地面に空いた東京ドーム何十個分ほどのクレーターを小高い崖の上から眺めていると、突如クレーターの中央に裂け目ができ、その中からどす黒い泡立った液体がしぶきを上げてあふれ、たちまちのうちにクレーターは黒い水で満たされる。急遽編成された調査部隊に入れられた俺は捨て駒として、ミッションインポッシブルみたいな感じで何かに吊るされ黒水が溢れ出した裂け目の方へ近づけられる。操作ミスによりおれは黒水の中に落ちるが、口に入ったときそれがシュガーフリーのコーラであることがわかり拍子抜け。いずれにせよ怪奇現象であることに変わりはないので調査は続行、もう恐れることはないのでジャンジャンコーラの中へ潜っていくと裂け目の中には鋭い針のような突起物があり、その周りはコーラでなく透明な真水である。これはどうしたことだと針の先端を見ると、先には土偶のようなものが刺さっていた。近づいてよくみるとそれは土偶ではなく、グレイ型の宇宙人のような生き者のミイラであり、テレビなどに出てくるグレイは目が空洞で表情はわりかしフラットでアンニュイな印象を受けるがこのミイラの顔つきは生々しく苦悶に満ちていた。もしこの宇宙人がこの針に刺さったことで死んだとするならば、この宇宙人は死んだ後の今も針に刺し殺され続けていて、こんなに死に続けられるいきものもいないんではないかというような印象、すでに痛みを感じる感覚は死んでいるからないはずなのに、今もなお刺さっている針から生きていれば生じるであろうもう感じれない痛みを、その表情を媒介としてそれを見た人に感じさせるような迫力。他者痛覚過剰刺激団体がもしあったならばその中でトップの役職を担っているであろうカリスマ、もはやプレイヤーとしてだけでなく後進の育成にもいくらか携わっているに違いない。
クレーターの裂け目の奥からはコーラではなく真水がわき上がっていた。針は宇宙人のミイラの肝臓あたりに突き刺さっていて、肝臓には水と混ざることでシュガーフリーコーラになる成分が大量に貯蔵されていたのである。シュガーフリーコーラなどという太らずしかも甘いなんて都合のいい飲み物が出来上がる過程には、目を背けたくなるような事実が隠されていたのだ。
このブログは高が作ってくれて皆に一緒にやらへん?と声がかかって始まったと記憶している。今でもたまに何かあった時に高だったらどう言うだろうと思う時がある。「こないだ久しぶりにヘラバ行ったんよ・・・」と自分の話を始めながら、煙草の煙を吐きながら最適な解を導き出そうとしている高の表情をちらっと見て話を続け、その解にもう既に笑う準備をしている。高の頭の中でカチャカチャ音が鳴っている様に感じていた。
高の最適な解はやっぱり面白くて鼻水が出るか、意外に真面目な返答で、でもその真意を全部理解できるか分からず自分の頭の悪さを痛感するかだった。全然聞いてない感じの返答を全然聞いてない感じで返す時もあって、そいういう時は、もう高の中で喋りたいことが決まっていたり、全然別のことを考えていたりしている様子だった。たまに助川さんの話をする時があって、高には珍しく妙にはしゃいでいるような切なさそうな感じで不思議な時間だった。シネ研のベランダで助川さんと二人で煙草を吸っていた時間が幸せだったという話はただただ美しい話だという印象で、普段の面白さとのギャップからか妙に印象深い。しーたんというワードも久しく聞いていないし、しーたんという言葉が居酒屋「りんぐ」での暗く甘く燻ぶり脂ぎった男だらけのにやけ顔と一緒に思い出されるのも感慨深い。北畠宅の麻雀明けのJRのアナウンスをBGMにシルポートとしーたんを一緒くたにして「どう思う?」と聞かれたときの自分の適当な返事に重要な情報があるかのように競馬情報が映っているであろうスマートフォンを覗き込む姿も未だに印象的で多分走馬燈に差し込まれる一ページだろう。
高と二人でいる時はだいたいあんまり会話がなくて二人各々煙草を吸っていた。そういう時の八割方は塩崎かカスエさんが来るのを待っている時間だった。塩崎がニヤニヤしながら駆け付け一杯のノリで陽気で楽し気な一人コントを始めるか、カスエさんが自転車で10分のところを一時間かけて来て口に手を当てながらちょっと申し訳なさそうに何か言うのをニヤニヤしながら聞いて高がカスエさんに軽めのジャブトークをかますのを見るか、そういう時までの宙に浮いているような時間だった。高と二人でいる時は落ち着いていながらどこか語弊を恐れる緊張感があった様に思う。塩崎やカスエさんの顔を見た瞬間にギアをガっと上げて気の利いた一言を言うために頭がカチャカチャと動き出すのを爛々とした目から感じていたのも懐かしい。夜、急に呼び出されて高とカスエさんのやり取りを聞かされて笑っていたあの時間を鑑みるに、高はオーディエンスがいるかいないかでコメディーモードとセンチメンタルモードの切り替えがなされていたんだと思う。塩崎と高の二人の時もセンチメンタル寄りの時間だと聞いた覚えがある。カスエさんと高が二人だけでもボケツッコミでやり続けられたというのはかなり貴重な人間関係だと思う。京大の庭を夜歩きながら高とカスエさんの即興漫談に笑い続けた記憶が何故かモノクロで、個人的にジムジャームッシュの映像を彷彿とさせる。女物の服を着てふらふら歩きながら心の闇を嗅ぎだし重箱の隅を突くようにわだかまりをえぐる高と活き活きしてつっこむカスエさんの画は印象深く(陰のある本質的な)青春という言葉を表すのに適切だと思っている。
高の見舞いに行ったときになんとなく「どういう会社に行けばいいんかな」みたいな話をしたときに「なんか堅い会社がいいんちゃう?鉄道関係とか、浜本の安定感からしたら」みたいなこととを言われてぼんやりなるほどなーと思ったけど、今の無職の話をしても「ええんちゃう?」と言うだろうなと思う。その「ええんちゃう?」には確かな高なりの考えや直観を孕んでいるだろうし、高は「ええんちゃう?」と言うだろうと推察する自分の思いも読んでいるだろうなと思う。
本当に惜しい人を失ったと思うが、未だに高が死んで今はこの世にいないという実感が湧かなくて、高は今頃フランスのゲロまみれの裏路地でナイジェリア人と楽しく喋っているんじゃないかと思っていて何故かいつかまた会えるような気がしている。やはり受け入れ難いんだろう。
この間一人墓(?)参りに行ったが報告することもあまりなく、高が同じ時間を過ごしていたとしたら面白い話の一つ二つは聞かせてもらえるだろうと思い、何もしていない自分が不甲斐なく、でももし生きていたら優しくて笑える言葉をかけてくれるんだろうなと思った。高の墓参りの度に「こんな幸せなことがあったよ」と言えるように生きたい。
枝雀やらもの動画を見る度になんとなく高の影がちらつく。葬式の二次会的な感じの時に食べたチャプチェが美味かったのを思い出すと、大前が姉さん女房を連れてきていたことや、小出が数年振りに話しかけてきたと思ったら7/8拍子がキメの曲「直下降」のアレンジに数年に渡って拘っていてその音源を聴かされたことや、シネ研の林くんが愛想良く喋りかけてくれたのに無下にして後々悪かったなあと思ったことなどを思い出す。
最近は仲田君が内に秘めた思いを吐き出しているような記事をブログにあげていて楽しいけれどもやっぱりカレーの記事が一番好きだなあと思ったり、カスエさんがまた大便を捻りだすように長文の記事を更新してくれたらなあと思っている。
京橋に引っ越して11月で一年。
去る某日、初夏の昼下がり、買い物から家までの帰り道、はたと、自分が京橋の、いわゆるところの「土地勘」を知らぬ間に得ていることに気づいた瞬間があった。すこし前から自転車で会社に通い始めたからなのか、見えている建物の位置関係と距離感とおおよその方角を把握している自分、いつもと違う道を通っても、あそこに出るだろうなあと思ったところにたどり着くことができるようになっている自分。
そうなるまで半年弱もかかったのは、寒くなる季節に引っ越し、冬の間はほとんど最短ルートで家と会社と最寄の飯屋を行き来していただけだったからだろうか。10年前の六甲引越しの時には、初めての一人暮らしのストレスで夜中ずっと鼻血が止まらなくなって、当時十八歳の自分はビビって救急車を呼び、来た隊員に笑われた挙句乗せてももらえずそのまま置き去りにされ、翌日耳鼻科で鼻の血管を焼いてもらったりしてたけど、季節は春、新歓コンパに教養科目、なんだかんだよく出歩いて、今回よりも早いうちに六甲の土地勘は培われていたように思える。とはいえ10年前のことなんか、思い出そうとしても、河川敷に落ちてる、ページのくっついたカピカピのエロ本を無理やりはがして読もうとしているみたいに断片的で不明瞭なイメージしか出てこないし、そんなカピカピのおっぱいでむりやり興奮しようとしているやつはだめだ。
そうやって京橋に慣れ始めた矢先、向かいの空き地でマンションの建築工事が始まった。ただでさえ越した直後から時折、少し離れたところにある消防署の救急車が昼夜問わず、誰もいない、信号もないほっそい路地を爆音でサイレンを鳴らして走ってくるので、せめて大通りに出てから鳴らせよ、とか思って寝入る際などいらついていたのに、毎朝8時からコンクリをかき混ぜる太い棒のモーターの重低音、鉄筋が擦れぶつかるキンキンした高音、ハンマーが釘をパコンパコン、平日はどうせ起きないといけないからいいけど土曜にもあるのが最悪で、金曜に夜更かししても強制的に起こされゆっくり寝ていられない。最近になりやっとひと段落し、張り紙によると年明けには完成するらしいが、六甲ではウグイスや雀のさえずりで目覚めるほど静かな生活をしていたので、今年の夏から秋はずっと未体験のストレスを味わっていた。
そのことを塩崎に話すと、彼には騒音に対し悩まされた経験がないらしく、居酒屋の壁の木目を見ながら騒音に対するクレームをまくし立てる自分のことを彼は「騒音おばさん予備軍」と嘲弄し、その後カラオケで15の夜とハイロウズのサンダーロードを絶唱するのであるが、騒音への苦悩を共感されない自分は懊悩のあまり、適当に思い浮かんだ騒音とは無関係の人物や出来事について、 居酒屋のテーブルの溝を見ながら大音声で悪罵、その声を騒音と捉えた隣の席のカップルは早々に席を立ち、なんだかんだでその店のお寿司はとってもうまかったのであるが、果たして自分にかの有名な「騒音おばさん」に比肩し得る存在になりうるのびしろ、ポテンシャルがあるか考えた際、自分はそれにははなはだ懐疑的で、やはり第一には性別の違い、その種の競技種目における爆発力には、男女の間には陸上短距離におけるモンゴロイドとネグロイドのような厳然とした差があるように思われる。「騒音おばさん」はその中でも選ばれし存在のキャリアウーマンで、 ブルゾンちえみが言うところの 35億分の1風情の自分がたどり着けるのは、いかなる艱難辛苦をへようと所詮、二番煎じのしょっぱい騒音おじさんであり、そんなやつはだめだ。ブルゾンちえみに言わせればだめウーマンだ。
(たぶん)ブルゾンちえみがネタの中で言っていたように、人生は一度きりなので、テーブルの溝か壁の木目を見ながら誰かや何かを悪罵しているより、たとえしょっぱい二番煎じの騒音おじさんだろうが精一杯、力の限りに布団を叩いて 、アダムとイブの二番煎じの、居酒屋の隣の席のカップルのような誰かがすんでいる隣家に向かって、声の限りに叫んだほうが、きっとそのほうがいいのだと思う。たとえその結果が、「隣人が去っていく」という全く同じものだとしても。ブルゾンちえみもネタのなかで「結果なんてプロセスを楽しむことでしかないのよ」みたいなことを言っていた気がするし、もし言ったことがないとしても、手遅れだなんてことは決してないから、いずれテレビから消えるまえに、たった一度でいいからそんな感じのことをテレビで言ってくれたら、それを見たどれほどの数の、俺みたいな人間が救われるだろうか。
二番煎じであることに絶望している暇があったら、騒音おばさんに関する文献やまとめサイトの「騒音おばさんの真実」みたいな参考資料にあたり、奇抜なパフォーマンスや外見からだけでなく、内面から彼女を捉えようと努め、限られた一日の時間を可能な限り騒音おばさんに関することに費やすべきだ。平日は毎日最低4時間はおばさんについて考えることを自らのタスクとして課し、休日はSNSのコミユニティーや自宅周辺のバーなどで知り合った、気のおけない騒音おばさん仲間と快哉を叫び、テキーラをあおり酩酊、その結果、ブルゾンちえみのコスプレ姿をインスタにのせるタイプの女子と夜更けのホテルにしっぽりしけこむ。人生で一度でもいいから、ブルゾンちえみのコスプレ姿をインスタにのせるタイプの女子と心の交流と呼べるような暖かい言葉のやりとりや、アッツアツのほっけやあじみたいにパッカリ体を開いてもらえる瞬間が訪れたら、それはなんと豊かな人生だろうか。
物心ついてからずっと、とにかく無理をすること、無理をさせられることが嫌いで、できる範囲で寝たいだけ寝て、食べたいだけ食べ、やれることのみをやれるだけやり、無理強いするのも無理強いして来られるのも、無理している人の無理した言動とかも、俺にはまじ無理、と思って、できるだけ無理せず、無理させられないことを目標に生きてきた気がしている。今考えると、寝たいだけ寝て、食べたいだけ食べて、やれることのみをやることで誰かに無理はさせていただろうが、そういうことも含め自分は気づくのがいつも遅いので、今現在も気づいていないたくさんの過失をおかしているはずだ。まあそれはそれで、人間だもの、みつを。とか思っているからぬけぬけすごしていられるわけであるが、働き出して三年ほどが経過し、ここ最近、時間の過ぎ方がものすごく早い。その早さは、若干怖いくらいで、でもおそらくその怖さが「若干」であることこそが本当は怖がらないといけないことな気もするが、10年前の夜中の鼻血みたいに怖がる元気がない。最近は食べたいだけ食べると太るし、寝たいだけ寝てもなんとなく疲れる。無理してる人を見るのは好きではないけど、必然性を感じられるくらいにトチ狂ってる人を見るのは好きで、必然性を感じられるくらいにトチ狂える状態が自分にも訪れたら楽しいだろうなあという想像は楽しいが、果たしてそんな空疎であいまいな想像をしている場合なのか。かといってそうでなければ、それじゃあ今自分は一体どんな場合なのか、一向に分からない。
富と名誉と野心と運動能力の代わりに幾分の背丈を得た岡村隆史のような、面白くもないくせにユニークにこだわる、あまり魅力があるとは言えない、鬱傾向のスカンピン中年に自分はなるのか。今からでも遅くないのなら、少しでも富と名誉につながることを考えたいが、なにぶんあまり慣れていないのでとっかかりがよくわからないし、乾坤一擲そのようなバトルフィールドに向かったとしても、そこにはいびつな目をした歴戦の猛者がひしめき、彼らは富と名誉のことをずっと考えて生きてきているのだから、付け焼き刃の俺はすぐに、精神的な意味で顔面を殴られ、精神の鼻骨を折られ精神的鼻血を出し、慌てふためき逃げ帰り夜中、29歳のおっさんが精神的鼻血で精神の救急車を呼ぶ、なんてのは精神にまつわる大恥だと思い、一晩中精神の両穴にティッシュをあてがいうずくまり、それでは間に合わなくなり枕もとのエロ本を赤くカピカピに染め上げ、翌朝、精神的に歪みきった鼻筋で、ぬらぬら会社にいくだろう。
丈夫に生んで育ててくれた親のおかげで、身体的なコンプレックスはあまりなく、あったとしてもそれは全コンプレックスの内の2割程度で、しかしそれはとりもなおさず残りの八割を精神的なコンプレックスが占めている事実を明るみにしてしまう。精神的なコンプレックスの原因の8割を親のせいにしてしまう、なんてことは見当違いであるし許されないと分かっているが、人間だもの、みつを。のノリで時間にして2:8の割合でしてしまう。身体的なコンプレックスのひとつは鼻である。高校の時、野球部の練習試合で、ピッチャーの投げた球をバントしようとし、失敗してボールが鼻に当たった。大量の鼻血が出て、ベンチの隅でアイスノンをあてがいうずくまった。それ以来、普段眼鏡をかけていると分かりづらいが(身体的な)鼻筋がジェロムレバンナの35億分の1くらい歪んでいるのである。
とはいえ、それがなくても、そもそも自分は通常より穴が大きくてすこしうわむいていると思しき鼻がずっとコンプレックスで、その特徴のせいで、嘘をついたり、電車でパンチラを盗み見たりする際などの、ポーカーフェイスを繕うことで利益が享受出来る場面において、小鼻のヒクつきが通常より目立ちやすいために動揺が露呈し、結果普通の鼻の人より損をしている可能性と、普通の鼻なら格納されているはずの量の鼻毛すら飛び出てしまい、鼻毛が出ているという状況が平均より多く起こるふしがあるのという可能性をぬぐえずにいる。でも多分、本当にコンプレックスに感ずるべきは、自らの小心や助平や自堕落を鼻の穴の直径のせいにしようとする自意識をもった卑しい心根であることが、京橋に引っ越して一年、29歳になってようやくわかり始めた。田村正和みたいな鼻が良かった。