「そんなお前に、再びこの言葉を贈ろう」
薄暗い崩れかけた廃教会で邪神の神託が下される。
「脆き者よ、汝の名は『正義』なり」
神託を受けるのは正義と天秤を掲げる女神の眷属。
正義を信じ、仲間と共に駆け抜けて来た未熟な少女。
「そして、愚かなる者もまた、『正義』」
邪神の神託に反論すら出来ず、心を折られ崩れ落ちるように地に膝をついた。
放心し、焦点の合っていない瞳で地を見つめ続ける少女の姿に心底失望したという表情を隠すことなくエレボスは大きく息を吐いた。
「ここまで脆いとは。お前の在り方には期待をしていたというのに、残念だよリオン」
エレボスはたったいま自分の問いで心が折れたリオンから視線を外し、次の手を考え出す。
自分という絶対悪の邪神を撃ち滅ぼしてくれるであろう正義の持ち主。
正義を掲げるアストレア・ファミリアの中ではリオンが適任であったが、今後リオンが立ち直ることがなければ計画を変更する必要もある。
『大和竜胆』か『
それでは駄目だ。自分が望む正義とは噛み合わない。
他に適任となる者は、『
だが、彼女はアストレア・ファミリアでなく群衆の主であるガネーシャ・ファミリアの冒険者だ。
彼女自身は適任ではあるが、これからのことを考えるとズレてしまう可能性が大きい。
なら、『
リオンが立ち直らなければ、その時に適任だと思われる者に絶対悪を滅ぼしてもらうしかないが、現状だとそれが一番無難ではあろう。
ひとまず自身の計画修正の方向性を決め、エレボスは未だに崩れ落ちたままのリオンを放置し、計画の修正点を話し合う為に背後に控えていたザルドとアルフィアに身体を向けた、その時。
―――えぇ、そうね。『正義』なんて愚かで脆いモノよ。
声が聞こえた。
―――正義も、そして悪も。強大で理不尽な力の前では無力で無価値でしかない。
年端もいかぬ少女のようで、凪の大海のような深さを響かせる声が。
―――でも、そんな儚い存在だからこそ、ヒトは憧れるのではないかしら?
視線を動かし、声の出所を探す。
ソレは教会の片隅にある崩れた瓦礫に座りこちらを眺めていた。
何故、今まで気付かなかったのだろうか。
「初めまして、絶対悪の邪神さん」
そこに存在したのは穢れを知らぬ極限の白。
処女雪のような白い髪、陽の光になど当たったことがないかのように透き通った白い肌。
華美な装飾などはないシンプルだが美しい形をした純白のドレスを身に纏った少女が、そこに存在していた。
少女の相貌は数多の女神どころか美を司る女神よりも美しく整っている。
そんな少女が薄暗い廃教会に存在するなど、これ以上ないくらい違和感を覚える光景であった。
なのに、エレボスも、ザルドも、アルフィアも誰一人声をかけられるまで少女の存在に気付かなかった。
そんな自分たちを嘲笑うかのように、災いを告げる深紅の満月を思わせる少女の瞳が自分たちを見つめていた。
「本当はもっと早く挨拶に来るつもりだったのだけど、貴方たちの
座っていた瓦礫から立ち上がり、コツコツと小さな足音を立て少女がこちらに近づいてくる。
先程までリオンにつまらなそうな視線を向けていたアルフィアとザルドが、少女から何かを感じとったのか、静かに身構えたのが雰囲気で理解出来た。
「ダンジョンの37階層は遠かったわ。わざわざ私が出向いたのに、撫でただけで壊れてしまう脆弱な存在だったのがとても残念だったけど」
バレている。この少女に自分たちの計画が知られている。
地上で複数の神を送還し、それを陽動にダンジョンの深層で神威を解放し神を憎悪しているダンジョンに強大なモンスターを産み出させ地上へ侵攻させるという自分たちの切り札を、この少女は知っている。
それどころか、この少女はいま何と言った?自分たちの切り札を潰した?こんな戦いも知らぬような姿をした少女が?
ありえない。
あの呼び出したモンスターは最低でも推定Lv.6以上、それをこの少女は単独で討伐しただと?
そんなこと、ありえるはずがない。
「
これ以上は少女に話をさせる訳にはいかないという直観からアルフィアは警告もなしに魔法を少女に放った。
ハイエルフの女王とドワーフの戦士を容易く沈めた不可視の衝撃が少女に直撃し、長年放置されていた廃教会の埃が舞い上がり視界が遮られる。
「まぁ、いきなり魔法を撃たれるなんて……私、何か悪い事をしたのかしら?」
だが、少女は何事もなかったかのようにそこに立っていた。
身体どころか身に纏う白いドレスにさえ傷ひとつ見当たらない。その姿に、アルフィアは戦慄を覚える。
土埃でドレスが汚れてしまうと手で白いドレスを払う姿は、どこまでも場違いでしかない。
「ふんっっっ!!」
アルフィアの魔法は少女に何の痛痒も感じさせなかったという事実から間髪入れずに立ち直ったザルドが少女に接近し、少女の身の丈程もある大剣を振り下ろす。
ベヒーモスの毒で弱っているとはいえ現都市最強を沈めたLv.7の一撃。下位の冒険者では視認も出来ず、上位の冒険者であっても致命の傷を負わせるであろうその一撃を、少女はこともなげに指一本で受け止めた。
「鈍くて軽いわ。その程度では私の薄皮一枚斬る事は出来ない」
有り得ない物を見たという表情をしながらザルドは剣を引き、少女と距離を取る。
アルフィアもザルドも驚愕を表に出さぬよう集中しながら次の一手を模索する。
が、少女の方が次の行動を起こすのは早かった。
「貴方たち2人にも話はあるけど……今は寝ていなさい」
パチンと、少女の指が鳴らされる。
たったそれだけの動作で、ここ数日都市の冒険者を蹴散らし続けたザルドとアルフィアが悲鳴どころかうめき声ひとつ上げることもなく倒れ、無力化された。
何が起こったのか、2人が何をされたのかが全くわからない。
「何だ」
天上に住まう神々は、退屈を誤魔化し地上に未知を求めて降りてくる。
自分もそんな神々の一柱であり、いまは地上の滅びを回避する為に絶対悪を名乗った。
本来であれば、他の神同様に未知の状況を喜び楽しんだかも知れない。
だが、いらない。
「お前は一体何なんだ!?」
こんな未知は求めていない。
自分はこんな理解出来ない存在に遭う為に、地上に降りて来た訳ではない。
「あら、ごめんなさい。自己紹介を忘れてしまっていたわ」
くすくすと手を口に当て、楽しそうに笑う少女の姿をしたナニカ。
その美しい相貌も、鈴のような軽やかな声も理解不能な不気味なモノに成り下がった。
「その前に、そこの娘を仲間の所に連れて行きなさい。その娘が私の事を知るのは、まだ早いから」
少女の言葉に極東の忍のような服装をした3匹のアイルーが姿を現しリオンを運んでいくのを視界の端で捉えたが、それを止めることは出来なかった。
いま少女から目を離せば、死ぬ。
神である自分は例え地上で致命傷を負ったとしても天界に送還されるだけのはずなのに、そんな自分が
背に冷や汗が流れ、口の中が乾いていく。
本当に久しく感じていなかった恐怖という名の感情が、身体の底から湧き出て来る。
「私は祖龍。祖龍、ミラボレアス」
「世界に滅びを齎す禁忌とうたわれる古龍のひとつ。全ての龍たちの祖となる龍、ミラルーツとも呼ばれているわ」
そう名乗った少女は、ドレスのスカート部分を摘まむと片足を後ろに引き、もう片方の膝を軽く曲げ見事なカーテシーを魅せてくれた。
その優雅な姿は少女の容姿の良さもあり、美の神にも勝るものであった。
こんな状況でなければ、自分に向けられている寒々しい雰囲気さえ無ければ、思わず見惚れていただろう。
「普段は私が創ったダンジョンの奥でヒトが懸命に生きる様を眺めてるだけの無害な龍だけど、今日は貴方たちの計画を潰しに来たの」
そう言って、彼女は再び笑った。
自分へと向けられたその美しい笑顔に、背筋が凍るように震える。
「短い間にはなるけど、仲良くしてくれると嬉しいわ」
本来笑顔というのは、威嚇の意味を持つ表情だったということを存分に思い知った。
泣きたくなるくらい恐怖を覚える美しい笑顔など、永い神生でも初めての経験だ。