私が子供の頃は旧約聖書の神と称する声が臨んでいて、この地球は魂の修学の場(天人の苗床)として私がこの星(船)を創ったと聞かされました。大本教からこの地球を創った存在は金龍の姿をした神で、その神名は日本書紀で初発の神と記載される【国常立尊】として出されました。その神が蛇霊に憑依された神々の反乱により、表舞台から退かれたことから【艮金神】と呼んだです。
私に臨んだ霊はその国常立尊とは名乗らず、旧約聖書の神の呼称でしたが【天人の苗床で有る地球に住む人類の魂をこの地球と瓜二つの同型の新地球船に移し、永遠に嬉し嬉しの世に渡す。】と告げられたのです。その世界のことが一般に【みろくの世】と呼ばれているなのです。
この地球を【船(号)】という意味は、この地球は自然に動いているのではなく、ある意思の元に人の目には解らない【霊的エンジン】が存在し、人類が神と呼んでいるところの神では無い神がこの地球船の【機関】の運航に携わっているのです。スピリチュアルだとこの地球がどのような形態のエンジンで動いているかの話はまず出て来ません。語ろうとしないのです。この地球を動かすエンジンの存在を考えないスピリチュアルとは不思議な存在と言えます。
地球は船で、船には運行の期間や機関や帰還がある
しかしそれはこの地球と呼ばれる星に住む人達からすると、新地球に移行するということは全員が肉体的な【死】を体験をすることになります。どうしてそんな体験をしなければならないのか?。その理由がよく解らないなのです。まして次元界等の存在は最近の話で、お釈迦様やイエスの時代には解らなかったことです。
私は子供ながらその疑問を旧約聖書の神と称する声にぶつけてみました。するとその理由は【この世をよく観察していれば、自ずからその理由は解る。その終わりの日が何時かとは言えねども、確実に言えるのはそなたはその日を自分の目で見るだろう。】と言われます。
私は伏見稲荷山神界で神霊界の修業のお世話になり、稲荷大神たる豊受姫に本当にそんなことが起きるのかと質問したところ、豊受姫は【その時期は何時とは言えねども、それは間違いなく貴男がこの世に生きている間に起きます。貴男はその時の光景を自分の目で見るでしょう。貴男はその嵐の中を突破されます。】と言われます。単なる肉体の死ではなくて、大本教が予告した立替の嵐の中を突破するです。
そこに出て来る論理が肉体と魂とを結んでいる霊子(たまのこ)線の切断です。西洋神智学やスピリチュアルでは【シルバーコード】と呼んでいますが、必ずしも銀色の線とは限りません。で日本神道系の宗教ではその線のことを霊子(たまのこ)線と呼んでいるようです。この線を切断することで、魂と肉体とは別世界の生き物となります。
仏教で説かれる輪廻転生とは肉体の生死の話では無く、魂と呼ばれる【永遠に生きることが可能な意識を持った生命体】を指します。魂が抜けた肉体は植物の様な生命体にしか過ぎず、永遠に生きるではないのです。魂が抜けた肉体はやがて腐って行きます。
この世の人は霊魂たる存在の自分を理解出来ていない
この世は魂の修行場で、天人を育てないと価値を失う
だが今やこの世と呼ばれる世界は【天人の苗床】としての価値を失ったと言えます。今の世で天人に成るのは不可能な領域に入って来ています。誰もが自分勝手になって来たのです。神が定めた掟すら、もう考えようとする人も極端に減ってしまったのです。人は神によって生かされていると考える人は極端に減りました。何故に神が生命体を男と女に別けられたのか?。その意味すら無視されてしまった。霊界もゾンビの様な存在ばかりが増えているなのです。
スピリチュアル標榜で【神は愛だから何をしても赦してくださる。】等と言っているのではなく、地獄界に降りてよく見分してから物事を言いなさいなのです。地獄とは神が神や霊に罰を与える為に創った世界ではなく、地獄的想念を持つ魂がその想念に相応しい世界を自ら創り出して、自業自得で落ちているだけなのです。地獄とはそうした霊が集まって創っている世界と言えます。
宗教の間違いは、神が天国や地獄を創っているでは無い
大本教の出口王仁三郎聖師が【天国に案内すると言いながら、地獄に案内している取次ばかり。】と残しておられます。自称救世主に導かれて地獄道(亡者道)を歩いている方達が多数見受けられるなのです。そうした自称救世主が案内するという天国界とは、その信徒達を奴隷とする自分の王国の話と言えます。
自称救世主を拝んでも、自分の魂が磨かれるでは無い
自分の魂磨きを言わない神達は、そのほとんどが邪神
大本教霊界物語に【鏖殺】の言葉が出て来ます。この【鏖殺】とは【皆殺し】の意味ですが、私は大本教霊界物語を読むまでは、この【鏖殺】の言葉を知りませんでした。通常みなごろしは【皆殺し】の漢字を使います。どうして皆殺しに誰も知らない【鏖殺】の言葉が使われたのか?。その謎です。
漢字学者でも、この【鏖】の漢字の意味はよく解っていません。この金は【鍋】で鹿肉を煮る程度の解釈しかないのです。鹿肉の鍋だから皆殺しでは言葉の意味が解らないとなります。
魂は【丸い玉】で、玉(魂)と玉(魂)がぶつかれば、霊的な爆発音を出して閃光を放ち、その場が一瞬に光り輝きます。すなちわち魂の死は玉が砕ける【玉砕】です。魂を砕くならば話も解りますが、金鹿殺しでは意味が解らないなのです。
大本教霊界物語は大本教の出口王仁三郎聖師を媒介者として霊界から降ろされた物語で、物語の筋は霊界が出したものです。出口王仁三郎聖師が霊界物語のそもそもの原作者ではありません。ほとんどの人が知らない漢字、意味が解らない【鏖殺】の言葉に秘められた意味は何か?。です。
大本教が予告した世の立替論は【三千世界(全宇宙)一度に開く梅の花。開いて散りて実を結ぶ。】で、そこには全人類は肉体と呼ばれる魂の服を脱いで、魂と呼ばれる果実と成るが歌われています。その果実たる魂の種の中に【天神様と呼ばれる仁が在る。】のです。世の大立替と呼ばれる事柄は、この地球上の全人類は一度は【死】を免れないなのです。それ自体は聖書においても第一の死と第二の死として昔から予告されています。
第一の死は肉体を持つ存在は全員が死ぬです。そして霊界で最後の審判と呼ばれる創造神による裁きを受けて、キリスト教ではイエス一人だけを主の御子と認める者達は永遠の神の御国(天国)に救われて、そうではない者達はその時点で霊魂そのものの命が終わるとする説です。そこにイエスの復活が説かれるなのです。キリスト教徒とはその最後の審判の日にイエスがこの世に降り立つと信じている信徒集団と言えます。イエス自体は霊的世界に関わればその存在を見る人達は居るでしょう。
本当にイエス一人を主の御子と仰げば、仰いだ者は一人残らず神の御国(天国)に渡れるのであればそれはそれで良いとなります。しかし実際はどうなのかです。イエスにそれだけの力はありません。キリスト教では冥府の長官をサタン扱いにしていましたが、そこに【輪廻転生】が何故に起きたのか?。そこまで教えそのものが至っていないなのです。人は自分の魂を磨く為にこの世に降りたのであって、イエスを神として仰ぐためにこの地球に降りたではないからです。
この【皆殺し】は、何故に鹿を殺す【鏖殺】のか?
鹿と呼ばれる漢字に、何が秘められているのか?
聖書でもその時は全員が死ぬと残されているのに、ほとんど日本人が見たこともない言葉の【鹿金】で皆殺しなのか?。その意味が解らないと言えます。しかもどうして古来よりこの世の終わりが言われて来たのかとなりますと、それは霊界に存在する映像にこの地球を動かすエネルギーが途切れる。すなわちこの地球が静止する映像があるのです。
その時にはこの地球上を覆っている雲や空気がこの地球上から消え去るが起きます。そうなるとこの地球はこれまでのような肉体を持った人類が住める星とは違って来るのです。
私は伏見稲荷山で神霊界に関わり、観音様から【観音経】を聞かされた時にその観音経の間にブレス(呼吸)が無かったことから霊には【空気】は必要無いと解りましたが、三次元世界に生きる生命体には【空気】は欠かせないのです。空気が存在しない世界とは三次元世界ではないのです。
モーゼはユダヤ人を引き連れて紅海を渡り、【四十年】も荒野をさ迷い、【カナン】の地を目指しました。これは創造神が示された一種の【型】であり、そこに【41】にて神の御子と成る型が秘められたなのです。イエスは四十日間荒野をさ迷って悪魔を退けたことで、明けて【41】日目に主の一人御子に成られたではないのです。最後の審判とされる【火難】の中を行く。
地球が静止する時、三次元を終えて四次元界と成る
それ自体は魂の終わりでは無く、四次元界への道
霊世界にはこの地球を動かしている地球の核エネルギーが爆発する映像があると言えます。もしそれが本当に起きたとするならば、その時の光景を見た魂にはその時の映像が魂の目に焼き付くことになります。それは魂に【トラウマ】を創り出します。それだけは絶対に阻止しなければならないのです。ただ多くの霊能者の方は、この地球の核に存在するエネルギーが核爆発する兆候は無いと言っておられます。多数の霊能者の意見が正しいのであれば、それは起きないのでしょう。しかし私はその映像を見たなのです。そこには【万一】があるのです。
ただ一部の霊能者の方達は、この地球の核爆発は震度10と呼ばれる大地震を引き起こすと言われる方達もあるのです。地震の震度に10の値の数字はありませんが、霊的世界にはこの【10】の数字が出て来るがあるのです。仮にこの地球に震度10を意味する様な地震が起きるのか?。あるいはマグニチュード10もある大地震が起きるかは解りませんが、起きたとしたならばこの三次元世界は終了するともなります。
日本神道界では【塵(ちり)】を嫌います。この【塵】も【鏖】にも【鹿】の字があります。塵は群れた鹿が走って出した土煙の様な微細な存在を指します。新築の家でも家に鍵をかけて留守にしていれば家の中に塵が積もっています。自分はこの世で何の悪行もしていませんと言ったところで、その魂には必ず【塵】的汚れが付着しているのです。
何故ならばこの世は【土埃】を固めた様な世界で、誰かが土埃を舞い上がらせるとその塵は私達に懸かって来るのです。自分は何の悪行もしていませんは、自分の身に降りかかった【塵】の要素を忘れた発言にすぎないのです。
魂も何もせずとも塵が覆う。魂は常に祓い清めがいる
みろく世に渡るには、魂の汚れを全て取る鏖殺が要る
予言教団。予告教団として数々の予言をして、その予言を的中させて来た大本から出された【鏖殺(皆殺し)】の言葉の背景には、この地球上では今の様な三次元人類が住めなくなるがあるのです。そこに【最後の審判】と呼ばれる事柄が起きて、永遠に嬉し嬉しの【みろくの世(567次元界)】に進む魂と、そうではない既存の荒廃した【みよいづ(345次元界)】の世界に残る魂との永遠の別れとなるが説かれているなのです。
私の様に人類は【新地球に移る】と説いている者は今では少数も少数派になりました。もう壊滅状態です。それを告げた存在は【国常立尊(ウシトラ金神・閻魔大王)】と呼ばれる神なのです。黄泉の国の長官としては世に知られていますが、それは本当に悪神だったのか?。サタン(悪魔)であったのか?。なのです。その背景には何十万年にも渡る【神界闘争】があったのです。それを世に告げたのが大本教と呼ばれる宗教だったと言えます。
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