私達日本人の大多数は所属する宗派は違えども、お釈迦様が開かれた仏教徒と言えます。そのお釈迦様の教えの一つに【この世は苦界】があります。苦界の意味は広辞苑ですと【仏語として、苦しみの絶えない世界、人間界を言う。】となっています。普通は生死を繰り返して【流転(転生)】する世のことを指します。流転と呼ばれる生死を繰り返す事柄は【輪廻転生】と呼ばれる事柄を知った上での話です。
しかし【苦界】の意味は【人間界】だけでは、意味がさっぱり解らないとなります。辞書に書いてあることは必ずしも正しくありません。それはその言葉の意味の原典が必ずしも明らかで無い場合、それがどの様な状況からその言葉が出たかが明らかではないからです。
例えば【地獄の沙汰も金次第。】も辞書の解釈は、その原典と成る物を見ていないがあるのです。辞書の解説だけを見ていると閻魔大王と呼ばれる存在でも【金に転ぶ】と勘違いを起こさせます。それは日本昔話にある物語を見ていないからです。私は子供の頃、旧約聖書の神と称する声から【この国(日本)は私の教えが満ち溢れた世界で唯一つの国で有る。世界の宗教書に私の教えは無い。】と告げられました。そして【私の教えは、この日本の昔話や民話や諺や童歌に入れてある。私の教えを知りたくば、日本の昔話や民話や諺や童歌から学びなさい。】と告げられたなのです。
私が子供の頃には旧約聖書の神と称する声が臨んでいて、私に【人は生まれては死に、生まれては死にを繰り返している。】と告げて来られました。すなわち【輪廻転生】です。自称と言えども旧約聖書の神と称する声から【輪廻転生】の言葉が出て来たことは驚くことでした。しかしその人の魂は永遠の命では無く、腐ったりもする。魂を腐らせれば魂の命を終えると言われます。
魂は永遠性を持って長い時間を生きることが出来るにも関わらず。この世の僅かな時間たる瞬時の【刹那心】に溺れてしまい、自己の永遠性の命を持った魂を腐らせてしまうのは実にもったいないことだと言われたのです。そのことを各自が理解していれば、この世の僅かな時間(刹那)に生じる心から自殺を謀ったりもしないはずなのです。この世での一時の苦に耐える力を養うことは、魂にとって大切なことだからです。魂を磨くという事は永遠性を持った魂の命を守る為で有り、その魂を磨くことは辛い作業でもあるのです。
要は、その苦しさから逃げるかどうかです。
この世は魂を磨く場所と心得ていれば、忍耐も出来る
僅かな時間の苦しみから逃げる為の自殺は神罰の対象
旧約聖書の神と称する声は、その輪廻転生の世界の中で自己の魂を磨く場所として私が【この世】と呼ばれる世界を創ったと言われます。確かに仏教は【輪廻転生】の教えを説き、各自の魂を磨く場所としてこの世の存在を説いてはいます。この世とあの世です。死後はあの世に渡るです。この世は魂を磨く場所なので【苦界】と言えます。
一部のスピリチュアル標榜者にみられる、この世は遊ぶ処ですの論は無いのです。しかしその為の魂の修行場であるこの世をいったい誰が創ったのか?。その言及が仏教ではあまりなされなかったと言えます。
そこに、一部の霊能者は旧約聖書のエホバの神は【人間の魂を太らせて食べる為にこの世を創った悪神だ!。】等の説も見られます。そうした論者は、霊界の根本たる摂理、【魂は磨かないと腐る】が解っていないと言えます。私はスピリチュアルで語るエンジェル等は、つまんで泥池の中で修業して来いと一喝して泥池の中に落としてあげると言います。苦しみという泥水をすする体験をしないと解らないことがあるのです。
私は子供の頃、旧約聖書の神と称する声から【私はそなたを社会の底辺に置く。社会の底辺を蛆虫のごとく這ってでも生きよ。】と告げられました。その時は蛆虫とは何事?。【蠅】に成って何の意味があるのかと思いましたが、言葉の道の【這え】は社会の底辺を歩かないと紐解けないようになっていました。そうした社会の底辺の体験を積んだ魂が天人や神と成って行くのです。
この世での艱難辛苦に耐えた魂は天上世界(神の御国)に戻るなのです。この世を遊んで終われば、元の天上世界には戻れないのです。
旧約聖書の神が人の魂を育てて磨く目的は何だったか?
汚れを知らぬエンジェルは、泥池でも咲く白蓮では無い
仏教の【南無妙法蓮華経】の意味は原語であるサンスクリット語では、【根は泥の中に有っても水面に汚れがない白蓮の花を咲かせる仏様に自分は帰依します。】の意味だったことが、最近の言語研究で解って来ました。南無妙法蓮華経の七文字がこの世を創ったではないのです。
苦難を体験した魂で無いと、邪悪の勢力に潰されてしまう
一部の宗教団体の背後には、人の魂を腐らせてそれを食べる存在もあるにはあります。それが俗に【悪魔に死後に自分の魂を食べさせる約束をすれば、今の世での願いや栄華を叶えてもらえる。】の話なのです。この世では悪魔に自分の魂を売る存在の方がいても、天は魂を悪魔に売る行為を止めているではないのです。この世は天国ではなくて、魂の修行修学の場だからです。この世に出ると、どの魂も自己責任の範疇になるからです。
人は自分は願わないのにこの世に降ろされた者ではない
そこに魂の総親神と自分の魂を磨く契約の示しが【禊ぎ】
イエスの有名な教えに、【金持ちが天国に入るのは、針の穴にラクダを通すようなものだ。】があります。西洋のある文豪は牧師からそうした教えを受けて、金持ちだと天国には行けないと全財産を教会に寄進して本人は野垂れ死にをしたがあります。金持ちは天国界に行けないと云うのは表面から見た事象としてはそうなのですが、金持ちが原因で地獄界に墜ちるでは無いのです。そこにはこの世は【苦界】の基本の教えが抜けているのが見えるのです。
宗教家や霊能者の中には神仏の存在と関わりながら、金、金、金に走って死後は地獄界に落ちて行かれた方達も多数あります。自分が祈っている存在は何物なのか?。何の目も向けていなかったなのです。そうした宗教家や霊能者の魂が死後の世界で蛇霊と化しているが見受けられるのです。そこに【蛇と金】の関係があるのてす。
巳さん信仰をすれば金が入るとする信仰は事実です。そこに何故?。そうした疑問が抜けていたなのです。魂の玉思惟たる思惟を働かせず、玉恣意の恣意(自己中心主義)ばかりに走ると【蛇と金】の関係が読み解けないなのです。
金銀財宝を山ほど積んでも、自己の魂が磨けるか?
輪廻転生の世界には、魂の修行場(天人の苗床)が必要
丹波の片田舎の綾部で発祥した宗教【大本】は、希代の予言者たる出口王仁三郎聖師を出して【この世は天人の苗床】を出しました。しかしこの世は天人の苗床で在っても、この世に生きたからで【死後は天国】が約束されているではないのです。天人と成る条件を適えないと天国界には行けないのです。
天人の苗床で生きても、何の【苗】だったのか理解せず
この世は天人の修行場なら、修行場には試練が存在する
私は自分の身に起きた摩訶不思議な事件を起因として、その意味を知る為に多くの霊能者の元に走りました。そうした中で隣市の稲荷神社の神主をしておられた伏見稲荷大社講務本庁の三丹支部長で豊受姫の御代(台)であった砂澤たまゑ師に出会い、豊受姫から私の本守護神は地上神界では国常立尊。天上界では天之御中主と呼ばれる御神霊であると教えて貰いました。
しかしそうした高い御神霊が自分の本守護神だからと言って喜べないのです。逆に自分になまじ高い御神霊が存在すると、苦労に苦労を強いられるのです。そこが天皇家や殿様の家に生まれ出ればそうした身分で暮らせるとは【真逆】の生活を強いられるからです。それは守って貰えるではなく、自分で這い上がらないと見捨てられるなのです。
天之御中主と国常立尊の関連性は既に大本教から出されていますが、私が子供の頃に臨んでいた霊声は旧約聖書の神と称しておられました。その豊受姫から告げられたことから、私的には旧約聖書の神=国常立尊(ウシトラ金神)とが繋がったと言えます。そして私の背後に現れた閻魔大王と呼ばれる存在で、大本教から出された【この世の閻魔】の意味も解けて来たのです。
大本教から出された【節分の炒り豆にも花が咲く】は、閻魔庁の門番たる鬼(牛頭虎パンツの存在)に節分の夜は【鬼は外】と炒り豆を投げつける行為に対してです。当然そこにはその鬼達は閻魔庁の使徒たる役人であることが解ってしている行為となるわけです。がほとんどの人は何の考えも無しでやっているです。それは創造神を追いやったとなる行為なのです。
その豊受姫から、私は自分の父親を9歳で失い。父方の祖父の家を訪れることもほとんどありませんでしたが、その祖父の元屋敷には祠が存在しました。その祠には稲荷が祀られていたと言われます。私はその祖父の家で生まれたことから、生まれた時から稲荷神と関りを持っていたと豊受姫から告げられたなのです。
その豊受姫は私が幼い頃に大病を患い、その時に二人の医師の一人は私の親に私が死ぬ覚悟をするように告げたと言われます。私は親から大病を患い医師から死を覚悟する様に告げられた話は聞いていましたが、二人の医師の内の一人からとは聞いてもいませんでした。
私は神霊界に関わって、神霊には過去の事象は解ると知りました。私はスピリチュアルで盛んになった前世を見る商売人ではありませんが、私の守護霊団から人によってはその人が過去世で何をしたか!。その時にした罪の行為を見せられるがあります。その罪の重さ!。それは今の世の苦しみに繋がっており、可哀想だの概念では処理出来ないのです。今の世で過去世の罪を解消させなければ次の人生へと永遠に引きずるなのです。
この世に居る者で、過去世の罪を負って居ない者はない
閻魔庁の裁きに間違いが無いのは、全て記録にある
その豊受姫は私に過酷な【試練】を与える仕組みをしたが、私の母親の守護神の力が豊受姫よりも上位格の神であったが為に、豊受姫が私に与えようとしていた試練を母親の力が阻害し、これでもか!。これでもか!。と言う試練を私に与えそこなったと嘆かれたと砂澤師から言われました。私を自殺寸前まで追い込む予定だったです。
その時は豊受姫が自分より上位の神と告げられた神が何神かは解りませんでした。私の母親がこの世を去る前に、私の母親に出て来られた神が大本教から【豊国姫(坤金神)】の名で世に告げられた神霊だと解ったなのです。豊国姫であれば、当然に豊受姫より上位に当たる御神霊とは言えます。しかし私の母親の一生は苦労に苦労だったなのです。私の母親も大本教の出口なお開祖の様に【社会の底辺】を歩かされたのです。
スピリチュアル標榜では無い一流の行者筋ならば、本来の神は御利益を授けるのではなくて、高い魂の持ち主にはこれでもか!。これでもか!。と云うほどの辛い試練を与えると言われます。その試練を受けている人から見れば、それは悪魔的存在と思われかねないなのです。
本来の神は、高い魂の持ち主には苦難の試練を与える
生半可の知識で神を語ると、試練を与えるは悪魔と思う
大本教の出口王仁三郎聖師は、【天国に案内すると言いながら、地獄界に案内する取次ばかり。】と述べておられますが、スピリチュアル標榜で語る【この世は遊ぶ処です。魂磨きは辛いから止めましょう。良心の呵責は重いから捨てましょう。神は愛だから何をしても赦してくださる。】の論は、どこから出て来たのか?、単に霊が見えるだけの霊感者の言葉ならば、地獄界に案内されてしまうなのです。
私の神霊界修業のお世話をして頂き豊受姫の御代であった砂澤師は、豊受姫の御代としての修行中、あまりの修行の辛さに2回も自殺を謀っておられます。しかし豊受姫の死なせはしない。自殺を謀っても無駄と解ってからは、どんなに辛いことも前向きで受け止めるになったと言われます。
私も滝行中に受けた滝水の冷たさに脳が麻痺して来ましたが滝場から出ず、あまりにも辛い神霊界修行をおさらばして死ねると喜んだところ、その滝場に三つの光が飛び込んで来て、これは死なせて貰えないと理解した時、私の横で滝行の指導をしていた砂澤師が滝の水を切る水切りの術で私の体に滝水が掛からないようにされたがあります。その時の様子を見ていた伏見稲荷大社講の三丹支部の信者の方達は、私の体に滝水が掛からなくなった現象に皆さん驚いたと言われます。
その砂澤師に滝場に飛び込んできた三つの光のことを聞くと、最初にこの滝場の御堂に祀られている観音様が飛び込まれ、次にこの滝場の守護であるお不動様が飛び込まれて、さらにどこの稲荷様かは解りませんでしたが伏見稲荷山から飛んでこられた稲荷様があり、貴方の身に異常が起きていると解って水切りの術を使って貴方に滝水が掛からないようにしたと言われます。
その時の一行が滝受けをする前、その御堂から御経が聞こえてくるので砂澤師にいったいどなたがあの御堂で御経を上げておられるのですかと尋ねると、砂澤師はこの御堂は観音堂で観音様が祀られています。その観音様が私達の為に【観音経】を唱えて下さっているのですと教えて貰っており、観音さんとお不動さんと稲荷さんとの説明で、私も砂澤師と同様に簡単には死なせて貰えない運命だと理解したがあります。そして皆さんが神は光だと言う言葉にも納得したがあります。
霊能者と呼ばれる方達の中には神は光で姿は無いと主張される方達もありますが、その神の光を人の姿で視認する。霊能力と呼ばれる物は各種あるなのです。
世には神に生かされているが、試練を受ける魂もある
その人に神が付いているかは、死に直面した時に解る
私がお世話になった豊受姫の御代(台)であった砂澤師は、私に【この世ではどんなに辛い人生でもたかだか50年間程度です。その辛い修行の代償として、この世を去って500年間、神様の座に就かせて貰う。そのどちらが得かです。】と言っておられましたが、砂澤師は死後は豊受姫が主宰される稲荷神界の一員の神と成ることの約束がなされていました。
この手の話は日本神道界では死後に神社の祭神として赴任する資格の【神位】を得る話で、大本教神論の【人には神とも成れる魂が授けてあるにも関わらず。】の神と呼ばれる位の話です。大本教霊界物語ではそうした資格を有する魂は【霊国】天使や住人と記載されています。この【霊国】の概念はキリスト教やイスラム教には無いと言えます。それはイエスの霊界での階級は、キリスト教徒が思うほど高くなかったがあります。
しかし神様と呼ばれる地位に上がったとしても、またもや【人(霊止)】としてこの世に降ろされる。そこには岡本天明師の日月(ひふみ)神示における【天の岩戸】の岩戸は数字の【一八十】の意味だと解析された様に、神の位には【百八十】段という位が存在しています。仮に神と呼ばれる地位に上がったとしても、更にその地位を上げる為には【人として、この世に出る】必要があるのです。
現代の霊学では天国と言っても第一天国(如来界)、第二天国(菩薩界)、第三天国(羅漢等)の界の存在が解っています。霊界のどこを見渡しても存在していないとされて来た天帝と呼ばれる存在は、既存の第一天国界よりも上界に存在していると大本教の出口王仁三郎聖師は明らかにされました。私が神霊界修行をお世話していただいた豊受姫は、天帝の御座所は豊受姫でも解らない界と言われます。
神の世界とは、神と呼ばれる方達でも簡単には解らない
日本の仏教で日本で神と呼ばれている存在でも【輪廻転生】は免れてはいないとして、仏教の菩薩よりも高い身分として【大菩薩】の称号を贈ったがあります。そこには神や仏といえども【輪廻転生】を免れないと見たわけです。
輪廻転生は魂の地位を上げる為で、この世は苦界
輪廻転生制度が終わると、その時点が魂の永遠の地位
しかしこの世で50年間苦労すれば、500年間は神の位を得られるの数字に何の根拠があるのかとなります。私が伏見稲荷神界でお世話になっている当時、一割返しがありました。神霊から何かをして貰うと、そのお礼として約一割を差し出すです。それを踏まえると500年間は神の座にして貰うには、この世で50年間は艱難辛苦に耐えるともなります。
人の魂に苦難を課した艮金神とは、悪神だったのか?
甘やかして魂を腐らせる道を歩かせるのが神か?
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