世の大立替を宣伝した大本教から、みろく世に生きる住人には【水晶魂】が授けられると説かれました。それは大本教から予告された世の大立替論は、単なる世の立替論ではないなのです。創造神は土台から宇宙を造り変えるです。しかしそんなことは現実に可能なのかとなります。そこに大本教から宇宙開闢以来の【2度目の天の岩戸開け】が告げられたなのです。
宇宙開闢以来の天の岩戸開け?
私は子供の頃に臨んでいた旧約聖書の神と名乗る霊声から、【この日本の天岩戸開け神話は、その様な事実が在ったのでは無い。私が最後の審判を実施するにあたり、私が人民を使って創作させた物語である。そなたは何故に私があのような神話を創らせたのか?。その意味を紐解くが良い。】と告げられました。
私は神霊界修行を稲荷大神である豊受姫にお願いしました。その豊受姫も私に日本神話の天の岩戸開け神話は、その様な事実が有ったのでは無いと告げられ。そこに在るのは西洋で語られる【最後の審判・火の審判の火】と、日本神話の天岩戸開けの【火】の関係です。実は同じ事柄の表現の違いと言えます。
私は伏見稲荷山に関わって、当時の伏見稲荷大社の神官で豊受姫と会話が可能な神主さんはたった一人しか存在しておられませんでした。伏見稲荷大社は五座神で、中央は【豊受姫・白菊大神】です。どうして豊受姫と呼称される神霊と白菊姫と呼称される御神霊があるのか?。それすら伏見稲荷大社の神主は解っていませんでした。神主として実際に豊受姫、白菊大神を拝見すればその答えは簡単に解ります。田中社は大国主命で伏見稲荷山では【權大夫(ごんだゆう)】さんとも呼ばれていますが、何故に大国主命が權大夫さんと呼ばれているのか解っている方もほとんどないのです。だがこれも実際に見ることが出来れば解るのです。
その稲荷大神五座の中で佐田彦大神は天孫降臨の案内役で知られた【猿田彦】であり、大宮能売大神は猿田彦の妻神とされる【天宇受売命】なのです。そこには【国常立尊】が仕掛けられた【天之岩戸開け】には、稲荷神界が深く関わっているなのです。
創造神とは初めの神で終わりの神、終わりで始めの神
人類が創造神と呼ばれる神に出会う時は破壊と再生時
で、その土台はこの地球では無く、この地球と【瓜二つ】の高次元世界に存在する霊的な星で、これまでの人類が知ることが無かった世界になるです。それはスピリチュアル標榜者も含めて、次の世はみろく(567)と呼ばれる五次元霊界以上と見るなのです。スピリチュアル標榜でも過去に死んだ人達が霊世界で生きていることは見えていますし、霊世界の存在もある程度のことは解るのです。しかしみろく世の五次元霊界とはこれまでの私達が知る五次元霊界では無く、知ることがなかった五次元霊界と言えます。
私が子供の頃に臨んでいた旧約聖書の神と称する霊声は、【人類がその新地球に移行しても何の違和感も感じない。見る風景もこの地球とまったく同じである。ただその星に住む人達とは、これまで自分が接して来たこの地球の人達とは限らない。自分の周りの人達がこれまでの自分の周囲の人達とは変わる。】と告げられたのです。
これまでは自分が天人界から出て来て天人界に帰るとしても、それは天人界とこの世との間を往復していただけであって、この世はその天人界から【修学旅行】に出た様な時間に過ぎなかったのです。その天人界も地獄界も含めての根本的大立替なので、自分がどのような世界に入るのかが解らない面があるのです。自分が未来永劫に行く世界はこんな世界かと解った時には手遅れも起きるなのです。それはこれまでの自分の生き方の結果がその地位を決めるからです。
大本教神諭に、その時は【上に行く魂。下に行く魂でごった返す。】とある様に上の界へ下の界へとドタバタなので、上に下にの人類の【大峠】とも言うのです。
その永遠に嬉し嬉しの世界に今の地球に住む私達の魂を持って行くには、岡本天明師の日月神示(orひふみ神示)で明らかにされた【三四五(みよいづ)次元】界用の魂では、【みろく(五六七)次元】界用には適していません。
魂そのものは、お釈迦様やイエスやモーゼで語られる高度の八次元霊界の存在もありますが、この三次元世界に即した魂では難しいのです。
今の【三四五(みよいづ)】用の魂の欠点は、魂が腐る
みろく世は、五六七次元界用の魂に誂える必要がある
魂と呼ばれる漢字は【鬼が云う】であり、その鬼は節分の夜に炒り豆で【鬼は外】と追われていました。それが大本教基本宣伝歌に【節分の炒り豆にも花が咲く。】と宣伝された由縁と言えます。
仏教に【輪廻転生】の教えはあるのですが、輪廻転生を起こす【魂】の漢字は鬼と云うになっており、それでは意味が解りませんでした。魂は【玉思惟(タマシイ)】でないと意味が解けなかったのです。玉思惟の【思惟】は深い洞察力で、これが【恣意】だと何をしても自由だという勝手な思い。自己中の人になってしまうのです。ただ思惟であろうと恣意であろうと、そこには【心】の漢字が使われるなのです。
人の肉体の心臓に宿る魂は野球ボール玉程度の大きさの物で大人の手の平に乗る程度、肉体の心臓の部位に重なる形で宿りますので【魂は心】となります。そして霊(チ)の汚れを血(チ)に入れて心臓で浄化していたと言えます。スピリチュアルの神は愛だから何をしても赦してくださるでは霊(チ)の汚れの浄化を放棄してしまい、自分の魂を腐らせる方向に走るなのです。
日本神道でチ(血)の汚れを嫌ったのは、チ(霊)の汚れ
霊(チ)の汚れで黒くなった魂は、魂の【心棒】が徐々に腐り始めて、魂の真ん中に心棒を意味する【杭(くい)】が存在しなくなります。為に魂の【核(天帝の分魂たる直霊)】が無くなり、魂の真ん中が【空洞】になることで穴が開いた魂となってしまいます。この状態が【良心(天帝の分魂)】神が消えた状態で、悪魔(空く間)と呼ばれるなのです。別に反イエスが悪魔では無いのです。
キリスト教が説くイエス一人が創造神の一人御子で、イエスを拝んでいない異教徒は地獄界に落ちるなどは、宇宙をひっくり返してもどこにも無いなのです。
そこに魂に心棒(杭)が無くなったら【空く間】化する
悔い(杭)改めることで、魂に新心棒(杭)が誕生する
魂とはテレビの超常番組でよく写し出されているオーブ玉ではありません。オーブ玉は日本では【思念】とされており、思念玉はその思い(想い)を遂げると消えて行きます。古来より【この恨み、七代に渡って祟ってやる。】等が思念(死ねん)の玉なのです。で思念玉は目的が適うと満足して消えて行きます。そこに仏教の【供養】の概念があります。
人はこの世に生きている時は誰しもは【思念】を放っています。それは【想念】とも呼ばれており、霊感を所持している人ならば誰かが自分に対して想念を放っていると、その人の顔が突然に見えたりする体験を積んでおられるはずなのです。その時、その人の顔は見えるでしょうが足元は見えない。世に幽霊と呼ばれる存在は顔は見えますが足元が見えないケースが多いのは、それらは魂では無くて【思念(想念)】だからと言えます。
スピリチュアルも、みろく世は高次元界と説くが
魂が腐らない【水晶魂】に代える話が出ていない
大本教から、記紀神話の日本書紀では初発の神として記載される【国常立尊】様は悪業に厳しい神様であったので、蛇霊の囁きに毒された多くの神々から【悪神とか悪魔】とされてしまいました。多数決の原理で強制的に【東北】に引退させられたことから【ウシトラ(艮)金神】と呼ばれていると出された時、私は意外な感じを受けました。
それは私が子供の頃に臨んでいた旧約聖書の神と称する霊声は、【全ての神達が束になってこの私に敵対したとしても、私は一体で全神々を倒すだけの力は有る。】と告げられたからです。全ての神を倒すだけの力を持った神が本当に【引退されたのか?。】と感じたのです。もしかするとこれらは【神芝居】の一環では無いか?。です。
私が初めて伏見稲荷山に上がった時、伏見稲荷山での豊受姫は私の任務には創造神と呼ばれる神の存在を【言葉で宣伝する役目があり。その創造神は天帝と呼ばれる。その天帝に敵対する神達は如何なる地位の神で在ろうとも、その天帝に倒される。】と告げられました。天帝に勝てる神などは最初から無いと告げられたなのです。
その時、全ての神達を倒すだけの力があるのに、何故にその力を隠し秘めて最後にならないと人類の前に出て来ないのか?。の疑問です。そこに【始めにして終わりの神】と呼ばれる意味があるのです。
創造神と呼ばれる神が表に出る時は、この世の終わり
大本教神諭には、艮(ウシトラ)には【牛虎】もあるぞよと出されましたが、この牛頭虎パンツの【鬼】こそ、国常立尊の大仕掛けと言えるのです。
みろく世は永遠なので腐らない【水晶】の魂を必要とする
水晶魂は【牛虎金神】でないと、創り出す事が出来ない
単に【魂】と呼ばれる漢字に、どれほど深い意味が秘められていたのか!。仏教の開祖のお釈迦様の守護神は祇園精舎の【牛頭天王】ですが、旧約聖書のモーゼも【牛頭】の主とされています。そのモーゼによる【40年間の荒野のさ迷い】は、五六億七千万の【みろく(三六九)神】を日本語で解き明かす遠大な計画の元に存在したなのです。
大本教霊界物語では、国常立尊の一厘の秘密たる御神宝は【シナイ】山に埋められたとしています。それは(シナイ山)明らかに【モーゼ】の話につなげてあるのです。大本教神諭は神三千年の仕組みと出しました。モーゼはシナイ山で、【この神以外の神を神と仰いではいけない。】と告げられたです。
それは私が子供の頃に臨んでいた旧約聖書の神と称する霊声から、【この私を創造神と仰ぐ者は、一人残らずこの私が救う。】と告げられたことと同じなのです。別にこの私をキリスト教のイエスの様に拝む対象にするでは無く、一人一人の人が【国常立尊】に直に繋がるなのです。モーゼのシナイ山の話が解っているならば、イエスを拝めばでは明らかに話がおかしいなのです。
日本古神道では早くから人の魂には【直霊(天帝の分魂)】が備わっていると説いており、天之御中主や国常立尊の御神名で天帝と呼ばれる神と繋がる道があることは出されていたのです。そしてその天帝の働きは【良心】神の働きであることも出されてはいたのです。それが【伊都能売】等の神名になっていたのです。ただそれはお釈迦様の悟りで有った【人には良心と呼ばれる神が内在している。】とまでは出せなかったのです。そのお釈迦様の悟りも【大乗】の教えに埋没してしまったなのです。
大本教から出されたみろく世の【水晶魂】に関しては、一部の霊能者は【水晶魂】では肉体に入れるのは重すぎるのではないか?。また水晶玉の様な物質ならば落とせば割れてしまう。そうした危惧を言われます。
今の世の人達の胎内に存在する魂とは非常に軽い物で、ほとんど重さが無い【気体】的な存在とは解っています。一種の【気球】玉の様な感じです。霊能者ならばその魂を自分の手の平の上に乗せて、魂に付着した汚れを【フッー】と自分の息で吹き清めるなどをしたりしておられます。この【フッー】と吹くは、魂の表面に着く霊的な塵汚れを拭くにつながるのです。
魂の表面の汚れを常に祓えば、魂が腐る危険は減る
大本教から宣伝された水晶魂、見た目でも【水晶の玉】に似通っており、重量が有るように見えるのですが非常に軽いのです。硬質玉の様な感じなので落とせば割れるのではないかという感覚を受けますが、やはり気球の様な弾む感じなのです。が、魂の表面は水晶玉の様な硬度を持っていて、表面は拭けば汚れは落ちて腐らない特色があるのです。すなわちみろく世用の魂は腐らない。魂の破砕から逃れる。為に永遠性を持った魂と言えます。
今の人の中に入る魂は、蛇霊の【食い破り】が生じて、蛇霊が人の魂を食い破って人に成り済ますが起きていましたが、みろく魂にはそれは出来ないとなります。
みろく世は永遠だは、魂が腐らない破壊されない
そのみろく世に進む水晶玉の中には【白十字】が入った魂も存在しています。この白十字は不思議な見え方がします。常に見ている者の正面にその白十字が見えるなのです。この水晶玉そのものはこれまで何人者の人も見ておられますので、私一人だけが水晶魂の視認者ではありません。また【円球】だけでなく、各種の形をした水晶魂が存在しています。
この水晶魂の授与には【龍神界】が深く関わって来ます。
龍神界の乙姫様の【玉手箱】には、不老不死の水晶魂
私は大本教からみろく世の【水晶魂】の予告がなければ
ここまで真剣に説けなかったかも知れない
この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。