結局、オタクはなぜ「聖地巡礼」するのか? ~断絶と合一、遍在と次元のくさび、無限精度の射影について~
はじめに
(オタク的な)聖地巡礼とは、キャラクターの不在をわざわざ確認しに行くというマゾヒスティックな行為である
このような意見はいまやネット上に溢れてやまない。というか筆者自身も、つい一か月前まではこうした単純明快な論理に(まったく言い訳出来ないレベルで)絆されていた。
聖地巡礼というのはキャラクターの不在確認という一種の自傷行為であって、ここにいる〈わたし〉とここに “いるはずの” 〈あなた〉との間に横たわる黒く大きな壁の正体を、他のあらゆる関係項を揃えることでかえって鮮明にし、その距離の無限性を再確認するという作業ですからね。
— 夏日☀️ (@Natsu_main) April 26, 2025
この議論は「聖地巡礼自傷行為論」としては一種の極致にまで至っている(と信じている)ものの、一部のオタクの賛同を得られなかった(今思えば当然である)。
私が受け取った(あるいは観測した)主な反論には以下のようなものがある(原文を僅かに改変している)。
私はむしろ、キャラクターに会いに行っている。現地まで赴いて存在に思いを馳せるのが楽しいのだ。
「自分の愛するフィクションの世界が、この現実世界と確かに連関していること」の証明として捉えている。
作中世界の画面に映らない部分に思いを馳せたり、あるいは作中人物と(住んでいる世界の違いを超えて)体験を共有したりできる。壁の向こう側の実在を確かめ、我々とリンクする行為だと思っている。
むしろ、物語の世界を補強するための道具として使っている。
私にとっての聖地巡礼は、二次元でしか会えない存在に四次元を超えて邂逅するための儀式である。 自傷行為ではなく、祈りだ。
聖地巡礼はさらにキャラクターへの没入感を深めるための経験だ。
いずれも説得力のある意見のように思われる。こうした意見をも包括する聖地巡礼論が必要であると筆者は強く確信した。そこで以下では、「断絶と合一の表裏一体性」という観点からオタクの聖地巡礼を分析する試論を提出したいと思う。
オタクは「聖地」で何をするか?
この記事を認めようと考え始めていた頃、あるツイートが私のタイムラインを流れていった。
中二恋2期の聖地、瀬田川大橋
— 落ちか (@8931_kakemasune) May 29, 2025
虚空に向かって手を伸ばす異常者を通勤通学中の人達は白い目で見ていた pic.twitter.com/Lp5FQWLzBq
唐橋公園 pic.twitter.com/dXOalEeqrA
— 落ちか (@8931_kakemasune) May 29, 2025
京阪石山駅 pic.twitter.com/aBgsFaT3uC
— 落ちか (@8931_kakemasune) May 30, 2025
(本人から掲載許可を得ています)
このツイート群からは、オタクの聖地巡礼における典型的な行動が詰まっている。一つ一つ分析していこう。
① なるべく、画角や状況を揃える
特に 2 つ目、3 つ目のツイートに顕著であるが、オタクの聖地巡礼においては、アニメ等における実際のシーンを参照して偏執的なまでに画角等を揃えようとするという傾向がある。特に 3 つ目に至っては、わざわざ列車が停車するのを待って撮影したとすら思われる(追記:本人曰くこれは間違いで、列車から降りてサッと撮ったらしい。それにしては画角が決まりすぎていると思ってこのように判断したんですが、単純に写真が上手いだけだった)。オタクをここまで動機づけるものは何なのだろうか。
詳細は一度保留させた欲しいが、そこでは、そもそも次元が異なるアニメの世界に接近しようとする中で、せめて制御可能なあらゆる関係項を揃えようという動機が働いているのではないか。
ここで、「けいおん!」の最も主たる聖地である豊郷小学校旧校舎の事例について取り上げたい。
まずは以下の画像を見てほしい。
これは、豊郷小旧校舎において「音楽室」のモデルと目されている部屋の様子である。ここで何が起きているのか。有志によって、ティーセットが整備されているのである!
これは大変重要なことである。極力「本物」に揃えるという力学がここでも働いている。これによって、より深い没入が可能になっている。オタクはこうした御膳立てを見て、気恥ずかしそうにしながらもその椅子に座らずにはいられないわけだが、それについては次項に譲ることにしよう。
② キャラクターの真似をする
先ほどの一つ目のツイートを再掲しよう。
中二恋2期の聖地、瀬田川大橋
— 落ちか (@8931_kakemasune) May 29, 2025
虚空に向かって手を伸ばす異常者を通勤通学中の人達は白い目で見ていた pic.twitter.com/Lp5FQWLzBq
この行為の特徴は一目瞭然である。画角を揃えたうえでさらに一歩踏み込んで、キャラクターと同じポーズを取っている。こうした行為によって彼が小鳥遊六花(ないし富樫勇太)の人格に没入しようとしていたことは明らかである。
かく言う私も、知人のオタクに連れられて同様の「巡礼」に付き合ったことがある(というか、先ほどの豊郷小を訪れたのと同じ旅行中でのことである)。そこで私は、「不在確認派」のオタク(当時)として撮影役に徹しながらも、以下のような写真を撮ったのである。
このようにポーズまで揃える偏執性において如何なる力学が働いているのかについての説明は、次章を待たねばならない。
③ 何をするでもなく、ただそこにいる("浸る")
オタクが「聖地」を訪れたとき、何物かに「圧倒」されて、黙りこくってしまうことがある。これは間違いなく、作品世界の幻影を底に見出して圧倒されるからであろう。
私自身も、なぜかオタクたちと共に府中から多摩市のゆうひが丘に赴いた際(米軍施設に沿った明らかに歩行者向きでない道路をひたすら歩いたのである)、様々な作品世界の(ゆうひが丘はリコリス・リコイル、シャニマス、ウマ娘等様々な作品において登場する。ここで私はまちカドまぞくも想起していた)情景が想起され、それに圧倒されてしまったのである。
これについても後ほど検討したい。
距離の両義性による不在確認論の発展
さて、前提の確認が長くなったが、本章からオタクを突き動かすものの正体について探っていこう。
ここで改めて、「不在確認論」の論理を確認しておこう。
ここにいる〈わたし〉(すなわち、三次元に居るオタク)とここに “いるはずの” 〈あなた〉(すなわち、二次元のキャラクター)との間に横たわる黒く大きな壁(すなわち、次元の壁)の正体を、他のあらゆる関係項を揃えることでかえって鮮明にし、その距離の無限性を再確認するという作業なのである。
その無限性に却ってオタクは惹かれ、それゆえに聖地巡礼を行うのである。これは極めてマゾヒスティックな行為だ。
実は、ここにほんの少し改良を加えるだけでこの理論は極めて有効なものになる。
重要なのは、「究極の断絶は究極の合一である」という観点である。これについては納得がいかない方も多いと思うので、具体例に即して説明しよう。
我々はオタクなのであるから、せっかくならアニメの事例でもって解説しよう。「さくら荘のペットな彼女」における三鷹仁と上井草美咲の例を引いてみる。簡単に説明すれば、彼らは幼馴染であり、日常的にもさくら荘の同居人としてかなり近しい関係の中で関わりあっているのだが、その近さゆえに三鷹仁は上井草美咲との才能的な面での断絶を痛感し、葛藤することになる。そのことは第3話のタイトル「近すぎて遠い…」に最も顕著に表れている。
「近すぎて遠い」――こうした「距離の両義性」は往々にして現れるものだ。そしてその究極形として「無限遠にしてゼロ距離」という感覚を想定することに異論はないだろう。
さて、それではこうした極限的な状況がオタクの聖地巡礼においていつ生じるのかと言えば、それはほとんど全ての関係項が作品世界のそれと一致したときである。これが満たされるとき、オタクは奇妙な感覚に襲われる(これは、キャラクターの真似をするか否かに拠らない)。断絶にして合一、無限遠にしてゼロ距離の、曖昧性と究極性を帯びた境地に至るのである。
すなわち、オタクは「極限まで関係項を揃えることで、『無限に遠く無限に近い』ものとして作品世界に出会う」のである。これは例に挙げたツイートにも、また「けいおん!」聖地の事例にも共通して見られることである。この両義性は言語によって説明するのが極めて難しい。また、その曖昧性のために因果関係が容易に転倒する。それゆえに、「断絶」の方を重んずる論理と「合一」の方を重んずる論理が一見対立するのであるが、その根源にある感覚は全くもって同一なものなのである。
映像と無限精度の射影
あるいは、こういった言い方をしてもいいだろう。すなわち、「聖地巡礼におけるオタクの本願とは、自らの三次元的肉体および周囲の三次元空間を、アニメにおける二次元空間に投射(=射影)することだ」というのである。
そして、そこで求められるのが、「できる限り『本物』に近い画角で、できる限り『本物』に近いものを撮る/見る」ということなのである(その意味でこの投射とは視覚に対する二次元投射と言うこともできる。)。それこそが偏執的なまでの画角・状況へのこだわり、そして「同じポーズ」を取るということの理由なのである。これによって、映像は無限に「本物」に漸近する。これこそが私の主張する「無限精度の射影」に対する欲望説である。以下の図を見てほしい。
これはそもそも遍く映像作品全般に当てはまることでもあるのだが、アニメ作品は二次元的である。二次元的であるものを三次元的に「正確に」観測するのは不可能と言っていい。なぜなら、二次元的な面は三次元空間からすれば無限に細いものであるからだ。「四次元人」が我々の世界に来られないのと同じことである。これは単に分かりやすく「次元の壁」と言っても良いが、投射という考えの説明のためにこのようなまどろっこしい説明をした。
そして、無限に細いものに対する欲望というのは、到達不可能性としての無限に対する欲望と言い換えても良い。すなわち人間は、根源的に無限性とその行き着く先である「無限遠とゼロ」の共存感覚を知っていて、「断絶的合一」あるいは「合一的断絶」を目がけて聖地を訪れずにはいられないのだ。(すなわち、筆者はこの特殊な感覚に対する欲望をアプリオリなものと考えているのだが、それを論証する術を持ち合わせていないうえに、本題からは逸れてしまうのでここではひとまず措くことにする)
このような考え方に基づくと、「キャラクターの真似/キャラクターへの没入」という行為も説明できる。すなわち、あらゆる関係項を揃えることでかの両義的感覚に至ったオタクは、その最後のピースとして「オタク自身」を用いるか否かという選択に迫られる。「合一」を重んずるオタクは当然それによって完全な合一に至るし、「断絶」を重んずるオタクはそれを拒み、無限の断絶に思いを馳せるのである(これは正しくマゾヒスティックである)。
遍在する世界と次元のくさび
これまでの説明で、「断絶派」と「合一派」の見解の相違について一定の説明を付けることはできたように思う。しかし、まだ説明できていないことがある。
それは一つにはオタクが「浸って」しまう理由であり、もう一つには「物語世界を強化するために……」と主張するオタクの問題である。しかし私見では、これら二つは同一の理論によって説明可能である。
ここで、一番最初に挙げた私にツイートに対する引用のうち極めて重要な指摘をしている二つのツイートを紹介しよう。
私にとっての聖地巡礼は、二次元でしか会えない存在に四次元を超えて邂逅するための儀式なんだよね。
沼津に行くたびに色々な場所にAqoursはいて、ラブライブサンシャインで見た景色が生きていて、Aqoursが沼津に生きているのを感じるけど、本人は存在しない
(これらについては許可を取っていないため、取り下げてほしいという要望があれば削除します)
特に後者が重要である。すなわち、彼は「物語世界は遍在しておりそれを実感することもできるが、遍在するがゆえにキャラクターたちはどこにもいない」ということを言っているのである。
物語の要素は三次元空間上に散逸、点在(遍在)している。しかしそれゆえに、投射先の平面をなすものは自分の頭の中にしか立ち現れないことを強く認識するのである(これは一つ一つの要素を対象化する議論とは一線を画すもので、読者におかれても区別されたい)。
しかし、ここで指摘しておきたいことがある。それは、以下のようにしてそれらの要素を単一の点(ないし平面)、つまり脳内に存在する作品世界に結び付けることができる、ということである。これが私の主張する「次元のくさび」である。
ここで一つ個人的な経験を述べよう。先ほど例に挙げた「ゆうひが丘」は多摩市にあり、多摩市というのは「まちカドまぞく」の聖地であるとされている(実際、作品世界に登場するのは「多魔市」の「せいいき桜ケ丘」である)のだが、実際多摩市に行ってみると「まちカドまぞく」の世界観に適合するような景色はほとんど見られない。聖蹟桜ヶ丘駅前のいかにも都会っぽい外見は「せいいき桜ケ丘」のいかにも緩そうな雰囲気とはそぐわない。実際のところ、作品世界における街自体のモデルは別の都市であるとされている。しかしそれでもなおまちカドまぞくのオタク(自分を含む)は多摩市を訪れ、そして先に述べたように「絶句」し「浸る」のである。
すなわち、この意味における聖地巡礼とは「無限精度の射影」を伴わないものであり、むしろ本質的に脆弱な想像上の作品世界と数々の要素(それは「せいいき桜ケ丘」のように単に名前であってもいい)とを「次元のくさび」によって結びつけることで、脳内の世界を固定し強化する事ができるということに主眼が置かれているのである。
そして、それが果たされたときにもまた、「距離の両義性」が姿を現し、次元を超克した断絶的合一、合一的断絶が体験されるのである(「四次元を超えて邂逅するための儀式」!)。その体験の認識論的巨大さ・複雑怪奇さこそ、オタクを「浸らせる」最大の要因なのである。
以上で、本論で主張したかったことは尽くされた。はじめに挙げた「不在確認論」に対する反論についても、議論は十分にできたのではないかと感じている。
結論
聖地巡礼におけるオタクの本願とは、三次元世界の一つのレイヤーとして存在しながらも観測不可能な二次元の作品世界に対して「無限精度の射影」を落とすことである。
それが、あらゆる関係項を偏執的なまでに揃えようとする態度として表れている。
そしてその関係項の最後のピースとして「オタク自身」が浮上した際、オタクは実際にキャラクターの行為を真似ると真似ざるとに拘らず、二次元世界との距離は「無限であると同時にゼロ」であるようなものとして立ち現れてくる。
そこにおいては因果関係が曖昧化し、容易に転倒しうる。それこそが、「断絶(不在)を以って合一(存在)を確認する」と「合一(存在)を以って断絶(不在)を確認する」という一見対立する態度の正体である。
聖地巡礼によって物語世界が補強される(ここでは関係項を揃えることは前提されていない!)のは、三次元空間上に遍在する「どこにでもいて、どこにでもいない」キャラクターたちの姿にくさびを打ち込み、想像における物語世界を安定化させることが出来るからである(ここにポスト構造主義的な解釈を加えられるようにも思うがそれは本論の趣旨ではない)。
その過程において、よりリアリティを帯びたものとして作品世界が立ち現れ、オタクはそれに圧倒されて絶句するのである。
思ったことを思うままに書き連ねたので、様々な反論が考えられると思う。ぜひこの記事を拡散しつつ批判的に応答してほしい。皆さんの多様なご意見をお待ちしております。
受けた指摘に対する応答
圧倒されて絶句したオタクが、その先でどう祈り救われるのか、あるいは絶望するのか
二次元的なものと三次元的なものが接続するにあたってのエネルギーに圧倒されているだけ、と考えれば、全体としては作品世界が安定化する方に向かっているわけですから、ここに「絶望」という選択肢は普通に考えれば見て取りづらいと思います。しかし、ここにも「断絶と合一の表裏一体性」の議論を持ち込むことができると考えています。つまり、安定化してポテンシャルを失った自分の想像世界に対して絶望することはあり得るのではないか、と。しかし、そうだとすれば聖地巡礼の動機付けが危うくなります。やはり両義性の下で捉えるのが肝要だと思いますが、ここら辺は上手く理論化できていないです。すみません。
もっと純粋に「友達んちに行く」とか「友達のいいって言ってた店に行く」とかのが近い感覚でもある
全くない視点でした。こうしたところに極限性みたいなものを見出すのは現時点では難しいかな……。
物語が意図的に隠す、「時間」の話をしていないから説得力がない。 個人的には、聖地巡礼が聖地巡礼たる理由はこっち。
全くの盲点だったがその通り。しかしそれってけっこう「日常系」の議論では? とはいえ確かにアニメには時間が保存されている。そこに到達するにはどうしたらいいのか? 今の私にはうまく説明できないです。すみません。
落ちカスさんは「平面」というよりは「虚構」と手を合わせていたのではないだろうか
本人に確かめていないため分かりませんが、そちらの言葉の方がより正確化と思います。しかし、言葉が違うだけで(たしかに本稿では次元の問題にこだわりすぎた節があります)本質的に言っていることは同じであるような気がしています。しかし、むしろ虚構と言った方が「距離の両義性」を言うにあたっては明快であったかもしれません。ご指摘に感謝します。
ドラマだと色々と違う気がする
おっしゃる通りで、ドラマも映像自体は平面的だけどある程度画角等にも曖昧さがあるので、没入という方に寄りやすい気がしています。ファンの聖地巡礼における精神性もかなり違う気がしているのですが、あいにく「二次元コンテンツ」の感覚しか持ち合わせていないのであまり深掘りした見当ができません……申し訳ないです。
野獣邸はどうなん
野獣邸に行くのは完全に淫夢コミュニティ内でのコミュニケーションだと思います。でも野獣先輩もある意味では「どこにでもいてどこにもいない」ですね。


コメント
3この論文みたいな感じでにゃるら記事書いて欲しい
記事を拝読させていただきました。
質問なのですが、アニメと現実とのギャップを感じることが聖地巡礼のモチベーションであると結論する理由はなんなのでしょうか。
この記事を一読しただけなので読み取りが不十分なのかもしれませんが、この議論では「聖地巡礼をしたのちに残るものとして現実とアニメのギャップがある」ということだけが判明していて、それが聖地巡礼の目的であるということについては触れられていないように感じました。
面白い試みだと思います。数点質問があります。
・「究極の合一は究極の断絶である」という表現はおそらく暗に交換律を想定したものだと思いますが、これには反論の余地があると思います。「近すぎて遠い」というフレーズは「究極の合一への探求が逆説的に究極の断絶を招く」と解釈できますが、その逆の「究極の断絶は究極の合一である」という命題は自明ではありません。「合一=断絶」として議論したいなら、後者について追加の説明が必要ではないでしょうか。
・アニメという媒体が二次元であるにしても、それを鑑賞するオタクの内的表象は現実と同じ立派な三次元なわけですから、認識論の文脈では二次元/三次元の議論は不要ではないでしょうか。
・後半の「次元の楔」なる概念についても、単に虚構と現実の要素のリンクにすぎず、次元と絡める必要性を感じません。少なくともこの文章を読む限りでは、次元を介在させずとも説明が可能という印象がありました。何か「次元の議論が不可欠」と考えた理由があればお聞きしたいです。