【往復書簡】己のハピネスに、心臓を捧げよ
圭吾さんの記事へのお返事です。
圭吾さん、おはようございます。こちらは20日の日曜日のパスクワ(復活祭)のお祝いのホリデー真っ最中です。イタリアではパスクワはクリスマスの次に大きなイベントで、当日は中国人の経営するカフェ以外はどこのお店もたいてい閉まります。日本でいえばお正月とかお盆のような感覚です。
こちらイタリアでは、このパスクワの日には親類同士が集まって一緒にお祝いをします。パーティーに卵料理を出したり、うさぎや卵をモチーフにしたものを飾ったり、卵形のチョコレートをプレゼントし合ったりします。私めも例年のごとくこのお祝いに呼ばれたのですが、今年は行きたくなかったので行きませんでした。いや、いくらなんでも行こうよと散々説得されたのですが、思春期の青年のごとく、わがままを通して行きませんでした。理由を問われて行きたくないからだと言ってもさらにその理由を問われるため、最後には、行かないのは行かないから。という理不尽でひどくわがままに見える、軽蔑されることを避けられぬような低脳回答をかまして、行きませんでした。実際、そこに私が行かないことで困る人はひとりもいないのです。
私が日本人で、自分はキリスト教徒ではないから関係ない、と考えていることはその理由ではありません。むしろ私は自分のことを、へたなイタリア人よりもキリストを身近に感じているとすら勝手に思っているのです。なぜなら、こっそりと訊くと、実は別に神なんか信じていないとかキリストの復活も信じていないというイタリアンも多くいるのですが、彼らからはイエスへの親しみを感じとることができません。そこにきて私は、この世を神と呼べばいいじゃないかと思っているし、俺たちもキリストと同じ人間だ。あいつも俺たちのズッ友だよ。と思っています。そんな私は、自分を信仰心の薄いイタリア人よりもずっと、神やキリストへの熱い思いを持っていると勝手に思っているのです。キリスト教を解釈するのも、面白くて大好きです。それから、パスクワの日に親類同士で集まっているかどうかということを、イエスたんの魂は気にしていないとも思っています。でも、そういうことは言いません。行きたくないから行かないんだ、ということで通しました。
どうして行きたくなかったのかというと、シンプルに、どうにもこうにも、そういう気分ではなかったのです。私は今年だけは、ひとりで祝いたかったのです。それで、家中を掃除して、美味しい料理を作って、テーブルを飾って、ひとりの時間を満喫しました。いいパスクワでした。あとから夫が家に来て、黙々と庭仕事をして、親類から私にと託されたチョコレートやプレゼントを渡してくれました。行かなかったからこそ、それがものすごく心に沁みました。人は、離れている方が相手の存在を強く感じられるものだと思いました。親類の存在に胸が熱くなりました。
私は今、ひとりでいることがあまりにも豊かで楽しくて、趣味はなんですかとか好きなことはなんですかと訊かれたら、ひとりでいることです。と答えてしまいそうなほどなのです。ひとりでいるとき、私は自分に集中しています。自分に集中していると、世界が浮かび上がるのを感じます。ちょうど、墨で書いた文字を観察していると、文字の黒い部分以外の白い部分が浮き上がって見えるように。墨書をそのように観察すると、黒い部分が字を創りだしているのか、白い部分が字を創り出しているのかが、わからなくなります。それらは共同作業のように見えます。
これと同じように、自分一人で自分を観察していると、世界が浮かび上がってきて、自分が自分を創りだしているのか、世界が自分を創りだしているのかがわからなくなり、それらは共同作業のように見えます。こんな感じで、自分を創っているのがなんなのかわからなくなり、自分の出所がわからなくなると、これが自分で、ここからは宇宙。という境界線が失われてしまいます。すると、おかあさんといっしょならぬ宇宙といっしょ状態に陥り、もうなにもかもがただ一緒で、孤独はどこにもなくなって、安心して素の自分を楽しむことができるのが好きです。
自分はずっと変化をしていて、言ってみれば死んでは生まれ続けている存在だと認めると、私たちは自分に飽きることはありません。これから先が楽しみでしかないのです。これと同じように、他者もずっと変化をしていて、ひたすらに死んでは生まれ変わっていて、捉えることも理解することもできない存在にしか見えなくなります。こうなると、誰のこともつかむことができないので、誰と一緒にいてもつながりを期待しなくなってしまい、他者との関わりはすべてが一期一会的なものと言いますか、一夜の関係的なものと言いますか、同じ人と接しても、毎回がいつもその場限りの交わり、一瞬のランデブーです。私の上を通り過ぎていったなにか、になります。他者は全員、セフレみたいなものになります。
でもこの感覚を共有しようとして、誰かに「自分がどう変化するかが楽しみになり、一人が楽しくなってしまうと、他人との関わりが、まるで一夜の関係のようなものになってしまうね。他人はみんなセフレみたいなものでさ」と言ったところで、おめーなに言ってんだ気でも変になったのか、と言われてしまうと思うのですが、あたしゃもう、そういうことを気にもしねえんです。それよりも、親類が一堂に集まるパスクワのお祝いに行かない理由を、行かないのは行かないから。と言う方がはるかに難しいのです。
圭吾さん、あたしゃ思うんです。我ら風神雷神生涯反抗期ーズは、生きることには真剣ですが、それと同時に、なんでもどうでもいいのです。なにがどうだとしても、全部いいんです。あたしゃ、今年のパスクワのことも、あらゆる黒歴史も失敗も全部全部、自分が死ぬ時になったら、あるいは死んだあとになったら、懐かしい些細な出来事にしか見えないとわかっているのです。一億年後の私は、地球人だったころの体験は全部全部ひとつ残らず、一緒くたに並列に、ただただ愛しています。たとえばなにかで賞をもらったみたいな瞬間と、ただ散歩をしていた時間とを、価値の差を見出すことなく思い出すのを、知っているんです。
楽しい体験だったな、いい役柄だったな、なかなか真剣に演じたな、面白かったな、蒼い星だったな、海で泳いだな、光を浴びまくったな、あのとき自分は肉体を使ったな、あの肉体はすごいシステムで、内側に骨があって動くことができたな、あの星の生物を食べたな、アイスを食べてスイカを食べて走ったな、味噌をつけてかじったきゅうりが美味しかったな、ドジョウとザリガニを獲ることに命をかけたな、家族が大事だとか、友達が大事だとか、悲しいとか怖いとかいうことに夢中になって、いろいろ思って思って思ってのめり込んだな、恋や音楽に狂ったりして最高だったな、言葉を使うことに命を燃やしたな、他の魂とやり取りしたな、バカを極めたみたいな美しい体験だったな、ああ面白かったな、またやってみたいな、奇跡の時間だったな、奇跡とはあのことを言うんだな。と思うことを、知っているからです。
現在地は温泉宿で、時刻は朝の五時です。ホームをレスした頃から、体内時計が自然と完全に一致をいたしまして、アラームなしでも体が勝手に夜明け前に目覚めるようになりました。小鳥が俺の目覚まし時計です。温泉に入れるのが朝の六時からなので、いま、とても寒い場所で震えながら記事を書いています。泉質のよい温泉に行くのも乙ですが、体をめちゃめちゃ冷やした状態で入る温泉には、救われた喜びを感じます。能動的に自らを地獄に突き落とす(寒さに震わせる)ことで、天国がより天国になる。そんな、SなのかMなのかよくわからない遊びを、毎日楽しんでいます。
圭吾さん、あたしゃここを読んで、脳内に電流が走ったかのような衝撃とともに、あることに気がつきました。それは、自分は目覚まし時計で目を覚まして活動するということを、いつからやっていないのかが思い出せないのです。私の記憶に間違いがなければ、高校に通うために使ったのが最後だったような気がいたします。以降、目覚まし時計で目を覚ますという拷問に耐えられたことがないように思います。いかに自分がこの世界に不適合な個体なのかということを、改めて思いました。
目覚ましの音で目を覚まして活動するということを、二日続けたら自分は死にます。それがもしも、自分にとってなにがなんでもやってのけたいと思っていることのためであれば、私は目覚まし時計の鳴る直前に動物的な勘で必ず起きることができるので、目覚まし自体が不要です。そのため私の場合は目覚まし時計を使うという時点でやりたいと思っていないことをしていることになります。であれば、一度は耐えられたとしても、二日目で死にます。
しかし世の中にはこれを続けながら通学や出勤をしている人がたくさんいると考えると、彼らがあまりに自分とかけ離れていて、この世のことがわからなくなります。なぜそのようなことができるのか、一体みなはどこまで強いのか、地球人はどういう生物なのか、ということがわからなくなります。そして、ひょっとすると自分は地球人ではないのかも知れないと、真剣に考え始めます。地球人のストレス耐性は高すぎます。寿命を半分にすることで、その耐性を得ているのではないかという気すらしてきます。そのように考えると、胸が痛くなります。なんというか、正直に言えば、もう全員で目覚ましで起きるのなんてやめちまわねえか?!と誘いたいという衝動が湧くのを感じます。
そしてみんなで、圭吾さんのように小鳥のさえずりで目を覚ます暮らしをしようじゃないか!と誘いたくなります。そんなことを考えるのは自分が弱者のあまり社会に不適合であるからにすぎないのですが、そんな自分は目覚まし時計を拷問の道具としてカテゴライズします。
もしもこの世が、すべての人が鳥の声や太陽の光で目を覚ましても成り立つような世界だったら、それはどんなところなのでしょうね。私は、その世界ではきっと、ほとんどの精神科医やカウンセラーが廃業しているような気がします。そしてもっと多くの人が第六感を使って生活していて、芸術に身を捧げる人がもっと増えて、アルコールが売れなくなり、ドラッグをやる人が減って、生殖器付近を締め付けたり蒸らしたりするパンツスタイルの服を身につけるのを、やめる人間が増える気がします。
壇珠さん、あたしゃ思うんですが、自分は何かを受け取るに値しない人間だとか、自分なんかが差し出せるものにはたいした価値がないとか、自分じゃだめだに代表されるすべての信仰は「猫かぶってんじゃねえよ!!」の一言で粉砕できると思うのです。本気の本気の「猫かぶってんじゃねえよ!!」がバチコーン決まれば、目が覚めて、俺は何をやっていたんだとなり、覚醒。自分に自信がないと言う人は、自信がないのではなくて、自信があり過ぎるのです。自信がないと言う考えに、自信を持ち過ぎているのです。頑固なまでに、自分はダメだと信じているのです。そんな人に「そんなことないよ」と言っても無駄です。彼らはある意味でものすごく傲慢で調子に乗っているために、鼻をへし折ることが急務です。
読むたびに声をあげて笑ってしまい、書こうとしたことを忘れてしまいます!!世の中では悪口を言うことは良くないとされていますが、そしてそれはわからなくもないのですが、私は自信がないということにして身を守っている人が、「私なんかダメです」と言って萎んでみせることに関する悪口は、いくら言ってもいいと思います。そこで早速悪口を言いますが、彼らは自信を持つことと傲慢になることを同一視し、自信を持たないことと謙虚であることを同一視しています。が、これはとんだ間違いであります。
自信がないのでなにもできないんです、と言ってなにも差し出さずに生きることは傲慢である。え?私なんか自信ないから、いろいろやらないで生きるよ?自信がある人がいろいろやって生きればいいんじゃね?私らはその恩恵を受けて生きますんで。だって自信ないので。だからできないの。さあさあ自信ある人たちは動いて動いて、だって自信あるんでしょ?すごいよねーがんばってねよろしくー。ね?私って謙虚でしょう?って、お前は何様だ!!王かよ!!その土地の王様かよ!!お前の目線は実は上からだってことに気付け!!本当に謙虚なら、自分を差しだせよ!!どんどん自分を見せて、どんどん使えよ!!なにをタンスの奥にしまってんだよ!!鍵までかけて出せないようにまでして!!お前は25カラットのダイヤモンドなのかよ!!
俺がここにこうして自分の考えを書くことや、俺は聖帝サウザーであると書くことを、俺様に自信があるからだと思ってんじゃねえぞ!!自信があるだのないだの、そんなことにこだわってねえんだよ!!自分を差し出すために、自信なんかいらないだろが!!批判されて、悪口を言われて、馬鹿にされて、笑われて、どこかで晒されて、こいつはおかしい、こいつはなにもわかっていないと言われることを、どうぞどうぞやってくれと思っているんだよ!!なんでお前はそう思えないんだよ!!自分のことを、そういう扱いをされるべき存在ではないと思ってんだろ?だからさ、それが何様なんだって言ってんだよ。俺は馬鹿にされてもいいんだよ。こんな俺のほうが、自信がないと言って自分を25カラットのダイヤモンドみたいに金庫の奥の奥にしまっておくやつよりもずっと、謙虚なんだよ、わっかるかなあ!!
自信よりも捨て身。輝こうとするよりも、爆死しようとする。やってみたらわかるが、これで無駄が削がれるんだよ。それでも怖いものは怖いが、怖さは無駄などではない。それよりも爆死を選ぶかっこよさを自分に見せてやろうとすると、そのへし折られるべき傲慢な虚栄心なんか消えちまうんだよ。値段もつかないような無名の石ころとして、爆死を狙って己を摩擦に晒してみな!!そうやって摩擦に摩擦を重ねるうち、お主はいつの間にか、25カラットのダイヤモンドになっているのだ!!そのプロセスにおいて、自分が勝手に持った自信なんてものを使う場面があるかどうかを考えてみろよ!!ないだろう!だから自信なんていらないんだよ!自信がないことを理由にするな!その盾で追っ払っているのは、自分自身の輝きそのものなんだよ!!
女が受け取りを拒むことは、愛を堰き止めることと同じです。これは一番の環境破壊であります。「私なんか」とか言っている人は、死ねばいいのです。死んで聖帝サウザーに生まれ変わって「愛に屈するわけにはいかん」と勝鬨をあげるべきです。要らないものには要らないと言えばいいのです。気持ちはありがたいけど今はこれをやりたいからやらせてくれと言えば、男はわかったとなって引き下がります。それを「本当はこうして欲しかったのになんで察してくれないの」とか「これだけのことをやってあげたんだからあなたも何かしてくれて当然でしょ」みたいなことになると、男は逃げます。なぜならば、話が違うからです。
男子的目線から見ると、すべての女は虎に見えます。どれだけ猫をかぶっていても、女の本性は虎です。虎を相手にする我々男たちには、おしなべて猛獣使いになる必要があります。ですから、私は、この場を借りて女性の皆様にお願いがあります。どうか男に遠慮をしないでください。是非、あなたの第一希望をオーダーしてください。第一希望をオーダーしたのにそれは無理だとか生意気なことを言う女は嫌いだとか言う男は、もはや男ではありません。ですので「この人にあたしの本気を出したら殺してしまう」などと恐れる必要はまったくありません。殺してしまっても大丈夫なのです。それを、自然界は人口淘汰と呼びます。
私は頻繁に「なぜ、俺はかっこいいのか」と自問自答をします。答えは簡単で、それは「かっこつけているから」です。自分がかっこいいと思うことを言ったり行動したりしているから、必然、かっこよくならざるを得ないのです。見る人が見たら、自分を褒めるなんて狂人だと思われたかもしれません。しかし、狂人サイドから言わせてもらえるのならば「毎日自分を責めている方が、よっぽど狂人だよ」と思います。自分を幸せにしない信仰なんて、捨てちまいなと思います。そんなことよりも、かっこよさを、面白さを、美しさを、日々更新していく人生の方が楽しいと思います。
あまりにも同意しすぎて、逆に同意を諦めた状態となり、感覚が無となる境地に達しました。往復書簡を読むたびにあまりに同意しすぎて、激しい同意を繰り返した者独自の脳の発達を遂げているような気がしてまいります。きっと圭吾さんもそうだと思うのですが、私も日々読者の方々から「かっこよくてしびれました」「私もそんな風にかっこよくなってみたい」といったご感想をいただきます。が、私もそれを読むたびに、自分が格好良く見える唯一の理由は、自分が勝手に格好つけているからである、と思います。
なぜ格好つけているのかというと、気分がいいからです。それしかありません。わたしゃブログを書いていても格好つけており、格好をつけてハッタリをかました以上はそのような人物として生活していますが、それは私が部屋にお花を買ってきて飾ったり、掃除をしたりするのと同じ理由で、気分がいいからです。自分にもしみったれた、ダサい、弱い、バカな、恥まみれのところが、探ればいくらでもあるのです。でも、それを自分だと思うことを選ばないだけです。それが自分なのだと思ってくよくよしながら生活する方が、よほど狂人であると私も思います。
自分がガラスの花瓶だとしたら、私は安くてダサい花瓶です、と思うこともできるし、私はモダンで素敵な花瓶です、と思うこともできます。しかし本当のところはただの入れ物であるし、ただのガラスであるし、ただの物体です。もっと言えば量子物理的にいえばただのヒモです。どう思ったって、正しいも間違いもありません。そこでもしもその花瓶が、幸せな花瓶でありたいのなら、私は素敵な花瓶です、と思えばいい。私だって、自分は聖帝サウザーなのだと思うこともできれば、ただのアホだと思うことも、ただの女だと思うことも、ただの有機物だと思うことも、ただのヒモだと思うこともできます。そこでもしも私がこの人生を気分良く生きて死にたいのであれば、私は聖帝サウザーであると思うことを選びます。このように、単に好みの問題、自由なチョイスの問題であるのに、自分の気分の悪くなるチョイスをしておいて自分でそれを嘆くということは狂気であり、意味のないことだと思います。
私が勝手にサウザーとして存在することを選ぶと、たしかにどれだけ猫をかぶっていても、男子から「この女は虎だ」と思われてしまう場面に遭遇します。時には夫が逃げていったりもします。しかしそれがなんだというのだろうか!!そいつが猫使いであって猛獣使いでないのであれば、それはこちらの問題ではなく相手の問題なのだから!!男が猫使いどころか草食動物である場合は、とっとと虎から逃げればいい。逃げもせずに、草食動物が虎に向かって「おとなしくしろ。草食動物の言うことを聞け」などと言っていると、虎に食われるのがこの世の道理です。自然界は厳しいのです。
女は自分の気分の良さを追求することが、人生で唯一成すべきことだと思います。ここをサーッと読み飛ばさず、この文のひとつひとつの言葉を刮目して見て欲しい。自分の気分の良さを追求することが、人生で唯一成すべきことだ、と書いてあるのです。それをしない女が、嫉妬深くなるのです。美人を見ては嫉妬し、ぶりっ子を見ては嫉妬し、わがままな女を見ては嫉妬する。それはすべて、女が自分のハピネスケアを怠っている証拠です。女子たちよ、我とともに己のハピネスケアをしようではないか。自分に禁じていることを解禁して、勝手に守ってきたボーダーラインを超えて、御法度を破って、無駄な抵抗をやめて、楽に漂って、ふわふわして、ウキウキして、部屋も服も生活もメンズとの関係もすべてを自分の喜びに満ちた状態にするとなったら、女はそりゃあもう忙しいのです。自分の愉悦と安らぎを得るためだったら、たとえ寂しく孤独な日があるとしても、遠慮を捨てて自分を愛し、誰かに任せずに自分で自分を娶る勇気を選ばなきゃなりません。女はこれをしていると表面上は自然と天女のようになり、中身は自然と虎になります。
女はみんな虎ですし、貪欲ですし、クレイジーです。女はカオスで、嵐で、狂っています。狂っていないフリをしている女はみんな外面を見せているだけ。それに騙され、それに応えられない男はみんな、草食動物です。そんな野郎は食われて死んでくれ。そこを生き延びた男のみが、天女と交わる資格を持つのである。
俺たちジャパニーズは、恥ずかしいと思うポイントを間違っていると思います。何が本当に恥ずかしいことなのか。恥ずかしいと思うことが一番恥ずかしいことなのではないか。この点を、いま一度考えてみていただきたいと言いたい。私の性癖が狂っているだけかもしれませんが、恥ずかしい君を見たい。恥ずかしい君に恋をしたい。そう思うからこその肉薄と撹拌であり、恥ずかしい真似を控えるのではなく、恥ずかしい真似をどんどんしよう。恥ずかしいセリフを恥ずかしげもなく言おう。それこそが生きると言うことなのだとなった途端、灰色の世界は「なんでもありのパラダイス銀河」になるのではないかと睨んでおります。我々風神雷神、心の扉をノックするばかりか、恥部の嵐で扉ごと粉砕させていく、魂の往復書簡。鬼が云うと書いて魂。鬼になろう。鬼が云ったら魂だ。引かれたっていいじゃない。嫌われたっていいじゃない。恥ずかしい思いをしたっていいじゃない。俺たちには、恥ずかしい思いをする自由がある。恥ずかしいと思ったらチャンス!!恥の海にダイブ!!君を待っているぜアディオス!!
ここを読んで、恥ずかしいことをさらすという行為には二種類あると思いました。ひとつは、世間では恥ずかしいこととされているが、誰も本当は恥ずかしいことだとは思っていない、自分も恥ずかしいとなど思っていないことを晒すこと。もうひとつは、自分が個人的に恥ずかしいと思っていることを、晒すことです。前者のほうは、例えば自分の性的な生活についての詳細をさらしたり、自分のヌードを晒したりすることで、後者は自分のダメな部分を晒したり、黒歴史を晒したり、性格の悪さを晒したりすることです。
私は、基本的には前者に当てはまることをしようとは思いません。それを恥ずかしいと思っているのは世間であり、自分ではないからです。そこを破って晒してみせるのは、世間に向かっての挑戦であり、世間への復讐や自尊心の低さの確認や己への罰を含んでいるように思います。性に関すること以外にも当てはまることはあると思いますが、たとえば性生活は恥ではなく、人の裸も恥ではありません。だから私は、自分がそれらをさらしたところで、特に恥を乗り越えたとも感じられず、ある意味で自分を世間から見て恥ずかしい存在にするという自虐的な行為に及んだにすぎず、個人的にはパラダイス銀河へのパスポートを得ることはありません。もしも自分がそれをするなら、自分が嬉しいからする、という理由によるものだと思います。
しかし、自分が勝手に恥ずかしいと思っていることを晒すのは、生きている間ずっと取り組むことであろうと思います。あれ?!これを勝手に恥だと思っていたの、自分だけだったわ!!ダメなところをさらしたくないのは、自分が自分をダメだと思いたくなかっただけだったわ!!意外と私のことなど誰も気にしていないし、意外とこれを曝け出している人はいっぱいいるし、意外とどうでもいいことだったし、勝手に恥ずかしがっていただけで、盲目の泥酔状態で勝手に一人芝居していただけだったわ!!なんだよ、この世はこんなに楽なところだったのかよ!!と気がつくことは、自分をパラダイス銀河に連れて行ってくれるからです。自意識過剰をやめてやめてやめ倒す人生にしたいと、いつも思います。
自意識過剰をやめることも、ハピネスケアの一道具です。掃除も、香水も、見だしなみを整えることも、恋も、愛も、音楽も、その他のいかなる芸術も、インテリアも、家も、なにもかもが己のハピネスを創るための材料または道具にすぎません。恥も、黒歴史も、タブーも、太陽も、空気も、夜空に輝くあの星も、家族すら、自分を愛することすら、他者を愛することすら、己の命ですらも、セルフハピネスの道具にすぎないのです。それらを使い倒して、なにがなんでも自分を幸せに安穏にする。人間にはそれしかやることがないのだと思います。それをするのが、我々人類にとっての義務なのだと思います。つまり人間は、それ以外のことに一秒たりとも人生の時間を使ってはならないのです。それは罪です。その罪を犯すことは、そのまま即自分を不幸にする。これこそが、我々各々の宿敵なのであります!!
我々風神雷神、人間に己の義務を怠るなと発破をかけて、不幸の虚像をぶち倒すために心臓を捧げる兵士なり!!我々風神雷神恥こそが己の武器ーズ、不幸を駆逐する特別作戦に自発的に自らを配属し、幸福起動装置を使いこなして戦う兵士でありましょう!!これを読むあなたも、目に見える、耳に聞こえる、鼻に香る、皮膚に感じられる、いかなる情報をもセルフハピネスの道具と心得よ!!自信がないだとか、愛されたいだとか、あなたのためを思ってだとか、あの人が愛してくれないからだとか、そんなことを言っている暇があったら、さっさと温かいココアでも淹れて己をねぎらうのだ!!毛布をかぶせ、暖め、散歩に連れ出し、美しい音を聴かせ、撫でさすって慰めてやるのだ!!運動不足なら、美しいタンゴで踊ろうと誘え!!忙しそうなら、サボろうと言って抜け出せ!!疲れているなら、横になって夢の世界に連れ出してやれ!!刺激が足りないのなら、この往復書簡を見せてやれ!!デートに誘い、花をプレゼントし、愛して、守って、笑わせて、震わせて、己のハートをわしづかみにしろ!!自分を口説く自信がないのなら、今から好きそうなものを調査しろ!!己の不平不満を駆逐しろ!!貴様も人類のはしくれならば、己のハピネスに、心臓を捧げよ!!
『幸福の巨人』著者:幸福調査兵団団長・雷神(風神も可)
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