大本教から人は【霊(ヒ)止(ト)】と呼ばれる存在だと、世界の宗教に類が無い教えが出されました。
私は中国の鍾馗神の案内で中国では創造神とも天子ともされる【盤古】大神に拝謁し、それまで盤古大神など聞いたことも無い神名だったので、それが如何なる神なのか知る為に当時高価であった大本教の霊界物語全集を買い求めて読みました。その中で盤古大神から日本の国祖大神国常立尊様に神界の主宰神の座が返還されるの予告に触れて、もしかすると漢字は中国からとされていますが、その背後には国常立尊様の遠大なる【神の計画書】の一環があるのではないかと感じたがあります。
それは私が子供の頃に臨んでいた旧約聖書の神と称する声が、【この国(日本)は私の教えが満ち溢れた世界で唯一つの国であり。世界の宗教書では私のことは解らない。】と告げられたことからです。日本語は漢字が無いと言葉の【感じ】が掴めません。そして霊界に現れる【光の金文字】の存在です。これは漢字が【象形文字】に起因していることから起こると考えられるのです。
形が無い霊的世界から【形・型】がある物質(三次元)世界の創作です。仏教には形がある物は滅びるが形が無い物は滅びないの教えがあります。【形を変えて在り続ける】霊界の存在です。科学はそこに実在する物質がないと実証出来ません。為に科学では神は解明できないとなります。
この日本は古来より【言霊の幸はふ国】と呼ばれ、言霊と呼ばれる存在が語られて来ました。新約聖書にも【神は言葉(ロゴス)なりき】とありますが、西洋の場合はその言葉が【言霊】の概念とは違っています。私は伏見稲荷山神界で霊界の見聞のお世話になりましたが、現世御利益主義の稲荷神界を離れて【言霊の世界】に転じました。そして【言霊】とは何かと解った時、私がそれまで持っていた【神観】など吹っ飛んだと言えます。
言霊が解ると、神は言で示し申すで概念が変わる
この日本では創造神に関してはほとんど語られません。主に語られるのは天皇家の御先祖ともされる伊勢神宮の天照皇大神と呼ばれている存在です。そして出雲大社の大国主命様であったりです。創造神と呼ばれる存在は主に西洋で語られると言えます。ただそこには【想像】から【創造】に進む過程が説かれていません。英語だと想像は【イマジネーション】です。そして創造は【クリエーション】です。言葉が違っています。ところが日本語だと【想像主】は【創造主】に結びつけることが出来るのです。
そして神の御言(みこと)が、命(みこと)の意味を教えるのです。
日本語の創造と想像は神の世界では同じ意味を持つ
万物の想像主の御言(命)が万物を創造をした
キリスト教が支配する西洋の英語で魂は【ソウル】です。精神は【スピリット】と呼ばれていますが、英語で魂はどのような物かが解る言葉はありません。ソウルでもスピリットでも【心】の事だとはおぼろげに理解は出来るのですが、【心は心臓】と言う言葉に結びついていないのです。
西洋における【ハート】も肉体の部位として【心臓】を語ってはいますが、もし魂は心臓に宿ると解っていたならば【心臓移植手術】は何を語るのか?。神に対する冒涜の危険性がもっともっと論議されてもよかったはずなのです。そこに霊(ヒ)止(ト)の意味が浮かび上がって来るのです。
そして今や創造神が魂を男と女に別けられた意味すら理解出来ない左翼主義が蔓延ってしまいました。それは性差別ではなくて区別によるからです。私は一人の肉体に複数の魂が入っている【神罰】の存在を見て来ました。今や人類は【神罰】と呼ばれる存在すら無いと思い込んでいるのです。
人類は創造神や神霊の存在を恐れなくなった
創造神は人が人を捌く権限は与えておられません。ましてこの世の裁判官に神の施策を判断する権限などは無いのです。魂の地獄行きを判断する裁判官は全て神なのです。神位を持つ資格者なのです。そこに魂を地獄に落とすも地獄から助けるのも神の権限と言えるのです。それをキリスト教の牧師やイスラム教で司祭と呼ばれる者達が神の代位者として行使する権限など元々無かったなのです。
イエスに何の権限があるのか?。なのです。閻魔大王をサタン扱いにして、物の道理が通るのか?。なのです。大本教は神がこの世の閻魔として現れて【善と悪とに立て別ける】と大宣伝をしましたが、スピリチュアルの【神は愛なので何をしても神の愛で赦される。】とする存在ではないのです。
魂は心臓に宿るならば、心臓移植手術は出来たか?
イエス一人を主の御子と信じていれば天国だとか、アラーの神は偉大なりと言っていれば良いでは、魂は【輪廻転生】をしていることが解りません。命とは何か?。そうした理論に発展しないのです。
私は日本人の大多数は仏教徒であり。仏教徒の子たる私に旧約聖書の神と称する声が臨んだことを訝しく思っておりましたが、その旧約聖書の神と称する声が私に告げられた【この国(日本)は私の教えが満ち溢れている世界で唯一つの国である。】と言われた内容は、この日本に生まれ出ないと創造神とされる旧約聖書の神が理解出来なかったからだと思われます。
私自身は霊界に関わって信じられないような光景を見て来ました。それは大本教霊界物語では遙かなる古代のエルサレムに展開していたユダヤ人とは、今のユダヤ地方に住む人達のことではなく、現代では日本人として生まれ出ている魂の者達であるの光景です。まさに大本教霊界物語に記載されている様な光景が出て来るのです。
私は伏見稲荷山を通じて霊界修行に入りましたが、日本神道の世界に入って驚いたことは日本神道とは【旧約聖書の世界】かと思う様な世界なのです。日ユ同祖論も起きていますが、今の人種の時代ではなくて過去に【水の大審判】と呼ばれる裁きがあり、それよりも古代の光景と言えます。
鍵を握るのは大本教霊界物語に記載された国常立尊様は【三十五年前に御引退】とされる三十五年前の出来事なのです。しかしその内容は霊界からでないと解らないとなります。
何故、日本神道の世界とは旧約聖書の世界なのか?
このブログでは過去に幾度か魂の写真を出していますので写真は出しませんが、日本語だと魂(タマシイ)は【玉型の思惟か恣意】の意味だと理解が出来ます。思惟は仏語で【考えを巡らすこと。思考して判断する。】ですが、恣意は【気ままとか自分勝手】な思考や行動をする人に使う漢字となります。明治25年丹波の片田舎の綾部で出口なおと呼ばれる文盲の老婆にウシトラ金神と呼ばれる神の神懸かり現象が起きました。
そのことに関して一部の学者筋は自分の様に賢い者に神が懸からず、文盲の様な老婆に神が降りるのはおかしいと発言される様な方もありますが、それは神の世界のことをほとんど知らない人達の発言なのです。どこの大学で魂の存在を説いているのだとなります。イエスにしても魂を理解していたとは言い難いなのです。
自分が賢いと思っている様な人は神の偉大さが理解出来ません。大本教からウシトラ金神に【艮】もあれば【牛虎】もあるぞよと出されましたが、それを理解された方は今日まで一人も存在しなかったでしょう。
私は言霊学に触れて言葉の仕組みに気づきましたが、それは子供の頃に旧約聖書の神と称する声が私に告げられた【この国(日本)は私の教えが満ち溢れた世界で唯一つの国で在る。】と聞かされていたことと、この日本は古来より【言霊の幸はふ国】と言われて来ました。その【言霊】とは何かが解った時、とんでもない【神の計画書】の存在が解ったのです。
通常の肉体を持った人のタマシイは野球ボールかソフトボール程度の玉の大きさで、人の手の平の上に乗る程度の物です。下記の写真は人の魂ではありませんが霊玉です。肉体を持つ人の魂はその写真に写る霊玉程度の大きさと言えます。
私の魂を見た霊能者の方は、貴方の魂は瑠璃玉の様に見えたと言われます。そうした魂の者も居れば、魂の表面がドス黒く汚れて毛物を発祥し、臭い匂いを放っている魂の持ち主もあるなのです。スピリチュアル標榜者の中には【魂磨きは辛いから止めましょう。】と発信される方達がありますが、魂磨きは辛いからと言って疎かにすると魂の表面は汚れて来世は毛物(獣)の世界に進むことになるのです。
そこに人の顔をしていても、魂は毛物の人も出る
人の肉体に宿る魂は野球ボールとかソフトボール程度の大きさでも、神社に鎮座する御神霊の玉ともなると直径で数メートルもあったりするなのです。大本教から国常立尊と呼ばれる神の存在が出されましたが、霊能者と呼ばれる方達の中ではこの日本列島はその国常立尊の金龍神たる大地で、その金龍神の長さは二千キロに及ぶとも言われています。
その論理がスピリチュアルでもこの世に出て居る肉体の魂の大きさをスポイトの一滴の水の分量だとすると、自分をこの世に出した本体たる魂の大きさはコップ一杯の水程度の分量の大きさとするなのです。人の肉体に宿る魂は野球ボールやソフトボール玉程度の大きさだとしても、スポイトの一滴の水と仮定するとその本体たるコップ一杯の水を【正守護神】、更にその上の段階として甕の中の水に例えてもよい【本守護神】があるわけです。
人の肉体の中の魂の大きさは、人の心臓程度の大きさ
肉体を持つ人の魂は、肉体の【心臓】の部位に宿る
人の本守護神や正守護神の存在は、自分の魂の本体で
神の存在がピンキリなのは、魂の大きさが違う
もし自分がキリスト教社会に生まれていればイエス一人が創造神の一人御子だとする絶対思想を植え付けられたり、イスラム教社会に生まれ出ればアラーの神は絶対だの思想を植え付けられたりしてしまいます。魂と呼ばれる存在に対しても間違えて行くでしょう。まさか魂が玉型の【深い思考力の思惟(しい)】か【自己中・自己本位主義の恣意(しい)】かで、死後の霊界での行く先を判断しているとは考えもしなかったのです。
大本教から今は退いている意味を指す【艮(ウシトラ)金神】、魂を【鬼(牛頭虎パンツの牛虎)と云う】で、日本語で紐解く言葉の仕組みがなされていたとは誰しも知ることではなかったわけです。魂は出口王仁三郎聖師の【鬼】ではなくて【王仁】でも解る様になってはいますが、【霊】に関しては解らなかった面があるのです。
大本教から【霊】を【チ】と発言するが出されました。
霊は、肉体を持つ人の身では【血】の中に宿っている
霊は血に宿り!。霊(チ)の穢れは心臓(心)で浄化される。そこに霊魂は自分の【チ】の穢れを浄化する為には【肉体】を持っ必要性があったのです。
日本の古神道における血の汚れとは、霊の穢れ!
大本教の出口王仁三郎聖師は、自分と出口なお開祖は旧約聖書に予告されたキリスト(真理)登場前に現れると予言された男女二人の大預言者であると述べておられますが、大本教と呼ばれる宗教が起きていなければ誰もキリスト(真理)を読み取ることは出来なかったのです。
ただ人はその真理(キリスト)とはイエスの様な自分が救世主だ式を名乗る人のことだと思い込み、大本教神諭予告にある【九つ花に咲く一輪の言霊の経緯(秘密)】の様な物とは誰も考えなかったなのです。
世中に魂は玉形の思惟か玉形の恣意だと解る人も出ておられますが、さすがに霊(チ)は肉体の血(チ)のことでもあるとまでは誰も解らなかったことなのです。
キリスト教系の一派であるエホバの証人は【汝、他人の血を食べることなかれ。】の血を肉体の血と思ったようですが、これは【汝、他人の霊(チ)を食べてはならない。】とは理解出来なかったなのです。血は入れ替わりますので、別に輸血を禁じたのではないのです。西洋の言葉では霊(チ)を血(チ)とお同じ【チ】で括る様なことまでは理解出来ないのです。それは日本で日本語が解る人でも、そこまで智(チ)は回らなかったのです。
大本教から【世の大立替】が予告されましたが、みろくの世の到来とは霊魂を浄化する為の三次元世界に肉体を必要とはしない世界になるのです。それは天人とか神様達の世界と言えるでしょう。
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