長嶋茂雄さん死去 王貞治さん 大谷翔平選手など追悼の思い

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プロ野球・巨人の終身名誉監督で選手、そして監督として輝かしい実績を残し、国民的人気を博した長嶋茂雄さんが3日、肺炎のため亡くなりました。

“ミスタープロ野球”を悼む声が相次いでいます。

王貞治さん「一緒に野球ができたことを本当に感謝」

長嶋さんとの『ONコンビ』で、V9時代の巨人の中心となりプロ野球の一時代を築いたソフトバンクの王貞治球団会長は「突然の訃報に大変驚いております。日本球史に燦然と輝く長嶋さんが闘病生活の末、旅立たれてしまったことを本当に残念に思います。長嶋さんには色々と教えていただきました。一緒に野球ができたことを本当に感謝しています。今は只々心よりご冥福をお祈りします」と球団を通してコメントしました。

ドジャース 大谷翔平「心よりご冥福をお祈りいたします」

長嶋さんが亡くなったことを受けて、大リーグ、ドジャースの大谷翔平選手が自身のインスタグラムを更新しことし3月に東京ドームで撮影した長嶋さんと2人で撮った写真を投稿し、「心よりご冥福をお祈りいたします」とつづりました。

原辰徳さん「私の中では神様みたいな存在」

2001年限りで巨人の監督を退任した長嶋さんのあとを受けて2002年から監督に就任した原辰徳さんは「びっくりしたというのはあるが、現実を受け止めるということで、やっぱりこういう日が来るんだなと思った。私にとって少年時代からの憧れで、勝負に厳しく、人に優しく、みなさんに愛された存在だった。ジャイアンツに入り、選手、コーチ、監督という立場で深く影響を受け、長嶋さんと一緒にいられたのは私の中でも大きな、さん然と輝くことだ。しっかりと受け止めていい形でお送りしたいと思う」と話しました。

長嶋さんとの思い出を問われると「いろいろあるが、1つあるのは22歳の時にドラフトにかかったときは長嶋さんが監督をお辞めになった直後だった。立場上、難しい心境だったと思うが、その夜に電話を下さって私の入団を非常に喜んで下さった。これが私の中で大きな自信となって、巨人のユニフォームを着ることができたので大きな財産になった。私の中では神様みたいな存在だった」と明かしていました。

巨人 阿部監督「勝っていい報告ができるようにするだけだ」

長嶋さんが2期目の監督を務めた際の最終年に入団し、新人ながら開幕戦の先発メンバーに抜てきされた巨人の阿部慎之助監督は「入団して1年間、我慢して使って頂いて、僕をここまで育てて下さった方なので、とても残念な報告でした。神様のような存在でしたし、誰もが認める野球人だったのではないかと思います」と沈痛な面持ちで話しました。

また、阿部監督はことし3月に東京ドームで長嶋さんに会ったのが最後だったということで、「ドームにおこしの時はいつもおしゃれなので僕が『おしゃれですね』と言うと笑ってくれて、そのことが最近ではすごく印象に残っています」と懐かしんでいました。そして、「とにかく僕らは勝っていい報告ができるようにするだけだと思いますし、長嶋さんは『ジャイアンツは永久に不滅』だと言っていましたが、そうなれるように僕らがすばらしいものを継承してやっていきたい」と話していました。

チームは練習が始まる前、室内練習場で阿部監督や二岡智宏ヘッド兼打撃チーフコーチ、それに選手などが輪になって30秒ほど黙とうしました。

張本勲さん「私にとっては大切な存在」

長嶋さんが巨人で1期目の監督を務めた際に選手としてプレーし、プロ野球で歴代最多の3085本のヒットを打った張本勲さんは、「突然の訃報に驚きました。残念で仕方ありません。ミスターには現役時代大変お世話になりました。私にとっては大切な存在でした。心からお悔やみ申し上げます」というコメントを出しました。

高田繁さん「常にファンがどうすれば喜ぶかを考えていた人」

長嶋さんとともに巨人のV9に貢献し、長嶋さんが1期目の監督を務めた際にも選手としてプレーした高田繁さんは、NHKの取材に対し、「テレビのニュースで知ったが突然だったので驚いた。去年11月の巨人のイベントでOBが集まって一緒に記念写真を撮ったのが最後だった。本当に常にファンがどうすれば喜ぶかを考えていた人で、空振りひとつにしても、ゴロを取って投げるときもそうだが、走る姿もダイナミックだった。ここで打ってくれというときには期待を裏切ったことがないような人だった」と話していました。

山本浩二さん 「すごく絵になる人 憧れあった」

元広島の山本浩二さんはコメントを出し「ことばが出てこない。すごく身近な人で若いときから『コーちゃん、コーちゃん』と呼んでくれて引退後も食事やゴルフを一緒にさせてもらった。すごく絵になる人でみんなを明るくして笑顔にさせる」と思いをはせました。

同じ右の強打者だった長嶋さんに対しては「現役時代はずっとミスターのランクに行きたい思いがあった。憧れもあったし、理想の打撃フォームで構えからステップして打ちに行く間の取り方とかすばらしかった。今はただただ心よりご冥福をお祈りします」としています。

平松政次さん「対戦させてもらって非常に幸せだった」

プロ野球・DeNAの前身、大洋のエースとして長嶋茂雄さんと何度も対戦した岡山県高梁市出身の平松政次さんはNHKの取材に対し「大変つらいし、悲しい。長嶋さんにボールを投げることが自分の生きがいだったし、対戦させてもらって非常に幸せだった」と話しました。

そして「小学生のころから長嶋さんと一緒に野球をやりたいという思いを持っていた。長嶋さんなしでは野球ができていなかった」と話す一方、プロ1年目に、長嶋さんにホームランを打たれたことが印象に残っているいうことで、「ファンのような思いで長嶋さんと勝負していたらプロでは勝てないと、その時から気持ちが切り替わった」と振り返っていました。

また、平松さんは「カミソリシュート」と呼ばれた右バッターのインコースに鋭く食い込む変化球を武器にしていましたが、「長嶋さんが『平松のボールはカミソリシュートだ』とマスコミに話してくれたことで名前がついたと聞いている。50年ほどたった今でもこの名前が生きているのは、長嶋さんのすばらしいネーミングセンスのおかげだ」と話していました。

福本豊さん「野球の神様みたいな人」

阪急の選手として長嶋さんと日本シリーズで何度も対戦した福本豊さんは、「亡くなったと聞いて驚いた。長年、日本の野球界をリードし続けてくれて、感謝しかない」と、話していました。そして、長嶋さんの現役時代について「自分がセンターを守っていてもどこに打つのか読めない選手だった。データがそろっていても結局、投手のボールに反応して打ててしまう人だから、予想通りにならない。何度も痛い目にあわされた」と話しました。

また、1976年と1977年に長嶋さんが監督を務めていた巨人を相手に日本シリーズを戦ったことを振り返り、「『よし、ミスターにいいところを見せてやろう』と思いながら、プレーしていたのを覚えている。いまの選手みたいに、大先輩へ話しかけることはできない時代だったので、結果で示そうとしていた。対戦相手の監督なのに、そんな風に思わされる。野球の神様みたいな人だった」と話していました。

江夏豊さん「一緒に野球をやってこられたことは名誉」

巨人のライバル球団、阪神のピッチャーとして長嶋茂雄さんと何度も対戦してきた江夏豊さんはNHKの取材に対し、「寂しいのひと言だ。長嶋さんは野球人として最高の人で、一緒に野球をやってこられたことは名誉に値する。ご冥福をお祈りします」と話していました。

中畑清さん「自分の中では人生だった」

長嶋さんが1期目の監督を務めた際に選手としてプレーし、2004年のアテネオリンピックでは病気のため指揮をとることができなかった監督の長嶋さんに代わって日本代表のヘッドコーチを務めた中畑清さんは「こんなことはあってほしくない。受け入れることができない。自分の中では人生だった。ずっと背中を追いかけていきたいというのが目標だった。自分の方が先に死にたかったくらいだ。悔しい」と涙を浮かべながら話していました。

掛布雅之さん「きっかけを作ってくれた大恩人」

巨人のライバル球団・阪神で長年、4番バッターを務め、長嶋茂雄さんと親交が深かった掛布雅之さんは「野球をやるきっかけを作ってくれた大恩人。『ありがとうございました』と伝えたい」と感謝の思いを話しました。

子どものころから長嶋さんのプレーに憧れていたという掛布さんは長嶋さんの現役最後の年となる1974年に阪神に入団しました。新人時代に「野球を頑張りなさい、楽しみなさい」と声を掛けてくれたことが記憶に残っているといいます。その年、長嶋さんが甲子園球場での最終戦に出場した際、阪神ファンを含め、球場全体の観客が立ち上がって拍手を送ったということで、「日本のプロ野球をここまで盛り上げてきたいちばん核にいる方だった。野球界の太陽のような存在だったと思う。野球を誰よりも愛した人だから巨人ファンだけでなく阪神ファンにも愛されていた」と振り返りました。

掛布さんが不調のときには直接電話で指導を受けたこともあるということで、「僕がスイングをすると電話の向こうで大きな声で、『それだよ!それでいいんだよ掛布くん!』とすごく強い口調で背中を押すような声で言ってくれた。一気に気持ちが明るくなった」と話しました。そして、「長嶋さんというスーパーヒーローがいなければ僕は野球をやっていないかもしれない。野球をやるきっかけを作ってくれた大恩人。『ありがとうございました』と伝えたい」と感謝の思いを話していました。

江川卓さん「優しい一方で練習には厳しい人」

長嶋さんが1期目の監督を務めていた1979年に巨人に入団し、その後、エースとして活躍した江川卓さんは「小学生の時に後楽園球場で長嶋さんを近くで見たことが野球をするきっかけになりました。思い出は数々ありますが、レストランに招待してもらい、おいしい食事をいただいたことが忘れられないです。すごく優しい一方で、練習には厳しい人でした」と思い出を振り返っていました。

篠塚和典さん「一緒のユニフォームを着て野球をしたことが幸せ」

長嶋茂雄さんが監督を務めていた1976年に巨人に入団し、2回の首位打者を獲得するなど活躍した篠塚和典さんがNHKの取材に応じ「残念だ。覚悟はしていたが何のことばもでない。野球に携われてきたのも長嶋さんが拾ってくれたからで、“東京のお父さん”という存在だ。周りが反対する中で、長嶋さんが『責任を持つ』と私を獲得してくれて、なんとか恩返しをしなければならないという気持ちだった。同じ千葉県出身で憧れていたし、一緒に同じユニフォームを着てプレーできたことは幸せなことだった」と振り返りました。

篠塚さんは長嶋さんの指導を受けて球界屈指の内野手に成長しましたが、現役時代の思い出については「レギュラーでないときに、『必ずチャンスが来るからそれに備えておけ』とことばをもらっていた。最初に首位打者を取れたときに長嶋さんにやっと恩返しができたと思った。長嶋さんのファンを大事にする姿勢は自分の中でも胸に刻んでやっていた」と話していました。

槙原寛己さん「力が抜けるとはこういうことか」

元巨人の槙原寛己さんは「本当にショックで、力が抜けるとはこういうことかと思った」と話しました。槙原さんは現役時代の1993年オフにFA=フリーエージェントを宣言しましたが、当時監督だった長嶋さんに慰留されて残留を決断しました。

当時について「『お前が必要だ』と言われて1発で気持ちが晴れ、その後もジャイアンツにお世話になるきっかけになったので大変感謝している。2001年に長嶋さんが監督を勇退されたときにごあいさつに行って『監督のおかげでジャイアンツで現役を終えられました』と感謝を伝えたら、『俺は分かっていたぞ』とおっしゃってくれた」と振り返りました。

そして1994年、中日と同率首位で迎えたシーズン最終戦、いわゆる「10.8決戦」で先発を託されたときのエピソードについても明かし、「自分が不安げな顔をしていたからか『後ろには斎藤と桑田しか使わない。ことしはこの3人で戦ってきたんだからお前たちで完結しろ』と言われ、すごく安心した記憶がある。試合前のミーティングでも『責任は全部俺がとる』と言っていて、たぶん負けたら辞めるつもりだったんだと思う。あの勇ましさは忘れられない」と話しました。

宮本慎也さん「キャプテン任命は私の財産」

元ヤクルトの宮本慎也さんは、「長嶋監督とはアテネオリンピックで同じチームで戦わせていただきました。ご病気で倒れ、本戦では一緒に戦うことはできませんでしたが、私を日本のキャプテンに任命していただきました。当時はプレッシャーで喜べるものではありませんでしたが、今では私の財産としてしっかり残っています。ご冥福をお祈りします」とコメントしました。

長嶋さんはアテネオリンピックを前にした2004年3月に脳こうそくで倒れ、大会では中畑清ヘッドコーチが指揮をとりました。宮本さんはその後、2008年の北京大会でも日本代表のキャプテンを務めました。

高橋由伸さん「すべてにおいて導いてもらった」

長嶋さんが2期目の監督を務めていた1998年に巨人に入団し、2000年にはともに日本一を果たした高橋由伸さんは「信じられない気持ちだ。入団した時からプロ野球選手とは何か、勝負の厳しさを超えたところにある“見せる”ことを学ばせてもらいました。すべてにおいて育ててもらい、教えてもらい、導いてもらったと思います」と別れを惜しんでいました。

上原浩治さん「思い出すだけでこみ上げるものがある」

長嶋さんが亡くなったことを受けて、長嶋さんの監督時代だった1999年に巨人に入団し、主力投手として活躍した上原浩治さんは「突然の訃報に接し、ことばを失っています。ドラフト、プロ入り初年度、ジャイアンツ時代、そしてオリンピック。ひと言では語り尽くせないほど多くの思い出があり、思い出すだけでこみ上げるものがあります。東京ドームでお会いするたびに笑顔とお言葉に元気をいただいておりました。プロの世界に入ってからも数えきれないほどのご指導を賜り、心より感謝しております。長嶋監督のご冥福を心よりお祈り申し上げます」とコメントしています。

メッツ 千賀滉大「ことばが出ない」

大リーグ・メッツの千賀滉大投手はドジャース戦を前に報道陣の取材に応じ、「びっくりしている。『野球界と言えば』という、球界を引っ張ってきた方だと思う。面識はないが、今の僕らがあるのも、少なからず長嶋さんのようなレジェンドの世代の方たちが築いてくれたものだと思っている。ことばが出ない。ご冥福をお祈りします」と話していました。

ダルビッシュ有投手 松井裕樹投手も追悼

大リーグ・パドレスのダルビッシュ有投手は自身のSNSで長嶋さんが亡くなったことを伝えるニュースを引用し、「寂しい1日になりました。心よりご冥福をお祈りいたします」とつづりました。また、同じくパドレスの松井裕樹投手は2日の試合のあと取材に応じ「お会いしたことはないが、今の日本野球界が盛り上がっているのは、長嶋さんの存在がすごく大きかったと言われた記憶がたくさんある。偉大さを再確認するとともに、微力だが野球界の発展にひとつでもなにか力になれたらと思う」と話していました。

巨人 山口オーナー「言葉が見つからない」

巨人の山口寿一オーナーは球団を通じて、「悲報に接し、言葉が見つかりません。子どものころ、ジャイアンツとは長嶋さんのチームでした。その思いは今も変わりません。『燃える男』の勝負強さと太陽のような明るさ。高度成長の時代を体現したスーパースターであり、野球界をけん引した『ミスタープロ野球』でした。病に倒れられたあとも野球への情熱は衰えることがなく、最後まで東京ドームに来て、監督、コーチ、選手を激励してくださいました。長嶋さんの志は後輩たちが確実に受け継いでいきます。心よりご冥福をお祈りいたします」とコメントを発表しています。

名球会「多大なる功績に深く感謝」

長嶋さんが亡くなったことを受けて、日本プロ野球名球会は「長嶋さんは、日本プロ野球界を象徴する存在として、常に人々の記憶に残る名勝負と感動を届けてくださいました。

1978年、通算2000安打以上の打者・200勝以上の投手を称えるべく発足した「名球会」の設立に尽力し、初代会員として、その後のプロ野球界の発展と後進育成、野球文化の継承に大きな役割を果たされました。現役引退後も、名球会を通じた野球教室やチャリティイベントに積極的に参加され、『野球を通じて人を育てる』という理念を体現されました。その姿は、子どもたちをはじめ、多くの野球ファンにとって希望であり、憧れであり続けました。名球会一同、長嶋茂雄さんの多大なる功績に深く感謝するとともに、心よりご冥福をお祈り申し上げます」とコメントを発表しました。

スポーツ庁 室伏広治長官「スポーツ界全体に大きな影響」

陸上男子ハンマー投げのオリンピック金メダリストで、スポーツ庁の室伏広治長官は「選手として監督として大変活躍をされ、国民的スターとして親しまれた。本当に残念だ。スポーツを通じて国民を元気にする、その功績を改めて感じている。我々もそれをしっかり引き継いで、社会にスポーツが貢献できるように取り組んでいきたい」と話しました。

室伏長官は、ハンマー投げの第一人者だった父親の重信さんとともに長嶋さんと交流があり、20代のころに初めて話をしたということで、「『親子2代で鉄人だな』ということばをもらったのが印象に残っている。私の現役時代には大変応援していただき、よく声もかけてもらった。野球界のみならず、いろいろなスポーツのシーンに顔を出されていたので、本当にスポーツが好きで愛しているのだなと感じていた。スポーツ界全体に大きな影響を与えてくれた」と感謝を述べていました。

JOC 山下泰裕会長「思いを引き継ぐ」

長嶋さんが亡くなったこと受けてJOC=日本オリンピック委員会の山下泰裕会長がけい椎を損傷して療養を続ける中、JOCを通じてコメントを発表しました。この中で山下会長は「ご冥福を心よりお祈り申し上げます。2004年のアテネオリンピックでは残念ながらアテネの地には立てなかったものの、最終予選では野球日本代表を率い、見事1位で突破しました。東京オリンピックでは、聖火ランナーとして国立競技場に立たれました。この日のために大変なトレーニングを積んでこられたと伺っております。その姿はアスリートの活躍とともに多くの方の心に刻まれました」としています。

そして、長嶋さんがJOCの名誉委員を務めていたことを踏まえ「オリンピック、そしてスポーツに深い愛情を注いでいただいた長嶋茂雄名誉委員の思いを引き継ぎ今後もスポーツ界と社会の発展に尽力してまいります」とコメントしています。

川淵三郎さん「元気と勇気 希望を与え続けてこられた」

長嶋さんと対談などで交流があった日本サッカー協会の元会長で現在、相談役を務める川淵三郎さんは、「長嶋さんを初めてお見かけしたのは僕がサッカーの現役選手だったときで、広島に行く寝台列車で、長嶋さん、金田正一さん、王貞治さんが目の前を通り過ぎて行かれました。3人のスーパースターのオーラに圧倒された鮮明な記憶があります。それから25年以上が経過し、Jリーグがスタートした1993年、巨人の監督に復帰されたばかりの長嶋さんと対談させていただきました。初対面であいさつをしたときに『サッカーもようやくここまできたんだ』と深い感慨を覚えました。長きにわたり、日本中に元気と勇気、希望を与え続けてこられたご功績に感謝し、心から哀悼の意を表します」などとするコメントを発表しました。

青木功さん「亡くなる前に会ってお礼を言いたかった」

長嶋茂雄さんと親交があったプロゴルファーの青木功さんがコメントを発表し、「生前は大変お世話になりました。ことし3月に行った私の文化功労者を祝う会の発起人にもご就任いただき、『会に参加できずに申し訳ない』とお電話をいただいたのが、長嶋さんと交わした最後のことばでした。ジュニアゴルファー育成のためのチャリティーオークションの協力をお願いしたところ、2回目以降はこちらからお願いをしなくても『そろそろオークションの時期ですよね』と連絡してきてくださり、サイングッズを送っていただくなどお気遣いいただきました」と振り返りました。

そのうえで「私はいつも甘えるばかりで何もできず、亡くなる前にお会いしてお礼を申し上げたかったです。私の大切な仲間がまた1人旅立ってしまい、ただたださみしいです。ご冥福を心よりお祈り申し上げます」とコメントしました。

テリー伊藤さん「感謝の気持ちでいっぱい」

長嶋茂雄さんのファンで、長年交流のあった演出家のテリー伊藤さん(75)はNHKの取材に対し、「僕らは子どものころから長嶋世代でした。仲間と草野球をやったあとに銭湯に行くんですが、銭湯のげた箱の『3番』にみんな自分の靴を入れたいから銭湯までみんな全速力で走りに行くような時代でした。また、大学生の時に学生運動をやっている中で左目をけがしてほとんど見えなくなってとても落ち込みましたが、昭和43年(1968年)9月の阪神戦で王さんがデッドボールを投げられて乱闘になったあと、長嶋さんがホームランを打ったことで、もう一度頑張ろうと勇気をもらいました」と話しました。

また「自分が生きていく上でミスターのことを思うと少年時代に戻ることができ、忘れていた大切なものを思い出させてくれる存在でした。長嶋さんからいろんなものをもらったのに恩返しできないままになってしまったのは残念ですが、本当に感謝の気持ちでいっぱいです」と涙ぐみながら話していました。

プリティ長嶋さん「長嶋茂雄も永久に不滅です」

長嶋茂雄さんのものまねでテレビなどで活躍し、現在は千葉県議会議員のプリティ長嶋さんは、「長嶋監督との楽しかった一言一言を振り返ると涙が出てきます」と話しました。

その上で、2013年に長嶋さんが県民栄誉賞を受賞した際に直接、花束を渡したことに触れ、「『実は議員をやってます』と言ったら、『俺がそんなこと知らないと思ったのか』とことばをかけてくれて、日頃から気にかけてくれていることに非常に感激しましたし、気を遣ってくださる方でした」と話していました。

そして、長嶋さんが現役を引退した際のあいさつのものまねで、「巨人軍は永久に不滅です。長嶋茂雄も永久に不滅です。ありがとうございました」と目に涙を浮かべながら感謝の気持ちを表していました。

母校 立教大学総長「永久不滅のヒーロー」

長嶋さんが亡くなったことを受けて、長嶋さんの母校、立教大学の西原廉太総長がコメントを発表しました。この中で「驚きと深い悲しみに包まれております。長嶋茂雄さんは、立教大学野球部から東京六大学野球のスターとなり、読売巨人軍でのご活躍を経て、日本のプロ野球界の至宝として尊敬を集められました。戦争の焼け跡から高度経済成長を遂げた日本の発展を象徴するシンボル的存在であり、立教大学の池袋キャンパスには『長嶋茂雄氏顕彰モニュメント』を設置しています。長嶋茂雄さんは、立教大学にとって永久不滅のヒーローです」などとコメントしています。

大手警備会社 セコム「功績に深く感謝」

長年にわたって、長嶋茂雄さんをテレビのコマーシャルなどで起用してきた大手警備会社の「セコム」は、「長嶋茂雄さんには、ブランドアンバサダーとして1990年より35年にわたり多大なるご尽力をいただきました。長嶋さんのご功績に深く感謝するとともに、謹んでご冥福をお祈り申し上げます」とコメントしています。

キヤノン会長「高度経済成長期における希望と活力の象徴」

プロ野球・巨人を応援する財界人の集まり「燦燦会」の会長を2010年から務めている「キヤノン」の御手洗冨士夫会長は「長嶋さんは、実に高度経済成長期における希望と活力の象徴として、社会に明るさと誇りをもたらしていました。燦燦会会長として親しく接する中で、いつも野球界への尽きぬ情熱を感じておりました。またお目にかかれる日を楽しみにしておりましたが、それが叶わず、残念でなりません。心よりご冥福をお祈り申し上げます」とコメントしています。

セブン&アイ・ホールディングス名誉顧問「同志のような存在」

亡くなった長嶋茂雄さんと親交があった「セブン&アイ・ホールディングス」の鈴木敏文名誉顧問は「深い悲しみを覚えます。プロ野球の枠を超え、多くの人々に夢と希望を与えた国民的ヒーローであり、私にとっても戦後の高度経済成長を共に生きた同志のような存在でした。ご冥福を心よりお祈り申し上げますとともに、その偉大な功績が永遠に語り継がれることを願っております」とコメントしています。

菅元首相「まさに国民的スター」

2013年に政府が長嶋さんに国民栄誉賞を授与した当時、官房長官だった自民党の菅元総理大臣は記者団に対し「心よりご冥福をお祈り申し上げます。闘志あふれるプレーと驚異的な勝負強さ、愛される人柄は多くの国民の憧れの存在だった。国民に深い感動や明るい夢と希望を与えてくれたまさに国民的スターだった。官房長官のときに国民栄誉賞の表彰式に同席し、ひとりの長嶋茂雄ファンとしても大変うれしかった」と述べました。

その上で「中学3年のときに秋田から修学旅行で後楽園球場を訪れた際、長嶋選手が球場全体に手を振って、すごい歓声が上がったことは忘れられない記憶だ」と振り返っていました。

東京・有楽町では新聞の号外

東京・有楽町では、新聞の号外が配られ、通りかかった人たちが次々に受け取っていました。

70代の男性は、「大変びっくりしました。長嶋さんと言えば金田選手からの三振、天覧試合でのホームラン、王選手とのアベックホームランなど印象的なシーンが限りなくある。晩年、倒れてからも必死にバットを振ろうとリハビリしている姿に大変勇気をもらいました」と話していました。

30代の女性は「野球ファンだったので、子供のころは巨人の監督として活躍している長嶋さんの姿が大好きでした。プロ野球界にとってなくてはならない偉大な人だったと思います」と話していました。

ドジャース 前オーナーも追悼

亡くなった長嶋さんと親交のあった大リーグ、ドジャースの前のオーナー、ピーター・オマリーさんも追悼のコメントを発表しました。

オマリーさんと長嶋さんは、1961年に当時フロリダ州にあったドジャースのキャンプ地、「ドジャータウン」で巨人が初めてキャンプを行った時から交流があるということです。この当時を振り返り「当時オーナーだった父親から『ジャイアンツを頼むぞ』と言われて、彼らの到着から帰国まですべての手配をした。そこで私たちは絆を深め、60年以上にわたる友情が続いた」とつづりました。

巨人はその後もたびたび「ドジャータウン」でキャンプを行ったほか、その間にドジャースを日本に招いた親善試合なども開催していて、オマリーさんは長嶋さんと親交を深め、互いをドジャースタジアムや東京ドームに招待することもあったということです。

オマリーさんは「私たちは多くの時間を共に過ごし、国際野球について語り合った。それは私が東京で彼にお会いするたびに続いていた。私の思いは長嶋さんのご家族、そして日本中の野球ファンのみなさまとともにあります」とコメントしています。

海外メディアも功績など伝える

長嶋茂雄さんが死去したことについて、台湾のメディアは日本の報道を引用する形で相次いで速報で伝えました。このうち、台湾の新聞「聯合報」は2021年の東京オリンピックの開会式で聖火ランナーを務めたときの写真とともに長嶋さんの「ミスタープロ野球」という愛称を紹介し、功績をたたえています。また、台湾のテレビ局「TVBS」はことし3月に大リーグ、ドジャースの大谷翔平選手とともに写った写真を紹介し、「日本球界の伝説的なスター選手が死去した」などと報じています。

欧米のメディアも長嶋茂雄さんの生前の功績を伝えています。このうち、アメリカの有力紙、ニューヨーク・タイムズの電子版は、「長嶋氏は、デビューシーズンからスター選手となり、強力なバッティングと三塁手としての猫のような反射神経で一躍、注目を集めた。同じ世代の選手の誰よりも、第2次世界大戦から急速に復興し、経済的な影響力を獲得していく日本を象徴する存在だった」としています。そのうえで「ホワイトソックスや、現在、大谷翔平選手が所属するドジャースが長嶋氏と契約しようとしたが失敗に終わった」として、大リーグの球団も長嶋さんの獲得を目指していたことを伝えています。

また、AFP通信は、プロ野球・巨人の主力選手として王貞治氏とともに日本の野球人気の礎を築いたとしたうえで、「彼らの活躍は第2次世界大戦の廃虚から抜け出して、新たな経済的繁栄を享受していた日本の国民を魅了し、家族連れが白黒テレビで試合を観戦した。長嶋氏の並外れた個性とカリスマ性が自信に満ちた日本の新しい象徴となった」と伝え、功績をたたえました。

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