SNSとの距離。
TLをめくれば「音楽家はもっと人の心を学べ」「SNSで私的な発信をするな」など、至極納得の指摘が続く。確かに自分を含めみんなどこかしらちょっと幼稚だとは思う。例えば僕の両親は教員だったけど、教員は暗黙の了解でSNS禁止だそうだ。身分を隠して愚痴ばかり投稿しているアカウントを見かけると「転職すればいいのに」と思う。もちろん、転職だけしたって結局人間やることは変わらないんだけど。
僕はちょっと思う。開き直りに他ならないのかもしれないものの、一応結構本気で思っている。
音楽家や演奏家のような元々常識の範疇から逸脱している職業が、後ろ指を指される余白は、現代の社会にもうないのだろうか。そもそも「音楽家は人間主義」みたいなイメージこそ完全なる妄想で、そっちの方面で立派な偉人はあまり思い浮かばない。音楽家/演奏家なんて、己の稚拙な部分を転換しうまく作用させられるからパワフルに続く仕事でもある。要するに世間的に「ガキ」なのである。
これは言い訳ではないつもりで、身の回りに在る事実を解析しているつもりだ。クラシック音楽(特に国内)の史観に還れば当然とも言える。日本は明治期に西洋(その頃中心はパリ)の文化を積極的に取り入れた。クラシック音楽=西洋音楽は数多あった「嗜好」の一つであり、パリジェンヌたちの見様見真似でドレスやお紅茶を嗜みつつ、いまいちピンとこないけどどうやら花の都では「音楽」なるものが流行ってるそうで…みたいな感じで、今のほとんどと同じように、「自分たちより進んでるっぽい人たちが楽しんでるんだからいいもののはず」という幻想を追う娯楽だった。国内での「音楽」そのものがコンプレックスに塗れて始まり、今もまだ受け継がれている。
お客さんもまた、演奏家に何らかの幻想を重ねている。演奏家のほうは現実と乖離し続けるイメージに辟易し、「自分は他と比べてそんなに"高尚"でやってませんよ」みたいな顔をしたがる。最近は感覚が時代性と結びついている人ほど発信しようとする。
ただ、「ある人のSNS活動」によって照射される事実には注意したい。以前にはなかったことだ。派手にSNSで認知拡大を狙う若者の陰で、従来の研鑽を積む者たちがより一層「日陰者」として照射されてしまう。
SNSで土壌をつくる=政治家の地盤づくりと同じ意味合いだ。時代のノリに合わせて、みんなが観たい自分を演じる。その実、発信者のほうは日々大喜利に明け暮れてるようにしか見えない。SNS運用をするなら古今東西結構結論は出ていて、やっぱりコンクールの覇者やソリスト的活動家が扱うほうが自然な養分となりうる。具体的な努力の上での創意工夫で、側から見ても自然だ。そもそも僕のように無銘の一個人がSNSで得られる名声や信頼は、いわゆる「演奏活動」にはぜんぜん足りない。「若いうちはいいが」でしかない。辛く厳しくお金を支払うばかりの演奏家も、駆け出しの頃を過ぎると、ちらほら「自分たちの番」を自覚できるようになる。自分じゃなくても、知人や友人が仕切り始める。世代交代が始まる。その頃、粛々と古来の風習(伝統)に従って地味な研鑽を積んできた人が、ハッタリで大活躍の人を呼ぶだろうか。地味な努力を続けるあいだインフルエンサー的奏者によって勝手な意見やイメージを流布された日陰者が、「有能にうまくこなす」だけの要は何でも屋をそのまま信頼できるだろうか。インフルエンサーたちは、この辺りから仕事がうまくいかなくなり始める。「クラシック音楽」の特性とかけ離れた自身の活動を思い知ることになる(僕はあくまでSNS否定派ではないのだが)。結局「他者と比べて目立ちたい」わけだから、同世代で括られているうちに既にそのことに耐えられない人たちだったわけで、筋金入りだ。それが悪いとは言わない、目立ってナンボの職業だから。でもただ単純に目立てばいいってものでもない。例え凶悪犯として名を馳せても純粋に音を聴いてもらうことはなかなかできないだろう。僕らの頃にもSNSはあったし酷いこと書く人はそれなりにいたけど、存在ごと(演奏家として)消えてしまって、今となってはログも残っていないだけだ。
と、こんなに長々だらだら書いていることが、そもそも稚拙に映るのだろう。
社会的な規範であることを強く求められる演奏家。そこから逸脱しようとあえて異物を取り入れる若い人。いろいろいる。その内訳は、一般の社会と、民間の会社と、公務員とも変わらない。日本人的なコミュニティモデルの発想は多くの場合「学校」なので、人が集まると何かの教室みたいな集まり方になる。組織がそんな雰囲気になる。結局「愛好家」も邪推やお門違いの持論を述べまくる(余計な部分にまで口を出す)、甲乙お互いに変わった──やはりどこか幼稚な世界観に仕上がっている。
さて、音楽家が「人間」についてどう学ぶかは、やはり音楽に依拠するのが一番効率がいい。芸術とは言わば装置なので、「作品」「自分」「客席」を介して自己を錬成し続ける他ない。音楽を通して体験したあれこれを文脈的に繋ぎ合わせるには、読書がいい。140文字の羅列では触れることのできない感触がある。ただそれも140文字ごとの区切りに慣れ過ぎてしまっていると、なかなか見出すことができないらしい。
まぁ、というか、愛好家もペラペラあることないことよくしゃべる業界なのでね。しゃべりにくくなった愛好家が「プロ」に蓋をする構図でもある。「誰かのせい」にできたら簡単だけど、全体的な病的課題。
演奏家にとって今のところ最適解の一つは「SNS活動を望まれる存在」になることだろう。つまり昔ながらのメディアとの距離感に変わりない。それは業界の停滞やブレイクスルーを待っているわけではなく、マッチング(親和性)の問題なんだけど、それがいまいち掴めない若いうちにいろいろ挑戦しておいたほうがいいとも思う。


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