。まあ、気楽な「投馬国四国中央説」(宇摩説)としても、特に不都合はないということです。中央構造線沿いに東に向かうとも吉野川沿いに大鳴門に出るので、よく難所の例とされる鳴門の渦潮を見事に迂回でき、淡路島を伝って、紀の川河口付近に出るという中央構造線沿いの径路は、いずれ、奈良盆地中南部に出て、話題の多い纏向を抜けて、行く行くは、伊勢方面に細径が通じているようなのです。

 「倭人伝」全体の帳尻として、「邪」、つまり、「東北方向」に駆ける馬体を想定できる「投馬国」に、過剰な戸数を押し付けたとみるのが、余傍の国に相応しい冷静な判断と思われます。

*閑話休題 
 何れにしろ、帯方郡を歴て中原天子に提出され後世に残る文書ですから、まるっきりの思い付きではないのです。ちなみに、「でたらめ」とは、サイコロを転がしたり、筮竹で占ったりすることを言うのでしょうか。何れにしろ、神託を仰ぐのであり、現代の不信心ものの意見とは、自ずと異なるのです。

 念のため言うと、ここまでの行文は、景初初頭に帯方郡が、魏明帝の派遣した新太守の元に、つまり、魏帝直轄に回収された時点に書かれたものと見え、「倭人伝」の最終稿時点では、「余傍の国」の実相は知れていたでしょうが、遡って訂正、加筆することはなく、いわば、時系列に従って公文書に綴じ込まれたままになっているのです。

 ということですが、御理解いただけるでしょうか。要するに、陳寿が想定していたのは、中国の教養を踏まえた気ままな読者であり、そのような、いわば短気な読者に理解できるような単純、明快な「出題」だったと見るべきではないでしょうか。

 総合すると、女王の臣下は、対海国から伊都国までの「女王国以北の」少数精鋭であり、これら「列国」については、戸数の明細を得ていて、 女王国での朝議に参列しているかどうかは別として、それぞれ官を配置し「刺史」の巡回監察/行政指導/係争審判の巡回判事や日常の「文書」交信によって密接な連絡を取っていて、組織的、かつ、綿密な経営が存在したという意味でもあります。そうです。女王国以北の「列国」は、当時最先端の文書行政が始動していたのであり、計算能力も育ち始めていたのであり、そうでなければ、市糴を管理するとか、便船の運用日程を周知するなど、実務が回らなかったと見えるのです。どうも、文書行政の指導者は、限られていたので、アメリカ開拓時で言えば、巡回法廷の制度であり、それを、刺史のようなものと読んでいたのでしょう。(言うまでもなく、単なる私見です)
 因みに、正史ならぬ、史料類を見ると、中国でも、各地方の主要拠点を定期的に巡訪する巡回裁判制度が運用されていたと見えます。

⑵これらの国々については、名前以外の情報が一切ないので、この記事だけで最終の結論を得ることは不可能に近いが、筑後川右岸の佐賀県地方にかなり近い郡名が見受けられる。

コメント 東夷の「名前だけの国々」は、形式として国名列記しているだけで、それぞれの実態が不明なのは、韓伝で例示されているように、むしろ当然であり、改めて言うまでもないのです。なにしろ、伊都国には郡使が到来しているので、地理、風俗(法と民俗)は知られていたのですが、見ていない地域のことは、当然、風聞以外は、分かっていなかったのです。それを殊更「言い訳」したのは、奴国、不弥国、投馬国について、一見重要視しているように見せつつ、詳しく書かないからです。「言い訳」には、存在意義があるのです。

  「不可能に近い」と言い切りつつ、河村氏が、現代に伝承されている現地地名を重用して余人の憶測を認めるのは、あるいは、氏の保身、講座聴講者数稼ぎなのか、感心はしませんが、この辺りは当ブログの圏外ですので、深入りしません。

7、狗奴国はどこにあったか

コメント 当ブログの圏外です。
 ついでなので、余計な「思いつき」を述べると、列国行程が、ほぼ一路南下しているので、「狗奴国」は、伊都国の南方、さほど遠からぬ方向/所在に有るものと思量します。当時の交通事情を拝察すると、精々、数日の徒歩旅程と見えます。そうでなければ、不和になりようがないのです。

 以下の講演内容は、氏の見識を物語る豊穣なものであり、総じて秀逸ですが、「倭人伝」道里記事解釈の足元を、地べたを舐めるように精査して、泥沼の侵入を排除するという当ブログの不可能使命/守備範囲を外れるので論評しません。また、慎重に管理されている当文書の著作権に関わるので、引用もいたしません。あしからず。

〇まとめ
 世上言われているように、「倭人伝」の道里解釈は百人百様の誤解、迷走であって、コメントに値しない「ジャンク」、「フェイク」の山です。言いたい放題の風潮が行き渡っているので、更なる「ジャンク」、「フェイク」 が募るものなので、いい加減に入山制限しないと、真面目な論客は、毎日山成す「ジャンク」、「フェイク」 に忙殺されるのです。

 河村氏に求められるのは、こうした無面目の混乱の中から、屑情報/偽情報を早々に論破して棄却し、検討に値する「説」だけを称揚することだと思うのです。

 それにしても、氏の「放射状行程仮説」嫌いは、どういう由来なのでしょうか。まことに残念です。

                                以上

2025年4月 9日 (水)

新・私の本棚 ブログ記事 狗奴国: 新古代史の散歩道 1/2

狗奴国: 新古代史の散歩道 2025/04/06
私の見方 ☆☆☆☆☆ 文献学逸脱 遺跡遺物考古学権威の旦那芸か    2025/04/09

◯はじめに
 一応、「南畝」が記名とも見えるが、タイトル冒頭二文字で「新古子」と敬称する。同ブログの本分は、各地考古学研究者労作の集成と見えるが、圏外なので、業界仁義とみて、敬遠する。逆に、正史考察を門外漢放談と無視すると、たいへん失礼なので、丁寧に批判した。

*引用とコメント
このブログについて 日本古代史の出来事と問題点の考察を行う。
考古学の成果も取り入れ、事実に基づき、合理的な歴史の再構築を図る

狗奴国 ― 2025年04月06日 18:49
狗奴国(くなこく、くぬこく)は『魏志倭人伝』に登場する国のひとつで、3世紀に邪馬台国と戦ったとされる国である。

概要
『魏志倭人伝』記載の「其の南」とは邪馬台国の南(に狗奴国がある)と解釈される。ただし、『魏志倭人伝』の方角はあまりあてにならない(水野祐(1982)、p.262)とされる。中略『魏志倭人伝』における狗奴国の説明は「其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王」だけと解釈するのが、多数説である。しかし水野祐(1982)は「其南有狗奴國」、から「(儋)耳・朱崖同」までを狗奴国の説明とする(水野祐(1982)p.251)。 中略

 水野祐氏大著は、「『魏志倭人伝』の方角はあまりあてにならない」と読みかじりされているが、大著を労作された水野氏の本意と見えない。
 ちなみに、水野氏は、狗奴国は、女王管轄諸国のすぐ南、地続きと順当に、「倭人伝」を史料解釈している。続いて、「後漢書」を考慮して動揺しているが、それは、氏の私見であり、史料解釋が動揺しているわけではないと見える。大著は、幅広く吟味するものではないのだろうか。

 水野氏の意見は、当該段落を「狗奴国条」と解釈する有意義な作業仮説であり、同書において具体的に論証されているものと見える。それ以外の解釈は、誰のどんなものか、ここまでの読解では不可解である。

 取り上げている一行は、普通に考えれば、「倭人伝」原文編集の際のありがちな齟齬と見るものではないだろうか。古人の一行編集ミスで、以下、水野氏は、史料解釈を揺るがせたが、「新古子」は引用を憚っていて、水野氏はたまるまい。

 たとえば、黥面文身が狗奴国独特の習慣であって、「倭国」にも「日本」にも伝わらなかった、つまり、一切後世に伝わらなかったとみるのは、相当自然な解釈である。なぜ、素人が読み囓って口を挟むのだろうか。

狗奴国の位置論
『魏志倭人伝』では「その南に狗奴国あり」(其南有狗奴國、男子爲王。其官有狗古智卑狗、不屬女王。)と書くが、『後漢書』では「女王国より東、海を渡ること千余里、狗奴国に至る」(自女王國東度海千餘里至拘奴國,雖皆倭種,而不屬女王。)と書く。中略 安藤正直(1927)は『後漢書』楽浪郡吏の報告をもとにし、『魏志倭人伝』は帯方郡吏の報告がもとにしていると指摘する。もとの報告『後漢書』では『魏志倭人伝』の記載の誤りを訂正したとみることができる。中略  近畿説を取るなら、間の海は伊勢湾を指すと解釈できるし、九州説をとるなら、狗奴国は四国にあり、間の海は瀬戸内海と解釈できる。いずれも想定している邪馬台国の東にある。

 なぜか取りこまれている笵曄「後漢書」の「拘奴國」は、「倭人伝」の「狗奴国」とは、明らかに所在地が異なり、明らかに国名も異なるから、明らかに別の国と判断すべきである。何故、史料に明記されているのを正確に読めないのだろうか。不可解である。
 「『魏志倭人伝』の方角はあまりあてにならない」と決め込んでいるのに、笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」の方角が信用できるという根拠は示されているのだろうか。
                               未完

新・私の本棚 ブログ記事 狗奴国: 新古代史の散歩道 2/2

狗奴国: 新古代史の散歩道 2025/04/06
私の見方 ☆☆☆☆☆ 文献学逸脱 遺跡遺物考古学権威の旦那芸か    2025/04/09

狗奴国の位置論 コメント部 承前
 千里は、「倭人伝」75㌔㍍、後漢書は450㌔㍍であるが、「倭条」は、殊更 「倭人伝」同様75㌔㍍と見える。
 それにしても、「邪馬壹国」/「邪馬臺國」の所在不定で、「狗奴国」/「拘奴国」を名古屋に設定するのは、不可解である。また、「倭人伝」の「水行」定義に先立つ「後漢書」で「渡海」は、不可解である。

 百年先生の安藤氏見解引用は面妖である。楽浪吏人なる下級官僚が郡公式記録を書くことはない。帯方吏人も同様である。まして、楽浪吏人が、後世の帯方吏人の公式記録を書き換えられるはずがない。怪談である。

 要するに、水野氏は「倭人伝」を懇切丁寧に解釈しているから「後漢書」根拠に、「新古子」の素人判断で、間違っていると言われてはたまらないだろう。

狗奴国の位置比定の各説
これまで狗奴国の比定は様々に言われてきた。諸説を検討する。
九州南部説 狗奴国は、熊本県など 中略 とした説は、江戸時代の新井白石以後、白鳥庫吉、内藤湖南、井上光貞、小林行雄などが唱えている。中略

地続きでないとすれば、九州南部では地続き」とは、意味不明で苦笑する。

四国説 中略 意味不明の素人判断である。

尾張説 最有力候補とされる。 中略
どなたのご高説か知らないが最有力とは面妖で、ついて行けない。

関東説 「王墓」「王都」は、史料には一切言及がないので、面妖である。

考察
狗奴国と認定される条件はいくつかある。(1)邪馬台国に対抗する強大な武力をもつこと、(2)人口規模がそれなりにあること、(3)弥生時代から続く集落であること(必須ではない)、(4)王都と王墓があること、(5)土器に広がりがあること、(6)邪馬台国からの経路に海があること(『後漢書』)、(7)独自の文化があること、などであろう。

•(1)「邪馬台国」を見極めずに、これに「対抗する」とは、理解に苦しむ。
•(2)「人口規模」は、趣旨不明である。「新古子」は、「古代」に「人口」があったというのだろうか。「倭人伝」には、戸数/家数しか書いていない。
•(3)現代に続く意味が理解困難である。同一種族が生き続けたという意味か。
•(4)古墳時代まで王が継承された記録がない以上、願望的臆測に過ぎない。
•(5)「新古子」は、「短期間」と不明瞭に断言するが、何年間を指しているのか。
•(6)「新古子」は、「邪馬台国」を見極めずに「からの経路」とは、理解に苦しむ。「海にであった」の断言後、古代官道が「海」を通るとは不可解/不法である。適法なのは、「渡河」と同様の「渡海」である。
•(7)「新古子」は、「邪馬台国」を見極めずに「とは異なる独自の文化」とは、理解に苦しむ。文化」は、文字、文書行政が、必須の前提である。可能性」と、言葉を弄んで済む問題では無い。

参考文献
3.水野祐(1982)『評釈 魏志倭人伝』雄山閣
 当然、二十年後の決定版である「新装版」(2004)を参照すべきである。

◯終わりに
 当サイトで、素人考えの文献解釈は、忘れた頃に登場し、素っ頓狂な勘違い連発で、余りのことに、これまで批評を書きそびれたが、今回はお釣りを恐れずに批判したものである。

                                以上

2025年4月 8日 (火)

新・私の本棚 塩田 泰弘 季刊「古代史ネット」第2号  1/11 更新

「魏志倭人伝」の行程と「水行十日陸行一月」について KINDLE版
私の見方 ★★★☆☆ 渾身の偉業、前途遼遠  2021年3月刊 2025/01/20 更新 2025/04/08

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。 

◯はじめに
 本稿は、氏の労作において、当方の専攻範囲「倭人伝」の道里行程記事の解釈に際して、氏の論考、「倭人伝」の史料解釈に異論を挟むものである。氏は、中國の太古以来の古典書、史書を読解されていないと見えるので、無理ないとは言え、世上の筋違いを基礎に持論を展開されていて大いに危ういのである。
 当ブログの方針で、論考大要の批判は避けているが、塩田氏ほどの偉材が、必須教養とも言える基礎事項を誤解したままに過ごされているのを放置もできず、ここで口を挟まざるを得ないのである。決して、氏が掲げている結論に意見を挟むものでは無い。

*コメント
 文章解釈で基本的なのは、明記と示唆である。示唆にしても、読者にとって明確であれば「明確に記されている」と解釈すべきである。

 ただし、「三十国の盟主女王卑弥呼が都をおいている」と「倭人伝」記事に示唆されている』と、端からきめこんでいるのは早計である。推測と臆測、思いこみ、当て込み、願望は、峻別していただきたい。
 常識と思うのだが、無文字行政で朝見・裁断しない君主はありえない。いや、高度な文書行政であっても、君主が朝見しないのは、まことに不合理である。

 余談であるが、近作のNHK古代史娯楽番組では、稚(わか)いと見える女王が、少なくない重臣を前に嬌声を上げて指揮している姿が描かれていたが、「史実」無視にも、ほどがあるのではないかと思われる。考証には、歴博教授が重席を務めていたようで、ことさら堅実な史学者を排除したものでもないようなので、天下御免のはずのNHKも何れかの圧力に屈したのかと思う次第である。繰り返すが、これは、余談である。

 続く誤解であるが、帯方郡は、後漢献帝期に遼東郡太守公孫氏が設置したのである。塩田氏が示されたのは、とんだ勘違いである。曹魏二代皇帝明帝が、司馬懿に指示した公孫氏討伐の大軍とは別に、手兵を派遣して黄海を渡り勅命により、遼東公孫氏の支配下にされていた楽浪/帯方両郡を皇帝指揮下に収容したが、それ以降、両郡は、名実共に曹魏の郡となったのである。この間、中国権力は、際だって変動したが、遼東形勢は、別の生き物であって、それこそ、一年単位で切り替わっているのである。あまり、大局にとらわれない方が、だいじな細目を取りこぼさないで、いいのではないかと思量する。

 言い旧されているのだが、無造作に「卑弥呼が都する所」「邪馬台国」と称しても、まずは、「倭人伝」原文に「邪馬台国」はないから、自動的に誤謬である。身辺の大勢が言い習わしていることに、無批判に従うのは、合理的ではないと見るものである。

 いまだ中國に服属していない卑弥呼が、「都」をおくというのは、二重の誤謬である。「都する」のは、周代、至高の存在であった天子周王の事績に限るのであった。周の権威が失墜した後の、春秋、戦国時代には、各国君主が相次いで王を名乗ったため、居城を「都する」とした可能性もあるが、三世紀、後漢献帝治世下に、「倭」蕃王は、政策的に「客」と美称されても、官制外の下賤の「儓」ならぬ「臺」が、勝手に「都する」など、論外であるという見方もある。

*行程論議
 以下の行程は、遼東郡太守公孫氏の奏した「倭人伝」、つまり、新参東夷の身上書として、遼東郡傘下の楽浪郡が起草し、①~⑤、⑨,⑩を創始したものであり、後日、恐らく、曹魏明帝の治世で、⑥~⑧を追記したと見える。
 俗説は、陳寿の創案としているが、見当違いも甚だしい。

 さらに、「魏志倭人伝」には、帯方郡から邪馬台国に至るまでに経過する国々から国々までの行程が記載されている。[中略]
 帯方郡から邪馬台国までの行程を箇条書きで示すと、次のとおりである。
 ①郡(帯方郡治)より倭に至るには、
  海岸に循って水行し、
  韓国を歴て、乍は南し乍は東し、
  その北岸、狗邪韓国に到る七千余里
 ②始めて一海を度(わた)る千余里、対馬国に至る
 ③また南一海を渡る千余里、一大国に至る
 ④また一海を渡る千余里、末盧国に至る
 ⑤東南陸行五百里、伊都国に到る
 ⑥東南奴国に至る百里
 ⑦東行不弥国に至る百里
 ⑧南、投馬国に至る水行二十日
 ⑨南、邪馬台国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月
 ⑩郡より女王国に至る万二千余里[中略]

 小人の後知恵であるが、①から④までの一千里刻み、ひょっとすると二千里刻みの道里記事⑤から⑦の百里刻みの倭地陸行の端(はし)た記事は、漢数字縦書き、有効数字一桁の加算にそぐわないと見える。要するに、科学的に見て、⑤から⑦の記事は、後日の追加と見た方が「真理」に限りなく近いのではないかとも思える。ご一考いただきたいのである。

*抱負の表明
 塩田氏は、「倭人伝」道里行程記事の要点のみを抜粋したという趣旨であろうが、原文の要点を正確に読み取っているかどうかは、検証していく必要がある。
 それにしても、「俗説」の陥りがちな陥穽として、以上が、曹魏正始年間に、明帝の遺詔に従い洛陽から倭に下賜物を搬送した過程を示しているとするものがある。
 といっても、実際は洛陽から郡までの行程は書かれていないから、遼東郡付近を経由すると見た方も多かったようなのである。
 あるいは、その経緯をもとに、郡から倭に到る道行きを紹介したものとするものがある。
 明確である中国国内の行程すら確定できないのに、また、郡から狗邪韓国まで確立されていた街道も認識していないのに、未開未知の倭地行程を適確に記録していた、現代の眼で記録から読み取れるというのは、それは、思いあがりではないかと思量する次第である。
 いや、本記事は、塩田氏の著作の批判のように見えるかもしれないが、実際は、「俗説」党に対する批判なのであるから、しばし、ご辛抱いただきたい。

 以下、ときに応じてそのような誤謬/陥穽の是正を図っているが、取り敢えず、「俗説」を拭い取って原文に立ち戻るので、よろしく瞠目していただきたい。

 ということで、この時点で、俗説に起因する誤謬を是正しなければならないのである。

                                未完

新・私の本棚 塩田 泰弘 季刊「古代史ネット」第2号  2/11 更新

「魏志倭人伝」の行程と「水行十日陸行一月」について KINDLE版
私の見方 ★★★☆☆ 渾身の偉業、前途遼遠  2021年3月刊 2025/01/20 更新 2025/04/08

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。 

*黄金の「従郡至倭」
 郡(帯方郡治)より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓国を歴て、乍は南し乍は東し、その北岸狗邪韓国に到る七千余里

と解されているが、「道里行程記事」第一項は、複数の概念が詰め込まれていて個条書きの一項として読むのは無理である
。以下の個条書きは、各国ごとに区分けとしているのであるから、ここも、要素分けすべきである。

 先ずは、「郡(帯方郡治)より倭に至る」は、道里行程記事の見出しに当たるものであり、一旦、改行する所である。(郡は帯方郡治と限らない)でないと、西晋史官たる陳寿が、「郡(帯方郡治)より倭に至る」 に結末をつけずに、言わば尻切れトンボにしている醜態が露呈するのである。まるで、中学生の出来の悪い作文である。

*無教養による誤解の起源
 本来、行程記事で「海岸に循って水行」は無法、破格である。真意を読み取る努力が必要である。
 古代、権威のある辞書「爾雅」の定義で、「水行」は、「河川を(渡船で)渉ること」と定義されている。従って、「循って」とは海岸から渡船で対岸に渡ると明記していると解すべきである。ここで海岸といいながら、公式行程は、郡から一路南下する街道以外に採るべき街道は無いから、海岸は狗邪韓国までないのである。中国官人、文官の必須教養、必携の字書の定義を知らないとは、「無教養」としか云いようがないのである。

 つまり、この文は、後出、狗邪韓国海岸の渡船を予告している、言わば、新規概念の定義なのである。ぼーっと読み過ごしては、叱られて落第である。

 ということで、この部分は、以下のように分解しないと、真意を読解できない。
郡(帯方郡治か)より倭に至る。
 甲 海岸に循って水行する。[「水行」定義]
 ①韓国を歴て、乍は南し乍は東し、その北岸狗邪韓国に到る。
 乙 [郡より狗邪韓国に到る]七千余里。[道里定義]

 「韓国を歴て」は、当然、行程記事の先例を遵守して街道で進み諸国に挨拶するのであるが、ここは、「倭人伝」であるので、ここは、当然-自明の韓行程は書かないのである。。

*其の北岸
 ついでに言うと、韓伝以来の用語に従うと、「その北岸」とは、「大海」の北岸、つまり、先行の、韓の南に接する『「倭」の北岸』で明解である。誤解している方が多いようなので、丁寧に説明すると、韓の東西は、「海」(うみ)であり、韓は南で、「倭」に接していると言うが、冒頭の定義で、帯方の南の「大海」に「倭人」はあると明記されている。つまり、一種地理概念として、「大海」は「倭」と合同なのである。

 ちなみに、ここでは、「狗邪韓国に到る」と郡街道の終着地であると明記されている。第一項の締めとなっていて、次なる「到」は、行程終着伊都に附される。当該区間道里は、帯方郡管内であるから、当然測量済みだが、ここでは「倭人伝」道里の按分で「七千里」と申告されている。
 ただし、同時代/後生の読者は、容易に実道里を知ることができるのであるから、これを「誇張」するのが無意味であるのは、2,000年後生の無教養な東夷にも、自明と思われるが、どうであろうか。(自明「餘」は省略)

 これを原文で示す[中略]行程に関係しない部分を省略している[中略]
2 行程文の読み方
(1)連続した読み方
「魏志倭人伝」に記す帯方郡から邪馬台国に至までの行程に関する記述は、[中略]漢字が羅列され[中略]読み方によって異なるのである。

 正史解読は、専門家の句読が第一歩である。「読み方」次第と壮語する二千年後生の無教養な東夷の勝手読みは、「無法」である。漢字「羅列」とは、史官殿も見くびられたものである。

 邪馬台国[中略]問題は、この行程[中略]をどう読むか[中略]

*また一つの誤解の起源
 「通説的な読み方」は、自動的に正解でないのであり、論じ方が誤っている。
 「近畿説」は、「連続して」読まないと瓦解するので、背水の陣で自衛して右顧左眄していると見える。
 ここで「九州説」の明細は不明であるが、俗説に流されているとも見える。安直に追従しない原文解釈が求められているのでは無いだろうか。
 いや、「邪馬台国」決め込みの上での「比定」説の多数派工作に踊らされているいわゆる「通説」は、とかく邪魔なので、脇に退けておくものでは無いか。

*勝手な史料改竄吐露
 なお、近畿説では「南、邪馬台国に至る」の「南」を誤りとし「東」と読み替える。
 しかし、この読み方については、次のような疑問や矛盾がある。
a.里数と日数という別な概念を...読むことはそもそもおかしい。[中略]

 「そもそもおかしい」などと、コント気取りであるが、誤解由來の改竄説に反論する必要はない。黙殺するものである。文意を理解できないで、逆ギレするのは、暴論である。氏は、「矛盾」の本義をご承知なのか、不安である。

 ちなみに、道里行程記事は、中国内の街道を必須の前提としているので、里数と日数は、そもそも、ほぼ一意的に相関/連動しているのであり、陳寿は、「倭地」で、そのような前提が通用しないことを述べているのである。「算数に弱い」と自覚されている方は、ご注意いただければ幸いであるが、「無自覚」な方には、それは病気でも怪我でもないから、つけるクスリが無いのである。

                                未完

新・私の本棚 塩田 泰弘 季刊「古代史ネット」第2号  3/11 更新

「魏志倭人伝」の行程と「水行十日陸行一月」について KINDLE版
私の見方 ★★★☆☆ 渾身の偉業、前途遼遠  2021年3月刊 2025/01/20 更新 2025/04/08

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。 

b.不弥国からその南方の邪馬台国までの[中略]行程を「水行三十日陸行一月」もかかるのは理解し難い。また、この間に「三十日」も水行しなければならない海や川はない。[中略]しかし、「魏志倭人伝」[中略]否定すれば、そもそも行程を論ずる意味がなくなる。

 自己流の読みで理解し難い、理解ができないとしたら、読みが間違っているのである。
 反論の必要はなく、史料を否定する必要は無い。落第屋の逆恨みである。却下まではしないにしても、優先度を是正する「最適化」が必要と見える。「水行」は、狗邪韓国~對海国~一大国~末羅国の三度の渡海、倭人伝起源の「水行」で、乗り継ぎを含めて十日を許容するというものであり、街道こうでは、早馬などで日程短縮できるが、まさか、渡船に馬を乗り入れて、船上を疾駆するわけにも行かず、また、船橋を連ねて、駈け抜けるわけにも行かず、ほぼ妥当とみるべきではないだろうか。
 氏が、見当違いの部分区間に、「水行三十日陸行一月」 を求めて、不合理だとするなら、それは、見当違いと自覚するべきである。

c.[中略]不弥国から投馬国・邪馬台国までの「水行三十日陸行一月」もの長期間の行程については、何も記されていないことは不思議である。
 これに対しての反論では、途中からその行程の詳細を省略する書き方は、中国ではみられる記述であるとする。[中略]

 勝手に不思議がっているのは、単なる読解力の不足であり、反論など必要ない。

d.帯方郡から邪馬台国までの所要日数が分からなくなる。[中略]連続式の読み方では、帯方郡から邪馬台国までの所要日数が分からない。

 分からなくなると、ことさら謎かけするのは、
「連続式」の解釈が間違っているのであり、要するに、史料の読み方が間違っていると言うだけである。突っ返して、自省させるものである。

e.不弥国からの行程を日数で記述しなければならない理由がない。
 不弥国から邪馬台国までの行程については「千三百余里」と記せば一目瞭然であるのにわざわざこれを日数で記さなければならない理由がない。

 ならない理由がない。と勝手に述べられても、そんなことは知ったことではない。落第屋の逆恨みである。史料の読み方が間違っていると言うだけである。

(2)帯方郡からの所要日数とする読み方
 [中略]簡単に算出される里数をわざわざ分かりにくい別の概念である日数で示す必要などないのである。

 自家製の誤読への反論は、時間と労力の無駄である。自省させるものである。それにしても、里数と日数が連関していると気づかないのは、やんぬるかなである。

 ここで「現在の通説的な読み方」が懐古されているが、それでは明解にならないというのが、目前の課題であるから論じ方が誤っていると見える。

*読者の教養、理解力が前提
 「従郡至倭」の「倭」は、本来、行程が伊都国を終点としていたと見れば、理解しやすいと思われる。伊都国以降は、行程が終了した後の付記でと見れば、理解しやすいと思われる。

 末羅国から伊都国までの「陸行五百里」は、本行程が、一千里単位で刻んでいるのに対して、百里単位のはしたは、桁違い/場違いの端数であり、本来、全行程万二千里の部分行程に書くべきものではない。

 末盧国以降の細々とした里数は、後日、伊都国を「國邑」とし末羅国を分離したために書き足したものであり、本来、伊都国の「海津」(海港)であったと見られる。現に「濱山海居」と漁村風でありながら、四千戸の国力と評価されているのは、伊都国の海津/海市として機能していたものと思われる。四千戸は農業生産の指標であり、これには、中国基準の戸籍/貢納を計量、計算する人員が備わっていたものと見える。後年の「日本」の律令制には中国基準が継承されていないから、当方の「倭地」は、中国華夏文明に属しなかったものと断定できる。

 このあたり、伊都国の國邑王治としての存在と末羅国を統御する伊都国の領域国家としての機能が重畳したと見える。と言うことで、景初/正始時点の解釈を試みたのである。

 要するに、郡・末盧国は、明解な千里単位で、キッチリ万里と算出できるが、世上の落第者は、何を好き好んでか、没消息、音信不通の奴国、不弥国の各百里を、足し算するが、不合理である。千里単位の道里計算に、百里単位のはしたが混入した経緯は、最前推定したものの、実際は不詳である。
 百里単位の道里が、何らかの方法で実測したものであれば、当然、一里は450㍍程度の「普通里」である。

 陳寿は、多大な日時を費やして倭人伝を推敲したので、本来、行程内であっても,些細な里数は、本来割愛するものである。何か理由があって、ごみが残ったのであろうが、われわれ後生東夷に、わかるはずがない。

*明解な日数表示
 倭地は未開の蕃夷の世界であるから、移動手段、道路事情などで所要期間が大きく異なるから、官制で遅滞に罰則を課する規準は道里でなく、単刀直入に、所要日数とするのが明解である。曹武と呼ばれる曹操は、規律を重んじたから、曹魏は、規則に辛かったのである。
 それにしても、魏志上程の際に、皇帝を含む高官有司に所要日数を計算させたら無礼である。

*騎馬文書使の無い郵便 不可能な船上騎乗
 倭地では、馬を移動・輸送手段として使用しない/できないから、道里は、ほとんど無意味である。また、「水行」は騎馬移動でないから、道里は無意味である。当初、皇帝上覧史料に「従郡至倭」「萬二千里」と固定概念を書いたため、綸言不可侵、辻褄の合いそうな里数を書かざるを得なかっただけである。まことに明解ではないだろうか。明解でないとしたら、それは、必要な教養を身につけていないからである。

 三世紀の当時、「倭人伝」の道里記事が不合理であるとの非難はなく、百五十年後生の劉宋裴松之も、道里について文句を付けていない。そして、当時の天子劉宋文帝も、何ら難色を示していない。
 遥か後世で、南朝史書を継承しなかった唐書に於いてすら、「倭人伝」の万二千里は何ら難色を示されることなく踏襲されている。それで、納得していたのであるから、遥か後生の無教養な東夷が、文句を言うのは、筋違いである。

 「魏志倭人伝」には、魏が倭国に2度使節を派遣していることが記されている。一度目は、「正始元年、[中略]倭国に詣で、倭王に拝仮し、ならびに詔を齎し(以下略)」である。[中略]

                                未完

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*加筆再掲の弁

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*魏使の伝説  承前
 漢制以来の礼制で、曹魏天子が、自ら蕃王に遣使するのは法外である。それは、蕃夷管轄太守(楽浪郡から帯方郡に移管)の使命である。当然、魏使の女王拝謁は、明記されていない。班固「漢書」「西域伝」で、武帝使節が、数千里彼方の安息國王(実は、パルティア國王)に接見しなかった先例が示されている。

 二度目は、正始8年に張政を倭国に派遣し[中略]ている。[中略]二人の魏使は、当然詳細な報告を提出しており、陳寿は[中略]報告から帯方郡から倭...までの行程や...実情を詳細に把握した[中略]

*張政の重大使命(Mission of Gravity)
 後年訪倭した張政は、数百人の郡兵を率いたと見える。國王会見は、王治かどうかは分からない。ここは、「畿内派」が絶望しないように退路を設けている。
 いずれにしろ、郡の軍事顧問団が、狗奴国の不法な反乱に介入して、狗奴国が承服しなかったとは考えられない。「親魏倭王」は、虚名ではないのである。世上、その程度の常識が通じないのは、困ったことである。張政は、ガキの使いではないのである。
 このあたり、いわゆる「通説」は、不合理である。

 陳寿は、魏志編纂にあたり、当然、関係文書はすべて「史実」として閲覧している。但し、「従郡至倭」「萬二千里」などは、魏朝皇帝閲覧済みであり、晋朝は、魏朝を継承しているから、引きつづき綸言不可侵である。
  
受入体勢の確認 送達日程通知(Shipping Advice)
 いわゆる「通説的な読み方」では不明確だが、正始魏使の帯方郡官人への搬送指示時、目的地伊都国までの所要日数は、発進以前に明確になっていたのである。
 したがって、準備段階に於いて、各地に到達予定日を知らせて、宿泊、交替人夫など手配済である。つまり、道里記事の郡・伊都国行程は、出発以前に上申されたと思われる。後出「魏使」は、当然、往還滞在記を上程したが、既存記事に抵触しない部分のみ追加したであろう。遡って訂正するのは、皇帝に虚偽申告したことになり馘首必至である。関係者が言い繕うのは、当然である。

 塩田氏ほどの実直な研究者には、「通説」に安直に追従するので無く、原文から出発した着実な解釈が求められるのでは無いだろうか。以上の読み方により、考証なしの「連続した読み方」で生ずる疑問や矛盾のほとんどが解消する。いや、当方には、塩田氏に何かを強要することはできないが、ご一考をお願いする程度は許されるのではないかと、愚考するものである。

 [中略]この読み方による行程を図示すると図2及び3のようになる。

*ありえない現代地図悪用
 図3は、当時存在せず陳寿が知り得なかった現代地図であるから、三世紀の史官が見たことも聞いたこともないのは当然として、これを行程道里記事の「絵解き」として示すのは、ほぼ無意味である。これが、鉄則である。

 グーグルマップは、第三者地図データを利用契約して、その旨表示している。丸ごと引用しつつ、そのような権利表示を明示しないのは、利用規程違反である。
 ちなみに、引用部と追記部の権利区別は引用の際のイロハであり、ご自愛いただきたい。論考末尾に、免責事項と含めて、適法に明記すべきと考える次第である。
 大事なのは、全体として著作権を保持するが、部分的に第三者記事が含まれているので、その部分は(個別に明記の上で)権利外である」と断ることである。そうでなければ、ご自身が権利を有しない著作物の著作権を主張しているとみなされるのである。国際法では、著作物を公刊した時点で自動的に著作権が発生するので、引用を明記しないと、冒認したことになるのである。
 今回の事例では、第三者データをかくかくのごとく利用することにしたと、権利者の了解を得ておくことである。このような事項は、出版者編集部の任務であるが、どうも、当記事については、編集部が編集していないようなので、申し上げたのである。

 なお、魏使は、投馬国には行っていない。[中略]水行の行程中に投馬国はない。[中略]投馬国までの行程は倭人からの伝聞である。[中略]

 意味不明の断言であるが、「伝聞」でなく正式申告/報告のはずである。帯方郡の権威を見くびるものではない。

(3)投馬国と邪馬台国の読み方
「南投馬国に至る水行二十日」と「南邪馬台国に至る水行十日陸行一月」は、帯方郡からの所要日数と読む[中略]邪馬台国までの行程の間に投馬国が存在する余地はなく、連続した読み方は成り立たない。魏使は投馬国には行っていないのである。「南投馬国に至る水行二十日」は倭人からの伝聞であろう。
「南投馬国...」と「南邪馬台国...」は...帯方郡を起点とする行程...。

 どこから降って湧いたのか不明の錯綜した解釈である。帯方郡が、蕃夷として服属の前提事項を提示されていない、女王と音信不通の「投馬国」に直行する道里行程など、「倭人伝」に無用である。
 道里行程を記載するのは、文書使の交通を規定するためであり、「投馬国」など、お呼びでないのである。要するに、論者の読み方が間違っていると言うだけである。通説派の好む言い方では、「百害あって一利なし」であるが、別に、曹魏は遠隔の蕃夷から「利」(銅銭か玉石かは別として)を得ようとしていたのではない。もちろん、天馬を求めていたのでもない。
 と言うことでもここに提示された行程の交錯は、まことに理解しがたい。

 誤解に発した新規概念が整合せず、窮して錯綜した行程を適用されたと見えるが、「倭人伝」の要目は、郡・倭、伊都国に到る行程であり、史官が要目外の錯綜した記事を書く謂われは無い。

 郡・伊都国の行程と所要日数が知れた後、「倭人」内部の伊都国から近場と見える女王居処まで、どう移動して何日かけたか、など現地事情も陳寿の知ったことでは無いし、皇帝以下の読者には、何の関心もない。

 「倭人伝」批判で不可欠な区分解釈である。

                                未完

新・私の本棚 塩田 泰弘 季刊「古代史ネット」第2号  5/11 更新

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3「魏志東夷伝」の距離感
 ここで、「魏志倭人伝」[中略]の距離観について述べておかねばならない。

 新規概念がどうにも整合せず、「距離感」/「距離観」などと、苦しまぎれに錯綜した新規概念を明確な定義無しに適用されているが、「倭人伝」も「韓伝」も、人格の無い文字情報なので、観、感、勘も、経験も所有していないのである。

*綸言不可侵
 以下、律義に評価されているが、前に述べたように「倭人伝」の萬二千里の概念的な道里は、「倭人」に関して往時の公孫氏が作成した蛮夷記事「倭人伝」が、帯方郡から曹魏明帝に上程、承認されて、曹魏の「倭人伝」の劈頭を飾ったと見える。
 決して、西晋史官たる陳寿が、漢魏晋と継承された「史実」、公文書にない記事を創作したのではない。高名な岡田英弘氏が、一般向けの解説書で、一刀両断、陳寿が、編纂時の権力者に媚び諂って、魏志西域伝を割愛し東夷伝を捏造/創作したという印象を与えかねない「名言」を残したので、一部で追従している方があるが、史料を丁寧に解釈すれば、それは、素人同然の門外漢の勘違いに過ぎないのである。

 と言うことで、「倭人伝」の萬二千里の概念的な道里は、 秦漢代以来国家制度として通用している普遍の「普通里」450㍍程度(概算に適した丸めである)とまるで整合しないが、綸言不可侵であるから、七千里、千里と千里単位で按分した補助里数を付して「正史」としている。当時周知の郡・狗邪間を七千里として、「実道里との相関関係らしいもの」が見えても。ぴったし、厳密に整合するはずがない。

*窮したあげくのちゃぶ台返し~余談
 「虚妄」は、二千年後生の無教養な東夷の不明瞭発言である。相手にしてはいけない。
 最後、そのような概念的な道里を、実際めいた換算で「一里86㍍程度」としたが、当時メートル法(SI単位系)は無かったから無意味である。当然、尺度(一里四十尺)換算率(里数五倍)で示すべきである。(頭の中のスイッチを切り替えていただきたい)
 それにしても、五倍は、当時にしては、高等算数であり、いかにして、全土の小役人にまで徹底したか、何の証拠もないので、不可思議、神がかりということになる。

 あげくの果て、「倭人伝」記事を順当に解釈すると、伊都国から先、纏向に進む行程は(絶対に)ありえないのが自明なので、史官が、精巧に調整した「倭人伝」を、言わば「ちゃぶ台返し」で貶めて、気ままに改竄して論議しているのだが、同時代の史料で、「倭人伝」に代替する史料はないので、結局、改竄「倭人伝」で論じているのである。

*「普通里」提言
 そして、当時も官制道里は450㍍(4.5百㍍)程度の「普通里」であったから、それ以外の所謂「短里」が官制施行されたとは無謀である。

 「魏志倭人伝」は、帯方郡から邪馬台国までの行程について詳細な里程を記している。[中略]「魏志倭人伝」...行程に記された里が、①魏・晋の当時の里と比べてはるかに短いこと、②[中略]③「魏志倭人伝」...国から国までの里数も...距離はまちまちである[中略]「魏志倭人伝」[中略]国(から国までの)里数[中略]平均値...1里は約86...mとなる。[中略]「魏志倭人伝」[中略]の距離観...は、当時の魏・晋の里よりはるかに短い[中略]。

 要するに、大いなる「勘違い」である。根拠がバラバラの数値を機械的に平均計算するのは、不合理である。そうした評価方法が、氏の身辺で絶対多数派であっても、「勘違い」は「勘違い」である。勘違い」を根拠にした推論は、はなからしまいまで「勘違い」である。

*乱脈の「里」数追求 
 まずは、それぞれ立根拠の異なる表示値の平均値を取る無頓着さは、不合理である。郡・狗邪韓国の郡内街道だけが、確実である。陸上にしか街道は無いから、街道行程は間違いようが無いはずである。一部俗説のように、海上に街道があるとした幻想は、「勘違い」の二段重ねである。

 総じて、数字の字面に囚われていて「現実」が見えていないと見える。

*「普通里」の提案
 「当時の魏・晋の里」と、揚げ足歓迎表現であるが、太古以来、唐代変革まで一里は、ほとんど一定である各地拠点間の公式道里は、公式文書に刻印されているから、変わりようがない。里の下部単位「歩」(ぶ)は、各地土地台帳に記帳されているので、別の意味で変わりようが無い。それが、合理的な判断と信じている。

 当ブログでは、そのような「里」を「普通里」と称して、時代、地域で動揺しないことを明示しているのである。

*根拠のない「短い」里
 そのように是正した上で批判すると、氏がいかに力説しようと、晋朝史官である陳寿が正史の一部である『「魏志倭人伝」及び「魏志韓伝」に使用されている1里は約86mとして、承認された』という途方もない提言は、論外であり、即座に却下されるべきである。

*根拠のない造語「距離感」
 氏の発明したかのように見える「距離感」は、かくの如き超絶技巧によって、ようやく一つの形をとっているが、素人目には、目も鼻も口もない「混沌」と見える。

 何故、三世紀の中国史官が、現代風の曲がりくねった理窟を弄する決めてかかるのか、まことに不可解である。それでは、読者たる「皇帝」初めの知識人が、到底納得しないと思われる。
 陳寿が、「三国志」「魏志」第三十巻の末尾で、そのような無理難題を捏ね上げる意味は何なのか。筋の通った「合理的な」説明を提供頂きたいものである。

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*根拠の無い「方里観」 不都合な引用資料改竄
 氏は、奥野氏の作表(Matrix)に独自データを追加しているが、第三者の著作物を「勝手に」改造した表(Matrix)を論拠とするのは、不都合である。
 奥野氏が正史など基本資料を精査して独自解釈のもと創出された作表(Matrix)は、データベース「著作物」である。氏の著作を読み囓って改竄するのは、適法な引用でなく盗用に当たるかと思量する。塩田氏にしては、不用意で、安易な第三者著作物の取り扱いではないだろうか。ご自愛いただきたい。

*「方里」表現の誤解 
 それにしても、追加部の「方*里」解釈は、奥野氏の関知しない不用意なものと思われる。

*「方里」の「常識」再確認
 遅くとも漢代に編纂され魏晋代にも慣用されていたと見える算数教科書「九章算術」は、土地測量と面積計算の課題を提示していて、そこでは、「方」は、「歩」なる度量衡単位に付すと面積単位と解釈することが示されている。
 つまり、教科書に従うと「方四百里」は一辺一里の方形四百個の面積であり、当然、道里の「里」と足し算できない。異次元数値を混ぜたのは不都合、非常識である。

 『「魏志東夷伝」に記された、...「魏志高句麗伝」...」[中略]距離観について、各国の条に記載された距離を示すと表2のとおりで、1里は、最小220m、最大430mで、平均約 308mとなる。

*不明瞭な「距離感」
 表2は、当ブログで批判した榊原英弘氏著作の作表(Matrix)の「読みかじり」である。先行論考は、適切に引用して、その思想を復唱、ないしは、克服すべきである。
 本例は、作表(Matrix)の一行削除・改竄なので、著作権上疑義のあるものである。

 新語とも見える「距離観」が榊原氏の創唱であれば、その旨表示が必要である。そうで無ければ「距離感」は意味不明で、不確かで不都合である。正しい用語とすべきである。用語に齟齬があれば、引用は無効である。
 ここでは、榊原氏の取り上げた「方里」解釋が新規のものであれば、溯って、奥野氏の作表への挿入は、御両所に対する著作権侵害と言われかねない。第三者著作引用は、慎重であるべきである。

 ここは、陳寿「倭人伝」「里」の規定を問うものであり、それは太古以来の「普通里」としか言えない。モチのロン、実施状況批准は別議である。

 次に、「魏志扶余伝」から「魏志濊伝」までの5国と「魏志韓伝」及び「魏志倭人伝」の2国の広さと戸数を比べてみる(表3、図5)。[中略]

*『「方里」は「国の広さ」』の開眼と失墜
 氏は、自作表3,図5で、突如「方里」を「国の広さ」としたが、図5は、不適切な現代地図であり、「方里」が全農地面積であって「国の広さ」などではないことを失念している。それにしても、韓国のように、地形で「広さ」が見てとれそうな例は別として、たとえば、高句麗の「国の広さ」は、誰が知っていたのだろうか。当時、氏がでっちあげたと言われかねない高句麗の「国の広さ」は、誰も知らないのである。高句麗は、基本的に遊牧国家であるから、戸籍と土地台帳を楽浪郡に強制されたとは言え、高句麗の「国の広さ」の把握に役に立たなかったのである。
 「東夷傳」によると、高句麗は山川渓谷が多く、従って、水田稲作は些細である。「韓国」は、現代地図で見ると「国の広さ」が見えるような気がしても、当時、誰が海岸線を認識していたかということである。「韓国」も、山地が多く、したがって、灌漑困難で水田稲作が限定されている。
 ともに農地面積は些細である。
 当然ながら、農地面積は、戸籍/土地台帳の単純集計であり、公文書統計の正確・忠実な統計数値であるから、陳寿は、東夷諸国服属化は、客観的に、一切、両郡の税収に繋がらないと述べていと見える。

 晋朝史官である陳寿が、官撰を心がけた「魏志東夷伝」に於いて、ことさらに、先行史書の夷蕃伝記事に例の乏しい、つまり、異例の各国「方里」を報告しているのは、正当な理由があってのことと思われるのである。それが、東夷伝の真意であり、司馬懿への追従などではないことは明らかである。

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*加筆再掲の弁

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*「周旋」の不合理
 ついで、「国の広さ」として「周旋五千里」としているが、これは「方里」で無いので、明らかに広さ(面積)ではない。「倭人伝」行程で、伊都国・狗邪韓国の北上「周旋」(後漢魏晋代に「往来」の意で常用)道里が、全万二千里から郡・狗邪韓国間の七千里を引いた五千里と述べ、高貴な読者のご名算を証している。それが、順当な解釈である。どだい、所在不明の名のみの諸国を取り囲む概念は、てんで無効である。

*十五萬戸の幻影
 ちなみに、「倭人」全戸数十五萬戸は「倭人伝」記事に存在しない。「改竄による誤解」のまた一つの事例である。「倭人伝」の要件は、全所要日数、全道里と共に、総戸数であるから、明解に「七萬餘戸」と明記されていると見るべきである。

 それ以前に、戸数「七萬餘戸」は、全道里同様、概念的と思われるから信用してはならない。戸数は、全国戸籍を積算するものであるから、戸籍制度の完備していない「倭人」に全戸数が出せるはずは無い。公孫氏が景気づけに書いたと見える。その証拠に「可七万餘戸」である。

*姑息な帳尻合わせ
 伊都国まで行程を「周旋」すると、なべて小規模な「國邑」であり、戸籍に基づき千の位であり、万の位の積算の際には「餘」に吸収される。窮したあげく、交通途絶している奴国に二萬戸、投馬国に五萬戸と押し付けたものと見える。
 伊都国到着後に、両国記事を足したのは、全戸数の押し込み先と見える。全国七萬戸のほぼ全てを有する二国が、余傍の国で戸数不詳とはどういう事だろうかと疑問が湧かないのだろうか。「下表」は、一段と意味不明である。

4「水行十日陸行一月」
(1)「水行十日陸行一月」の起点
 [中略]「魏志倭人伝」に記された「万二千余里」と「水行十日陸行一月」は、共にその起点は帯方郡である。[中略]「魏志倭人伝」は、「水行」か書き始められている。[中略]帯方郡からその南方面にある海外の国々に行くには、帯方郡の主要な海港である海州が出発点となる。[中略]
 別に論じたように、「倭人伝」の冒頭は、太古以来公用されていなかった新規概念である「水行」の定義を書いたものであり、実行程を書いたものではない。また、起点が帯方郡というのも、不確実である。そもそも、洛陽・帯方郡の公式道里は「不明」である。
 
 笵曄「後漢書」に志部はなく、補充された司馬彪「続漢書」「志部」には、帯方郡が存在しない。衆知であるが、三国志に志部はない。後代、沈約「宋書」は、「志部」を持つが、既に滅亡して久しい「帯方郡」記事は補充されていない。拠って、洛陽帯方郡の公式道里の記録はない。
 よって、帯方郡は、正史道里記事の起点として不適格であり、陳寿は、不適格な記事は一切書けないから、帯方郡・倭の道里と書いていないと解釈すべきである。
 ちなみに、当時、「海外」などという言葉はない。方々、不合理な御意見であるが聞き流す。
 要するに、臆測、誤解の産物なので、説明戴いてもしょうがない。

 ちなみに、当然であるが、郡治は、郡太守の治所、つまり、城郭である。帯方郡は曹魏の「郡」であり「出先機関」などではない。

(2)「水行十日」の行程
 前述したとおり「魏志倭人伝」に記載されている数値は、約5倍に拡大して認識するように仕組まれている[中略]

 当時の読者は、皇帝に連なる高官有司である。そのような高貴な読者を欺くのは、斬首の大罪である。史官は、史実を記録することに命をかけるが、つまらない虚偽記事に命をかける意識は、まるでありえない。また、史官は二千年後生の無教養な東夷を欺くことなど念頭にないし、また、どう書けば欺けるかの意識もない。意識せずに何か隠謀を仕掛けるというのは、どんな動機で行われるのか、想像もつかない。とんだ、「陰謀論」である。

  まず、「水行十日」である。「水行」は帯方郡(海州)から末蘆国までで、この間の所要日数が「十日」ということである。[中略]

 「海州」は郡治でなく、また、見た所、「州」呼称が陳腐化した後世地名であって、三世紀当時までの文書に存在せず、したがって、三世紀にそのような海港は存在しないはずである。ご確認いただきたい。そもそも、両郡は内陸郡であって、帯方郡に海港などなかったと見える。無批判の摸倣は、命取りである。(Ignorance is fatal)

 海州がどこに在るにしろ、当時の船舶で十日で狗邪韓国に達するとは、途方もないホラ話である。文書使は、遅参すれば両親、妻子もろとも斬首である。無謀な日程を引き受ける者はいない。

                                未完

新・私の本棚 塩田 泰弘 季刊「古代史ネット」第2号  8/11 更新

「魏志倭人伝」の行程と「水行十日陸行一月」について KINDLE版
私の見方 ★★★☆☆ 渾身の偉業、前途遼遠  2021年3月刊 2025/01/20 更新 2025/04/08

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。 

*「海路」幻想蔓延
 魏から倭国へ渡った船がどのような船か、また航海能力がどのくらいあったかはわからないが、推測できる資料はある。[中略]海路遼東半島に兵を派遣し、陸海双方から公孫淵を攻撃する意図と思われる。
 景初二年に司馬懿に命じて公孫淵を攻撃し滅ぼす[中略]。

 根拠のない推測など無法である。巷で出回っていても、古代史で「海路」などありえないし、遼東郡治は遼東半島からみて、かなり遠路である。司馬懿は、託された征戦に敗北すれば、妻子、曹丕、曹植、共に斬首であるから、戦力を、大した兵力を擁していない傍路の両郡に割くはずはないのである。無意味な推測である。
 (明帝が)司馬懿に命じたのは、明らかに景初二年ではない。両郡は、武力無しに帝詔で服従するのは明らかである。ちなみに、両郡兵は東夷制圧が任務であるから、限定されていたはずである。司馬懿に援軍を送るなど、無意味である。

 [中略]登州から楽浪・帯方郡までの距離は約400kmである。
 魏・晋の里(約434m)でいえば約920里で、ほぼ千里である。この間には途中停泊すべき島嶼はない。[中略]

 海船移動に「距離」は、全く無意味である。楽浪郡治と帯方郡治は別の場所であり、「距離」は異なる。なぜ、勝手な理窟を押し付けるのか不可解である。途中停泊など、心配して頂くものではない。海上行程の「里」が無意味であることは、既に断言しているから、言うのも愚かしい。

(3)「陸行一月」の行程
中略]1日333.3余里(約28.7km)の行程となる。

 誤解の辻褄合わせの積層で、理解不能である。ここまで誤解した不合理な推測がうまく行かないツケを、陳寿に持ちこむのは、お門違いである。言うのもくだくだしいが、多桁横書算用数字を持ちだして、333.3餘里とは、無意味の極みである。塩田氏が、泥沼に陥っているのは残念である。
 それとも、部分道里333.3里を三個足しても999.9里で、「ピッタリ1000里にならない」という寓意なのであろうか。

 当時の1日の行程はどのくらいであろうか。[中略]「唐六典」の1日28.7kmよりかなり余裕のある行程となる。[中略]

 以下、氏は陥穽に陥るので意見しようがない。陳寿も見くびられた上に欠席裁判である。陳寿の反論がないが、同意しているわけでは無いと思う。
 其れにしても、数世紀後、体制整備されていた唐代の輸送業の運賃規定が、まともな街道のない「倭人」世界の公文書使、官制郵便の規則に通用するとの楽天的な解釈が不思議である。

(4)邪馬台国の所在地
 不弥国から邪馬台国までは440余里(37.8km)である。[中略]この3点を結んだ線上付近に邪馬台国の中心地があるということになる。

 長途の理屈付けは「ご苦労さん」である。時代錯誤と憶測誤解の積層は参考にならない。精査不足で展開しては、つけるクスリが無い。(意味不明連発である)なぜ、よくわからないことに、これほどの精力を注ぐのだろうか。

 なぜ、不弥国から邪馬台国への街道が書かれているとみたのだろうか。不可解の極みである。

5「魏志倭人伝」の数値はなぜ誇張されているのか。

 以下、史料根拠の乏しい論場が続くが、氏が習得されたらしい「倭人伝」歴史認識に異を唱え、氏が「不合理」に目覚めることを祈る。

(1)陳寿の経歴
[中略]「魏志倭人伝」に記されている数値は、読む人が5倍程度に誇張して理解するように仕組まれている。[中略]「三国志」を編纂した陳寿の経歴及び魏・晋の国内事情を見てみたい。[中略]

*誤解の責任付け回し
 氏は、「誤解」の責任を「読む人」の誇張した理解とばかり、正体不明の被害者に押し付けるが不適切である。陳寿が、「二千年後生の無教養な読者」を騙したと告発するにも、陳寿は、「読者」の理解力を如何にして推察したのか。

 また、陳寿が誤解を誘う表現をとったとは、言いがかりである。当時、皇帝を始めとする読者を欺けば、一家斬首、族滅である。史官は、史実継承に殉じる、つまり、身命を賭するが、史実を偽ることには、命をかけない。見くびってはいけない。まして、「二千年後生の無教養な東夷」に誤解させてどうしようというのだろうか。

 ここで、氏の蒸しかえしに反射的に呼応したのに気づいたが、取り敢えず放置しておく。

                                未完

新・私の本棚 塩田 泰弘 季刊「古代史ネット」第2号  9/11 更新

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*陳寿罵倒の流れ
 陳寿は233年、四川省に生まれ、297年に没している。[中略]その数年後に太子中庶子に任命されたが、拝命しないまま死去した。

 「倭人伝」の史料評価に無意味な風評ではないかと危惧する。いうまでもないと思うが、三世紀当時「四川省」は存在しない。

*陳寿就職
 漢を継ぐ蜀漢官人陳寿に、古典書教養は必須である。亡国で失職したが、後漢後裔の曹魏では益州士人として選挙・登用されたと見える。有司高官張華の重用で魏志編纂に携わったが、時点の権力者 張華の称揚を命じられたものではない。

*張華馘首
 張華は、対抗勢力によって、文字通り馘首された。陳寿は、せい変事、たまたま失職していて連坐を免れた。司馬班陳笵と続く正史史官で、天命を全うしたのは陳寿だけである。

 全体に、陳寿の人格攻撃に努める「ごみ」情報満載で詰まらない記事である。
 以下の不遇も「蛇足」である。「陰謀」を弄して「倭人伝」明記の「邪馬壹国」を否定するのは窮鼠猫を噛む図式と言われかねない。氏が、長いものに巻かれて「邪馬臺国」論に与しているように見えるのは、残念である。

(2)魏・晋の国内事情と朝貢
 当時の魏とその後に成立した晋との関係は極めて複雑である。[中略]

*国内事情
 この程度の政情を複雑と言うようでは、お里が知れる。一つには、未消化のカタカナ語の「クーデター」を、時代錯誤の三世紀に持ちこむからである。要するに、曹操は、建安初頭に流離の皇帝劉協を庇護して、事実上滅亡していた後漢朝を径がいと言えども、形式を整えて「権力者」となったが、後漢は、全土支配を喪失していたから、曹操は、全土統一してはいない。曹操は、継嗣曹丕に禅譲を命じて世を去ったが、初代文帝曹丕、二代明帝曹叡の早世で少帝曹芳の庇護者となった司馬懿は、太后命によって少帝を廃位し、以下、後継者が曹魏天子から国を奪った手口は曹丕の摸倣で複雑でも何でもない。要するに、司馬懿は、少帝庇護者皇太后を籠絡した皇帝廃位で、天下を掌握した。

*朝貢談議
 一方、...朝貢は、[中略]国内に対しても政権の正統性を示す...。

 「中国」は「国」ではないので、「国内」は、無意味な概念である。
 また、『周囲の夷狄』との錯綜は絵解きが必要である。「倭人伝」には、二度「中國」が起用されているが、文脈で読み分ける必要がある。帝詔の「中國」は曹魏天子の支配した国体である。正当性を示す必要など無かった。
 「持衰」談議で「中國」に渉ると称したのは、対海国から狗邪韓国に渡り陸道を行く行程でなく黄海を経て登州、中国本土に乗りこむことを言う。当然、帆船仕立、難船覚悟の「冒険」で、常用されるもので無かった。

 「天子の徳の高さがより高い」なぞ無意味であり、「中国国内」も、重ねて意味不明である。三国鼎立時、曹魏は、全土を支配できず、「中國」と帝詔で威張って見せても、内実は空虚である。大口を叩く前に、歴史を学ぶべきてある。

                               未完

新・私の本棚 塩田 泰弘 季刊「古代史ネット」第2号 10/11 更新

「魏志倭人伝」の行程と「水行十日陸行一月」について KINDLE版
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*加筆再掲の弁

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◯「東夷」戦略の推移
 東夷に対する政策は、歴代王朝に於いて、大きく異動変遷している。よろしくご確認いただきたい。
 秦代、北方を脅かした月氏が配下の匈奴の反乱で壊滅し西域に逃亡した後、新興匈奴が、中國を侵略しようとしたので、秦始皇帝は、各国の国軍を廃止して得た三十万を常備軍として南下を防いだ。

 始皇帝没後は、大軍が二世皇帝の脅威となり、総司令官たる皇太子は自決を命じられ、常備軍は無力化した。
 但し、後に、反乱軍を鎮圧するとの名目で、章邯が二世皇帝に味方する大軍団を組織したが、もちろん、軍兵として訓練を受けた兵士だから、たちどころに大軍が組織出たのは、言うまでもない。

 覇王項羽との総力戦に勝利した漢高祖劉邦が即位した時、匈奴は増長していたので、漢は一大決戦を挑んだ。親征軍を起こした漢高祖は、一敗して山上籠城して和睦を乞い、歳貢と屈従の盟約を甘受した。項羽との抗争で国力を損じていたので和平を買ったとも言える。

*武帝の暴挙
 高祖の孫武帝劉徹は、匈奴和平の善政で充実した国富を傾けて征討大軍を起こし、年月を要したものの匈奴覇権を打ち割り、漢帝国の面目を回復したが、国富を傾け、さらには、国富に匹敵していたとされる大規模の皇帝の私的な財産であった塩鉄専売益まで投入して勝利しても、獲得した匈奴国土は「荒れ地」であり得るものはなかった。
 高価な勝利で傾いた財政が回復できず、漢帝国は酷税の道を辿ったのである。武帝以降の各皇帝は、武帝の壮大な浪費の齎(もたら)した弱体財政を制御できず、外戚王莽の政権奪取を許したのである。

*光武帝の画策
 王莽「新」帝国を一掃して漢を回復した光武帝は、帝国再建のかたわら匈奴防戦に努めた遼東太守祭肜(さいよう)は、匈奴左翼の鮮卑への壮大な褒賞で匈奴打倒を実現し、国境防備の戦費を鮮卑への歳貢に回した。
 しかし、祭肜は、赫赫たる成功の後、鮮卑の陥穽に墜ちて前線を退き、鮮卑、烏丸が台頭した。この間の事情は、笵曄「後漢書」本紀、列伝及び東夷列伝から明らかである。たとえば、安帝紀は、ほぼ、毎年のように鮮卑の侵入を掲示している。

 陳寿は、そのような経緯を東夷伝評に記したが、魏志の埒外であるから「倭人伝」本文から割愛したものの「国志」読者たる皇帝初め高官読者に明白で書く必要はなかった。

*曹操の一撃
 霊帝没後の全土大乱を鎮圧して「中國」を回復した曹武曹操は、袁氏掃蕩時、烏丸精鋭を承服させた。以降、中原確保と華南征討に注力したのである。

*公孫氏胎動と排除
 かくして、中原が「大乱」という名の内線、戦乱に沈んでいる傍ら、公孫氏は、遼東郡太守と言いながら自立して東夷に君臨したと見える。曹魏二代皇帝明帝は、これを不快として、蜀漢、東呉の北伐が影を潜めた機会に、司馬懿に遼東征伐を命じたが、不首尾の際は、宿老司馬懿一門を一気に排除する目論みとも見える。
 司馬懿は、公孫氏の東夷支配の機構を、官人もろとも根こそぎ破壊したから、以後の東夷支配には、関心がなかったと見える。現に、遼東から帰還した司馬懿は、原職復帰が想定されていたのである。東南遠隔の東夷「倭人」を懐柔して高句麗、鮮卑を制圧する東夷政策は、気心の知れた毋丘儉の献策と見える。

*列祖明帝の野望
 明帝は、両郡収容で得られた速報で、一旦「倭人」は萬二千里の大国と認識したものの、続報で近隣と知り、急遽招聘・厚遇する構想を抱いたと見える。萬二千里の遠隔地に大量の下賜物を届けることは考えられないのである。
 また、孫権没後の東呉退潮もあって、「倭人」に、東呉「牽制」を求めるなど必要無かった。

*「倭人」厚遇寸劇
 二千年後生の無教養な東夷には、分不相応としか見えない下賜物も、鮮卑を懐柔した後漢光武帝の顰(ひそ)みに倣った「奇貨居くべし」、掘出物褒賞と思われる。皇帝独裁の弊害は、増長したとも見える宮殿造成にも見える。洛陽官人動員は「無法」・「無謀」と諫言されたほどの強行であったが、直後、景初三年元日の急逝で中止された。
 明帝急逝後の正始初頭の下賜物は、景初二年末に帝詔で始動していたから継続されたが、所詮、在庫整理である。もちのろん、以後の下賜物は、分相応である。
 一年後、明帝没後であれば、帝詔も黄金印もなく、下賜物は単なる厚遇となり、少帝後見人は、帯方東南弱小勢力を賓客としなかったはずである。景初二年六月の「倭人」帯方郡参上は、当然の運びなのである。

                               未完

新・私の本棚 塩田 泰弘 季刊「古代史ネット」 第2号 11/11 更新

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*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。 

*「倭人」幻想の退潮~重複御免
 「倭人」は萬里遠隔の七萬戸大国』とは虚構である。
 牛耕なしで良田なし、戸籍なしで、「戸数」は虚飾。郵便、荷馬車なしで「道里」は虚飾。である。税の物納不可能、銅銭無くして銭納不可能である。高齢者や女性水増しの戸籍であって、奴国、投馬国戸数は虚構で、要するに、実力は、全国萬戸に満たない。
 ないない尽くしの「倭人伝」は、「倭人」が「弱小貧弱」と示すもので明帝への苦言である。

 ちなみに、景初二年の参上の際の手土産は、無教養な後世人から貧弱と言われるが、手みやげが立派だと苛税が募るし、極端に豪勢だと略奪を呼び込むようなものである。貧弱だったのは、郡官人が配慮したものと思われる。お返しが壮麗だったので、郡官人は、震え上がったと見て良いと思われる。
 ついでながら、後漢献帝期の乱世を体験し、全国の饑餓を辛うじて乗り切った魏晋には、尊大な「中國」意識はない。『大乱統一に失敗したやせ蛙の曹魏「中國」は』と書くべきである。

*魏略「西戎伝」談議
 魚豢「魏略」「西戎伝」は魏志第三十巻巻末に裴注補追されて、全巻健在である。ただし、「西戎伝」は「魏略」ならぬ「漢略」であって、曹魏事績が乏しく「魏書西域伝」など書きようがなかったのは、明白である。

*貴霜国の虚構
 三世紀後半、安息国がローマ帝国侵略で凋落した後、ササン朝が興隆し、東方に領土拡大していたから、貴霜国は中國に支援を求めたかもしれない。暴掠「月氏」騎兵はとうに貴霜国に吸収されたし、かって痛撃を喫した安息国は、もはや復讐を言わず商業立国であったから、平衡を保ったのである。

 厚遇戦略により後漢撤退後の貴霜国東進を制したとも見えるが、曹魏の西域は、蜀漢と締盟の涼州閥に遮断されていた。洛陽鴻臚の漢代実録から「貴霜国は仇敵、来貢は僥倖」と知れていた。厚遇は金印一個の手当であって、真意ではなかったのである。白鳥庫吉氏の大著に学ぶべきである。

*東呉の虚構
 一方、司馬懿は西南の蜀に対する戦線を担当していたが、[中略]公孫氏の討伐を命じられ、これを滅亡させる。[中略]

 司馬懿は、諸葛亮の北伐を、大敗を避けて受け流すだけで済ませて身の安泰を目的としていたが、遼東征圧に駆り出されて死力を尽くさざるを得なかったのである。幸い、勝運に恵まれただけで、遼東の体制を回復する意気は皆目なくて、秦代以来の遼東郡を形骸化して権力の空白を招いた。両郡を支持しなかったので、高句麗は南下し百済、新羅まで収めた。
 ちなみに、景初二年「倭人」が明帝督促で郡治参上したのは、司馬懿戦略には、全く関係無かった。随分勘違いが過ぎる。
 魏志編纂時、東呉は「呉書」を奉呈して滅亡していた。貴霜国は、ササン朝の東進によって、滅亡していた。よくよく、時代考証すべきである。

(3)魏と倭国
 当時の魏は、呉との間で鋭く対立していた。[中略]梯儁は倭国に至る行程、国情、政治・民生状況などを詳細に把握して報告したものと考える。

 「倭人伝」原文の理解なしに臆測と受け売りで現代概念濫用は迷惑である。
 曹魏にとって、東呉は不服従な臣下に過ぎない。対等でないから「対立」は、誤解である。しばしば、東呉は、曹魏に服従を申し入れて時間稼ぎをしていたと見える。対立に近いのは、後漢後継と称して中原回復を標榜して北伐していた蜀漢である。
 「当時」、溯って曹魏景初年間の中國、つまり、中原井蛙の曹魏は「倭人」を知らなかったが、楽浪/帯方郡は知悉していた。勘違いしてはいけない。司馬懿は、遼東郡を全壊して古来公文書を破毀したが、楽浪/帯方郡新太守は、公文書庫の「郡志」を明帝に上程したから「倭人」は明帝の知る所となった。何とか、間に合ったのであるが、景初三年元日の明帝逝去により、以後、形勢は一変したのである。

 「合従連衡」は、大国秦の一強に抗して戦国各国が展開した連立工作である。時代錯誤である。
 蛮夷に「通商」、「外交」は存在せず調べようが無い。時代錯誤連発である。
 言葉の通じない蛮夷の国での梯儁の動静は「不明」としか言いようがない。「倭人伝」は、場違いの記録ではない。東方域外は不詳としている。

 念のため言うと、魏使/郡使が、下賜物を担って倭に至った行程は、「倭人伝」に記録された一路南下で明解な「公式行程」と同一かどうか不明である。勝手に背水の陣を敷いて、攻撃してこないことを望む。

◯まとめ
 以上、長々と講釈したが、氏は、恐らく、このような合理的な解釈を、まるでご存知なかったものと見えるので、僭越にも、当ブログ提起の「一解」を述べ立てたものである。さぞかし御不快であろうが、御容赦いただきたい。

                               以上

2025年4月 7日 (月)

新・私の本棚 安本 美典 「魏志倭人伝」 「現代語訳」1/2

 「魏志倭人伝」「最新邪馬台国への道」(1998梓書院)より Rev.2 2024.8.6  初稿2025/04/06

◯はじめに
 本件は、「邪馬台国の会」サイト「解説」の記事である。安本美典氏の著書の引用と見えるが、別サイトで参照していて信頼されていると見えるので、率直に批判したいとしたものである。陳寿「三国志」魏志「倭人伝」の紹興本依拠とのことである。

*本文概要とコメント
「魏志倭人伝」の原文は、句読点もなく、章や節などもわけられていない(が)中略、三章五十節にわけ、見だしもつけた。
このように章や節にわけてみると「魏志倭人伝」はつぎの三つの章にわけられるような、かなり整然とした構成をしていることがわかる。
第一章 倭の国々  第二章 倭の風俗  第三章 政治と外交
中略 陳寿は、諸種の資料を 中略 整理したうえで記したとみられる。

1.倭人について 倭人は、(朝鮮の)帯方(郡)(中略)の東南の大海のなかにある。山 中略 島によって国邑中略をなしている。

 「倭人は、帯方東南に在る。大海中山島に在って国邑をなしている」が本意と思われる。「倭人伝」は、「倭人在」を述べ「大海在」を述べない。因みに、「海中」は、今日で言う「海上」である。

2.狗邪韓国 (帯方)郡から倭にいたるには、海岸にしたがって水行し、韓国(
中略 )をへて、中略 倭からみて北岸の狗邪韓国(中略)にいたる。

 「海岸にしたがって水行」は早計に過ぎ、これでは、三韓を歴訪できない。郡から七千余里の陸上街道狗邪韓国の大海北岸に到ると解すべきである。ここまでは、郡管内なので淡白なはずである。
 それはさておき、「郡から倭にいたるには」と文を書きだして、いきなり「狗邪韓国に到る」で結んでは 文になっていない。
 「郡から倭にいたる」を 小見出しと見立てて一旦締め、続いて「海岸から渡海するのを水行という」との定義を挟んだ後、「以下、区間の記事を書く」示唆してご指摘のように、個条書き風記事としているものと見える。ご一考いただきたい。でなければ、延々と文が続いて、伊都国に着く頃には、文頭は、巻き取られていて(高貴な)読者には何の話かわからなくなるのである。激怒を買いかねない。
 陳寿は、物書きの専門家であるから、何の構想も無しに書き連ねることはないはずである。 

3.対馬国 中略 はじめて一海をわたり、千余里で対馬国にいたる。方(域)は、四百余里。中略 道路は、禽と鹿のこみちのようである。中略 南北に(出て)市糴(中略)している。

 ここから、倭に至る行程が語られるのである。予告したように、狗邪韓国の海岸から「水行」、つまり、渡海するのである。
 本意は、『倭地では、中国では馬車が往来すべき道路(公式街道)が「けものみち」である』の断言と見える。
 また、「方四百里」を「域」、面積表示と明快であるが、何の「域」か不明である。話せば長いので、どけておく。
 また、単に南北市糴と思われる。わざわざ出ていかなくても、客が来るのである。

4.一支国 また南に一海をわたること千余里、名づけて瀚海(中略)という。一大国(中略)にいたる。 中略 方(域)は、三百里ばかりである。中略 又南北に(出て)市糴している。

 「一支国」と速断するのは、早計である。また、「瀚海」は対馬―一大間のみである。
 「方三百里」の解釈は、先例に同じ。「南北市糴」の解釈は、先例に同じ。

5.末盧国 中略 千余里で末盧国  中略 みな沈没してこれをとる。

 末盧国を後の肥前国松浦郷とは早計である。本意は「濱の近くにまで」である。因みに「沈没」の本意は、身を屈める意味である。

6.伊都国  中略 伊都国を後の筑前怡土郡とは早計である。
7.奴国   中略 奴国を後の筑前那の津とは早計である。
8.不弥国  中略 不弥国を後の筑前宇瀰とは早計である。
9.投馬国  中略
10.邪馬台国 南 中略 邪馬壹(中略)国(中略)にいたる。女王の都とするところである。水行十日、陸行一月である。中略 七万戸ばかりである。

 「邪馬壹」を「邪馬臺」の誤りとするのは、早計である。「邪馬臺」を「やまと」と発音すると決め込むのは、おそらく早計である。
 「女王の都とするところ」とは、早計である。「女王之所」つまり居処、「都水行十日陸行一月」(全日数)と仕切るものではないか。
 また、「七万戸ばかり」は、仕切り直して、全戸数総計と解すべきではないか。文書行政の本拠である「女王国」が、戸籍の無い未開の戸数管理の筈がないのである。

                               未完

新・私の本棚 安本 美典 「魏志倭人伝」 「現代語訳」2/2

「魏志倭人伝」「最新邪馬台国への道」(1998梓書院)より Rev.2 2024.8.6  初稿2025/04/06

11.女王国より以北      中略   12.女王国の境界    中略
13.狗奴国          中略
14.一万二干余里の道程    中略  女王国にいたるのに一万二千余里ある。

 12までが「女王の範囲」としている文意から14は本来13の前である。(余談である)
 大昔に聞いた「従郡至倭」の結論であるが、「自郡至女王國」と言い回しを変えていので、読者に恥を欠かせないのである。

第二章倭の風俗
15.黥(いれずみ)      中略

 大人小人は、身分を言う。子供の刺青は無法である。「海人」は、用語として成立しないので早計である。

16.会稽東冶の東  中略 会稽(郡)の東冶(中略)の東にあたる。


 「東治」を「東冶」と強引に読み替えるのは、早計である。
 同時代、会稽、建安東冶縣は東呉領で、陳寿が「魏志」に書くはずはない。

17.風俗・髪形・衣服     中略  18.栽培植物と繊維    中略
19.存在しない動物      中略  20.兵器         中略
21.儋耳・朱崖との類似    中略
22.居所・飲食・化粧     中略  菜は、食事一般のことである。余談である。
23.葬儀           中略  24.持衰         中略
25.鉱産物          中略  26.植物         中略
27.存在する動物       中略  28.ト占         中略
29.会同・坐起        中略  30.寿命         中略
31.婚姻形態         中略  32.犯罪と法       中略
33.尊卑の別         中略  34.租税と市       中略
35.一大率          中略  36.下戸と大人      中略

第三章政治と外交

37.女王卑弥呼倭国大乱    中略  「大乱」とは書かれていない。天下の常識のはずである。
38.女王国東方の国      中略  39.侏儒国        中略
40.裸国・黒歯国       中略  41.周旋五干余里     中略

 「参問」を「人々に問い合わせてみる」と解釈するのは、意味が通らず早計である。
 普通に、実際に「倭地を訪問すると」と解釈するのが自然である。
 「周旋」を「めぐりまわれば」と読み替えるのは早計である。「往来する」と解釈するのが自然である。

42.景初二(三)年の朝献 
    中略 「二年」を、後世資料に縛られて明帝没後の喪中の「三年」と読み替えるのは早計である。
43.魏の皇帝の詔書      中略  44.正始元年の郡使来倭  中略
45.正始四年の上献      中略  46.正始六年難升米に黄憧 中略
47.卑弥呼と卑弥弓呼との不和 中略  48.卑弥呼の死      中略
49.女王、壱(台)与       中略

 「壹輿」を後世資料に縛られて「臺與」と読み替えるのは早計である。

50.壱(台)与の朝献
 中略

◯最後に 賞賛と苦言
 世上、勝手訳が蔓延して埋もれているが、論理的に明快で、かつ、端正な麗訳である。
 是非とも、天下に広めて乱世を鎮めるべきである。その際、「早計」事項を再考いただければ幸いである。
 それにしても、批評の為に適法な範囲で些少な引用を行ったことは、さぞかし御不快でしょうが、ご寛恕いただきたい。
 なお、批判の根拠は膨大に渉るし、諸兄姉には自明と思われるので、割愛させていただいた。

                              以上

2025年4月 4日 (金)

新・私の本棚 生野 眞好 陳寿が記した邪馬台国 魏晋朝短里再論 1/2 更新

海鳥社 2001年 7月 2019/02/08, 03/21, 08/05 2020/05/06 2021/12/12 補追 2022/01/25 2023/08/29 2025/04/04
私の見立て ★★★☆☆ 有力 但し、「短里説」依存は不合理

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。 

◯再掲の弁
 随分旧聞になりましたが、当ブログの守備範囲の名著なので、内容を更新しました。徐々に結論が動いていますが、当方(ブログ著者の一人称)の見識の進展を示す意味もあって、再掲としました。

*総評   論点を絞り、論拠を明確にしました。 2019/08/05
 当ブログで、批判記事が短いのは、概して同感できる部分が多いことの表れです。「倭人伝」里制考証に絞ると、生野氏は、古田武彦氏の第一書における提言「三国志短里説」に賛同して、「三国志」全体(蜀書を除く)が短里制と判断したものの、安本美典氏の指摘で、「三国志」文献精査により検証を図り、最終的に、古田氏が更新した「魏晋朝短里説」を支持しています。
 と言うものの、以下に批判するように、氏の検証結論は疑わしい(ほぼ否定的という意味です)のです。

*魏晋朝短里説への批判 (決定的否定論の趣旨です)
 「倭人伝」の道里行程記事の考証で、理性的な研究者が必ず直面する課題は、「従郡至倭」と明示された区間の道里が万二千里と明記されていますが、中国古代の里制で言う普通「里」は、切りの良い数字で450㍍として六倍程度と推定されるのです。

 ところが、一見して(誰が見ても、見るからに)不合理に見えるにもかかわらず、編纂内容に責任のある陳寿が、検証と推敲の上で、あえてそのように書いたことに対して、当時最高とされた専門家が異を唱えず、西晋滅亡後に、江南建康で漢以来の天下を継承したとされる南朝劉宋の史官裴松之も異を唱えていないのです。ちなみに、隋唐は、西晋滅亡後に荒廃した「中原」を占拠したものであり、天下は継承していなかったのですから、御意見を一応聞き置くにしても、魏志「倭人伝」に対して論議を加える権威は与えられないのです。
 現に、「舊唐書」は、「倭」からの遣使を受けた後にも拘わらず、そして、新州刺史高表仁の現地確認を経たにも拘わらず、「倭國者,古倭奴國也。去京師一萬四千里,在新羅東南大海中」と「倭人伝」の「倭人在帯方東南」、「従郡至倭萬二千里」を遵守しているのです。
 ということで、「倭人伝」の「従郡至倭萬二千里」は、南朝を撲滅した唐に至る歴代中国王朝の金科玉条であったことが明白です。
 補注 2025/04/04
 
 素人目にも非合理な数字を書いた以上、当時の知識人に不備が丸見えと思われるのに対して、特段説明がされずに放置されている
合理的な説明を求められることにあります。当然、世上の俗説の大半は、いきなり排除されるのです。

 これに対して、「倭人伝」の「短里説」は、一見、筋の通った解答のように見えますが、公的資料に、一切、里制の変更が明記されていないため、否定的な見解に直面しました。古田武彦氏は、「魏晋朝短里説」により、一種、臨時の政策として短里制が施行されたとの解釈により、施行期間を限定し、根拠となる記事を、「三国志」全般に求めました。期間は、「魏文帝曹丕(後に明帝曹叡と修正)に導入し、東晋再興時に廃止された」と判断しました。(第一書『「邪馬台国」はなかった 』(1971)で「三国志」短里説を提唱、以後、「魏晋朝短里説」と修正 )しかし、魏志、晋書、両正史に里制改訂の記録は存在しないので、晋書「地理志」の記事と併せて、魏朝は短里制を採用しなかったと断定できます。
 また、仮に、いわゆる「魏晋長短里」が撤回されたと想定しても、先に確認した通り、「舊唐書」に書かれた「倭国」道里が、いわゆる「短里」に即して書かれていることと整合しないのです。

*短里談義 再確認
 古田氏の所説は、六尺一歩(ぶ)を里の根拠とする秦制に対して、魏朝短里の根拠を一尺一歩とすることにより、里が秦制の六分の一長となるとの論法のようです。秦始皇帝が、周の「尺里制」を「歩里制」に「きっちり六倍」したとすれば、「尺度」が動揺せず筋が通るのですが、それでは「歩」が六分の一となると、各地の農地管理への影響が途轍もなく大きく、国政の根幹を揺るがす/壊滅させる「大事件」です。
 例えば、田地の広さを示す常用単位である「畝」は、「歩」と連動していますから、課税単位が変動して国家の土台である税制が崩壊します。
 つまり、農地の検地に新「畝」が強制されると、土地台帳訂正、更新、地券改訂の厖大な業務で全土が混乱します。時に、暴君と批判される秦始皇帝すら、天下統一後の「中国」に、秦制土地制度を徹底しても、自国の土地制度を書き換えることは、厳重に避けたように見えるのです。

 何しろ、俗説派の口癖と見える「百害あって一利なし」、絶対悪ですから、考えもしなかったでしょう。

*秦里制創出の不合理
 そもそも、秦が中原文化圏に参加した東周春秋時代、里制を包含する膨大な度量衡大系を確立し諸国に徹底できたのは、全国を文化で統御していたとされている西周時代の周だけであり、新参で未開の秦が、春秋戦国時代に、依然権威を持っていた東周周制を勝手に改変して、不法で征伐の対象となる独自の国内制度を制定したとは思えないのです。つまり、秦の国内制度は、まずは周制そのものを踏襲していたのです。文字を知らず計数ができなかった秦が、文明的な国法を施行したのは、中原の先進国魏から渡来した商鞅の功績とされています。
 その周制が、いわゆる「短里」であったとする確たる「証拠」は、一切残されていません。むしろ、晋書「地理志」に引用された「司馬法」によれば、周制は秦制に継承されたのであり、そこには、いわゆる「短里」は見当たりません。

 後は、俗信に依れば、秦始皇帝が、全土統一の際に、周制を引き継いだ自国里制をそのまま敷衍せずに、膨大な努力と諸国の反発が必然である全国里制の体系を創設、強制したことになりますが、そうでなくても、全国各地に官吏を赴任させるために、確立していた秦律の確立に必要な膨大な分量の文書制定、公布に尽力していたのに、一言で言えば、国政に何の利益も生まず、皇帝威光の高揚にもならない些末事に、それほどの危険を冒して、壮大な精力を注いだだろうかと言うことです。少なくとも、そうであれば、秦皇帝の格別の業績として明記されたはずです。
 以上は、あくまで状況証拠ですが、安易に排除すべきではないと考えます。

 重ねて言うと、当時の算木算術では、既定里の六倍/六分の一換算は、ほぼ不可能でしたから、全国で里制切り替えの実務が達成できないのです。(計算不要の十倍/十分の一なら、話は別ですが)

 再確認すると、太古以来晋代に到る里制の原史料が集積された晋書「地理志」は、秦里制は周制の継承としているので、周制短里は、歴史を知らない後世東夷人の誤解と見るべきです。
*無駄な史料審議 補筆2025/04/04
 氏は、40ページ以上にわたり「三国志」里制関連記事を審議しますが、陳寿自身が編纂した「魏志」はともかく、広範に東呉史官韋昭編纂の「呉書」を採用した「呉志」、さらには陳寿不関与の裴注所引「呉録」、「呉書」記事を議論しても無意味です。『魏制不追従の「蜀志」記事』『「魏志」の後漢朝期記事』の議論も無意味です。後漢献帝「建安」年間は、宰相から魏王に上り詰めた「曹操」の政権といえど、当然後漢制です。
 中国は、秦始皇帝の全国統一以後、一貫して、「法と秩序」を絶対信条としていますから、時々の「天子」の気紛れで、国家制度を揺るがすことはないのです。なぜなら、時の「権力者」は、ほんの一時のものであり、時期が来れば、あるいは、天命が変われば、あるいは、寿命が尽きれば、たちまち、権力者は権力者でなくなるのです。
 
 このような、適切な論拠に欠ける作業仮説の検証が、証拠としての適格性が疑わしい記事文例の解釈論として蒸し返されては、永遠に論争は終結しません。論拠なき「魏晋朝短里」説の論拠確立は、このように不法と見える仮説の提唱者に、全面的に立証責任があります。

*地域短里説談義

 と言うことで、「倭人伝」道里は、魏晋朝の全国制度ではなく、せいぜい郡特有の地域里と見えます。
 しかし、法治国家である魏朝が、帯方郡において、不法な里制が施行されているのを見過ごしたとは、どうしても説明が付かないのです。
 秦代創設の遼東郡と漢武帝創設の楽浪郡は、「漢」の地方郡となって久しく、楽浪郡に中原の影響/後漢官制が届いていたと見える後漢末期、国政混乱に乗じて公孫氏が台頭、割拠したとはいえ、秦始皇帝が、統一した天下に普及させた「普通里」(450㍍程度)が、長年施行され、土地制度、税制の根幹となっていたと思われます。特に、土地制度/税制は、国政の根幹であり、変えようがないと言うべきです。

 陳寿が「倭人伝」の道里行程記事に筆を及ぼした時、同地の里制は、公孫氏時代以来継承されているため、史官の本分に照らして、公文書記事は不可侵であるため、里数に手を加えないことにしたように思います。

*明快な見解 補筆2025/04/04
 というか、もっと、明快な意見としては、「倭人伝」に書かれた、「従郡至倭萬二千里」は、後漢帝国の地方機関として運用していた遼東郡が、後漢霊帝後の内乱状態で、自律的に運用していたとき、来訪した「倭人」の身許調査/身上書作成したとき、「国名 倭人 君主の居処 邪馬壹国 戸数 七万戸 城数 三十城 道里 万二千里」と仮定したものが、以後、是正されずに継承されたものと見るのが、順当な解釈と見えます。遼東郡が新設した帯方郡は、後漢制に従って検地、戸籍登録されたと見え、郡内街道も、郡の義務として整備したとみるべきです。

 結局、秦代以来の「普通里」と整合しない道里が書かれた公孫氏代以来の遼東郡/楽浪/帯方郡公文書を、合理的に説明するのに専心したのが、「倭人伝」道里行程記事となったと見えます。もっとも、周代以来、道里は、普通里(当ブログでは、概算に適した、450㍍を起用)が適用されていたので、自明の普通里が生きていたのです。書き出しで、公式道里が適用されていたはずの、郡狗邪韓国道里を七千里と明記した意義は、そこにあるように見えます。

*「里」の二面性説について
 当然、氏は、晋書「地理志」などを熟読しての事でしょうが、三世紀当時、距離計測単位の「里」、「道里」と土地区画の「里」、「方……里」は、単位系が異なっていたかと提起しますが、結論先行で書き募って、文献証拠は、いずれ整うというのでは、論議にならないので残念なのです。他の著者であれば、未熟な故の憶測が混じることはさほどの難点ではないのですが、生野氏の著作姿勢からすると不満なのです。
 因みに、当ブログ筆者の意見は、氏の臆測が、実は、ずばり正鵠を得ていたという意見です。もちろん、推測で証明したわけではなく、「九章算術」の演習史料に示された原則と陳寿「魏志」東夷伝「倭人伝」の文脈精査から得られた結論ですが、そのためには、「短里説」を忘れ去る必要があるのですから、氏には、かなり困難な(ダイハード)回心と見えます。話せば長いので、別項に譲りますが、無理を承知で、萬里を出発点に戻り、万事確認の上、然るべく転進することをお勧めします。

 と言うことで、長々と論じましたが、いわゆる「短里」は、氏の創唱でなければ、氏の独創でもないので、以上は、氏の個人攻撃ではないのです。

                                未完

新・私の本棚 生野 眞好 陳寿が記した邪馬台国 魏晋朝短里再論 2/2 更新

海鳥社 2001年 7月 2019/02/08, 03/21, 08/05 2020/05/06 2021/12/12 補追 2022/01/25 2023/08/29 2025/04/04
私の見立て ★★★☆☆ 有力 但し、「短里説」依存は不合理

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。 

*「安本提言」について
 生野氏の論説は、「倭人伝」道里における、いわゆる短里説」の事実上の創唱者で、古田氏の「魏晋朝短里説」を早々に棄却した安本氏の慧眼には、筋の通らない俗説に囚われた「憶測」と映ったのでしょう。もちろん、安本氏は全知全能でなく、当然、時に早合点もありますが、今回は、「史学論文は史料に基づくべきだ」と言う蘊蓄に富んだ教えです。従うべきです。

*伊都国と王都談義
 生野氏の著作に示された意見で、傾聴すべき点は多々ありますが、肝心なのは、倭王の「居処」が、伊都国の直ぐ南にあったという明快な意見です。女王国は、各国間係争をさばく権威を有したはずであり、近距離にある必要があるのです。

*京都(けいと)の名残り
 おそらく、伊都国は、依然として王国機構、つまり有司を抱えていて、共立した女王の「居処」は、倭の一宮(いちのみや)的存在で、氏子総代の伊都国、奴国の支持を受けていて、中でも後背地の伊都国から、食料搬送と伝令往来の容易な位置だったはずです。公的に文字がないため、盟約も、法律も、文書連絡も無い世界で、まして、騎馬文書使が存在しないのでは、指令も報告も伝令を送るしかなく、歩行一ヵ月彼方の遠隔地は、到底支配できないのです。

 因みに、伊都国の戸数が存外に少ないのは、農漁村部が少なくて耕作地が少なく、一方、徴税、徴兵の対象外である官員が多く、税収や兵員動員が実人口に比して少数だったのであり、往年の「京都」としてはむしろ当然でしょう。これも当然ですが、伊都国は戸籍が整備され、戸数に漏れや読み違いはないのです。もちろん、後世の間違いだらけで大変不確かで史料として一切信頼を置けない「翰苑」に「万戸」とあるから「倭人伝」現行刊本を改竄する』というような蛮行は論外です。それにしても、世上、無法な暴論が幅をきかせるのは、困ったものです。

*「女王之所都」 の幻影
~2021/12/12 追記 2023/08/29 補追
まことに差し出がましいのですが、「倭人伝」で、倭王「卑弥呼」が「王都」を設(しつら)えていたというのは、大いなる誤解です。魏志は、中国正史ですから、「史記」、「漢書」以来の正史用語に従わねばなりません。漢書「西域伝」は、西域の蕃夷の国々の銘々伝を立てていますが、いずれの国も「王都」の称号を有していません。(西の果ての超大文明国安息国[パルティア] は、唯一の例外です)
 つまり、「王都」は、本来、高貴な身分である周「王」の住まうところであり、蛮夷の王は、形式的に尊称を与えられていても、中国の「王」ではないので、「王都」と称することはないのです。従って、陳寿が「女王之所都」と書くことはあり得ないのです。(「女王の所に至る。すべて水行十日、陸行一月」と句読点を打つべきなのです)史書の用語として、「在」は、高位の臣下の所であり、「居」は、下位の臣下の所なので、東夷女王の所は、せいぜい「居」であって「都」などではないのです。

 因みに、「伊都国」は、固有名詞として許してしまったものであり、以後、歴史の霧の彼方に消えてしまっています。誰とは言いませんが、いや、生野氏は、糸島説に同意していないのですから、ここで述べた意見は、見当違いなので、逸れ弾御免です。良くある説は、一方で、根拠無しに「伊都」「糸島」説を担ぐのですから、無節操もいいところです。

 「都」なる漢字は、太古以来、多様な意味で用いられていますが、「都」(みやこ)の意味で使われることは、大変少ないのです。何しろ、同一時代に、天子の住まう「都」は、一カ所しかないのであり、混同されることはないし、むしろ、憚るものなので、用例は少ないのです。
 平文で「都」と書かれているときは、そのような畏れ多い意味でないのは自明なので、それ以外の意味で解するのです。いちばん、普通なのは、「すべて」の意味であり、後世になると、「都」は、「大きなまち」の意味となっているのです。
 
とかく、国内史料、史書、諸賢、諸兄姉は、まことに無造作に、軒並み「都」を使用しますが、綿密な史料考証で用語を是正しなければならないものと思うのです。
 
*成文法談義
 「倭人伝」には法を示唆する記事があり、後世の唐律令のように膨大克明でなくても、識字層が成文法で律したはずです。つまり、各国の中核には識字官僚がいたか、「巡回指導者」として刺史を配し諸国の文書行政を支えたのです。

*狗邪韓談義~「エレガントな解答例」
 氏は、狗邪韓国は、弁辰狗邪国ではなく「狗邪韓」国であり、「倭人伝」文脈では、「倭」の半島における北辺であり、それ故、「従郡至倭」として倭北辺に至る七千里を書いたと提言し、それはそれで、何より求められる単純明快さを備え、かつ、安直な現代人史観を廃した「エレガントな解答例」と見ます。アレキサンドロス大王もどきの快刀乱麻など、前々世紀の遺物です。

 但し、私見では、「歴韓国」に続き「狗邪韓国」と書く以上、やはり韓の一員と見えます。倭の一国なら韓国と誤解されない書き方があったはずです。結局、この国は、韓の一員だから狗邪韓国と名乗ったように見えます。

 また、氏の半島行程の南岸周航は、ほぼ「歴倭」~「倭岸水行」となり、なんとも不審です。何か勘違いしたのか、それとも、渋々導師の教えに従ったのでしょうか。今日、真剣に南岸周航を固持している方はいないものと思うのですが、とうに「消え」たはずの「レジェンド」(ゾンビー)が、白昼のし歩いているのでしょうか。

 と言うことで、氏のこの提言に賛成できないのです。ただし、例の如く、賛成できないと云うだけで、否定しているわけではないのはご理解頂きたいのです。

*「地理志なき三国志」談義
 「三国志」に「地理志」がないのは無理からぬ事と思います。魏は全土支配してなかったので支配外の呉、蜀の「地理志」が書けないのです。正史を編纂して、帝国の威儀を保とうとした東呉はともかく、蜀には史官が十分に整っていなかったので、「地理志」のもとになる公式記録が存在しないのです。陳寿が、蜀志の編纂に協力しても、「地理志」、「郡国志」の根幹である公文書がなくては、三国志「地理志」、「郡国志」をまとめようがなかったのです。
 因みに、時代経過で言うと、南朝劉宋の正史「宋書」は、「州郡志」なる地方郡志を整えましたが、梁代の編纂時には、三国時代の史料が乏しい上に、晋書未編纂で、晋代、特に西晋代の史料が散逸していたため、不完全となった述懐しています。
 郡制を論じると、郡分割、新設記事は、本紀に書き込まれていても、廃止や併合は、書かれていないことが多く、難航したとされています。宋書自体も、南朝が陳を最後に撲滅されたため、散佚が甚だしく、正史といえども、欠損が多いようです。

*地域短里制宣言談義などなど
 当方は、倭人伝道里行程記事の冒頭で、帯方郡管内の狗邪韓国までの(陸上)行程を七千餘里と明記したのは、海南東夷の領域まで敷衍すべき限定的な里を明確に宣言し、史官としての叡知を刻み込んだと見ます。少なくとも、今日に至るまで「日本」の一部の頑迷な牢固たる捏造説固持者を論外として除けば、倭人伝の「鉄壁」を否定しようとしたものすらいないのです。
 何しろ、「日本」は、中国の土地制度を導入せず、そのため、国家の根底を不朽不滅の「里」におく土地管理が、遂に維持されなかったので、「里」は、時代地域によって異なるなどと、いい加減な常識を持って、雑駁に中国の制度を論じているので、「倭人伝」の道里行程記事を適確に解釈することなどできないのです。

 因みに、後世、帯方郡滅亡後の三国時代以降の現地里制は不明ですが、太古以来、里制は土地制度に釘付けされているので、時代を越えて維持されたはずです。統一新羅の遣唐使が、ほぼ同一行程(宿舎が整備された一級官道)を二百回余り行き来したはずですが、当然、普通里で測量していたはずであり、いずれかの時点で、百済と新羅が全土に普通里を敷いたのでしょう。

 もちろん、統一新羅の遣唐使街道の出発点である新羅王都慶州(キョンジユ)は、帯方郡官道の終着点であった狗邪韓国から、山地を挟んだ北東方にあり、この地域で官道が利用していたと思われる洛東江街道から外れているので、当初は、遣唐使街道は並走して北上したでしょうが、結局、洛東江が中上流で随分蛇行したうえで大きく東転と見える地域で合流します。
 その後、半島の嶺東側から黄海側に出る古街道筋と思われる栄州(ヨンジュ)~忠州(チュンジュ)間の峠越えは、鞍部とは言え、結構険阻な峠のようです。峠を越えて、南漢江中流に降りた後の黄海側官道も、いずれの海港を目指すかによって南北に分岐するものの、ほぼ共通の行程と思われます。因みに、「峠」は(中国)漢字にない、蕃夷が勝手に作った字ですから、うっかり公文書に使うと鞭打ち百回ものです。
 また、現地地名は、現代のものですから、必ずしも、古代地名がこれと同じとは限りませんし、読み仮名も同様です。
 漢江山河は、現代の治水土木工事(ダム)で変貌していますが、ある程度推定できるのです。また、Google Mapsの3Dマップ表示も、大いに参考になります。

 古代史学界でも、科学的思考を重んじる進歩派が唱える半島内全面陸行説は、古田武彦氏が第一書「「邪馬台国」はなかった」でほぼ創唱したものであるため、同書を毛嫌いする保守定説派によって頭から忌み嫌われていますが、古田氏に、時に早合点の暴走があるとしても、その提言の内容自体には、初心に返って素直に耳を傾けるのが、凡そ学問の徒の普通の務めでしょう。

*倭国総戸数七万戸~百年河清を待つ
 今回気づきましたが、安本氏が、七万戸が倭の総戸数との読みを早期に提言されたのを、当方が見落としていたのは軽率でした。陳謝します。
 言うまでもないのですが、「倭人伝」に、倭人の総戸数が明記されていないはずがないのですが、世上、「邪馬台国十五万戸」説を造作構成し、設えたがへい、学説を高々と奉じて、「そんな多数の戸数は、北九州に収容できないから、九州説は、その時点で破綻する」との言説が、前世紀に畿内説陣営の「最終兵器」として特筆されたため、陣営所属論者は、党議拘束されて、順当な解釈は、一切認めることができなかったようです。
 私見では、「邪馬台国論義」には、纏向説一党の一極集中の弊害が出ていますが、そのために、学問の自由が阻害されているのは、困ったことだと懸念しています。
 このあたりは、「倭人伝」に、郡から倭人までの所要日数が明記されていないはずがないと言うのと同一論拠で、誠に合理的な話と思うのですが、合理的であろうとなかろうと、頑固に「一説」にこだわるのが、常態となっているのです。

                               完

2025年4月 3日 (木)

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 1/9 更新

『卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す』 PHP新書 2015/01/16
私の見立て★☆☆☆☆ 根拠なき泥沼、野壺 2017/12/12  2020/07/08 2021/07/20 2022/06/21 2023/04/19 2024/04/17 2025/04/03 

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。 

◯はじめに
 以前、本書不買(買わず)判断の背景を三回にわけて書いたのです。
 要は、惹句の部分に、商品紹介として不出来な文句が並んでいたから、「これでは、とても売り物になりませんよ」と書いただけであり、新書編集部のずさんな仕事ぶりへの批判が、半ば以上と思います。

 以後二年半に、結構参照されたので、「買わず飛び込む」と言ってられず身銭を切って購入しました。旧記事抜きで書いて、時に重複、時に途切れますが、ご了解いただきたいのです。
 そして、まだ、諸兄姉に主旨が届いていないようなので、警鐘を鳴らす意味で三掲しました。(2022現在)
 最近、参照されている例が見られるので、少々手を入れましたが、本旨は、一切揺らいでいません。(2023/04/19)

*言葉の時代錯誤
 まず、本項の批判の基準として明確にしたいのは、用字、用語のけじめの緩さ(あるように見えないが)です。
 用字、用語は、同時代を原則とし、同時代と現代で変化があったために誤解しやすい言葉は、初出時に注釈して、時代錯誤を避けるものです。
 近年、「魏志倭人伝は、三世紀中国人が、同時代中国人のために書いたから、時代と目的を認識して解すべきである」との趣旨の、誠に味わい深い意見が提示されているのに気づき、当然至極とは言え、実に至言です。正確に言うと、三世紀当時に「中国人」と言っても、何のことかわからないので、せめて「中国教養人」、つまり、豪族や政府高官、さらには、皇帝その人のように、深い知識と高い倫理観を、少なくとも、十分知っていた人のことなのです。
 「十分」とは、当然、当時の中国語を解し、万巻の古典書籍を読解して、自身の教養としていたという意味で、その証左として、例えば、「論語」に代表される四書五経を諳んじていることが求められていたのですから、当時の「中国人」が、満足に読み書きのできない一般庶民と別種の人々であったことは確実です。これは、「常識」ですが、現代人には、常識ではないので、殊更言い立てる無礼を犯したものです。

 一方、「倭人伝」論考では、カタカナ語や当代風の言葉の無造作な乱用は、読者の世界観を混乱させるので、「断固」避けるべきです。
 当時、適当な言葉がなかったのは、当時の人々の念頭にない、全く知られていない概念だったからであり、当時知られていなかった概念は、当時の人々の動機にも目標にもならないのです。
 時代錯誤の用語を使うのが、どうしても避けられない場合は、丁寧に説き起こして、言い換えを示すべき考えます。とにかく、読者に冷水を浴びせるような不意打ち(おぞましい「サプライズ」)は感心しません、

*「海路」はなかった
 いや、こんな話が出るのは、本書の表題で「海路」と打ち出しているからです。引用符入りですから現代語と見て取れというのは、読者に気の毒です。古代中国語に「海路」という言葉が無かったので、「中國哲學書電子化計劃」の全文検索で、魏晋朝まで「海路」は出て来ません。三国志の魏志「倭人伝」にも出て来ません。念押ししますが、当時「海路」と言う言葉が無かったのは「海路」で示す事柄がなかったからです。

 「海路」があったとすると、それは「路」と呼ぶ以上、官制の街道であり、あたかも、海中に道路を設(しつら)えたように、経路、里数、所要日数が規定されます。所要日数は、国家規定文書通信の所要期間として規定されるので、保証するために、整備、補修の維持義務が課せられるのです。
 所定の宿泊地、宿場の整備も必須です。宿場は文書通信の要諦であり、維持義務が課せられます。道路維持は理解できても、海路維持の説明がないのが不思議ですが、ないものに説明はないのが当然です。

 と言うことで、本書筆者は、本書の商品価値の要であるタイトルの用語選定を誤っているのです。それは、単に字を間違えたのでなく、「海路」と言う概念の時代考証を間違えているので、まことに重大です。

 これに対して、古代にも存在したと思われる「渡海」は、川を渡るように海の向こう岸まで移動するということです。もっとも、中原世界は内陸なので「海」(塩水湖)はなく、まして、海中の山島もないということで、「渡海」自体は、出番がないのです。
 古来、中原の大河には橋が架かっていないので、街道に渡し舟は付きものですが、特に渡河何里、所要何日とは書かないものです。渡船での繋ぎは、陸上街道行程の一部とされて、道里、日数を書かないものです。
 また、日程を定めない海上移動は「浮海」と呼ばれます。いずれも「海路」の概念とは無縁です。

 賑々しく著書を公開するには、十分な下調べが不可欠です。そのような必須事項を、出版社が確認していないのも不審です。出版社編集部は、世間の信用とか、恥さらしとかを怖れていないのでしょうか。勿体ない話です。

                         未完

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 2/9 更新

『卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す』 PHP新書 2015/01/16
私の見立て★☆☆☆☆ 根拠なき泥沼、野壺 2017/12/12  2020/07/08 2021/07/20 2022/06/21 2023/04/19 2024/04/17 2025/04/03 

*加筆再掲の弁
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第一章 卑弥呼と海人の海は 九州それとも大和?
 この章題は不吉です。馴れ馴れしく問い掛けられても、当時、中国語に「海路」もなければ「海人」も無いのです。当時の東夷には、文字がないので何も無いのです。こうした言葉がない以上、当時、「海人」論は無かったのです。無神経な時代錯誤は、「断固」戒めるべきです。

 そして、これは、畿内説にとっては、重ねて不吉です。奈良盆地の「大和」(意味不明)に海はないのです。ここで、畿内説論者は、本書をゴミ箱に放り込んでもおかしくないのです。

 ついでに言うと、九州」(中国語では、全天下ということ)は、精々海中山島であり、「大和」は巨大戦艦でなければ、山並みに閉ざされた内陸の世界です。どちらも、「海」などではありません。ご冗談でしょう。

一.一 私たちの先祖が暮らした古代の海
 冒頭の抱負として、「魏志倭人伝」解読を課題とし『三世紀の「魏志倭人伝」の倭国や魏の海に漕ぎ出し』と大言/虚言を吐きますが、三世紀に倭国の海や魏の海などなかったのは自明ですから、比喩が、徹底的に不出来です。
 特に、曹の魏は、体制として内陸国家なので、「海」は圏外だったのです。
 もっとも、そこに他意はないようで、忽ち、箸を泳がして「卑弥呼の国」について考察すると建言しています。
 因みに、著者のご先祖の由来は読者にはわかりません。海中民族だったのでしょうか。当ブログ記事筆者の先祖は無名の存在なので、記録はありませんが、少なくとも、ここ数世紀間は、乾いた大地に暮らしていたはずです。得体の知れない筆者に馴れ馴れしく「私たち」と抱き込まれては大迷惑です。

*定番の水海混同
 第一章冒頭で、既に著者の誤解、誤読が露呈しています。要は、知らないことを知らないままで論じたら、間違うのが、自然と言うだけです。
 今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽なる倭人伝記事を引用しますが、著者は、「水」と「海」の違いが理解できないまま、以下、暴走しています。

 中国古典で「水」は淡水河川(かわ)です。狭義では、河水(黄河)のような大河であり、広い意味では、つまり、「普通」は河川です。「水」で海(うみ)を指すことは、まず(絶対に)ないのです。
 つまり、ここで、水人、水禽と言っているのは、まずは、「自然に」淡水漁人、淡水水鳥と見るべきです。海のものであれば、海人、海禽と言ったかも知れませんが、余り、前例はありません。「倭人伝」の文脈・語彙を斟酌しても、「自然な」読みに、大いに分があると思います。
 また、古代中国語で、「沈没」は、大抵、人が水(河川)で身を半ば沈めて、「泳いで」いるのかどうか、姿がよく見えない状態を言うのであり、潜水とは限らない、むしろ、潜水でないと断言できるのです。普通に考えれば、河川浅瀬に膝あたりまで浸かって、腰を屈めて、流れの中の魚貝を手網などで捕らえたり、掬ったりしているものと見えます。その際に、姿勢を低くして、おなかのあたりまで水に浸かっていたら、それは、既に沈没なのですが、深みに足を取られない限り、命に別状はないのです。著者は、気ままに幻想界にひたっていますが、現実世界では、溺れたら、その場で死ぬのです。
 
 この記事を皮切りに、「水」を、勝手気ままに「海」に読み替えての論考が進んでいますが、第一歩で大きく踏み違えていては、以下のご高説も、話が耳に入らないのです。本書で、度々躓く石ころです。

*余談無用
 ここで、著者は、脇道に逸れて、長々とご託宣を述べますが、これは、新書の体(てい)、字数を成すためにか、あるいは、著者の知識を誇示するためにか、用も無いのに詰め込んだと見え、この手の余談は時間の無駄です。
 丁寧に言い直すと、時も場所も大いに異なる状況での見聞を、三世紀限定の議論に持ち込まれても、何の参考にもならないのです。客を騙すな、金返せ、との怒声が聞こえてきそうです。

 また、著者がしばしば見せる「受け売り」の迷走ぶりを見ると、見当違いの余談の報告者たる著者に信頼はおけないから、検証無しでは、とても信用できないのです。要は、ほら吹き常習と見なされるだけです。
 言うまでも無いのですが、書かれている情報源の信頼性検証が、必要です。

 とにかく、場違いで参考にもならない余談は無用に願いたいのです。

                               未完

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 3/9 更新

『卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す』 PHP新書 2015/01/16
私の見立て★☆☆☆☆ 根拠なき泥沼、野壺 2017/12/12  2020/07/08 2021/07/20 2022/06/21 2023/04/19 2024/04/17 2025/04/03 

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。 

*廊下トンビの批評
 と言うことで、末尾に飛んで批判を再開します。

*白日夢の展開
一.四 近畿纏向国から難波の海に下る
 言うまでも無いのですが、三世紀時点で「近畿」は無く、時代を問わず「纏向国」は無いのです。古代史では、太古以来、「纏向遺跡」との呼称が定説です。無いものの議論は、妄言で無意味です。
 時に「纏向遺跡」が転じて纏向幕府」と揶揄される畿内説推進陣営の要人は、まさか、このような追従に悦に入っていることはないとは思うのですが、どうでしょうか。それとも、こう書けば、ご褒美がいただけるのでしょうか。
 以下、動機不明の引用紹介が受け売りで続いています。「なぜ古都・平城京が舟運の便が悪い内陸にあったのか?」と物ものしく切り出しています。
 これが無法な問いかけなのは、氏の冒頭抱負から明らかです。ここまで、専ら、三世紀辺りの考察に耽ったのに、急遽、数百年跳んでCE701に開闢した平城京談義ですが、時代が四世紀以上ずれては、有効な推定ができないのです。まして、舟運の便が悪い とは、とんでもないほら吹きです。現代に至るまで、平城京に船便などないし、ついでに言うと、「纏向」にも、舟運の便が悪いなどでなく、船便などなかったと見るのが、普通の理解でしょう。
 まして、ここで問われているのは、「古都」などと「レジェンド」、博物館遺物の扱いをされている現在の「遺跡」ではなく、当時、現役バリバリの「平城京」に船便はなかったのはなぜか、との設問なので、無神経な問いかけが空をきっています。著者は、日本語の読解力が足りないのでしょうか。

*纏向幻想に加担
 「纏向遺跡」を古来の「大規模集落」(どの程度を大規模というか、何を集落というか不明)としても、三世紀中頃の仮定では、せいぜい千人規模なので、自給自足を旨とすれば、細々とした供給手段でも、生存に要する食料補給はできるでしょう。要するに、当時として、ありきたりの「国」(倭人伝で言う「国邑」)だったのです。
 いや、誰だって飢え死にしたくはないから、何とかして自分の食い扶持は稼ぎ出すでしょう。身の回りの土地で食っていけなければ、さっさと逃げ出すだけです。

*時代錯誤
 ところが、平城京は、万を遙かに超えるであろう非生産人員が寄り集う「都市」(「倭人伝」では、倭大夫都市牛利。現代語では「大きなまち」)であり、周囲からの持ち寄りでは物資の供給が圧倒的に不足するのです。戸籍があるから逃亡すると重罪となり、餓死しかねないことになります。時代の相違です。
 もっとも、遠国から物資貢納の仕組み、律令制度があったから、餓死はしなかったようですが、持って来いと命令される遠国はたまった物ではなかったろうと推察します。何しろ、帰途の食料など配慮していないのです。

 ここでは、平城京を考察するはずなのですが、提示されるのは三世紀辺りの状勢です。言葉を連ねた河内平野開発も水運も、妄想に近い推定であり、著者が「イメージ」とする絵は、何の根拠も無い単なる画餅ですから、数世紀後の「平城京」について何も論じていないのです。古代史談義で、中身のない時代錯誤のポンチ絵を振り回される善良な一般読者は、たまったものではないと思うのです。
 冒頭で課題を提示して、一切、その解明に当たらないというのは、世間で言うと、詐欺です。

*イメージ談義~余談
 因みに、現代において「イメージ」は、食品の、調理仕上がり、盛り付け図であって、そのように出来上がる保証はなく、時に、購入者自身で調達する食材まで含まれています。ある意味、無責任な「絵」ですから、本書のような論考書めいた物には、まことに不似合い、それとも、お似合いです。
 因みに、このカタカナ語の由来とも見える「image」も漠然たる(キリスト教で言えば、主の)「姿形」を指すことが多く、概念図、模式図は、「ピクチャー」と呼び分けています。安直なカタカナ語乱用は、固く戒めたいものです。

 そうでなくても、善意で解する「イメージ」は、見る人次第で印象も解釈が大きく異なるので、論考は、極力、文字で綴る言葉で進めるべきです。何しろ、古代の史官は、現代人の好むインチキな「イメージ」など知らず、ひたすら、文字概念で論じていたのです。場違い、見当違いのこじつけは、別に珍しくないとしても、不出来なものです。

 「これは、古代の現実の姿を推定したものでなく、著者の考える夢を描いたものである」と責任を持つべきです。無責任を明言するのも、責任の取り方の一つです。

                               未完

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 4/9 更新

『卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す』 PHP新書 2015/01/16
私の見立て★☆☆☆☆ 根拠なき泥沼、野壺 2017/12/12  2020/07/08 2021/07/20 2022/06/21 2023/04/19 2024/04/17 2025/04/03 

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*白日夢の展開 承前
一.五 纏向国から魚買い出し舟が行く
 ここで、遂に著者の白日夢です。
 「三輪山麓の纏向から盆地を横断し、大和川下りで魚買い出し舟が数十隻連なって、およそ二十㌔㍍を行った」と言い切りますが、舌の根の乾かぬうちに、下りは五,六時間、上りは、二日かかると、何とも不細工です。
 そのような川下りは、能書き通りに日帰りなら頻繁に往来できるでしょうが、一泊二日以上の長丁場では、下った日は魚を積んだ川港で寝泊まりし、翌朝こぎ出して途次で一眠りし、翌日、昼過ぎにでも、奈良の市に魚を出す「絵」です。二泊三日の食事はどうするのか、鮮魚は二、三日持つか疑問です。

 さらに、大和川筋から奈良盆地東部纏向までは、当然、きつい登り坂であり、手漕ぎ船で登るのは大変難航です。と言って、川沿いに大勢動員して、日々の食糧を大層な曳き船で登らせるのも、馬鹿馬鹿しい限りです。曳き手を揃えて食糧をあてがうから、大量の食料を担ぎ上げるという趣旨でしょうか。
 盆地内の細流に乗り入れられる小船は、軽量とは言え、載せられる積み荷は微々たるものなので、全重量というものの、船体の重みが大半です。結局、船体を担ぎ上げて日々を過ごすことになるのです。
 そうした、持続的に実行できない絵空事を、滔々と言い立てるのは、ほら吹き商売の持病でしょうか。

 いや、そもそも、通常の荷役なら、荷を小分けして、大勢で分担して背負い込んで登れば、どうということは無いのです。というものの、そのあと、空船をどうするのでしょうか。漕ぎ登るのでしょうか。河川が、山並みから直接流れ出していて、根本的に水量が乏しく、渇水期が多いのに加えて、増水期には、河川が氾濫し、広範囲に水没する奈良盆地で、運河水運などあり得ない愚行です。必要なのは、ため池でしょう。

 いや、そもそも、奈良盆地のような傾斜地に運河開鑿とは画餅も良いところです。運河は、等高線上/状に開鑿するから、安定して運用できるのです。高低差のある運河など、あり得ないのです。
 寝ぼけた話は、ご勘弁頂きたい

 とかく、関係者というか当事者は、遺跡発掘公費確保のために、きれいに手軽に想定図(イメージ イリュージョン)を描きますが、自然法則無視の画餅が多いのです。一種の捏造です。

*無理な鮮魚商売
 買付談義に戻ると、地域の市から、半日程度かけて各家庭に届きやっと調理できます。こうした迂遠な買付は、日常生活の中で長期に維持できるとは、到底思えないのです。天候、渇水、氾濫問題などが一切無いとしてもです。そして、肝心なことですが、これは、鮮魚類流通の絵とはなっていません。
 あり得るのは、浜でゆで干しする「干し魚」でしょうか。保存するためには、塩が必要です。河内湾岸に、大々的な干し魚「コンビナート」を作り上げたのでしょうか。干し魚を担ぎ上げた帰りは、何を担いで戻るのでしょうか。往復輸送があってこそ、「コンビナート」なのです。
 著者が絵解きしなければ、この画餅は、罪作りな夢想です。

*うつろな夢想
 このように、著者の推論は、大きくうねって、まずは、奈良盆地に「古代国家」(時代錯誤の極み)があって、大和川船便で食糧輸送したとの夢幻世界に誘い込んでいます。先人考察で、奈良盆地(都市国家)への大和川経路が提案されますが、現実的な実施形態を検証し、安直な受け売りや時代錯誤は避けるべきです。

*大和川幻想あるいは願望
 江戸時代の付け替え以前の大和川は、奈良盆地からの落差を一気に流れ下る早瀬であり、人間業では遡上できません。付け替え後、下流の平野部は一路、天井川になって、等傾斜で西行していますが、往時は、河内平野に突入して扇状地を形成した後、南からやってくる石川と合流し、一段と大河になって北へ分流していて、とても、漕ぎ船の主力経路とならなかったと思います。なにしろ、増水時は奔馬の如き流水ですが、普段は、むしろ、渇水していたと見えるのです。
 後年、山間からの水流が安定したので、多少は水運に供したようですが、それでも、物流の大勢は、柏原あたりの船着場で早々に陸揚げして、陸上輸送したとみられます。短命の平城京時代、大勢として、盆地外から大量の食料を運び上げていたと見え、盆地から運び出す姿は見て取れないので、とても、持続できない無理筋だったと見えるのです。
 大和川の流域を眺めても、山間を抜ける渓流部の流れ沿いに人夫が曳き回る道はあり得ないないように見受けます。と言って、手漕ぎの曳き船で補助するのも、無理と見えます。そこまでして、船体を担ぎ上げる意義は、どこを探しても無いのです。何しろ、奈良平野に、川船を荷船として運用できるような川筋は無かったのですから、船体を担ぎ上げる意味などなかったのです。

*曳き船の不合理/竹ノ内峠の合理
 現実に戻ると、河内平野の荷のかなりの部分は、二上山竹ノ内峠越えのつづら折れの道などを、重荷を背負った多数の者達が往き来したと思われます。大和川沿いの経路は、険阻で、しかも、地盤が不安定で山崩れが頻発しているので、常用されたかどうか不明なのです。
 下り舟は、軽々と熟(こな)せそうですが、結局、船体を担ぎ上げるのに助けにならないので、あまり意味はないのです。

 纏向遺跡は、創業できても守成できなかったので、最終的に、盆地南部、山地に近い飛鳥に繋がる竹内峠下りの古代街道に負けて、さらには、平安京遷都に抗し得なかったのであり、万年隘路の大和川川船横行は、願望の幻像です。
 一方、奈良盆地北部は、淀川・木津川経由で木津の川港に荷下ろしてから、背の低い「なら山」越えで到達できます。こちらが、奈良盆地極北に設置された「平城京」の表玄関であったと見るべきでしょう。何しろ、古来、淀川は、今で言う「水運」の幹線であり、大動脈だったのです。

 とかく、誤解されていますが、竹ノ内峠は河内側ではゆるやかな片峠なので、二上山の頂まではゆるやかな登りであり、最後は、急坂でも下りなので持続可能だったのです。奈良盆地側から運び出すときは、急坂をつづら折りすれば、人数次第で熟(こな)せるのです。奈良盆地の古代街道として、もっとも早く運用されたのも、無理からぬところです。

                               未完

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 5/9 更新

『卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す』 PHP新書 2015/01/16
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*淀川実相~余談
 古来、河内湾からの物流の主流は、水甕琵琶湖を上流に持ち、調整池もあって、水量が安定して豊富で、概して緩やかな淀川水系経由と思われます。
 ただし、琵琶湖に向かう瀬田川は、水量は安定していても、渓谷の急流であり、また、当時、現在の京都市市域には河川交通に適した水流が無かったため、物資の主流は南に折れて、今日の木津付近まで運ばれ、そこから奈良山越えで、比較的大きな消費地、奈良盆地に運び込まれたものと思います。
 総じて見るに、素人考えでは、淀川水系は流域の農地開発も早くから進んでいたようなので、曳き船に動員できる農民に不足はなかったろうし、農民にしてみれば、本業以外の格好の副収入ですから、いそいそと参じたものと思います。いわば、持続可能な体制だったのです。

 著者の性癖に倣い、現代用語を持ち込むと、淀川が「ブロードバンド」、大和川は「ナローバンド」と思います。同時代に並行して運用されていても、交通量に大差があったのです。古代史には定量的な評価がないので、一石を投じたつもりです。「倭人伝」に倣うと、大和川は大道ではなかったのです。

*木津談義~余談
 当時の淀川水系物流終着点だった木津には、往時の繁栄を示すように丘上に銅鏡王墳墓が築かれ、川畔に、地域(畿内)最古と思われる恵比寿神社があります。下流に当たる河内湾岸には、ご神体の漂着を機に起こされた「えびす神社」が幾つか見られますが、淀川上流で、ご神体流出の候補地は、ここしかないのです。

 平城京では、物流の乏しさに呆れた聖武天皇が、河内平野の難波と木津付近の恭仁に遷都を企てられたという挿話からも、城京の貧しさが偲ばれ、百年を経ずして故郷を捨てた「旧都」の貧しさも知れるのです。いや、以上は、素人の勝手な意見てあります。 

*ロマンの氾濫
 本書の批判に戻ると、この辺り、著者は、止めどないロマンの世界に溺れているようですが、それらの世界は、著者だけしかうかがい知ることのできない、著者の脳内に存在している幻宇宙であって、現実世界とのつながりが示されていないから、学術的な論考と主張するのは、断じて無理なのです。
 特に、史料引用などで、粗忽と言いたいぼろを頻発するのは、自身のロマンに溺れて現実世界が見えないためでしょう。もったいない話です。

*第一章総括 どんでん返しのカラクリ
 第一章の問題点を総括すると、一見、『奈良盆地の壺中天に古代国家があって半島、大陸と交流があった』と論じている論考と見えますが、著者の暴走に付いてきた読者を、最後に否定的判断に放りだして、どんでん返しです。
 いわゆる「近畿説」の読者は、ここまで自説の裏付けと思っていたとしたら、読者をだましていて、最後にペロリと舌を出した体です。財布から金を出した読者に非礼です。

 以下の論議も、所詮うわべのもので、著者の真意は逆なのではないかと思わせる、不吉な出だしです。文章作法のイロハに反しているように思います。雑誌募集の懸賞論文でも、ここまで論文として杜撰であると、普通は許されないのです。

                               未完

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 6/9 更新

『卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す』 PHP新書 2015/01/16
私の見立て★☆☆☆☆ 根拠なき泥沼、野壺 2017/12/12  2020/07/08 2021/07/20 2022/06/21 2023/04/19 2024/04/17 2025/04/03 

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「無かった」海の道
 飛ばした部分から見ると、著者は、日本海沿岸の「海の道」という概念に惚れこんでいるようです。ここで示された現地確認の努力が、大和川水運説に対して堅実に費やされていたら、ここまで素人に突っ込まれることはなかったはずです。つまり、途方もないホラ話に続く展開なので、随分損しているのです。

 著者は、「大船団長距離航海」というロマン/虚構に浸っていますが、まさか、山中から切り出した丸太舟ではないでしょうから、どんな材木をどんな大工道具で製材加工して、航海に耐える船体に仕上げたか、帆船にするとして、帆布はどうやって調達したのか、船員をどうやって集めたのか。白日夢はいい加減にして欲しいものです。「イメージ」の壮麗さに、自分だけ酔っていては、書き割り/画餅以外のものにはできないのです。
 実務としては、道中の食料と水の補給をどうしたのでしょうか。各寄港地に、所定の人員を配置していたのでしょうか。ここまでに説明はないのです。
 「海路」と言えるためには、確実に到着できる保証が必要なのです。倭国使節が魏都洛陽まで航行と陶酔していますが、確たる根拠があるのでしょうか。

 朝鮮半島の産鉄に、深刻な誤解があるようです。鉄鋌が「銭」の様なものだというのは、市場で、相場の指針として機能していたことをいい、大小などを言うのではないのです。忽ち錆びて朽ちる鉄銭は、古来希です。

*「無かった」「コンビナート」
 第四章も、冒頭に時代錯誤のロマンが提示されておおぼらです。英語やロシア語由来カタカナ語を連発しないと著者ロマンは書けないとしたら、古代に、そうした概念はないので、ほら話としか言いようがないのです。
 例えば、「コンビナート」(ロシア語:комбинат,ラテン文字転写:kombinat)「工場群」と言い放っていますが、古代に「工場」などなかったのです。
 「コンビナート」(「コンビ」は、二個対比)は、本来、ソ連のシベリア開発で、離れた鉄鉱山と石炭鉱山を鉄道で連結し、行きは、石炭を乗せ、帰りは、鉄鉱石を乗せて貨車往復輸送によって、資源産地双方に工業化の道を開いたことを言います。つまり、単に複数分野の工場が連携したものを言うのでは無のです。対になっていることが、要件なのです。
 無人の荒野に産業拠点を新設するソ連シベリア開発に独特な課題に併せた革新的な解決策を造語したのであり、同様の課題が存在しないところに同様の解決策は無いから、他国に本来の「コンビナート」は、ほとんど存在しないと思います。心ある著者なら、誤用されたカタカナ語は避けるべきです。
 と言うことで、この「コンビ」(ComBi 二つの物の結合)は、その名の通り、遠隔地の二業種限定の「コンビ」を言うのですが、氏は、例によって、現実離れした幻想を書き殴ります。いや、この機微を承知で、だらだらと言い崩しているのでしょうか。
 現実の丹後半島地域も、町おこしどころか、著者のおおぼらの「サカナ」にされて、世間の嘲笑を浴びては不本意でしょう。
 立て続けに、とんでもない前置きでは、以下を読み通すのは、途方もない苦痛です。当方の忍耐の限界が来てしまいました。

*荷物の山越え~できる方法
 氏のほれ込んでいる白日夢、荷物山越えを考察します。まず、海船の河川遡上は無謀なので、海港で、小振りで底が浅い河川航行用の船に積み替えます。
 遡行につれ、川幅が狭まって通行不能になれば、さらに小振りの船に積み替えます。それでも通行不能になれば、船荷を降ろして、背負子に載せ替えます。もちろん、船体ごと担いで山越えするような、無謀なことはしないのです。それぞれの船腹は、帰り船にするか、始発港に戻って次便に備えて温存待機です。
 人海戦術ですから、峠を越えたら、小舟の船着き場まで下り、以下、順次積み替えていくのです。局面、局面に適した手段で荷送りすれば、無理なく山越えできるのです。

 「荷船」の山越えは、船体が途方もない重荷の上に、引きずり移動で船体の痛みが激しく、長続きしないのです。そもそも、山向こうには山向こうの手立てがあるので、無理して船体を運ぶ必要など、全くないのです。
 この理屈は、穀物輸送が多かったと超える大和川の山越えでも同様です。

 前に確認したように、奈良盆地に、小船の荷船が運用されていたら、下流から川船を持ち越す必要は、全く無いのです。そして、奈良盆地に、荷船が一切運用できていなかったら、川船を持ち越しても、何の意味も無いのです。
 古代人が、無駄な労苦に取り組んでいたと考えるのは、余りにも、古代人を見損なっていることになります。

                               未完

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 7/9 更新

『卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す』 PHP新書 2015/01/16
私の見立て★☆☆☆☆ 根拠なき泥沼、野壺 2017/12/12  2020/07/08 2021/07/20 2022/06/21 2023/04/19 2024/04/17 2025/04/03 

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。 

*終幕
 おわかりのように、当書評は、著者がロマンを抱いていることやそのロマンの内容についてとやかく言っているのではないのです。
 堂々と自著を市場に展開するからには、ご自身の夢想を現実と付き合わせて、筋の通った説明を付けるべきではないかと言っているのです。倫理的な問題なので、同意していたけないならそれきりの話です。

 他方、ファンタジーなら、ファンタジー、フィクションならフィクションと明記すべきです。
 もっとも、ファンタジーも、フィクションも、現実世界との接点の考証が必要です。空想世界でも自然法則は通用するので、重量物が、重力や水流に逆らって、勝手に急流を遡上することはありません。

*誤解、誤記の塊
 80ページ末尾から、魏の曹操は船を使って戦う常勝将軍であったが二〇八年、長江中流域の蜀の諸葛孔明と呉の孫権の連合軍にその船団を焼き討ちされ敗れるという不覚をとったとは、誤解、誤記の塊です。うろ覚えの書き飛ばしは、信用を無くすだけです。

 「魏の曹操」と言いますが、二〇八年(CE208)時点は無論、曹操は終生後漢の臣下で、在世中は魏なる国は存在しないのです。
 「常勝将軍」と言いますが、曹操ほど度々大敗を喫した将軍は少ないはずです。負けの数で劉備に勝てないとしても、当時有数の負け馬と言えます。時には、大敗して、側近、そして、継嗣(長男)まで犠牲にして辛うじて窮地を脱しているのです。

 「」は渡河に必須ですから一切不使用と言えませんが、正史三国志で、曹操はほぼ陸戦であり、船戦は皆無に近いのです。(まぼろしの赤壁は別として)もちろん、時に応じて、兵糧の輸送に船を使ったことはむしろ当然と言えます。兵員、馬匹の移動にも、水運を使ったとも思われますが、特筆されていない以上、些細な事項と見られているものと思います。それが史書です。

 「長江中流域の蜀の諸葛孔明」というのは、論考の一部としてグズグズに型崩れしています。
 「諸葛亮」は、一時、長江中流の荊州辺りにいましたが、そこは蜀などではないのです。
 国としての「蜀」(蜀漢)は、その後に長江上流に劉備が建国したのですが、正確には「漢」と号したのです。蜀は、長江上流の成都付近の地域名です。言うまでもありませんが、蜀の君主は、劉備とその嫡子劉禅であって、諸葛亮は、蜀の宰相、臣下です。孔明は、本名でない「あざな」で、実名呼び捨ての曹操、孫権と並べるのは、一段と無様です
 孫権の当時の支配領域は、古来、呉と言われていましたが、別に、当時呉国皇帝だったわけではないのです。寄留していた荊州を逃れて根拠地を持たない流亡の劉備軍団の無名の軍師と同盟するような小身ではなかったから、ここで並記するのは見当違いですそうではないでしょうか。それが史書です。

 「その船団」と言いますが、曹操が率いた船団は、曹操の私兵でも後漢朝の官兵でもなく、大半が降伏した荊州船団に過ぎないから、戦いが不首尾でも、曹操船団が「敗れた」わけではないのです。それが史書です。(漢水上流で、新造船を命じたと言いますが、急拵えの船腹に訓練されていない兵を乗せても、戦力にはならないのです)

 後漢の最高権力者である曹操ですから、戦ったとしたら、当然勅命のある敵に勝つべくして戦ったのでしょうが、帰還後、皇帝から違勅、敗戦の責任をとらされたわけではないから、曹操は、この時、孫権と戦ったのではなく、従って、不覚はとっていないのでしょう。
 陳寿「三国志」魏志で、曹操は、荊州劉表を平定する勅命を受け、使命を達成した後、帰途地域を歴訪する傍ら孫権に示威行為しただけであり、孫権討伐の戦を起こしたものではなく、また、疫病多発の瘴癘の地を忌避して帰還し、別に戦ってないのです。「赤壁の戦い」というものの、曹操は、別に戦いに敗れていないので、俗説は、孫権政権側の作り話と思われるのです。

 以上、随分、うろ覚えでいい加減なことを言い散らしていて、僅かに残っていた信用を損ねています。

                               未完

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 8/9 更新

『卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す』 PHP新書 2015/01/16
私の見立て★☆☆☆☆ 根拠なき泥沼、野壺 2017/12/12  2020/07/08 2021/07/20 2022/06/21 2023/04/19 2024/04/17 2025/04/03 

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。 

*終幕の続き
 次に、何の繋がりもなく、とんでもないことが書かれています。まさしく、白日夢であり氏は何か薬物に耽っていたのでしょうか。
 倭国使節団は、長江で大敗した荊州水軍の船を渤海湾などで見たという趣旨を述べています。河川船団を、三十年かけて回航したといいたいのでしょうか。何の幻を見たのでしょうか。荊州船団の生き残りを転進させたとしても、孫権麾下の水軍支配下の長江中下流域をどうやって擦り抜けたのか不審です。
 そんな無茶をしなくても、皇帝が指示しただけで、帯方郡最寄りの黄海岸で、易々と保証付き海洋船を多数造船できるのに、海船としての運航に耐えるかどうか不明の三十年前の川船を、延々と回航する意味が「わからない」のです。

 ホラ話として、誰も感心しないのです。ずるりと滑っていますが、氏は、寄席芸人ではないので、何も感じないのでしょう。

*倭人伝談義
 92ページで、陳寿「三国志」の魏志「倭人伝」に「倭国大乱」が書かれているかのような妄言が書かれていますが、「倭人伝」には「乱」れたと書いているだけであり、「大乱」と書いたのは、陳寿の後世で書かれた笵曄「後漢書」です。とんだ、いや、とんでもない、途方もない勘違いです。

 「邪馬台国」が書かれたのは「倭人伝」だけとは、また一つの妄言です。
 「邪馬台国」は、唯一登場する笵曄「後漢書」でも、原文では「邪馬臺国」であって、「邪馬台国」 は、文字も発音も違うのです。 笵曄「後漢書」の初出が孤立した起源であり、後世史書、類書に引用されていますが、かくたる裏付けはありません。

 衆知の如く、現存「三国志」に「邪馬臺国」はなく、書かれているのは「邪馬壹国」であるというのが客観的事実であり、これを、学術的な批判に耐える論拠を示して否定する論議は見られないのです。
 史書記事を誤記と主張するなら、主張者に重大な立証責任がある」というのが、学問上の常識ですが、著者は、ここでも無頓着で、出所不明の誤断を受け売りしていて、この不注意も、商業出版物の著者として、見過ごせない過誤です。
 以上のように、著者の文献依拠のあり方は、誤断と受け売りの混在です。
 不正確な史料引用は、不正確な情報源のせいですが、容易に原典を確認できることが多いから、著作の際に、厳重に検証するのが当然と考えます。

 一方、氏は、書紀」の史書としての信頼性は低いと賢明な判断を示していながら、ここで例示していないものの、随所で、書紀記事の史料批判を怠って、安易に受け売りしているのには同意できないのです。

*軽率な余言
 注意をそらす余言癖も健在であり、斉明天皇は、高齢の女帝でありながら、二百隻の船を率いて奈良を出た」ことにしていますが、時代違いとは言え、「奈良に海はない」ことは衆知で、とんでもないホラです。
 言い繕うとしたら、別に高度な思索を要しない単なる軽率な言い間違いです。まして、二百隻の新造船が可能だった、実際に造船したという証拠は、一切示されていません。「画餅」と言うものの、二百隻の海船の絵を描くことすら容易ではありません。まして、二百隻に乗船して波濤を越えるに耐える船員は、画に描くことはできません。
 それ以上は、当否の範囲外なので、追究しないのです。

*信頼性の欠如
 本書は、近来見受けるように、出版社として出版物を無条件に近い篤さで信頼されるべきものが、出荷検査無しに、瑕疵満載、傷だらけで上梓したものです。
 権威のない一私人には、「買ってはいけない」などと言う資格はありませんが、商用出版物に必須の校正の労が執られていない無責任な書籍であり、真剣に読むべきものでないと言わざるを得ないのです。ここまで、我慢して丁寧に批判しましたが、余の部分は推して知るべしです。
 つまり、日本海沿岸に海港の鎖があり丹後から筑紫に至る水運が形成されていた」という折角の提言は、本書の大部分がとんでもない出来損ないであるために見向きもされないのです。

 折角の労作ですから、後世に恥を遺さないように、明白な欠点は是正し、全面改訂すべきであると思います。それでこそ、氏の主題が正当な評価を受けられるのです。

                               未完

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 9/9 更新

『卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す』 PHP新書 2015/01/16
私の見立て★☆☆☆☆ 根拠なき泥沼、野壺 2017/12/12  2020/07/08 2021/07/20 2022/06/21 2023/04/19 2024/04/17 2025/04/03 

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*蛇足 半島迂回の夢
 それにしても、著者の乱調ぶりは、禍福ない交ぜているようです。つまり、図4-2(77ページ)ですが、これは、ご自身で懸命に描かれたものですから、細部に至るまで責任を持たれるべきであり、「イメージ」と逃げられないのです。要するに、この地図に、著者の主張の矛盾が顕在化しているのです。

*不可能な無寄港航海
 自身で、当時の船舶航行では、二十から三十㌔㍍が一日の限界とされていますが、一日で三十㌔㍍の移動が可能であったする証拠にお目にかかりたいものです。

 私見では、甲板、船室無しの吹きさらしでは、好天でも夜間航行できず、夜明けに出港、午後早々に入港、食料と水を補給し、乗員を休養させるものでしょう。漕ぎ船として、多数の漕ぎ手を常人とすると、相当丁寧な休養が必要でしょう。
 当ブログの別記事で、寄港地毎に漕ぎ手と船を替える乗り継ぎが、健全な常識と書いていますが、筆者は、鉄人揃いの連漕を想定されているようです。

 それにしても、ここには、朝鮮半島西南部の多島海を大きく迂回して無寄港で進む「画」を描いているのです。この間、150㌔㍍程度を無寄港とした理由も、そのような行程を可能とする構成は、何も書かれていないし、何も見て取れないのです。極限の画餅症候群とでも言うのでしょうか。食糧備蓄は当然としても、航海中、しょっぱい海水は飲めないので、大量の 淡水の搭載が必要であるのは、常識です。

 おそらく、氏の良心から、このような多島海を、連漕しつつ、時に応じて、寄港する画が描けなかっのなら、そのように明言すべきかと思うのです。いや、それでは、氏の力説する洛陽への長途航行の夢、渾身の一大ロマンが壊れるからなのでしょうが、それはそれで明言が必要では無いでしょうか。何しろ、氏の提言では、倭使は一貫漕行であり、黄海を縦断して天津あたりに乗りつけて、海船で河水に乗り入れ、最後は河水から洛水に入り、ついには、雒陽まで漕ぎ至ったことになっているのです。人間業では無いとしか云いようがありませんが、何も書き込まれていないのです。
 何とも、著者への信頼性を損なう愚策と思うのです。

*半島内陸行の示唆か
 と言うことで、氏の見識を信じると、半島西南部の航行は、頑張ってやり遂げるべき困難などでは無く、全く「不可能」であり、従って、倭国使節は半島内陸行したとの表現かとみられるです。「春秋の筆法」でしょうか。凡人の知るところではないようです。その際、洛東江を上下したか陸行したかは、この場での論議の対象外です。
 いかに優れたと感じた着想でも、論証できない場合は、証拠不十分として断言を保留しなければならないのです。それが、商業出版物における筆者の品質「保証」と言うものです。

*書き残した提言
 幸い、著者は、不都合な証拠を覆い隠すような姑息な感性の持ち主では無いようですが、これほど自明な事実に目を向けないのは、もったいないと思うのです。因みに、史書で当然とされている山東半島と遼東、ないしは、帯方郡との渡海往来は、何故か、慎重にも明言していません。
 それでは、氏の力説する洛陽への長途航行説が壊れるからなのでしょうか。

◯まとめに代えて
 是非、改訂版では、自身の所説の限界に直面し、可能であれば、堂々と、本稿を論破して欲しいものです。

                              以上

私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 2-1/3 更新

『卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す』 PHP新書 2015/1/16
私の見立て★☆☆☆☆ 根拠なき憶測の山 2017/12/25 補追 2022/06/21 2023/04/19,11/21 2024/04/04 2025/04/03

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*(多分)最後の「海路」談義
 著者が本書で大々的に打ち出した新語「海路」に関わる談義は、とことん尽きないようである。
 ここで話題にあげたいのは、中国太古の言葉遣い、漢字遣いで「海」という時に託された思いであるが、これは、後世の倭国人(時に、「二千年後生の無教養な東夷」)の「海」(うみ)に託した思いと大いに異なっていた/全く異なるということである。
 その思いを「海観」と称すると、聞き分けにくいし、字面の据わりも悪いので、「海洋観」の三字で進めるが、当時になかったろう言葉なので注意が必要である。
 こうして言っているものの、ありようは、当方の知識外であり、白川静氏の著作に啓示を受けたものである。

*冥界としての「海洋」観
 太古の中国人、特に、中原を支配し文字記録を残した中国人にとって、海」は冥界のような異郷であったということである。太古の中国には「四海」の概念があったが、この「海」は、現実の海(うみ)ではなく、思索上の概念であったのである。
 でないと、地理上、東方以外に海(うみ)の確かめられていない中国世界で「四海」と言う筈がない。
 あるいは、「四夷」(東夷、西戎、北狄、南蛮)の概念と「四海」の概念が、重畳していたとも考えられるようである。

 西晋で史官を務めた陳寿は、「二千年後生の無教養な東夷」と異なり、中国古典哲學書に通暁していたから、実は、魏志「東夷伝」で「東夷」と言うとき「東海」が示唆されていたのかもしれないのであり、従って、単に「倭」と言うと、それは、「倭国」、「倭人」なる、国家めいたものでなく、帯方東南の大海(塩水湖)領域を想定していたかもしれないのである。

 このあたり、現代人は、なまじ、地図類を見知っているため、図形的な解釈に囚われがちであるが、古代の世界観で言うと、途方もなく見当違いしている可能性があるのである。念のため言うと、古代中国人の論理では、「地図」や「イメージ」など、図形的な概念は、一切論じられていないのである。

*河水 海に至る
 さて、現実に還ると、河水(黄河)は、上流では、野狐が飛んで渡ったり、手軽な筏や川船で渡ることのできる程度の流れであるが、げんだいじのいう「東海」に向かい滔々と流れるとともに、大小支流が合流して泥水の大河になるのである。因みに、泥の大半は、河水本流上流部の黄土平原が削られたものであり、中下流では浸食作用はさほどでもなく、堆積ばかりのようである。
 河口近くは、太古以来今に至るまで、ドロドロの岸辺を分けてドロドロの水が流れ、どこが岸でどこが流れかわからぬ、人を寄せ付けない扇状地となり、それは黄海の沖合に連なるのである。当然、架橋は不可能であり、扇状地を横切る陸上交通は不可能であった/である。巨大な人外魔境である。加えて、冬季には、一面に凍結し、氾濫の原因となるのである。

 本書の筆者は、この辺りの地理的事情を、良くわきまえていて、帯方郡から回航した倭国船は、河水河口部の泥の海を避けて、遡行可能な支流を通ると書いている。過酷な環境とする見解自体に異論はないのだが、そうした過酷な環境を、一貫して、奈良盆地から発していて、水域に不案内な自船で乗り切ることができるとは到底思えないのである。しかも、後生、現代に到る海港として開発された大都門戸の「天津」が三世紀当時実在していて、そこに入港するとは、ホラもいいところである。奈良盆地を発し、延々と海上運航した倭船が、黄海を極めたあげくに、河水に乗り入れて河流を、落水まで遡行するなど、無法の極みである。独創的というのは、誉め言葉ではない。

 氏の説では、まして、非常時である。なぜ、倭国使節の上洛に重大な責任のある帯方郡太守が船を仕立てないのだろうか。いや、なぜ、郡の上洛便に便乗させなかったのだろうか。現に、倭使には、帯方郡高官が同行しているのである。地理不案内で旅費など一切持ち合わせがない倭の使節を、事実上、「連行」しているから、帯方郡の公式経路で移動したに違いないと思うのである。
 結論を言うと、当時として、確実、最速な経路は、山東半島に渡って、以下、街道を行くと厳格に規定されているのである。
 このあたり、いや、本書全体に、氏の「脳内」には、根拠の無い勝手な古代幻想が巣食っていて、史料に基づく丁寧な解釈など、どこにも見られないと推察するのである。そのように、勝手な幻想で取り組むなら、世上論じられている古代史の「謎」は全く論外である。
 いくら質問を投げかけても、合理的な回答は、当方のような不勉強で無知な素人には、思い及ばない。

未完

私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 2-2/3 更新

『卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す』 PHP新書 2015/1/16
私の見立て★☆☆☆☆ 根拠なき憶測の山 2017/12/25 補追 2022/06/21 2023/04/19,11/21 2024/04/04 2025/04/03

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「海路」考古学事始め
 復習すると、古代中国語で「海路」なる熟語があり得ないのは「路」の由来に基づく。
 「路」は、元々、人里を離れた魑魅魍魎の住み処を通り抜けねばならないので、様々の手法で「除霊」した特別なものであり、「海」は、陸上の「路」と異なり「除霊」などできないので「路」とできないのである。
 言うまでもないが、以上は、中原の内陸部に閉じ込められていた古代中国人の世界観の中の「海洋観」であり、海をわが家の外庭程度に考えていた東夷の海洋種族の「海洋観」とは異なる。

 著者は、当然、二千年後生の無教養な東夷として成人に達したのであろうが、ここに、堂々と著作を公刊し、収入を得るからには、かかる著作に必須の教養を獲得すべきではないだろうか。それは、出版・報道の自由などとは、別種、別次元の拘束なのである。事始めが、当時、小学校程度の自明の原則の習得であったとしても、一から学んでいただくしかないのである。

*東冶「海洋観」
 例えば、今日の広州、福州辺り、南シナ海岸地域に住んでいた人々の「海洋観」は、全然違っていたものと思う。
 福州附近は、峨々たる福建山地が背後に迫っていて、農地に乏しい上に後背地が乏しいために交易の道も無く、その分、目前の海に親しんでいたはずである。
 古代、こうした人々は、中原の人から、「南蛮」同然と思われていたから意見を聞いてもらえなかったのである。偶然だが、福州は、当時「東冶」県と言われていたようである。

 但し、東呉治世下で会稽郡に属していた時点でも、東冶は、会稽から街道の通じていない遠絶の地であり、郡治との連絡は、「水」、即ち、河川経路しか無かったのである。三国東呉の治世下、会稽郡から切り離されて、建安郡となったのも、当然の成り行きだった。もちろん、そのような変革は、後漢どころか、曹魏にも報告されず、当然、魏の公文書に東冶の情報は届いていなかったので、魏志には東冶は登場するはずがないのである。

*東莱「海洋観」
 また、もっと身近な山東東莱は、目前の海中に、筏や渡船で渉ることのできる山島(韓半島、ないしは朝鮮半島)があるので、住民の「海洋観」は倭国人と近いものと思う。

*海中山島としての「韓」半島
太古以来、いわゆる「朝鮮半島」の認識は二分されていて、北半分は、戦国燕の支配下であっても、南半分は、戦国韓が、戦国齊を隔てて影響を及ぼしたために、「朝鮮」でなく、韓と呼ばれていたように思うのである。とかく、今日の朝鮮半島は、南北対立に咥えて、韓国内に、地域対立があるとの観測が出まわっているが、「魏志韓伝」に三韓と書かれているように、地域間の統合は、成立しがたかったのである。
 背景説明が長引いたが、山島半島東莱は、海港であったが、遼東半島への航路と別に、半島中部との軽舟による往来が成立していて、「韓」領域との交易が徐々に成長したようである。

 ここは、戦国七雄の中でも大勢力であった齊の領域なのだが、結局、西方内陸地の奥深くにいた秦が天下を取って、齊は滅ぼされてしまった。

*東莱「東夷」観
 東莱から眺めると、目前に横たわっている海中山島が「東夷」であった。齊の南にあった魯の住民であった孔子が、筏を浮かべて渡ると言ったのは、目前の島影だったのである。
 あるいは、秦始皇帝が展望した大海の彼方の蓬莱も、随時往来可能な海中山島だったのかもしれない。

 一時、遼東の公孫氏が、「齊」の旧地に渡海侵攻したようである。遼東半島からは、ほんの一渡りだったのである。

*中原井蛙の「海洋観」
 秦の後、漢に政権が移っても、依然、中原、それも、長安付近の世界観が支配していた。そして、漢都が雒陽に移っても、依然、中原と言う名の巨大な井戸の底、大海(ひろいうみ)を知らない井蛙の世界であった。

未完

私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 2-3/3 更新

『卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す』 PHP新書 2015/1/16
私の見立て★☆☆☆☆ 根拠なき憶測の山 2017/12/25 補追 2022/06/21 2023/04/19,11/21 2024/04/04 2025/04/03

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*洛陽井蛙の「海洋観」
 因みに、前漢を嗣いだ王莽を打倒した反乱の嚆矢となった赤眉の首謀者は、山東琅邪の海の者であったようだが、後漢創業者の光武帝劉秀は内陸人で、特に海好きではなかったようである。
 蛙の子は蛙である。いや、誤解されるかもしれないが、天子は天下(中国)を把握していることで讃えられるのであり、天下(中国)の外は、特に知る必要がないのである。

*語義変遷
 たかが、「海」と「路」と二文字の話であるが、古代と現在の世界観の違いを露呈するものである。世界観が違えば、同じ文字を使っても意味が違うのである。古代、漢字はそれぞれ「単語」であり、文字の部首に、重大な意義がこめられていたのである。
 古代史論では、丁寧な用語校正が望まれるのである。出版者編集部殿、どうか、崇高な使命に目覚めて欲しいものである。使命に殉じろとは、あえて、言わない。

*「海洋観」概観
 さて、世上で信奉されている中国史書の用語観であるが、上に示唆しているように、中原の用語観は、各地方にそのまま適用されるものではないはずである。
 一方、「三国志」に先行する史書司馬遷「史記」、班固「漢書」は、中原用語で書かれていたから、海(うみ)に関する語彙が貧弱で偏っていることは自然な成り行きである。

*帯方郡「海洋観」

 気になるのは、時に、「倭人伝」に示唆されている帯方郡書記の海洋観である。帯方郡の統治領域、今日で言う朝鮮半島中南部は、東、西が「海」(うみ)に接していたが、南方については、「大海」に接していると書き分けている。その現実的な「海洋観」は、東夷伝の韓伝記事からもうかがえる。
 但し、倭人の在る山島は、韓の南の「大海」の海中、つまり、巨大な「塩水湖」のポツポツ浮かぶ島々とされていて、半島東西の「海」とは、縁が切れているように書かれている。
 あるいは、中原人の世界観に照らして、馴染みのない「大海」と言いつつ、「大河」ならぬ、しょっぱい塩水の流れ「大海」に浮かぶ州島(中之島)と見ていたのかも知れない。
 「倭人伝」の行程記事では、郡から一路街道を南下して到達した狗邪韓国の海岸から発して、「水行」、つまり、渡船を乗り継いで、三度「海」を渡るが、これは、「大海」の一部であり、倭人伝では、一海、翰海、一海と言い換えている。つまり、対海国、一大国は、大河の中州と見ていたのである。して見ると、先に述べた「大海」観は、西域に存在するしょっぱい塩水湖とは、異なるかもしれない。ちなみに、末羅国は、第三の洲島であるが、次の伊都国とは、地続きであったので、渡し船を下りて、陸上街道に移行して、「陸行」すると明記されている。当然のことなので書かれていないが、郡からの街道行程は「陸行」であり、渡船は登場する余地がないのである。

 海峡中央部の對海~一大区間は、前後の区間と様相が異なっていたようである。初稿では、古田武彦氏の第一書『「邪馬台国」はなかった』の一大国観に影響されて島を削るほどの激流だったかと憶測したが、これは、古田氏の大きな勘違いであった。後日調べた限りでは、狗邪~對海、一大~末羅の間は、それぞれ結構荒波のようであるが、對海~一大区間は、却って平静のように思われる。何れにしろ、海岸を成している岩崖が、海流に削られることなど、絶対有り得ないと見るべきである。
 「瀚海」は、そうしてみると、海面が綾織りのような細かい波に埋めつくされた様子を形容したと思える。そのような意外な美景が、特別扱いに現れているようである。

 そのように、「倭人伝」の「海洋観」は、実際に往来していた帯方郡と倭国のものである。かくのごとく、環境が違うから言葉も違うのである。
 「魏志」全体が、洛陽視点で統一された世界観、用語で統一されていたというわけでなく、「東夷伝」倭条について言えば、原史料を起草した現地部門、当初は、漢武帝以来の楽浪郡、後漢建安年間以降は、恐らく、新設の帯方郡の官人が上申した内容が、ほぼ、皇帝に上程されたものと見え、これが洛陽の公文書館に所蔵されていた関連文書を、陳寿が「魏志」「倭人伝」に採用したと見えるので、「倭人伝」の「海洋観」は、帯方郡のものに近いものなのである。

 「倭人伝」の考察において、「三国志」全体や「魏志」相当部分という「大局」を俯瞰することは必要であるが、結局「倭人伝」自体の精査が、一段と、二段と重大なのである。

 再度言うが、古代史について論じる時は、丁寧な用語校正が望まれるのである。氏の姿勢は、全て、無造作に現代語、地名に置き換える行き方であり、聞き慣れた言葉で俗耳に強く訴えて、見栄えはいいかもしれないが、読者を欺いているのである。

 現代日本人(二千年後生の無教養な東夷)の「倭人伝」解釈が、ほぼ全面的に誤解の泥沼に墜ちているのは、なまじ、原文の文字が、現代人の語彙に嵌まっているように見えると誤解するからである。
 二千年前、当時として最高の教養を要求された「正史」が、楽楽読みこなせるように感じられたとしたら、それは、「二千年後の後世東夷の無教養な視点」の単なる思い過ごし/勘違い/錯覚/幻影なのである。

              多分今度こそ  完

追記:中国古典書の「海洋観」については、中島信文氏の労作を大いに参考にさせて頂いたが、敢えて、異を唱えている点もあるので、関心のある諸兄姉は、これを機会に原著を参考にして頂きたいものである。

 氏の諸作のうち、下記二巻は、「倭人伝」道里行程記事の理解において、中国史料解釈に必須な基礎知識の多くを失念している「在来論者」と一線を画する氏ならではの不可欠な卓見がこめられていて、格別に意義深いものである。

 シリーズ一:古代中国漢字が解く日本古代史の虚偽と真実(基礎編)
 シリーズ二:陳寿『三国志』が語る知られざる驚愕の古代日本

 当ブログの「評価」が。満点になっていないのは、氏に共感する故に辛くなっていることによるものであり、不満があるわけではない。よろしく、井蛙のわがままをご了解いただきたい。
 ちなみに、シリーズ三以降、氏の思索は、当方の偏狭な見識の圏外に翔び去っているので、当ブログで「批判」するのは、僭越と思われる。

以上

2025年4月 2日 (水)

新・私の本棚 野田 利郎 「倭地、周旋五千余里」の解明 1/1 再掲

「邪馬壹国の歴史学」 ミネルヴァ書房 2016/3/30刊行
私の見方 ★★★☆☆ 渾身の偉業 本稿は空振り 2025/01/26 再掲 2025/04/02

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

 当記事は、最新古賀達也ブログで「有力」と再三推されているので、僭越ながら異見を呈するものです。

◯はじめに
 本書は、「古田史学の会」の総意で刊行されたものであり、慎重な編集、校正が成されていると信じて、全力で書評するものである。なお、当方は素人であり、現代先賢諸兄姉に敬称を付すことを御容赦いただきたい。
 なお、「倭地、周旋五千余里」考証で「古田史学の会」の用例検索評価手法の古田氏の思いこみに異を唱えるが、第三者の意見として御寛恕頂きたい。

*先行引用例の確認
 「倭地、周旋五千里」(以下、識者に自明の「余」を省略)について、本居宣長の古典的解釈に触れた上で、
 ➀山田孝雄氏が、いち早く、「倭地、周旋五千里」は、狗邪韓国・伊都国道里とし、郡・狗邪韓国七千里と合算して郡・伊都国道里が万二千里と明解されている。
  私見では、まことに至上の慧眼と言うべきである。

 ②佐藤広行氏は、「三國志」全用例検索で抽出の23用例から「ぐるっと巡る」と解釈し四周五千里方形領域を想定したとある。
  私見では、同意しがたい。

 ③野田利郎氏は、➀、②の両説に異を唱えたものである。
  氏は、不同意/異議の根拠として、
  ①は、対海国までの海上道里を含んでいて、測量不能、としている。
  しかし、「海上道里」と即断しているが、同一行程は、既にそれぞれ渡海水行一千里と定義されていて、測量など不要なのである。
  ②は、対海国を含めた領域の「周旋」が、確認不能としている。
  これは、お説の通りである。四周五千里方形領域など、「倭人伝」に一切書かれていない、何かの思いこみに過ぎないのだが、GoogleMapなど眺めて、諸国をきままに配置する手法が世上、結構受けているのである。

 ③は、古田武彦氏の『「倭人伝道里」は、来訪した中国官人が歩を刻んだものである』との定理から、「倭人伝」記事は、来倭使節が、女王居処の東方に脚を伸ばして、五千里を探偵した成果としている。
 しかし、来訪した貴人は、道なき道(禽鹿径)を進む事はできないので、馬車か輿に身を委ねる必要があり、それでなくても、街道宿所もない遠隔地へ赴いて、無事帰還したとは思えない。それほどの偉業は、報告されない、明記されないはずはないのである。

 と言うことで、実際は、「周旋」は、既に明記されている、狗邪韓国から末羅国を経て伊都国までの「往来」である。
 「定理」は、全時代、全世界共通の「自然法則」でない限り、当該権力の権限の及ばない遠絶の地には、効力が及ばないと見るものではないだろうか。
 念のため繰り返すが、全て不明の東方に脚を伸ばしたとは、一切、明言も示唆もされていないので、野田氏の願望に過ぎないのである。
 
 結局、もっともシンプルでエレガントな①が正解なのである。そうでなければ、謹厳な史官である陳寿は、②,③のような込み入った話を、どのようにして、高貴で性急な「読者」に納得させようというのか、お伺いしたい所である。当時、GoogleMapどころか、地域地図も存在しないのである。国名羅列だけから、サラサラと各国が配置できるとしたら神がかりである。

 素人が手ぶらで見て取れる程度の明白な事項の考察が、古田史学会で審議未了になっているのは、勿体ないことである。

2「周旋」とは、端から端まで巡ること
 ここで、③は、隠されていた「参問」の三国志用例はなく、榎一雄氏の読解で「参験門尽」の意とされているが、
 素人考えでは、平易な言葉を難しく設(しつら)えるのは納得しがたい。単純に「倭地を訪ねる」の意かと思われる。
 当ブログの意見としては、「周旋」は、「往来」、「往還」と想われる。何も難しい主張ではない。「参問倭地周旋五千里」は、狗邪・伊都間の道里であり、全道里萬二千里の内数である。
 末尾に、別稿の用例談議を再録したので、一読いただきたい。要するに、洛陽史官の身近の用語であったと言う事であり、平易な読解と思われる。 2025/04/02

 やや深刻なのは、とりもつ、世話」と「たちふるまい、動作」用例で、魏書一例以外の十八例が、蜀書、呉書であり、陳寿常用の用例の検索の意義を見落としている。「三国志」で、陳寿編纂は魏書だけで、蜀書と呉書は両国公文書に基づき編纂され、陳寿は最低限の加筆だけである。読者たる司馬晋高官も関知していないから、指摘用例は、読者/陳寿の念頭になかったと見るべきである。

 「国土周旋」用例の三件は魏書であり、一応参考にすべきである。
 ここで、野田氏は引例解釈を誤らず、「往復」「往来」に到ってご同慶の至りである。

3「女王国の東」にある倭地 甲斐なき、不毛な新説
 野田氏は、意味もなしに「倭地」は「女王国の東」を含むと独断するが、女王国に隣接するとの解釈が、先ず想起されるものであり、「倭種」「倭地」「倭国」を攪拌し、四千里彼方侏儒国を海上お構いなしに取りこみ、「倭人伝」にない、つまり、帯方郡が認識していなかった「四国」まで乱入するのは、通説派の泥沼戦術を想起させて、困ったものである。
 果たして「女王(國)を去る四千里」は「女王国を去る」から倭国ではない。従って、単に風評であって、道里に意味がない。西域伝には、到達した更なる西方に西王母が住まうのではないかと風評を書き募っているが、なぜ、「倭人伝」は、遠隔地まで克明に認識していたと決め込むのだろうか。「邪馬台国」振興協会でもないのだろうが、とかく、新規/新規比定地を、「来るものは拒まず」と取りこむ風潮に迎合しているようで、不吉である。古田史学会にはそのような「我田引水」に迎合しないことを望むものである。

 陳寿をはじめとして、読者も、帯方郡官人も、関係者一同「従郡至倭」萬二千里の観念的道里は蔓延させたくないから、不明瞭な侏儒国は、泥沼理論から、除外したい。どうか、倭人伝行程記事を簡明に解釈しようとした先人の努力を無にしないで欲しいものである。

◯まとめ
 ということで、敢然たる追い込みにも拘わらず、氏の強引な手法は、尻すぼみで空を切っている。堂々と掲載されているということは、編集部一同、論文審査で納得されたのであろうか。

 また、本来平易な言葉を「悉皆」総ざらえすることは、古田武彦氏の信条であったろうが、部外者としては、賛同しがたい。時代的、地理的に隔絶したところの用例は、真意が掴めないと見える。

追記 「周旋」用例論議 2025/04/02
 当ブログでは、有力な同時代(後漢献帝期)用例、袁宏「後漢紀」卷三十孝獻皇帝紀建安十三年の孔融記事に加えて陳寿「三国志」魏志「崔琰伝」裴注(「続漢書」から引用)のほぼ同文の孔融記事を取り上げて、「長大」、すなわち「成人」なる語彙と共に、「周旋」は何気なく「往来」の意とされていて、同時代常用表現であったと画定し、「倭人伝」の語義とできるのである。これは、古田氏見解に、大略整合すると見える。

 ちなみに、孔子の末裔であった孔融は、当然ながら同時代人として大変高名であり、高官有司を務めていたが、献帝建安年間に最高権力者曹操の命により族滅されているので、陳寿は、魏志対象外と見る史官の見識で魏志に収録しなかったと見える。おかげで、裵松之は、時代のずれた「続漢書」から孔融記事を、耐障害と承知しつつ、補注に取りこんで裴注の限界を明示している。といって、別に、西晋権力者司馬氏に忖度したものでないのは、言うまでもないであろう。

 ことのついでに、笵曄「後漢書」の孔融記事を点検すると、原資料に含まれていたと思われる「長大」、「周旋」が言い替え、省略されていて、范曄の執筆姿勢をうかがわせる。おそらく、後漢、曹魏代の雒陽官人の日常語彙が、東晋建康文人范曄に継承されていなかったと思われる。

 「倭条」の用語が、「倭人伝」の用語とずれているのを見ると、范曄が「倭人伝」の旧世代用語を、当代流、自己流に書き換えたものと見え、范曄が、「倭人伝」と異なる独自の一次史料を咀嚼したとは考えにくいのである。いや、これは、余談である。

                                以上

2025年3月29日 (土)

新・私の本棚 サイト記事批判 宝賀 寿男 「邪馬台国論争は必要なかった」 更新

-邪馬台国所在地問題の解決へのアプローチ- 初稿2022/01/27 改訂 2023/11/29, 12/02 更新2025/03/29

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇サイト記事批判の弁~前言限定
 宝賀氏のサイト記事については、以前、懇切丁寧な批判記事を5ページ作成したが、どうも、無用の長物だったようなので、1ページに凝縮して再公開したものである。
 宝賀氏は、記事引用がお嫌いのようであるが、客観的批判は(著作権法で許容の)原文引用無しにできないのでご勘弁戴きたい。世上溢れる素人の印象批判は、思い付きがめだって不公平である。岡田英弘氏の名言を借りて、自戒の念をこめて下記する。

*自称「二千年後生の無教養な東夷」
 岡田氏は、三世紀西晋の史官陳寿は、『「千七百年もあとになって、この東海の野蛮人の後裔が邪馬台国ゲームを楽しむことを予想して、親切心から「倭人伝」を書いたわけではない』と処断しているが、どうも、読者の耳に入っていないと見えるので、ここに再掲しておく。(岡田英弘著作集 Ⅲ 日本とは何か 第Ⅱ部 倭国の時代 邪馬台国vs大月氏国)

 当方は、近来、岡田氏の大著の「山塊」に記された警句に気づかず、「二千年後生の無教養な東夷」などと警句を連打していたが、大家の警句が浸透しないのだから、当方如きの警句は聞き流されているようである。
 当方は、素人は素人であっても、極力客観的な批判を試みたのである。 

*救われない俗人
 いきなり、『俗に「信じる者は救われる」』とあるが、凡人には、なんで、誰に「救われる」のかわからない。凡人に通じない「枕」で「滑る」のは勿体ないことである。

*信念無き者達
 「信念はかえって合理的解決の妨げ」とのご託宣であるが、不適当な信念は、かえって合理的な解決を妨げるなら主旨明解で異論は無い。私見では、信念なしに研究するのは「子供」であるなぜ、あらぬ方に筆を撓ませるのか。御大は、滑り続けている。勿体ないことである。

*古田史観の誤解、宝賀史学の提唱
 宝賀氏の誤解はともかく、古田氏は、『「倭人伝」研究は、史学の基本に忠実に「原点」を一定に保つべきである』と言っているに過ぎない。頭から、「倭人伝」が間違っているに決まっていると思い込んでは、研究にならない』のである。つまり、志(こころざし)としては、宝賀氏と同志と見える。

 言い方を変えてみる。古田氏は、現存、最良の「倭人伝」史料を原点にする』という「学問的に当然の手順を確認している」のである。宝賀氏は、「原点」に対してはるか後世のもの(二千年後生の無教養な東夷)が改竄を加えた新「倭人伝」を自己流の「原点」として主張しているのであるが、それは、後世著作物である『新「倭人伝」』を論じているのであり、それは、古典的な史学で無く、「宝賀史学」とでも呼ぶべきものである。まことに勿体ない行き違いである。

*的外れな「倭人伝」批判
 因みに、かっこ内の陳寿批判は、『宝賀氏の不勉強』を示しているに過ぎない。(「不勉強」は、本来謙遜の自称であるが、ここは、言い間違いをご勘弁いただきたい)
 古代に於いて、許可無くして機密公文書を渉猟して史書を書くのは、重罪(死刑)であるから、陳寿の編纂行為は公認されていたのである。三国志編纂は、西晋朝公認、むしろ、使命と見るべきである。「私撰」とは、浅慮の思い過ごしでは無いか。
 「倭人伝」が雑然』とか、『陳寿が全知で無い』とは、まるで、素人の勝手な思い込みである。一度、ご自身の「信念」を自評して頂くと良いのでは無いか。
 いずれにしろ、「倭人伝」の史料としての評価は、「原点」確認の後に行うものである。宝賀氏の咆吼は、言うならば、勘違いの手番違い、手順前後である。また、おっしゃるような「悪態」は、「倭人伝」の史料批判には、何の役にも立たないのである。却って、発言者の資格を疑わせることになる。随分、損してますよと言うことである。

*「魚豢批判」批判
 白崎氏批判は置くとして、『文典で基本となるのは、魚豢「魏略」残簡しかない』というのは極度の思い込みである。魚豢は魏朝官人であり史官に近い立場と思われるが、私撰かどうか、現代人の知ったことでない。(「魏略」は、「名は体を表す」。 「正史」でもなんでもないのである)「漢書」を編纂した班固と違い、陳寿も魚豢も、「私撰」の大罪で投獄されたりしていないのである。
 ここで、「魏略」論が、混濁/混入しているが、『「手放しで」同時代史料』とは意味不明である。
 「魏略」佚文』に誤写が多いのは、校正作業を手抜きした低級な「佚文書写」故であり、「倭人伝」基準で言えば「桁外れ」に誤写が多いのは必然である。「倭人伝」二千文字に、二十文字誤写が有ったとしたら、それでも、十分許容される一㌫であるが、(翰苑残巻と見える)『「魏略」佚文』 では、数㌫と言えない「桁違いの泥沼」と定量的に言明すべきと思うものである。「史記」基準なら、可愛いものかも知れないが、ここでは、「三国志」の基準を適用するしかない。
 史学の史料考察は、最高のものを基準とすべきなのか、許容範囲の最低のものを基準とすべきか、よくよく考えていただきたいものである。これは、室賀氏に対する個人的な批判では無い。

 三国志」は、陳寿没後、程なくして、陳寿が用意していた完成稿(の絶妙の複製)が上申され、皇帝の嘉納を得て、西晋帝室書庫に収納されたから、以後、王室継承の際などの動揺はあっても、大局的には、初稿が「健全」に維持されたのである。時に、低俗サイトで持ち出されるような「改竄」など、できようはずがない「痴人の白日夢」である。これは、室賀氏に対する個人的な批判では無い。

 全体に言えることなのでが、中国史書を論じているのに、「二千年後生の無教養な東夷」の世界観で裁いている感が、業界全体に漂っていて「和臭」が強いのは、「日本」特有の一種の風土病かも知れず、つけるクスリが無いとか言われそうなのである。もちのろん、これは、室賀氏に対する個人的な批判では無い。誰かが気づいてくれたらと思うのだが、岡田英弘氏の警鐘が効いていないのだから、ここで素人が何を言っても通じないのだろうが、近来、ここで言うことにしたのである。

 後世、特に現代の高名な文献学者は、「三国志」には、あげつらうべき異本が無く、まことに、「飯のタネにならん」と慨嘆しているのである。「三国志」を写本錯誤の教材にしようというのは、「銭湯の湯船に自慢の釣り竿の釣り糸を垂れるようなもの」であり、見当違いなのである。釣れなかったら、河岸を変えることをお勧めする。

*「倭人伝」批判再び
 「倭人伝」批判が続くが、「それだけで完全で」は、「完全」の基準なしでは氏の先入観/思い込みと見るしかない。二千字の史料が、完全無欠なはずはない。当たり前の話である。つづいて、「トータル」で整合性がない』との印象評価だが、「トータル」は古代史用例が無く意味不明である。
 氏の先入観、印象は、第三者の知ったことでないので恐れ入るしか無い。学術的に意義のあるご意見を承りたいものである。

 丁寧に言うと、「倭人伝」は、陳寿が、編纂に際して入手/参照できた公文書史料を集成したものであり、史官が、史料を改竄するのは「死罪」ものであるから、「述べて作らず」の使命を守っているのである。そのために、素材とした史料の文体、語法などが不統一と見えても、それは、陳寿が史官の本分を遵守したことを示しているのである。
 いや、陳寿は、「正史」を「史実」/歴史的な真実の記録の集大成と見ているので、史料を割愛した例は多いと見えるが、それは、史官の信条に基づく「正義」の割愛であり、まずは、当時、その場で史官の真意を知ることができなかった後世東夷の読者、「二千年後生の無教養な東夷」としては、そのような編纂方針を甘受すべきと思われる。
 あえて無礼な言い方をすると、氏は、断じて、陳寿に比肩すべき知性、教養の持ち主であって、陳寿に取って代わって、魏志編纂を執行する抱負をお持ちなのだろうか。背比べの相手を間違えていように思うのである。

*追記 2025/03/29
 氏は、無造作に「当時の古典の全てに彼が通じていたわけでもないと断じているが、当時の官人は、「古典」の全てに精通していることが資格要件になっていたから、陳寿が無教養だったと非難するのは、大変な告発をしていることになるのである。氏は、四書五経を原文で暗唱できるのだろうか。
 まして史官の正史編纂に要求されるのは、何よりも、同時代公文書なる「史実」の深意を総合的に読解する能力であり、氏の世界観の外になるかもしれない「九章算術」なる数学/幾何「教科書」に満載された「算数」能力など、古典教養以外に通暁すべき「教養」が山積していたのである。
 氏は、魏晋代の官人の語法を、全て理解しているのだろうか。「東夷伝」でも引き合いに出される東夷話法にも、通じているのだろうか。誠に、神がかりと申し上げるしかないのである。
 いや、これは、氏に対する個人的な批判ではない。「史学界」にあふれる「無教養」な陳寿批判に対して、理を尽くして反論しているだけである。

*「混ぜご飯」嫌い
 素人考えながら、持論としての古田、白崎両氏の批判だけで切りを付けて、史料批判は別稿とした方がいいのである。具の多い混ぜご飯は、好き嫌いがある。論考の強靱さは、論理の鎖のもっとも弱いところで評価されるのである。

*「魏略」再考 2023/12/02補充
 因みに、魏略」の文献評価は、劉宋史官裴松之によって、「倭人伝」後に補追されている著名な魏略「西戎伝」に尽きるのでは無いか。陳寿「三国志」「魏志」第三十巻に補追されて以降は、「倭人伝」並のほぼ完全な写本継承がされているから、批判の価値がある。ということで、魏略「西戎伝」は、権威ある「三国志」百衲本の一部となっているのである。字数も、「倭人伝」を大きく上回っている。批判しがいがあろうというものである。

 結論を言うと、魚豢は、正史を志したものではないので、史書編纂の筆の精緻さ/強靱さに於いて、陳寿に遠く及ばないのである。魏略「西戎伝」として劉宋史官裴松之の手にあったのは、丁寧に写本継承された「善本」であったろうが、素人目にも明らかな、脱字、行単位の入れ違いなどの症状が(若干)見える。
 魚豢が参照した後漢西域関係公文書は、統計雒陽で安穏に継承されたわけではない。
 後漢末期、霊帝没後の大混乱で洛陽から長安に遷都となり、後に、帝都長安を脱出し流亡した献帝が、許昌で曹操の庇護のもと帝位を維持したものの、そうした皇帝の移動の際に、厖大な公文書が、全部ついて回ったとも見えない。、洛陽の公文書書庫は、維持されたとして、所管官人が動揺したのは当然であり、その間に、公文書の西夷関連部分に限っても、「脱字、行単位の入れ違いなど」の不始末が発生したようである。

 しかし、魚豢「魏略」「西戎伝」を踏まえて編纂したはずの范曄「後漢書」西域伝は、随分杜撰である。「下には下がある」のである。

*余談~范曄「後漢書」倭条考証 2025/03/29
 ちなみに、後漢献帝建安年間に、皇帝の威光の届かなくなっていた遼東郡で、郡太守として東夷を専断した公孫氏から、洛陽に経過報告がなかったと明言されているから、東夷伝の後漢代記事がどのようにして魚豢/陳寿の手元に届いたか、不思議なのである。
 かくして、范曄は、魚豢/陳寿の残した魏代記事を小細工して、後漢代記事に改竄したという疑惑が残るのである。後漢書/魏書の区分として、建安年間の記事は、後漢書に書かないという規律から、范曄は、「倭国大乱」を、桓帝/霊帝の治世と書かざるを得なかったのであるから、卑弥呼共立が、後漢献帝期と解釈するのは、范曄に載せられた誤解なのである。
 本稿は、宝賀氏の記事に関わりのない余談である。氏が、陳寿の筆法にあらぬ批判を浴びせているため、范曄の文飾に言及せざるを得なかったのである。因みに、范曄は、史官を天職としていたわけではないので、「文飾」は、むしろ、「絶妙好辞」の賛辞となるのである。
 これは、氏の理解し得ない同時代教養なのである。

〇頓首死罪
 以上、大変失礼な批判記事になったと思うが、率直な批判こそ、最大の讃辞と思う次第である。氏が追従(ついしょう)を求めて記事公開したとは思わないのである。

                                以上

2025年3月25日 (火)

新・私の本棚 番外 笛木 亮三 「卑弥呼の遣使は景初二年か三年か」 別系統コメント対応 再掲

                           2023/11/12 追記 同日 11/15 再掲 2025/03/25
新・私の本棚 菅谷 文則 日本書紀と邪馬台国 2/2(2023.11.11)

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯刮目天氏コメント応答の件~変則運用御免
 かねて掲示する刮目天氏から、上記本件に関して、当事者外の野次馬コメントが届いていて、若干筋違いですが、ふさわしい案件に連携して、当方の方針で、極力説明差し上げることにしていますので、以下、蒸し返しも含めて回答します。なお、目には目を、コメントには返信コメントを、が常道ですが、丁寧に論拠をこめて回答するには、コメント欄に入りきらないので、記事を立てたことの非礼をお詫びします。

◯コメント全文引用

いつも勉強させていただいていますが、今回のお話は古代史解明のカギを握っています。
大夫難升米が帯方郡を訪れたのは景初二年六月ではなく景初三年(239年)六月の誤りであることは以下のことから推理できます。

「魏書 東夷伝
韓伝」に「明帝が景初中(237~239年)に密かに楽浪郡太守鮮于嗣と帯方郡太守劉昕を送った」という記事がありますが、「東夷伝
序文」に「景初年間、大規模な遠征の軍を動かし、公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った。」とあります。「魏書公孫淵伝」によれば公孫淵の死は景初二年八月ですので、明帝は公孫氏滅亡を知ってから、楽浪郡と帯方郡を攻めさせたと分かりますので、景初二年六月よりも後の話なのです。

そして難升米が帯方郡で面会した太守は明帝の送った劉昕とは全く別人の劉夏なのです。

司馬懿が明帝崩御の景初三年春正月一日の後少帝の太傅(後見人)となって尚書省の長官に就いているので、人事権も掌握し、部下の劉夏を帯方郡太守に就け、戦略上重要な場所にある倭国を朝貢させたと推理できます。倭国王への詔書は司馬懿が書かせたものだと分かります。

つまり魏志倭人伝にほぼ全文掲載された詔書は、陳寿がそのまま転載したということです。陳寿は西晋の宣帝司馬懿を称揚するために魏志倭人伝を編纂したのです。晋書にも東夷の朝貢は司馬懿の功績だと記されているのですから、倭の魏への最初の遣使は明帝崩御後の景初三年六月が正しいと言えるのです。

ここが理解されないから、魏志倭人伝がコテコテの政治文書だと気づかないのです。
このため邪馬台国問題が解決しなかったのです。

従来の史料批判の考え方はそろそろ見直すべきですよ。

政治文書だと分かれば、七万戸の邪馬台国や五万戸の投馬国などホラ話だとすぐに気づきますし、帯方郡東南万二千余里の海上にある魏のライバル孫呉を挟み撃ちにする位置に計十五万戸の東夷の大国とした倭国の女王が都にするところが邪馬台国という記述も、すべて司馬懿を持ち上げるための潤色どころか大ボラだったということに気付けます。

多くの方は卑弥呼が鬼道で倭国を統治する、大集落の中に居た女王と考えていますが、本当の倭国王難升米が伊都国に居たのでは司馬懿の功績を持ち上げるには迫力不足だったから卑弥呼を女王にして騙したということなのです。

卑弥呼は倭国王よりも実力を持つ縄文海人ムナカタ族の族長赤坂比古(和邇氏の祖、魏志倭人伝の伊聲耆)の女(むすめ)イチキシマヒメだと突き止めています(宗像三女神の残り二女神は政治文書「日本書紀」のゴマカシ)。宇佐神宮・宗像大社や全国の八幡神社、厳島神社や神仏習合して弁天宮で祀られています。詳しくは拙ブログ「刮目天の古代史 邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」などをご参照ください。どうもお邪魔しました(;^ω^)

◯回答本文
*先行文献復習
 本件に関する論義は、近年でも、下記論考で議論されていますが、笛木氏が、周到な史料考証の果てに、誤謬をてんこ盛りにした指摘サイト記事に足を取られて、とんでもない結論に陥ったことを、当ブログで丁寧に批判し尽くし、念入りに否定されていますから、貴兄の論義は、考えちがいというか、不勉強による浅慮を根拠にしているので、この時点で「自動的に」考慮に値しない「ジャンク」となります。

 笛木 亮三 「卑弥呼の遣使は景初二年か三年か」 「その研究史と考察」 季刊 邪馬台国142号 投稿原稿 令和四年八月一日
新・私の本棚 笛木 亮三 「卑弥呼の遣使は景初二年か三年か」新版 1/3 補追
新・私の本棚 笛木 亮三 「卑弥呼の遣使は景初二年か三年か」新版 2/3 補追
新・私の本棚 笛木 亮三 「卑弥呼の遣使は景初二年か三年か」新版 3/3

 笛木氏の実直な献身的努力のおかげで、それこそ、ゴミの島をかき分ける徒労は避けられるのですが、反面、玉石混淆の羅列で、資料批判が疎かになるのは免れず、笛木氏の貴重な労作は、資料解釈に紛れ込んだ妄言のたまり場と化しているのです。
 特に、資料解釈の結論部で、不意打ちで、いかがわしい意見を採り上げて、折角集積した先賢諸兄姉(当然、自身のブログ記事は尊称の対象外です。念のため)無批判で踏襲するという、大変な間違い/取り違いをしていますから、丁寧に、率直に批判しています。
 二重引用になるので、言及を避け、要するに論義の責任は、所詮、笛木氏に帰属するので、人名は明記していないが、興味のある方は、原文を参照いただきたい。

*誤解の起源
 陳寿「三国志」魏志原文の「又」が、みずほ書房版「三国志」で、学術的に正確に、「さらに」なる古典的な日本語に翻訳されているのに対して、これを、現代の無教養な論者が、「自然に」、つまり、自身の限界のある「脳内辞書」で解釈して、権威ある辞書の参照を怠ったため、魏志の真意を察することができずに「楽浪、帯方二郡の回収時期を、公孫氏滅亡後と勘違いして決め込んでいる」ものであり、貴兄も、そのような意見に操られたのは、浅慮に属するものと思われます。
 貴兄の発言にも関わらず、史料批判とは、古来、何事も、繰り返し検証するということなのです。
 「又」は、漢字一字ですが、文意解釈上の要点であり、貴兄の別コメントにあるように、字数だけ捉えて、「わずか」などと、二千年後世の無教養の東夷が安易に切り捨ててはならないものなのです。

 要するに、司馬懿の公孫氏討伐に時間的に連動せず、但し、ものの理屈から、これに「先行して/先立って、両郡を皇帝指示の少数部隊により、太守を更迭して、遼東公孫氏の指揮下から外して、明帝直轄の新任太守に無血交替した」という趣旨が見てとれていない浅慮の失錯と見えます。何しろ。両郡太守は、皇帝の指揮下にあるので、勅命の紙片一枚で、更迭できるのです。
 但し、当ブログを参照している笛木氏は、肝心の指摘を見過ごしているので、今回の指摘も、見過ごししているかも知れません。あるいは、名「解釋子」が、そのような回収は、両軍の郡兵を動員して、遼東軍攻撃に参加させるなどと、無謀な創作をしているのに影響されたものかも知れませんが、それは、とんでもない臆測も良いところで、「密かに」と当たり前の事項を、但し書きして真意を見過ごしています。
 あることないこと書き足して、蛇足まみれにする「高等」戦術家とも見えますが、見え透いているのです。

 因みに、引用者が「景初中」を237-239と見るのも、軽率の誤訳です。景初三年は皇帝のいない異例/特異な期間なので、明帝の治世と見ることは許されないのですから、史官たる陳寿が意図したのは、景初一,二年の期間であるのは自明です。景初三年を含めたと解するのは、史官に対する侮辱-警告無しに一発退場です。

 ついでながら、倭人使節は、風評が到着したので変事に気付いて発進し景初三年六月に帯方郡に到着したという説であるから、数ヵ月を経て、洛陽から許可を得て発進しても、洛陽に到着するのは、さらにまた数ヵ月後という成り行きとなります。自動的に、皇帝が倭使節の上書に接するのは景初三年と限らず、正始元年、ないしは、それ以降と主張していることになると思われます。其の場凌ぎの言い訳は、言うはたからボロを出す例です。

 冒頭に述べたように、論争の通則として、「明らかに誤謬である前提」に立った貴見は、自動的に、根こそぎ誤謬となりますので、以下のご意見は、いかに念入りに構築されていても、自動的に、根拠の無い臆測となります。特に、本件は、日本語訳文の解釈の齟齬なので、解釈の誤解は、みずほ書房「三国志」翻訳者の責でなく、これを「現代語」に読み替え/解釈したものの責であります。貴兄ほどの見識の持ち主は、誤謬を信用したことに対する責任も負うのです。

 時に、愛情をこめて揶揄するように、無批判の先行見解踏襲は、夕暮れに、疲れ果てた旅人が路傍の「温泉」にいきなり飛び込むのと同様で、まずは、狸に化かされていないことを入念に確認して頂く方が良いでしょう。何しろ、日本古代史の「通説」は、八百八狸の騙し芸の名所なのです。被害者は、枚挙のいとまがないのです。

 ちなみに、貴兄の近来の施政方針(ポリシー)は、全世界の全「歴史文書」(ママ) は、すべて、はなから、「権力者」(ママ) の指示によって編纂された「政治文書」(ママ)に決まっている」(普通の表現としたことは、当方文責)という実証不可能な包括的大風呂敷ですから、陳寿「三国志」魏志第三十巻の巻末の「魏志倭人伝」に関する断言は、貴兄の施政方針が予め実証されない限り、貴兄の思いつきに過ぎないことは、自動的に通用しているので、ここで、何か力んで発言しても、抵抗は無意味です。よくよく、前後関係を見定めた上で。大言壮語、断言された方が良いようです。

 貴兄ほど、多くの読者の尊敬を集める良識の持ち主は、いかに心地良くても、一刀両断の大言壮語を自省いただき、具体的に、実直に、着実に実証の努力を積み重ねることをお勧めします。

*同日追記
 どうしても気がかりな部分をとりだして、精査してみました。
・推理とネタばらし
 司馬懿が明帝崩御の景初三年春正月一日の後少帝の太傅(後見人)となって尚書省の長官に就いているので、人事権も掌握し、部下の劉夏を帯方郡太守に就け、戦略上重要な場所にある倭国を朝貢させたと推理できます。倭国王への詔書は司馬懿が書かせたものだと分かります。
 つまり魏志倭人伝にほぼ全文掲載された詔書は、陳寿がそのまま転載したということです。陳寿は西晋の宣帝司馬懿を称揚するために魏志倭人伝を編纂したのです。晋書にも東夷の朝貢は司馬懿の功績だと記されているのですから、倭の魏への最初の遣使は明帝崩御後の景初三年六月が正しいと言えるのです。

*コメント
 見事な創作/解題ですが、客観的な根拠は見られません、丁寧に解説すると、太傅は、少帝のお守り役/名誉職で特に権力もありません。帝国政府は、多くの組織に分化していて、人事権も、同一組織に限られていたのです。つまり、時代錯誤なのですが、誰から教わったのでしょうか。いえ、別に、「ほら吹き童子」の名前を知りたいのでなく、実(じつ)のある根拠を示してもらいたいだけです。
 晋書は、「皇帝」が官僚に命じ司馬氏を貶めるよう編纂させた「正史」史上初の画期的な官製「ダメ史書」ですが、なぜ、貴兄の信条に反して信用されるのでしょうか。
 因みに、常識的な景初二年に従うと、帯方郡回復は遼東戦役の最中で、司馬懿が任務以外の策動をすることはあり得ないのです。また、「戦略」もなかったのです。また、皇帝詔書は、高度な教養が要求されるので、担当が決まっていて、文筆に信用に無い武官の司馬懿が書くことは絶対ないのです。というか、貴説に関係しない余談でしょうから、「蛇足」でしょう。

 ということで、貴兄のお話は、本末転倒しているのです。景初遣使が三年六月を根底/出発点/大前提に、寄木細工で物語を組み立てているので、辻褄が合って見えるだけです。

 当方の意見としては、ご力説のように、『三国志「魏志」が、西晋皇帝の帝詔により司馬懿に迎合するよう編纂された』としたら、なぜ、燦然たる倭使事績が、読み人も希な巻末/隅っこの倭人伝に、「わずか二千字」で、ひっそり/わかりにくく書かれているのかということです。司馬懿を顕彰する「戦略」があったというなら、「三国志」に司馬氏の悪名が残されているくせに「司馬懿」伝がないのが、まことに不思議です。逆臣である劉備、孫権にとどまらず、族滅した毋丘儉にも、「伝」はあるのです。

 一見すると、貴兄は、脳内に、現代人が現代語の概念で蠢く「時代劇」世界を展開されているのかと愚考する次第です。そこでは、現代概念が通用しているのでしょうが、「現実」の古代世界は、大きく様相が異なるのです。
 いや、そのような個性的世界観は、開祖岡田英弘氏初め、多数の追随者がいらっしゃるので、共感の声を聞くことが多いでしょうが、それは、高名なカズオ・イシグロ氏(ノーベル文学賞受賞)の「フィクション」観と通じるものですが、「フィクション」の古代世界が整合して見えても、現実の混沌たる古代とは別世界です。このあたりが理解できないで、現代語で突っ張っているとしたら、それは、中国古典文書解釈の常道を踏み外しているということです。

 要するに、土地勘の無い異世界で、なぜ、「一路」に我を張るのでしょうか。

ここが理解されないから、魏志倭人伝がコテコテの政治文書だと気づかないのです。
このため邪馬台国問題が解決しなかったのです。

*コメント
 当時西晋朝の官界に「政治文書」などないのは、ご存じないのでしょうか。
 [邪馬台国問題]は、西晋史官陳寿が想定のうるさがた読者に用意した「謎」であり、多少の努力で「解答」(正解)できたものなのです。二千年前に解決済みなのです。勘違いしてはなりません。後世、つまり、唐代止まりですが、例えば、「倭人伝」の万二千里道里が非論理的だと言われた例は、寡聞にして見当たらないのです。
 なぜ、貴兄が「火事場」の怪力を示すのか、よくわからないのです。

*追加コメントみたび 2023/11/15
 当ブログ読者には、「耳タコ」だろうという事で、飛ばしましたが、初見の方のために、説明を加えます。
政治文書だと分かれば、七万戸の邪馬台国や五万戸の投馬国などホラ話だとすぐに気づきますし、帯方郡東南万二千余里の海上にある魏のライバル孫呉を挟み撃ちにする位置に計十五万戸の東夷の大国とした倭国の女王が都にするところが邪馬台国という記述も、すべて司馬懿を持ち上げるための潤色どころか大ボラだったということに気付けます。
 七万戸の邪馬台国は、貴兄の誤読です。まあ、尊重すべき「倭人伝」を、はなから否定して「邪馬台国」と改竄して、原文が読めなくなっているのでしょうが、自然に解釈すると、女王は、精々千程度(文飾か)の端女(はしため)に傅かれていたことですが、端女は戸数に関係しないので、農耕「戸数」は無いに等しいのです。まして、女王の居城に課税することはあり得ないので、女王居所の「戸数」は無かったのです。
 「倭人伝」には、女王の居所としか書いていないので、卑弥呼が自己の居城を「都」(みやこ)としたというのも、誤解です。班固「漢書」西域伝で、蛮夷の王の居所を「都」としたのは、漢に匹敵する文明大国であった西域西端の巨大王国「パルティア」だけですから、陳寿が東夷の新参蛮夷に「都」の尊称を与えるはずが無く、簡単に誤解と分かるのです。
 なお、蛮夷の固有名詞/地名に「都」の字があっても、それ自体は、表音字となれば、「不敬」とは限らないのです。「不敬」であれば、魏志から削除されていたのです。
 計十五万戸は、従って、蜃気楼であり、実際、そのような戸数は、どこにも書かれていません。倭の全戸数は、七万戸なのです。
 書かれていない文字を虚空から読み取って、陳寿を非難するのは、筋違いです。
 五万戸の投馬国は、確かに文飾ですが、貴兄の書き漏らしている二万戸の奴国共々、貴兄が虚飾/誇張と断定する文字を書き残したのは、遼東太守時代の公孫氏であり、後世になって公文書を引き継いだ陳寿には、文書改竄はできないので、ありのままに書き残しただけです。陳寿を非難するのは、筋違いです。対海国、一大国、末羅国、伊都国と続く戸数/家数を見れば、実数は、五千戸にも満たないと見えますが、当時、一大率の指導を受けていない二国には、戸籍制度がなかったので、戸数は、推定すらできなかったと見えるのです。
 陳寿に司馬懿を高める意志があったのかどうかは、後世東夷の無教養なものには、分からないはずですから、気づいたというのは、単なる、良くある錯覚なのです。
 「帯方郡東南万二千余里の海上にある魏のライバル孫呉」は、筆が滑ったのでしょうか。魏皇帝は天子ですから、川釣りで釣果を争う「ライバル」などと呼べる相手などどこにもいないのです。(もともと、中国古代史に、生かじりのカタカナ語を持ち込むこと自体、「無法」の極みです。)
 かって、匈奴は、漢高祖の親征軍を大破して、匈奴が兄、漢が弟という和睦を締結しましたから、匈奴は、漢に匹敵する尊称と言えますが、それ以外、漢魏西晋は「無敵」だったのです。ちゃんと、同時代の世界観で語らないと、大局を誤るのです。
 史料の文字を精読しないとたちまち自滅発言になるのです。
                                以上
頓首頓首死罪死罪

以上

新・私の本棚 菅谷 文則 日本書紀と邪馬台国 1/2 更新

 日本書紀を語る講演会 第9回 高取町  2017/02/26
 私の見立て★★★☆☆ 端正な労作    2023/10/12 些末の補筆 2023/11/11 2025/03/25

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 本稿参照の講演は、2017年当時 奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)所長 菅谷文則氏の一般講演の記録である。
 惜しむらく、氏は故人であるが、史学の進歩のため、謹んで引用批判させていただいた。公立法人成果発表の部分引用と批判は、許諾されていると信ずる。

「講演の内容
 「三国志、宋書などの中国の歴史書から、日本の歴史を組み立てることは日本の文化・歴史を蔑ろにしている」との意見が散見する。しかし、日本書紀編纂の際、年代設定の基準としたのが、三国志魏志倭人伝である。[中略]
 魏志倭人伝(三国志の一部分の略称)によると、西暦239年に邪馬台国の女王卑弥呼は、魏へ遣使した。朝鮮半島の帯方郡(韓国のソウル近郊か)を経由して都の洛陽へ向かったと記述されている。[中略]卑弥呼が魏に使者を送る1年前の238年まで、中国大陸の東北部には公孫氏が燕という国を興しており、当然、邪馬台国は朝鮮半島経由では魏に遣使できなかった。」

*コメント
 氏は、一部で声高に囁かれている「三国志、宋書などの中国の歴史書から、日本の歴史を組み立てることは日本の文化・歴史を蔑ろにしている」 との極度の妄見に対して、決然と、これを否認しているのは、氏の晩節を燦然と輝かせる箴言であるが、「馬の耳」には、一向に響いていないものと見える。

 但し、氏も人の子であるので、残念ながら、氏の「魏志」解釈は、詐話めく妄見に足元を掬われて低迷している。もったいないことである。

 「西暦239年」は魏志にない「誤解」で残念である。朝鮮半島中部帯方郡から魏「首都」洛陽への常用道里は、遼東郡を通過しないのである。魏明帝の特命により、遼東郡討伐とは別に帯方郡を魏の直轄とする作戦が完了して、新体制下、帯方郡から洛陽へ直行するのは、当然となっていた。西暦238年ならぬ景初二年六月に倭使が帯方郡に到着し、順当に洛陽に案内されたことは、当然と見える。
 ちなみに、しばしば、というか、ほぼ、常に誤解されるのだが、「公式道里」は、一度設定されたら、郡治が移動しても、改訂されないのである。
 景初三年初頭(元日)に魏の明帝が逝去したため、倭使が帯方郡に到着したのが、景初三年六月であれば、熱意を持って倭を招聘した明帝は世を去っていて、後継少帝曹芳の治世/喪中なので、精々冷淡になっていたと思われる。氏は、「当然」「できなかった」と声高に断定されているが、断定の根拠が見当たらないのである。根拠なき断定は、誠に、不合理、非科学的である。
 さらに言うと、景初三年正月は、西暦238年か239年か不確かであるから、中国古代史で、無造作な西暦談義は禁物なのである。

 [邪馬台国から朝貢を受けた魏の皇帝の詔文が魏志倭人伝に記録されている。詔文を全文記録しているのは、三国志の中では邪馬台国の遣使に対してだけである。魏が、倭との関係を重視していたことがわかる。]

*コメント
 氏は、中国史書を誤解されているが、歴代皇帝は適宜詔文を発行し、公文書として保存されたが、逐一正史に記録されていないだけである。「倭人伝」は、当代皇帝曹叡が、倭に格別の恩恵を与えたことを示すために、陳寿が特に引用したのである。つまり、明帝存命中に発せられたか、起草され、帝詔として発せられ、而して、公文書として永久保存されたと見るものかと思われる。少なくとも、一部論者が言うような少帝曹芳の自作/自筆では無いのは、確実、自明、当然至極と思われる。当然のことを知らないということは、誠に幸せである。

中略][日本書紀巻九の神功皇后紀には、魏志倭人伝を割注として引用している箇所がいくつかある。その中に、現行の魏志倭人伝では景初二年となっている(景初二年六月倭女王)が、日本書紀では景初三年と書かれている(神功皇后の卅九年。魏志云、明帝景初三年六月、倭女王…)。[中略]日本では、景初三年が正しいとしているのであるが、その理由として挙げられるのが、景初二年の西暦238年は、先ほど述べたように、公孫氏の燕国があるため、魏に向かうことはできないからである。]

                     未完

新・私の本棚 菅谷 文則 日本書紀と邪馬台国 2/2 更新

 日本書紀を語る講演会 第9回 高取町  2017/02/26
 私の見立て★★★☆☆ 端正な労作    2023/10/12 些末の補筆 2023/11/11 2025/03/25

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*コメント
 既説のように、『唯一無二の史料である「倭人伝」に、「明確に」景初二年六月と明記されている以上、「これを覆す絶対確実な物証がない限り、これを正解として、以下の議論を進める」のが「日本」の学問の道』である。当方は、古代史学に関して、素人であるが、知る限り、科学的文書考証では、そのような正統的な議論が正道のはずである。
 いや、現代、思想信条の自由というものが言われているが、本件は、学術上の発言の当否を言うものであり、自由に何を言ってもいいというものではないのは、衆知/自明の通りである。

 蕭子顕「南斉書」編纂は六世紀であって、魏志から三世紀以上後世である。既に、西晋洛陽が、西晋末の大乱で北方の域外部族に蹂躙されていたため、南斉書編者は、後漢、魏晋代公文書を利用できず、世上出回っている風評魔界の史料を渉猟し、臆測したのである。「当然」「倭人伝」考証史料としての信頼できるものでなく、資料価値は桁外れに、極めて低い。これが、客観的な「真実」である。

 ちなみに、氏の参照する日本書紀は、本文すら、原本、ないしは、直接の写本は、とうに喪われていて、原本を視認した証人も、とうに死滅していて、既に、「正史」などと中国正史を謀った継承は、有名無実で、禁書扱いして継承されて久しく、写本は、奇特な寺社の特定個人の個人の自発的献身的努力によって辛うじて維持されていて、その際、個人的な識見に従って校訂されたため、中国史書に比べて承継写本の信頼度が格段に低く、まして由来不詳/不明の割注は、本文と比して、さらに信頼度が急落するものである。要するに、全く、全く信用できない。

 氏ほど絶大な見識の持ち主が、こと、「倭人伝」を「日本史料」として粗略に扱うという謬りの陥穽に墜ちているのは、誠に傷ましいものである。

 [中略]日本書紀に引用された三国志は、魏を滅ぼした晋の時代に書かれた。日本書紀が編纂される頃には、すでに日本に伝わっていたので、日本書紀編集に利用することが可能であった。][中略][そこから古墳時代の始まりが4世紀とし、ひいては日本国家が形成されたとされていた。]

*コメント
 氏は慎重に言葉を選んで「可能であった」(はずである)とぼかしているが、かくなる論証に不可欠なのは、『日本書紀編纂者が、「三国志」魏志の信頼できる写本「善本」を「実際に」参照した』との確証であるが、そのような裏付けは、全く存在しない。
 むしろ、三国志ならぬ魏志」をも本文内に適確に引用することもできず、形式不定の割注に留めているのは、渡来していたと推定している「魏志」写本を確認できなかったため、編纂時に校正されていない、つまり、根拠不明の衍入と見える。
 要するに、氏が一定の信を置いている「日本書紀」編纂の公的集団の偉業ではなく、個人的な後付けの加筆であるから、一段も二段も、あるいはそれ以上に格落ちなのである。史書編纂の信頼性は、組織的な基準が適用されない、不規則な手順/基準外れとなっているときは、格別の低評価になるのである。「明帝景初三年」なる不法字句が排除されていないという一点で、「書紀」編纂の信頼性は、全体として地に墜ちるのである。

 既説の如く、日本書紀例文は、極めて不正確であり、「善本」引用でないことは自明であり、恐らく、誤写満載の断片所引と思われる。編纂者が、中国史書に適格な知識を持ち適格な史料批判を行っていれば、「明帝景初三年」なる不正確な資料の引き写しとして、訂正したはずである。手短に言うと、信頼性の備わっていない史料は、一切、魏志(に限らず史料批判の)考証に採用できない。誤って、立論の根拠とすると、立論全体が道連れになって、「自動的に」崩壊する。

 [しかし、纏向遺跡の研究を起爆剤として全国各地で行われた土器の研究から、古墳時代の始まりは220年~250年頃まで遡ることになる。そうなると、天皇系譜と卑弥呼との関係が複雑になる。冒頭に述べたような日本の歴史から中国の歴史書を外そうとする一因にもなっているのではないだろうか。]

*コメント
 ここで、氏の本音が吐露している。氏の職掌に相反しない緩やかな指摘にとどまるが、素人考えでは、近年の纏向遺跡考証が巻き起こした土器年代考証の付け直しに対し、倭人伝が大きな(最大の?)妨げである」との意見と思われる。
 素人考えでは、国内古代史/考古学成果と「倭人伝」を連携させること自体が、古代史学に対して古典的な禁忌に触れたため「学問的不合理」を巻き起こしていたのだが、「近年の纏向遺跡考証」は、その不合理を一段と強調/進化させたと見える。
 素人の自由な立場から発言させていただくと、纏向遺跡と倭人伝の連携」を策動することを放棄すれば、万事解決すると見える。互いに縁がないのであれば、互いに邪魔/妨げ/百害あって一利の無い存在になることはないのである。

 要するに、「邪馬台国」を纏向に誘致する地殻変動的なこじつけを止めさえすれば、「倭人伝が大きな妨げ」という固執は消え去ると思うのであるが、もちろん、氏は立場上、職責に反する発言は一切できないから、あえて無理を承知で率直に忠言するならば、何れかの時点でそのような不合理の流れを堰き止め、日本に健全な史学を復元していただきたかったと思う。とは言え、それは、古来、「望蜀」と呼ばれる「無理」なのである。

 日本書紀1300年に向けて、もう一度改めて日本書紀とその時代を、魏志倭人伝や中国の歴史書も併せて研究していかねばならないと思うのである。]

*コメント
 かくのごとく穏やかな口調であるが、一部論客の声高な発言に対して軽挙を戒める至言である。

◯まとめ
 以上、氏の講演の中国史書に関わる部分は、氏の情報源の素朴な反映と見えるので、遺跡/遺物を考証した考古学学究の瑕瑾となっていることを延々と述べたものであり、氏の本分/本領に対して何ら批判を加えたものではないことは了解いただきたい。
 
                                以上

2025年3月24日 (月)

新・私の本棚 NHKBS「古代史ミステリー 第2集 ヤマト王権 空白の世紀」1/2 更新

私の見方 ☆☆☆☆☆ 果てし無い浪費の泥沼 豪勢な金継ぎ骨董 2024/03/27     2024/04/02 2025/03/24

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯番組紹介引用
詳細
古代史の謎を解くカギ「空白の4世紀」に何が!?“国宝級の発見”東アジア最大の「蛇行剣」や前例なき「盾形銅鏡」が明かす驚きの技術革新。史上初の統一国家「ヤマト王権」の力の秘密は?韓国で見つかった“謎の前方後円墳”。風雲急を告げる東アジアの動乱。危機に挑む「倭の五王」の秘策は?宿敵・高句麗との激闘の行方は?最新科学や実験でダイナミックな戦略を徹底検証。私たちの国のルーツに迫る壮大なミステリーの幕が開く

◯はじめに
 毎度の苦言だが、「ルーツ」なるカタカナ語は深刻な誤解を抱えている。
 この語句をタイトルに綴った名作文学は、アフリカで平和な暮らしをしていた男性が、邪悪な奴隷商人に拐帯されて家族から切り離され、アメリカ南部の綿花プランテーションの奴隷労働を終生強制されたが、その子孫が、アフリカの土地で先祖の故郷を発見し、親族の子孫と会合する大きな物語であり、アメリカの奴隷制度の忌まわしい歴史を伝えているから、安直な転用は「不適切」と言える。
 それとも「私たちの国」は、異境から誘拐され到来したとしているのか。

*淡白の弁
 前回の第一集は、陳寿「三国志」なる確実な中国史料の一角である「魏志倭人伝」のあからさまな否定作戦(Negative Campaign)で3l、無理なこじつけがやたらと目立って、批判の甲斐があったが、今回は、対象年代の中国史料が乏しく内容空疎で有るため、言いたい放題になっていると見える。当方も、当時代は、史料不足で圏外となっているので、熱が入っていない点はお詫びする。何しろ、前回批判した後が、黙認/容認と取られると不本意なので、批判論調を維持したものである。

*継ぎ接ぎ細工
 それはそれとして、今回のお話は「空白の四世紀」と称して史料の無い事態であって、空白のキャンバスに大胆な絵図を描いているから、せいぜい、夢物語なのだが、乏しい遺物証拠に、新作を大胆に継ぎ接ぎして、大層な絵物語を提供しているが、制作者の想像力貧困/無教養が眼について寒々とした。

*劉宋幻想
 言い古された南北風土差であるが、南朝領域では騎馬疾駆できないので、高句麗蛮族が南下しても戦力にならない。また、北魏は高句麗の西にあり、長年抗争の果てに、高句麗が臣従したから、とても友好関係とは言えない。
 東呉孫権政権は、大型海船で数千の兵を遼東半島まで送ったが、劉宋は、中原の長安、洛陽の奪還を図った北伐で国力を消耗していて、百済救援どころではなかったちなみに、西晋滅亡時、百済に遺臣が亡命して、政権高官となっていたから、百済は「法と秩序」が整った、東夷随一の文明国になりつつあった。
 番組から隠されていたが、倭国は、宋朝に百済支配権を請求して拒否された。百済は、司馬晋を継承する中原政権と自認していた劉宋に取って、親交の深い重要属臣でもあり、倭国の支配圏を認めるなど論外だった。
 西晋滅亡の際に、多数の官人が百済に亡命して、格別に厚遇されていたから、さながら「小中華」であり、曹魏に優遇されながら臣従を維持しないで、帯方郡を援護することもなかった「倭人」は、むしろ、百済の臣下であり、同列にならないのである。

*高句麗南下の戯画
 高句麗は、黄海岸「制海権」を握って、遼東半島から中国東莱への交易を独占しようとしたらしいが、と言って、嶺東の荒れ地、新羅領域制覇を目指したのではない。そもそも、小白山地に遮られているので「東アジア動乱」など夢でしか無い。
 なお、高句麗は、楽浪/帯方郡の滅亡後、半島南部、韓半島に進出しようとしたとは言え、小白山地を越えた「嶺東」は、弁韓の地とは言え、平地が乏しく、また、洛東江の流れが深いために灌漑が困難であったため、水田稲作が展開できず農作が低調であるため、駐屯維持ができず早々に撤退したはずである。確実な史料がないため、考察が困難であるが、四世紀当時、高句麗に南下の意志は乏しかったと見える。また、倭国としても、小白山地を越えて西方に転じて黄海岸に出る行程は、百済と紛糾するために、維持できなかったと見えるのである。
 もとより、高句麗は、北朝を形成した魏(北魏)に服属していたので、南朝に追従していた百済と対抗していたのである。

 当方において、地域、時代において圏外であるため避けられない「臆測」はさておき、当番組の描いた図式は、地図錯誤とあわせて、無残な時代錯誤と言える。

*「倭讃」談議
 それにしても、中国の天子に対して「倭讃」と称するからには、「親魏倭王」金印か同等の印綬を提示したはずである。常識的には、既に南方で再興した司馬晋、東晋に遣使していたはずである。その時点では、新羅道内陸行と旧帯方郡と山東東莱の渡船が健在で、さほど困難な遣使では無かったようである。

 このような前提から、古田武彦氏は、「邪馬壹国」王統が「倭国」に順当に継承されたとみて、「九州王朝」の基礎としたものである。すくなくとも、中国史書の論理から、そのような推定を否定するのは相当困難(実質上、不可能)と見えるが、当番組は、素知らぬ顔でとぼけているのである。勿体ないことである。

                                未完

新・私の本棚 NHKBS「古代史ミステリー 第2集 ヤマト王権 空白の世紀」2/2 更新

私の見方 ☆☆☆☆☆ 果てし無い浪費の泥沼 豪勢な金継ぎ骨董 2024/03/27     2024/04/02 2025/03/24

*加筆再掲の弁
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*遺物の謎
 当番組で、盾型櫛と銅鏡は、それぞれ発掘遺物が示されたが、「詳細」で壮語された「盾形銅鏡」は、ついぞ見当たらなかった。不思議である。

*虚言連発
 それにしても、「秘策」や「戦略」など、厳重に秘匿されたはずの軍事機密が、ぞろぞろ提示されるのは奇異である。誰が、なぜリークしたのだろうか。
 ちなみに、蜀漢宰相となった諸葛「臥龍」亮が、流浪の君子劉備に提示したという「天下三分の計」戦略は、陳寿が蜀志に収録したから、何れかの時点で公開されたのだろう。一方、『国内史料に見えない「倭の五王」』の「戦略」が、どのようにして制作者の知るところとなったのか不明である。

*書かれざる偉業
 それにしては、「倭の五王」南朝遣使の不朽の偉業が、国内史料に記録されてないのはなぜだろうか。無理やり「外交」したのなら文書記録が大量に残るはずである。広開土王碑をネタにした海外派兵も同様である。それほどの大事業が、国内史料に何も記録されていないのは、なぜだろうか。
 制作者は、同時代、王の高官に単数、または、複数の中国人がいて、国書起草以外にも記録文書の整備にもあたったと見ているが、なぜ、記録継承がなかったのか不思議である。「倭の五王」の墳丘墓に墓誌がなく、厳密な記録もないのは、なぜだろうか。中国人が「史官」として臨んでいれば、絶対起こりえないのである。

*「島泉丸山陵」の奇観
 ついでながら、有力天皇陵とされている「島泉丸山陵」が、「前方後円墳」で無いのは新作空撮までもなく公知である。なぜ、そのような不確かと見える比定が、NHKの教養番組に注釈無しにまかり通るのだろうか。不思議である。

*記録の不在
 国内権力にしたら、重要な史実が国内史書に記録されてないのは、権力継承がなかったからではないか。反逆者が滅ぼされれば、公文書は全て破壊されるのがならいである。暴力的な政権交代が秘されたのだろうか。

*学芸会ごっこ
 今回は、史料紹介が乏しく遺物も断片的であったためか、埋め草に、戦闘シーン、中国/高句麗/倭国王宮の寸劇など、とんだお芝居の蒸し返しが連続している。衣装、セリフ、舞台装置が、卑彌呼時代以来のベタベタの使い回しであり、まるで、学芸会寸劇で傷ましい。そう言えば、唐突な「専門家」寸劇も、名出し顔出ししているのに、棒読み風で勿体ない。「薄謝」戦術なのかな。

*不思議な胡服騎射
 画面に提示された高句麗の騎馬軍団は、弱弓「流鏑馬」で不思議である。当たれば痛いだろうが、馬上から打てる矢の数は知れている。まして、すれ違いざまとなれば、的を捕らえて打てる数は限られている。敵だって弓矢をもっているから、騎馬武者でなく馬を狙い撃てば、まず外れっこないはずである。もちろん、「歩兵」は盾も持っているし、更に言うと、ご自慢の鉄甲槍部隊に対して効くのであろうか。「矛」と「盾」の故事もあるくらいである。

◯まとめ~金継の無理
 いや、結局、当番組は、三世紀の「倭人」が、「巨大墳丘墓」政権と「倭の五王」政権を歴て、九世紀の平城京に続いた』との主張だろうが。滑らか(Seemless)な推移でなく、経過部分が穴ぼこなので、繋げるために、新作物語の破片を埋め草としてつないで、隙間を漆金箔の金継ぎした苦心の作と見えるが、「金継ぎ」の妙技でも、わずかな破片の大胆つなぎの無理は癒やされていない。
 要するに、大騒ぎして見せても、何も立証されていない虚夢のようである。

 公共放送が、このような法螺話、与太話を、多額の制作費を投じて制作し、堂々と公開するのは、誰の「戦略」に従ったのか不明だが、後生(若者)に負の継承とならなければ幸いである。

                                以上

2025年3月23日 (日)

新・私の本棚 NHKBS「古代史ミステリー 第1集 邪馬台国の謎に迫る」 1/10 更新

私の見方 ☆☆☆☆☆ 果てし無い浪費の泥沼 底なしのてんてこ舞い 稚拙な弥縫の流沙 2024/03/18, 03/28 2025/03/23

*加筆再掲の弁
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 先ずは、NHKが公開している番組案内である。
 あまりひどいので、視聴前に別記事で一報したが、実際に番組を見たら、下には下があるの体たらくで、率直に苦言を呈するものである。

-番組案内の引用である。
古代史ミステリー 第1集 邪馬台国の謎に迫る
初回放送日: 2024年3月17日
 私たちの国のルーツを解き明かす壮大なミステリー!古代史の空白に迫るシリーズ第1弾。謎の女王・卑弥呼の邪馬台国はどこにあった?発掘調査と最新科学が突き止めた新事実を紹介。人骨やDNA分析から見えてきた激動の東アジア。「三国志」に秘められた卑弥呼のグローバル戦略とは?最強の宿敵・狗奴国とのし烈な争いの結末は?未知の古墳のAI調査や大規模実験で徹底検証!日本の歴史を変えた卑弥呼の波乱万丈のドラマを描く!
-番組案内の引用終了である。

◯はじめに
 当番組は、古代史報道は「創作より奇想天外」であるという一例である。NHKは、与えられた虚構(ロマン)画像化の使命が達成困難なとき、何処かから予算を取り付けてでも、途方も無い虚構画像を作成すると経営的に決断したようである。かくして、NHKの制作陣は、投下費用をそれぞれの制作班に振り替えて、放送芸術の持続的発展を期したようであるが、以下に示すように、報道ならぬ「ロマン」は、学術的裏付けの乏しい「プロパガンダ」と化し、教養/報道番組の域を脱した浪費となっていて、このような費用支出を正当化するのは、至難と見える。会計監査をどう言い逃れするつもりかは知らない。

 すくなくとも、当方は、会計監査を業としていないので、諸説紛々たる古代史論で公共放送が「一説」に偏重したことをどのように正当化するかに、多少の興味はあっても知りたいとは主張しない。
 以下、番組を流し見しながら、速報/速評を試みたので、誤解/事実誤認があれば指摘いただきたい。また、再放送で確認いただければ幸いである。

 ちなみに、紹介した「番組案内」は、無残な錯誤の連発であり、NHKには、校閲部門がないのを偲ばせるのである。
 「国のルーツ」とは、いきなり語彙錯誤である。「卑弥呼の邪馬台国」とは、驚異の所有格であるが、女王は、せいぜい君臨していたのであり、「国」を所有していたわけではない。「激動の東アジア」などと大ぼらであるが、実際は、せいぜい、遼東界隈の話しである。後日追求するが、「グローバル」とは、これまた放言である。「倭人伝」にしか登場しない南の隣国「狗奴国」を最強の宿敵としているが、たまたま、女王の治世で不和だったのが、深刻な抗争に発展したと云うだけである。どうやら、女王「共立」に参画していなかったようであるが、所詮、コップの中の嵐である。三世紀当時の地域の実体は不明確であるから、「徹底検証」など、痴人の酔夢ではないか。トドメの「日本の歴史を変えた」とは、病膏肓である。三世紀当時、「日本」はまだ覚醒していない。そして、「歴史」は、文字記録として延々と蓄積されたものであり、現代人が、お気軽に改竄できるものではない。

◯各論
*誤解で導かれた虚報の世界開幕
 導入部で示される「邪馬壹国」と原史料を表示しつつ「ヤマタイコク」と発音する詐話紛いの手口と、勝手に「倭人伝」記事を解釈して、「邪馬台国」を「海の中」との決めつけたのは、まことに胡散臭い出だしである。
 ついでに言うと、「倭人伝」は、正史に明記された自明の史料名で、中国史学界で通用している。NHKには公共放送としての自尊心がないのか。
 三世紀古代史談に、無神経に「日本」と称して不吉である。NHKは、三世紀に九州で自立した「邪馬台国」が、八世紀に纏向地域を包括して「日本」と長大したと本気で信じているのか。「諸説あり」では済まないと思う。
 国内史学では、「偏見」を避け、「日本列島」なる中立概念を提起している。
 NHKには報道者の良識は無いのだろうか。

*「大規模な建物群と厖大な人物群」の壮大な時代錯誤
 三世紀古代に、堂々と開陳される大規模な建物群と行き交う厖大な人物群の時代錯誤、拙劣な虚構「画餅」に恐れ入る。建物は、南北線基準だろうか。時代に先駆けて、瓦葺きと見えるが、この時代、どうやって瓦を焼き上げ、どう足場を組んで葺き上げたのか。
 次世代から、絵空事と言われない堅固な「画餅」を望むものである。

                                未完

新・私の本棚 NHKBS「古代史ミステリー 第1集 邪馬台国の謎に迫る」  2/10 更新

私の見方 ☆☆☆☆☆ 果てし無い浪費の泥沼 底なしのてんてこ舞い 稚拙な弥縫の流沙 2024/03/18, 03/28 2025/03/23

*加筆再掲の弁

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*巨大瓦屋根の不思議
 ぱっと見であるが、降水の多い土地で雨仕舞い不備の大型建物は持続できたのだろうか。雨樋や排水口はどうしたのか。「画餅」批判が嫌いなら考証すべきである。三世紀、四世紀にこのような百年ものの大型建物を築けたのに、飛鳥時代は、二十年持たない萱葺きや板葺きに堕したのか。
 「虚構」は、専門家が、最先端の設計技術と工学技術を駆使し、途方もない費用を確保して細部に到るまで考証するはずが、なぜ使い回したか。困ったものである。
 毎年投入される多額の研究開発費は、このような虚構構築に費やされているのか。全国各地で考古学研究に勤しんでいる研究者に報いるべきではないのか。

*無謀な傾斜地運河
 虚構と言えば、これまでにも、奈良盆地三輪山麓の水量の乏しい渓流に、動力駆動の閘門無しに実現困難な傾斜水路運河を大々的に描いて見せて、あきれたものであるが、この手の病(やまい)は、草津の湯でも癒やしがたい(Die hard, Die harder, Die hardestか)ようである。
 要所で、女王が、高度な建築技術が偲ばれる宮室にあって、史料記事に反して多数の臣下を従えて胡座するのは、史料に反する大嘘である。公共放送たるNHKには、「フェイク情報」の拡散防止に努める良心はないのだろうか。

*不可能な銅鐸粉砕
 巨大銅鐸を瀬戸物のように粉砕するのは、既に「石野博信氏主催のレプリカ銅鐸破壊実験」で不可能と実証されたのをご存知ないのであろうか。NHK番組で堂々と公開されているから、知らないはずはないが、今回は、粉砕可能なレプリカを高度な技術で作成したのであろうか。

*年代鑑定の錯誤
 「遺物の年代鑑定が、一年単位で特定できる」というのは、素人騙しの言い逃れに過ぎない。予算申請時には、お役人に通じたろうが、素人眼にも誤魔化しに過ぎない。「年輪は一年単位」で形成され、データ解像度の限界となるという事実を、もって回って述べただけである。とんだ恥かきである。
 こうした、年代鑑定は「ヒューマンエラー」の積層に依存している。「科学はウソをつかない」と言っても、それは、観測結果の単純な表明に限定される。現実には、「結果」がスポンサーの意に沿わないと以後の依頼が途絶えて、収入源を喪う恐怖があるから、研究機関は、薄氷を踏んでいるが、蛮勇を持って「馮河」など怖くないというのだろうか。所望の結果が出せない鑑定者は排除しろという天の声が聞こえそうである。

*お手盛り鑑定の悲劇
 それにしても、ここで示されたのは、私利私欲でなく、また、研究機関の党利党略でなく、古代史学の不朽の基礎となる「結果」の獲得であれば、強引な結果誘導のない客観的研究成果批判が必要かと、素人ながら思う。

*百年遺産の願い
 常識であるが、「いかなる権力も不滅ではなく天命を喪えば下野する」のが、歴史の教えである。その際に、回示された「年代鑑定」は、素人目にも、見え透いた「底意を暴露されて批判の的になる可能性がある」のは当然の理である。その時、関係者は、「記憶・記録に無い」と弁明し、改竄の責めは実務担当部門の担当者に降りかかる。何処かで聞いた気がしたら空耳である。

 くれぐれも、後世の批判に耐える業績を画していただきたいものである。

                                未完

新・私の本棚 NHKBS「古代史ミステリー 第1集 邪馬台国の謎に迫る」 3/10 更新

私の見方 ☆☆☆☆☆ 果てし無い浪費の泥沼 底なしのてんてこ舞い 稚拙な弥縫の流沙 2024/03/18, 03/28 2025/03/23

*加筆再掲の弁
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*年輪年代鑑定の奇蹟
 木材年輪「年代鑑定」で、遺物が三世紀のものと特定されたというのも、画面で見る限り確定的でなく、テレビドラマなら「一致率」何㌫というところが、数字は出せないのだろう。して見ると、朗々たる箸墓古墳の年代特定は精々臆測である。
 何しろ、当時、キリスト教起源の「世紀」など存在しなかったから、古墳の年代特定が、「三世紀」にと規定されるというのは、一種怪談と聞こえかねないのである。
 かくのごとく巨費を投じた「でっち上げ」は、積年の赤字財政に喘ぐわが国で、貴重な国費を割いて巨費を投じた造作であり、途方も無い浪費と見える。これもまた、各地で地道な発掘を展開している方達に、大変失礼である。

*華麗なる「邪馬台国」~ 幻想の太古
 華麗に呈示された「女王共立」は年代物のお粗末な作り話で、粗雑である。なぜ、各国代表団が、史料に言及のない、おそろいのお仕着せ/制服か、意図不明である。いや、画面に示された卑弥呼の衣装、髪型は、文献に根拠のない幻想で、年齢設定も虚構である。どんな「専門家」の時代考証によるものか、公開頂きたいものである。

*喪われた出版物の伝統
 制作費は「透明化」していただきたいものである。
 往年のNHK特番は、付随出版物が豊富で、大判図版共々大変勉強になったが、近来、手抜かれて大変不満である。公共放送出版物の伝統は「荒城の月」になったのか。

*貴人参集の戯画
 「専門家」のご意見がないので、各国国主が、どこからどのようにして参集したか分からない。月に一度の参賀は必須だが、街道未整備で馬車交通が存在しないから貴人も徒歩往来であり、他人事ながらまことにご苦労である。

*壮大な「纏向」大国
 いや、三、四世紀に、各国邑(村落国家)が北九州に集中との想定なら別だが、当番組が示唆する壮大な「纏向」起点の長距離統治は、文書通信がなく街道未整備で、どうやって「古代国家」を維持したのか。

*生けるレジェンド
 古人曰く、「ローマは、一日にして成らず」社会の基礎構造(インフラストラクチャー。同時代のローマ帝国の制度を言うもの)が、皆目未形成では、「纏向」大国は、画餅/紙風船/張子の虎/砂上の楼閣/逃げ水と言われても、一切反論できないのではないか。一部で揶揄されているように、そこには、生ける「レジェンド」であった「纏向遺跡国家」が存在していたのか。

*幻想の雒陽首都
 それとも、以上は一視聴者の早合点で、堂々と映像展開されたのは「邪馬台国」で無く、曹魏雒陽首都であろうか。誤解を誘う無惨な手法では無いか。
 曹魏創業当時の雒陽は、曹魏文帝曹丕の再建活動があっても後漢末の廃都/破壊の跡を残していた。時代考証するなら、三国鼎立の戦時下に明帝曹叡のご乱行で、至る所で新王宮建設が進んでいたはずである。現場には官吏である「お役人」が多数駆り出されて、「首都」は、混乱していたはずである。明帝没後、新王宮建設は撤回されたが、画面で示された整然たる有り様は不審である。
 この画餅は、当番組の主題確保に、どう貢献しているのだろうか

*「タイムカプセル」詐称
 土中から発掘された遺物を「タイムカプセル収蔵」と放言しているが、気密恒温状態でない「タイムカプセル」とは物知らずの素人の妄想と見える。出土物は、泥中で大気中の酸素との接触が、少なかったと見えるに過ぎない。認識不足(Ignorance)は回復不能、つまり、致命的(fatal)である。

                                未完

新・私の本棚 NHKBS「古代史ミステリー 第1集 邪馬台国の謎に迫る」 4/10 更新

私の見方 ☆☆☆☆☆ 果てし無い浪費の泥沼 底なしのてんてこ舞い 稚拙な弥縫の流沙 2024/03/18, 03/28 2025/03/23

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*暴露されたタイムカプセル
 せめて、「纏向遺跡」で実例のあった大型建物遺跡の一隅の土坑の泥の底であれば、内部対流してなかったろうから、一千八百年を経ても、ほとんど外気を呼吸していなかったろうが、ここにずばり開封された。
 密閉と見えても、温度気圧の変動により呼吸して、周辺に纏わる大気の吸排は否定できない。一日の呼吸が極小でも、一千八百年間の呼吸の積み重ねは、影響無しとは言い切れない。今回の出土遺物は、表層近くと見えるし、遺物を密閉容器に収めた様子は見えない。まことに暢気である。

*纏向遺物の悲劇
 関係者は忘れたかったろうが、NHKオンデマンドで公開の「特番」には、纏向遺跡発掘で貴重な時代遺物である大量の桃種を埋蔵位置/深度を特定しないまま、貴重な付着物を無雑作に一括洗浄しているのが記録されている。
 そのため、多年の積層か一度ないしは数度の祭礼で一括投棄されたか判別できず、遺物ごとの時代鑑定は一切不明である。それにしても、出土資料の管理が等閑(なおざり)なのは勿体ない。考古学の遺物記録鉄則を失念した暢気なものである。後年高度な化学分析に供しても、遺物史料の信頼性に対する不信を拭いきれない。

*華麗な女王像
 女王は、共立後徐々に権力を掌握したと云うが、自身の領域を持たない軍事的、経済的に無力なものが「権力」を揮えるわけがない確実なのは、調整役である。肝心の「魏志倭人伝」に女王「権力」など書かれていない。関係者の雨の夜の創造物か。諸国王と言うがそのようなことは書かれていない。

 当番組は、「女王」隣席の御前会議をでっち上げていて、史料無視で話がボロボロである。頑固/堅実な考古学は崩壊したのか。

*「狗奴国」幻像
 狗奴国反抗で番組の示唆する宏大領域が内戦状態に陥るとは信じられない。
 当番組は前方後方墳を根拠に、狗奴国が東方まで展開した巨大国家との奇説に組みしているが、文献根拠が提示されていない臆測である。

 確実なのは、墓制が異なれば葬祭儀礼が異なり他と和しないだけである。何かの流行で葬祭儀礼が「革新」され、銅鐸が一気に廃棄され、巨大墳丘墓が棄却されたと無責任に言うが、無教養で無知なものの放言である。

 葬祭儀礼は、古代国家の「伝統」根幹であり、また、現在の権力者の権力の根幹である。子々孫々の維持に全知全霊を傾けるから、祖礼を「流行」で廃棄するなど有り得ない。無教養で無知なものは、ことを宗教的とし、果ては迷信と蔑視するが、学界はそのような暴言を早速撲滅していると信じたい。

*長征幻想
 狗奴国との間に、「日本列島」を広範囲に蓋う抗争など不可能である。一部異説陣営が、古代の世界観の「乱」を望んで、恣意に満ちた解釈に勤(いそ)しんでいる。誰が考えても、道なき道を延々と徒歩移動し、野営を重ねた果てに果敢な武闘(campaign)は、とても持続できないものである。
 幸運に恵まれて遠征先で勝利したら、来た道を米俵と傷病兵を担いで延々と帰国するのだろうか。死者がいなくなって農業生産が害される。凱旋しても、遠路を担いで還った米俵など、ほとんど腹の足しにならない。もし、負け戦だったら、悲惨の極みである。敗軍の将は、斬首ものである。
 水田稲作で、春秋の植え付け、収穫時は共同作業できたが、夏場は各戸の人力頼りであるから、農繁期の徴兵軍事行動は自滅行為であり、地域の指導者は、「大乱」に消極的であったはずである。

                                未完

新・私の本棚 NHKBS「古代史ミステリー 第1集 邪馬台国の謎に迫る」 5/10 更新

私の見方 ☆☆☆☆☆ 果てし無い浪費の泥沼 底なしのてんてこ舞い 稚拙な弥縫の流沙 2024/03/18, 03/28 2025/03/23

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「掠奪史観」汚染か
 要するに、近隣との水争い、漁場争いには、生活改善の意義があるが、食糧掠奪は子供のお遊びでも有り得ない。と言うのは、NHK番組司会役の「歴史家」磯田道史氏が、不正規発言で掠奪史観を持ち込んだが、「門外漢」が、古代掠奪国家と暴言を物しても時代と地域を理解していない暴言でしかない。
 一級史料「魏志倭人伝」に一切書かれていない広域の争いは、当時の「日本列島」では「無かった」のである。そもそも、調整役として女王を擁立したのは、「時の氏神」の元で、よろず談合しようという賢明な策であり、一時の抗争が収まれば不戦の誓いが復活したはずである。

 この地域、この古代で、他国侵略、食糧掠奪が、物々しい割に成果が望めないのは、先に述べた展開の後日談を考えればわかる。敵もさるもの、次回の侵略は手ひどく報いられるのは、日を見るより明らかである。

 掠奪に国家の礎を置く暴行は、天に裁かれる。「汝盗むなかれ」は、戒律の始まりと言える。古代人の叡知を侮るものは古代人にあざ笑われる。
 いや、延々と戒めるのは、他ならぬNHKの古代史教養番組が、三世紀における掠奪世界観/倫理観を高々と謳い上げて制止されていないからである。

*隔壁無き「国邑」
 史料に戻ると、「倭人伝」は、「倭人」の「国邑」村落国家が中原の常識に反して、隔壁の無い「安息」境と賛嘆している。水壕は「けもの除け」に過ぎず、実戦となれば、掠奪者の工兵が梯子を組んで渡るので、防備するには、三匹の子豚の童話で言う石壁が必要である。

*「青谷上寺地」難民キャンプ説
 青谷上寺地に、数世紀とも見える期間に大陸人員が居住したとして、それは、時間的に、量的にどの程度かということである。二人渡来しただけでも、世代がつながれば、計算上は百人を超える集団に発展するのである。
 どこからにしろ、部族ぐるみの到来であるから、先祖代々の葬祭儀礼を持ち込み、墓所には墓誌を埋めて金文史料が出土する。中原には中原の葬祭儀礼があるから、逃亡先でも、蛮夷に同化せず、「文化」を堅持したに違いない。
 下級民でも所帯道具一式に加え、当然、筆墨、算木に基づく度量衡や暦制も持参したに違いない。でないと、氏族が維持できず、もっての外の親不孝になるのである。そうした伝統維持が、何も遺っていないはずがない。
 言うまでもないが、氏姓、本籍は、何があっても棄てられないのである。

*中国権威者の妄言~百年の恥辱
 王勇老師は、古代中国で、民衆が戦乱から東に退避したと決めつけているが、何かの錯覚であろう。難民は、地域社会丸ごとと見るべきである。先ずは、現住所から系譜、戸籍、家財、財貨を抱えて、一族諸共、四方に逃散するはずであり、西は、流沙世界であるから逃げられず、北は、匈奴領域であるから逃げられず、大勢は、難なく南下したはずである。

 東方は、華夏文明の圏外であり、山島半島岸辺から見て、目前の海中山島である朝鮮半島中南部は、筏や小舟で渡れるというものの、現地は街道も無い荒れ地で徒歩移動であり、さらに、東夷の地に至るには小舟で島伝いに渡海する必要があるから、一族郎党が、家財道具一式を抱えて渡来するのは何とも難儀である。以上の推定が御不満であれば実験航海してみることである。

 それにしても、後漢末期の黄巾の乱が平定された三国時代の中原は、曹操が安定化を図っていたから、氏族ぐるみの逃散は鎮静化したはずである。

                                未完

新・私の本棚 NHKBS「古代史ミステリー 第1集 邪馬台国の謎に迫る」 6/10 更新

私の見方 ☆☆☆☆☆ 果てし無い浪費の泥沼 底なしのてんてこ舞い 稚拙な弥縫の流沙 2024/03/18, 03/28 2025/03/23

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*根拠なき卑弥呼遣使
 それにしても、卑弥呼が、曹魏に使節を送ったと云う「法螺話」連鎖には恐れ入る。専門家が寄って集(たか)って考証したと言うが、どんな顔で法螺話を募ったのだろうか。いや、別にお顔を拝顔したいと言っているのではないので、SNSはご遠慮申し上げる。

*有り得ない大挙「北伐」
 老師(日本語で言う「先生」)の新説として、東呉の曹魏北伐を云うが記録はない。騎兵部隊を持たない東呉孫権は北伐して天下を取って中原を支配する気などなかった。
 幻想の「赤壁」事件の後日談でも、さっさと撤退した後漢宰相曹操の軍団は、別に追い打ちを掛けられず、悠悠と後漢献帝のもとに凱旋し、荊州平定の戦勝報告を物しているのである。要するに、東呉の軍兵は、騎兵がいないので追撃/侵攻できなかったのである。
 以後、曹魏は、川船を駆使した水軍の訓練をした形跡があるが、東呉が、軍馬を大量に買い付け、騎馬兵団を養成したとは聞かない。いや、そもそも、どこから大量の軍馬を買い付けられるのか、不思議ではある。

 あえて言うなら、曹魏に対する反乱勢力では、西方で騎馬兵を有する弱小「蜀漢」が、関中方面に北伐軍を送り込んだが、曹操、曹丕の二代は、各国の内情を熟知していたから、孫権が北進しても片手業で追い返したのである。いずれの場合も、せいぜい、威嚇して降服を促すだけであり、遠征して征服することなど論外である。

*有り得ない「四国」鼎立
 それにしても、戴燕教授なる老師は、どんな史料を見て発言したのだろうか。三世紀、「倭」が、第四勢力気取りで魏、呉、蜀の海上紛争に介入したというのは、日本人はだしの「倭自大」である。かくも保身されているのは、何が怖かったのだろうか。もちろん、蜀の海上作戦など、勘違いであろう。
 いや、謝礼を振りかざされた両老師の発言の断片から、当番組制作陣が、番組展開に都合の良い部分だけを見せている可能性は否定できない。見えていないものは分からない。
 画期的な大量の難民が発生したのは、西晋末期の亡国時である。亡国の洛陽官人一族が黄海を越えて百済に渡来し、文書行政を後進の百済に齎した。

*魏帝幻想
 ここで、公共放送の制作陣は、寄って集(たか)って大層な対話劇/法螺話を打ち上げているが、要するに、何の裏付けも無い「虚構」である。堂々と喚いている魏帝は、明帝曹叡であろうが、金印を手配したものの、サッサと逝去したから、以後は、全て沙汰止みになったはずである。史料に照らして時代考証していないのは、お粗末である。

*史料無視の咎め
 復習すると、当時、信頼するに足る史料は、唯一「魏志倭人伝」だけである。字数は、二千字程度であるが、三世紀当時、西晋の高官などの読書人が精読し、確認したから、信頼するに足るのである。
 国内史学の見地で気に入らない点があっても、それは、「二千年後生の無教養な東夷」のわがままに過ぎない。まして、「倭人伝」に書かれていない創作を「天こ盛り」するのは、史学の道を、はなから、大きく外れていると思量するものである。
 NHKが、このような無思慮な創作/改竄を助長するのは、まことに勿体ないことである。

                                未完

新・私の本棚 NHKBS「古代史ミステリー 第1集 邪馬台国の謎に迫る」 7/10 更新

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*幻の卑弥呼朝廷
 それにしても、提示された卑弥呼朝廷はウソの固まりである。女王となる以前は、しばしば、人々の諮問に応じて神意を託宣していたとされているが、女王となって以後、卑弥呼は「滅多に臨朝しなかった」と「倭人伝」に明記されているから、御簾も無しに素顔をさらす胡座(あぐら)の女性は何者か、不明である。番組は、勝手に各国に王がいたとしているが「国主」の誤読であろう。天辺の「点」の有無で大違いである。「国邑」に王がいて王統が継承されていたのは、限られた大国だけである。ちなみに女王は王では無い。

 このような立派な「再現」の根拠となる朝廷遺跡が発掘されたと聞かない。

*「前方後円墳」の手前味噌
 前方後円墳(一種の熱病か)は、三世紀から一世風靡したとしているが、それは、無理の固まりである。通説では、前方後円墳熱は、吉備で発症し、纏向に蔓延/波及したとしているのではないか。
 大規模な墳丘墓の大規模な施工には、先ずは、大勢の技術者が必要であり、技術者は、天から降ってくるものでもないし、地から生えるものでもないから、何年という時間をかけて、文化/文明を教え込んで、読み書き計算から始まって、工学原理の伝授まで養成しなければならないのである。そのようにして、丹精して養成した工人たちは、実は、「古代国家」の国の礎/大黒柱であり、安売りしたとは思えない。
 いや、三世句後半に、突然、纏向で、造墓組織が蹶起しても、「日本列島」各地の徹底には、多数の部隊が並行して各地で動作しないと実行不能である。
 「人、物、金」、どこから降って湧いたのだろうか。各地で、指示通りに墳墓を施工させるのに、どんな威嚇手段を執ったのだろうか。不思議であるが、まだ、具体的な手法は聞いていない。すくなくとも、国王の詔勅が届かなければ、各地方の君主は、動かないはずなのである。

 いや、そのような難癖は、卑弥呼没後に(寄って集って無理やりに)直結させるから手ひどく突っ込まれるのであり、箸墓が、伝統的な時代比定で、四世紀とされ、以下、徐々に各地に技術が波及して、二世紀かけて、土木技術が伝世普及したというなら、納得させられるのだが、当番組は、「新説」正当化に、あまりに性急である。

*「歴博教授」綺譚
 素人目にも明らかなように、「歴博教授」が過去のNHK番組で愛好した性急な論法は、今回は「根拠の無い虚構」として棄却されたと見える。今回は、なぜか陰に隠れているが、三世紀「倭人伝」記事の否定に唐詩の大家李白の名作を持ち出す場違いな論断は、今となっては、歴博の風土が生んだ「レジェンド」の児戯として、むしろ懐かしいのである。氏が、NHK番組での失態で失職していないのを見て安堵したものである。

*「倭の五王」と「巨大墳丘墓」の時代/地域考証談議
 冷静に見れば分かるように、『中国史書に記録された中国南朝に遣使した「倭の五王」の文献上の偉業』と『現存する巨大な墳丘墓の遺跡/遺物の考古学』は、それぞれ独立して存在するのであり、「後世人の恣意でくくりつけてはならない」のである。どちらの偉業も、「日本書紀」に明記されていないので、「専門家」のご意見次第でどうとでも「ゴロゴロ」と転がるのである。

                                未完

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*「狗奴国」飛翔
 いや、いつの間にか、狗奴国は東方に広く展開していたことになっていて、たいした法螺話と思うのである。誰も、不思議に思わなかったのだろうか。どこの誰の指示によるものか知らないが、ちゃんと制作過程の議事録と指示書を取っておかないと、後世責任追及するときに、「誰が決定して、なぜこうなったのか、記憶にありません」で済まされると危惧するのである。となると、具体的な制作担当者の責任で逃げるのではないか。まさか、登場した俳優の責任では無いだろうが。

*安直な戦闘シーン
 もちろん、人件費がかかっていると見える戦闘シーンは、時代錯誤そのものである。戦国ものの流用ではないとしても、さすがにいずれかのドラマの流用なのだろうが、まことにお粗末である。それにしても、これほど多数の兵隊が動員できたら、勝利を争わず和平/妥協すれば、多額の戦費が霧散し、兵は、農事に帰れるから、国は富むのである。

*無意味な鉄鏃
 古代の実戦では、鉄鏃など、ほとんど無意味である。大抵の矢は的を外れるものであるから、数多く撃って当てるのが「勝ち」である。
 一戦を交えた後、死者の身体に食い込んだもの以外は、せっせと、矢を拾い集めたはずである。周知であるが、山野で拾い集めた石塊をたたき割って作られる石鏃の殺傷能力は、しばしば粗製の鉄鏃を越え、ありふれた石鏃矢は農閑期の内職で造れるから、格段に安上がりで豊作である。要は、数多く打てば当たるのであり、別に殺さなくても、手足に傷を負わせれば、敵は闘志を喪う。三世紀時点で鋼鉄甲冑は無く石鏃で十分とも言える。

 戦が負け戦で終われば、さっさと撤退するから、石矢は、ばらまかれたままで早晩忘れ去られたのである。

*渡来技術談義
 珍しく健全な常識を備えた方が登場して、墳墓施工は渡来技術起源としていて、奈良盆地内でも、特異地点である「纏向」遺跡で忽然と開始したと云うが、当時、そのような兆し/契機はない。いや、三世紀当時、纏向は「生きた国邑」であり、亡霊の徘徊する「遺跡」にはなっていなかった。もちろん、周辺の「唐古鍵」などは、纏向遺跡の一部ではない。

*伝統の版築工法
 ちなみに、「版築」工法は、遅くとも秦代以来の基礎技術/業界の常識であり、楽浪郡、帯方郡にも、土壁/石垣を備えた築城の技術として伝わっていたはずである。辺境に、郡治/郡太守のお城を築くには、不可欠な技術であるから、遅くとも、秦始皇帝が長城の東端の守りとして遼東郡を築いた時点には、東夷の境地にまで伝来していたはずである。つまり、遼東郡に、築城工兵部隊を常駐させていたはずである。何しろ、始皇帝が設けた官道は、二千年を超えた今日でも、版築の姿をとどめているのである。

 ついでに言うと、雒陽付近の土壌は黄土の一部と見え、適度の粘り気のあるものであり、また、特に多雨地帯でも無いので、内部に草の花粉などが少ないので、突き固めの版築が、既に千年近く施工されていたのである。
 知らないでいた専門家は、誇らしく「新説」を語っているが、後世に残る「迷言」とされるだけである。
 ちなみに、国内で眼に付くのは、戦国時代の築城術であり、整地/地固めの工程と石垣積みに土壁を築くものであり、長年継承された土木技術と見える。

                                未完

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*幻の三世紀「ヤマト王権」
 以下、当然、卑弥呼の後裔として「ヤマト王権」を括りつけているが、無理の固まりである。考古学界の先人は、「発掘現場の考察を無理に文献や広域学説にくくりつけるな」と厳命していたはずである。
 「金属加工技術」と言うが、現実に存在したのは、青銅器の鋳造技術である。鍛冶屋さんの鍛鉄技術は、完全に別義である。ものの理屈を知らない人のどんぶり勘定は、ご勘弁いただきたい。

*明帝復活/面談の奇蹟
 今回、卑弥呼の高官が、曹魏皇帝と対立/対面して堂々と抗弁している様が描かれている、そのようなことは、絶対に不可能である。先ずは、玉体に危害が及ぶことなど、到底、あってはならないのである。馬鹿馬鹿しい眺めであった。
 皇帝は、玉座に鎮座し、蛮夷のものは、遥か遙か隔たった、何段も低い場所から、許しを得て身辺の通詞に語りかけ、その言辞が随時伝言されて、皇帝の書記官が趣旨を解したとき、初めて、皇帝に簡牘によって言葉が伝わるのである。そもそも、臣下、さらには、蛮夷が、天子たる皇帝に直言など、絶対に許されない。いや、蛮夷昇殿は、それ自体が奇蹟なのである。
 そもそも、卑弥呼高官は、蛮夷「倭大夫」であって、人の言葉を知らないので、皇帝に通じる発言が一切できず、上申文書も、事前に国王の署名を得た国書を、書記官の許可を得て/通じて、検疫を受けて伝えるしかない。
 それにしても、瀕死の明帝がよみがえったのか、少帝が竹馬にでも乗ったのかギャグ連発で恐れ入る。いや、よくよく見ると、これは、御前会議などでは無く、玉座は空席であった。面目ない。

*ぶざまな乱行の連続
 全体に、各カットに金のかかるウソの固まりで呆れるしかない。
 NHKは、いつから、古代史番組の堅実な考証を棄てて、一部通説に奉仕する伝統的な「幇間(太鼓持ち)芸」に成り下がってしまったのであろうか。方針に沿わない堅物の古代史担当者は、地方局に出向したのだろうか。
 「科捜研の女」由来の人気取りとなると、「京都府警 土門薫警部」の次は、SRIの豪勢な科学捜査鑑定設備でも動員するのであろうか。

*秘められた戦略のリーク疑惑
 ついでながら、『「三国志」に秘められた卑弥呼のグローバル戦略とは』と、冒頭惹き句で大ぼけをかましているが、別に秘められているので無く、無かったから書いていないだけである。終生自室に引きこもっていた女王は、殊更に啓示されない限り、魏、呉、蜀の角逐など知るはずがないし、遠隔地に逼塞しているちんまりした国が、中原の抗争に干渉などできるわけがない。

 もちろん、厳重この上ない極秘事項であった「国家戦略」が、外部に「リーク」され、後年陳寿によって、中国に暴露されたのであれば、それは、まことに壮大な物語であるが、制作者が、そのような幻覚に襲われたのは、何か悪いものでも食べたのでは無いかと懸念されるのである。

 東呉孫権は、遼東公孫氏の口車に乗って援軍を送ろうとしたが、背かれて大軍を失ったものである。「倭人伝」は、そのような戯言と無関係の世界として書かれているのである。夢物語の愛好家は、薬物を断ち、顔を洗って目を覚まして欲しいものである。

                                未完

新・私の本棚 NHKBS「古代史ミステリー 第1集 邪馬台国の謎に迫る」10/10 更新

私の見方 ☆☆☆☆☆ 果てし無い浪費の泥沼 底なしのてんてこ舞い 稚拙な弥縫の流沙 2024/03/18, 03/28 2025/03/23

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「グローバル」幻想
 「グローバル」(地球的の意味か?)という「天下」は、二千年後世の東夷の辞書に載っているカタカナ言葉なのだろうが、古代人どころか、現代人すら、適格に理解していないのではないか。
 三世紀当時の知識人の意識に於いては、あくまで、当人の棲息する/知りうる「井戸」の中の地域的、ローカル、プライベイトな「小宇宙」であり、その外の「外界」のことは、時代を越えてあらゆる人が「知り得ない」ものと認識していたのである。

*魚豢「魏略」西戎伝の世界観
 このあたり、陳寿「三国志」魏志第三十巻末尾に裴松之が補追した魚豢「魏略」西戎伝は、「倭人伝」二千字を超える大部の小伝であるが、魚豢の労作が、公式に上程された証左として、巻末に「評」が提示されている。(筑摩書房 筑摩世界古典文学全集24C 三国志 今鷹真訳)

 魚豢(『魏略』の著者)が議していう。庭中の池にとじこめられた魚は江海の広さを知らず、あしたに生まれ夕に死す蜉蝣は四季の気候を知ることがないといわれるが、それはなぜなのであろう。そうしたもののいる場所が狭く、その生命が短いからである。私はここに広く中国の外に広がる異民族や大秦に属する諸国を見わたしたのであるが、これだけでも盲人の目が直って自の前がひろびろと広がったようである。ましてや鄒衍が推定した大九州の世界や、大易(易経?)や太玄(太玄経〉が推算する世界の大きさは、これよりもさらにはるかに広いものなのである。牛の蹄のあとの水たまりの中にとじこめられ、また彰祖のような長寿をもたぬわれわれには、景きな風に乗って疾やかに天空を遊行し、神馬をかけて遐かな土地を観るよしもなく、ただいたずらに日月星辰をながめやって、思いを大地の八方の果てに飛ばすだけなのである。

 ぜひ、虚心に、味わって読んでいただきたいものである。

*遠隔の神がかり
 当時中国文字の精華である「文化」を一切知らない東夷が、そのような高度な概念を理解したはずは無い。陳寿のもとには、東夷の「考え」など届くはずは無く知り得なかったから、文字のかたちで書き置くなどできなかった。まして、有り得ない遠隔の神がかりで、地の果ての方の東夷の真意を知り得たとして、史官の筆で正史に潜ませることなど、到底できなかったのである。
 このような、子供じみた言葉錯誤に自己陶酔していては、多額の制作費をかけて視聴者を騙すことになる。NHKには、公共放送の使命感も、報道者としての倫理も良心もないのだろうか。

◯次回の「お楽しみ」
 以下、次回の大ぼら話、「古墳時代」以後の史談に続けるのであるが、おそらく、今回同様、国策に奉仕する内容だろうから、こじつけの堆(うずたか)い様が思いやられるのである。
 衷心から申し上げるが、ここで述べ立てた大嘘は、公共放送の記録として、百年先まで残るのである。専門家や研究者は、漠たるものであるから、それぞれの局面の台本担当、考証担当は、文化功労者に叙勲されるのであろうか。「悪名」は「無名」に勝ると、本当に信じているのだろうか。

                                以上

2025年3月21日 (金)

新・私の本棚 来村 多加史 「帯方郡から魏都洛陽までの道程」続 1/4

香芝市二上山博物館友の会「ふたかみ史遊会」「ふたかみ邪馬台国シンポジウム」
17 「総別シンポジウム」 「3世紀の魏都-洛陽と倭」 2017/03/25
私の見方 ★★★☆☆ 労作、役者不足で臆測氾濫 2025/03/19 

◯続報の弁
 当記事に対しては、冒頭部分の批判だけで一旦締めたが、その後を読み進むと難題山積で続報が必要になった。既に丁寧に批判してしまったので、以下を放置すると、当方が同意したと誤解されかねない。また、以下について、助言しないのは無責任と見えることも懸念される。

◯引用
 いわゆる魏志倭人伝
 邪馬台国や卑弥呼の事績は西晋時代の陳寿(〜297年)が著した 『三国志』に記載される。その部分を魏志倭人伝というが、正式な名称ではない。諸先生方の講演にも関わるため、ここでは『三国志』の成立について、その経緯をまとめておく。
 現行本の中華書局本の『三国志』は『魏書』30巻、『蜀書』15巻、『呉書』20巻の3部に分かれる。『蜀書』は蜀人である陳寿の自撰であるが、『魏書』は王沈の官撰『魏書』と魚豢(ぎょけん・ぎよげんとも読む)の『魏略』、『呉書』は韋昭の官撰『呉書』に依拠する。長らく三書が分かれて流伝していたが、北宋時代にまとめられ、『三国志』として刊行された(1003年)。「魏志」「蜀志」「呉志」の編名もそのときになって初めてつけられた。文字の総数は100万6千字もあるが、原文は35万字ばかりで、残りは南朝宋の裵松之がつけた長文の注釈である。
 日本に関する約2千字の記載は「烏丸鮮卑東夷伝」の一部で、見出しはないが、便宜的に命名された「魏志倭人伝」の通称が定着した。内容は3部に分かれ、①帯方郡の使者が記録した倭の諸国の位置と戸数などに関する報告、②同じく帯方郡の使者が記録した倭の風俗や物産に関する報告、③おそらく帯方郡の記録部署がまとめた卑弥呼登壇の経緯、景初・正始年間における朝貢などの歴史的な記載からなる。
難升米たちが洛陽に派遣されたくだりは③の歴史的な叙述に含まれ、邪馬台国からの献上品がわずかに生口10人と斑布二匹二丈であったにもかかわらず、魏の朝廷が卑弥呼に「親魏倭王」の金印紫綬と銅鏡百枚を含む大量の物品を答礼として下賜したことが記される。役目を終えた難升米たちは、再び帯方郡を経由して、無事に卑弥呼のもとへ帰還した。劉夏に代わって帯方太守に赴任していた弓遵は建忠校尉の梯儒らを同行させ、金印を卑弥呼に渡した。卑弥呼が謝辞の書簡を帰国する弓遵に託して上表したことも「魏志」に記されている。それでは、次頁に関連する原文を掲載しておこう。
『三国志』成立までの経緯(来村作成)
 250318-32

*コメント
 前項同様、氏の脳内の混乱か、原作者のものか、確かめようも糺しようも無い、混沌/混乱状態である。詳細は、次ページ以降に譲る。
 上記に謹んで引用した来村氏の創作作表は、「原文」を含めて出所不明であり、また、諸処に明らかな誤解が含まれている。本稿によって、どんな「新事実」が明らかになったのか、主旨共々不明である。僅かな字数で、慌ただしく用語/語彙が右往左往しているところを見ると、諸兄姉の論考をかじり取って継ぎ接ぎしているのが、露呈していると見える。氏の署名で公開するなら、ご自身の用語、語彙で統一する努力を欠かしてはならないと思うのである。これでは、是正策を建言しても、理解されないようだから、ここでは述べないことにする。

 本稿は、全体に、根拠/出所を示すことないまま、「出所不明」の臆測/創作が連なるが、その際に、第三者の著作物を無断使用していれば著作権侵害となる。それを避けるために、あちこちから継ぎ接ぎしているとも見えるが、褒められたことではない。後世に、不明を曝しているのである。

                               未完

新・私の本棚 来村 多加史 「帯方郡から魏都洛陽までの道程」続 2/4

香芝市二上山博物館友の会「ふたかみ史遊会」「ふたかみ邪馬台国シンポジウム」
17 「総別シンポジウム」 「3世紀の魏都-洛陽と倭」 2017/03/25
私の見方 ★★★☆☆ 労作、役者不足で臆測氾濫 2025/03/19 05/03

◯コメント
*常識の確認
 唐突に「いわゆる魏志倭人伝」とは、ご挨拶である。中国古典書で、史書の部分の冒頭二字を取って「伝」などと称するのは、言わば「常識」であり、史官たる陳寿は編纂実務に於いて「倭人伝」と通称したと思われ、時代がら、「正式」通称と解すべきである。どなたの意見に追従したか不詳ながら、氏は不見識と見える。

*魏志書誌~誤解の是正
 陳寿「三国志」南宋刊本(木版印刷本)である「紹凞」本は、現存している。「倭人伝」なる小見出しを有し、南宋初期紹凞年間、「倭人伝」は正式の名称だったとの物証が存在する。『「倭人伝」はなかった』と称するには、徹底的に物証を否定するに足る徹底的な反証が不可欠である。
 以下、氏にならって「いわゆる三国志」について論じるが、自認されているように、今日「三国志」とされている史書は、陳寿原本から二千年を経て、特に、南宋刊本以降は、両刊本を源流とする種々の刊本が現存し、論議の根拠を明確化しないでは特定出来ない。

*混乱した異本列挙
 「百衲本」を南宋刊本と誤解させるのは、困ったことである。まして、「武英殿刻本」、「金陵活字本」、「江南書局本」など、時期も、印刷方式も異なる後代刻本を羅列して風評を掻き立てる意義は乏しい。刊本とはいえ、印刷、製本し、刊行される部数は限られていて、南宋刊本の全巻揃いは、算えるほどしか継承されていないのである。南宋以降、各地の有力者、蔵書家は、最寄りの刊本、ないしは、刊本に近い写本を根拠にそれぞれの印刷工房から刊行したと見える。その際、手違いから異本が発生したとしても、その時代ごとに、参照すべき善本は知られていたから、校正は容易であり、紹凞本、紹興本からの逸脱は、少なかったはずである。国内の古代史書論者から、中国古代書籍の中でも、三国志は、言うに足る異本が存在しないので、文書考証のし甲斐がないとの慨嘆が寄せられるほどである。

 反面、各史料相違点は誠に微細で、「倭人伝」二千字論で、わざわざ、筋の通らない作表を掲示する意義は乏しい。読者は、氏のような新参者のあやふやな理解から、ことさら学ぶものではないのである。世上周知、検証可能な宮内庁書陵局所管「紹凞本」で論議するのをお勧めする。
 誰もが古典史書書誌学的な蘊蓄を求めているのではないと思うのである。

*私撰・官撰
 今また深刻なのは、陳寿の正史編纂について誤解/混乱が露呈していることである。古来、正式史書の編纂は、門外不出の公文書の参照が不可欠であり、私人が勝手に行うことはできない。公文書の勝手な参照は、斬首の大罪であるから、陳寿が、無事魏志編纂を行った以上、公式事業だったのである。

*范曄「後漢書」の成行
 この辺り、後世、「後漢書」を堂々と私撰した劉宋笵曄の編纂姿勢と混同していると見える。
 笵曄「後漢書」編纂時、後漢は滅亡して久しく、後継曹魏も司馬晋も滅亡して、伝統的な史官の継承は、廃れつつあったと見える。特に、西晋が北方異民族の侵略で打倒されたとき、漢代以来、禅譲によって連綿と継承された洛陽書庫保存の厖大な公文書は失われた。南方で再興した東晋には、わずかな文書しか継承されなかったのである。いや、諸家後漢書や高級公文書である帝詔、通達類は、各地に継承されていたであろうし、諸家後漢書類自体も、持ちだされたものと見えるが、ここで言うのは、日常多数発行されていたと思われる公文書類の山々を言うのである。

 これに対して、西晋陳寿は、伝統的な史官の本分に従い、健全に承継されていた洛陽公文書に克明であった「史実」を吟味して、取捨選択した上で、編纂を進めたのである。そうでなくても、陳寿は、十分に証されていない、つまり、大変疑わしい王沈「魏書」の記事をそのまま引くような安直な策は取らなかったものと見える。

 翻って、劉宋笵曄は、先賢陳寿を尊重したものの、存在しない公文書は参照しようがないので、陳寿同等の綿密な公文書渉猟は不可能だったのである。そのため、先行する諸家後漢書と呼ばれる先人の編纂著作から自身の筆で書き矯めた笵曄「後漢書」を編纂したが、投獄により、完成に近かったとは言え、笵曄が責任を持てない内容が残っていたとも見える未完成の本紀、列伝を没収された上に、志部は、共著者が完成稿を隠匿し退蔵したから、併合して「後漢書」完稿として編纂を完了することができなかった。略奪された未完成稿に不備があっても、范曄は責められない。

 どの時点で大罪人笵曄の未完成著作が、帝室蔵書となったか不明である。

                                未完

新・私の本棚 来村 多加史 「帯方郡から魏都洛陽までの道程」続 3/4

香芝市二上山博物館友の会「ふたかみ史遊会」「ふたかみ邪馬台国シンポジウム」
17 「総別シンポジウム」 「3世紀の魏都-洛陽と倭」 2017/03/25
私の見方 ★★★☆☆ 労作、役者不足で臆測氾濫 2025/03/19 補充2025/05/03

*范曄検証
 笵曄「後漢書」は、唐代の章懐太子李賢附注でもわかるように、笵曄の功績と限界が露呈していると言える。
 但し、以上は、史書の信頼性を問うのであり、「文筆家」として高名だった笵曄が、時代に合わせて文飾を行った成果は、唐代屈指の文書家であった李賢に麗筆と認められ、対照的に質実で知られる袁宏「後漢紀」と共に、後世に継承されたのも、ある意味当然と言える。

 先に述べたように、笵曄は「後漢書」編纂を完結できず、自筆どころか、権威ある校閲者の確認を得た完成稿は存在しない。劉宋政権から遠ざけられて閑職、寒地に飛ばされた笵曄は、もはや、劉宋公文書書庫に近づくことはなかった。建康の知人と交信したため、皇帝を倒す大逆罪に連座して投獄され、嫡子共々馘首死罪となり、未完成の後漢書は没収された。そのため、諸家後漢書に記載のなかったと見える東夷列伝「倭条」は、ありネタであった「倭人伝」に基づく下書きとも見え、麾下の書生の習作だったかもしれない。それほど、史料としての程度が低いのである。
 ちなみに、笵曄「後漢書」に併合された西晋司馬彪「続漢書」「郡国志」には、「楽浪郡」が記載されていて、後漢献帝建安年間に遼東郡太守によって創設された帯方郡は「楽浪郡」帯方とされている。笵曄が敢えて記載した「倭条」には、大倭王が「邪馬臺国」を居処としていたとしているが、
帯方郡創設以前とするため、楽浪郡から万二千里とし、合わせて、「倭」の北端に当たる「拘邪韓国」まで七千里とし、誠に不明瞭である。「倭」が、帯方郡創設以前で、韓領域「荒れ地」の官道が未整備とも見えるのに、なぜ、七千里と申告できたのか不可解ということである。東夷列伝「倭条」が。適確に校正されていないとみる由縁である。

*陳寿復仇
 そうした事情が、どういう事か陳寿「三国志」魏書に投影され、無用の偏見を齎(もたら)しているとしたら、まことに残念である。
 陳寿は、師事していた宰相張華の誅殺に際して、たまたま免官されていたため、事変に連座することなく天寿を全うすることを得たのである。
 とはいえ、陳寿は、「三国志」完成稿を清書していたものの上申する機会を得ないままに他界したのである。但し、陳寿の精華は洛陽知識人の目に触れていて、高評は時の高官の聞き及ぶところとなり、その指示で正式上申本として清書、上程され、追って皇帝に嘉納されて、「御覽」印を得て、直ちに皇帝蔵書となったのである。
 以後、歴代王朝によって、国宝としての敬意を持って最高度の精度で写本継承され、俗に言われる、誤写の害を最低限にとどめて、南北朝分裂の動乱の時代に耐えて、隋唐の統一王朝に順当に継承されたのである。もちろん、皇帝蔵書から直々の高貴な写本はともかく、そこから次第に拡散した「野良」写本は、時制の流れで、徐々に/急速に手擦れしていったが、皇帝蔵書原本は、確固たるものだったのである。

 ちなみに、大唐章懐太子李賢は、当然、陳寿「三国志」を閲読した上で文書として良しとしたので、特に手を加えず、混乱状態の諸家後漢書の中から、笵曄「後漢書」を諸書と比較して、一応の最善として附注したのである。

*三国志序文閉塞の由来
 上程稿に自序を賦するのは禁止事項だったので「三国志」序文は、先例に倣い「東夷伝」に挟み込まれていて、天覧後、魏志巻頭に移動して正式序文とする想定が陳寿没後で実現できず、完璧ならぬ現構成となったと思われる。
 この点、古田武彦氏が指摘したが、学界大勢は黙過したようである。

*理不尽極まる王沈「魏書」称揚
 来村氏は、幻の王沈「魏書」が「官撰」と即断しているが、官撰魏書が存在していたなら陳寿は編纂を許されないはずである。つまり、王沈は、単に編纂を許可されたに過ぎないから「私撰」である。また、魚豢「魏略」は、公式史書でなく、東京史官たる魚豢がまとめた備忘録であるから「私撰」である。当然、魚豢「魏略」は、曹魏本位の史書であり、叛徒でありながら、悪辣にも侵略を重ねていた蜀漢宰相諸葛亮は、極悪人扱いである。

 念のため申し添えると、陳寿三国志の「蜀書」は、曹魏史官の与り知らぬところで、蜀漢関係者によって承継されていた蜀漢公文書を、西晋史官である陳寿が、三国史編纂のために糾合した最新史書であり、王沈「魏書」には一切触れられていなかったと見るのが、至当である。また、衆知の如く、東呉の史官が編纂していた韋昭「呉書」が、東呉降服の際に西晋皇帝に献上され、皇帝蔵書となったものであり、これもまた、王沈「魏書」には、一切収録されていないものである。要するに、王沈「魏書」は、中国全土を掌握していなかった、曹魏の公文書に依拠しているのだから、陳寿「三国志」の対して、極めて限定された影響しか及ぼしていないものと見える。
 世上、誰の提唱かは知らないが、常識に欠ける臆測が出まわっているようなので、敢えて、苦言を呈する次第である。

 以上の判断は、自然なものと思うのだが、氏の選別は、不審である。

*「三国志」の由来
 陳寿は、三国を包含した史書を編纂するに対して、曹魏の支配下になかった、東呉、蜀漢の史書、「呉国志」、「蜀国志」を綴じ込んだものであり、仮想されるように、「魏志」に両国志を取りこんだものではないと見える。なにしろ。東呉、蜀漢の管内から、地方志なる行政文書が送付されることはなく、戸籍、土地台帳に基づく納税も、徴兵もなかったから、両国の事情は、「魏志」には、一切書けないのである。

*幻の「魏志会稽東冶記事」
 2025/05/03補充
 「倭人伝」記事で云々される「会稽東治」であるが、時に誤伝されている東冶県に至る経路や道里は、報告されていないのである。要するに、会稽郡、後に建安郡の東冶県に関する地理情報は一切、洛陽に届いていないから、魏志に於いて、会稽郡東冶県に関する記事は書きようがないのである。(すべて、呉書記事、つまり、東呉固有の情報なのであるが、呉書に「地理志」はないから、取り留めのない話でしかないのである)
 魏略を私撰した魚豢は、あくまで、曹魏の史官であったから、公式には、「会稽東冶」について何も知らなかったのであるが、史官としての立場を離れた私撰、私的著作物では、「会稽東冶」について触れたかも知れない。また、劉宋官人であった「笵曄」は、史官の倫理規定に縛られていなかったから、東呉時代に知られていた「会稽東冶」を、時代錯誤して、後漢代史書である笵曄「後漢書」東夷列伝倭条に書き込んでしまった可能性は完全に否定することはできない。あるいは、笵曄は、倭条の最終校正を行っていなかったと見えるので、誤記が残存しているのかも知れない。たとえば、笵曄が、共著者によって別途編纂されていた後漢書「郡国志」を熟読すれば、後漢代に、会稽東冶は存在しなかったと了解し、訂正していたかも知れない。
 以上は、すべて、幻の議論であることを了解いただきたい。

 「呉書」は、東呉の史官が編纂したのであり、もちろん西晋「官撰」では有り得ない。単に、西晋代、東呉が降服した際に奉呈され、皇帝が嘉納したため、公文書として公認されたので、三国志「呉書」として採用できたのである。

 「蜀書」は、蜀漢降伏時の献上でなく、陳寿が職権により旧蜀漢公文書から編纂したものと思われる。当然、陳寿の創作などではない。ちなみに、編纂時、陳寿は司馬晋臣下であり、「蜀人」などではない。訂正いただきたい。概して、来村氏は、注御所九史書の厳密な用語に暗いのであり、一語一字一義の大原則を知らないから、わずかな区間で用語が動揺して、そのうえに、現代用語も闖入するから、真剣に読み進んでいると、眩暈がしてくるのである。氏は、玉稿を読み返さないのだろうか。

 ちなみに、両書は最低限の補正だけで、原記事をとどめているから、曹操、曹丕に不敬となる字句は残存している。
 要するに、呉書、蜀書は、陳寿魏書の用語の参照には、誠に不適当である。まずは、当該文脈、当該段落内で検討し、それで特定できないときは、倭人伝-東夷伝内で勝負すべきである。要するに、同時代当事者の文献解釈の道である。

                               未完

新・私の本棚 来村 多加史 「帯方郡から魏都洛陽までの道程」続 4/4

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17 「総別シンポジウム」 「3世紀の魏都-洛陽と倭」 2017/03/25
私の見方 ★★★☆☆ 労作、役者不足で臆測氾濫 2025/03/19 05/03

*裴注の真意
 本項は、裴注に関する認識不足の指摘である。陳寿は、三国に関する正式史書に「不要」と自信を持って判断した記事を割愛したのである。世上、「百害あって一利なし」という成句が持ちだされることがあるが、陳寿は、私利私欲のために史書を編纂していた「小人」ではないので、まことにお門違いである。閑話休題
 そして、百五十年後生の裴松之は、西晋滅亡後の江南東晋後継の劉宋の正統派の史官であった。中原喪失に不満な劉宋皇帝命で、後漢献帝期、曹魏、司馬晋の不徳/不備を明記するべく、あまたの記事を追加したのである。裴注は、字数/件数は多大であるが、熟読すれば「蛇足」の類いが多いことが読み取れる。王沈「魏書」と魚豢「魏略」所引は、陳寿の見解では「駄文」であ。

 総じて、陳寿が裴注を知ったなら、唾棄したに違いないと個人的に推定するものである。ただし、裵松之の深意を察して、面罵することは控えたろうと思うのである。

 裴注で顕著なのは、魚豢「魏略」西戎伝の全篇であるが、これすら、この好著が、実は、後漢「西域伝」稿であって、曹魏には西域において言うに足る事績がなかったことを証するために、力を込めて附注したのである。陳寿が、曹魏代西域記録を割愛したのは、曹魏が後漢の西域撤退を引きついで終始無為だったことを高言しないために「割愛」したことが、同時代知識人には容易に読み取れたはずである。事績があったのに隠蔽されたと即断するのは、魚豢の武骨な紀文を読解できない、二千年後世の無教養な東夷である。
 要するに、裵松之は陳寿の偉業に同感していたので、表面的に皇帝の指示に従いつつ、追加記事の劣悪さから陳寿を隔離したと見える。

 史料解釈の常識で、いわゆる「魏志」史料批判は、裴注部を除き、陳寿が編者として全責任を負う「原本」部分に限定すべきだということである。

*不審な献上品/下賜物の認識
 氏は、景初倭使の上洛の献上品を生口十人と斑布二疋二丈と明記した真意を察することなく「わずか…にもかかわらず」なる個人的感想は不出来である。続けての失言であるが、陳寿はそんなつまらない表現を付していない。魏朝廷が倭女王に大量の答礼を施したと言うが、これは、天子の賜物であり、返礼などではない。まして、「朝廷」の指示したものでもない。「朝廷」とは、朝会の場において天子の前で重臣が討議し皇帝が承認したという趣旨かもしれないが、氏は、軽率にも、少帝曹芳と極め込んでいるので、このような不細工な意見になったのであろうか。それにしても、怒濤の失言である。

*明帝の期待/帯方郡の絶望
 前例のある潤沢な下賜物は、高句麗、鮮卑の不穏勢力鎮圧に、万二千里遠隔七万戸大国である「倭人」の威力を要求したと見える。韓濊倭監督の帯方郡は、貧弱な献上品で「倭人」の貧困を示したのに、還ってきたのは法外な礼物と命懸けの「借り」である。

*束の間のあだ花
 帯方郡と「倭人」にとって幸いなことに明帝曹叡夭逝後、少帝曹芳の後見が、夷(倭人)をもって夷を討つという烈祖明帝の遺業を継がなかったのである。

*史官の至芸
 「倭人伝」は公孫氏創作、曹魏明帝愛顧の楽園幻想である。陳寿の史官としての使命は、正史の継承であった。司馬一族が曹魏の天下を簒奪しているが、練達精巧な史官の筆は、熟した読書人にのみ読解できる記事を連ねた。

*取り敢えずのまとめ
 渡邉義浩氏の提起のように、「倭人伝」は、史実継承という史官使命の二重性に起因するのであり、お説の通り史学論議は、単なる史実の列記ではない。二千年後生の無教養な東夷は、ご自身の「無教養」(中国古典時代に限ってのことだが)を謙虚に自覚した上で、西晋史官の真意に少しでも近づけるように精励すべきではないだろうか。(笵曄「後漢書」、陳寿「三国志」の全巻に精通した渡邊氏は、勘定に入れられない)
 一部論者は、「倭人伝」が自家製歴史ロマンに整合しないとして陳寿に「不覚悟な史官」の濡れ衣を着せ、厳格に継承された正史に対して、不条理な誤写非難を浴びせている。もったいないことである。陳寿は、「二千年後生の無教養な東夷」の嗜好に合わせて/迎合して、「魏志」を編纂しなければならないという事なのだろうか。

*厄介な記事紹介
 以下、原文紹介と銘打って根拠不明の訳文を露呈しているのは困ったものである。ダメ出しすると、ページがどんどん膨らむし、どうせ聞いてもらえないだろうから、無駄な労力は省かせていただく。

 当然の常識であるが、古文解釋に精励した先行諸兄姉の訳文が、揃って「不適当」と絶対的な確信をもっているのであれば、根拠を示して明確に指摘の上で、自作を持ち出すべきである。でなければ、踏みつけ/下敷き盗用とみなされるのではないだろうか。見たところ、氏の見識は、先行諸兄姉の足元にも及ばぬもののようであるが、何故、ご自身の訳業が、斬新で卓越していると確信を抱いているのだろうか。そして、周囲に、誰も助言/指導してくれる奇特な方は居ないのであろうか。

 既に述べたように、本稿は、全篇を通して、用語が相当に動揺しているのであるが、それは、あちこちから断片を食いかじったせいかとも見えるのである。そして、下世話な合いの手で断片細工をこねつけているのかなと臆測するのであるが、それは、あらたな創作とは言えないはずである。

 ここで、またもや、当稿における知的財産権管理の不備について、警告せざるを得ないのである。でないと、当方が、不法行為を黙過したと見え、事後共犯になるからである。

                                以上

2025年3月19日 (水)

新・私の本棚 来村 多加史 「帯方郡から魏都洛陽までの道程」1/2

香芝市二上山博物館友の会「ふたかみ史遊会」「ふたかみ邪馬台国シンポジウム」
17 「総別シンポジウム」 「3世紀の魏都-洛陽と倭」 2017/03/25
私の見方 ★★★☆☆ 労作、役者不足で臆測氾濫 2025/03/18 

◯はじめに
 本冊子は、「ふたかみ邪馬台国シンポジウム」17の資料集である。2001年第一回開催以来、17次に渉る資料集の刊行は偉業である。
 当記事は、偉業の一端である第17集巻頭言を批判するものであり、ぜひとも、難点を是正していただきたいものとして、率直に直言するものである。
 当批評のため、地図及び巻頭言を一部引用することを諒解いただきたい。

◯巻頭言引用と批判
 帯方郡から魏都洛陽までの道程
 景初2年 (238) 8月23日に遼東の公孫淵が魏将司馬懿に滅ぼされ、魏の支配が朝鮮半島に及んだことを契機として、翌年6月、倭王卑弥呼は難升米を大夫、都市牛利を次使とする使節を帯方郡に派遣し、魏都洛陽への朝貢を申し出た。そのときの帯方太守劉夏は朝廷に打診し、許可が下りると、一行に吏将(文官と武官)をつけて洛陽まで送り届けた。
 行程については詳細が伝わらないが、12月に魏帝斉王曹芳 (232-274)から卑弥呼へ労いの詔が出されているため、難升米一行が帯方郡に到着してから、およそ半年の期間をかけて魏都までたどり着いたことになる。帯方郡の吏将が同行しているため、その行程は郡城や県城を縫うものであったと考えられ、以下の地図に示したようなコースが想定される。移動手段は当然のことながら、歩行であり、1日50kmが限界かと思われる。帯方郡から洛陽までは陸路で約 2000kmあまりであるから、単純計算で40日かかり、途中の滞留も合わせて、約2ヶ月を要したものと推算される。
 燕地の公孫氏が滅ぼされたとはいえ、東北における魏の支配体制が確立していたわけではない。道中には異民族や盗賊もいたことであろうから、相当に危険な旅であったに違いない。斉王の詔に「道々ご苦労であった」との表現があるのは、社交辞令ではなく、実情を反映した慰労の言葉であったのだろう。

*創作地図の引用御免

250318-3

帯方郡(黄海北道鳳山郡沙里院)65km一楽浪郡(平壌市) 250km一 西安平(丹東市)220kmー遼東郡(遼陽市)430kmー遼西郡(秦皇島市)300kmー幽州(北京市) 750kmー洛陽(洛陽市)

*コメント
 括弧書きで現代地名らしきものが書かれているが、比定する根拠が不明であるし、地図上の点表示と整合していないと見える。
 地形に河川流路らしきものが見えるが、古代の地図データをどうやって入手したのだろうか。
 現行「行政区画」(だろうか)と歴史的な郡治などの「所在地」(地点)は合致するはずはない。根拠不明のkm表示は当時一切存在しなかったから、氏の創作と見える。大変良くある勘違い/手違いだが、不適切そのものである。

 目だった齟齬だけでも、たとえば、地図に肝心な方位が欠けている。著名な「壱岐」が抜けているし、「韓国」は、大韓民国のことなのだろうか。半島の現代地名は、せめてかな書きを付すべきではないか。
 河水(黄河)河口部は、三世紀以来様変わりしている。当時は、とても通行できなかったので、中山国を抜けたのかもしれないが、どうやって、古代の街道を確認/特定したのか。街道の道里は、誰がどのようにして特定したのか。
 いや、止めどない疑問である。

 ついでながら、「社交辞令」、「実情」は、趣旨不明/意味不明である。不勉強である。

 氏の論じているのは、現代世界ではないから、古代中国文献の解釈に当たっては、よほど丁寧な時代考証が必須である。

                               未完

新・私の本棚 来村 多加史 「帯方郡から魏都洛陽までの道程」2/2

香芝市二上山博物館友の会「ふたかみ史遊会」「ふたかみ邪馬台国シンポジウム」
17 「総別シンポジウム」 「3世紀の魏都-洛陽と倭」 2017/03/25
私の見方 ★★★☆☆ 労作、役者不足で臆測氾濫 2025/03/18 05/03

*まぼろしの「邪馬台国」
 「邪馬台国」が図示の位置にあったのなら帯方郡までの行程を明記すべきである。「倭人伝」によれば、伊都国まで郵便が届いたと明記されているが、数千里の彼方ともされている「女王治所」であろう「邪馬台国」までどうやって届けたのだろうか。かたや、「倭人伝」に「邪馬台国」は「ない」が、伊都国直下「邪馬壹国」は、まことに近場であり「倭使がたどった道」は、やすやすと陸道で連携していたと見える。
 以上のように、不用意な用語、表現共々、史料「倭人伝」にない臆測連鎖である。根拠が必要である。

*誤解の継承/蔓延
 氏は、遣使が、景初二年公孫氏滅亡の後としているが、史料は景初二年六月と明記している。これが、史実である。正使難升米、副使都市牛利は、共に倭大夫である。蕃夷が、無知のために中国の官位を自称したとしても、直ちに咎めるのでなく、後日、「倭大夫率善中郎将」(略して、一大率)等と、規定外の官名を与えるのである。
 蕃夷の勝手参上は無法である。当然、郡太守が指令した「疾駆参上」、遅参すれば斬るとの厳命に即応したのである。でなければ、高官有司である両大夫が急遽参上するはずがない。帯方郡の急使は、少なくとも郡内の街道を疾駆するから、公称四十日の日数は、大幅短縮されたである。船便の場合は、成り行き次第になり、騎馬疾駆は不可能の筈である。
 同年十二月の少帝曹芳の帝詔というが、景初二年であれば、明帝の帝詔である。
 史料に書かれていない正体不明の行程図をつけているが、遼東郡治は戦場であるから、立ち寄れるわけがない。未曽有の創作にもほどがある。

 当時の常識は、帯方郡から洛陽の行程は、黄海対岸の山島半島海港東莱に乗りつけて上陸し、以下、官道を行くものだったはずである。
 延々と遼東郡、中山国を経由して内陸を迂回するとは、どなたのご明察なのだろうか。橇なの通り、中山国は、内陸の山国であり、いくら、官道であっても、難儀だったはずである。

*上洛行程
 郡の「吏将」同伴は、公務だから馬車移動が順当である。蕃使も吏将も貴人であり、徒歩は有り得ない。
 「徒歩の限界を尽くす」一日50km(五十公里)は、百里強であり法外である。「途中の滞留」等、論外である。氏は、何を根拠にそのような臆測を連ねているのだろうか。
 行程が、無謀な内陸行であるとして、やたらと危険を説かれているが、大軍が遠征した行程であるから警戒厳重だったはずである。と言っても、史料を検討すると、当行程図は、終始無謀である。そもそも、高句麗、韓、濊は当然として、服属したかどうか不明の「倭人」は、自身が異民族/蕃夷である。

*倭から郡への道の正解
 倭から帯方郡の行程は「倭人伝」に明記されていて、正解はこれに従うのに決まっているのである。
 郡太守命による参上で、對海國から狗邪韓国に渡海水行し、以後、公式街道を北上したから、行程には、所定の間隔で宿所があり、公用馬車は、郡命公務で用意されていて、替え馬保証である。宿所/関所は、過所(通行許可証)で通過でき、食料も宿賃も無料で、荷物に関税を課せられることもない。勝手参上なら、至る所で制止されるものである。
 まさか、本気で船便と解しているのだろうか。郡命で急行するのに、危険でまるであてにならない「海船」を起用するのは、正気の沙汰ではなく、関係者一同斬首ものである。
 当然の常識であるが、「水行」は「渡船で対岸に渡ること」に決まっているのである。

*正しい行程の勧め
 郡から洛陽に至る「正しい」行程は、渡船で山東半島に渡り、上陸後、実務に適した常用官道を移動したと見える。遼東の形勢など、まったく関係無い。
 明帝曹叡は、倭人を即刻召集するために、遼東征伐に先だって帯方郡を支配下に収めたのである。
 おそらく、と書くまでもなく、倭使には「生口の名目」で「担い手」が同行したので、身分が不足していても、随員として馬車を使用できたと推定できるのである。

*時代の常識/先哲の自戒
 以上の推定は、「倭人伝」の記事を「魏志」の記録で補ったものであり、その際に、周秦漢代以来の官道制度を基礎にしているので、高い確率で成立するのである。
 天下の古代史論客が、中国史料に暗く万事知らないことばかりとは言え、「臆測」を冒頭に掲示する愚行を反省して欲しい。
 先哲岡田英弘氏は、主旨として「三世紀当時の教養を知らない二千年後生の無教養な東夷は、謙虚に史料、そして、時代常識を学ぶべきである」と、誠に謙虚に自戒されている。

                               以上

2025年3月18日 (火)

「古田史学」追想 遮りがたい水脈 3 宋書の「昔」について 再掲

                         2015/11/5 2023/09/16 2025/03/18

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 ここでは、故古田武彦師の遺した業績の一端について、断片的となるが、個人的な感慨を記したい。

「古代は輝いていた Ⅱ 日本列島の大王たち」(古田武彦古代史コレクション20 ミネルヴァ書房復刊「参照書」)の219ページからの『「昔」の論証』とした部分では、「宋書」に書かれている倭国王「武」の上表書に書かれている「昔」に対して、考察が加えられている。

 古田師は、持論に従い、こうした特定の言葉の意義は、同時代の文書、ここでは、宋書において「昔」の用例をことごとく取り出して点検するという手法を採っている。
 現時点のように、電子データ化されたテキストが、インターネットのサイトに公開されていて、誰でも、全文検索できる便利な時代でなく、宋書全ページを読み取って検索したものと思われ、その労苦に敬意を表する次第である。

 さて、ここは、論考の場ではなく、私人の感慨を記す場であるから、参照書の検索と考察の内容は後に送り、ここでは、まずは個人的な意見として、以下の推測を記すのである。

 日本語でも、「今昔の感」と言うように、「」と言うときは、「今」と対比して、万事が現在と大きく異なった時代を懐古、ないしは、回顧するものであり、往々にして、「古き良き時代」と呼ばれることが多い。
 では、南朝の宋(劉宋)にとって、古き良き時代とはいつを指すのか。それは、劉宋時代の中国の形勢を見れば、さほど察するのは困難ではないと思われる。劉宋は、亡命政権東晋を継いで、長江(揚子江)下流の建康(現在の南京)を首都とし、中国全土の南半分を領土としているが、中国の中核とされる中原の地は、北方から進入してきた異民族政権の領土であった。中国人にとってこの上もなく大切な、故郷の父祖の陵墓は、墓参を許されない嘆かわしい事態になっている。
 もと中原の住民は、大事な戸籍を故郷に残し、今の住まいを避難先の仮住まいと称していたのである。
 こうして考えると、宋書でいう「昔」とは、その時代で言う「中国」が、その時代の天子の治世下で太平に保たれていて、季節に応じて、故郷の風物を楽しみ、墓参に努めることのできた古き良き時代、言うならば中華の世紀である。

 なべて言うなら、古くは、史記に記録されていて、半ば伝説と化した夏殷周代であるが、その中核は、儒教の称える周公の時代を想定していたのかも知れない。
 周朝の制覇、王朝創業の間もなく、広大な天下が平らげられて戦乱がなくなったことを伝え聞いて、遙か遠隔の地から、越裳と倭人が捧げ物を届けたという、そういう周の遺風が「昔」と言わせるのであろう。

 そして、より生々しい秦・漢の時代は、これもまた天下を平らげたことから、古き良き時代として「昔」を懐かしんだものと思われる。

 更に時代を下った魏・西晋の時代は、天下太平と言うには、物足りないものがあるが、それにしても、中原領域を平定していたことから、今の状勢と比較して、「昔」と懐かしんだものと思われる。

 さて、肝心なのは、倭武の上表文で、「昔」と言っているのは、どの時代を指しているのかと言うことである。古田師は、宋書に登場した「昔」の用例を総点検した結論は、宋書に於ける「昔」とは、古くは、「夏殷周」、近くは、「漢魏」、時代の下限として「西晋」を含むこともある、と言うことであり、上に挙げた個人的な推察と同じ結論に至っている。

 つまり、上表文作者の想定したのは、劉宋時代の中国教養人と同様の意義であり、『古くは、「夏殷周」、近くは、「漢魏」、時代の下限として「西晋」を含む』時代を指しているようである。
 倭王武の上表文の主たる意味づけは、魏・西晋時代にあるようであるが、「昔」の一文字で、周・漢両朝での倭人貢献を想起させる修辞は大したものである。

 一部先賢(岡田英弘氏)は、倭武の上表文について、当時の倭国に、このように高度な漢文記事を書く教養があった証拠にはならない、どうせ、建康の代書屋に書かせたものだろう」と倭国作成説を切り捨てている。

 しかし、代書屋に倭国の故事来歴の情報はないはずであり、多額の金品を托して代書するにしても、大体の材料を与えられ色々と注文を付けられて書いたものであり、大筋は、倭国側の練り上げた文書であることは、間違いないと思われる。

 もっとも、別項で述べたように、国王名義の上書には、国王自署と国王印が不可欠であり、「倭国使節が、建康まで、署名、捺印だけで内容白紙の上書原稿を持参して、代書屋に内容を書かせ、出来上がった国書を国王が確認すること無しに宋朝に提出した」という想定は、あり得ない手順と思われるのであるが、大家の説く所見であるから、言下に否定するのはおこがましいのであろう。

閑話休題
 古田師の遺風として、生じた疑問を解き明かすのに、推測ではなくデータをもとにした考察を怠らない点は、学問・学究に努めるものとして学ぶべきものと思うのである。いや、これは、当ブログ筆者たる小生の個人的な感想であるので、当然、各個人毎に感想は異なのであるから、別に、貴兄、ないしは貴姉から、「意見が合わない」と怒鳴り込まれてもお相手しかねるのである。

 特に、ここで論じているのは、古田師の遺風に関する小生の個人的な感想であるから、凡そ議論は成り立たないのである。

以上

「古田史学」追想 遮りがたい水脈 6 「陳寿の不運」 ~国志異聞

                            2016/03/28 2025/03/18
*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 古田武彦氏の所説で、比較的初期から共感していたものに、三國志編纂者である「陳壽」に対する「真っ直ぐな」評価がある。
 そのために、古田氏の提唱した「邪馬壹国」論に反対する人たちから、陳壽「バッシング」とも言いたいような理不尽な難癖が押し寄せて、陳壽にしてみたら、不満な事態かも知れない。

 膨大な三國志全体の評価より、その一部である「魏志倭人伝」に対する不満が、少なくとも日本で喋々されているのは、史家として不本意だ思うのである。

  •  と言っても、古田氏の「陳寿理解」は、必ずしも万全で無いことは言うまでもない。
     たとえば、次の部分に、安易な定説追従が見られるのである。

 ミネルヴァ日本評伝 通巻第百巻
 「俾彌呼」 第一部 倭人伝に書かれた古代
   第七章 三国志序文の発見

 ここで、191ページに「魏朝の『正史』」と書き、二行おいて、「魏・西晋朝の正史、『三国志』」と、何気なく書いているが、これは、首尾一貫していないという以前に、大きなところで「筋が通らない」のである。
 魏朝の「正史」であれば、「漢書」に続く「魏書」と呼ぶべきであって「三国志」と呼ぶべきでないのが明らかである。

 「三国志」を見る限り、漢を継承したと認められているのは、「魏」であり、他の二国は、あくまで、「帝位」を僭称した偽物達である。
 つまり、魏・西晋朝には、三国鼎立史観は無かったはずである。

 と言うものの、現実に「正史」として継承されてきたのは、「三国志」である。

 最近発見したのが、中国で発表された下記論文である。(論文と呼ぶにふさわしい堂々たる体裁を備えている)末尾に2013年第3期の「文史」(中華書局発行 史学誌)に掲載と表記されている。

 陈寿 《 三国志 》 本名 《 国志 》 说

 www.zggds.pku.edu.cn/004/001/223.pdf

 当ブログ筆者の中国語読解力は、中国で言えば小学生以下(「以下」は、小学生を含むと思いたい)であって、読みの正確さのほどは大変妖しいのだが、さすがに、タイトルについてはよく理解できるし、史書の影印版を多く引用した体裁から、次のような論旨は、読み取れるように思うのである。

魏朝「正史」は、本来「國志」と題されていた。陳寿は、妥当と思われる理由があって、そのように題した。

*「国志」は、先行「正史」の「史記」、「漢書」と同様に二文字である点が見られる。

*少なくとも、唐代までの各種資料に「国志」とだけ書かれている例が見られる。

*時代的に唐時代に先行していても、(後世)写本を見ると「三国志」と書かれていることがあるが、「国志」の前(上)に「三」を書き足した形跡が見てとれる(ようである)。

唐代以降、とくに、「笵曄後漢書」が、史記、漢書に続く正史として認知され揃って「三史」と列挙されるようになり、また、蜀漢正統論が出回ってからは、魏朝正史で無く三国時代正史として位置づけられることが当たり前になり、「三国志」と題されることか多くなって今日に至ったものと思われる。

 あやふやな紹介では間に合わないので、中国語からの翻訳がどこかに発表されることを期待して紹介する。

 当ブログ筆者としては、かねてから、古田氏を初めとする定説信奉者の説明に納得していなかったのだが、今回、かなり強引としても、ある程度説得力の感じられる「一説」を聞くことができ燻っていた不満が解消した感じである。

 もちノろん、そこで提唱されたのは、あくまで(根拠薄弱な)(作業)
仮説
であり、傾聴の価値はあるものの、これで何かが確認されたというわけではないと思うのである。

以上

「古田史学」追想 遮りがたい水脈 1 「臺」について 1/3 総括

    2015/11/01 再追加 2022/01/12 2023/09/16 2025/03/12

*加筆再掲の弁

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〇はじめに
 ここでは、故古田武彦師の遺した業績の一端について、断片的となるが、個人的な感慨を記したい。
 因みに、本稿が当初「」なしの古田史学と書いたのに対して、早速、古田史学なるものは無法な評言であるから、撤回すべきとのコメントがあり、一応、固有名詞扱いで「」付きにしたが、コメント子からの応答はないので、趣旨に沿っているのかどうか不明である。
 因みに、コメント子は、明らかに古田武彦師の流儀を認識していて、それ故に敵意を抱いているということのようだが、文句があるなら、当人を論破して欲しかったものである。あるいは、古田氏の支持者、後継者を「打破」して欲しいものである。第三者に付け回しするのは、ご勘弁いただきたい。

〇『「邪馬台国」はなかった』
 『「邪馬台国」はなかった』は、「古田武彦古代史コレクション」の緒巻として、2010年にミネルヴァ書房から復刊されたので、容易に入手可能な書籍(「参照書」)として参照することにする。

 ここで展開されている「臺」と言う文字に関する議論で、「思想史的な批判」は、比較的採り上げられることが少ないと思われるので少し掘り下げてみる。

 「思想史的な批判」は、参照書55ページから書き出されている「倭国と魏との間」と小見出しされた部分に説かれている。
 この部分の主張を要約すると、次のような論理を辿っているものと思われる。

    1. 「倭人伝」記事の対象となっている魏朝、および、その直後に陳寿が「三国志」を編纂した西晋朝において、「臺」と言う文字は、天子の宮殿を指す特別な文字であった
    2. 「三国志」において、三国それぞれに対して「書」、「国志」が編纂されているが、正当とされるのは魏朝のみであり、そのため、「臺」の使用は、魏朝皇帝の「宮殿」に限定されている。(中国語で言う「宮殿」は、雒陽首都で言えば、四季に応じて、天子が移動して時節の祭礼などを行う「小部屋」に過ぎないのであるが、ここは、国内史学用語に倣っている)
    3. 倭は、魏朝の地方機関である帯方郡に服属する存在である。
       誤解している方があるようだが、「親魏倭王」が、曹魏官制の「王」と見ているとしたら、それは、大いなる勘違いである。官制の王は、遼東郡太守同等ないしは一段高みの存在であり、郡官人は、平伏しなければならないのである。あくまで、官制外の客制であり、郡太守の手先に過ぎないのである。

       魏朝がそのように位置づけている「倭王」の居処名に、天子の宮殿を意味する「臺」の文字を使用することは、天子の権威を貶める大罪であり、「三国志」においてあり得ない表記である。
       もちのろん、雒陽が曹魏の「首都」であるからと言って、倭王の治所が、長安、雒陽、鄴等と並ぶ、天子の「都」(みやこ)と証されたとするのも、また、大いなる勘違いである。

 因みに、「倭人伝」の最後近くに「詣臺」(魏朝天子に謁見する)の記事があり、「臺」の文字の特別な意義を「倭人伝」を読むものの意識に喚起している。つまり、「三国志」魏書の一部を成す「倭人伝」においても、「臺」の文字は、専ら天子の宮殿の意味に限定して用いるという使用規制の厳格なルールである。

 古田氏も念押ししているように、このような「臺」に関する厳格な管理は、比較的短命であり、晋朝の亡国南遷により東晋が建国されて以後効力を失ったものと見られる。

 たまたま、手っ取り早く目に付いた資料と言うことで、かなり後代になるが、隋書「俀国伝」に、隋使裴世清の来訪を出迎えた人物として冠位小徳の「阿輩臺」なる人名が記録されている。隋書が編纂された唐朝時代には「臺」なる文字の使用規制は失われていたのである。

 南朝劉宋の時代に「後漢書」を編纂した笵曄は、笵曄「後漢書」「東夷列伝」の「倭条」に、「邪馬臺國」と書き記しているが、当時屈指の教養人とは言え、陳寿のような純正の史官ではなかったので、語彙の中に時代限定の観念はなかったのである。

 と言うことで、以上のように辿ってみると、「古田史学」の水脈は支流といえども滔々として遮りがたいものである。

                                            未完

 

「古田史学」追想 遮りがたい水脈 1 「臺」について 2/3 総括

    2015/11/01 再追加 2022/01/12 2023/09/16 2025/03/12

*加筆再掲の弁

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付記 2015/11/01
 語気の鋭い主張ほど、例外に弱いものである。特に、一部の稚拙な反対論者は、細瑾を持って「致命的」と称する稚拙な攻撃法を取っている。「一点でも誤謬があれば、学説全体が崩壊する」と決め付ける稚拙な手口であるが、つまり、口先の勢いしか、武器がないという「窮鼠」の最後の悪足掻きなので、相手にしないで良いのである。「例外のない法則は無い」というものである。

 陳寿は、「三国志」の編纂に当たって、天子の宮殿、ないしは、離宮の類いのみに「臺」の使用を規制したと思われるが、人名は正しきれなかったと思われる。例えば、著名な人物で「孫堅字文臺」とあるように、何人かの人名で「臺」が使われているのが見受けられる。

 このように、「三国志」を全文検索すると、魏の支配下になかった人物や魏朝の成立以前に「字」(あざな)を付けた人物、言うなら、曹操の同時代人および曹操以前の人物の「字」を書き換えてはいないようである。ちなみに、「孫堅伝」は、あくまで、東呉史官韋昭が編纂し、東呉君主に奉献した「呉書」が、東呉滅亡の際に、西晋皇帝に献上され、西晋皇帝に嘉納された史書が、帝室書庫に所蔵されていたものを、陳寿が皇帝承認の史料として、ほぼそのまま「呉国志」として、「三国志」の要諦として鼎立させたものである。 
 「三国志」魏書に限っても、「陳宮字公臺」(魏書 張邈傳)、「王觀字偉臺」(魏書 王觀傳)があり、呉書では、「孫靜字幼臺,堅季弟也」(呉書 孫靜傳)の用例が見られる。

 古田氏は、「臺」を「神聖至高の文字」とまで口を極めているが、これは言い過ぎであろう。「臺」の使用規制は、天子の実名を諱として避ける厳格さまでには至っていないのである。

 なお、「呉書」諸葛恪傳に「故遣中臺近官」の記述があり、「呉書」および「蜀書」においては、「魏書」におけるほど、厳格に「臺」の使用を規制していないものと思われる。つまり、「呉書」だけでなく、「蜀書」も、曹魏書記官/史官の編纂した史書ではないので、用語基準が異なるのであり、陳寿は、両国志に編纂の手を加えていないので、「魏書」の用語の用例として不適当な場合が多いと懸念される。いや、「魏書」に限定しても、曹魏書記官/史官が精査した本紀部の用語/構文と異なり、夷蕃伝、特に、新参の「倭人」に関する「伝」は、一貫した編集/構成が存在しないと見え、陳寿も、「魏書」夷蕃伝の編纂にあたって、原史料の用語/後世に、改竄、と言うか、史官校閲の手を加えていないと見えるので、必ずしも、一貫した考証が容易とは見えないのである。

 この論義は、古田武彦師の学問の道と軌を一にしていないので、本稿タイトルと蹉跌をなしていると見えるかもしれないが、小論は、古田武彦師の史学の道は、首尾一貫していて、後生によって維持されていると評したものであり、小論は、古田師の論義に無批判に追従しているのではない。よく聞き分けていただきたいものである。

 当付記を書くについては、中国哲学書電子化計劃が公開している国志テキストデータを全文検索させていただいたが、「臺」の用例として「邪馬臺國」はヒットしない。この事実認識を「倭人伝論」の「出発点」としていただきたいものである。

 念押しするが、「出発点」さえ確定すれば、後は、いかに「径」が分岐しようと、それはそれで、正当な史学の「径」なのである。

                                  未完

「古田史学」追想 遮りがたい水脈 1 「臺」について 3/3 総括

    2015/11/01 再追加 2022/01/12 2023/09/16 2025/03/12

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〇「臺」論再考 再付記 2022/01/12
 当付記は、以上の論議が崩れそうになるので、静かに語ることにする。
 別に新発見でもないのだが、「春秋左氏伝」に、古田師の「臺」至高論』の対極と見える「臺」卑称用例があるので、諸兄姉のご参考までにここに収録するのである。

 白川勝師の字書「字通」の「臺/台」ではなく、「儓」(ダイ)にひっそりと書かれている。白川師の字書について、世上、師の老齢を種に公に誹謗する向きが(少なくとも一名)あって、度しがたい迷妄に呆れたりするのだが、ここは「春秋左氏伝」の引用であり、師は特に関与していない。

[字通] 儓  タイ、ダイ しもべ けらい …..〔左伝、昭七年]に「天に十日有り、人に十等有り」として、「王は公を臣とし、公は大夫を臣とし、大夫は士を臣とし、士は阜を臣とし、阜は輿僕を臣とし、輿僕は隷を臣とし、隷は僚を臣とし、僚は僕を臣とし、僕は臺を臣とす」とあって、臺は第十等、〔玉篇〕にこの文を引いて臺を儓に作る。奴僕の乏称として用いる。…

 つまり、「臺」は、本来、つまり、周制では、王、公、大夫から大きく下った文字を知らない隸、僚、僕、「奴隷」、「奴僚」、「奴僕」と続く最下等のどん尻である。官位などであれば、最下位は官人であるから、官位外に下があるが、臺はその限りを越えている。
 後世、これでは蔑称の極みであり、「臺」の公文書使用に対して大変な差し障りがあるので、たまりかねて、人偏をつけて字を変えたと言うことのようである。

 陳寿にとって、春秋左氏伝の用語は、史官教養の基幹であり、明瞭に脳裏に記録されていたから、周礼の片鱗をうかがわせる東夷「倭人」王の居処を呼ぶについて「邪馬臺」と書くことはなかったように思うものである。逆に、蛮夷の王の居処を「都」(みやこ)と呼ぶこともなかったのである。漢魏晋代、と言っても、洛陽の論壇が健在な時代であるが、史官に於いて、尊卑のけじめは峻烈だったということである。
 亡国の果ての劉宋代、素人史官を気取っていた笵曄には、知り得ない世界である。せめて、裵松之の謙虚さがあれば、後世に恥を曝さずに済んだと思われる。いや、笵曄は、「倭条」の粗雑さに不満を感じていたとしても、最後の詰めを仕遂げないまま処刑されてしまったので、「倭伝」ならぬ「倭条」しか遺せなかった笵曄の真意は、不明なのである。

 念のため言うと、南朝劉宋代に先人の後漢書を美文化した、当時一流の文筆家であった笵曄は、史官としての訓練を歴ていないし、西晋崩壊によって、中原文化の価値観が地に落ちた時代を歴ているので、「左伝」の用語で縛られることはなかったと見るのである。いや、教養として知っていて、東夷列伝の「其大倭王居邪馬臺國」に、「左伝」由来の卑称を潜めたかも知れない。范曄については、まことに、真意を推定するだけの資料がないから、范曄が「倭条」に於いて、東夷「大倭王」を蔑視していなかったという確証はない。
 聞く所では、范曄は、「後漢書」を完成する以前に、皇帝に対する大逆罪に連坐して、嫡子もろとも、斬首されたと言うから、東夷列伝「倭条」が、最終稿でなかった可能性が濃厚である。范曄最終稿が未完成であったとしても、それは、范曄の責任ではないのである。

*朦朧たる笵曄後漢書「倭条」 余談
 因みに、笵曄「後漢書」が言及することを許されていたのは、後漢代と言っても霊帝までが下限であり、献帝治世、中でも、曹操の庇護のもとに帝制を維持していた建安年間は、魏志の領分であるので、遼東に公孫氏が君臨していた時代のことは、書けないのである。そこで、笵曄は、女王共立の事態を桓帝霊帝の時代にずり上げて、東夷列伝に「倭」に関する一条を設けたのである。
 そのように、意図的に時代考証を混濁しているので、「其大倭王居邪馬臺國」 の一事も、女王共立以後の「女王国」を指すというわけではなく、それ以前の伊都国僭上時代とも取れるようにしていると見えるのである。
 笵曄は、本来、朦朧とした記事を心がけていたものではない「文筆家」と自負していたから、女王が邪馬臺国を居処としていたと確信していたら、そのように明記したはずであるから、このような朦朧記事を書いたのは、後漢書東夷列伝「倭条」の根拠/公文書史料が不足/欠落していたのが原因と見える
 世上、魏志「倭人伝」記事が明解に解釈されたら、自説に不利なので、とにかく、朦朧とさせる「異説」が幅をきかせているが、その根源は、笵曄の朦朧とした「倭条」にあるように見える。

閑話休題
 「臺」は、古典書以来の常識では、「ダイ」であり「タイ」ではない。俗に、「臺」は「台」で代用されたが、正史は、そのような非常識な文字遣いが許される世界ではない。

*百済漢字論考 余談
 百済は、馬韓時代から早々(はやばや)と漢土と交流していたから、当然、漢字を早々に採り入れたが、自国語との発音、文法の違いに苦労して、百済流漢字、つまり、「無法な逸脱」を色々発明したようである。その中には、漢字に無い「国字」の発明や発音記号の創出が行われていたと見えるが、早々に中国側に露見し、撤廃させられたようである。つまり、中国側が、中国文化の違反として厳しく是正したものであり、百済では、すべて禁止事項となったが、「無法な逸脱」は、ふりがな記号、国字、「臺」「台」代用も含めて、百済から、海峡を越えた「倭人」世界に伝わったようである。但し、このような伝達が起こりえたのは、遙か後世の唐代であり、当ブログの守備範囲外、「倭人伝」の圏外であるので、あくまで、臆測に過ぎない。

 以上は、「やまだい」と呼ぶしかない「邪馬臺国」が、「やまと」と読める「邪馬台国」に変貌したと言う無茶な変遷論と相容れないので、国内の古代史学界では言及されないように思えるのである。以上は、古田師すら、これには気づいていなかったと見えるから、「古田史学」は、「全知全能」「無謬」ではないのである。

*三国志統一編集の幻影 2023/09/16 余談
 因みに、従来、つまり、「倭人伝」素人研究の開始当初、当ブログ筆者は、陳寿「三国志」の中で、「呉志」、「蜀志」の「用語」用例を、「魏志」の「用語」用例と同等の重みを持ってみていたが、丁寧に見ていくと、陳寿は、「魏志」以外の「用語」については、それぞれの「志」の原文をとどめているように見えるので、項目によっては、論調によっては、論議の矛を収めることがあることを申し上げておくものである。

 因みに、陳寿は、「呉志」編纂において、東呉史官韋昭等が東呉公文書をもとに編纂した「呉国志」が、東呉降服の際に献呈された西晋皇帝によって嘉納されていたので、つまり、晋朝公認文書となったので、「呉志」において、孫堅、孫策、孫権を、東呉天子と見立てた不敬は是正したものの、それ以外は、原史料を温存しているのであり、曹魏君主を天子とした編集の筆を加えていないものと見えるのである。また、「蜀志」については、三国志の体を整えるために、蜀漢遺稿を集成させたものであり、ここにも、曹魏君主を天子とした編集の筆を加えていないものと見えるのである。
 つまり、「三国志」というものの、それぞれの「国志」は、古来、「国志」として自立していたものと見るべきなのである。従って、三件の「国志」を統一した「通志」編纂は、行われていないと見るべきなのである。

 このあたりの論義は、「倭人伝」解釈の躓き石になっているようで、近来蔓延(はびこ)っている暴言/誣告は、『陳寿は、その時次第で、思いつきの「ウソ」を書き散らす問題人である」と言うものであり、誰かの受け売りで、そのような暴言を書き散らしている著者を見かけると、後世に不滅の悪名を遺しているのに大変気の毒に思うのである。何しろ、電子書籍の初学者向け資料でコミックタッチであるからわかりやすく俗耳に訴え、その結果、取り消しようのない汚名が残っているのである。

*史官「立ち往生」 2023/09/16 余談
 さらに敷衍すると、陳寿は、「魏国志」の編纂においても、原史料である後漢/曹魏公文書に編集の筆を加えず、原史料温存に努めたものと見るべきなのである。そのため、主として、遼東郡太守公孫氏の束の間の君臨と滅亡によって、一貫した史料集成が不可能であった「倭人伝」では、各時点の史料源の視点、価値観、世界観がまちまちであることが糊塗されていないので、とかく、継ぎ接ぎ(つぎはぎ)との評言が齎されているのである。つまり、「倭人伝」の二千字程度の記述においても、それぞれの部分の由来、出所の丁寧・地道な評価が必要・不可欠である。
 ところが、従来は、具体的な論証無しに軽薄な臆測をもとに、陳寿に対して、「東夷伝」に曲筆を加えたとの極言/誣告が、事情に通じていない部外の「大家」から与えられていて、素人読者として困惑するのである。文献を全面的に精査せずに、「ぱっと見」で、あるいは、「食いかじり」で、印象評価するのは、困ったものであるが、俗耳には「大言壮語」が痛快に聞こえて、粗雑な悪評が世に蔓延る(はびこる)困った事態なのである。

 陳寿は、あくまで、天職である史官の職務に忠実であって、正史の編纂を通じて天下に教訓を垂れるという尊大な意識は無く、あくまで、謙虚な「史官」の職掌に殉じたのであるが、高名で尊大な後世人集団によって、寄って集(たか)って、虚像、つまり、芝居の背景のように華麗な絵姿を押しつけられて立ち往生しているように見えるが、どうであろうか。

*結語 2023/09/16
 と言うことで、ここでは、タイトルにも拘わらず、古田武彦師の「倭人伝」観に、いわば、一矢を報いているのであるが、あくまで、史観の一隅の瑕疵をつついているのであり、靴に砂粒が入った程度の不快感にもならないかもしれない。

以上

2025年3月10日 (月)

倭人伝の散歩道 海上交易と渡し舟 1/4 更新

                         2018/01/08 補追 2025/03/10

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 古代史論者で、倭人伝当時の交易規模を誤解している人が多いようなので、当たり前のことを説かねばならない。ここで誤解というのは、後世の概念に影響された過大な評価である。

*遠距離通商の幻想
 A地点(例えば、奈良盆地中部、中和の纏向)に住んでいるものが、片道数か月を要するB地点(半島南端の狗邪韓国)へ買付に向かうとすると、当然、B地点で何かを支払って、何かを買い付ける。

 現在なら、米ドル(共通外貨)を持参するしクレジットカードも使える。それ以外、銀行送金、外貨為替、現地銀行保証付き信用状など支払手段はある。

 当時は「現金」持参しかない。何が「現金」かは置くとして、「大金」持参には、資金が必要である。つまり、一年程の過程で事故があれば大金が失われる。

 現地の買付で、どのような折衝をするかわからないが、買い付けはできたとする。

 当時は通信手段がないから、一旦出ていったら、還ってくるまで、何もわからない。かれこれ一年経って、帰国してこなくても、単に日程が延びたのか、何かあったのかわからない。

 当時は、保険制度もないから、船団が帰還しなければ大金が失われる。

*遠距離買付の難点
 このように自前で遠路を買付に行くと、買付費用以外に、乗組員の長期遠距離出張に要する全費用を負担しなければならない。造船費用まで考えるととてつもなく膨大な資金が必要である。

 以上の概要だけで、中和纏向から狗邪韓国まで買付に出かけるのは、無謀だとわかると思う。
 幸い、無謀な大事業に取り組もうにも、先立つものが、まるで整わないので失敗しないのである。

*「支払い」の困難さ
 以上、大金、資金など現代語を使ったが当時、「倭人」世界に普遍的通貨はないから「もの」で支払うことになる。

 もし、米俵を持参するとなると膨大である。絹織物のようなものであれば、嵩張らないだろうが、市場相場がわからないと、適切な価格評価がわからない。

 社会基盤が整った後世にならないとできないことだと思うのである。

                                                未完

倭人伝の散歩道 海上交易と渡し舟 2/4 更新

                         2018/01/08 補追 2025/03/10

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*人材投入

 買付部隊の責任者は、読み書き算術ができて、武勇に優れ、価格交渉できる人材でなければ務まらない。政権幹部が長期出張となりかねないのである。

*地の利
 これに対して、九州北部の地元商人は、日頃、海峡交易しているから、ものの相場を知っていて、対価として割の良いものを持っていくはずである。これは、日常業務だから、担当者に、適度の権限と資金を与えて派遣すれば良いのである。船舶や乗員は新たに整える必要はない。往復は短期間であり、買付担当者の動静は把握できる。その際、危険相当分を売価に乗せるから、保険がかかっているのである。

*買付地の引き寄せ
 中和纏向商人の九州北部での買付価格は現地価格より高価であるが、自前で買付船を仕立てるのに比べて、妥当なものと見ざるを得ないのではないか。

*自前取り寄せの負担
 九州北部から中和纏向まで、どのような経路をとるにしろ、自前の移動である。大分緩和されているが、自前で大変な危険を背負い込まねばならない。

*近隣買付の得
 これを、淀川水運の終着点、木津の市で買い付けるとしたら、買付価格自体は高くなるが、経路に、なら山越えの軽微なもの以外に難関はなく、纏向から数日の近場であるから、諸々の負担は極めて軽微であり、纏向地域政権のとるべき策は自明だろう。

*遠隔交易の戒め
 同様に考えれば、吉備や丹波から遠路韓国に向かう貿易船団も、時代錯誤の幻想である。

*長期構想
 創業と発展と考えると、先ずは、短距離で短期間の小規模貿易で創業し、これを長距離まで発展させるらには、それこそ移動距離の二乗に比例しそうな経済的、文化的成長が必要ある。所詮、商売して多額の利益を得るには、売り先が大量に必要なのである。壮大な遠距離買付が成り立たないなら、同様に壮大な遠距離販売もなり立たないのである。

 もちろん、大規模交易には、読み書き算術のできるものが多数必要なのである。

                                   未完

倭人伝の散歩道 海上交易と渡し舟 3/4 更新

                         2018/01/08 補追 2025/03/10
*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*渡海伝説の試み
 これも、念押しだが、諸兄姉は、早々と狗邪―末羅区間の渡海は一貫したものと決めつけているのではないかと気になってきた。推定を検証して信ずべきとしているのなら良いが、思わず知らず結論に飛びついてはいないだろうか。
 「倭人伝」では、狗邪韓国側から順に港を経るとして、

    1.  狗邪港から對海港まで、千里の渡しである。
    2.  對海港から一大港まで、千里の渡しである。
    3.  一大港から末羅港まで、千里の渡しである。

 と、三回「渡し舟に乗る」と書いていて、一船で渡り切るという書き方ではないと思う。

*島巡り航法の不合理
 古田武彦氏が第一書『「邪馬台国」はなかった』で説いた「島巡り」説は、狗邪港から末羅港まで一貫航走する海船を、細かく回航する行程と見えるが、実用的でないと見える。正始魏使/郡使の用船は、貴重な荷物を大量に積載したから回航もあり得るかと思うが、標準行程の道里に回航は採用しないと思われる。
 いずれにしろ、「水行」は、全工程万二千里を案分した千里単位の概数であって、当然、概算計算が整合する。また、国主の居処間の所用日数を示すものであるから、正史道里記事に不要な、面倒で細々した行程は関知しないのである。
 同書の創唱に際して、古田氏は、随分概数計算の整合に尽力されたのであるが、この辺りの大局観を見失っていたように見えるのは、勿体ないところである。(回航による里数整合の当否は別記事で述べた)
 地図を見る限り、對海港は、細い陸峡部を挟んで対馬島の両側にあり、長丁場で危険な回航をしなくても、人も物も陸上移動で移載できるように素人目に見えるので、ことさらそう思うのである。

*渡し舟の得
 ということで、三度の渡海は、毎回別便と見るものではないかと思われる。使用する便船は、両側の港が、それぞれ競い合って、往復運行していたものだろう。今日、シャトル便というのは、織機の飛び杼のように目まぐるしく往復運動することから呼ばれる。
 往復便であれば、漕ぎ手は、慣れた区間を規則的に往復するだけである。便船も、短距離区間の往復で軽便になるので、複数建造することができる。
 特に、一大港と末羅港間は、最短区間なので、軽便で漁船に近いものでも勤まったのではないか。

*瀚海渡しは別仕立て、か
 ただし、對海港―一大港間は、海峡中央部で海流が速いと思われ、「瀚海」と特記されていることもあり、漕ぎ手の多いやや大型の手漕ぎ船かと思われる。そのように適材適所の配船ができるのも、短区間の渡海船の乗り継ぎだからである。

                              未完            

倭人伝の散歩道 海上交易と渡し舟 4/4 更新

                         2018/01/08 補追 2025/03/10

*加筆再掲の弁

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*正史にない事業
 倭人伝には、帯方「郡」「倭」間の行程だけが書かれているが、交易はこれに限定されなかったと思われる。一大港には、今日の佐世保、博多、宗像辺りや以遠の海港から、しきりに渡海船が着いたと思われる。對海港も同じで、狗邪港に限定せず、他の半島南岸港からの渡海船の荷を受けていたものと思う。

 それぞれ、活発な海市を主催し、南北交易に限らず、東西の交易を行い、取引先を競わせていたはずである。交易相手を限定したら、事あるごとに兵糧攻めされて言いなりになっていたであろう。してみると、喧伝される食糧不足は、節税策かと思われる。(眉唾物である)

 「倭人伝」で、両国が南北に市糴交易したというが、あくまで、時代相当の近隣との集散交易であり、海峡を越えた遠方まで手を広げていたとは思えない。

 こうしてみると、對海港も、一大港も、地理的な位置もさることながら、入りよくて出よい機能を備えていたために、両国は、ほどほど繁栄していたものと思われる。

*正史にない海(うみ)の話
 因みに、陸封されていた中原政権は、海への関心が乏しく、それ故、正史などに海に関する記事が乏しい。
 自然、海峡とか海路とかの言葉が出てこない。川を渡るのに似た渡海すら、滅多に出てこない。

*東夷伝の海洋(現代日本語)志向
 海」という文字が、比較的活発に出てくるのは、帯方郡関係者が提供したと思われる東夷伝記事である。

 その意味でも、倭人伝」の語彙は、魏書全体の語彙と異なる味わいを示していて、海に対する感覚は、むしろ、呉書と通じるときがあるように思われる。

*「倭人伝」の歩き方
 当方が最近努めているのは、倭人伝」は、魏書の一部として書かれたと安直に決めつけず、むしろ、公孫氏から解放された束の間の興隆期に帯方郡の抱いた「海洋国家」の大志、つまり、野心の記録として書かれたものであり、先ず、「倭人伝」の用語、表現を理解した上で、魏書の一部としての理解を図るという手順の勧めである。

 一例として、巷間騒がれる「倭人伝」の一里の短さであるが、冒頭で郡から狗邪韓国を七千餘里とする地方里制を宣言していると解すれば、筋が通っているのである。

                         完

倭人伝随想 5 倭人への道はるか 海を行けない話 1/3 補追

           2018/12/04 2024/10/28 補充 2025/03/10

*加筆再掲の弁
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*随想のお断り
 本稿に限らず、それぞれの記事は随想と言うより、断片的な史料から歴史の流れを窺った小説創作の類いですが、本論を筋道立てるためには、そのような語られざる史実が大量に必要です。極力、史料と食い違う想定は避けたが、話の筋が優先されているので、「この挿話は、創作であり、史実と関係はありません」、とでも言うのでしょう。
 と言うことで、飛躍、こじつけは、ご容赦いただきたいのです。

*無謀極まりない一貫航行
 結論を先に言うと、三世紀の「日本列島」(九州北部)で、長距離一貫航海は無謀です。
 まずは、その当時のその地域には、そうした長期航海に耐える船体はありません。船体には、漕ぎ手を入れても良いでしょう。二十人程度の漕ぎ手は中々揃わず、長期にこぎ続ける体力は無いし、派遣元も、長期間出っぱなしとは行かないでしょう。

 念のため書き出すと、長期の航海には、乗員の休養のために、船室と甲板が不可欠であり、また、多量の食料、水樽などを収納する船倉も必要です。また、大型化する船体構造を補強するためにも、隔壁構造が必要であり、とても、辺境の東夷には、設計、造船ができるとは思えません。そのような構想をまとめると、どうしても、大型の帆船とせざるを得ません。

 漕ぎ船で沿岸航行を続ける構想なら、大型の帆船でなくても、実現できないことはないでしょうが、一日漕いでは一休みし、疲労回復して再度漕ぐのでしょうが、そのような航行で遠距離漕ぎ続けるには、多くの寄港地が必要で、ただで滞在もできないしということになります。また、漕ぎ手の数は増えて積荷は制限され、よほど高価な貴重品以外は、商売にならない感じです。

 無難なのは、港、港で便船を乗り継ぐ行き方です。地元の船人が慣れた海域を慣れた船で行くので、危険の少ない行き方です。

 問題は、全航路を乗り継ぎでつなげることが、その時点で可能かどうかと言う事です。港々を、定期的な船便が繋いでいるという設定ですから、ある程度、物資の流通が行われていなければ、船便もないのです。いや、「便船」乗り継ぎが可能にならなければ、航路はできなのです。

*無理な半島巡り
 それにしても、漕ぎ船であろうと、小型の帆船であろうと、難所続きの韓国西南部の海岸巡りは、無謀です。提唱以来久しいのですが、そのような航行が存在したとの報告がありません。

 もちろん、例えば一人乗りの漁船で沖に出て漁労に勤(いそ)しむことはできたでしょうが、それは、岩礁の位置を知り、潮の干満を知った漁師のみが出来るだけであり、今課題とされている二十人漕ぎ程度の喫水の深い船は、水先案内があっても、とても、無事航行することはできないと思われます。いや、命がけですから、とても、生業(なりわい)として航行出来ないという方が正しいでしょう。

*手軽な渡し舟~「水行」の本意
  2025/03/09 補充
 とかく誤解が出回っているのですが、「倭人伝」に書かれている「水行」と仮称している「海の旅」は、今日言う航海などではなく、手軽な渡し舟なのです。

*「水行」の神話 2025/03/09
 先ず、中国古代史料を極めた渡邉義浩氏の御託宣に拠れば、太古以来、「魏志倭人伝」以前の諸史料で、公式「道里」が示されているのは、陸上街道の行程なのです。遅くとも、周代、関中の宗周を唯一無二の「王都」(古代の用語)として、東方の「関東」諸國の割拠する中原を広域支配するために、各地の拠点間を整備された街道「周道」で連絡し、騎馬の文書使の郵便や四頭立て馬車が往来できるように道路整備すると共に、所定の間隔で宿驛をおいて、宿泊と食料提供、蹄鉄交換と替え馬の提供を行う「使驛」の制と共に、各宿驛に関所の責めを課して、通行証(過所)の確認、関銭の徴収などを確立していたのですから、公式道里が、街道(陸道)の往来を不可欠の前提としていたのは、間違いのないところです。
 渡邉義浩「魏志倭人伝の謎を解く」(中公新書)2164
 《史記》《夏本紀》 陸行乘車,水行乘船,泥行乘橇,山行乘檋

 渡邉氏は、太古の「水行」用例として、司馬遷「史記」夏本紀で、夏王朝の創業者となった禹后の中原巡訪の行程として、馬車に乗って陸を行くことを「陸行」と書いていて、街道未整備の段階でも、馬車による移動が確立していたと示しているのですが、付随して、海道の過程として、河水(黄河)の対岸に渡るには、先ずは、泥橇で泥を行って河岸に出た後、船に乗って水を行くと書かれているのを提起されています。それぞれ、「泥行」「水行」の文字が並んでいるのですが、街道を「陸行」するのとは意義が異なり、単に「移動する」と書いているに過ぎないのです。
 当ブログでは、しばしば提起しているのですが、陸上街道の要件である宿所は、河川上に設けることができないので、「陸行」と同様の意義で「水行」を上げることはできないのです。
 河水(黄河)の例で言えば、中流以下の流れは、年中行事で氾濫して、黄土を溢れさせるので、両岸は、ドロ沼になっていて、川岸の津(船着き場)に下りていくのに、時には、泥橇(そり)に乗る必要があったのです。

 その意味で、提起いただいた史記「夏本紀」記事が、太古以来唯一の用例候補という事であれば、以上の審議の結果、先行用例とならないことが明らかであり、当事例は、太古以来、公式道里記事に「陸行」、「水行」が採用された事例がなかったことが示されていると見えるのです。
 して見ると、「魏志倭人伝」は、正史道里記事として、前例のない画期的な定義となります。
 思うに、史記「夏本紀」は、「水行」神話の創唱となっているのです。

*「水行」の字義 2025/03/09
 太平御覽 地部二十三 水上に引用された「爾雅」によれば、「水行」は、「涉」(わたる)に一義的に限定されています。下流に従って、「川を遡る」、「川を下る」移動は、それぞれ、別とされています。
 「爾雅」は、太古以来の「字義」を画定した字書であり、司馬遷、班固、陳寿の編纂に際して、厳守していたものです。つまり、「水行」は、本来「渡河」であり、河川の流れに従って、上下するものではないことが明記されているのです。
《爾雅》曰:水行曰涉,逆流而上曰溯洄,順流而下曰溯游,亦曰沿流。

*「倭人伝」回帰
 海に疎い中国でも、北の河水、黄河、南の江水、長江などの中下流の滔々たる流れは、架橋などできなかったので、街道を行く旅は、しばしば、渡し舟で繋いで往き来していたのです。
 渡し舟は、川の流れの向こうがわかっているので、羅針盤も、海図も要らないのです。川に魔物がいるはずもなく、渡し場が決まっていれば、往来する客に不自由はなく、生活のために、時には、日に何度でも渡るものです。
 また、いくら大河でも、その日のうちに向こう岸に着くので、寝泊まりや食事の心配はなく、船室や甲板はいらないので、吹きっ曝しで良く、随分小ぶりの軽舟で、漕ぎ手は、さほど必要としないのです。

 とは言え、漢代にそのような渡船の姿は改善され、街道を馬車や騎馬や徒歩で進んで、津(しん)に至った段階で、順次渡船に乗りこんで対岸の津に渡ったものと見えます。もちろん、津についていきなり乗りこめるわけではなく、宿泊待機したものと見えますから、津は、それぞれ繁栄していたものでしょう。後漢代には、官渡という津が高名であったと記録されています。

 つまり、当時、雒陽で全土を支配していた官人にとって、街道の一部が渡船で繋がれているのは常識であり、殊更書き立てるものではなかったのです。各要地の間の行程道里は、数千里と書かれていても、途中の渡船は書かれていないのは、所用日数を推定する際に物の数に入らないからです。

 「倭人伝」の道里行程記事を解釈するには、そのような常識を弁(わきま)えている必要があるのです。

 ということで、以下、少し丁寧に批判します。

*渡船談義 「瀚海」間奏曲付き
 渡船で言えば、例えば、半島南岸の狗邪韓国から目前の対馬に渡る船は、海流のこなし方さえできれば、さほど重装備にしなくても、手軽に渡れるのです。一日の航行で好天を狙うので、甲板は要らず、軽装備で、漕ぎ手は一航海限りの「奮闘」です。
 対馬と壱岐の間は「激流」とされていますが、多分漕ぎ手を増やした渡し舟だったでしょう。それにしても、日々運用出来る程度の難所だったのです。
 漕ぎ手は、一航海ごとに交代していたから、年々歳々、航路が維持できたのです。もちろん、便船として航路を往き来するには、積荷、船客が必要ですから、さほど繁忙していなければ、十日に一度の往来でよく、それなら、漕ぎ手は、交替しなくても維持できたのでしょう。要するに、時代相場で「槽運」稼業が成立していたのです。

*間奏曲 2025/03/10
 「倭人伝」は、ことさら「瀚海」と特筆していますが、西域の「流沙」が、「砂の海」、あるいは、「砂の大河」が、荒れ狂っているものでなく、砂の面(おもて)に砂紋が綾なす「翰海」であるように、「瀚海」も、水面に綾なす「大海」、つまり、「内陸塩水湖」、ないしは、「塩水の流れる大河」と形容しているのではないかと思われます。

 当時の洛陽井蛙の世界観では、「西域の河川が地下を潜って黄河となり、黄河が河口から黄海に流れ込んで、さらに南下して「大海」に終着している」と見れば、西域の「翰海」は東夷の「瀚海」に通じているのかも知れません。

                               未完

倭人伝随想 5 倭人への道はるか 海を行けない話 2/3 補追

            2018/12/04 補追 2019/01/09 2024/05/11, 10/28 2025/03/10

*加筆再掲の弁
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*難所の海

 半島南岸はとてつもなく難所続きですが、まずは、多少、乗りこなせそうに見える西岸から考えてみましょう。俗説では、「帯方郡が仕立てた海船、おそらく漕ぎ船が南下してこの西岸海域を踏破したことになります」が、そんなことはできたでしょうか。蒸しかえしですが、ここが通れなければ、南岸も通れないのです。
 現在の地図に見える多島海を漕ぎ通ることは大変難しかった(現代ことばで言うと、「不可能」の意味です)でしょう。

 どんな船でも、岩礁で船底に穴があいて浸水すると、必ず沈没します。岩礁が見えたら避けようとするのですが、見えないでは対処できません。地元の海人、漁師達は、そうした危険な場所を知っていて、陸上に目印を作り、いちはやく避けることができます。いわば、漁師の土地勘というものですが、海底が見えず土地勘もない船は、そんな海域に立ち入れないのです。
 まして、一人乗りの漁船より遙かに大きくて重い二十人漕ぎの荷船は、喫水が深く、船底が深くまで伸びて、漁船が通れる海域でも、難破するのです。

*帆船のなやみ
 さらに大規模な「小型の帆船」であれば、格段に幅が広く、喫水が深いので、もはや、漁船の土地勘は通用しないのです。安全に通行するには、海域全体で、水深を測って浅瀬になりそうな場所に目印を置くことになります。
 さらに、帆船通行が難しいのは、帆船の舵取りの困難さ(事実上不可能の意味です)にあります。わかりやすく言うと、帆船は舵の効きが遅い上に、低速航行では舵が一段ときかないので小回りがきかず、しかも、舵の効きが、帆にかかる風の力や海流に左右されるので、進路を制御するのが難しい(できない)のです。
 ということで、帆船を含めた大型の海船は、沿岸航行では基本的に直進するのです。進路を変えるには帆を下ろした帆船を手漕ぎの曳き船で押して方向転換させます。今日、大型船の入出港は、タグボートと水先案内が活躍します。

 この制約を克服するには、帆船に数十人の漕ぎ手を乗せ、入出港の際は手漕ぎで進めることになります。ますます船体が重くなり、載せられる荷物の量が減ります。ちなみに、ちなみに、古来、漕ぎ手は非戦闘員扱いです。

*不可能な使命

 それはさておき、半島西岸の「沿岸」航行は、浮揚するホバークラフトでも使わない限り、実現不可能という事がわかります。
 可能性は無限なので、絶対失敗する訳ではないのですが、官道としての便船であっても荷船であっても、途中の難破が度々あっては、使い物にならないです。
 難破と言わなくても、途中十箇所なり二十箇所なりの寄港地が一箇所でも停泊不能となると、土地不案内な漕ぎ船はそこで立ち往生し、官道が途絶するのです。

 そんなことは、帯方郡には自明だったので、そのような海上航行は「街道」として採用されないどころか、一顧だにされなかったのです。

                             未完

倭人伝随想 5 倭人への道はるか 海を行けない話 3/3 補追

             2018/12/04 補追 2019/01/09 2024/05/11, 10/28 2025/03/10
*加筆再掲の弁
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*南岸難関
 西岸踏破では、途中必ず何があるから、日程を決められないのですが、南岸踏破は、さらに難関と見られます。端的に言えば、この多島海を短区間の寄港を続けて乗り切ることができるのかどうか不明なのです。

*後世の海路
 遙か後世、大型の帆船で無寄港航行できるようになって、始めて、西海岸のはるか沖を通過する航海が実現したのですが、それでも、荒天による遭難は避けられず、近年、この海域で沈没船が発見されたとの報道があったのです。

 因みに、夜間航行する無寄港航海は、訓練された乗員や軍人は停泊休憩無しの航行にも耐えても、便乗する外交官(行人)や民間人には耐えがたいので、頻繁に寄港したはずです。そう、船酔いの問題もあるでしょうし。

*対馬海峡渡海
 以上の談義は、対馬海峡の渡海には、全く適用されません。
 この区間は、単に三度に分かれた渡海(渡し舟)であり、途中の海は、海流こそ激しいものの、難破させられる見えない岩礁などなく、かつ、目的地が見通せる区間であって、それぞれの区間は一日の航海で到着するのです。渡し舟は、甲板なし、船倉なし、厨房なしで良いのです。

 この航路は、代替経路がない「幹線」であって通行量が多くて定期便が普及している「街道」であり、それぞれの港には、ゆっくり休養できる宿があり、替え船はないとしても、その区間の渡し舟を利用できるので、わざわざ専用船を仕立てて一気に漕ぎ渡る必要もなかったのです。

 街道往来の便船の漕ぎ手なら、それこそ旬(十日)に一回往復すればよいとか、無理ない日程管理ができたでしょう。

*水行十日三千里
 「倭人伝」も、この三回の渡海を総合して、休養日、天候待ちも入れて、水行十日で渡れるから三千里相当と書いといてくださいとしています。ここで念押しすると、古来の街道道里で、実務として河川航行が必要な場合もあったでしょうが、そのような場合も、並行する陸路が存在すれば、陸路の道里が記載されたのです。
 「倭人伝」の渡海は、並行陸路が存在しないので、過去に例のない「水行」道里を定義しておいて、ここで適用したのです。渡海に先だって、「水行」だと断っていないのは、先だって海岸から渡海するのを「水行」と 定義済だったからです。
 末羅国で「陸行」とことさら明記しているのは、そこまでが「水行」だったと明示しているのです。
 このように、十分に推敲を重ねた練達の史官の筆致には、過不足がないのです。

 「水行」を、古来正解の河川行とせず、「海」(うみ)を行くものとする「邪道」(東北方向の斜め道)の読みは、別項に書評したように「中島信文氏が提唱し、当方もかねて確認していた解釈」とは一致しませんが、「倭人伝」は、中原語法と異なる地域語法で書かれているのです。それは、「循海岸水行」の五字で明記されていて、以下、この意味で書くという「地域水行」宣言です。

*見えない後日談~余談
 後世、帆船航行の初期は、なんとか西岸沖合を南下し、済州島付近から、一気に大渡海に入ったのでしょうが、だからといって、無事に未踏の航路を開拓し、乗りきれたかどうか不明です。

*高表仁伝説 2024/10/28加筆
 もっとも、初唐期の唐使高表仁は、数か月を費やした「浮海」で航路を発見し、百済を歴ずして倭に到着したようです。「浮海」とは、未知の海域を、「海図」も「羅針盤」も「水先案内」もなしに手探りで行くということであり、もし、三世紀に、魏の艦船が、当該海域を通過したという記録が残っていれば、そのような闇中摸索は必要ないのです。いや、唐使高表仁以前に、隋使として俀国に至った文林郎裴世清は、当該海域を通過したと記録されているので、その航跡を辿れば何のこともなかったはずなのですが、そのようには書かれていないのです。

 ちなみに、高表仁は、素人文官でなく、新州(広東省の一地区)刺史、現役の辺境監武官(軍人)だったので、熟練の航海士を従えて、手馴れた大型の帆船で、任地の新州から遙々(はるばる)来航したはずです。但し、『日本書紀』によると、舒明天皇4年(632年)8月に遣唐使の犬上御田耜や僧旻、新羅の送使とともに対馬に泊まっています。(Wikipedia)
 しかし、630年当時、三国が鼎立していた朝鮮半島の形勢は安定していて、新羅との関係が良好に保たれていたとみると、倭國遣唐使は、当然、安心、安全な新羅遣唐使行程を利用したはずです。もし、何らかの事情で、新羅を経由できなかったために黄海を航行したとすると、百済の海船に便乗したと見るべきですが、当時、百済は、山東半島の海港に乗り入れる権利を失っていたので、その場合、初期の遣唐使が、いかなる神業で難関を乗りこえていたか不審です。
 もし、高表仁が、「日本書紀」の記事通りに、唐使として、新羅の送使と共に倭國の遣唐使の帰国を送ったとすれば、山東半島から新羅の遣唐使航路を辿って、唐津(タンジン)に至り、以下、内陸海道を歴た上で、新羅の海港を歴て対馬に渡ったと見えます。
 唐使が、確立されていた新羅道を辿らず、新州刺史の配船で、東シナ海を横断して対馬に至ったとすれば、それは、未踏航路であり、数ヵ月を要したとしても不思議はないのですが、その場合、高表仁は、倭國遣唐使の帰路とは関係無かったことになります。

 例によって、国内史料と中国の正史のいずれを信用するかということになりますが、ここでも、国内史料は、断片的な史料を、「日本書紀」 の建前に合うように継ぎ合わせたものと見え、後続の高表仁の行状記事と併せて、信用できないことになります。

 ちなみに、朝鮮史上、高句麗、百済、新羅の三国時代と呼ばれる形勢は、640年代に動乱の時代に入り、長年仇敵であった高句麗、百済が提携して新羅の排除を図ったため、新羅は、大国大唐の支援を受けて、反撃に出た結果、百済は滅び、ついで、高句麗も滅び、660年頃に統一新羅か確立されたのですが、倭国は、百済を支援したため、統一新羅から、敵国扱いされたのですが、その結果、遣唐使の新羅道陸行も黄海航行も不可能となり、高表仁が確立したと見える大型の帆船による東シナ海無寄港大横断に踏み切らざるを得なかったと見えるのです。

 往途の郡倭航海はこなせても、帰途の倭郡航海は、帆船といえども、海流に逆らう大渡海で至難であり、いっそ、佐世保辺りから北西帆走したかと思われます。
 そして、郡から倭に向かう航海は何とかこなせても、倭から郡に向かうときは、帆船といえども、末羅港から海流に逆らう大渡海は至難であり、いっそ、佐世保辺りから、西に向かって帆走するのではないかと思われます。 この辺り、古田武彦氏は、初唐期、有明海に帆船母港を置いて、そこから発進したのではないかと、根拠なしに想像をたくましくしています。

*まとめ
 これぐらい丁寧に説明したら、「西岸南岸一貫水行」説は、影を潜めないものかと願っています。
 

                            この項完

2025年3月 4日 (火)

新・私の本棚 番外 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」 1/5 補稿

「倭人伝をざっくり読んでもやっぱり邪馬台国は熊本!?」 2021/06/25
私の見立て ★☆☆☆☆ 論旨瞑々、覚醒期待  初回2021/07/15 再掲 2024/06/11 2025/03/04

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。
個人ブログ批判の弁
 個人ブログの批判は、事実誤認の指摘と建設的な意見を除き、遠慮するようにしていますが、氏の場合は、単なる素人論客ではなく、既に、商用出版物*を刊行していて、いわば、業として収益を得ているので、著作に対して責任があり、読者側からの率直な批判を拒否できないと思量します。
 ちなみに、当ブログの方針は、論者の所在地比定に、一切干渉しないものなので、無理に保身しなくても問題ないのです。

 *「邪馬台国は熊本にあった!」!~「魏志倭人伝」後世改ざん説で見える邪馬台国~ (扶桑社BOOKS新書) 当ブログにて批判済み

◯ 過去多難、前途多難
 私の邪馬台国熊本説の根幹をなすのは「魏志倭人伝後世書き換え説」です。
 『邪馬台国は熊本にあった!』を書いた時には「魏志倭人伝後世改ざん説」という名称にしていましたが、どうも「改ざん」という言葉が悪意のあるものというイメージが強く、説の内容にそぐわないものに思えてきました。

 「イメージ」など意味不定なカタカナ語に逃げているが、要するに、ご自分でかってな用語をばらまいて、飛んだ恥をかいている事態を認識していないのだろう。こちらには、何を言っているのか、一向に意味が通じないのですが、同時代に「正史」の記事を改竄、別に変造~改作、すり替え、偽作と、どう言っても同じですが、要は皇帝蔵書を破壊するのは、極刑ものの大罪(一族皆殺しもの)であったから「犯意」は否定できない、と言うか、しても仕方ない、誰も弁護しないので、それで断罪のすべてです。「悪意」は、法律用語であり、人によって解釈が大きく分かれるので、まじめな、つまり、ギャグ以外では、避けた方が無難です。

 氏ほど堂々の確信者が、自説の「根幹」をはぐらかすのは、それ自体不誠実です。また、史学論争の基本ルールとして、「イメージ」と称して、個人的な「印象」を読者に押しつけるのはご勘弁いただきたい。氏が、陳寿の深意を解した上で築いた世界観なら、一見、一読の価値がありますが、自家製の妄想の「自分褒め」は、無意味です。論考は、認知された語彙で、論理的組み立てて、要するに「言葉」で展開いただきたい。

 そこで、YouTube動画を作成したのを機に、「書き換え説」に改めました。
 「魏志倭人伝後世書き換え説」はこのようなものです。
 不彌国から投馬国経由で邪馬台国に至る行程が、陳寿が280年代に撰述した『三国志』魏志倭人伝では具体的な里数で書かれていた。
 しかし、宋の時代、430年代に『後漢書』が登場すると、後漢書の誤認によって邪馬台国の観念的な位置が大きく南へ移動してしまった。
 そこで、その後の『三国志』写本の際に、両者の整合性をとるために、具体的な里数が抽象的な日数に書き換えられてしまった。
 その詳細な経緯は、以前に本ブログでも説明しました。

 氏自身の「根幹」表明なので、真剣な批判に値するものとして、以下、できるだけ丁寧に論じます。因みに、ご自身の主張の「根幹」を「ようなものと」は、何とも、けったいな物言いで、氏の本質的な弱点を「自画自賛」(現代用語として使いました)しているもののように見えます。

*取り敢えずの疑問点~つっこみ
1.「不彌国から投馬国経由で邪馬台国に至る行程」が書かれていたと断定するのは、あくまで、氏の創作であり、論拠が不明なので論議の対象外です。
  また、「倭人伝」記事の「本来の内容」は、誰も知らない氏の空想の産物であり、論議の第一段階として不適切極まりないのです。

2.「観念的な位置」の意味が意味不明です。笵曄「後漢書」は、史書であるから人格を持たず、従って、「誤認」、すなわち、ものごとを理解も誤解もする能力はないのです。論考を書くときには、場違いな比喩や擬人化は控えるものです。
 また、厳密に言うと、「邪馬台国」は、笵曄「後漢書」に登場するだけで、笵曄「後漢書(編者?)の創作」であるから、どこに位置させようと編者笵曄の勝手です。
 史料の時系列から言うと、笵曄「後漢書」が、先行史料を踏まえて、「其大倭王居邪馬臺國」「樂浪郡徼,去其國萬二千里」、即ち「楽浪郡の檄は、其の国、つまり、大倭王の居処である邪馬臺国を去ること万二千里」と特定したのが最初であり、陳寿「三国志」「魏志」「倭人伝」で「自郡至女王國萬二千餘里」と書いたのですから、「後漢書」から「魏志」まで、「観念的」には何も変わっていないのです。このあたり、もう少し、だけにでも理解できるような用語、表現で、「丁寧に」説明する必要があるでしょう。

                                未完

新・私の本棚 番外 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」 2/5 補稿

「倭人伝をざっくり読んでもやっぱり邪馬台国は熊本!?」 2021/06/25
私の見立て ★☆☆☆☆ 論旨瞑々、覚醒期待  初回2021/07/15 再掲 2024/06/11 2025/03/04

*加筆再掲の弁
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*取り敢えずの疑問点~つっこみ 承前
3.『三国志』後代写本の際に、氏の解釈する『後漢書の「創作」に合わせて三国志が「改竄」された』というのは、動機の存在しない「大罪」です。この「改竄」によって利益を得るものがいないから、犯罪は発生しようがないのです。
 「三国志」写本の際と言っても、いつ、どこで、誰が、誰のために写本することを指しているのか、意味不明です。
 「両者」「抽象的な」日程と意味不明な文字を費やす意味がわかりません。

*流通写本の対処不明
 明らかに、「改竄」計画は劉宋以降ですが、劉宋代の改竄計画を、誰が、後世王朝で実行したのでしょうか。その間、裴松之によって念入りに校正、補注された「三国志」裴注本は、着々と写本複製され世に広がっていたのです。

*実行不能な改竄使命
 時の皇帝の蔵書である「三国志」同時代原本は、天下に一冊しかない貴重書であるから、厳重保管されていて、通りがかりに改竄することなどできません。
 氏は、「そこ(皇帝書庫)から写本を起こす際に、改竄、つまり、すり替えを行った」と言うつもりらしいのですが、同時代の「学者」から慎重に人選された関係者が分担して行う大事業に介入して、国宝級の史料をすり替えることなど不可能です。

*露見必至/斬首必至
 よしんば、何かの曲芸で改竄写本を作成しても、官制写本の全文校閲で露見するのです。よしんば、権威者の校閲の目を逃れ、つまり、校閲に手落ちがあって、原本と明らかに異なる改竄写本が世に出ても、原本は健在であり、次回写本時には、本来の記事が世に出ます。
 また、改竄写本が世に出れば、当然、当時、南北両朝各地で、「改竄」前写本と照合されるので、悪は露見するのです。

*族滅不可避の大罪
 とことん遅くとも、この時点で前回写本時のすり替えが露呈し記録されている関係者一同が尋問に曝され、程なく「犯人」が特定、処刑され、親族は連坐して族滅され、家系は断絶し、改竄写本に由来する三国志は、残らず廃棄されます。

*意味不明の大罪
 総じて言うと、そのような改竄は、不可避的に是正され無意味です。中国古代国家の「法と秩序」を侮ってはならないのです。

*証拠提示の義務
 視点を変えて、学問上の論証の常識として、原本改竄というとびきりの異常事態が行われたと主張するなら、いつ、どのようにして発生したか論証する必要があります。それがなければ、ただの「ごみ」新説でゴミ箱直行です。せめて、当時こうすれば実現可能だったとの「おとぎ話」が必要です。

*史官の使命~史書の継承
 この件で、実際に肝心なのは、史官の立場を取る関係者は、資料を漏らさず追求して史書記事を書き上げるのが命がけの責務であり、噂話や勝手な造作で、本来の記事を書き換えることは、一切ないのです。
 いずれの時代も、真摯な史官は、最善を尽くして、時に身命を賭して執務したのであり、二千年後生の無教養な東夷が、現代人の死生観や倫理観を押しつけてはならないのです。

                                未完

新・私の本棚 番外 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」 3/5 補稿

「倭人伝をざっくり読んでもやっぱり邪馬台国は熊本!?」 2021/06/25
私の見立て ★☆☆☆☆ 論旨瞑々、覚醒期待  初回2021/07/15 再掲 2024/06/11 2025/03/04

*加筆再掲の弁
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*迷走ふたたび~泥沼の称揚
中略 倭人伝の原史料は、魏の使い、帯方郡使の報告書だという説が有力です。具体的には240年に来倭した梯儁の一行が想定できますが、その報告書に倭人伝が引用した行程記事などが書かれていたと考えて考察をスタートします。

 考察の前段となる「仮定」は、どのようにも勝手に設定でき、他人からの批判を排除できると思っている論者もいますが、肝心なのは、合理的な仮定であることを確認、検証したことが必要です。なぜなら、後方で考察の根幹を覆され、議論の全体が、一切灰燼に帰するのでは批判が徒労に陥るのです。
 ここで言うと、倭人伝の「行程道里記事」が、魏使の報告書の内容を元にしているという仮説は、誰にも全否定できない仮説ですが、どの部分がどうかという史料批判無しに採用できない、「思い付き」に過ぎません。古代史分野に漂う、掟のない泥沼に染まらないことを祈ります。
 真面目に丁寧に解釈すると、「倭人伝」貴途次は、後漢代以来の公文書の積層であり、全体一括でどうこう批判することなど誰にもできないのです。氏は、御自分の思い付きしか見えていないのでしょうが、世間は、そのような無茶な議論では左右できないのです。
 氏が、どのような背景で、「有力」と決め込んでいるのか知る由はありませんが、続いて、実は、そのような記事は、先行する別人の書いた記事を引用しているのだなどと言われては、一体、何をおっしゃっているのか、朦朧として来ています。

*不可解な「前提」
 前提条件は2つです。
〈前提1〉帯方郡使は方角を間違えない
 これは古代中国の天文学の知識があれば、まず間違えることはなかったと思います。[中略]

 この「前提条件」と勿体ぶって言う第一の「思い付き」が主旨不明です。「古代中国の天文学の知識」などと、気休めのおぞましい「おまじない」を唱えなくても、小中学生程度の簡単な理科知識があれば、南北、東西の方位は、(要するに、小学生でも)容易にわかるのです。

*子供の世界
 要は、広場に棒を一本立てて、棒の影の推移を見ていれば、影の一番短くなったときの太陽の方位が真南であり、その時の影の出だしの方位が真北です。見つかった南北線に、コンパス代わりの縄と棒で垂線を立てれば東西です。「天文学」や「幾何学」は、不要です。東西南北が明確なら精度などいらないのです。
 単純明快ですから、夷蕃にも、東西南北は大事なので、遥か昔から知っていてあちこちに表示されたのです。帯方郡も洛陽も関係無いのです。漢字も数字も要りません。確か、縄文遺跡にも、日時計はあったはずです。

 いや、これほど単純明快な事項が語られないのは、「日本自大主義」古代史分野の独自事情を思わせるのです。この成り行きは、氏の責任ではないのですが、くれぐれも、とまる木、依拠「説」を間違えないでほしいものです。

 これと関連して、当時の帯方郡使や魏の人は、そもそも倭地を南に長く延びた土地だと認識していたという説もあり[中略]畿内説の根拠ともされます。

 氏の読解力限界で誤解されていますが、倭人伝のキモは「倭人は帯方東南に在り」と明記された世界観です。現代人の勝手な思い付き、実質的な史料改竄は相手にしないことです。まして、酔余でもないでしょうか、子供じみた思い付きを「根拠」とする学説は、いくら、権威めいた魔法の外套をかむっても、内実は児戯に等しいのです。
 どれほど「遠い」か、「長い」かの混乱は、畿内「説」が創作したのですが、このような不合理な改竄を唱える動機は、常人の理解を超えているのです。何しろ、九州島自体、東西より南北が「長い」のですから、このような畿内「説」説話は、世人を愚弄していることになります。

*畿内説の推す使命感
 「畿内説」なる俗説派が、遮二無二推し進めている道里行程事解釈は、
1  「倭人伝」には、「邪馬台国」とその所在が書かれている。
2  「邪馬台国」は、「ヤマト」、つまり、後のヤマトに違いない。
と言う二段階の子供じみた、つまり、論拠の無い「思い込み」(の蔓延、拡散)です

                                未完


新・私の本棚 番外 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」 4/5 補稿

「倭人伝をざっくり読んでもやっぱり邪馬台国は熊本!?」 2021/06/25
私の見立て ★☆☆☆☆ 論旨瞑々、覚醒期待  初回2021/07/15 再掲 2024/06/11 2025/03/04

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「畿内説」と言う名の巨大な俗説の泥沼戦術
 つまり、氏は、『「倭人伝」方位が間違いと主張「しなければならない」』と、崇高な使命感の命じるままに論議しているのであり、氏の理解は本末転倒で、他にも、誤記、誤解の類いが山積し、順当な史料解釈が成立しない泥沼の惨状です。
 氏は、太古以来、中国文明が至上の課題として守ってきた、歴史記録の厳正さを、真っ向から踏みにじりますが、倭人伝と「俗説」の比較なのでしょうか。
 古来、「自大」観と言われる「思い込み」が、徘徊しているのです。亡霊でなく「生き霊」なる「妖怪」に、氏も取り憑かれているのでしょうか。

*俗説支援の徒労
 しかし、これもありえない話だと思います。
 梯儁たちは[中略]、邪馬台国まで足を運んだのは明らかです。[中略]梯儁たちが本当に東へ向かって水行陸行したのであれば、報告書に「東」と書くはずです。[中略]九州北岸から南へ水行陸行したのだと思います。

 この思い付きは、史料解釈を離れた「思い込み」と「決め込み」の連鎖であり、なにも論証できていないのです。

*戸数の幻影
〈前提2〉虚偽の戸数は記さない
 魏志倭人伝は、行程記事とともに経由国の戸数を記しています。対馬国から邪馬台国まで、合計で15万余戸となっています。

・些細な異議提起~2025/03/05
 ここで異議を挟むしかないのですが、氏は、明らかに、古代史における「虚偽」が離解できないままに、強弁を振るっているようです。
 「虚」は、生(なま)の事実でなく、史官として責任を持てる「解釈」を盛り付けていることを言うのです。「生の事実」は、それこそ釣り上げた海魚のようなものですから、まずは、ウロコを落とし、はらわたと骨を取り、清水で洗って、次いで、然るべき調味料を施した上で、焼くなり煮るなりしなければ、高貴な読者の競演に晒せないのです。端的に言うと、「生の事実」は、史書の読者にとって無意味なのです。
 「僞」は、「人為」、つまり史官がそのように手を加えたことを示しているのです。古代史について論じるときは、後世の世界観、常識を拭い去って、原文の真意に迫らなければならないのです。

 ここで言えば、「倭人伝」に書かれた戸数は、それぞれの書かれた時点で、「適切」な加工/演出を施されたものであり、一律に論ずるのは、無謀というものです。
 まして、以下随時述べるように、これほどの短文で、「経由国」「合計で」「十五万余戸」は、原文の真意を見落としていて、言わば、二千年後生の無教養な東夷の「虚偽」の押し売りになっていますから、何処かで、そのような不合理に気付いていただけなければ、いくら真剣に意見しても甲斐の無いこととなるのです。

1.氏の道里行程記事の解釈には、思い込みから来る誤解が散在、いや山積しています。
 對海~倭の諸国で、奴国、不弥国、投馬国を経由国と決め込み、それ故それら戸数が記録されているとするのは、改竄前「記事」が迷走しているのでしょうか。それなら、奴国、不弥国、投馬国の国情が書かれているはずだし、里数も必要ですから、必要/必須な記事が脱落しているのは、主行路の経由国でなく、ついでに書いた傍路ということです。
 普通に読むと、そのように明解なのですが、なぜ、無理矢理、投馬国経由と言い立てるのでしょうか。俗説「畿内説」は、投馬国経由としないと、議論から排除されるので、石に齧り付いてでも、そのように強弁するのですが、そのような「余傍」無視の投馬国経由論は、「熊本」説には、邪魔でしかないように見えるのです。よくよく考え直した方が良いように見えます。

2.最終目的地である女王居所、居城の戸数が七、八万戸と書かれているというのは、「倭人伝」の本旨に沿わない思い付きに過ぎないのです。
 要するに、「倭人伝」に必須である倭の全戸数は「十五万戸とは書かれていない」のです。それとも、皇帝は、足し算計算を迫られたのでしょうか。書いていないことを論義するのは、空論の端緒としても、お粗末です。
 そもそも、倭人伝冒頭で、「倭人」は、太古の「國邑」であり、せいぜい数千戸台の隔壁集落であると総括して見通しを付けているのに、女王の居処が、伊都国を遙かに超えた巨大な集落国家としているとしたら、それは、冒頭の総括を裏切るものであり、皇帝を始めとする当時の読者を騙したことになるのです。皇帝が魏志を投げ返さずに、嘉納したからには、そのような「だまし討ち」はなかったと言う事です。
 もちろん、ここで決定づけているのは、道里行程記事の結句までのことであり、倭国の法制、風土、民俗、王の居処概説などの部分まで、ひっくるめて言うものではありません。「倭人伝」全体を一括して論じるのは、無謀です。
 いずれにしろ、氏の論義は、「北九州に、十五万戸の国家は存在し得ない」との「畿内説」論者の強引な提言に無批判に追従しているように見えます。普通の解釈は、そのような読替えを不合理と否定するもののように思うのです。『帰謬法』です。
 そこまで言わなくても、全戸数」七万余戸の過半数を占める巨大な投馬国の所在が不明、戸数「可五萬餘戶」
も、あやふやというのは、筋が通らない
のですが、余傍遠隔の蕃夷で調べが行き届いていないとひっそりと説明されていて、いわば、風評が報告されてしまって訂正の効かない「虚偽」と示唆しているわけですから、全行程万二千里の「虚偽」とともに、正史の陰に静かに成仏させるべきなのです。

*無意味な外部資料導入~俗説派の悪足掻きに追随
[中略]弥生時代の日本[ママ]の人口[ママ]についてはまだ流動的[ママ]なようですが、歴史人口学[ママ]の鬼頭宏氏の研究では59万人という数字[ママ]が示されています。その半数が30国の連合体である女王国[ママ]にいて、さらにその半数が対馬国から邪馬台国までの9か国にいた[ママ]としても、約15万人[ママ]にしかなりません。しかし、一方で倭人伝の原史料が梯儁らの報告書だとすると、彼らが虚偽の報告をしたとは考えられないのです。

 勝手に、氏の内面世界の表明ですが、時代、地域の隔たった別世界の言葉と概念が、三世紀史料の解析にドンと投入されて、眩暈しそうです。その果てに、「流動的」「人口」なる異世界の概念を読者に押しつけて、さらに、誰も見たことのない魏使の「報告」を想定し、その果てに、魏使が戸数を捏造したとか云々するのは、「捏造」を越えて「冤罪」としか言いようがありません。
 梯儁は、一介の帯方郡官人であり、郡太守に上げる報告文書に、露見すれば一族全滅の大罪を犯して、勝手な創作/演出をしたとは見えないのです。何しろ、郡太守の報告は、曹魏皇帝まで届くので、粉飾など論外なのです。
 要するに、道里も戸数も、とうの昔に報告済だったので、余計なことを書き立てなければ、責任を取らされる可能性は皆無だったのです。

 引き合いに出されて晒し者にされている鬼頭宏氏がどのような研究の果てに、「倭人伝」解釈で、堂々と引用されているような「世界観」と「数字」を案出されたか不明ですから、この場では、氏に対する批判は不可能です。引用者に批判をぶつけるしかないのです。

 丁寧に説明すると、まずは、「日本」が成立する数世紀以前で、文字史料の一切存在しない三世紀当時の「日本」は、どこがどうなっていたのか、全く不明ですから、誰も考察しようがないのです。

 また、「人口」が、どんな対象を言うのか不明ですから、論じようがないのです。現代で云う「人口」は、戸籍に登記されている国民の数ですから、根拠は明らかですが、三世紀当時には、戸籍が無かったのは明らかですから、数えようがないのです。
 現代であれば、出世届で新生児の戸籍が「必ず」作成されるので、緻密に数えようがあるのですが、くり返して云うと、当時にのような戸籍制度はないので、数えようがありません。

 子供時代に死んでしまうことが多いので、新生児の平均余命として「平均寿命」を推定するのは不可能であり、無意味です。当時意味があった「口数」は耕作に動員できる成人男子の人数であり、それは、軍務に動員可能な人数として計算できるので、「口数」として意義が認められるのですが、三世紀当時、「倭人」各戸の所帯構成は不明ですから、戸数がわかっても、口数は推定しようがないのです。
 確かに、帯方郡、楽浪郡については、「戸数」「口数」の記録が残っているので、一戸あたりの「口数」を計算できますが、「倭人」の所帯は、大家に於いては、複数の妻を擁していた、下戸でも、中には、複数の妻を擁しているものがいると書かれているだけであり、明らかに、帯方郡管内とも、核家族が前提である中国本土とも、家族構成が異なるので、何の参考にもならないとみるべきです。

 各戸は、耕作地の割り当てを受けて、農事に勤(いそ)しみ、収穫物を貢納する前提ですが、「倭人」は、牛馬を使役しないので、全て、人力となるから、素各戸の耕作可能な土地面積がどのように設定されているか不明です。何しろ、大家族なので、夫婦二人と子供数人分の土地では、収穫不足で、飢え死にしかねないのです。まして、遠隔疎遠で実情不明の投馬国では、どのように戸籍が設定されているか、まったく不明なのです。それで、「五万戸」とは、どうやって記帳して集計しているのでしょうか。信用できないというものではないでしょうか。

 一方、伊都国を発し対海国を経て、狗邪韓国にいたる「周旋五千里」「四ヵ国」は、明らかに、戸籍が記帳されていて、帯方郡に報告されているので、家族制度も、同等かとも思えます。とは言え、自称全七万戸の一部に過ぎないので、中々参考にならないのです。

 鬼頭宏氏は、恐らく、後生の律令制度時代の「戸籍」資料から推計しているのでしょうが、確か、成人男子、女子に対して、規定の農地を口分田として支給していたはずであり、当然、夫婦としての口分田面積が算定されているのでしょうが、それは、「四ヵ国」の各戸の農地面積と比較して多いのでしょうか、少ないのでしょうか。

 三世紀に、帯方郡から通達され、一大率が徹底していた土地制度が、なぜ、「日本」に継承されていないのか不審です。要するに、あきらかに、後世「日本」の戸籍から推計される「人口」に対して土地制度も家族制度も異なるのに、倭人伝に引用された「戸数」から倭人諸国の「人口」を類推するのは、非科学的なのですが、鬼頭宏氏は、どのように考証されているのでしょうか。

 いずれにしろ、ここで論義しているのは、捉えようのない現代風の「人口」でなく、古代の統治に不可欠な「戸数」なので、議論の風向きを変える必要があります。

 「倭人伝」が依拠していると見える中国制度では、「戸」は、地域支配者が、各戸に耕作地を割り当て、耕作と収穫物納税の義務を与える制度に組み込んだものであり、具体的には、「戸籍」と土地台帳によって、精度の高い管理を行ったものです。つまり、戸籍台帳、土地台帳は、帳簿であって、当時/当地域としては、高度な制度なので、蛮夷の世界では、整っていない方が普通だったのです。

 韓諸国は、古来、中国式の管理制度が整備されていた先進地域なので、戸籍台帳が完備していて、「戸数」集計だけでなく、「口数」、つまり、成人男性の人数を、一の位まで計算することが可能であったので、提出される概数は、実数を丸めたものと理解できるのです。

 これに対して、戸籍の整備されていない蛮夷では、大抵、実数が不明なので、首長が自主的に申告したものです。つまり、「戸数」は、主要国を除き、実数をもとにしていないので、誠に、誠にいい加減なのです。まして、加算計算すらまともにできなかった世界ですから、万戸の数字は、全く、当てにならないのです。
 冷静に見ればわかるように、ある程度根拠があると見られる「周旋」諸國千戸単位の戸数と根拠不明の万戸単位の大きな国の戸数を同列に扱うのは、無謀と言うべきであって、「流動的」などと自嘲して済むものではないのです。要するに、わからないことはわからないと言うべきです。それが、科学的な思考です。
 鬼頭宏氏の推定は、後世、恐らく律令時代に、管内全国で、戸籍を作成し維持していた時代の情報をもとにしているのであり、三世紀の戸数の推定に参照するのは、無謀の極みというものです。
 因みに、「考えられない」のは、伊藤氏が、三世紀人でなく魏使でもないことを考えれば、理屈になりません。また、報告を「虚偽」と言うのは、正確な戸数統計が存在したとの仮定に基づいているので、これも思い付きに過ぎません。現代的な概念を無造作に二千年の過去に投影するのは、無謀です。
 なぜ、「三国志」にこのように書かれているか、もう少し、三世紀人の視点に歩み寄って、倭人伝の真意を詮索すべきでしょう。いや、「日本」古代国家観に芯まで染まった俗説派の方は、聞く耳を持たないでしょうが。

 全面的に伊藤氏の責任では無いとは言え、何も論証できない、思い付きの羅列は、無批判に追随していく「氏の非論理性」を示すに過ぎません。

 と言って、次のような独創的な「国見」談義は、根拠の無い、場違いな時代錯誤の空想に過ぎません。「戸数」論議の出だしを誤ったツケが、とんでもない辻褄合わせに繋がっているのは、残念です

[中略]おそらく調査隊は山上の見晴らし台のようなところから目視で戸数を調べたと思います。そして、彼らが虚偽の報告をするとは考えられません。正しい数字を報告するのが彼らの使命だからです。[中略]

 因みに、正しい「戸数」は、民家の数を数えて済むものではなく、地域首長が作成した戸籍/土地台帳の集計で得るしかないのですが、それにしても、それは、首長が、服従の証しとして申告/誓約するものであり、それが「公式戸数」であって、虚偽も何もなく、逆に「正しい数字」は、存在しないです。氏は、何か、途方も無い幻想にひたっているようですが、所詮、時代錯誤の妄想に類するものです。
 真面目な話、三世紀の東夷の世界で、地域を見渡す「山上の見晴らし台」など、あるはずがないのです。目視で戸数を調べる技法は、どこにも書かれていません。まさしく、見てきたような、なんとやらです。生玉子は、飛んでこないのでしょうか。

 ついでながら、溯って、「倭人伝」記事が、「帯方郡使梯儁一行の訪倭の際の現地取材の結果」とするのは、何かの勘違いでしょう。「郡から倭までの行程道里」、つまり「郡倭道里」は、後漢献帝の建安年間に、公孫氏が遼東郡を占拠した際に、楽浪郡から上申されたものであり、総戸数も、同時に申告されたのに間違いはないところです。但し、時は、後漢末期の乱世なので、倭人の実体の速報は公孫氏止まりだったのです。
 曹魏景初年間早々に明帝が勅命を発して、樂浪、帯方両郡を、公孫氏の配下から切り離して直命とし、帯方郡からの報告により「倭人」を知ったことから、明帝が、新任郡太守に対して、「倭人」の疾駆、参上を厳命したものですから、郡太守が更迭された帯方郡は、倭人が「郡倭道里」万二千里の彼方でなく、韓国の南に渡海した近場であり、精々四十日程度で連絡できると報告したものですから、明帝の予めの指示の通り、上洛に対して、所定の大量の下賜物を仮受するという判断が下されたのです。ちなみに、両郡の上位にあった遼東郡では、司馬懿の侵攻軍が、公孫氏の郡太守もろとも、官人一同を皆殺しにして郡の公文書を焼き捨ててしまったので、「倭人」に関する史料は、両郡の手許控えしかなかったのです。特に、楽浪郡は、漢武帝の設置以来、諸東夷の来訪を受け付けていたので、「倭人」の身上書は、ここにしか残っていなかったのです。
 もっとも、景初三年初頭時点で、「倭人」招請を厳命した皇帝曹叡は逝去して明帝と諡されていたのであり、明帝は、存命中についに真相を知ることができなかったのです。そして、明帝が生前に、配下の官吏に対して、万二千里彼方の「倭人」にかくかくの礼物を下賜せよと指示したので、皇帝亡き後も、遺命として達成されたのです。もちろん、倭人伝に収録された明帝の帝詔は、直筆ではないのですが、倭大夫難升米が手にしたのは、帝詔の写しと礼物の目録だったのです。

 つまり、帯方郡使梯儁一行は、時が熟したのち、山島半島東莱から渡船でとどいた下賜物を携えて、四十日程度の想定で街道を南下する旅に出る事ができたのです。当然、道中の諸国からは、ご一行の受入体制ができていると確認連絡が届いていたのです。現地に着いてから、便船を手配したり、一行の食い扶持とねぐらを手配したり、うろうろと市場調査したりしたら、日が暮れるというか年が暮れてしまい、一行は異境の土に帰っていたでしょう。伊都国で留まり、伊都国王が、女王の名代として、礼物と帝詔を受け取ったのです。(女王之居処が、遥か彼方の場合にも、使節の任務は、伊都国で達成されるという「救済策」です)

 よく考えて見れば、誰でも、実務の手際は納得できるものと思います。但し、それでは、一行は、九州島を出ることが出来ないので、懸命に、原文を改竄して、行程の実体不明とする戦術が横行しているのです。少し考えればわかるように、大量で高貴な下賜物を送り届ける旅程は、雒陽出発以前に、一点の疑問もなく解明されていたと見るべきです。

 ちなみに、曹魏明帝は景初三年元旦に急逝したので、上洛した倭使と会見できたかどうか不明であり、まして、「郡倭道里」が、公孫氏が記帳した万二千里ではないことを知ったかどうかは、実のところ不明です。いずれにしろ、天子として「郡倭道里」万二千里との報告を確認したと公文書に記録されたので、以後、綸言訂正はできなかったのです。
 魏志を編纂した陳寿は、史実、つまり、公文書記録を記録する使命に殉じていたので、「郡倭道里」万二千里を確認しつつ、実際に所要日数「水行十日陸行一月」を明記するという難業に挑んだのです。
 
*講釈師ばりの名調子
 引用漏れになった「攻撃」云々は「古田武彦風」ですが、帯方郡が、服属した「倭人」に対して出兵を命じても、まずは、狗邪韓国までが十日かかりそうな三度の乗り換え渡海であり、十六人程度の手漕ぎ船で載せることができるのは、精々一船数名程度(荷物持参)であり、大軍派兵は、無理で問題外です。
 なにしろ、当ブログの解釈に従っても、郡の出兵命令が倭に着くのに水陸行で四十日、郡に回答が着くのは折り返し四十日ですから、それだけで八十日かかり、渡船の容量を超えた大軍の「水行」は、海峡渡海の順番待ちの厖大な日数を要するのに加えて、そもそも、倭が派兵に要する軍兵呼集、全軍整列、装備糧食支給を考えると、全軍が、帯方郡太守に伺候するのに半年かかっても無理はありません。何しろ、戸数記事はあっても、各戸一名の兵を出せたかどうか不明であり、倭人に、即応可能な常備軍があったとの記事はないのです。
 まして、郡が韓国の叛乱平定に倭人の援兵を求めるとしても、途上が反乱諸国では、援兵の出しようがありません。古田氏が時に陥る的外れな提言ですが、別に、氏の提言の根幹を成しているものではないので、笑って見過ごすべきものです。「よい子は、真似しないように」ご注意頂きたいものです。
 自由な発想はそれ自体結構ですが、裏付けの取れない発想/思いつきの「新説」は、タダの夢物語に過ぎないのです。
 要するに、倭人各国の戸数申告は、公孫氏遼東郡の威光を示す名目に過ぎないと思われます。

                                未完

新・私の本棚 番外 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」 5/5 補稿

「倭人伝をざっくり読んでもやっぱり邪馬台国は熊本!?」 2021/06/25
私の見立て ★☆☆☆☆ 論旨瞑々、覚醒期待  初回2021/07/15 再掲 2024/06/11 2025/03/04

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*倭人伝記事要件と由来
 いろいろ長談義になったので、ここに手短に復習すると、「魏志倭人伝」にまず要求されるのは、蕃国の徴税や徴兵の根拠となる「全戸数」明記であり、新参蕃夷の服属を申告の際に、「全戸数」を皇帝に報告したと見るものです。行程道里である「従郡至倭」万二千里がこれに継ぐものであり、国別戸数は雑記事に過ぎないので、後日でも良いのです。また、全行程日数(都水行十日陸行一月、都合四十日) は、後日実務の視点から追記されたものですが、既に皇帝が承認した全行程万二千里は、改竄、是正ができなかったものと見えます。意味が、わからなければ、沈黙して頂きたいものです。
 最初に全戸数と所要全日数を申告したうえで、使節が派遣がされたとみるべきです。因みに、未開で文字を知らず、大多数が十を越える数、ひょっとしたら、四を超える数を数えられない、百千を超える桁の加算計算もまともにできない非文明国の戸数の実数集計など、その場ではできないのです。
 因みに、これは、概算推計であって虚偽ではありません。実数不明では、改竄しようはないのです。投馬国戸数は、「可」ですから、五万戸と称しても、万戸単位すら不確かです。

*戸数論の不明
 氏は、以下、三世紀倭に存在しないデータの解釈で、夢物語を展開しますが、「根幹」に大きな誤りがあっては、結論が合理的かどうか評価できないのです。いや、以上は、世上の俗説であり、氏の創案ではないのですが、麗々しく思い付きを上梓するなら俗説の無批判な追随はご勘弁いただきたいものです。

*こじつけの結論に到着
[中略]このように、ざっくりと倭人伝の方角と国の規模を考えたとしても、
奴国=福岡平野 投馬国=筑紫平野 邪馬台国=熊本平野
 つまり、邪馬台国は熊本にあったとしか考えられないと思っています。

 氏も自覚されているように、最終的に位置比定してみると、方角も、里数も、日数も、戸数も、まことに大雑把な推定なので改竄など一切不要です。「倭人伝」解釈に、二千年後生の東夷の半人前の思い付きを持ち込む「不退転の覚悟」で取り組んでいるのなら、実行不可能な史書改竄など唱えなくても、「熊本」説は、難なく提唱できるでしょう。
 何しろ、郡使の終着地は伊都国で、女王の居処である「邪馬壹国」への道里は、「軍事機密」でも無いでしょうが、伏せられているので、そこが、熊本付近であって、数日を要したとしても、「倭人伝」と齟齬を来すわけではないのです。いや、もっと言うなら、伊都国から邪馬壹国まで、一年かかるとしても、それ自体は、「倭人伝」と齟齬を来すわけではないのです。ちゃんと、逃げ道は遺されているのです。

 伊藤氏は、唯一資料たる「倭人伝」の記事改竄により論争上の「禁句」、「禁じ手」を解放したので、毒をくらわばなんとやら、原文を好きなように想定すれば良く、なぜ、ちまちました改竄を言い立てるのか不思議です。
 「しか考えられない」と言うのは個人信条なので、「なんなとご自由に」とでも言うところですが、知識不足でありながら、「信条堅固」を言うのに、どんな意義があるのか不明です。「ざっくり」が、史料解釈無視、言いたい放題、書きたい放題という意味としたら、ここでは批判できないのですが。

◯地図の「だまし絵」
 因みに、三世記当時の地形である海岸線、川筋などが、ここに表示した「改竄地形」通りとの保証は一切ないのです。「原図」をどの条件で使用許諾されたか不明ですが、あくまで許諾されたのは、現代地形データとしての利用であり、三世紀の地形論に利用することは、保証どころか許諾もされていないはずです。まして、勝手な改竄は論外、違法利用の筈です。つまり、資料偽造になります。

 また、単に、細かい字で、『地図は、地図でなく、漠然たる「イメージ」であって、「実際の地形と関係ありません」』と免責/断りするとしても、読者が古代実図と錯覚するのは間違いありません。食品表示にならうなら「イメージ」には、「あくまで参考であり、実際とは違います」の明確な但し書きが必須と思います。あわせてご自愛頂きたい。

 氏のお絵かき図形も、当時存在しなかったから、全体として、これは、氏の書いた戯画に過ぎず、倭人伝記事の解釈論議、つまり、誰もが同一の史実と解釈して論議する場に通用しないのは明らかです。古来、個人によって解釈が大きく異なる図形情報は、論理に採用されず、全て、言葉によって定義され、論じられていたのですから、戯画の安直な利用は、いい加減に脱却すべきです。つまり、現代に公知の解釈によって現代知識人を説得するのに限定されるべきです。
 世上には、古代史論に場違いな精密地図を掲載している事例は少なからずあるのを見聞きしているので、氏も、そうした悪習に無批判に追従したかも知れませんが、「ペテンをそれと知らずに真似しても同罪」と言われるだけです。特に、商用出版物に利用するには、勝手な解釈は許されないと感じます。

 以上、率直に難点を指摘したので、再考いただければ幸いです。

                                以上

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