もう二月になった。
ハーマイオニー・グレンジャーと、ハリー・ポッター及びロナルド・ウィーズリーの間の確執は、未だに溶ける気配がない。
彼等の間の問題──すなわち、ファイアボルトに纏わる件は、彼女が一か月以上も友人無しで過ごす内に、ポツリポツリと語ってくれた。
そして、それに対する僕の考えも、彼女の、或いはミネルバ・マクゴナガル教授の考えと概ね一致する物だったというのは驚くに値しない。
心当たりの無いような高価なプレゼントを、何の意図も無しに送るような人間は居ない。差出人の名前無しで送りそうな悪戯人間としてはあの老人が居るが、しかし教授が取り上げた所を見るに違うらしい。そうであれば、やはり思い当たる送り主としては、ハリー・ポッターの命を狙っているであろうシリウス・ブラックこそが第一容疑者であった。
但し、出所不明の箒に乗って飛ぶような阿呆が居るとは早々思えず、それを本気で暗殺の手段として意図するような人間が居るのかという疑問は当然のように生まれてきたが。
さりとて、疑念を晴らすには弱い疑問であるのは否定出来まい。調べる為に没収する事も、その過程で解体する事も、何ら不当な判断や措置とも言えないだろう。そして同時に、彼等が怒りを示すという事にも、一応の理解を示す事が出来るものでも有った。
ただ、それは時間が解決してくれる問題だった。
箒に対して何等かの工作が見付かるにしろ、全くの潔白であるにしろ、結果が出れば彼等は仲直りをし得る。前者の場合ならば当然に彼女に対して感謝するだろうし、後者の場合であれば微妙な雰囲気にはなるだろうが、ハリー・ポッター等の方も、その身を案じた優しい少女の行いの結果だという事を理解出来ない程に愚かでも無いだろう。
だから僕は心配していなかったし、専ら自分の事について時間を費やす事が出来た。
──つまり、自分自身の力量を向上させ、確かな暴力を獲得する事について。
僕は一昨年と去年抱いた無力感を自覚したままに、それを放置出来るような強い人間では無かったのかもしれない。
今世紀で最も偉大な魔法使いによる教えを一部拒否はしたものの、それはあくまであの老人に余計な労力を割かせない事を理由とするものであり、別に力自体に惹かれない訳では無かった。
守護霊の呪文について何となく興味を持ちきれないのは相変わらずだったが、他の実戦的な呪文に関しても同様で有ったという訳ではない。寧ろ貪欲に、それらを求めすらした。
閉心術と開心術は、一つの力を実現する為の手段に過ぎない。
そして、他の有用な手段を追い求めるに際し、スリザリンという純血と伝統の寮は非常に好都合であった。偉大なる先輩達が残した物は宿題のみに関する物に限られるものでは無く、特に実戦的な闇の魔術についてより学ぶにはこれ以上無い環境だったと言って良い。
更に言えばリーマス・ルーピン教授──魔法戦争経験者からの少しばかりの肩入れを得られたという事も、非常に幸運だったと言える。
この三年間で初めて教えを受ける真っ当な闇の魔術に対する防衛術教授は伊達では無く、彼の知識は僕よりも豊富で、やはり当然のようにそれらは自らの経験に強く裏付けられていた。
僕が授業でやるような内容、つまり魔法生物に関する諸々の対応に関心を左程示さず、明らかに対人戦を想定している事についていたからなのか教授も複雑そうな顔をしていたが、それでも彼は、そのような力が必要とされる場合も有り得る事を良く理解していた。
何せ彼が狼人間に堕ちたのは決して事故では無く、五歳の時、自分の父親に対する復讐の代わりとして、フェンリール・グレイバックに噛まれた事を起因としている。人の悪意が齎す悲劇的な結末に対して、彼は己の身をもって教訓を知っていた。そうであるからこそ、彼はまね妖怪の授業をわざわざ最初に持ってきたのだから。
故に、彼は僕にとっても良い教授で有ったというのは疑いが無い。
彼の個人的な病気の問題や最も優先すべきハリー・ポッターへ個人講義の為に、教授が手自ら僕へと呪文を教えるという事は殆ど無かったが、質問に対する回答や助言については、彼は惜しみなく与えてくれた。その点は間違いなく感謝すべきだった。
それ以外に、善良な一学生として為すべき事が無かった訳では無い。
たとえば、四か月後に迫った期末試験はその一つだろう。
去年は忌々しい蛇の唯一の功績としてそれが免除されたものの、今年はそのような奇跡は期待出来まい。別に僕だけならばある程度どうにでもなるのだが、スリザリンのクィディッチ優勝杯獲得を目指して日夜練習に励んでいるドラコ・マルフォイが最後に泣きついてくるのが目に見えているともなれば、恩を売る機会を逃す訳にも行かなかった。
しかしながら、彼がどの道切羽詰まらないと頼って来ないのも、一年時の経験から解り切っていた。つまるところ、本当に忙しくなると予測されるのは六月を目前とする頃であり、今の僕が行うべきは自身の復習を兼ねたある程度の準備だけで、現在の所は多少の余裕というのが存在していた。
また、ヒッポグリフ裁判の〝原稿〟作成についても、一応為すべき事の範疇に入るだろう。
もっとも、そちらも既に大詰めを迎えつつあったと言える。裁判の日が近付いてきた今、早めに準備を始めていた御蔭も有って既に判例の捜索に見切りを付け──結局彼女の二人の友人は役立たずに終わった──今は裁判内で何を話すべきかという台本を書き上げる段階に有った。そして、それもまた殆ど終わりが見えていた。
正直素人がここまでする事では無かったが、それ以上にルビウス・ハグリッドという男が問題だったのだ。判例を調べ上げて一息付いたハーマイオニー・グレンジャーに対し、更に殆ど一から十まで台本を用意してやる必要が有るのではないかという僕の指摘には、彼女も何も反論出来はしなかった。魔法生物以外の小難しい事に関して、彼がフロッピーディスク以下の記憶容量と保持の耐久性しか持ち併せていないのは明白だった。
何より判例というのは、羅列しただけでは意味を為さないのだ。
同じ事件というのは世界に一例として無く、似ている事件というのはつまり、違う点が確かに存在するという意味でも有るのだから。要するに、違うが故にやはり
ただ如何にハーマイオニー・グレンジャーが優秀であったとは言え、やはりその作業は
そしてある種の諦念が無かった事もまた否定しない。
つまり素人の拙い文章構成だろうが、専門家の整然とした理論構築だろうが、アルバス・ダンブルドアという外部からの反則介入を用いても尚覆す事が出来ないのであれば、処刑の結末は何も変わらないだろうという諦念が。
だからこそ、僕の今学年の大きな関心は、そして時間の使い方は、やはり他ならぬ己の為に大きく費やされていた。そして同時に、僕は
賢者の石や秘密の部屋といった、僕の手に余る巨大過ぎる問題に関わるのでは無く、自分自身の小さな問題の解決の為に己の力を傾ける。それは確かな喜びだった。
要するに僕は学びという行為を本質的に嫌っていないという証でも有り、入学前の〝収容〟を──ある忌々しく邪悪な本との出会いを何だかんだ言って自分を構成する一要素として認識していると言う証左でも有るのだろう。
そして、その点においてハーマイオニー・グレンジャーと僕は違う面が有るのかもしれないと、僕は段々と思い始めるようになってきていた。
別に彼女が学びを嫌いだと言いたい訳では無い。寧ろ真逆だろう。
しかし、彼女が知ったかぶりと時に揶揄されるように、彼女はその知識を外へと発散したがる傾向が有る。対して僕はそれらを溜め込む事だけで満足出来る質だった。
その面においては、やはり僕はレイブンクローに近く、そして逆に彼女はそのような面から遥かに遠ざかっており、少なくとも今の彼女は、殆ど間違いなくグリフィンドール的な理由の為に知識を求めているように見えた。
入学してからこの二年半で、これ程彼女と共に長く時間を過ごしたのは初めてだったが、近付けば近付く程に違う事を発見するというのは奇妙で、そして少しばかり愉快だった。
……同時に、自分がどう足掻いても解決出来ない類の彼女の問題が、やはり現実として存在するという事も。
ハリー・ポッターから彼女が全ての選択科目を取っている事を聞き、実際にそれが齎す結果をこのように傍で見続け、そして慢性的な意気消沈と疲労困憊の状態に陥っている事を実感しながらも、僕には何も出来なかった。
彼女はグリフィンドールで、故にその治療にはグリフィンドール的な特効薬が必要だった。
そしてスリザリンである僕はそれを持ち合わせていない。それを持ち合わせているのがグリフィンドールの二人である事もまた、論を俟たない。
ただ、だからといって別に僕は落胆もしなかったし、焦りもしなかった。
既に述べたように、全ては時間が解決する事だった。加えてミネルバ・マクゴナガル教授の唯一の欠点であるクィディッチへの熱意を思えば、何としても試合前には調査の結論を間に合わせるだろう事は明らかだった。そして、その時期は直ぐ傍まで迫っている。故にそろそろ終戦だろうという予想を立てるのは、僕としては当然の事だった。
だからこそ、その日、僕は酷い衝撃を受ける羽目になったのだ。
……そして、自分が如何に醜い存在であるかを、直視する羽目にも。
最近になって、ハーマイオニー・グレンジャーは図書室にあまり来ないようになった。そして、僕はそれを良い兆しだと考えていた。
明らかに彼女は友人二人と仲直りをする契機を探しており、会話が交わせない関係性を早く止めたいと考えていた。そして僕は多少名残惜しく感じつつも、そうなる事について異存は無く──当然の事ながら、彼等の関係性が致命的に破綻するような事態というのは全く考えだにしていなかった。
けれども、それは起こってしまった。
リーマス・ルーピン教授から得た許可書を用いて僕が禁書を読みふけっていた時、図書室にはまず似つかわしくない早足の音が僕の耳を打った。その時点で僕は神経質なマダム・ピンスの激昂を予測していたが、それ以上に思う事は無かった。だからこそ、それが僕の方へと近付いて来て、その挙句僕の横で立ち止まるまでは、僕は顔を上げなかった。そして、それが誰の物かに思い当たってからも、半ば気軽な調子で顔を上げた。
そして僕は、顔を上げてしまった事を、一瞬だけであれ後悔した。
ハーマイオニー・グレンジャーが泣いていた。
辛うじて涙を零しては居なかったものの、その栗色の瞳が濡れている事は明らかだった。それは僕の初めて見る表情で、しかしそれはただ単に僕が知らないだけで──恐らくホグワーツでは二度目の筈だった。
彼女は何も言わなかった。ほんの数秒だけ僕の方を見つめ、そしてくるりと踵を返した。
その瞬間に僕の机の上に羊皮紙の切れ端がひらりと舞い、同時に僕が握っていた禁書のページもまた一枚捲れた。そして、少しの距離の間我慢して歩いたものの、とうとう耐え切れなくなった彼女は、図書室の入口へ駆け出していってしまった。
「図書室では走らな──」
マダム・ピンスの怒声が途中で途切れたのは、彼女の表情を見たからだろう。
彼女が何処の机の元から走り去ったか、という点まで見られなかったのは幸運だった。そして、図書室内に居た人間も殆どがそうだったらしい。彼女の凶行と、そして司書の異常に多少ざわめきはしたものの、それで八つ当たりをされてしまっては堪らないと元の静寂へと戻って行く。
けれども、僕の内心まではそうは行かなかった。
机の上に軟着陸した羊皮紙の切れ端。彼女が立ち去る際に残したメッセージを、僕は拾い上げる。
感情のままに切り取ったのだろう。不格好な三角形をした紙片には、良く見知った筆跡によって、ただ一語だけが記載されていた。
「……禁じられた森」
永遠にも感じられる二、三分をじりじりと浪費した後、僕は足早に図書室を出た。
彼女が追い掛けて来て欲しいと僕に伝えた事は明白だった。場所の指定が曖昧で何処に行けば良いのか、或いはあのように傷付いた彼女に対して一体何を言えば良いのか解らずとも、求められたのであれば行かないという選択肢は無かった。
禁じられた森。その中に僕が立ち入った事は、一度として無い。
アルバス・ダンブルドアは必ず新入生に警告し、上級生もまた同様にケンタウロスや狼人間、人食い蜘蛛などが巣食うのだという噂で怖がらせるのが半ば慣習となっている、生徒にとっての禁則地として指定された広大な領域。
森とは古来より、人に対する脅威で有ると共に、人の生存を許す揺籃でも有った。
傷を癒し健康を保つ為の種々の薬草、温かい毛皮や新鮮な肉を提供してくれる獣達、喉を潤す為の清純な湧き水、そして、人を風雨から守る隠れ家の提供地として。
イゾルト・セイア、ないしはイルヴァーモーニーの起源も森に在った。その事を思えば、ホグワーツ内に森が存在する事など何ら驚くに値しない。特に、非魔法族が山と森を切り開く前においては、そのような空間は──自身がホグワーツで学び、そして生かされた経験を実践する為の機会は、日常的に有り触れたもので有った事は容易に推察されるからだ。
しかしながら、その森が禁じられたという事から解るように、その場所はホグワーツ内では既に半ば役割を喪っていたと言っていい。
今の世の中、食物や薬品を求めるのであれば、ダイアゴン横丁に向かえば殆ど全てが手に入る。ホグワーツの四創始者達が、或いはイゾルト・セイアがそうしたように、森の中へ自ら分け入って目的の物を探し出すような必要性は皆無である。無味乾燥な文明化の波は、非魔法界のみならず魔法界にすら訪れているという事らしい。
さりとて、役割を喪失したとしても、機能まで喪失した訳では無いだろう。
そして勿論、その脅威さえも。
寧ろ、森番や一部の教授を除いて殆ど立ち入らなくなったからこそ、人に対して峻厳で苛烈だった原初に近付いている筈である。そしてまた、時折漏れ出る教授の言葉の端々からも、その森が好奇心の代償として容易く死を求めかねない場所である事をひしひしと感じていた。
多くの生徒は学年が上がるにつれて
まして、今の情勢も宜しく無い。
シリウス・ブラックは未だに逃亡を続けており、吸魂鬼が命令に唯々諾々と従う存在ではないというのは、ハリー・ポッターの一件からでも明らかである。如何に誰からも見られたくはないと彼女が考えていても、待ち合わせ場所としては相応しくない。擦れ違う者達に多少怪訝な顔や、引き攣った顔をされたとて、急がないという選択肢は無かった。
だが、校庭に出てしまえば、彼女の危険を過度に心配する必要は無いというのも直ぐに解った。
授業中以外にはまず近付く事が無い、森に近しい校庭の隅にポツンと佇んでいる木で出来た小屋。その前に、眼を凝らさなくても誰か解る程に特徴的な、巨大な人影が有る。
禁じられた森はホグワーツの敷地内に在るが、さりとてそこまで行くには校庭を突っ切っていかねばならず、森に入ろうとする人間が居ればすぐに解り、当然ながらそれを見咎める守護者が居た。というより、それが森番として最も重要な仕事と言えた。そして、その任を務めるのは、言わずもがな半巨人の巨大で強大な存在、ルビウス・ハグリッドその人である。
彼は禁じられた森の方角を厳しい眼で見つめていたが、ふとこちらの方向へ顔を向けた。
そして、少しばかり逡巡する様子を見せた後、顎をしゃくり上げて森の一方向を示した。その先に誰が居るのかは、彼の方へわざわざ近寄ってまで聞く必要は無かった。
初めて立ち入るその森は、まさしく禁じられたと言うに相応しい場所だった。
鬱蒼と空を覆い隠す木々も、複雑に植生が絡み合っている地面も、遠くから心を逆撫でするような獣の鳴き声も、この森は人間を拒絶しているのだという本能的な確信さえも、僕にとって初めて経験する衝撃的な物だった。今まで僕が知っていた森は写真の中の存在でしか無かったというのを差し引いたとしても、禁じられた森というのは異界であり、魔界であった。
さりとてこの森の中で最も衝撃的で刺激的である存在が、ふわふわとした栗毛の彼女であるという事も、やはり最初から解り切っていた。
端も端、入口も入口で有りながら尚、僕を圧倒した森の中で、彼女をどう探せば良いのか多少不安では有った。
しかし、探すまでも無かった。元より彼女は森自体に用事は無かったのだから、奥まで立ち入る筈も無いのは冷静に考えれば当たり前の事だった。強いて言えば、ほんの数メートル立ち入っただけで、それが僕に飛び込んで来るというのは、考えだにしなかったと言って良い。
ただ、その勢いが少しばかり強過ぎたせいで、半ば押し倒されるように木の根元を背にして座り込む羽目になったのは、少々恰好が付かなかった。というか、強かに腰をぶつけてそれなりに痛かった。
けれども、その温かい重みを前にして──酷く傷付いている者に対して、そのような泣き言を漏らせはしなかった。
「……ごめんなさい、ステファン。ごめんなさい」
「……いや、良いさ」
果たしてそれ以外の何と言葉を返せようか。
涙をボロボロと零し、酷くしゃくり上げながら、枯れた声で謝罪を繰り返す彼女に対して。
何に向けられた謝罪なのかは定かでは無い。ここに僕を呼んだ事か、或いは泣くしか出来ない自分についての事なのか、もしくは僕の知り得ない理由に基づくものなのか。ただ今の僕に出来るのは、自分のローブで彼女を包み込むように抱きしめてやり、また宥めるようにその背中を撫でてやる事だけだった。
予想に反して不思議と僕の鼓動は落ち着いていた。
それは彼女が悲しみにくれ、打ちのめされ、誰かに縋りつかないとやってられない事が明らかだったからかもしれない。図書室で見た時から解っていたとは言え、こうして彼女の小さな身体が僕の腕にすっぽりと収まっていると、その事を余計に実感させられるものだった。
彼女がある程度泣き止み、一応の落ち着きを見せるまで、結構な時間を費やした。
未だに春の兆しを見せない大気は冷え冷えとしており、しかしそれを打ち消すかのように彼女の身体は熱かった。そして、彼女は僕の胸元から顔を上げはすれど、離れる事はしなかった。抱き着いた体勢のままに、彼女は今日起こった事を──憐れな鼠の事件について語った。
「──ステファン。貴方はどう思う?」
「…………」
祈るように紡がれた彼女の問いに、僕はすぐさま答えられなかった。
話を聞いて抱いた感想など決まりきった話だった。
そのような
故に僕が敢えて口に出さずとも、ハーマイオニー・グレンジャーにはその思考が伝わったのだろう。
彼女は絶望的な表情をして、その瞳から更に大粒の涙を浮かべ──
「……入学時に来た許可証の内容を、覚えているか?」
「……え?」
──それが零れ落ちる前に何とか、そのような言葉を僕は紡ぐ事が出来た。
「二年前の事だ。君が覚えているかどうか解らないが、その時に指定教科書の一覧と一緒に書いて有った記述を、僕は未だに記憶している」
僕の方を見上げる濡れた視線は、困惑に揺れている。
聡明な彼女をして尚、僕がそのような事を言い出した理由が全くもって理解出来ないのだいう反応が、彼女の表情にはありありと現れていた。
……まあ、僕とて正気ではこのような事を言い出したりもしない。正直言って、何を言って良いか解らないからこそ出て来た発言でも有った。
けれども、僕は彼女を慰める事が出来るような気の利いた言葉は依然として浮かばなかったし、その手段について学んだ事も無かった。だからこそ、一度口にしてしまった以上、僕はそれが正しいかどうかを検証する事も出来ず、最後まで紡ぐしかなかった。
「そこにはこう書かれて有った。『ふくろう、または猫、またはヒキガエルを持ってきてもよい。』と。つまり、許可証には鼠が羅列されておらず、その記載自体を素直に解釈する限り、ロナルド・ウィーズリーが鼠を持ち込む行為は校則違反だ」
彼女は何を言われたのか解らないように、一瞬ポカンと口を開けた。
しかし、時間と共にその内容を正確に理解するにつれ、彼女の表情は段々と崩れて行き──そして最後にはクスクスと笑い出した。
「ふふふ、真剣な顔をして貴方が一体何を言い出すのかと思ったら、まさかそんな事だなんて。……でもね、ステファン」
幼い子供に言い聞かせるような口調で、彼女は優しく僕に告げた。
「持って来て良いとは書いてあるけど、その他を決して持って来てはいけないと書いては無いでしょう? つまりアレは、新入生が危険なペットを好き勝手に持ち込まない為の措置に過ぎないのよ。何より元は
……まあ、そんな予感はしていた。
スリザリン寮でも、それ以外の生き物を見なかった訳では無いのだから。
ただ、例示に過ぎないならば解るように書くべきだろう。あの表現では、やはり僕が考えたように、それ以外が禁止されているようにも読めてしまう。
「──ああ、おっかしい。貴方がまさかそんな間の抜けた事を言ってのけるなんて。今まで知らなかったけど、貴方には意外と冗談の才能が有るのかも知れないわね」
ハーマイオニー・グレンジャーはクスクス笑いを止める素振りは無かった。愉し気に、その瞳から涙を溢しながら。
そして一頻り笑い終えた後、彼女は再度僕をぎゅっと抱きしめた。
「……本当に、そうだったら良かったのにね」
僕の胸に顔を押し付けながら、彼女は言った。
「いえ、それも八つ当たりだわ。私がもっと注意しておくべきだったのよ。クルックシャンクスが猫で、スキャバースが鼠だというのは解ってたのに」
「……魔法界は規則自体も運用すらも曖昧過ぎる。ペットが共食いしないように注意しろ、という考えは全くもってないらしい」
「貴方らしい言い方ね。でも、世の中ってそういう物じゃないかしら?」
「物事には限度が有るだろう。今までの二年半を見るに、魔法界のそれは度を越し過ぎている」
鼠についてロナルド・ウィーズリーが許可を取ってよういまいが、入学許可書には間違いなく猫は連れて来て良いという保証が──鼠と違って──存在するのだ。
今回はたまたまハーマイオニー・グレンジャーだったが、さりとて彼女以外が猫を連れて来る可能性は存在するのであるし、実際にグリフィンドール寮内には彼女以外を飼い主とする猫が居るのも知れない。つまり、この二年半もの間、潜在的危険は存在し続けていた。
食物連鎖内に先輩後輩という関係性は無く、ただ捕食者被捕食者という関係性のみが有る。
そうであれば、規則を敷く側である大人は生徒達が余計な問題を起こさないように相応の配慮を示すべきであるし、そして飼い主の方も、自身のペットが被捕食者という地位に在る事を認識していたのであれば、やはり細心の注意を払うべきであった。
要するに、僕は彼女の方を一方的に断罪するというつもりは更々無かった。
だがそれでも──無過失だろうが何だろうが、それを殺してしまったのであれば、どちらがより悪いのかというのも明白なのだ。
自然の摂理として、原則的に命は戻らない。
「……もう、駄目なのかしら」
ハーマイオニー・グレンジャーは、震える声でポツリと呟く。
「解ってるわよ。ロンやハリーの言い分の方が正しいだなんて事は。でも、認めちゃったら、二度と取返しが付かないじゃないの。私達の関係が終わっちゃうじゃないの」
悲嘆と後悔に濡れた独白は、誰よりも彼女自身を切り刻んでいる。
「夢見ちゃ駄目なの? スキャバーズが食べられたというのは勘違いで、クルックシャンクスが何も悪い事はしてなくて。そして……そして、また一晩明けて明日になったら、私達が何事も無かったかのように笑い合えてるなんて可能性は」
「……現実逃避をしたとしても、君の問題は何も改善しない」
「……ええ。本当に解っているつもりなのよ、私は」
その語尾が弱々しくなっていく事こそが、彼女の精神状態を表していた。
彼女は酷く打ちのめされていた。荒れ狂う感情の奔流に呑み込まれていた。そして、何よりも疲れ果ててしまっていた。今の彼女にとって学年一の才女としての肩書は何ら役に立たず、彼女は泣き震えるちっぽけな女の子以上の存在では無かった。
そして、僕にとって依然として正答というのは解らない。
僕が知るのは愛すべき母であり、忌々しき父であった。しかも、それらへの対応が決して今ここで求められている訳では無いというのは明らかだった。しかし皮肉な事に、だからこそ僕がやるべきは最初から一つしか無かったのだろう。
「──ハーマイオニー」
「……何?」
「君にとって、ハリー・ポッターとはどういう存在だ?」
赤くなった瞳のまま、彼女は僕の方を見上げていた。
意図を図りかねている。その事は容易に伝わってきた。そして、何処かこちらを責めるような色すらも。彼女は僕がその言葉を発した事に対して、彼女は明らかに気分を害していた。
それも無理はない。僕がそのような、彼等に関する突っ込んだ質問をした事は一度も無い。
ハーマイオニー・グレンジャーがハリー・ポッターの事を、或いはロナルド・ウィーズリーの事を楽し気に語る事を聞き続けてきた。しかし、僕は一度も聞き手で有るのを放棄した事は無かったし、彼女もまたそれを良しとして来た。
「……何で、今、そのような事を聞くの?」
「他ならぬ今こそ、君から聞く必要が有ると感じたからだ」
強いて言えば、理屈では無かった。
僕が確たる解答を持ち合わせていない以上、その答えを探すとしたら、彼女自身の中以外に有り得ない。そのような直感と経験則からの言葉に過ぎず、しかし今まで大半の場合が正しかった。僕にとっての解答の多くは、他ならぬ彼女から発見して来たものだった。
だからこそ、この行為もまた、今までと何ら変わってなど居ない。
「もう一度、君に聞く。ハーマイオニー・グレンジャー。君にとっての友人、ハリー・ポッターはどういう人間だ?」
「……それは」
彼女は暫し視線を迷わせ、そして告げた。
「ハリーは、勇気の有る人よ」
それは、僕からでは無く、彼女から見た〝英雄〟像。
「彼はまあ、ちょっと短気で癇癪持ちな所は有るわ。けれども、何だかんだ言って私を気に掛けてくれる時も有るし、やっぱり勇気が有る人というのが第一に挙がると思う。ハリーは、色々と厄介事に巻き込まれる困った人で、それでも折れたりしない人だから」
彼女は静かに、悲しげなまま、けれども自慢の気持ちを隠し切れずに言う。
「最初に私が彼と会った時、単に〝生き残った男の子〟という称号を運良く得た物と考えていたわ。赤ん坊が邪悪な魔法使いを倒せる訳ないものね。……けれど、やっぱりハリーは違うのよ」
僕にとっても、その思考が有った事は事実である。
そして魔法界の大多数にとっても──ホグワーツの生徒の大部分ですら、その考えは未だに覆されていないだろう。彼を知らなければ、そう考えるのが真っ当だ。心の何処かで彼が〝聖なる力〟を有している事を希望していても、最後の最後には冷静な理性の働きを止める事は出来ない。彼が幸運を掴んだだけの凡人である事を信じたくなってしまう。
しかし、時に現実は想像を凌駕する。
「賢者の石もそう。秘密の部屋だってそう。そのいずれも最後に〝例のあの人〟と対面し、ハリーはそして打ち勝って来た。彼は間違いなく、選ばれた人間よ。でも、彼はそれで驕ったりなんてしなかったわ。寧ろ、私に助けを求めてくれたり、尊重してくれたりした。そして、勇気の振るい方を間違えたりもしなかった」
その言葉に多少の美化が掛かっている事は事実だったが、さりとて完全に否定出来る物でも無かった。
ハリー・ポッターには、間違いなく〝英雄〟の才能が有る。
「だから、私は彼の友人で有る事を……誇りに思うとは少し違うかもしれないけど。それでも彼が胸を張れるような友人で在りたいと思ってる」
アルバス・ダンブルドアが、何処まで見通していたのか解らない。
それを意図してダーズリー家に預けたのか。それとも全く偶然に形成されたのか。
いずれにせよ、ハリー・ポッターのその在り方に、ハーマイオニー・グレンジャーは強い刺激を受けて来た。幼少時から傑出性を示し続けてきた彼女は、自分が絶対に敵わないと思えるような存在に初めて遭遇し、だからこそ彼に対して彼女は一種の敬意を払い、親愛の情を示そうとしてきたのだった。
……けれども、僕が真に聞きたいのは、彼の事では無かった。
物語の主役として運命付けられたような存在は──しかし、少なくとも今この瞬間は、次の話題に移る為の単なる前座に過ぎなかった。
「では、君のもう一人の友人、ロナルド・ウィーズリーはどうだ?」
「…………」
話の流れからしても、それを問われる事は解っていたのだろう。
だが、それでも彼女は言葉を直ぐに返す事は出来なかった。俯き、唇を噛み、答えたくないというように首を嫌々と横に振った。ふわふわとした茶色の髪が、宙に舞い、そして力無く重力へ引かれた。
けれども、僕は辛抱強く待った。彼女がこちらを睨んできても、静かにその眼を見返した。
それが暫く続いた後、僕がどうやっても引き下がる事が無いのは理解出来たのだろう。彼女は観念したように口を開いた。
「……ロンは、嫌な人だわ」
その強い言葉は、寒々とした森の中で、静かに染み渡った。
「出会った時からそうだったわ。ハロウィンの時もそう。私の事を人前で中傷して、何ら悪びれなかった。あの時程、私が惨めさを感じた事は無かった」
「…………」
「彼は自分の能力に対して卑屈で、口では威勢の良い事を言うのにそれが現実化してくると臆病になって、ハリーや自分の兄弟に対する劣等感と嫉妬心に満ちていて、けれども自らそれを改善しようとしなくて、空気を読まない冗談をこれ見よがしに言う人で、そして、凄い皮肉屋なの。彼は、私が一番嫌に思って居る部分を、本当に的確に突いてくる」
その言葉は罵詈雑言に満ちていて──されど、その表情は、内容からは程遠く。
「気が合わないって思った事なんて何度も有る。今回みたいな大喧嘩までは行かなくとも、呪文を掛けてやりたいと思った事すら有るわ。そして、そして……」
「──でも、君にとって最も大切な友人なんだろう?」
ハーマイオニー・グレンジャーは答えず、僕の胸へ顔を埋めた。
けれども、触れあっている所から、答えが伝わってくる気がした。
「……君が選択科目を全て取っている事は、ハリー・ポッターから聞いて知った」
彼女がこうなっている一つの要因、そして時間が解決するのだとして僕が触れなかった彼女の秘密を、僕は口にする。
「……貴方にしては、随分と気付いてくれるのが遅かったみたいね」
「そうだな。それは否定しない」
彼女の口振りからすれば、僕に対して少しばかりのヒントを出していたようだった。
或いは、シグナルと表現すべきだろうか。何れの意図が有ったにせよ、彼女は共に居るが故に気付くであろう友人二人と違い、異常に気付かない事が至極当然と言える僕に対して自身の状況を伝える気持ちが有り──しかし、僕は見逃してしまった。
今、彼女との会話を思い返してみれば、それらしい言葉は確かに存在していた事に気付く。けれども、今掘り返した所で、何の意味をも持ちはしない。
それを見透かしたような少しばかりの落胆の声色と共に、彼女は僕に対して問うた。
彼女がその眼を泣き腫らしていても尚、その眼の下に浮かんだ隈の印象は薄れるどころか、寧ろ逆に強く意識させていた。
「私がどんな手段を使っているか、貴方には解る?」
「……いや」
ハリー・ポッターとの会話以降も、幾度か考えてはした。調べもした。けれども、確たる答え、適切な答えというのは──推量する材料が酷く乏しい事を差し引いたとしても──やはり浮かび上がって来なかった。
そして、そんな僕が余程面白かったのか、彼女は赤い眼のままに口元を綻ばせた。
「ふふ。貴方にもそのように解らないと言える事が有るのね。てっきり貴方の事だから、全て御見通しなのだと思ってたわ」
「……僕はアルバス・ダンブルドアでは無い」
「そこで校長先生を引き合いに出す事が貴方らしいわ。あの方よりも賢い人間なんて、この世界の中で探す方が難しいでしょうに」
それは否定出来ないが、さりとて賢い事が常に正しく在る事を意味しない。
そして、僕は今正しく在れるのであれば、己の賢さなど放棄して良い位だった。
「でも、少し残念だわ。私は誰にも言ってはいけないと口止めされたけど、相手が知っていれば全く別の話だった筈だから。まあちょっとルール違反な気がしない訳では無いけど」
「────」
ハーマイオニー・グレンジャーは自嘲するように口を歪めた。
「ハリー達が、そして貴方が勘付いている通り、私は同時に授業へ出席する為の特別措置を受けさせて貰ってる。それも、物凄い魔法よ。今後一生で、そのような機会が無いと思う位に、貴重な物。それで私は、選択科目の全科目を受ける事が出来ている」
「……それは、君にとって必要な事なのか?」
「ええ。間違いなく、私にとって必要なの」
何の逡巡も無く、迷いすら見せずに、彼女は僕へと答えた。
「私は学ぶ事が好き。知る事が好き。そしてまあ……やっぱり知識をひけらかす事も好きだわ。ただ、私はそうしたいと思っている以上に、多分それが必要だと強く考えている。賢く取捨選択出来る貴方には理解出来ないかもしれないけど──それが私なのよ」
「…………」
彼女は図抜けた勉学の才能を有しており、しかしそれは完璧主義を助長する。
普通の人間であれば何処かで挫折し、妥協してしまう筈が、少なくとも学業の範囲において彼女はそれが出来てしまうが故に、止まらないで居られる。自分で解っていても、それが止められず、その正しさを信仰してしまっている。
「貴方は、私とロン、そしてハリーが一番最初に仲良くなった時の事を知っているでしょ?」
「……ああ」
彼女自身から幾度も聞いた。その瞬間の事を、輝かしい笑顔と共に。
ウィンガーディアム・レヴィオーサ。一年で習得するような、簡単な呪文。
それをもって、ハリー・ポッター達は、否、ハリー・ポッターとロナルド・ウィーズリーは、ホグワーツに迷い込んだトロールを協力して撃退してみせた。
トロールと一口に言っても──つまり、M.O.M.分類でXXXXという同じ枠組みの内で有っても、程度の差というのは存在する。特定の場所の警護を行う事が出来る程のまだ言葉の通じる相手も居れば、彼が撃退したように多少の機転を利かせるだけで圧倒しうるような愚劣な者も居る。
しかしそれでも、種族として平均三メートル六十センチを超え、体重は一トンにも達するとされる、その脳の小ささに反比例する程の暴力的で破壊的な魔法生物は、やはりホグワーツ一年生が容易く対応できるものでも無いのだ。
故にその偉業は彼等の並外れた勇気と努力を示すものであり──
「始まりは、ウィンガーディアム・レヴィオーサだったのよ」
──当時の時点で友人に余計な御節介を焼く事が出来た優等生の功績でも有った。
「アレが無かったら、私達は死んでいたわ。ハリーがトロールに飛びついても、あの生き物は止まらなかった。そして、私はただ恐ろしくて、床に座り込んでいる事しか出来なかった。ロンが私の言葉を覚えてくれていたから、私達は今も生きていられている」
そうとは限らない。
ロナルド・ウィーズリーとて魔法族だし、彼女達もまたそうだ。
彼等は当然に子供の頃に魔法を意図せぬ形で発動した事は有るだろう。杖を使う魔法は便利で有るが、時として咄嗟に発動した魔法が、その精緻で制御された──けれども余計な不純の混ざった──魔法を凌駕するという事も有る。
……しかし。
「あの魔法の事が無かったら、私達は仲良くなれなかったのよ」
その事は、絶対に否定し得ない事実でも有った。
彼女は知識のひけらかしが好きで、要らぬ御節介焼きで、その気質が彼女達の最初の対立を招いたとしても、それでもウィンガーディアム・レヴィオーサは、彼女にとって、三人組が仲良くなる為の魔法だった。
魔法界に来て学んだ如何なる魔法よりも、彼女にとってその呪文こそが、自身の世界を変えた大いなる〝魔法〟に他ならなかった。
「私は知らないわ、ただ学ぶ事しか。賢者の石の時だって、秘密の部屋の時だってそう。私は彼等の役に立てたから、一緒に居させて貰ってる。……解ってるわよ、何度も噂されもしたわよ。男二人の中で親しくやっているのが、女子として変じゃないかって」
それが揶揄い混じりで言われたのか、或いは本気で言われたのかは、グリフィンドール寮の内部を知らない僕には解らない。
けれども、彼等が百五十点を引かれた際に〝生き残った男の子〟にすら
彼等にとっては同じ集団に帰属するか否かが重要であり、自分達の足並みを露骨に乱すようなはみ出し者は、スリザリン以上の苛烈な処遇を求める傾向が存在している。
それを考えれば、 彼女は掛け替えのない親友達を得た二年前のハロウィーンの時からも、依然として異端のままに変わっていないのかもしれなかった。
「だから私は誰よりも学ぶの。知らないのが怖い。間違ってるのが怖い。役に立てないのが怖いし、失望されるのが怖い。今でも私は全く足りなくて──」
「けれども、ロナルド・ウィーズリーは君にそうする事を求めているのか?」
「────」
無理矢理に差し挟んだ言葉に、彼女は胸を刺されたかのような表情をして黙り込んだ。
「ハリー・ポッターの事は、今は置いておこう。君の知識と叡智が彼にとって役立っているのは事実だが、しかし彼は〝生き残った男の子〟という一言では言い表せない位に、色々と厄介で特殊な事情が有り過ぎる」
このような場合に例外を除外するというのは余り好きでは無いが、あのような〝英雄〟を標準値として語ってしまえば話が可笑しくなるのは明白だった。
「だから、ロナルド・ウィーズリーだ。君の純朴にして率直な友人は、君を便利な物知り事典扱いしているか? 君が学年一の優等生である事を求めて居るか? 寧ろ、君のそのような部分とは全く違う所に君の美点を見出し、二年もの間君と一緒に居るのでは無いのか?」
「…………」
「君は、先程盛大に彼を扱き下ろした。容赦なく、酷く貶めすらした。……けれども君は、彼の良い所もハリー・ポッターと同じように、否、それ以上に知っている筈だ」
言葉こそが、全て真実を語るとは限らない。
「……何でそう断言出来るの? ロンは貴方と全く交流が無いし、私は貴方の前でロンの事を殆ど話したりしないというのに」
「確かに君は僕の事を気にして彼の事を余り語らないが」
彼女の言葉を、僕は軽く息を吐きながら認める。
「それでも君をこの二年半もの間ずっと見て来た。君の楽し気な言葉の裏側には、確かに彼の存在が見え隠れしていた事位は理解出来ていたつもりだ」
語らなくても、伝わるという事は有るものだ。
彼女にとってのロナルド・ウィーズリーが、そのような存在だった。
……もう幾度、僕は仮定の物語を──彼等と共に居る光景を想像しようとしただろう。
けれども、既に最近は、その妄想自体を辞めていた。彼等三人組は、一つとして完成されていた。僕が入り込む余地は無かった。どんな設定を造ろうとも、僕が彼等の輪の中に居るというのは違和感でしか無く、それは正しく無かった。
彼女は、あの二人と一緒に居る事こそが〝正しい〟筈だった。
「君は聡明で、気高く、優しく思い遣りが有って、素晴らしく魅力的な女性だ」
「……貴方は二年前も、そう言ってくれたわね」
「今もそう思っている。君が素直になれなくて、己の醜さに自己嫌悪し、僕のような人間に縋りつくような弱さを見せている今も、同様に。少しばかり寄り道して、少しばかり間違えても、君は最後には正しい道を選ぶのだと信じている」
僕に対して吐露した全ての言葉が、まるきり彼女の本心だとは思えない。
ただ単に心が弱り切っているから、少しばかり捻くれた物の見方しか出来なくなっているだけだ。彼女を取り巻く世界は、そんなに厳しくも無いだろう。そして、落ち着きさえすれば、彼女は僕と違って見誤らないで済む筈だ。
「……貴方が」
ハーマイオニー・グレンジャーは、小さくしゃくり上げながら呟く。
「やっぱり、貴方がグリフィンドールだったら良かったのに」
「……僕はスリザリンだ。君の傍には居続けられない」
とはいえ、一年の時よりもその反論の声が小さくなった事は自覚していた。
未だに僕は、自身が居るべき場所をそこだと定義している。けれども、一年の学年末にアルバス・ダンブルドアに加点され、二年のスリザリンの継承者騒ぎを経て、三年のまね妖怪の顛末だ。リーマス・ルーピン教授が指摘したように、僕は果たして〝スリザリン〟で在れているのか、そもそもそうする事が正しいのか解らなくなってきたような気がしていた。
けれども、一年前と変わらず確かな事が有る。
それは、少なくとも僕の居るべきはグリフィンドールで無いという事だ。
……ただ。
「それでも、君が耐えられないと感じた時は、君の友人二人が受け止められないような事態が生じた時くらいは、少しばかり寄り添って、悩みを聞く事は出来る。そこに寮の垣根というのは、恐らくは存在しない筈だ」
「……私が言っているのは、そういう事じゃないのよ」
僕の言葉に、けれども、彼女は何故か弱々しく言葉を返した。
彼女がその中に籠めた意図を、僕は感じ取る事が出来なかった。せめて顔を上げてくれれば何かを感じ取れたかもしれなかったが、彼女は僕の胸の中に再度しっかりと抱き着いたまま、何も答えてくれなかった。
「ねえ……ステファン」
暫くの静寂の後、薄く儚い声色で、彼女は問う。
泣き疲れたのか、その言葉には抗いがたい眠気が滲んでいる。そして、それに自らを委ねるように、彼女は本心からの問いを僕へと投げ掛けた。
「貴方は、私にハリーやロンの事について聞いたわね。なら、貴方のほうは? 貴方にとって、私は、一体何なのかしら……?」
微妙に舌ったらずで、消えて行きそうな問いに、僕は答えた。
「ならば、君にとっての僕というのは、一体何なのだろうか」
卑怯な切り返しだった。
しかし、彼女もまた卑怯だった。
僕の問いに対し、彼女はもごもごと確かな答えを告げていた。恐らくは、夢の中でそれを答えている筈だった。勿論、夢の住人では無い僕には届かない。
けれども──彼女の中には既に答えが有り、そしていずれ口にされるであろうという事だけは解った。それを聞いて、僕がどう反応するだろうかというのは、勿論自分でも想像だに出来なかったが。
……僕にとって、彼女がどういう存在であるか。それは疑う余地が無い程に明白である。
母の死を契機に意味を喪った僕にとって、彼女こそが指針であり基準であった。ホグワーツに通う事を決めたのも、彼女の傍に居たいと感じたが故であり、それが絶対的に叶わないと知った後も尚、彼女の存在こそが慰めであり、支えであると言えた。
だが、一方で僕達の関係性について答えるのは、それは余りに難し過ぎた。
僕が彼女に好意を抱いているのは間違いないが、しかし、あの熱に浮かされたような一か月から二年も時間が過ぎて落ち着いた中で、僕が彼女とどういう関係で有りたいと考えているのかは自分自身ですら解らなかった。そして、彼女は、僕に対してどう在って欲しいのかという事を、今まで一度も言ってくれた事は無かった。
だからこそ、相応しい表現は、ただの一言しか見つからなかった。
──解らない、と。
ただ、それでも。
彼女の髪をかき上げながら、聞こえないと解っていても、僕は彼女に告げた。
「君の事が大切だという事は間違いない」
それだけは、恐らく一生変わる事は無いだろうというのは断言出来る。