竹内氏が自殺した理由
自殺に至るまでの経緯
2025年1月18日、竹内英明・元兵庫県議が自宅で死亡した。竹内氏は百条委員会の委員だったが、出直し県知事選挙投票日の翌日(11月18日)に県議を辞職していた。
竹内氏の死亡は言われている通り自殺だろう。死亡するまでの経緯をまとめよう。
百条委員会の9月6日証人尋問で片山氏と斎藤氏に投げかけた厳しい質問がSNSで話題になって、批判や誹謗中傷を受けた。
10月23日、母親を亡くして気分が低下した(鬱)。医者にかかっていたらしい。
11月1日、立花氏が竹内氏を黒幕のひとりだと名指しした。そのあと、いやがらせ電話が事務所に殺到したという。
11月17日、斎藤氏が当選した事実を知った。とてもがっかりしたようだ。
翌18日に議員辞職して自宅に閉じこもる生活が続いた。
仮説二つ
SNSでの誹謗中傷が竹内氏を自殺に追い込んだとする意見を散見する。しかし、それは当たっていないと私は考える。11月17日の出直し知事選で斎藤氏が当選した事実が彼に大きなショックを与えた。これが最大の要因になったと考える。竹内氏が受けたショックは、真実に目覚めた(仮説1)とクーデター失敗(仮説2)の二つが考えられる。投票日翌日、彼は県議を辞職した。自宅に閉じこもる生活が続いて、前月に母親を亡くしたときに発症したうつが悪化していった。
(仮説1)10月31日から11月初めにかけて立花氏が公用パソコンの中身を暴露した。それをきっかけにして竹内氏も公用パソコンの中身を詳しく知った。そして、自分の見立てが180度間違っていたことに徐々に気づき始めた。斎藤氏が民意を得て当選したことで、それは確信に変わった。目覚めたわけだ。彼は真面目だから、百条委員会で誰よりも強い調子で証人たちを尋問した自分を深く恥じた。
(仮説2)3月12日に渡瀬氏が10か所に送付した怪文書の真偽を確かめるために百条委員会が設置された。自分も委員のひとりに選ばれた。渡瀬氏が自殺したこともあって、これは日本全国から注目される社会問題になった。9月19日に県議会が知事不信任を全員一致で可決して、30日に斎藤知事が失職した。斎藤氏を追い落とした。クーデターは成功したかのようにみえた。しかし、出直し知事選で斎藤氏が当選してしまった。土壇場で、兵庫県有権者の意思によってクーデターがつぶされた。一所懸命やってきた自分が県民から否定されたと感じた。ひどくがっかりして、翌日県議を辞職した。
どうやら(仮説2)が正しいようだ。
クーデター失敗による喪失感
県議会が知事不信任した9月は、テレビ新聞がパワハラおねだりを盛んに取り上げていた時期だ。知事への風当たりがもっとも強かった。そして知事失職、出直し選挙となったわけだが、この急展開をきっかけに、これはなんかおかしい、私たちは(テレビ新聞に)騙されているんじゃないかと思う人が出てきた。
そこに立花氏が参入してきて、その疑念に沿った情報をSNSで大量に流した。しだいに多くのひとが、やっぱりそうだったのか、と思うようになっていった。選挙運動初日(11月1日)立花氏が、黒幕のひとりとして竹内氏の名前を挙げたことによって、竹内氏のところにいやがらせの電話やSNSが殺到した(らしい、竹内氏の弁による。下記)。
電話やSNSによるいやがらせはあっただろう。しかし、竹内氏が苦しんだのは、自分が画策したクーデターがあとひと息の土壇場で民意によってつぶされたからだ。政治家として大きな喪失感を味わったに違いない。
「あれしかないねん、斎藤知事のクビをとるには」と今西記者をそそのかしたくらい竹内氏はこの件に積極的にかかわってきた。「あれ」とは優勝パレードでのキックバック疑惑だ。今西記者は9月にアエラに二つの記事を書いた。それを読んだ竹内氏は「この記事で県庁が大騒ぎ。これで斎藤知事もアウトだろうと」とLINEを送って来たという。
竹内氏がやったこととその後の苦悩
斎藤知事への尋問を見ればわかるように、そのやり方はずいぶん強引だった。それなのに、その強引の揺り戻しが来て自分に批判が殺到すると耐えられないと泣きごとを言う。斎藤知事のほうがよっぽどひどい仕打ちを受けたのに。竹内氏は、この件に関わる能力と気力を持ってなかったわけだ。身の程知らずな行いをした。
母親が亡くなった4日後の10月27日を最後に竹内氏はブログを更新していない。同じころSNSアカウントをすべて削除した。だから、11月以降はSNSでの批判や誹謗中傷が竹内氏に直接届くことはなかった。自殺の原因にSNSの影響は、あったとしても、限定的である。ただし、アカウントをすべて削除したあとも、(今西記者を含む)身近な人がもたらすSNS情報が竹内氏を苦しめることがあったろう。
片山氏が竹内氏の疑惑を証言(4月19日追記)
百条委員会の12月25日証人尋問で、片山証人が竹内氏に言及した。
片山氏は、公用パソコンの中に何があるか竹内氏は知っていたのかもしれないと述べたあと、竹内氏の疑惑を3つ開陳して、これらを解明しろと言った。百条委の証人尋問発言はこのように会議録に残るから、聞き流してやりすごせるSNSでの誹謗中傷とは違って重みがある。
竹内氏は11月18日に議員辞職したから、12月25日のこの場にいなかった。4月18日のNHK関西熱視線によると、竹内氏は議員辞職後も百条委員会のインターネット中継だけはかかさずに見ていたという。12月25日の証人尋問も見ていたに違いない。この片山証言を聞いて、もう逃れられないと悟って竹内氏は死んだんだと思う。片山証人が悪いことをしたのではない。片山証人は事実を言った。悪いことをしたのは竹内氏。
詰め腹を切らされた(5月19日追記)
斎藤氏が逆転当選してクーデターが失敗したので、竹内氏が(自分の内面で)喪失感を味わったというよりも、真の黒幕から詰め腹を切らされた。竹内氏はしばらくのあいだそれに耐えたが、3か月後についに耐え切れなくなって自殺した。こう考えたほうがよさそうだ。
妻が取材に対して、ネットで語られているあれあれは本当なのかと支持者から問い合わせが来るのも負担になっていたと答えたが、竹内氏が真の黒幕から責任をきびしく追及されていることに妻は気づけなかっただろう。
これは、竹内氏は黒幕の手下だった説である。
秘密漏洩第三者委員会からの問い合わせ(6月1日追記)
上記した12月25日百条委員会での片山証人による追及発言の前、秘密漏洩第三者委員会が12月6日に電子メールで、12月20日に郵送で、竹内氏に問い合わせした。しかし、何の反応もなかった。
井ノ本氏からファイルを見せられたことを同じ会派に所属する百条委員に6月19日前後に話したと迎山氏が百条委員会12月16日聞き取り調査で答えた。竹内氏か上野氏のどちらかであるが、この問題により熱心だった竹内氏だったと思われる。
週刊文春電子版7月17日を語る文春記者トークは「実際に総務部長からこの文書を見せられた」と語る。竹内氏が、迎山氏から聞いた情報を週刊文春に教えて電子版そして翌日発売の7月25日号記事になったのが確からしい。このリークは公用渡瀬パソコンのなかに問題の多い私的文書が大量に入っていることを広く世に知らしめた最初だから、本件の最重要証拠のひとつだ(ただしその直前に、アエラ7月13日今西憲之記事が7月8日百条委員会理事会を持ち出して、公用渡瀬パソコンの中にプライバシーが含まれていることに言及していた)。それに関して第三者委員会からの問い合わせがあったことは、竹内氏をよほど苦しめたに違いない。
12月25日片山証言も合わせた竹内タイムライン
6月19日ころ 迎山氏から公用パソコン内を聞かされた
7月7日 渡瀬氏死亡直前に話をした疑惑
7月12日 渡瀬妻氏メールおよび陳述書に関与した疑惑
7月13日 アエラ今西記事
7月17日 週刊文春電子版
渡瀬氏が自殺したことが竹内氏に週刊文春へのリークを決心させたのではなかろうか。生前なら渡瀬氏の面目をつぶすことになるからリークすることは考えにくいが、死後なら渡瀬氏と親密だったことがむしろ大きな動機になりうる。県がプライバシー情報を不適切に取り扱ったから渡瀬氏が自殺したと広めたかったのだろう。
9月にカレー屋でアエラ今西記者につぶやいた「あれしかないねん、斎藤知事のクビをとるには。そうでないと、渡瀬氏も浮かばれへん」が竹内が自殺した理由を端的に表現している。竹内氏は、渡瀬氏が自殺したことの復讐をしていた。しかし、11月17日に斎藤氏が再選してそれが失敗した。失望して翌日県議を辞職。その後ふさぎ込んで、2か月後に渡瀬氏のもとに行った。
(扉画像は、竹内氏のブログから)


コメント
2元県民局長の奥様んから県庁に送ったメールは奥様がつくったもので、それはメール送る前に県庁と奥様との間で何度もやりとりがあって送られたものであることを県庁が証言してます。なので、片山が言ってる「疑惑」とかいうのがただのデマなんですが、あなたはなにを言ってるのでしょうか?
メールを送る前に3回やりとりしたのは承知しています。ですからメールは奥様が送信したので間違いないでしょうが、作文したのが誰かははっきりしません。