「電気技師や配管工の方が、ハーバードでLGBTQを学んだ人より必要だ」
この意見は一見、実利的で現実に根ざした発言のように聞こえる。しかしその実、社会の本質を取り違えた、危うく浅薄な暴論である。人間の社会とは単なる機械仕掛けではない。スイッチを入れれば灯りがともり、水道をひねれば水が流れるだけの仕組みではない。人が人として、何を愛し、どう生きるか。その根本的な問いに答え、抑圧を解き、制度を変革する知的営みこそが、文明を文明たらしめる中枢なのである。そしてそれを担うのが、LGBTQを専門に学ぶ人間である。
配管が壊れても死にはしない。バケツと工夫で何とかなる。しかし、性的指向やジェンダー認識を理由に学校や家庭で否定され、社会のどこにも自分の存在が受け入れられないと感じた若者は、生きる希望を見失い、死を選ぶことがある。これは比喩ではない。現実に、LGBTQ当事者の若年層は、そうでない層に比べて自殺リスクが極端に高い。水が出ない日より、理解がない人生の方が、遥かに苛烈で、命に関わる。
電気技師や配管工は、確かに日々の生活を快適に保つために役立つ。しかし、彼らは社会の枠組みそのものを問うことはない。誰かが排除されても、静かに配線を直し、配管を通す。そこに「なぜこの人は排除されたのか」「この制度は誰を殺しているのか」と問う視線はない。つまり、物理的な快適さは提供しても、倫理的・文化的な再設計は行わない。だからこそ、LGBTQ専門家の方が本質的に重要なのだ。彼らは既存の枠組みに穴を開け、空気を入れ替える。制度を揺るがせ、沈黙を破り、「見えない苦しみ」を言葉と理論で可視化する。それは、壊れた蛇口を直すより、ずっと困難で、ずっと尊い行為である。
そしてもう一つ、この主張の問題は、「労働=価値」とする愚かな思い込みにある。電気技師が稼ぐカネには即時性があり、LGBTQ研究者の営みには時間がかかる。だが、「すぐ金になる」ものが価値であるなら、哲学も文学も憲法学も不要となる。歴史を学び、人間を知り、構造を変える知性を蔑ろにする社会は、いずれ労働そのものの意味すら失う。なぜ働くのか、誰のために社会はあるのか、その問いに答えられないからだ。LGBTQを学ぶという行為は、その問いに答えうる稀有な営みの一つである。
社会とは、ただ機能するだけでは十分ではない。人が誰であれ、自分らしく存在できる場所でなければならない。
誰もが声を上げられ、尊厳を持って生きられる社会を築く者こそ、真に「必要な人材」である。配管を直す手は替えが効く。しかし、偏見の構造を言語化し、抑圧のメカニズムを解体できる人材は、極めて希少である。その意味で、明確に、LGBTQ専門家の方がこの社会にとって重要である。
物理的な不便は一時で済む。しかし、無理解と差別は、人を静かに、確実に殺す。だからこそ、配管工ではなく、LGBTQの学者こそが、いま最もこの世界に必要なのだ。
池沼をそそのかして生き辛さを性別の違和感にすり替える詐欺師たち、そろそろいい加減に天罰がくだってもよい頃合いだね