議論や論争ってのは直接的な相手を言い負かすためにやるものではなく、それを観察する、または通りすがりの第三者に向けてアピールすべきものだ、とは何度か指摘してきました。

しかし議論下手といわれる日本人の多くがまさにここを理解してないようで、Quoraでも「議論」に関する回答など、傍観者の立ち位置から当事者を揶揄し、「相手を言い負かそうとしている」「自分の印象が悪くなる」などとニヤニヤ笑っているような内容をよく見ますね。

萩原 遼
· 3年前
どうやったら議論に勝つことができますか?
最近大学の教員をしている友人数名と話す機会があって、日本人の議論下手も話題にのぼったんです。 少し前に、「やたら気を遣う喧嘩上等のヤンキーだらけだから」という回答を書いたんですが、 どうもそれ以外の理由もありそうだな、と。それで、「議論」でQuoraの回答を検索してみたんですが、案の定、 * 議論とは、○○です。 * 議論では、○○しなければなりません。 * 議論とは、本来○○なものなんですよ。 みたいな回答がたくさんあるんですよ。そりゃもちろん、回答者にとっては真実なんでしょうけれど、その「議論」の定義やルールについての出典や根拠など示されていませんし、どちらかというと、えっ?そうなの?的なものが多くて、畢竟独自の見解では?と感じてしまうものばかりなわけです(Quoraには特に、ただの主観的な思い込みを根拠もなく人類普遍の真理であるかのように断言し、それで絡んでくる人が多くいます。気をつけましょう)。 要するに、日本語の「議論」という言葉が多義的すぎて、人それぞれで定義が異なっていて、ゆえにすれ違いが生じがちなのではないか?と思った次第です。 英和辞典を調べてみると、 dispute、contention、argument、contestation、debate、discussion、controversy 以上すべてに「議論」「論議」という訳語が当てられています。goo英和辞典を正確に引用すると、 * dispute (感情的な)議論、言い合い、口論、口げんか * contention 論争、口論、論戦、(論争の)主張、論旨、論点 * argument 議論、論争、討論、主張、論 * contestation 論争、論議、主張、論点 * debate 議論、論争、討論、論戦 * discussion 討論、審議、討議、議論 * controversy (道徳、政治上の)論争、論議、論戦 ということなんですが、おそらく、日本語で「議論」といった場合には、これらが全部一緒くたになっているのではないでしょうか。 こちらは競技的なdebate(論戦)をしているつもりなのに、相手は感情的なdispute(言い争い)を挑まれているような気分になってしまうなんてことも多々あるでしょうし、白熱したdiscussion(審議、討論)を眺めている第三者がそれをcontroversy(意見の相違に基づく論争)だと勘違いして呆れている、なんて例もありそうです。原因としては、言語を通した意見のやり取りが歴史的に少なかったため、行動を分類する単語が極端に少ないということに求められそうな気もします。 さて、冒頭に引いた会話で話題となった例は、あくまでディベート(debate)についての日本人の不得手です。また、さきに引いた回答で引いた「議論」も、やはりディベートを念頭に置いています。高野さんのこちらの回答にある「議論」が、ディベートです。 その前提で、「どうやったらディベートに勝てるか」というお話です。 日本語で「議論」といった場合、口論や言い争いなども包含する広い概念になってしまいますから、これに勝つとすると、多くの人はこんな状況をイメージするのではないかと思います。 【完全版】超激アツな不良・ヤンキー漫画おすすめ30選 | Emo Stone 基本タイマンで、相手が参りましたと土下座(謝罪)するか、反応がなくなるまで(ブロック、鍵かけ、来なくなる)徹底的にぶちのめす。それが「論破」。そして、一旦論破して、相手も負けを認めてしまえば(改心、変節)、互いに水に流して仲間になる。 いや、最後はともかくマジでこういう人多いですよ。2ちゃんのいわゆる「レスバ」、「はい論破論破」系の人、「本質を理解していない」系のATフィールドで無敵論陣を張る人、それで「負けを認めろ」と迫ってくる人。 しかし残念ながら、ディベートのジャッジは当事者ではありません。バトルを観戦している第三者です。ディベート当事者がアピールすべきは対戦相手ではなく、ジャッジたる第三者なのです。これはネット上でのディベートだろうと、学術論文誌におけるディベートであろうと基本的に変わりません。 ディベートの基本は、自論の論理的整合性を示しつつ、相手の論の矛盾や不備を突いて、その非論理性を第三者に示すことです。自論に向けられる「なぜ」を徹底的に、できるだけ多くの人にわかりやすく論理的に説明し、相手の論に対しては徹底的に「なぜ」を向ける。 これを繰り返した結果、自論に十分な説得力があり、かつ決定的な不備がない一方で、相手の決定的な不備を暴き、その上で相手が自らの不備をカバーできない場合、勝敗はほぼ決します。勝敗が決すればそれ以上相手にする必要などなく、どんな文句を言ってこようが関係ありません。勝敗を決めるのはあなたでも相手でもなく、観戦している観客なのですから。 よく言われる「日本人の議論下手」にはさまざまな理由があると思いますが、大学教員の友人たちと意見が一致したところはまさにここです。 * 誰が議論の勝敗を決めるかを理解していない * そのため、誰に内容をアピールすべきかを理解していない ディベートは街頭プロレスであり、観客がジャッジみたいなもんです。体育館裏や河川敷で行うヤンキーのタイマンバトルみたいに当事者がなんとなく勝敗を決めるものではなく、観戦している第三者が双方の主張内容から勝敗を決する。 ですから、「本質を理解していない」などのノー・トゥルー・スコッツマン式のATフィールド(次の回答をご参照ください)や、お前は工作員だとか在日だとかいう禁止カード、書かれていないことを一方的に読み取って攻撃してくる霊視能力などを使った時点で負けが確定するものです。逆に、それらを引き出すことができれば勝てるということでもあります(ちょっと卑怯な気もしますが)。Quoraでは、そういうコメントが出てきた時点で、削除・ブロックでOK。読んでいる人たちは既に勝敗をつけています。Twitterなどでは、ブロックされた画面をスクショして「逃げた」と勝利宣言している人、「強い言葉を使うなよ、弱く見えるぞ」などと言う人をよく見ますが、大半の場合負け惜しみでしかありません。 以上、「ディベートに勝つ」ためには次のポイントを抑えましょう。 * ジャッジは観客であることを常に意識せよ * * 当事者が勝敗を決めるわけではない * 自論の論理的整合性を観客に示し、観客を説得せよ * * 自論に向けられる「なぜ」を徹底的に、できるだけ多くの人にわかりやすく論理的に説明すること * * 説明し説得する対象は、相手よりも観客 * 相手の論の矛盾や不備を突き、その非論理性を観客に示せ * * 相手の論に対しては徹底的に「なぜ」を向け、不合理や矛盾をできるだけ多くの人にわかりやすく論理的に説明すること * 相手が詭弁や人格攻撃に出たならば勝敗は決しており、反論も不要 * * その詭弁や人格攻撃を誰もが閲覧できるようにしておくことで、勝敗はより広く多くの人に知られることになる もっとも、反駁に不要な部分にまで手を広げて相手を叩き、観客の反感を買ってしまうと、勝っていたはずの勝負も事実上負け扱いされることになりかねません。勝敗は論理で決しますが、観衆を動かすものは感情です。重々気をつけましょう。
萩原 遼
· 5年前
理解力がある人とない人がもし、言い争い及び議論をしたら、結果的に"勝つ"のはどちらでしょう?又はどの様な結果になるでしょうか?
多くの人が観ている状態での言葉でのケンカに勝敗がつくと仮定して、それを決するのは誰だと思いますか。 実際に自分の行動、あるいは感情の動きなどを省みれば誰にも気付くことがあるかと思いますが、言い争いの勝敗を決めるのは当事者ではありません。外から眺めている第三者です。観客がプロレスのジャッジをするようなものです。 殴り合いのケンカであれば、負けを認めた方が負けになります。全力を出せば勝てる力関係であっても、戦意を喪失しそれを表明すれば負けです。 言葉のケンカにおいてもこの理が通用すると思っている人は、「はい論破論破」とか、「ブロックして逃げた」というお決まりの勝利宣言に陥りがちです。 しかし、その様子を眺めている人々は、勝利宣言をしている人が「勝った」とは普通思いません。言い争いをトータルでみて、全体として理があると考える方に票を投じます。 ですから、敢えて泥仕合をする必要などまったくなく、相手の主張の問題点をいくつか指摘し、できるだけ多くの人がその問題点を理解できるよう平易な文章と客観的なデータを提示するだけで、言葉でのケンカには必ず勝てます。勝敗を決めるのが第三者であることを理解していないと、有効な反論ができないまま感情的な言葉を並べ立てることになり、負けを決定づけることになります。逆にそれを誘い出すことこそが、勝つためのポイントであるともいえます。 理解力が全くない人は、何を言われても響かないし何を言っても通じない、まさに無限の耐久力であるかのように思えます。しかし上述のとおり、言葉でのケンカは殴り合いではありません。相手の主張における問題点、矛盾点を拾うには充分な読解力・理解力が必要です。 以上から、理解力がある人が必ず勝ちます。理解力のない人はそれに気付かず、「一時間以内に返答がない場合は議論から逃げたものと見做します」「返答がないということは逃げたね、情けない」「はい論破論破」という形で勝利宣言を行うのではないでしょうか。

それだけならば経験不足、認識不足ってなだけでまあいいんですけど、いやホントは良くないけど、真に有害なのはここからです。

自分は全く議論・論争に関与せず、無責任な傍観者の立ち位置を確保した上で、当事者たちをニヤニヤ眺め、彼らの言葉遣いや態度なんかを揶揄する人って本当に多いですよ。特にネット上では。議論の仕方を理解していない、アピールする相手を解ってない、議論と喧嘩の区別がついてない、しかも無責任な傍観者のくせに偉そうに口を挟む、まあそれだけでも腹は立ちますけど、そういう冷笑主義的傍観者が、冷静で中立でフェアで知的な人だと評価されやすい傾向があって、それが冷笑主義的傍観者をさらに増やしている、という流れは確実にあるでしょう。

意見を言えば「思想が強い」と揶揄され、反論すれば「批判ばかり」「やりすぎ」と批判される。その一方で、何もせず何も言わずにニヤニヤ笑っている冷笑主義者が「中立」で「知的」と評価される、 これは現代日本の病理と言って良いと思います。

萩原 遼
· 3年前
「間違った正義感」の分かりやすい例はありますか?
「正義の反対側は、もうひとつの正義だ。」とか、「正義なんてありはしない。」とか、「正義を振りかざす者が最も残酷になる。それが正義病だ。」とか、そういう相対主義的ポーズを装った正義感が最も間違った正義感であるかと思います。 こういう主張って、対立から一歩引いた位置から発しているように見えますよね。多くの場合、争いの当事者を二極化し、そのどちらにも与しない位置を装ったところから発せられるものです。つまり主義主張の相対性を認める立場を、少なくとも装っています。したがって、この主張自体もまたひとつの主張であり、「正義」になります。「正義」を否定しながら「正義」を主張するという意味で、ほとんどの場合こうした主張は自己矛盾に陥っています。 「私たちこそ正義だ!」と自らを正当化し過激な言動に走る人がいるとしても、そのような言動に対して「正義を振りかざすな!」と立ち向かうのであれば、結局のところ「正義」と「正義を振りかざすな」という「正義」との衝突にしかなりません。すると、この争いを横目に眺める傍観者たちはこう言うでしょう。 「あいつらは正義中毒だ。」「どっちもどっちだ。」「正義なんてありはしない。」 以下、この繰り返しです。それで、何か解決したり、ものごとが良い方向に流れたりするんでしょうか。 このように、第三者的なポーズで「正義」を責める「正義」の表現を、疑似相対主義的正義論と、今名付けました。 「正義」を責める「正義」、つまり疑似相対主義的正義論の問題点は、 1. 正誤問題を正義問題にすり替えている 2. そもそも答えになっておらず、問題は解決しない 3. 知識も信念もなく知的冷静を装える 以上三点にほぼ集約できるでしょう。 1.正誤問題を正義問題にすり替えている ほとんどの場合、「正義の衝突」という表現は傍観者の視点によるもので、当事者にしてみれば正誤の衝突、または正論と正論の衝突です。論理的な批判を行っているのに、「正義病」とか言われても困っちゃうんですよ。反論するなら論理的にしてもらわないと。 近年の反差別運動としては、たとえば「Black Lives Matter」運動が記憶に新しいところです。 日本の人種差別問題、「Black Lives Matter」で浮き彫りに - BBCニュース 運動は激化し、当然に黒人による内部的批判も含めた社会的批判に晒されたわけですが、こうした動きに日本人一般は驚くほどに冷淡で、「どっちもどっち」論が横行しました。 参加者の問題意識や手法の是非は当然に批判の対象となるでしょうが、差別問題、特に構造的な差別については明確に否定されるべき問題であって、敢えて差別を肯定するのであれば、その論理的正当性を示さなければなりません。つまり、少なくとも差別問題については論理的正誤問題であって、道徳的な正義問題ではないのです。 にもかかわらず、言葉遣いや主張の方法を責める人が跡を絶ちません。論理的な正誤問題を道徳的な正義問題にすり替え、一方的な主観をもって批判しているわけです。このように、主張の内容ではなく話し方や態度を批判して意見を封じる手法はトーンポリシングの一種であり、自覚の有無にかかわらず悪質であると言わざるを得ないでしょう。 問題のほとんどは正義のぶつかり合いではなく、正誤のぶつかり合いです。ならば、問題を分析し、それぞれについて自分は正しいと考えるのか、それとも間違っていると考えるのかを深く考え、その理由を明確にしてゆくべきです。他人と言葉を交わし、意見を交換するのですから、自分の意見を正々堂々と述べなければお話になりません。 こうした分析や論理的思考、それを言語化し相手に伝える努力ができない人が、容易に疑似相対主義的正義論に逃げます。疑似相対主義的正義論をぶつ人を信じちゃいかんのです。 2.そもそも答えになっておらず、問題は解決しない たとえばパレスチナのガザ地区に行って、怒りに震えるパレスチナ人に「その怒りは正義中毒による怒りだ」なんて言ったらどうでしょう。 1からわかる!イスラエルとパレスチナ(1)パレスチナ問題ってなに?|NHK就活応援ニュースゼミ あるいは中国共産党に弾圧されていると主張し、犠牲者への追悼を行う少数民族のデモ隊に「あなたたちの正義の反対側には、中国共産党の正義があるのだ」とか、 「弾圧の100年」訴えデモ 少数民族、中国共産党を批判―東京:時事ドットコム または、武器を持って立ち上がろうとするウクライナ人に「ロシアもウクライナもどっちもどっちでしょ」なんて、 ウクライナ市民が軍事訓練 NATOは侵攻時も「軍派遣せず」兵器を提供 わざわざ言いに行く勇者はいないと思うんですよね。仮にいたとしても、実行すれば命はないでしょう。 この事実が、「どっちもどっち」、つまり疑似相対主義的正義論の病理のひとつを示しています。まったく当事者性が欠如しているのみならず、安全な場所から当事者を揶揄しているわけです。「正義」と「正義」、実際には「正論」と「正論」のぶつかり合いであり、より多くの当事者による複雑な利害の衝突があるでしょうが、これらからまったく無関係で、流れ弾すら当たらない安全な場所を確保しながら、当事者双方の正当性を認めないばかりか非を責めて、自分の「正義」までちゃっかり主張しちゃう。 単なる傍観者としてのいわば野次、茶化しみたいなものですから、問題はまったく解決しません。当事者にとっては迷惑どころか腹立たしい挑発行為でしょう。当事者を前に疑似相対主義的正義論をぶっちゃいかんですし、本人を前に言えないならば陰でも言うべきではないと思います。 「正義」の相対化を行うにあたり、手塚治虫の『アドルフに告ぐ』を引く人を見かけることがありますが、このセリフは手を汚してきた当事者が発するからこそ価値があるんです。傍観者が言って許される言葉じゃありません。 3.知識も信念もなく知的冷静を装える 疑似相対主義的正義論の最大の問題はおそらくこれです。 信念を持ち、情報を集めて自分の意見を整理し、それを人に伝える努力を重ねて一生懸命発言する人が「自分語り」「目立ちたいだけ」「正義中毒」などと嗤われる。 一方で、「正義なんてない」「どっちもどっち」「あいつらは正義中毒」などと言っておけば、信念も不要、勉強も思考も不要、言語化して人に伝える努力も不要で、にもかかわらず冷静で知的でフェアな人だと評価されてしまう。 日本に限った話でもないでしょうが、特に日本ではこの傾向が顕著であるように思います。意見を表明して人と対立することを極端に恐れる性質が関係しているかもしれません。 承認欲求には、賞賛獲得欲求と拒否回避欲求というふたつの種類があると考えられており、ことさらに意見表明を避けたいという心理は拒否回避欲求です。 拒否回避欲求が強いひとの場合、 周りのひとから評価される場面になると、その評価が肯定的なものであっても、必ずしも居心地のよいポジティブな感情にはならない可能性を示したものと言える。だとするならば、拒否回避傾向が強いと、そもそもその対処方略や結果にかかわらず、対人不安を感じずに周りからの評価を受けることはできないということになる。先に触れた「みんなの人気者になりたい」というよりも「周りの友達から嫌われたくな い」思いが強い高校生・大学生たちが、それなりに友達とうまくやっていけているにもかかわらず、対人的なコミュニケーション場面で常にストレスを感じつつ、口をそろえて 「自分は人見知りである」「コミュ力(コミュニケーション能力)がない」と言うのもうなずける。 (正木大貴『承認欲求についての心理学的考察 ─現代の若者とSNSとの関連から─』[1]より) 強い拒否回避欲求を抱える人は、多くの場合「嫌われない」ことを至上命題として人間関係を構築しており、肯定的な評価を得ても居心地良く感じません。このため、積極的な意見主張にモチベーションを見いだすことができず、その動機をネガティブに想像します。「自分語り」「目立ちたいだけ」「正義中毒」などはその例でしょう。 意見表明を行わないことが必ずしも責められるべきではありません。しかし、自らは意見を表明せず他人の意見表明を嗤うならば、その人には信念も知識もなく、他人に意見を伝えようという意欲すらなく、ただ無知を糊塗し知的冷静を装う方便として疑似相対主義的正義論をぶっている可能性を考える必要があるでしょう。 どうやら日本人は相対主義的思考が好きなようで、「正義の反対側はもうひとつの正義」みたいな言説を非常によく目にします。明治維新から西洋人中心の世界で苦汁を舐め続け、戦争によって無辜の市民まで虐殺された上に全国土を灰にされ、あげく敗戦で不当な裁判を押しつけられた民族誌的記憶があるのかもしれません。 それは一面においては真実でしょう。しかし述べたとおり対立の多くは正義と正義ではなく正論と正論のぶつかり合いです。正義はときに相対的かもしれませんが、正論は多くの場合論理的に正誤が決します。具体的な問題を検討もせず、学ぼうともせず、論理的な思考すら放棄して疑似相対主義的正義論をぶつとなると、ただの害悪でしかありません。当事者は自らの正当性を証すために相手の論を批判し、論理的に反論しなければならないのです。 それでは、私たちは相対する意見に対してつねに反論をしなければならないのでしょうか? 正義の反対は悪なんかじゃないの元ネタ - 元ネタ・由来を解説するサイト 「タネタン」 この印象的な言葉は、野球ゲーム『パワプロクンポケット7』(ゲームボーイアドバンス)に登場する自称マッドサイエンティスト、黒野鉄斎のセリフです。「正義の反対側はもうひとつの正義」は「野原ひろしの名言」とされていますが誤りで、実はこれが元ネタ。 「正義」の反対は、別の「正義」 あるいは「慈悲・寛容」なんじゃよ。 前半よりも、後半が大切なんですよ。ゲームボーイソフトの、しかも脇役のちょっとしたセリフとは思えない。ポパー哲学と言って良いのではないでしょうか。 我々はたくさんの人から成る社会に生きている。決して思い通りにはいかないし、目にすることもいやな主義主張が飛び交っているし、許せない人々が大手を振って歩いている。 そこで意見を言うことは非常に大切です。デマや差別、論理的な誤りが蔓延っているなら、時には批判も反論もしなければならない。むしろ、それを躊躇う理由はありません。 でも、慈悲と寛容も、時には同じくらい重要なんじゃないかと思うんですよね。 「どっちもどっち」の疑似相対主義的正義論が蔓延る日本においては、誰もがより広く学び、より深く考え、より具体的により積極的に意見を述べる努力が必要だと思います。ポパーが言うように、寛容であるためには非寛容に寛容であってはならない。しかしその一方で、理解できないとしても寛容する度量、相手の誤りや撤回・謝罪を受け容れる慈悲もまた必要でしょう。 「正義」の反対は、別の「正義」 あるいは「慈悲・寛容」なんじゃよ。 誤った言論は糾されなければならない。したがって、意見を述べること、批判・反論することは求められるものであって、自ら行うことを決して恐れてはならない。しかし、批判や反論はつねに慈悲・寛容と共にあらねばならない。 「慈悲・寛容」という言葉が大袈裟に感じるのならば、この人の言葉を胸に刻んでください。 一説によると、「バカボン」の由来は梵語の「薄伽梵」(ばきゃぼん)。仏教における貴人としての慈悲と寛容を体現した言葉が、「これでいいのだ」です。

もちろん、「中立」であろうとすること、「中立」であろうとする人を批判しているわけではありません。偏らないよう努めて情報を収集し、双方に敬意を欠かさず意見を聞き、当事者の立場に身を置く態度はむしろ称賛されるべきですし、ぼくもそのようにありたいとすら思います。しかし、そうでなく単に「冷静」で「知的」との評価を求める目的に過ぎない、ファッションとしての「中立」は、社会の多数を占める批判や怒りに対する「逆張り」を生みます。

統一教会が批判されれば、大田光のように「統一教会にだって信じている人がいる」などと言う人が現れ、兵庫県の斎藤知事が批判されれば「前知事派の引きずり下ろし」だの「港湾利権関係者による工作」だのといった無根拠な擁護論が流布し、ワクチン接種が推奨されれば「ワクチンは毒」「人口削減計画」「コロナは存在しない」などといった陰謀論まで出てきて社会に深刻なダメージを与えてきました。この傾向はオウム真理教の時代から全く変わっていません。

どうにも、日本人には「中立」を至上の価値とする傾向があるようです。それが行き過ぎれば、みずから意見を述べることを避けてひたすら「中立」を装い、「中立」をアピールするために逆張りをする人まで現れ、しかもそれを社会が「知的」で「冷静」だと評価する、というスパイラルが完成する。学ぶ必要がなく、情報を集めて分析する必要もなく、批判を覚悟で意見を述べる胆力も不要で、ただ傍観者としてニヤニヤ笑っていれば「知的」で「冷静」。これを、ぼくは「中立小児病」と呼んでいます。

意見を述べる人に「自分の印象が悪くなる」なんて言う人もいますが、それこそまさに中立小児病的な揶揄であって、傍観者としての無責任かつ無意味な言葉でしかありません。そもそも、そういう人は相手の「印象」などこれっぽちも気にしていない、自ら意見を述べる胆力もなく、単に自分が「知的」で「冷静」な人だという「印象」を得るために、ただ当事者を冷笑しているだけです。

「大人気ない」なんて揶揄もありますが、意見を述べたり批判や反論をしたりすることが「大人気ない」ならば、「大人気ない」などという「意見」を述べ「批判」をすることそれ自体が「大人気ない」という自己矛盾に気づくべきでしょう。

「中立小児病」が蔓延する世界では、デマや差別や陰謀論が無限に育ちます。批判と反論はどうしても必要です。そのような中でさえ、傍観者の立ち位置から「知的」で「冷静」を装い、「中立」的な意見を述べて批判者を揶揄するならば、デマや差別への加担と同一視されてもやむを得ないでしょう。

自分は全く議論・論争に関与せず、無責任な傍観者の立ち位置を確保した上で、当事者たちをニヤニヤ眺め、彼らの言葉遣いや態度なんかを揶揄する

そういえば、しばしば「喧嘩に勝つには『鼻毛出てるぞ』とか『おまえ臭いぞ』とかを頃合いよく混ぜていけば云々」みたいな手管を説く手合いとか、見かけますね。

まぁ、相手の心理を揺さぶることじたいは間違いなく合理的な戦術と言えるんで、道端の喧嘩で何を垂れようと別に知ったことではないけれど、議論の場面で「鼻毛」や「体臭」に近いチャフを撒く手合いは、やっぱ卑劣で幼稚っすね。「字が汚い」とかで揚げ足を取る連中とかも同類。

臭いとか字が汚いとか、一種のトーンポリシングとでも言うべきところでしょうか。反差別に投げかけられる言葉と似た感じです。そういや、映画『Stand By Me』では母親をからかうのが最も効果的だと言ってました。お前のカーチャンでーべそ!みたいなやつかな

うーん。。。まぁ理解はするけど。

中途半端な理解で論理展開してダル絡みされるよりは中立でいてくれる方が個人的には好みだ。私の場合はダル絡みされることが多すぎるので。

論理が正しくても、正しい論理で追い詰め過ぎて無敵の人作ってもしゃーないし、むしろワンクッション置いてくれる人がいるお陰でバランスが取れることもあるとは思うしね。

ワンクッション置いてくれる人、無責任な傍観者でなく関与してくれる人はいいのよ。むしろありがたい存在。じゃなくて、ここで書いてるのは射程外からやいのやいの言って騒いでる人たちの方。

Kaori Eye
だとしたらちょっと言葉が足りない・・・っていうか言葉選びが違うかなぁって思った。 私には、本来の意味で中立を守ろうと努めている人たちをグサグサ刺してる様に見えたよ。私には。 ダル絡みする人たちは、度を越えたのはともかくある程度は、喋りたいよーに喋らせておけばいーさ。 周回遅れでも物申したい人はどこ行ってもいるものだし、そういう人たちに何かを求めることはできないと思うので。
萩原 遼さんのプロフィール写真
三味線芸人
三味線芸人
東京大学大学院卒業
コンテンツの閲覧数: 1,539.6万回今月: 16.8万回
6件のスペースでアクティブ
参加日: 2017年11月