世界が俺を置いていく(ネギ以外)
夏日という人間をつまみ食いして欲しいから書いた
死ね
「おれ」という一人称が嫌いだ。煙みたいなアイコンのサブカル文学大学生が会心の一撃の如く繰り出すこのひらがな二文字は、実のところ「俺」というゴツゴツした言葉への恥じらいからくる中途半端さの象徴でしかない。私は常に自分の輪郭をハッキリさせていたい。だから普段は「私」を使い、いざという時は相応の勇気を以って「俺」を行使するのである。同様の理由で、サブカル的なものにいくら接近しても、自らがサブカル的であろうとはしないようにしようと固く決意している。既成の言語に自己を没入させることは、自他の境界を進んで曖昧にすることを意味するからだ。その成れの果てが、あの煙のようなフワフワしたアイコンなのである。
閉ざされた門
予め認めておかなければならないことがある。私は大変恵まれた環境におり、そのお陰もあってかなり頭が良い。音楽と絵と料理と整理整頓以外なら、大抵のことは器用にこなせるはずだと思っている。あと、気立てがいい。その代わり陰キャで、オタクだ。
その上で悩ましいことがある。私は何かに特別熱心なわけでもなければ、興味を持ったものにすらやがて食指が動かなくなるし、世界が狭く、人付き合いが恐らく下手で、何とも中途半端なのである。
小学校の時分、私は誰よりも勉強ができ、なおかつそれをひけらかさないことから謙虚さを認められて一定の尊敬を得ていたという風に認識している。頭が良くなければ確実にいじめられていたと思うが、私の他に成績の良かった人たちは大方いじめられていたか、それに近い仕打ちを受けていた(かく言う私も、そうした無邪気な憎悪の構造に多少なりとも加担していたことは否定できないのだが)。
しかし、端的に言えば私が秀でているのは「全て」だった。その代わりに、私は何も「本当に得意」ではなかった。
私は多くの漢字を知っていた。しかし、学年には稀代の漢字博士がいた。私は足が速かった(もっとも、体の成長が早かっただけだったのだろうが)。しかし、のちに高校陸上で名を馳せるスプリンターがそこにはいた。私は理科クラブに所属していた。しかし、私に反物質の恐ろしさについて嬉々として語る奇特な級友がいた。
算数オリンピックというのを受けたことがある。予選を突破すると、大きな会場で決勝を受けられる。私は三年連続三回予選に挑み、全敗した。中高の級友には、今では劣等生オーラを醸し出しているような手合いでも、「算数だけは得意だったんだよなーw」とか言って当然のように算数オリンピック決勝に進んでいたような奴がわんさか居る。私は決して算数が苦手な人間ではなかった。しかし、そこには明確な壁があった。その後中学・高校に上がって受けた数学オリンピックでも、終ぞ決勝に進むことはなかった。「お呼ばれではないらしい」と、そう思った。本当の聖域というものを垣間見た気がした。
やがて私は中学受験に相対し、最難関と名高い中高一貫校に通うことになったが、それもまた「バランス型」の賜物だった。国語が苦手だけど算数でカバーした、みたいな人は沢山いた。何事も器用にこなせるが一定の閾値を超えることがどうしてもできないという点において、私は花海咲季にクソ勝手な親近感を抱いている。お前が偽物の天才なんかじゃないと証明してみせることこそが、俺自身を照らす一筋の光となるのだ!とまで言うと、咲季Pから怒号が飛んできそうなのでやめておく。
もう一つの挫折の経験といえば、サッカーである。小四くらいまで、サッカーを習っていた。もはや具体的にいつ頃だったかも覚えていないが、小二くらいの時だったと思う。キーパーをしていた私に、一つの豪速球が飛んできた。私は持てる最大限の力を持ってそれを静止したが、ボールはゴール前の地面で激しく回転を続けていた。それほどの球を、さほど歳の違わぬ子供が蹴ってきたのだ。当時はあまり意識しなかったが、その時にもう、何らかの諦めに似たものを刻み込まれていたのだと思う。そうして、私は中学でろくに運動部にも入らず、文化部の花形であった科学部にも馴染めず、パソコン部で腐り果てていた(のちに園芸部やら文芸部やらにも顔を出すようになったが)。挙げ句の果てに私は、体育祭のたびに、他の球技も碌にできないので少しでも感覚を知っているサッカーを選び、練習でサッカー部の御仁からありがたい「アドバイス」を頂くのであった。無論悪意などはないだろうが、それでも罪悪感を覚えてしまうのが文化部ナードの悲しいサガである。というか、彼らも別に根っからの陽キャというわけではない(いわゆる進学校なら大抵はそうなのではないか)。彼らは SAO を読んでいるし、ウマ娘をやっているし、五等分の花嫁の話で盛り上がっている。しかしそんなことは、サッカーのフィールド上にあっては関係なく、そこにはただ、巧みにボールを捌くサッカー部員と、慣れ親しんだ球技の身体感覚をとうに忘れて哀れに身体をくねらせるヒョロヒョロのオタクしかいないのである。
そうした中で、共通テストを終え、二次試験に向かい奔走する私の姿がある。私の中に、二つの相反する感情が去来する。一つには、こんなに頭が良くて、(塾のおかげとはいえ)六年間勉強習慣を継続してきて、その塾内でもいい位置につけているこの私が、例え最高峰と言われていようと、高々2〜3倍の学力試験ごときを潜り抜けられないはずがないとの、過大なる自信。もう一方は、今度こそメッキが剥がれ、偽物であることがバレて、「天罰」が下るのではないか、そして私は地の底へと叩き落とされるのではないかという懸念である。
直近の生存権スペースとも内容が被るから書くが、私はこれを「天才の苦悩」だとか「勉強しか選択肢を与えられてこなかった悲しきモンスターの末路」などと言って美化したり過剰に戯画化したりするつもりはない。私は文芸部の部長を全うしたし、文化祭にも毎年、全力で取り組んだ。全ては私の選択の中にあるし、そこには寄り道もあった。それらの全てが有意味であった。しかし、殊に勉強においては、「この選択肢」つまり「みんなと同じ、難しい大学に行く」以外の選択肢が、初めから用意されていなかったも同然であることもまた事実である。無論これは甘えである。しかし、いわゆる天才(往々にして人格やコミュニケーション能力などに問題がある)を寄せ集めた均質な場でしか快適に生活できない(しかも、その場所でさえコンプレックスで時折ぐちゃぐちゃにされてしまう)ような弱い人間に、反りが合わない太陽たちと共に生活するだけの力があるかと言われれば、絶対にない。均質な集団の心地よさを知った者たちは、さながら人里に降り立った熊の如く、もう元には戻れないのである。理解し難いと思うが、どうか分かってほしい。
世界狭かった
先ほど自分のことをオタクとか言ったが、私は多分、一昨年くらいまではオタクとも呼べない存在だった。小四でニコニコ動画に辿り着き、けもフレを見て、他のアニメもいくつか見て、その後けもフレ2にキレ散らかして黒歴史を作るなど色々なことをしたものの、その主軸にあったのはTwitterであり、私はどこまで行ってもネットのミーハーだったのだ。ニコニコ一挙とAbemaの無料開放だけで「オタク」に追いつくのは難しい。難解な言葉で詭弁を弄する技術だけがムクムクと膨れ上がっていった。
だから、本当の意味でオタクを始めたのは、親に頼み込んで小遣いから差し引きで d アニメストアに加入させてもらった時からだろう。私は真っ先にまどマギを見て圧倒された。それからは、もう色々、今まで置いて行かれていた分を取り戻すかのようにアニメを観た。別に名作の類を全部見たとかではない。そもそも、そんなに沢山見てもいないと思う。とはいえ、オタクとしての私はそこから始まった。ニコマスでしか知らなかったアイマス・デレマスのアニメを観たのもそのくらいの時期だ。同時期に、ミリシタとデレステを入れた。ブルアカとかは、もう少し前からやっていたけど。
同じことが音楽にも言える。私は中学からの三年ほど、Spotifyの無料プランで広告にクッソイライラしながらサカナクション・米津玄師・ヨルシカをループすることしかやっていなかった。幅を広げようと思っても、無料では限界がある。
NEE のくぅが亡くなった時、同級生二、三人が死を悼んでいた。しかしそのとき、私は NEE を知らなかった。YouTube で「不革命前夜」を聴いた。激しく後悔した。何で誰も教えてくれなかったんだ、と思った。
それから一年?くらいしてからだろうか、私は親を説得して Apple Music の家族プランに加入させ、遂に自由な音楽体験を手に入れた。大喜利界隈の音楽通っぽい人たちが当然のように通っているけど、大喜利を始めるまでは名前すら聞いたことのなかったようなアーティストの曲を聴き漁った。時々、母親がそれに気付くことがあった。世界が広いということに気付かないまま立ち尽くしている、ということにすら気付けないのが、この現代文明の最も恐ろしいところだと思う。
だからこそ、動かなければならないと思う。自ら働きかけることが世界を広げる最良の方法だと信じている。それゆえ、私は「大学の学び」に過度な憧憬を抱いている節がある。自由度が高く主体的な、というイメージは入学すれば完膚なきまでに打ち崩されるのだろうが、その理想は失わずにいたい。いつもつるんでいる変なメンバーたちと哲学書の感想を言い合うといった、大正の大学生のような像を夢想している。
そのため、もはや大学に落ちるなどという選択肢は私の前に残されていないのである。浪人すれば却ってやる気を失うたちだと思っているし、一発で決めるしかない。私はそれに足る「本物さ」を持っていると、信じるしかない。信じきることができたら、これからも信じ続けられるのだと思う。


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