2月下旬の朝、ソウルの名門私立、梨花(イファ)女子大(梨大)に通う趙有娜(チョユンア)(24)=仮名=は、学内にあるジムから出ると、騒ぎが起きていることに気付いた。「豚女」「北朝鮮に消えろ」。男性たちの発する罵詈(ばり)雑言が耳をつんざく。反フェミニズムを掲げる「新男性連帯」などの極右団体が押しかけ、学生と衝突していたのだった。
極右の男性たちは「梨大の学生はアカ(共産主義者)だ」と叫び、趙が見過ごせず学生側に加勢すると、押し倒されて群衆の下敷きになった。無事に救出されたが、恐怖は消えない。「あの日の服は、もう着られない」と言葉を震わせた。(敬称略、共同通信ソウル支局・渡辺夏目、編集委員・佐藤大介)
▽大統領の戒厳令、深刻な男女対立に発展
衝突の要因となったのは、梨大の学生会が大統領の尹錫悦(ユンソンニョル)への弾劾を支持すると表明したためだ。尹は昨年12月、革新系野党が国政をまひさせているとして「非常戒厳」を突如宣言した。軍事独裁政権以来の戒厳令は国民に大きな衝撃を与え、尹は弾劾されたが、その是非を巡って社会の亀裂が深まっている。
とりわけ深刻なのが若者世代を中心とした男女の対立だ。戒厳令の後には、尹に抗議する人たちが国会前に集結し、ペンライトを手にデモを連日展開したが、中心を担ったのは女性だった。
一方、尹を擁護する保守派のデモには、若い男性の姿が急増した。親中姿勢の野党を「反国家勢力」と断じる尹に共鳴し、反共産主義をむきだしにする。1月には暴徒化した支持者が、尹の逮捕状を出した裁判所を襲撃する事件が起き、逮捕者の半数を20~30代の男性が占めた。
そうした男女対立の現実を露呈したのが、梨大での衝突だった。現場を取材した学生新聞「梨大学報」の記者、崔禎恩(チェジョンウン)(20)は「約70人が乱入し、首を絞めるなどの暴力行為があった」と証言する。男性たちは、学生の顔を執拗(しつよう)に撮影していたといい「政治活動をする女性を、インターネット上でさらし者にしようとする意図がある」と憤る。
▽政治利用される社会の分断、超少子化につながっているとの声も
保守派の男性の多くは、革新系の前大統領・文在寅(ムンジェイン)が、若者の生きづらさを招いたとの不満を抱える。「文在寅が男女を仲たがいさせて出生率を下げ、結婚も就職も家を買うことも難しくした」。尹の弾劾審判を担う憲法裁判所前で行われていた保守派の集会で、慶熙大の男子学生(20)は声を荒らげた。
男女対立の激化が、類を見ない韓国の超少子化に拍車をかけているとの指摘は少なくない。だが、政治家は「国民統合」をうたいながらも、自陣の支持者を結集させるために分断を利用しているのが現状だ。
「対立は簡単にはなくならない。男女不平等な社会が招いた結果で、女性たちはもはや我慢しないから」。崔はため息をつきながらも、毅然(きぜん)と語った。
▽子ども産めば1千万円、子育て支援に力入れる企業
「不安が解消され、育児に前向きになった」。韓国の建設・不動産大手「富栄グループ」に勤める洪基(ホンギ)(36)は、3歳の長女と生後9カ月の長男の「出産祝い金」として、会社から計2億ウォン(約2000万円)を受け取った。富栄は2024年から、社員に子どもが生まれると1人につき1億ウォンを支給する破格の制度を導入している。
洪は同僚の女性と結婚したが、子どもを持つべきか悩んだ時期があった。「ソウルの平均住宅価格は10億ウォンを超え、子どもの学習塾代など教育費の負担も大きい」。韓国では学歴競争が激しく、こうした悩みを持つ親は少なくないが、祝い金がぬぐい去ってくれた。「今は貯蓄をしているが、住宅購入や家族旅行の費用にも充てたい」と声を弾ませる。
富栄は会長の李重根(イジュングン)(84)が全株を保有するオーナー企業だ。祝い金について、理事の金珍成(キムジンソン)(59)は「人口減少は国家存続の危機だと会長が訴え、トップダウンで決まった」と明かす。これまで支給された額は98億ウォンにのぼる。「結婚や出産を人生の選択肢に入れる社員が増えた」。成果を強調する金は「大胆な子育て支援は資本力のある企業の役目だ」と話す。
他の企業も子育て支援に力を入れる。KB国民銀行は、3年後の再雇用を保証する育児退職制度を始めた。育休と合わせて約5年間子育てに専念でき、復職後も職級や基本給は変わらない。鉄鋼大手のポスコは、育休期間を1年長く付与したほか、隔週で週休3日が可能となる勤務制度を導入し、男性職員の育休取得率の向上につなげた。
▽「縁遠い世界」中小企業側からは冷ややかな声も
しかし、こうした支援を行えるのは、ほとんどが大企業だ。韓国の企業は大半が中小企業で、大企業に勤めている雇用者は全体の約2割に過ぎない。企業間での待遇格差が広がるという懸念もある。
社会福祉が専門の梨花女子大教授、鄭益仲(チョンイクジュン)(55)は「育児休暇の取得率を見ても、大企業と中小企業では10倍以上の開きがある」と指摘し、格差を放置すれば「恩恵を受けられない人たちが、社会からの疎外感を強めることになる」と話す。
韓国政府も「中小企業の協力なくして少子化の克服はない」とし、税制優遇などの措置を講じるとしている。だが、ソウルに住む朴泰仁(パクテジン)(32)の受け止めは冷ややかだ。
勤務先の印刷会社は社員が10人以下で、繁忙期は休みもままならない。小学生の子ども2人を育てるが、育休や会社の子育て支援とは「縁遠い世界にいる」と言う。「大企業が利益を増やせば、国全体が豊かになるというのが政府の考えだ。中小企業のことを真剣に考えているとは思えない」。突き放すように、そう話した。
▽疲弊する毎日を変えたい、選んだ「脱ソウル」
「江陵(カンヌン)で暮らさないか。その方が幸せだと思うから」。ソウル市内の中華料理店で、黄往盛(ファンジュソン)(41)が結婚して間もない妻の金恩賢(キムウンヨン)(42)に自らの考えを伝えたのは、2015年7月のことだ。
江陵は韓国北東部にある日本海に面した、人口約20万人の市だ。子どもを持ちたいと考えていたが、住宅や教育の費用が重くのしかかる。仕事や通勤に疲弊もしており、ためらっていた。「世界を変えたかった」。そのための手段が「脱ソウル」だった。
黄の提案に、江陵出身の金は戸惑った。「古里に戻るのは、どこか失敗したように感じられた」。だが、家賃の値上げで引っ越しを余儀なくされたこともあり、勤めていた会社を辞めて移住することを決めた。それから約9年。2人の娘と過ごす日々は「とても充実している」と口をそろえる。
現地では、海辺や伝統家屋を背景に新郎新婦の記念写真を撮影する事業などを営む。経済的には、ソウルで暮らしていた時より収入は下がった。だが、黄は「家を安く買えたので住宅費が抑えられ、物価も安く、十分に生活できる」と言う。
庭先を走り回る娘たちの姿を見つめながら、金は「ソウルに住んでいたら、子どもを産む選択は簡単ではなかったと思う」とつぶやいた。移住によって変わったのは「成功の価値観」だ。「ソウルで良い大学、良い企業に入り、金を稼ぐことが人生の成功ではない。好きなことをして、小さな幸せを見つけることが大切ではないか」。黄はかみしめるように話した。
▽地方移住した元塾講師の女性の思い
韓国で首都圏への一極集中と地方の過疎化が深刻化する中、地方への移住を選択する人たちもいる。今年1月には、南東部の慶尚北道(キョンサンプクト)・尚州(サンジュ)市に移住した女性たちが、日々の思いをつづった「村村女伝」を出版した。
著者の1人である朴賢晶(パクヒョンジョン)(48)は都市部で塾講師をしていたが「勉強する意味を考えず、ただ点数を取ることだけを目的にした子どもたちの姿」に絶望感を覚えたのが、移住のきっかけだった。4人の子どもを育てるが、塾には通わせず、大学進学も「それぞれの意思に任せている」と言う。
著者たちに共通するのは、競争に明け暮れる教育システムに疑問を抱き、自分らしい生活を模索しようとする思いだ。朴は「それを多くの人は理想ととらえ、実行に移す人はまだまだ少ない」と話す。だが、英語や文学の講師を務める卞英真(ビョンヨンジン)(52)は、こう断言した。「少子化の解決には、金銭的支援だけではなく、価値観や社会構造の変化が必要だ」